博物館開館25周年記念ロゴマーク
■作者
加藤 慎平(かとう しんぺい)
1999年、相模原市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科在学中。
アートディレクション、写真術を専攻。幼少時より昆虫採集が趣味。生物全般好き。最近は郷土史にも興味あり。
【作者コメント】
小さい頃から生き物や自然現象に興味があり相模原市立博物館には家族でよく訪れ、学術的な面でお世話になることもありました。25周年の節目の年にデザインという面で貢献できるのは大変光栄です。
忘れ物及び落し物について
相模原市立博物館の敷地内(館内・駐車場を含む)で忘れ物・落し物をされた方は受付までお申し出ください。
受付でお預かりしていた場合は、確認票に氏名・住所等を記載していただき、返却します。その際、本人確認のため、遺失物の特徴や本人確認書類の提示等を求める場合がありますので、ご了承ください。
保管期間は以下のとおりです。
所有者が判明していても判明していなくても、保管期間が経過したものは処分させていただきますのでご了承ください。
なお、遠方からお越しの場合等受け取りに来ることが困難な場合は、着払いで郵送することも可能です。受付へご相談ください。
また、落し物に連絡先等が記載されている場合は、博物館より連絡させていただくこともありますので合わせてご了承ください。
保管期間
現金(財布を含む)・ICカードなど | 翌日に警察へ届ける |
保管可能なもの(衣類・筆記用具・現金の入っていない財布・傘等) | 翌月に警察へ届ける |
生ものや衛生上の問題があるもの | 2~3日後廃棄処分とする。 |
危険物・不審物(返還に応じない) | 当日に警察へ届ける |
市民とともに歩む博物館の姿勢を体現するイベント、それが「学びの収穫祭」です。毎年博物館の開館記念日である11月20日に近い週末の二日間、博物館を拠点に活動するボランティアグループや、学芸員が活動に関わる学校の部活動や大学の学生研究などさまざまな市民が研究や活動の発表を行います。今年は11月21日(土)と22日(日)の二日間にわたって実施しました。
このように書くとちょっとお堅い感じがしますが、けっしてそんなことはありません。分野が異なっても、さまざまな切り口から郷土のことや興味のあることを探求する楽しさ、充実感はお互いに伝わるものです。発表者どうしが心から楽しんでディスカッションし、情報交換の場としてこの収穫祭を活用しています。
発表には、口頭発表と展示発表の2形態があります。口頭発表は、一度にたくさんの方へ説明することができますし、たくさんの図や写真を順序立ててお見せすることができます。そのため、新たな発見を伴うものや、一般にあまりなじみの無いテーマについて紹介を含めて発表したり、活動のようすを報告したりするのに向いています。
口頭発表会のようす(11月21日)
展示発表のようす(11月21日)
発表の前でのディスカッション(11月21日)
それに対して展示発表は、発表者とそれを聞く人が対面しながらディスカッションを進めることができます。調査研究の途上の中間発表であったり、ちょっと込み入った説明を要するような発表に適しています。展示発表では、実物展示も含めることができます。今回の発表でも、和服などの実物や剥製資料も並びました。
今年の「学びの収穫祭」には22のグループや学校が参加しました。特に、博物館のご近所さんである県立弥栄高等学校サイエンス部のみなさんをはじめ、学校の部活動からの参加はこの収穫祭の最大の特色と言えるでしょう。文化系の部活動、特にフィールドワークを伴うような活動がしにくくなっている状況があり、博物館としてはそうした活動を盛り上げていきたいと考えています。校外での発表の場、他校との交流の場を一つでも増やすことをこの収穫祭の目的と位置づけています。
発表者のための情報交換会(11月21日)
その試みの一環として、学校の発表を集中させている1日目の11月21日の口頭発表会終了後、情報交換会を開きました。この会には一つのルールがあります。それは、「同じ所属の人どうしが隣り合わせにならないこと」です。こうして専門のこと、学校のこと、進路のことなど話し合う中でほんとうの交流の芽が育ちます。
発表者で記念撮影(11月21日)
学びの収穫祭という2日間のイベントは、いまやボランティアグループのみなさんにとっても活動の大きな節目となっています。成果の発表の場だけでなく、世代や所属を超えて市民が交流する場として機能するイベントとしてこれからも大きく育てていきたいと考えています。
(生物担当学芸員 秋山幸也)
平成27年度 学びの収穫祭 発表団体
【学校関係】
あざおね社中
麻布大学野生動物学研究室
海老名市立海老名中学校科学部
桜美林大学植物分類研究室
神奈川県立相模原青陵高等学校地球惑星科学部
神奈川県立弥栄高等学校サイエンス部
光明学園相模原高等学校理科研究部
横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校
【一般団体】
相模原市自然環境観察員
相模原市立相模台公民館文化部+「まち歩きマップ」制作委員会
相武台のナベトロ遺跡をたどる会
町田ムササビ保全研究グループ
【博物館のボランティアグループ】
相模原縄文研究会
相模原植物調査会
相模原市立博物館天文クラブ
相模原地質研究会
相模原動物標本クラブ
市民学芸員
水曜会
福の会
民俗調査会A
民俗調査会B
博物館は平成7年11月に開館し、今年で20周年を迎えました。この間、延べ255万人以上の入館者の皆様をお迎えし(今年10月末までの数値です)、多くの活動を行ってきました。博物館の活動にはさまざまなものがありますが、その中でも展示はもっともイメージしやすいものと言えます。展示には期間を区切って行う企画展や特別展と、通常は変更がない(もちろん部分的には変わっていることも多いのですが)常設展示があり、当館の場合は、天文の常設展示室と自然・人文系の資料が展示されている自然・歴史展示室とに分かれています。
№1展示作業も市民の手によって行われた。鍬の固定具を外すのは大変だった
№2パネルの取り付けももちろん大切な作業である
自然・歴史展示室は「台地の生いたち」「郷土の歴史」「くらしの姿」「人の自然のかかわり」「地域の変貌」の五つのテーマに分かれており、それぞれ関連する資料や解説等によって構成されています。このうち、三テーマ「くらしの姿」では、かつての生業の中心であった畑作や養蚕で用いられていた農具を手がかりとして、地域の生活のあり方を考える内容になっています。その中ではヘラグワと呼ばれる古くから使われていた鍬や、麦や豆等を叩いて脱穀するクルリボウについて、市内や周辺地域で形態や特徴が異なることに注目し、多くの実物資料を展示することで具体的にその違いを示していました。そして、このような内容としたために、例えば町田や大和など、周辺地域で特徴的な資料について館蔵のものがなく、いくつかの博物館や資料館等から資料をお借りして展示をしてきました。
№3物置内部には、今回は肥料作りの資料を展示した
№4地域による鍬(ヘラグワ)の形態差を示す旧展示。多くの鍬が並んでいた
今回、「くらしの姿」の一部展示替えを行ったのは、長期に渡って借用してきたこうした資料をお返しすることがきっかけで、ただ返却して無くなったところにまた別の資料を差し替えるだけではなく、展示全体を見直して少し新しい内容を加えることにしました。展示の検討に当たっては、館とともにさまざまな活動を実施していただいている市民学芸員の有志の皆様と一年ほどかけて作業を行い、もちろん例えば展示室の構造など、いくつかの大きな制約がある中でしたが一応の完成をみることができました。
変更内容の概略は次のとおりです。
