博物館ミニ展示「旧石器時代の道具〜狩りの道具とその変化〜」
会期 令和2年6月9日(火)〜9月22日(火)
会場 相模原市立博物館 1階 常設展示室
市内の遺跡から出土した旧石器時代の石器をもとに、当時の狩りの道具がどのように作られたのか、実物資料から作り方を紹介します。また、狩りの道具がどのように変化したのかあわせて紹介いたします。いつもは収蔵している石器を展示しております。
博物館ミニ展示「旧石器時代の道具〜狩りの道具とその変化〜」
会期 令和2年6月9日(火)〜9月22日(火)
会場 相模原市立博物館 1階 常設展示室
市内の遺跡から出土した旧石器時代の石器をもとに、当時の狩りの道具がどのように作られたのか、実物資料から作り方を紹介します。また、狩りの道具がどのように変化したのかあわせて紹介いたします。いつもは収蔵している石器を展示しております。
東京2020大会公式アートポスター展【オリンピック版】
会期 令和2年6月9日(火)~8月16日(日)
会場 相模原市立博物館 1階 エントランス
内容
今夏に予定されていた東京オリンピック・パラリンピックが来年に延期となり、当館でも予定していた関連企画展を1年延期することとなりました。
そこで、今年は大会への機運醸成を図るため、エントランスでミニ展示を開催していきます。
今回は、国内外のアーティストが制作した公式アートポスター20枚のうち、オリンピック版12枚を展示します。これらのポスターは、大会組織委員会に希望した自治体等にのみ配布され、今回展示したB1判ポスターは、本市では当館にしか保管されていない大変貴重なポスターです。
各ポスターには大会組織委員会公式ホームページ掲載の作者コメントを添えました。中には有名漫画家の作品などもあります。
なお、各ポスターについて詳しくお知りになりたい方は下記をご覧ください。
また、8月後半からはパラリンピック版8枚の展示を行う予定です。
*相模原市立博物館は6/9(火)より開館いたしますが、ご利用はエントランス及び常設展示室の自然・歴史展示室のみの一部開館となります。
*また、当面の間、開館時間は9時30分、閉館時間は通常より1時間早い16時までになっております。
神奈川県相模原市西部、道志川流域に見られる後期更新世 葛原層相当層中のテフラ:河尻 清和・松風 潤
境川河畔林における春植物の動態 ― 7年間のモニタリング調査から ―:太田 淨子・秋山 幸也
相模原市全域の月待塔について ― 資料を基にした市町合併後の月待塔の集録 ―:里見 聡一・田子 智大
資料報告 緑区中野森戸自治会に残された養兎組合資料 ―アンゴラウサギに特化する森戸養兎組合の変遷:井上 泰
博物館ボランティア「水曜会」との協働による 旧津久井郷土資料室保管資料の整理経過について:木村 弘樹・水曜会
石老山周辺に分布する愛川層群石老山層の礫種構成に関するノート(その2):河尻 清和
勝坂遺跡の縄文土器種実圧痕にみる植物利用:中川 真人・相模原縄文研究会・山本 華・佐々木 由香・バンダリ スダルシャン
古代相模国北部の灯明皿 -脂質分析による油の検討を中心に-:中川 真人・宮田 佳樹・宮内 信雄・堀内 晶子・吉田 邦夫・黒沼 保子
相模原市津久井地域のクモ類調査結果:谷川 明男・木村 知之
相模原市におけるキアシドクガの大発生とミズキ類への影響:秋山 幸也
市民協働による尾崎咢堂関係資料の整理・活用について:木村 弘樹・尾崎行雄を全国に発信する会
博物館ボランティア「市民学芸員」制作の「相模原 ふるさと いろは かるた」について:木村 弘樹・市民学芸員かるた作りチーム
市立博物館の歩み〈No.3〉~民俗分野の市民協働~:加藤 隆志
平成27年度 協働事業提案制度事業「尾崎咢堂記念館活性化事業」
尾崎行雄(咢堂)が東京市長時代に贈った桜の返礼として、米国からハナミズキが日本に贈られて100年になることを記念し、寄贈された日本各地のハナミズキの状況を紹介する記念企画展を開催します。また、この企画展に関連し記念講演として、「日米友好の記念樹」と題する講演会を開催します。桜とハナミズキに込められた思いやその現状を知り、「咢堂精神」の再発見とともに、尾崎咢堂の活動を広く紹介します。(主催 尾崎行雄を全国に発信する会、相模原市立博物館 )
会期:平成27年9月22日(火)~ 10月18日(日)
休館日:月曜日(9/21、10/2を除く)、9/24日(木)、10/13日(火)
時間:午前9時 ~ 午後4時30分(尾崎咢堂記念館の開館時間中)
会場:尾崎咢堂記念館 多目的室(相模原市緑区又野691 電話042-784-0660)
対象:どなたでも
観覧料:無料
問合せ:相模原市立博物館
演題:「日米友好の記念樹 ~ サクラとハナミズキ ~」
講師:東京都立園芸高等学校同窓会 会長 宗村秀夫 氏
開催日:平成27年9月26日(土)
時 間 午後1時30分~午後3時30分 (受付開始は午後1時)
会場:津久井中央公民館 研修室(3階) 定員 100名 (先着順)
対象:どなたでも
参加費:無料
問合せ:相模原市立博物館
平成23年度及び24年度の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として、毎年5月と11月の第二水曜日に「民俗探訪会」を実施していますが、第4回目の民俗探訪会を、11月13日(水)に相原地区で行いました。
今回は、民俗調査会とともに「相原の歴史をさぐる会」に参加している方を中心に、「相原地区の文化財めぐり」マップなどを活用して実施しました。これまでと同様に「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集し、定員30名に対して44名の方からの応募がありましたが、探訪会で主に案内等を行う会員の方と相談し、これ以上の人数でも実施した経験があるので、今回は試験的に申し込まれた方全員に参加していただきました(今後の探訪会では、内容等によって抽選となりますのでご了承ください)。
当日は、横浜線の相原駅を出発して相原駅まで戻ってくるコースで、約3時間ほど歩きました。今回のコースの特徴は、町田市相原町と相模原市緑区相原の両方の相原地区を含めたことで、地形的にも町田側の多摩丘陵部から境川を越えて相模原側の平坦な台地まで、変化に富んだものとなりました。主な見学場所は次のとおりです。