(1)移築した物置内部も展示スペースとして活用する。
(2)多くの鍬やクルリボウを展示していた部分を縮小して畑作に用いる別の農具も展示し、併せてそれらの農具の使用している状況の写真を加える。
(3)養蚕に製糸の道具を加え、さらに養蚕の信仰に係わる資料なども扱う。養蚕の工程と道具の使用写真も展示する。
№5新展示では、千歯や唐箕などの脱穀・調製の道具なども展示した
№6養蚕のマブシなどが展示されていた旧展示
展示内容の検討では、従来の展示全体や三テーマの構成はどうなっているのか、新しい展示として残す部分と変えるところをどうするのか、その展示の狙いは何か、具体的な展示資料の選定など、いろいろな面から市民とともに検討を積み上げていき、市民目線からの展示という面を重視しながら進めていきました。是非、来館の折りには新しい展示をご覧いただければと思います。
№7No.6と同じところには、養蚕に伴う信仰の資料などを展示している
常設展示の見直しについては、解説文をより分かり易くする、所々にクイズを設置して展示をさらに親しみ易くするなど、三テーマの展示替え以外についても市民学芸員有志の方々を中心に進められています。こうした点についても逐次紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
※三テーマの詳しい展示替えの状況や具体的な変更点・内容等については、今年度刊行の『研究報告』で報告する予定です。
恒例の第8回目の「民俗探訪会」を11月11日(水)に実施しました。「民俗探訪会」は、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月の第二水曜日(民俗調査会Aの定例の活動日)に行っているもので、今回は南区磯部地区を歩きました。民俗調査会では、以前に「相模原散策マップ」を作成して博物館のホームページにも掲載していますが、第1回目の民俗探訪会ではその南部ルートを歩き、今回はまだ活用していなかった北部ルートを資料にしました。なお、「相模原散策マップ」は、博物館ホームページの、リンク→発見のこみち→相模原散策マップ に掲載されています。
当日は、相模川越しに大山がきれいに見えた
いつものように「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ20名の方からの応募があり、当日は民俗調査会の会員を含め総勢26名で約3時間のコースを歩きました。また、「相模原散策マップ」では当然ルートを設定していますが、今回は3時間程度で終了するという点と、地元で有名になっている「ざる菊」の花がきれいに咲き誇っている時期でもあり、このざる菊の会場も訪れることとしたため、ルート順を変更して実施しました。今回の主なコースは以下の通りです。
下溝駅・9時30分集合→大盛橋(石仏・道保川緑地)→磯部八幡宮→もんや稲荷(大山道・大山道標)→磯部頭首工(相模川左岸用水)→庚申塔群→旧中村家住宅→勝源寺→ 磯部ざる菊会場→史跡勝坂遺跡公園(有鹿神社)→下溝駅・午後12時30分解散
国登録有形文化財の中村家住宅。全国的にも珍しいとされる幕末期の和洋折衷住宅に興味津々
きれいに咲き誇ったざる菊。こうした季節のイベントを訪れるのも楽しみの一つ
今回も担当学芸員である加藤がポイントごとに説明するとともに、調査会会員はコースの誘導や車への注意の呼びかけなどを行い、さまざまな点に配慮しながら進めていました。
勝坂遺跡段丘下の有鹿神社の湧水。今でも海老名の有鹿神社の神職や氏子が4月に訪れてここから水を汲む
少々足場は悪いが、有鹿神社の湧水は今回の大きな見所の一つ
民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、普通は気がつきにくいものの地域にとっては重要で、博物館や地元の人が案内するから分かること」を重視しています。今回も、例えば国史跡の勝坂遺跡に行くものの、主な見学地としては遺跡の段丘下の有鹿神社と湧水というように、民俗探訪会らしい視点で実施しており、実際にそうした内容が好評で今後ともこの視点を大事にしていきたいと考えています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。
*これまでの民俗探訪会については、いずれも「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。
今年で四年目を迎える第7回目の「民俗探訪会」を5月13日(水)に実施しました。「民俗探訪会」は、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月の第二水曜日(民俗調査会Aの定例の活動日)に行っているもので、今回は南区上鶴間地区を歩きました。上鶴間地区は市内でも双体道祖神(一石に二神が並んで立っているもの)が多く分布するなど、特徴ある石仏が見られる地域で、今回の民俗探訪会でも~上鶴間地区の石仏を見る~として、石仏を中心にそのほかの神社等も加えながら歩いていきました。
いつものように「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、47名の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は33名の参加者と会員7名で、相模大野駅から約3時間のコースを歩きました。前日には台風から変わった温帯低気圧が関東を通過するなど、天候が心配されましたが当日は雨どころか快晴で、むしろ熱さの方が大変な中を歩いていきました。今回のコースは次の通りです。
相模大野駅・9時30分集合→①蚕守稲荷神社→②山王神社→③双体道祖神(二基)→④地蔵坂の地蔵→⑤金山神社→⑥惣吉稲荷→⑦長嶋神社→⑧旧鶴金橋・境川の旧河道→上鶴間高校入口バス停・12時45分頃解散
調査会の会員も時には手持ちの資料を元に説明した
地域の中にはさまざまな石仏が残されている
三猿が彫られた台座の上に乗る丸彫りの地蔵。首がないのが残念だが、注目される庚申塔の例として、武田久吉著『路傍の石仏』の中で紹介されている。
今回も担当学芸員である加藤がポイントごとに説明するとともに、特に地元在住で文化財保護課の文化財普及員も務めている調査会の会員も各所でさまざまなお話しをしました。また、全体で40名以上が歩くために、調査会会員はコースの誘導や車への注意を呼びかけるなど、安全で楽しめる探訪会になるように充分配慮しながら進めていました。
境川は河川改修によって真っ直ぐな流れに変わっているが、所々にかつてその流れが曲がりくねっていたことを示す旧河道が残っている。
境川の旧河道に架かる古い方の鶴金橋。昭和8年(1933)竣工で、竣工年が分かる境川の現存する橋の中でもっとも古いものという。
民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、普通は気がつきにくいものの地域にとっては重要で、博物館や地元の人が案内するから分かること」を重視しながら実施しています。今回も、普段、散歩などでよく歩いている所だが説明されたことは全く知らなかった、ここに神社があるのはわかっていたが行ったことがなかったので案内してもらって良かったなどの声をいただきました。民俗探訪会ではこうした内容がいつも好評で、今後ともこの視点を大事にして実施していきたいと考えています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。
*これまでの民俗探訪会については、いずれも「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。