相原駅(9時15分集合)→ ①相原古窯跡群→②獣魂碑→③多摩丘陵尾根道→④七国峠→⑤七国峠追分(出羽三山供養塔)→⑥相原中央公園(トイレ休憩)→⑦長福寺→⑧淊蕩橋(佐奈田与一供養塔・古い放水路)→⑨当麻田自治会館(地名標柱「みのくち」・秋葉灯籠・標柱「相原学校・旭小学校分教場跡」)→⑩土地区画整理竣工記念碑→⑪開田記念碑→⑫庚申塔→⑬おおかみ地蔵(傘地蔵)→⑭横浜線踏切跡と新しい立体交差の道(時間の関係で当日は省略)→相原駅(12時30分解散)
※①~⑦は町田市相原町、⑧~⑭は相模原市緑区相原
民俗探訪会では、当館学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内しますが、毎回、「なるべく地元に住んでいる方でないと知らないこと」をテーマとして進めています。その点からも、今回のコースは相原の歴史をさぐる会員の「一押しのコース」であり、例えば、古くは多摩丘陵の尾根が武蔵・相模の国境(くにざかい)とされていましたが、文禄三年(1594)の検地で田倉川(高座川)に代えられ、以来、川の北を武蔵に編入して相模との境になったため境川と呼ばれるようになったとされることや、町田市の多摩丘陵尾根道に、天保10年(1839)の建立で、相模原側の相原村の小川家に関係する出羽三山供養塔(※山形県の月山・湯殿山・羽黒山の信仰に関係する石仏など、町田・相模原の両相原地区を含めた今回のコースもそうした観点から設定されたものです。また、相模原に入ってからは、普段は気がつきにくいものでも、言い伝えのある石仏や当麻の無量光寺と係わりがある水田跡など、まさに地元で活動する会の会員ならではの興味深い説明がありました。参加者からも、丘陵に上る坂を歩くのは少し大変だったけれどもほとんど行ったことがない所を歩けて良かった、また散歩コースでよく通るのに今までは全然知らなかったことがよく分かったなどの感想をいただき、好評のうちに終了することができました。
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民俗探訪会は、今後ともその都度内容やテーマを検討しながら行います。実施に際して「広報さがみはら」などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますのでお問い合わせください(民俗担当 加藤隆志)。
※出羽三山供養塔の銘文等については、『第34回文化財展』資料の「七国峠の出羽三山供養塔」(文化財調査普及員、石造物班)及び、『相模原の自然と文化』第29号 をご参照ください。
南区麻溝地区の麻溝公民館では、11月2日(土)と3日(日)に「麻溝地区文化展」が 行われました。この文化展は、公民館文化部と公民館を利用するサークル・団体が主体と なり、そのほかの地域住民からも作品が出品されて、絵画やいけばな・書・水墨画・写真 など、さまざまなものが展示されました。
今回の文化展では、会場となった小会議室の一角で「福田家資料」が展示されました。 福田家は、元々小田原北条家の家臣が下溝の地に定住したと伝える旧家で、当家の明治 30年(1897)に造られた蔵の中にあった数多くの資料を寄贈していただけることとなり、その整理作業を博物館と市民が協働で行うことを目的に「福の会」が結成されて作業を進めています。さらに、5月25日~6月30日には資料整理の成果を活用して、収蔵品展「蔵の中の世界・福田家資料紹介~市民の力で博物館資料へ~」を開催したことは、この「ボランティアの窓」の欄でも紹介しました(「福の会」で展示を行いました(平成25年6月)~市民協働による資料整理の活動~)。
そして、今回は福田家がある下溝地区の公民館の文化展というということもあり、福の会で整理した資料の一部を展示しました。実際の展示の打ち合わせからレイアウト、飾り付けや撤収までも福の会の会員が担当し、文化展当日には会員が会場で見学者に資料や福の会についての説明を行うなど、訪れた多くの皆様に対して地元に残されてきた興味深い資料を紹介することができました。
展示に訪れた方からは、地元にこのようなものがあったことを初めて知った、自分の家にも同じようなものがあったことを思い出した、散歩の時に長屋門の前をいつも通っているが福田家がこうした歴史を持つ家とは知らずにいたので、機会があればご案内いただきたいと思った、展示に触れて地域の歴史に関心を持ったという感想などをはじめ、今後もこのような展示をして欲しい、他のものも見たいというご意見もいただき、大変好評のうちに実施することができました。
今回の公民館での展示は、博物館を舞台とする活動が広く地域に開かれていくといった点からも大変意義深いものといえます。福田家の資料整理はまだ継続しており、その一方で今回展示したもの以外の新たな資料の整理にも取り掛かっています。今後とも、さまざまな機会を通じて、市民とともに歩む博物館としての活動を継続していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
以前にこの「ボランティアの窓」でお知らせしたように、市民ボランティアによる津久井郷土資料室保管資料の整理を現在も継続して行っています(平成23年度ボランティアの窓「鈴木重光関係資料の整理を進めています!・平成23年7月」)。作業に当る会が発足して三年目となり、名称も毎月の奇数週の水曜日に活動を行っていることから「水曜会」と決めて、現在16名の会員が整理作業に当っており、すでに約2000件・5000点以上の資料について目録の作成を完了しています。 そして、水曜会では、資料整理だけではなくその成果を広く市民の皆様に伝えるために、毎年秋に収蔵品展を行っています。
展示の内容は毎年変わりますが、三回目を迎える今年度は「埋もれた“モノ”に光を!・津久井郷土資料室所蔵資料紹介③~市民の力で博物館資料へ~」をテーマとして実施しています(この原稿を書いているのは会期中ですので現在形にしました。なお、会期は、平成25年9月14日~10月27日です)。今回の展示は、整理作業を進めている資料が当時住民が役場からもらった書類をはじめ、他にも例えば、商店や映画・観光関係のパンフレット、東京府立第四女学校・相原農蚕学校等の学校関係の各種書類や案内、新聞やその切抜き、マッチ箱やキャラメル箱など、実に多種多様なものに及んでいるものを紹介しています。
それとともに、何の変哲もない身の回りのものでも数をたくさん集めておけば、時間の経過とともにその当時の生活や世相を現す貴重な資料となること、そして、それらはただ集めて置いておくのではなく、今回の市民による水曜会の作業にようにきちんと整理して目録を作成するなど、人々の目に触れてこそ活用されるというのを訴えることが、この展示の狙いの一つです。
実際の展示に際しては、内容の検討から展示資料の選定、展示説明文やキャプション(資料名の表示)の作成、実際の列品まで、ほとんどすべてを水曜会の会員が担当し、さすがに三回目ともなるとスムーズに各所の作業も進み、見事な展示が完成しました。
また、会期中に四回ほど、水曜会会員が交代で展示会場に詰めて、見学者に資料の内容や作業中の苦労話など、気軽にお話しをする展示説明の機会を設けました。年配の方には懐かしく、若い世代には珍しいものを見ながら、説明を聞いてよく分かったということで大変好評で、先日(9月22日)の展示説明には多くの観覧者が会員の説明を聞き、あるいは思い出話などいろいろな対話をしている姿を目にしました。 先に紹介したように、水曜会の活動はもすでに三年目を迎えていますが、整理のために一時的に博物館に持ってきている資料のうち整理が終了したのは三分の一ほどで、整理終了まではまだしばらくの時間が必要です。
今後も着実に整理作業を継続していくとともに、博物館に集まる市民の方々が主体となり、こうした活動を行っていることを、展示をはじめさまざまな機会に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)
今回紹介する「福の会」は、民俗・生活資料の整理を行うことを目的として昨年(2012 年)の秋にできた市民の会です。博物館では、すでに緑区中野にある津久井郷土資料室に 保管されている膨大な資料を整理する「水曜会」が活動していますが、「福の会」は南区下 溝地区の福田家の蔵の中の資料が寄贈されることをきっかけに結成され、当面、整理を行 う福田家から会の名称が名付けられました(ただし、将来的には他の資料の整理も行って いきます)。
福田家は、元々は北条氏照(小田原北条氏・四代当主の氏政の弟)の家臣で、氏照の娘 (後に出家して「貞心尼」)が結婚するに際して父氏照から上溝・下溝の地を貰って居を構えました。 福田家はその供としてこの地に井上家とともに移り住み、その後、天正16年(1588)に貞心尼が亡くなり、 天正18年(1590)には豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされて村民になったと伝える旧家です。福田家には 多くの古文書が残されており、博物館には近世から明治・大正頃までの古文書580点が寄託されていて、 さらに別に発見された古文書も今後、追加で博物館に寄託される予定です。
福田家には明治30年(1897)に造られた蔵があり、この蔵の中にあった数多くの資料を寄贈 していただけることとなり、その整理作業を博物館と市民が協働で行うことを目的に「福の会」が結成 されました。蔵の中の調査は、まず平成24年10月に二日間に渡って内部の配置調査と寄贈受け入れ予 定資料の仕分けを行い、11月に福田家から博物館に資料を搬入しました。そして、11~12月に資料を洗浄し、平成25年1月からは本格的に計測やカード化などの作業を開始したほか、資料の殺虫・殺菌をする「くん蒸」 の後には、資料を大型収蔵庫の棚に分類して配架しました。
蔵の中にはさまざまなものが収納されており、その中でも大量にあったのが衣類などの身に まとうものです。このほかには、鍋や釜・食器などの日常の生活用具や、節供人形・結納目録等のハレの 機会に用いられたものなども見られます。蔵に置いてある道具の出し入れや蔵の鍵の管理は、主に昭和9 年(1934)に当家に嫁いだ福田利子さん(明治42年生)が平成13年(2001)に91歳で亡くなるまで行っ ていたとのことで、昭和22年(1947)生まれの現在の御当主の両親や兄弟、叔父叔母が使用した頃のも のが多く、それ以降もある程度の時期までは出し入れをしていたようですが、しだいにそのままになっ て現在に至りました。なお、蔵だけでなく、履物類や神仏の御札や掛け軸など、一部は主屋にあるもの も寄贈されることになっています。
そして、資料整理だけでなく、収蔵品展「蔵の 中の世界・福田家資料紹介~市民の力で博物館資料へ~」を、平成25年5月25日から6月30日までの会期で開催しました。蔵の中の資料 整理はまだ始まったばかりでまだ全体像は明らかではありませんが、それでもこれまでの 成果を基に、市民がこのような活動を行っていることを広く知っていただくことを狙いに実施した もので、展示資料の選定や実際の列品など、展示の準備作業も当然のことながら 福の会が行いました。会期中、約6800名の見学者があり、アンケートでもこの展示に興味 関心を持たれ、さらに「市民がこうした取り組みをしていることはすばらしい」との声が 多く寄せられたことは、福の会の会員一同も大変うれしいことでした。いずれにしても福 田家の資料整理はまだまだ継続しなければならず、一方で新たな別の資料の整理に取り掛かることも 想定されます。今後とも、市民とともに歩む博物館としてこのような活動を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
「水曜会」ならびに「福の会」の資料整理にご参加いただける方を募集しています。作業は大変なこともありますが新たな発見もあり、 みんなで肩苦しくない雰囲気で行っています。興味・関心のある方は、加藤学芸員までお問い合わせください。
○水曜会:活動日は基本的に毎月第一・第三・第五水曜日の午後1時~3時、場所は博物館二階の実習実験室です。
○福の会:活動日は基本的に毎月第一・第三・第五木曜日の午前10時~午後3時、場所は実習実験室及び、洗浄乾燥室・収蔵庫などです。