今年の紅葉はパッとしないと、あちこちで言われています。博物館駐車場のイロハモミジも、写真のようにしっかり色づかないまま枝に残るか、早めに落葉しているものが多いようです。
鈍く紅葉するイロハモミジ
紅葉は、光合成と密接な関係にある現象です。紅葉の主役である葉は、光合成の工場と表現できます。実際にその仕事をしている機械が、光合成色素です。この機械は、太陽光を動力エネルギーとして、水と二酸化炭素を原料に糖分(ブドウ糖)を生産します。そして、その副産物は酸素です。この機械は、気温が低いと稼働効率が下がるという特徴があります。
気温が下がって光合成の効率が悪くなり、エネルギーである太陽光が供給される時間も短くなってくると、工場の採算が合わなくなります。まして、機械もしだいに老朽化します。そうなると、工場を経営している木としては工場閉鎖の判断をします。ただ、使っていた機械をそのまま廃棄してしまうのはもったいないため、分解して来年の春の新工場開設の準備などに使えるよう、閉鎖前に葉から新芽や貯蔵倉庫である根へと移動しておきます。工場のイメージカラーでもあった光合成色素の緑色がここでなくなります。
さらに光合成によって生成されたブドウ糖も、ほとんどは新しい枝葉を伸ばすための原料として使われるため、葉から移動済みなのですが、どうしても工場のあちこちに残ります。これはそのままにしておくと、赤い色素に変化する性質があります。以上が、紅葉のしくみです。
紅葉が美しくなる条件は、朝晩冷え込んで、しかも日中はお天気が良いことです。ここから先は想像です。晩秋にお天気がよく日中は気温が上がるのに、朝晩冷え込むと、木が工場閉鎖のタイミングを計りかねるのではないでしょうか。日中は晴天の勢いで機械をフルに回転させているまま朝晩の冷え込みがいよいよ厳しくなると、木が強制的に工場を閉鎖にかかります。そうなると、余剰生産物が工場に残されたまま物質の流れが止まり、たくさんの糖分が工場(葉)で赤い色素に変化する。そんなストーリーが考えられます。
紅葉の色づきがいまひとつと言われる今年の秋は、確かに冷え込みが緩く日照時間が短かったようなので、木が工場の老朽化に任せるまま順当に閉鎖準備を進めて、余剰生産物もあまり出さなかったのかもしれません。ちなみに、事業所を閉鎖することを「シャッターを下ろす」と表現することがありますが、光合成工場の閉鎖、つまり落葉するときは、なんと葉の付け根に「離層」というシャッターのようなものが形成されてぽろりと葉を落とします。
美しかった去年の紅葉(平成26年11月30日 中央区高根)
同じ場所の今年のようす(平成27年12月5日 中央区高根)
さて、紅葉がいまひとつ、なんて言われている年でも、落胆することはありません。地面の上を見ればしっかり紅葉した葉を見ることができます。地面に落ちてから色づく葉もありますし、遠目に見て枝についた葉の紅葉はあまり見栄えがしなくても、落葉の色合いのすばらしさに目を奪われることがあります。さまざまな色のグラデーションや、枝上では感じなかった渋い赤茶色の魅力など、見どころはたくさんあります。
絶妙なグラデーションのサクラの落ち葉
目が覚めるようなイロハモミジの落ち葉
ちょっと不思議なのは、落ち葉の紅葉の風景がとてもすばらしいと思って、その葉を拾って机の上に広げたりしても、美しさがぜんぜん再現できないことです。地面に落ちたままランダムに広がった偶然の妙が美しさを際立たせているのかもしれません。
(生物担当学芸員 秋山幸也)
平成27年7月下旬、県の丹沢大山自然再生委員会の現地調査会に参加して、丹沢山地の檜洞丸(1601m)へ登ってきました。この委員会は、1980年代から顕著になってきた丹沢の自然環境の荒廃と衰退を食い止めようと行われている丹沢大山自然環境総合調査(平成5~9年、平成16年~18年)をもとに策定された「丹沢大山自然再生基本構想」に基づき平成18年に設置されました。
調査部会部員と登山道を行く
メンバーは大学など研究機関の研究者、NPO、行政、マスコミ、民間企業など、そして県民によって構成されています。私はその委員会の中の調査部会に入っているのですが、さまざまな専門や立場のみなさんとの登山はほんとうに勉強になります。真夏の厳しいコンディションでの登山でしたが、流した汗に見合う有意義な調査行となりました。
ルートは県立西丹沢自然教室から東沢へ入ってツツジ新道へとりかかり、丹沢主稜の尾根に出て檜洞丸山頂を目指すシンプルなものです。しかし、私自身はこれまで相模原市域のいわゆる裏丹沢を中心に歩いてきたため、表丹沢にあたるツツジ新道は初めて登りました。西丹沢はヤマビルが非常に少なく、この小さな吸血鬼の心配をせずに丹沢を登るのはひさしぶりのことです。
枯死した林床のスズタケ群落
尾根に近づきブナが目立ってきた頃、ふと林床を見るとなにか物足りません。丹沢のブナ林は林床をスズダケやミヤマクマザサが覆うというのが本来の姿です。しかし、昨年あたりからスズダケの一斉開花が見られています。ササであるスズダケは、一生に一度だけ開花し、その後すぐに枯れます。さらに、スズダケの群落は一帯が地下茎でつながっているので、実質的に目に見える範囲くらいの株がじつは1個体です。数十年に一度と言われる一斉開花の後に枯死している、今がちょうどそのタイミングというわけです。
もちろん、丹沢の長い歴史の中でそんなことは幾度となく起きてきました。しかし、シカによる食害をはじめ、さまざまな理由から丹沢の植生は衰退の途上にあります。そのほかの複合的なダメージ要因がこの枯死に対してどの程度影響があるのか、丹沢再生委員会でも注視していかなくてはなりません。そんなことも、この現地調査会の大きな目的です。
立ちがれた稜線上のブナ
ブナハバチに食べられたブナの葉
林内に咲いていたタマガワホトトギス
ウスユキソウ
さらに進んで標高1500mに近づくと、ブナの立ち枯れが目立ちます。これも要因は複合的と言われていますが、直接的に影響を及ぼしているものの一つがブナハバチの幼虫による食害です。これまで、7~10年くらいの間隔で大発生してブナの葉を食べつくしていたブナハバチですが、ここ最近は3年ごとの大発生が見られているそうです。そうなると、ブナも樹勢を保つのが難しくなり、気象条件や大気環境などの追い打ちを受けて枯死してしまう株もあるようです。
神奈川県も手をこまねいて見ているだけではありません。ブナハバチに効果の高い薬剤注入によって被害を食い止められるという研究成果も上がっているようで、コストや労力との兼ね合いを見極めながら対策を進めています。
檜洞丸山頂(1601m)
さまざまな問題を抱える丹沢ですが、それでも山そのもののすばらしさ、潜在的な自然の価値は変わりません。真夏はハイカーがもっと高標高の山岳地帯を目指すためか、ほとんど登山者に会いませんでしたが、そのぶん気持ちよく山歩きができました。相模原市ではまだ、丹沢を自分たちの自然環境の問題と自覚しはじめて日が浅いのですが、この雄大な自然環境を誇りとして、積極的に丹沢の再生に関わっていきたいと思いながら下山しました。(生物担当学芸員 秋山幸也)
生きものの名前には、色にまつわるものがとても多くあります。先日立ち寄った相模川の河原にいると、目の前をせわしなく小鳥が行き来しています。
セグロセキレイです。この写真ではあまりわかりませんが、名前の通り背中が黒い。直後、別のセキレイが飛んできました。
こんどはハクセキレイです。 あれ?名前はハク(白)なのに、あんまり白くありません。セグロセキレイとよく似ています。何がハクなのかというと、あえて言えば顔が白いということでしょうか。
ハクセキレイは羽色に個体差の大きい鳥で、別の個体が飛んだところの写真です。
まあ、ハクセキレイという名も納得できる感じもします。 そもそも生きものの名前って人間が便宜的に付けているから、結構適当なのかな・・?
アオサギです。ぜんぜん青くない。あえて言えば、青灰色というところでしょうか。ただし、やまと言葉では「あお」は白から黒にかけて広く寒色系の色全体を指すようなので、間違いではありません。むしろ、正確に色を表していると言えるでしょう。 そういえばアオダイショウも青くなくて、むしろ黄緑がかった灰色です。(抵抗のある方が多いと思うので、胴体のウロコだけの写真です)
これもおかしくありません。古語で青色は黄色味の入った萌葱(もえぎ)色を指す高貴な色名でもあります。 あれ?結構正確に名前が付けられていますね。むしろ色の認識や定義が時代によって変化しているのかもしれません。一般的に、最近つけられた種名の方が色については単純化される傾向があります。日本には古くから自然の色について数えきれないくらいたくさんの微妙な色名があります。機会があれば、こうした古くから知られている生きものの名前と色について見直してみたいと思っています。(生物担当学芸員 秋山幸也)
厚木市七沢の鐘ヶ嶽周辺には、七沢石と呼ばれる石材の石切場の跡が残っています。七沢石は岩石の種類としては火山礫凝灰岩に分類されます。火山礫凝灰岩は凝灰岩のなかまで、含まれている粒子の大きさが2ミリから6.4センチのものをいいます。含まれている粒子のほとんどのものは火山岩、つまり、溶岩の破片です。鐘ヶ嶽の麓にも、七沢石で造られた石造物が多く見られます。ここではいくつかの石切場の跡の様子を紹介します。
鐘ヶ嶽
登山道の入口の石段を登ると、七沢石でできた鳥居が出迎えてくれます。石段も七沢石でできています。登山道脇には七沢石でできた多くの石造物を見ることができます。七沢石を近くで見ると火山岩の破片が集まってできていることがよくわかります。尾根伝いの登山道の脇に石切場の跡があり、クサビの跡が残っている石も見られます。
七沢石の鳥居
登山道脇で見られる七沢石の石造物
火山岩の破片が集まってできた七沢石
登山道途中の石切場跡
半谷石切場跡は鐘ヶ嶽北東側の中腹の林道沿いにあります。近くには石碑も立っています。クサビの跡が残っている石も見られます。
半谷石切場跡
半谷石切場の石碑
クサビの跡が残る石
大平石切場跡は鐘ヶ嶽南麓にあります。ここは正確には石切り場ではなく、石の加工場の跡、もしくは、斜面の上の方にある石切場から切り出した石を運び出すための起点となっていた場所かもしれません。石を切り出せるような崖はありません。クサビの跡が残っている石が見られます。現在の道は、砂防堰堤工事のため川から離れたところを通っていますが、かつてはもっと川に近いところを通っていました。旧道沿いには大平石切場の石碑が立っています。
旧道沿いの大平石切場の石碑
大平石切場跡
クサビの跡が残る石
(地質担当学芸員 河尻)
6月13日(土)~6月28日(日)にミニ企画展「石のステンドグラス~岩石の顕微鏡写真展~」を開催しました。模様や色のきれいな岩石の顕微鏡写真や相模川の川原の石の顕微鏡写真を94枚展示しました。 展示期間中に展示写真の人気投票を実施したところ、多くの方に投票していただきました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
人気投票の結果、10位までに入った写真ついてここで紹介いたします。なお、投票総数は361票でした。
第1位 No.34 カンラン岩 北海道様似町 得票数64
ポスターやチラシの表紙に使った写真です。予想通りの1位獲得ですが、2位との差は8票。思ったほど差がつきませんでした。
2位以下はどの写真が票を集めるのかまったく予想がつきませんでした。
第2位 No.59 スカルン 岡山県高梁市 得票数56
3位に大差をつけての2位獲得です。
3位以下は大混戦となりました。
第3位 No.20 結晶質石灰岩(大理石)イタリア 得票数25
4位との差は4票。何とか3位に滑り込むことができました。
4位には同票で2つの写真が並びました。
第4位 No.2 エクロジャイト 愛媛県東赤石山 得票数21
第4位 No.32 石灰岩 岐阜県山県市 得票数21
第6位 No.68 含セラドン石火山礫凝灰岩 相模川の川原の石 得票数16
相模川の川原の石でベスト10に入ったのはこの石だけです。
7位と8位は僅差でした。
第7位 No.62 片麻岩中のジルコン 韓国忠青北道 得票数11
同票で2枚の写真が8位となりました。
第8位 No.64 クロリトイド片岩 岐阜県郡上市 得票数10
第8位 No.66 ザクロ石十字石片岩中の十字石 富山県黒部市 得票数10
10位には同票で3枚の写真が並びました。文象斑岩と藍閃石片岩はもっと上位に来ると予想していましたが、意外な結果となりました。文象斑岩は、模様は面白いのですが白黒、藍閃石片岩は青ないし紫の単色なので、カラフルな岩石と比べると少し地味だったのでしょうか。
第10位 No.4 文象斑岩 岐阜県高山市 得票数7
第10位 No.36 蛇紋岩 岡山県真庭市 得票数7
第10位 No.56 藍閃石片岩 福井県大野市 得票数7
ここでは紹介しませんが、10位以下は1表ずつの差でした。残念ながら1票も入らなかった写真も37枚ありました。
やはり、カラフルな写真が上位に来ました。色がきれいでも単色のものは、あまり票が集まりませんでした。その中で、相模川の川原の石の含セラドン石火山礫凝灰岩は大健闘といえるでしょう。
(地質担当学芸員 河尻)
前回の地質の窓(平成15年2月)で、厚木市七沢で見られる丹沢山地をつくっている凝灰岩のなかまについて紹介しました。今回はその続きです。
丹沢山地をつくっている凝灰岩や火山岩のなかまは、まとめて丹沢層群と呼ばれています。丹沢層群の北東側に愛川層群と呼ばれる地層群が分布しています。愛川層群は海底火山噴火によってできた凝灰岩のなかまや陸地から運ばれた砂礫が固まってできた砂岩および礫岩からなる地層群です。丹沢山地周辺部をつくっています。
七沢から清川村役場のあたりを通り、宮ヶ瀬湖へと谷が続いています。県道64号線が通っている谷です。この谷は、丹沢層群と愛川層群と呼ばれる地層の境界断層です。この断層は青野原-煤ヶ谷線とか牧馬-煤ヶ谷構造線と呼ばれています。
中央の谷のあたりが断層(青野原-煤ヶ谷線)です。
七沢付近の凝灰岩のなかまにはタマネギ状風化がたくさん見られます。大小さまざまな大きさの“タマネギ”が見られます。タマネギ状風化は、まず、岩石がサイコロのような立方体やレンガのような直方体に割れるところから始まります。その割れ目から少しずつ雨水がしみ込んで、表面から順に風化していき、タマネギのように“皮”が何枚も重なったような割れ目が入ります。“タマネギ”の中心部分は風化が進んでいない部分です。同じ場所に露出している岩石でも、割れ目の入り方や風化のしやすさの違いなどにより、タマネギ状風化が見られたり、見られなかったりします。
タマネギ状風化。
写真上部にはタマネギ状風化が見られますが下部には見られません。
丹沢山地の凝灰岩のなかまの中には、沸石と呼ばれる鉱物が含まれていることがあります。沸石には菱沸石、輝沸石、方沸石、ソーダ沸石など多くの種類があります。多くのものは顕微鏡で見ないと判別できないくらい小さな結晶ですが、七沢付近ではごくまれに肉眼で見ることができる大きさのものが含まれていることがあります。肉眼で見えるといっても2~3mm程度の大きさです。丹沢山地の沸石は、岩石の隙間に鉱物の成分を溶かし込んだ熱水がしみ込んで、それが冷えて結晶ができたものです。
中央の牙のような形をした鉱物は方解石と思われます。大きさ約2 mm。周囲の四角い鉱物は菱沸石です。