平成23年度及び24年度の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を計画していますが、さる平成25年5月8日(水)第3回目の「民俗探訪会」を下溝地区で行いました。今回のコースは、麻溝観光協会が発行した「歩いて楽しむ あさみぞ探訪マップ」の「川めぐりコース」を民俗調査会としてアレンジしたもので、民俗調査会の会員の中に下溝在住で「あさみぞ探訪マップ」の作成にも携わった方が何人かおられたこともあり、その知識や経験を生かして実施することを計画しました。
今回も「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集し、これまでは定員内(30名)の申し込みだったのが52名の方からの応募があり、野外を数時間に渡って歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、31名の参加者と会員10名に加え、博物館長や麻溝まちづくりセンターの職員、平成25年度から「博物館ネットワーク」システム作りで博物館と協働事業を行っている神奈川工科大学の白井研究室の方々も参加され、JR相模線の原当麻駅から下溝駅まで、約3時間のコースを歩きました。
民俗探訪会では、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内しますが、今回は先にも記しましたように地元の方が何人も加わっています。そのため、「なるべく地元に住んでいる者でないと知らないこと」をテーマとして、そうした点に留意して進めて行きました。特に、山の神社で実際に3月の祭りに参加した様子の説明があったり、福田家の御当主も参加されて特別に屋敷内や墓地に入らせていただき、さらに、これも責任者の方に事前にお願いして下溝八幡宮境内の不動明王像(市指定有形文化財)を見学させていただいたりと、まさに地元の人々の企画ならではの充実した内容の探訪会を実施することができました。また、当日は5月の薫風の中を本当に気持ち良く歩き、途中の大山(伊勢原市)の頂きや最後の雄大な相模川の流れの風景も参加者一同で堪能することができました。
民俗探訪会は、今後ともその都度内容を検討しながら行うことを予定しています。実施に当っては広報紙などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、詳細につきましてはお問い合わせください。
今回のコース:JR相模線・原当麻駅 9時15分集合
①中丸の神明社→②双体道祖神→③横浜水道道→④山の神坂・山の神社→⑤天応院(*門前)→⑥福田家長屋門→⑦貞心社・堀之内集落→⑧日之下地蔵・日之宮→⑨下溝八幡宮・不動堂→⑩泉橋(石仏)→⑪新・三段の滝上から相模川と丹沢の風景→下溝駅 午後0時30分解散
*第1回目の新磯地区(平成24年3月実施)については平成23年度のボランティアの窓で、第2回目の田名地区(平成24年11月実施)については平成24年度のボランティアの窓に記事を掲載しています。なお、民俗調査会Aが横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」と行っている交流会についても平成24年度ボランティアの窓で紹介していますのでご参照ください(民俗担当 加藤隆志)。
平成22年度の歴史の窓の「市域最北の寛文総検地帳などとの出会い(平成23年3月)」で、佐野川村和田分の寛文4(1664)年検地帳ほか多数の古文書類寄贈について紹介しました。あれから2年半が経ち、今度は同村岩分で名主を代々つとめられた佐藤家から現存古文書類の寄託打診をいただきました。何はともあれ、その可否を判断するべく事前調査(実況見分)を行うため、猛暑の中にも涼感漂う緑区佐野川へ急行した次第!
居宅の保存場所から現れた古文書類は和田分・杉本家文書と同様、ちょうど20年前に当時神奈川県立文化資料館実施の資料所在調査が終了した状態(=分類後の封筒入り)で衣装箱に分納され、以後いっさい手を触れていないとのことでした。さらに当日は、古絵図などが納められた木箱が新たに発見され、追加資料として寄託候補にお考えいただくことになりました。
既往の調査により佐野川村全村の寛文検地帳をはじめ、元和7(1621)年から明治8(1875)年にわたる資料群を再確認できた訳ですが、今回はこのとき目にした資料の中から幕末の名主が起こしたある動きについてお話します。
佐野川・佐藤家は、美濃国加治田城主に出自をもち、天正年間(1573~1591)に出国し、相模国に土着したと伝えられています。本家は、屋号「中居」で代々「才兵衛」を襲名し、名主を継いでいきました。現当主で15代目にあたり、今回の内容は11代目才兵衛信直のエピソードです。すでに『神奈川県史』『横浜市史』『藤野町史』『城山町史』等でご存知の方もおられるかと思いますが、日本が鎖国から開国へと転換し、激動の時代の始まりを告げた頃の村役人のスピード感あふれる行動を追ってみたいと思います。
安政6(1859)年1月、前年の五か国条約により3つの港を開くことになるやいなや幕府は箱館・長崎とともに神奈川(横浜)への出稼・移住・自由売買を許可しますが、そのお触れを目にした名主・才兵衛は間髪をいれず外国奉行所に願い出て、出店の許可を取り付けました。才兵衛は従来、絹や紬、漆などを買受けして転売する方法で耕地面積の少ない山村の経済を改善する努力を続けてきており、さらにその輪を広げるため開港場という新天地に販路を見出し、“サトウノミクス”よろしく異国人相手の活発な経済活動を進めたのです。それでは、才兵衛は店をどこに構えたのでしょうか?安政6年1月の『神奈川開港地割元図』(三井文庫蔵)によると、運上所(関税役所のこと。現在地は神奈川県庁)の斜め向かい、外国人商館地へ続く目抜き通り「本町通」に面した五丁目の一等地(?)100坪を出願したことが判ります。
現在、横浜市開港記念会館が建つ場所です。直後に200坪増地して300坪規模の大店となったようですが上地され、武州小机村及び上州川俣村の願人が新たに拝借しています。混乱する借地事情もあったのか、南側に道1本隔てた弁天通四丁目に拠点を移したことが同年6月の『横浜町町割図』(個人蔵)から理解できます。当時とは敷地割が違うため、正確なことは言えませんが、おおよそ現在の東京電力神奈川支店周辺にあったのではないかと思われます。移転した事実上の本店舗では、絹や紬、漆などに加え鉄器物・瀬戸物・紙・酒・醤油・煙草・茶・薬・蝋・油・提燈・塗物・小間物・炭・材木など多種多彩な新規商品の直売を申請していて、その外国貿易に対応する能力ぶりが十分にうかがえます。