菱沸石。大きさ約3 mm。
こちらは菱沸石とは異なる別の種類の沸石です。輝沸石かもしれません。大きさ、左の結晶:約3 mm、右の結晶が約2 mmです。
(地質担当学芸員 河尻)
緑区根小屋地区の功雲寺は、戦国時代の津久井城主・内藤左近将監景定を開基とする曹洞宗の古刹で、境内には内藤氏の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう・市登録有形文化財)が遺されています。今回は、2月14日(日)に行われた当寺の涅槃会(ねはんえ)とその準備の涅槃団子作りについて紹介したいと思います 涅槃会は、2月15日の釈迦が亡くなった日に営まれるもので、寺院では横たわっている釈迦の周りで弟子たちや各種の動物が嘆き悲しんでいるところを描いた涅槃図を掲げて法会が営まれることがあります。ちなみに功雲寺に飾られる涅槃図はかなり大きく立派であり、収納されている箱書きに拠ると天保12年(1841)の作で、さらに表具の柱の部分には、この涅槃図を製作するに際して施主となった多くの者の名前が記してある珍しいものです。そして、この時には丸い団子などを作ることがよくありますが、功雲寺ではそうした丸い団子とともに、動物の形をした形物(かたもの)と呼ばれる涅槃団子も一緒に作っています。
蒸かした米粉をこねる。今年は別の寺からの応援がたくさん来られたので助かった
大きくて立派な功雲寺の涅槃図
施主の名前が書かれているのは珍しい
婦人部の役員による団子作り。多くの動物が作られる
出来上がった団子。小さな動物たちがかわいい
団子作りは涅槃会前日の13日の午前中に行われました。蒸篭(せいろう)で蒸した米粉を、白いままのほかに青(水色)や赤(ピンク)・緑(若草)・黄色など、いろいろな色に染めてよくこねます。作る動物は涅槃図に描かれているものなら良いとのことで、蛇やタヌキ・犬・鳩・ウサギなどが中心です。また、動物によって特に色などが決まっているわけではなく、動物の形のほかに丸い団子も同時に作ります。材料となる米は団子をいただく檀家から供えられたもので、今年は一斗三升の米粉とのことでした。ずいぶん多いように思えるものの、昔に比べるとずいぶん量は減っているそうです。実際に団子を作るのは檀家の婦人部の女性たちで、いろんな話をしながら和やかな雰囲気の中で昼時までには完成し、団子は翌日までそのまま置いて乾燥させます。
色付きの丸い団子も作られる
14日の涅槃会の前に各家に配る団子を袋に詰める
それぞれ袋に詰められた団子
翌14日は、まず12時に寺に御詠歌を上げる女性の方々が集まり、各檀家に配るために袋に動物と丸い団子を入れていきます。今年は涅槃図にお供えするものなどを除いて全部で87袋分を用意することになっており、数は全体の量を調整しながら詰めていきました。
特に一袋の中にどの動物をいくつ入れるという決まりはなく、ただ蛇は喜ばれるので蛇だけは必ず入れるようにします。各家に配られた団子は家々によってさまざまで、ある家では一年中仏壇に置いておき、新しいものが来たら昨年の分を下ろして朝の味噌汁に入れて食べ、別の家では蛇だけを仏壇に置いてそのままにしておき、他の団子はすぐに食べてしまうと言います。そして午後2時から始まった涅槃会は住職と副住職の読経や御詠歌があり、15分ほどで終了しました。この後、涅槃図の前に置かれていた団子は各家に配られることになります。
もちろん団子は涅槃図にも供えられる
涅槃会は午後2時から始まった
この家では蛇だけを高杯に乗せて、一年間仏壇に供えておく。
ここで紹介した動物の涅槃団子作りは近隣の寺院では行われておらず、大変珍しいものです。行事の由来としては、先代の御住職が、曹洞宗大本山の総持寺(火災をきっかけに明治末に現在の横浜市の鶴見に移転)があった石川県鳳至郡門前町の出身で、子どもの時に近くの総持寺祖院に入山しており、この修行時代を思い出して功雲寺で始められたとのことです。このような離れた場所から伝えられた行事がすっかりこの地域に定着していることは、行事や文化の伝播や流通といった側面からも注目されるところで、今後とも長く続けられていくことを願わずにはいられません。なお、今回の調査に当たっては、功雲寺の御住職をはじめ、檀家の婦人部及び御詠歌の皆様など多くの方々に多大なご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。
小田急線柿生駅から歩いて20分ほどの所にある麻生不動(川崎市麻生区下麻生)は、昔から火防せの不動として有名で、古くから火難から守ってくれる不動様として信仰されてきました。毎年1月28日の初不動の日が縁日で、この時ばかりは普段はひっそりとしている境内が大勢のお参りの人々で大変な賑わいを見せます。お堂に到る参道には多くの露店が並び、食べ物を売る店や金物類・日用品などさまざまなものがある中で目に付くのがだるまを売る店で、この縁日が「だるま市」と言われるゆえんになっています。だるまが売られるようになったのは明治の終わりころで、平塚近辺で作られている相州だるまが中心です。
寛政11年(1799)の題目塔。周辺六か村の講中によって造立された。講中では助け合って先祖の霊を弔い、信仰を深めたとされる。
浄慶寺本堂。この時期にはあまりなかったが、アジサイなど折々の花が咲くことで有名。また、表情豊かな石造の羅漢像が出迎えてくれる。
常安寺境内の河童像。この寺には河童にまつわる伝説が多いという。
この地域の鎮守である月読神社。一時、周辺の神社と合祀されて麻生神社と名づけられたが、月読神社の社名を遺すということで再びこの名となった。
麻生不動の初不動を示す幟。階段下の規制でお参りまでもう少し。
麻生不動の縁日でもう一つ忘れてはならないものがあります。それは穴あき銭で、これを祀ると火傷や火難を防いでくれるといわれ、毎年お参りして穴あき銭をいただいて前年のものはお返しするとされていました。市内でも盛んにお参りに行くことがあり、例えば緑区相原ではこの穴あき銭をヒジロ(囲炉裏)のオカギサマ(自在鉤)に吊るしておくと、子どもがヒジロに落ちない、火傷をしない、南区上鶴間では穴に針金を通してオカギサマに吊り下げると火災除けになる、南区下溝でも第二次世界大戦以前にはほとんどの家が麻生不動に行って穴あき銭を替えていました(『相模原市史民俗編』)。同じく下溝の古山地区では、この日に若い衆が麻生不動まで自転車で行き、古い穴あき銭と新しいものを取り替えてから日野の高幡不動に回り、さらに八王子で遊んで帰ってきたという話も残っています。また、不動堂の境内には、昭和55年(1980)12月に建てられた城山町(当時)川尻地区の人々による不動講結成50周年の記念碑があり、津久井地域にも信仰が広まっていたことが分かります。
麻生不動本堂。実に大勢の参拝者がいた。
境内や参道には多くのだるまを売る店があった。
今では少なくなってしまったが鍬や刃物等を売る店も出ていた。
不動が描かれた御札と現在授かることができる穴あき銭。穴あき銭はもちろん模したもの。
本館で市民とともに活動している民俗調査会では、毎月市内及び周辺地域のフィールドワークを行っており、今回は市内各地でもお参りに出かけた麻生不動の初不動の見学会を行いました。当日は麻生不動だけでなく、途中のいくつかの神社や寺院、石造物なども見学しながら歩いていきましたが、麻生不動に近づくにつれて物凄い人出で、境内に入る階段では入場制限が行われるほどでした。こうした多くの参拝者は、お参りを済ませると御札や穴あき銭をいただき、あるいはだるまを選んだりして一年に一度の縁日を楽しむ様子が見られました。それは民俗調査会の会員も同様で、かつてこの不動様に火難や子どもの火傷除けを願った人々の想いの一端に触れることができました。今後とも機会を捉えて市内及び周辺地域のさまざまな行事について、さらに「民俗の窓」で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
※今回紹介する写真は、民俗調査会の小澤葉菜さんが撮影したものです。
今年(2016年)の調査では、旧津久井町とともに津久井地域を中心に他の地域でも写真を撮影することができました。前回(№86)に引き続いて、それ以外の地区の様子を写真とともに紹介します。
【10日】
葉山島下倉(旧城山町) 葉山島では各集落が相模川沿いに立てる。
葉山島中平 竹を高く立てる様は見栄えがする。
葉山島藤木 各地区で燃やすのは翌週になる。
【11日】
城山(旧城山町) 当日午後6時点火予定。14日点火を今年から今日に変更した。
小倉(旧城山町) 小倉では三か所で実施。午後2時30分に点火し、訪れた際にはすでに団子焼きが終了に近くなっていた。
千木良岡本(旧相模湖町) 集落の畑の中に高いものを作っている。
千木良西 千木良地区の西側の鎮守である牛鞍神社境内に作られている。
千木良赤馬 同地区の東側鎮守の月読神社境内に見られる。
寸沢嵐道志北 道志では各地区で道祖神のイエを作るが、まだ昨年のままでここでは新しいものができていない。
寸沢嵐道志南 道志北と同様に古いままである。
寸沢嵐道志舘 ここでは前日の10日に新しいイエが作られた。
寸沢嵐沼本 沼本では二か所で行われ、ちょうど下地区が公会堂の敷地で準備中だった。点火は14日夕方。
寸沢嵐関口 午後3時点火。場所は古くから現在でも行われている川の辺だが、かつては14日朝5時に点火していたという。
南区当麻中・下宿 毎年、道祖神の上にお飾りで小屋状のものを作る地区だが、今年はトタンの屋根ができていた。
多くの市民の皆様のご協力を得ながら毎年進めてきたどんど焼き調査も今年で13年目を迎え、かなり各地区の状況が分かってきました。 そして、今年も例えば青野原地区で道祖神の幟があったり、道祖神にお参りしてから点火する例(鳥屋道場地区も道祖神の前で実施)が見られるなど、いくつかの新たな発見があったり、日取りの変更を含めて変化しつつある地区も認められます。もちろんまだ情報がない地区もありますので、今後とも調査を継続して各地の事例をさらに集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
毎年恒例となった1月のどんど焼き(団子焼き)の調査は、今年(2016年)は29年度刊行予定の津久井町史文化遺産編の基礎資料とするために、緑区の旧津久井町域を中心に9日(土)~11日(月・祝)にかけて各地に伺いました。この成果は本書の中にも反映させますが一足早くその様子を写真で紹介します。今回掲載するのは、9日から順に加藤が訪れた地区を中心とし(10日と11日には五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんにも同行していただきました)、同時に何か所でも行なわれるために手分けをして他の職員が回った他の所については取り上げていません。なお、もちろん今回撮影できていない地区も結構あり、そうした地区については改めて補足する予定であることを付記します(民俗担当・加藤隆志)。
【9日】
三ヶ木中村 午前9時点火の様子
青野原上原・下原・嵐 道祖神の幟があるのは珍しい。現在でも、以前に実施していた道祖神碑に酒をお供えし、お参りしてから点火する。
青山宮前・宮下 青山神社での準備の様子。
青山大堀 準備の様子。昔はもっと大きいものを作り、場所も動いているという。また、かつては子どもたちがすべて行い、大人は手を出さなかったという。
青野原前戸 道祖神碑の所に正月飾りが納められていた。どんど焼きは翌10日。
【10日】
旧津久井町だけではないが、第二日曜日である10日に多くの地区で実施された。
根小屋寺沢 正月飾りを積んだものをヤグラと呼ぶという。
根小屋谷戸 午前7時点火し、火が落ち着いたら団子を焼く。
根小屋明日原 根小屋地区は10日午前に点火する地区も多い。
三井 集落の新年のつどいとしてどんど焼きが行われ、多くの人が集まる中、お囃子も奏でられた。
青根東野 隣りの上青根地区とともに、大きなものが作られる。
青根上青根 山間の風景の中に大型なものが映える
青根荒井・平丸 合わせて36世帯ほどの小さな集落でも行われる
【11日】
根小屋土沢 燃やすものの作り方が特徴的である。
根小屋根本 団子を焼くのにちょうど良い火加減にするため早目に点火する。
又野 どんど焼きの後には餅つき大会や新年賀詞交換会も予定され、賑やかに行われた。
緑区三井の名手地区は相模川の左岸、尾崎咢堂記念館の横を川に向って下り、名手橋を渡った所の地区です。名手地区には東光寺という真言宗の寺院のほか、そのすぐ近くに東光寺持ちの薬師堂があります。今回は、この薬師堂で10月12日(月・祝)に行われた「数珠念仏」を紹介します。
正面から見た薬師堂
薬師堂はその名の通り薬師如来を祀り、地区の自治会館の奥が堂となっています。『津久井郡文化財寺院編』に拠ると、かつては地域の女性たちによって、1・3・10・12月の12日の夜に数珠念仏が行われていました(本が刊行された昭和61年[1986]当時は昼間)が、現在では3月(薬師堂が火災に遭った月)と10月12日の年二回になっているとのことです。今回は8名の女性が集まり、午前11時30分頃から始まりました。
まず鉦を叩きながらいくつかの念仏を唱える
最後の「おじゅず」で数珠を回す。
集まった方々は薬師様の前(厨子の中に祀られていて、開扉はしません)に円形に座り、まず鉦を叩きながら、「薬師様」「観音様」「地蔵様」「不動様」「金比羅様」「大師様」の順に念仏を唱えていきます。本来は各五回ずつとのことですが、今回は三回ずつ唱えられました。そして、最後に「おじゅず」になり、この時に長い数珠を時計周りとは反対に回して、大珠が回ってきた方は持ち上げて拝むようにします。なお、これらの念仏の詞章は、他のものも含めて『津久井町郷土史第九集(三井・名手編)』の中に記されています。
数珠の大珠が回るといただくようにする
数珠で体の痛いところなどを叩く
このように数珠念仏は約20分弱で終了して、当番の方を中心に昼食の準備となりますが、使い終わったばかりの数珠で参加者の背中や腰を叩くことも見られました。例えば肩こりがある人が数珠で肩を叩くとコリが取れるなど、体の痛いところに当てて叩くと良くなるとされているとのことで、参加者はそれぞれ気になる場所を叩きました。ちなみに今回は津久井町史編さんのための調査として町史の職員とともに訪れ、私たちも叩いていただきました。そして、この後は昼食となり、かつては参加者は前後に体をゆすりながらかなりゆっくりと念仏を唱えたため時間が長かったことや、中学生くらいまでの子どもに終了後に菓子を配り、この菓子は地元から出ている人が数珠念仏に合わせて送ってくれたもので、子どもは菓子をもらうのが楽しみだったことなど、地域のいろいろなお話しを伺うことができました。
数珠念仏に使われる数珠