さて、才兵衛は村役人ゆえ貿易商に専念するわけにもいかず、「佐藤屋」の船出を見届けると“店主代理”専左衛門に後を任せ、帰村して名主の役目に戻ったようです。その5年後、世が文久から元治に変わった翌日に人生を終えることになりますが、寒村の一名主をして相模国最北の地から当時の最先端を行く神奈川港へと向かわせしめたのは、何より村を思う一途な心と時代の潮流を即断する感覚にあったのではないでしょうか。佐野川村の素早い動きに応じるかのように、上川尻村や若柳村の村民が相次いで交易・出店を願い出ます。両者にとって佐藤才兵衛信直はおそらく幕末津久井県の先進的リーダーとして頼れる存在に映ったはずです。(歴史担当:土井永好) *現当主・佐藤英雄氏への聞き取りや『博労一代』(佐藤建夫編)を参考にしました。
相模原市緑区名倉の芝田川沿いでは、約10万年前に遠方から飛来して降り積もった火山灰の地層がいくつか見られます。いずれも、芝田川を渡ったり、川の中を歩いたり、場所によっては急な崖を上ったりしなければたどり着くことはできませんが、相模野台地では見ることのできない火山灰を観察することができます。地層の下の方から順に、御岳(おんたけ)第一軽石、鬼界葛原(きかいとずらはら)火山灰、“未命名火山灰”、御岳伊那(おんたけいな)軽石、葛原(とずらはら)III火山灰、阿蘇4火山灰が見られます。芝田川沿いの数カ所で見ることができますが、場所により見ることができるものと、見られないものとがあります。
これらの火山灰の中で最も厚く(厚さ約60cm)、はっきりと見られるのが御岳第一軽石です。軽石が降り積もったもので、白い小さな軽石が集まっているのが観察できます。御岳伊那軽石は厚さ約15cmです。軽石と言ってもとても小さく、まるで芥子の実のようなので、“芥子の実軽石”とも呼ばれています。御岳第一軽石と御岳伊那軽石は長野県と岐阜県境にある御嶽山(おんたけさん)が噴出源です。
鬼界葛原火山灰、“未命名火山灰”、葛原III火山灰、阿蘇4火山灰は層の厚さ数cm程度で、非常に細かい鉱物破片などが降り積もったものです。鬼界葛原火山灰は鹿児島県大隅半島と屋久島の間にある鬼界カルデラが噴出源です。この火山は海中に沈んでおり、火口の縁の一部が硫黄島や竹島として海面上に顔を出しています。阿蘇4火山灰は熊本県の阿蘇山が噴出源です。 葛原III火山灰の噴出源はまだわかっていません。さらに、“未命名火山灰”は名前すら付いておらず、ほとんど研究されていない、不明な点の多い火山灰です。 これらの火山灰は葛原層(とずらはらそう)と呼ばれる、礫・砂・泥からなる地層の間に挟まれています。葛原層は大きな川の下流や湖のような流れの緩やかな環境で堆積したと考えられます。しかし、約10万年前に相模川の上流部にどのようにして流れの緩やかな環境ができたのかは、よくわかっていません。
この地域の火山灰層についての調査結果は、「相模原市立博物館研究報告第21集」に掲載されている論文「神奈川県相模原市北西部、芝田川流域に見られる葛原層の露頭」で報告しました。(地質担当 河尻清和)
昨年(平成24年)の夏頃、相模原植物調査会会員で横浜市在住の方から、旭区の追分・矢指市民の森付近で見慣れない植物が生育している、との連絡をいただきました。添付されていた写真を見たところ、なんという植物なのかさっぱりわかりません。イラクサ科かクワ科のようにも見えたので、その線で図鑑をいくつか調べたり、さらに何人かの詳しい方にも写真を見ていただいたりしましたが、やはりわかりませんでした。
その後、現地を見に行こうと思っていた矢先に草刈りで刈り払われてしまったとの連絡があり、持ち越しとなっていました。今年になって再び「今年も育っています」と連絡があり、今度こそ草刈りする前にと、現場を案内していただくことになりました。
生育地は保土ヶ谷バイパス下川井インター近くの追分・矢指市民の森の一角と、中原街道の路傍の一部の2カ所で確認できました。その植物は高さ20~30センチほどのあまり特徴の無い草本で、現物を見ると、イラクサ科というよりクワクサやエノキグサに近い印象を受けました。標本用に1株と、生品で検討するために土を付けたままの1株を採集しました。
その後、相模原植物調査会の野外調査会の帰り、外来植物に明るい会員の方と博物館で鉢植えにしてあったその株を一緒に見て検討したところ、トウダイグサ科ではないか、との結論に至りました。さらにその方が、インターネット上で見つけた中米原産のAcalypha setosa A Rich(トウダイグサ科エノキグサ属)ではないかと連絡をくださったのです。写真を見るとほぼ間違いなく、英名Cuban copperleafというところまでわかりましたが、日本名がありません。つまり、まだ日本では確認されていない外来植物の可能性が高まりました。
その後も身近な文献やインターネット上で調べた限りでは、やはり国内では報告がなく、日本新産の外来種であろうと判断しました。そこで、和名について発見者と相談し、外来であることと、路傍で生育可能な性質、そして同属のエノキグサの別名であるアミガサソウにちなみ、アレチアミガサソウと仮称することにしました。ちなみに、同属にはキダチアミガサソウとヒメアミガサソウという外来種が報告されていますから、それらとの近縁性もわかり、なかなかよい名前だと思います。
さらに地方の植物誌などから情報を集めた上で、ほんとうに国内新産かどうかという検討を続けなくてはいけませんが、時期を見て学術雑誌へ正式に報告したいと考えています。 (生物担当 秋山幸也)
今年も春から初夏にかけて、カイコの飼育を行いました。5齢(終齢)になると、クワの葉を食べるスピードが爆発的に増して、あげてもあげてもあっという間に筋(葉脈)だけになってしまいます。だからといって、ドサッと一度に積み上げるように葉をあげればよいかというと、そうでもありません。カイコは自分より上にある葉をどんどん食べ進んでいく性質がある一方で、下に潜って食べるということをしませんから、食べ残しが多くなるだけです。そんなわけで、5齢の間は数時間おきに新鮮な葉を取りに、博物館の敷地内にあるクワの木へ通うことになります。