「民俗の窓」でも、例えばNo.81田名新宿の観音堂のオコモリやNo.77下溝古山の地蔵の念仏など、各地の念仏の様子を紹介してきました。その中では、この数珠念仏は最後に念仏の際に用いた数珠で参加者の体を叩くという点が他の地区ではほとんどなく、病に悩む人々を救ってくれる薬師如来を祀るお堂で行われる行事として、特徴あるものと言うことができます。他の地区と同様に、今後の行事の継続については大きな課題もあるとのことですが、こうした行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません。これからも「民俗の窓」で各地の行事を取り上げて紹介するとともに、平成30年3月刊行予定の『津久井町史文化遺産編』にも反映させていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会が定期的に交流会を行っていることは、これまでも「民俗の窓」や「ボランティアの窓」でも紹介しており、今回は10月4日に厚木市を歩きました。県内の石仏等に用いられる石材として、主に県西部の安山岩系と厚木市七沢や清川村煤ヶ谷などで産出される凝灰岩があることが知られていますが、今回の交流会では特に近世中期以降に盛んに用いられた七沢石の細工場跡と考えられる場所の見学を中心に、ほかにも特徴ある石仏を見ることを目的に実施しました。当日の参加者は、相模原から16名、横浜から6名の会員のほか、両館の民俗担当の学芸員に加え、石材ということで本館の地質担当学芸員、ご当地の厚木市郷土資料館長、さらに来年春に石の文化をテーマとする企画展を実施する予定の県立歴史博物館の学芸員も参加するなど、賑やかな交流会となりました。
武神像が彫られた地神塔。左横に俵石も見える
熱心に地神塔などを見学する参加者。住宅地の中に思いもかけないものがある
当日は、まず本厚木駅周辺の見学ということで、相模川の厚木の渡し場跡のほか、道祖神碑や地神塔などが祀られている稲荷社などに行きました。地神塔は、ほとんどが「地神塔」や「堅牢地神」などの文字を記したものであるのに対して、この地神塔は地神講の際に飾る掛軸に描かれた武神像が彫られており、珍しいものです。また、俵の形をした小さな俵石もこのあたりではあまり見かけないものといえます。
「信州高遠住 石工 弥市」の銘文
道祖神がまとまってあり、見ごたえがある
次にバスに乗り、愛名地区の妙昌寺にある二基の題目塔に向かいました。これは信州高遠石工が七沢石を用いて作った厚木市内最古のものとされ、七沢石の石場の切り出しと高遠石工の係わりを示すものとして知られています。残念ながら宝永7年(1710)のものは石工名の部分の剥離が進んでいますが、明和2年(1765)の題目塔は石工弥市の銘もはっきり読むことができます。続いて式内社と伝える小野神社において、地区内にあったものを集めた5基の道祖神を見学しました。文化3年(1806)の双体像のほか、3基の双体像と県内では相模川中流域に分布する1基の単体像も眼にすることができます。
少し崖状になった場所に目当ての石材が見られた
中央部に細工跡が分かる
午後からはいよいよ七沢石の細工場跡で、広沢寺温泉入口バス停から30~40分ほどの平坦な道や登り坂を歩いてようやく到着しました。道沿いの少し沢を上った当たりに、ノミやクサビを入れた跡などが残った石をいくつか確認することができ、その場で地質の観点からの説明を聞いてまた来た道を引き返してバスで本厚木駅に向いました。
当日は天気も良く、絶好のフィールドワーク日和で少し暑いくらいであり、さらに、途中は意外と歩く距離が長く、午後からの坂道も大変でしたが、それでも充分に目的を果たすことができ、充実した楽しいフィールドワークを行うことができました。今後とも両博物館の市民の会の一層の交流を図るとともに、当然のことながら相模原でも七沢石の利用をした石仏は多く、また、高遠などの石工銘が入った作例も残されています。こうした石仏に関しても、今後この欄で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
7月から8月にかけては祭りの時期で、市内でも各地で夏祭りが行われます。そうした祭りの様子はこれまでも「民俗の窓」で紹介してきましたが、今回は緑区中野地区の中野神社の祭礼について、祭りで曳かれる山車を中心に紹介します。
中野神社は旧津久井町の中野地区に鎮座する神社で、天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』には「諏訪神社」とあり、文久2年(1862)には中野神社の社号を許可されたと言います。祭礼は7月28日で、現在では7月の最終土・日曜日(ただし、30・31日に当たる場合は一週間前の23・24日)に行われ、今年は25・26日になりました。また、本来の当たり日の28日には今でも神事が執り行われています。
中野神社を出発した宮神輿。神輿は土曜日に担がれる
森戸の山車
仲町の山車
上町の八王子から譲り受けた山車。今回の写真にはないが人形を乗せた台も残っている
中野神社の祭礼で特徴的なのは、土曜日に神社の宮神輿の巡行があり、翌日の日曜日に森戸・仲町・上町・奈良井・大沢・川坂の中野地区に六つある各自治会の山車が曳かれることです。今年は25日(土)の午後に中野神社の宮神輿が氏子地区を巡行し、さらに六基の子ども神輿も各自治会ごとに担がれました。ちなみに宮神輿は昭和29年(1954)に浅草から購入したもので、当時の氏子総代が一緒に写った記念写真が残されています。山車の運行は前述のように26日(日)で、今までも「民俗の窓」で紹介してきた民俗調査会有志で山車の運行の一部を見学させていただきました。
奈良井の山車
大沢の山車
川坂の山車。中央はかつて使用されていた山車。手前は太鼓車
出発する川坂の山車
当日は、まず午前中に各自治会の本部に置かれている山車を順番に見学していきました。そのなかには、「民俗の窓」No.38でも紹介した、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から上町が譲り受けた山車もあり、雄略天皇を乗せた人形山車の形態で、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされています。そして、昼食後には六基の山車が一同に集まって神事が行われる、旧道とバイバスの合流点付近の大沢本部前に赴き、神事の様子や六基の山車がそれぞれ賑やかに囃子を行う叩き合いを見学しました。この後、山車は順番に中野地区の旧道の町並みを囃子を奏でながらゆっくり進み、各自治会の本部を夕方にかけて順番に回っていきます。こうした山車の運行は夜にも行われ、真夏の夜に華やかな囃子の競演が行われることになります。
大沢本部での囃子の叩き合い。それぞれの山車が賑やかに囃子を奏でる
中野の町を山車が連なって進む様子は見事である
川坂本部での叩き合い。この後、夜に掛けて山車の巡行が行われる
夜の囃子の叩きあいも見事である(安達美紀さん提供)
この日は気温35度を越えるかという激しい暑さでしたが無事に祭りが行われ、勇壮な山車の巡行と囃子を楽しむことができました。今後とも市内各地の祭りについて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
「民俗の窓」No.54(平成25年5月)では、南区当麻地区下宿の地神講の掛軸等を紹介しましたが、ここでは中央区田名・半在家(はんざいけ)地区の皆様から同様の掛軸や帳面などが博物館に寄贈されましたので紹介します。
地鎮講に掛けられた地神の掛軸(全体)
地神講(じじんこう)は、農業の神、土地の神を祀る信仰的な集まりで、地神講では地神像が描かれた掛け軸を飾って豊作を祈りました。こうした各地に見られた地神講も時代の流れの中で中止することが多くなり、半在家でも昨年の11月22日に実施された講(出席者12名)を最後として解散され、地鎮講(半在家では「地鎮講」と称していました)の掛軸と帳面類を御寄贈いただきました。