ある時、クワの葉の裏に黄色っぽい綿のようなものがついていました(写真1)。これは、カイコに近いなかまの野生の蛾、クワコの繭(まゆ)です。カイコは、中国大陸に生息していたクワコを家畜化したものと言われています。ただし、家畜化の過程で野外に生き抜く能力を完全に失ったカイコと野生のクワコには、習性などに大きな差があります。そのため、分類上の両種の関係には諸説あるものの、カイコとクワコが進化的に非常に近い種類であることは間違いありません。
さて、このクワコですが、若齢のカイコに見られるまだら模様(写真2)や、終齢になると目立つ眼状紋(写真3)の意味を説明するのに都合がよいので、私はよく「カイコの授業」に使います。カイコは3齢くらいまで、体全体に黒いまだら模様があります。4齢から5齢にかけてだんだん白くなり、5齢になるとそのコントラストから眼状紋や半月状斑紋といった黒っぽい斑紋が目立つようになります。こうした模様は長い選抜、改良の歴史の中で見栄えよくするために人間が意図的に残したものでもあるのですが、「野生の記憶」と言えなくもないのです。
黒い模様は眼と間違われることが多いが、胸部にある模様にすぎない では、クワコの幼虫の模様の変化を見てみましょう。若齢のクワコを見ると一目瞭然(写真4)、このまだら模様は、アゲハチョウをはじめ多くのイモムシで見られるのと同じ、「鳥のフンへの擬態」なのです。さらに、クワコの5齢幼虫は、写真5のように枝に対して斜め上にまっすぐ止まる性質があります。クワの枝への見事な擬態です。茶褐色の色合いも、クワの若枝の色だったのです。この性質は、カイコにはもはや残っていません。 しかし、こうしてとまっているクワコの頭を軽くつつくと、写真6のように頭(正確には胸部)を前傾させて丸めます。すると出てくるのが、眼状紋です。枝への擬態では隠していた眼状紋を突然見せるのは、ヘビを意識した「目玉模様」を見せて外敵(鳥)を驚かせるための、最後の抵抗だったのです。
せっかくなので、クワコの成虫も見てみましょう(写真7)。野生に生き、もちろん飛翔可能なシャープな体の線、複雑でメリハリのある翅模様。野趣と表現すればよいでしょうか。モコモコしてぬいぐるみのようにかわいらしいカイコの成虫(写真8、9)と対照的な、野性味あふれるクワコも私は好きな昆虫のひとつです。 (生物担当 秋山幸也)
過去のカイコ関連記事
平成23年度
平成22年度 神
平成25年3月28日(木)、市内南区下溝の相模川で、カワラノギクの保全圃場(ほじょう)の種まきを行いました。この圃場は、河川管理者である神奈川県のご協力を得て造成され、光明学園相模原高校の理科研究部が育成にあたるものです。種子のまき方は、桂川・相模川流域協議会のみなさんに指導していただきました。理科研究部では在校生に加えて、今春卒業したOBも駆けつけてくれています。ゴミを拾ったあと、川砂と水を混ぜた種子塊(しゅしかい)を、砂礫地(されきち)の上にまんべんなくまいていきました。
相模川を象徴する絶滅危惧種であるカワラノギクは、現在、緑区葉山島や同区大島などに大規模な保全圃場が作られ、地元の小学校や市民団体を中心に保全育成が行われています。残念ながら、人間の力を借りずに存続している自然群落はなく、神奈川県版のレッドデータブックでは、最も絶滅の危険性が高い絶滅危惧1A類に区分されています。相模川水系のほかには鬼怒川と多摩川にしか自生していないので、万が一にも相模川の個体群を絶滅させるようなことがあってはならないのです。
さて、この保全圃場を造成したのは、今から20年ほど前まで自生の群落があった場所です。種子は、もっとも近い保全圃場で採種されたものを使いました。この播種作業の前には、私が高校生たちに事前のレクチャーを行い、カワラノギクの生態や保全の経過などを説明しました。地元の高校生が生物多様性の概念を学びながら保全生物学の実習を行うのが、この 圃場です。 なぜカワラノギクを守らなくてはならないのでしょうか。しかも、人工的に作られた裸地で、ほかの植物を抜き取るような過保護をしてまで。 高校生たちは、真夏の炎熱地獄や真冬の吹きすさぶ寒風の中で、その答えを探しながら作業するはずです。カワラノギクの種の保存を第一義として進めてきたこれまでの保全 圃場ほじょうから、ちょっと教育的な意義を含んだ新しい圃場がスタートしました。これからどのような成果の花を咲かせるのか、楽しみに見守りたいと思います。 (生物担当 秋山幸也)
博物館では、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、昨年夏の自然観察会や秋の講演会など、少しでも多くの方に旧津久井町の豊かな自然について知っていただこうと、市民の皆様を対象とした事業を実施しています。平成26(2014)年1月26日(日)には「仙洞寺山の地層と鳥たち」と題した自然観察会を開催いたしました。津久井生涯学習センターを出発し、目指すは仙洞寺山林道です。仙洞寺山はほとんどが国有林として管理されており、林道の出入口はゲートで車での入場が規制されています。
まず皆さんで立ち寄ったのがタヌキの溜めフンのある場所です。タヌキになった気持ちで狭いけもの道を進むと、山のように溜まったタヌキのフン。近くにあったイチョウの実(銀杏)を食べた形跡も見られました。
林道を入ってすぐに観察できたのが、神奈川県で最も古い時代に形成されたとされている「相模湖層群瀬戸層」砂岩の地層です。林道沿いには崖が崩れ地中がむき出しになっている露頭が多く、資料として配られた林道沿いのルートマップ(林道沿いに見られる地層の区分が示された図)を見ながら、講師の髙橋純夫さんから地層が形成された状況や経過を分かり易く説明していただき、皆さん耳を傾けていました。地質の関係では、丹沢山地の形成に伴ってできた谷に堆積した愛川層群の地層や、タマネギのように表面がむけていく「たまねぎ石」など、豊かな自然を支える大地の成り立ちについて学ぶことができました。
林道沿いには哺乳動物が通った跡のけもの道も多く観察できました。動物に遭遇することはありませんでしたが、テンやイノシシのものと思われるフンや足跡の痕跡、シカやイノシシが体についたダニなどを落とすために使うヌタ場、その時ついた泥を落とすためにこすり付けた木など、身近な場所でありながら動物の気配満載でした。また、昼食をとった場所では、オオタカと思われる猛禽類が、アオバトを捕食した跡も発見され、自然の営みを感じることができました。
駆け足での観察会となってしまいましたが、1月下旬とは思えない比較的暖かな1日となり、参加者の方からもぜひまた開催してくださいという声をかけていただき、担当者としてもほっとした瞬間でした。冬の第2弾として2月11日(祝・火)に計画していた津久井湖城山公園での観察会は、雪のため残念ながら中止となりました。多くの方に『津久井町史自然編』をご覧いただき、文字や写真で紹介している内容を、実際に体感していただくことができればと思います。(津久井町史担当 守屋博文)
平成25(2015)年9月22日(日)、相模原市史講演会の一環として『津久井町史自然編』の刊行を記念した講演会を開催しました。講師は、津久井町史自然編執筆者の一人でもある養老孟司さんです。
養老さんに自然編の執筆をしていただいたのは、一連の経過がありました。昆虫特にゾウムシの仲間に興味をお持ちになり研究されていることは、一部の方にはよく知られていることでした。自然編の執筆者で同級生でもある有井一雄さん(神奈川昆虫談話会)が、旧津久井町で採集されたコウチュウの標本を整理しまとめられている際、ゾウムシ標本の一部を養老さんに差し上げたことが執筆していただくこととなったきっかけです。「ガロアコブヒゲボソゾウムシの再発見!」というタイトルで書かれた文章には、1908年高尾山で発見され新種として記載された本種が、他の種と同じものではないかという疑問を持たれていたところ、旧津久井町を含む丹沢山地や箱根、伊豆天城山などから再発見されたため、その存在を明らかにした論文を書かれたという経過が記述されています。
そして、生息場所として旧津久井町が含められていたこともあり、調査で分かった新たな事実として津久井町史自然編に執筆いただくことになりました。
講演会では津久井町史自然編の執筆内容には触れられませんでしたが、虫を好きになった経過や思い出話、虫の不思議な行動、家の玄関先にいたアカトンボの話など、虫に関するあるいはかかわりのあるお話しをしていただきました。またお母様が旧津久井町出身であるという相模原市との関わりや、時事問題の話題など、参加者を飽きさせない楽しいお話をしていただき、あっという間に時間が過ぎていきました。
最後の質疑応答の中では、子どもさんから最近見つけた虹色に光るきれいなゾウムシの名前についての質問があり、困った表情をされた養老さんが印象的でした。
今回の講演会では、入口のホワイエを使って、講演会タイトルに合わせ、津久井町史自然編刊行のための基礎調査で得られた昆虫標本の一部と写真を、また養老コレクションのほんの一部をお借りし展示しました。さらに、『津久井町史自然編』を紹介するコーナーも設置し、講演会の参加者に直接手に取って見ていただくこともできました。これからも、様々な機会をとらえ『津久井町史自然編』を紹介し、複雑で多様な旧津久井町の自然について知っていただくとともに、足を運んでいただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)
平成25(2013)年7月15日(祝・月)、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を、神奈川県立津久井湖城山公園で開催しました。定員30名のところに40名近くの方からお申し込みをいただき、大盛況の中で行われました。講師は自然編執筆者の面々と、会場となった津久井湖城山公園を管理する(公財)神奈川県公園協会の職員です。
当日は連日の暑さがそのまま持ち越され、朝から汗ばむ陽気でしたが、オオムラサキの観察にはもってこいです。午前10時から観察会を開始し、一番オオムラサキの出現を期待していた場所ではその姿を確認できず、期待を胸にツタ植物やオオゴキブリ、ムササビの巣を観察し、予定のコースを進みます。
もうすぐお昼という地点に差し掛かった時、コナラの樹液にカナブンやオオスズメバチとともに、3頭のオオムラサキが出現!!なかなか翅(はね)を開いてくれませんが、時折翅をばたつかせ、その度に歓声が上がります。そうこうしていると、1頭のオオムラサキが私たちの眼の前の木に飛来し、頭を下にして止まりました。これには参加者も驚きの歓声を上げ、一斉にカメラが近づきます。
本来は禁止されていることですが、今日は特別にその個体を採集しじっくり観察です。透明の袋に入れ暴れないようにし、表側と裏側をじっくり見ることができました。その個体はオスで翅の青さが際立ちます。また胴体も太く、思っていたより触角が長いという皆さんの感想でした。何にせよオオムラサキが観察できて一安心です。
昼からは根小屋段丘や津久井渓谷の形成などについて、展望台から広がる景観を見ながら地形や地質のお話をお聞きしました。オオムラサキを見終わってもう満足という気持ちと、暑さのためか参加者は自然と足早になっていきます。それを制するように、ニイニイゼミの抜け殻やエゴノネコアシを観察し、野外での最後はエノキの木の下でオオムラサキの幼虫とさなぎ、さなぎの抜け殻探しです。木の下からエノキの葉の裏側を見上げるように一斉に探しますが、結局見つけることはできませんでした。
研究棟に入り一休みし、その後各講師から今日のまとめと補足説明がありました。野外で聞いた話に加え、津久井町史自然編に掲載されている詳しい図や写真を使ってお話しいただくと、さらに深みのある内容に変わっていくのが不思議です。今年度は平成26(2014)年の1月と2月に、それぞれテーマを設け同様の観察会を計画しています。このような事業を通して、旧津久井町の自然を少しでも体感いただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)
※エノゴネコアシアブラムシがエゴノキの芽に何らかの刺激を与えた結果、エゴノキの芽の一部の組織が大きく肥大化し、白い袋状の虫こぶが形成される。
かつて、相模原周辺では養蚕が盛んに行われ、養蚕に関わるさまざまな行事や信仰が人々の暮らしの中に根付いていました。しかし、養蚕をする家がなくなり、世代交代も進む現在では、そうした行事や信仰が少しずつ姿を消しつつあるように感じます。そんな中、養蚕に関わる女性の集まりが今も緑区青野原で行われているという話を聞き、当館の加藤学芸員(民俗担当)と一緒に、その集まりにお邪魔させていただきました。
青野原の嵐・上原・下原地区では、毎年5月と6月に1回ずつ、3地区の女性が集まって和讃(仏の功徳や高僧の功績を讃えるもの。歌念仏ともいう。)をあげる、「おこもり」という行事が行われています。
5月は「火防(ひぶせ)のおこもり」(「迎え」ともいう。)、6月は「お礼のおこもり」(「お礼ごもり」・「送り」ともいう。)と呼ばれ、蚕の飼育が始まる前(5月)に火災除けと繭の豊作を祈願し、また、飼育終了後((6月)には火事なく無事作業を終えたことに感謝して行われてきたそうです。
この行事がいつごろ始まったものかはわかりませんが、この行事を行うのは「養蚕で火を使ったから」だと伝えられています。養蚕では、蚕がよく育っていい繭を作るように、温度の管理にとても気を遣いました。寒い時には蚕を飼う部屋を暖めるために木炭や練炭等の火力が使われ、火災が発生しやすい状況にあったことが、「おこもり」の行事につながったものと想像されます。
お話をうかがったところ、青野原にも以前は養蚕を営む家が数多くあったようですが、だいぶ前に一軒もなくなってしまったとのこと、しかし、女性たちが集う「おこもり」はその後も引き続き行われて、現在に至っているということです。
今年の「お礼のおこもり」は、平成25年(2013)6月10日、青野原バス停近くの青野原会館で行われました。今回の参加者は13名(ほかにお茶出しのお手伝いの方が3名)で、5月13日に行われた「火防のおこもり」には21名が参加されたそうです。
会場となる部屋の上座にはお酒やお菓子・果物などが供えられ、準備が整うとロウソクに火が灯されます。午後1時30分になると、役員のあいさつの後、和讃が始まりました。各自持参した帳面を広げ、小さな鉦(かね)を打ちながら和讃を行います。女性の歌声と鉦の音で、部屋の中の雰囲気はがらりと変わります。
最初は「火防せ(ひぶせ)様」と題された和讃です。「あきばさん さんじゃくぼうに みずやしき」から始まる言葉を、独特の節回しで歌います。帳面を拝見すると、火防の神として知られる秋葉神社(静岡県)を表現した文言や、「しもばしら こうりのなげしに ゆきのけた あめのたれきに つゆのふきぐさ(霜柱 氷の長押に 雪の桁 雨の垂木に 露の葺草)」という建物にまつわる火難除けの言葉などが並んでいます。
続いて、お茶で少し喉を潤したのち、「なむつしまのごずてんのう」から始まる和讃に移ります。節回しも変わり、実に47もの神仏の名をあげていく長丁場です。47の神仏には、青野原地域に祀られている焼山社の焼山権現などのほかに、江の島弁天や成田不動など周辺地域の著名な社寺の神仏の名もみられます。ちなみに、最初の「つしまのごずてんのう」は、疫病・厄除けで有名な津島神社(愛知県)の祭神で、『津久井町郷土誌』によると、青野原では江戸時代に津島神社の牛頭天王(ごずてんのう)を勧請した経過があるようです。江の島弁天等も、あるいは青野原の人々が参詣したりお札を受けたりしたような社寺なのかもしれません。いずれにしても、多くの神仏に対して、火事を出すことなくいい繭がたくさんできるように祈願していたことがうかがえます。
そうして開始から40分ほどで和讃が終わると、お茶菓子などが用意され、楽しい歓談の時間となります。部屋の中には、鉦の音から一転して女性の笑い声が響きます。こんな楽しみがあるのも、「おこもり」が続いている理由の一つかもしれません。@養蚕が盛んだった相模原周辺では、こうした養蚕に関わる女性の集まりが各地で行われていたようですが、『相模原市史民俗編』等の刊行物で紹介されているものをみると、その有り様はさまざまであったことがわかります。この「おこもり」もまた、青野原の人々の手で育まれてきた、他に二つとないものではないでしょうか。
『津久井町史』は民俗編の刊行予定はありませんが、地域を知る資料の一つとして今回の記録を保存するとともに、こうした行事が時代によって変化しながらも受け継がれ、その歩んできた歴史や人々の想いを伝えてくれたら、という願いを込めて、この場を借りてご紹介させていただきました。(町史担当 草薙由美) ※平成24年度民俗の窓で中央区田名、南区相模大野、南区磯部で行われている養蚕信仰について紹介しています。
平成25(2013)年3月、津久井町史編さん事業としては5冊目となる、『津久井町史自然編』を刊行しました。平成11(1999)年1月に津久井町史編集委員会自然部会を立ち上げ、その後自然に関する各種調査が部会員により実施され、その成果をまとめた集大成としての一冊となります。約900点に及ぶ多くの図や写真を利用し、分かりやすく、親しみのもてる本となっています。
第1章「自然のあらまし」では、前記自然部会の部会長である髙橋純夫氏が、旧津久井町の自然のあらましについて、特徴と概要により解説しています。そして、第2章から第5章までは、各分野での調査成果を、図や写真を交えながら解説しています。
第2章「気象」では、旧津久井町が神奈川県内でもいかに寒冷地で、また降水量も多いのかを、グラフや表を使ってお伝えしています。
第3章「地形・地質」は、旧津久井町の大地の成り立ちを、地質構造や形成過程とともに解説し、付図として地質図を添付しています。
第4章「植物」は、私たちの生活する場所やその周辺に点在する公園や畑、低山地や渓谷、丹沢山地稜線部やブナ林の植物などを、写真を交えて解説しています。
第5章「動物」は、哺乳動物や鳥類、両生類、昆虫類、魚類など、動物を大きく10のグループに分け、それぞれ種類や生息する環境ごとなど、少しでもその状況が伝えやすい方法で解説し、多くの写真で紹介しています。
第6章「特色ある自然と生物」では、これまでに紹介できず、また解説しきれなかった内容について、50項目のタイトルで記述しています。調査により旧津久井町から発見された植物や昆虫、地域ならではの特徴ある自然、時間の経過や人との関わりにより変わってきた自然など、読みやすいように各タイトル数ページで完結しています。
最後の第7章「自然と環境保全」は、旧津久井町が水と緑の地であることを検証した上で、これからこの自然とどう関わっていったら良いのかを、読者の皆様に考えるきっかけとなればと設けた章です。
旧津久井町の自然の現状を記録し、お伝えしていくことは、これからの相模原市を考えていくうえでも重要なことです。『津久井町史自然編』が、本棚の隅に置かれたままにならず、いろいろな場面で活用されることを願っています。