今回、御寄贈いただいた資料は、掛軸が2点、帳面・ノートが5点で、掛軸は手書きの地神像が描かれたものと江戸時代から伝わるとされる女神像です。第二次世界大戦以前には、この地域に地神講をはじめ、二十三夜講や二十六夜講、稲荷講、伊勢講などのさまざまな講が行われていたようで、それが戦争が激しくなって中断を余儀なくされました。戦争が終了した昭和二十六年(1951)に地鎮講として一つにまとめて復活し、当初は半在家第五区の13軒(古くは半在家全体で行ったといいます)が、初日に男性、二日目は女性が持ち回りの宿に集まって講をしていました。
地神像は吉川啓示画伯が描いた
地神像の掛軸は、表に「地鎮様御奉納箱」、蓋裏に「昭和二十六年三月二十四日 地鎮講 半在家第五組」と記された軸箱に入っており、やはり地神像に多い、右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ武神像が描かれています。この掛軸は上溝出身で地元の著名な日本画家であった吉川啓示画伯(1910~2006・日本美術院特侍)に依頼して描いてもらっており、市内の美術資料の面からも注目されるものといえます。また、もう一点の古い掛軸は勢至菩薩のようで、二十三夜講などに使われていたと考えられます。元々は地鎮講とそのほかの講とはもちろん別のものながら、復活した際にはいずれも両方の掛軸を掛けて講を行い、線香を上げて拝んでいました。
勢至菩薩と考えられている掛軸で、古くから伝わっていたものである
5点の帳面類のうち、一点は天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」です。半在家には伊勢講の伝承があり、江戸時代には伊勢講が流行って資金を集め、一生に一回は伊勢参りをするのが目的であったものの、実際は皆で伊勢参りをすることはできなかったそうです。また二点は、明治19年(1886)と大正2年(1913)の二十三夜講に係わるもので、講員や当番、規約などの記載があり、後者には毎年4月13日と10月13日にお日待をすることなどが見えています。
地鎮講の推移が分かる帳面とノート
帳面の最初には地鎮講の目的が記されている
天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」。当時も伊勢参りが行われていたことが分かる
残りの二点が「地鎮講人名并記録帳」と記された帳面とノートで、帳面には昭和26年3月24日から昭和51年10月3日まで、ノートには昭和52年以降のことが記されています。前者の帳面の冒頭には、上記のような復活の経緯や全員が介して農作物の豊穣を祈り、近隣協力和合して農家の生活を向上を遂げるとする地鎮講の目的が記され、当初は13名で開始されたことがわかります。そして、この帳面やノートには、講の開催日や当番・会計はもちろんのこと、講の場で行った申し合わせや協議事項等も書かれており、地鎮講の推移や地区で話し合われたさまざまな事柄についても知ることができます。
その内容は長い時間の経過の中で大部に渡り、とてもここで多くを紹介することはできませんが、例えば復活後10年を経た昭和36年(1961)からは、女性の慰労として近隣へのバス旅行が開始されています。また、一般に地神講は春と秋の彼岸の中日に近い戊(つちのえ)の日である社日(しゃにち)であることが多く、半在家でも毎年3月か4月と9月あるいは10月に行われました。それが昭和62年(1987)から春の年に一回、3月下旬~4月中旬になり、平成9年(1997)からは9月下旬~10月中旬の秋一回に変更されました。平成18年ころからは地鎮講の継続についての議論がなされ、その後はこの件に関して毎年のように話し合われています。
このほかにも、地域内の道路の改修や自治会館の建設等が話題になったことなども見えており、この帳面やノートは地鎮講の信仰に係わる推移はもちろんのこと、地域の中の社会生活を辿る上でも興味深い資料と言うことができます。そうした貴重な資料を御寄贈いただいた田名・半在家の地鎮講の皆様に深くお礼申し上げるとともに、今後ともこのような資料が示すさまざまな地域の歴史や文化について、お伝えしていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
田名新宿集落は田名地区に11ある古くからの集落の一つで、他の相模川に近い田名の集落とは異なり、上溝からほど近い場所にあります。今回紹介するのは、田名新宿で行われているオコモリと呼ばれている行事で、毎年、4月18日と10月18日に自治会館と兼ねている観音堂において、自治会婦人部の行事として行われています。そのため参加者は準備に当たる方を含めて全員女性で、婦人部長と副部長(2名)の三役が進行等を担当し、そのほかの役員は、基本的には全く同じことを行う春と秋のオコモリの際に半数ずつ出て準備などに当たるとのことです。
当日は午後7時30分から開始の予定ですが、7時頃にはすでに終了後に参加者に配られる菓子等を分ける準備が始まっており、机にはオコモリで唱える和讃(念仏)の帳面も用意されていました。その内容は、表題に「観音様念佛帳」(昭和55年5月作成)とあるものに「観音様(南無観世音菩薩と9回くりかえす)」・「お子守り念仏(3回くりかえす)」・「お拝み念仏」・「お茶念仏」が記され、別の帳面は「水子供養和讃」とあり、この中にも「お子守(こもり)念仏」とあるように、観音様は昔から安産の神として地域の人々の深い信仰を集めてきました。
参加者は、まず観音像等に線香をあげて拝む
先にろうそくに火を灯しておく
オコモリでは、帳面を見ながら一同で和讃(念仏)を唱える
途中、短くなったろうそくを代えて、新しいろうそくを灯す
新しいろうそくの下に短くなったろうそくが見える。このろうそくを貰って安産を願う
オコモリが始まる前に、参加者は観音様に線香をあげて拝んでから席に着きます。そして、部長の挨拶等があり、以前録音したテープを流しながら前述の和讃(念仏)が開始されました。途中、お拝み念仏が終了した後には、参拝者(婦人部の役員以外の参加者)にお茶と少しの砂糖が出され、砂糖を少し舐めてお茶を飲み、のどを潤してから引き続いてお茶念仏となりました。また、オコモリが始まる前には、観音様の両脇の太いろうそくとは別に小さいろうそくも何本か火を灯しますが、このろうそくは燃え尽きる前のかなり短くなった時に新しいものに取り替え、先に燃やして短くなったろうそくは捨てずに置いておきます。オコモリで灯した短いろうそくを持ち帰り、お産を控えている家では丁重に灯して安産を祈ったり、出産が始まった際に灯すと安産だとか、ろうそくが燃え尽きるまでに早く生まれて陣痛も軽く済むと言われているそうです。和讃(念仏)は約25分ほどで終了し、その後は全員配られた菓子や茶を飲んで歓談となりました。
観音堂がいつから祀られているのかはっきりしないようですが、現在、91歳の女性の方が結婚した70年ほど前にはすでにこうした形で行われており、観音様の厨子を開けてお姿のご開帳をし、ろうそくを灯して念仏を唱えて観音様を迎えるオコモリが行われていて、安産のご利益があるとされていたとのことです。今回のオコモリでも、子どもが無事に生まれた家がお礼のお参りに来られたり、ろうそくを近所の人から貰ってくるように頼まれたという話を伺うことができました。
相模原市内では、例えば「民俗の窓」でも紹介した南区下溝古山の地蔵は子育て地蔵であるとともに安産の地蔵としても信仰され、中央区上溝四ツ谷にも安産地蔵があり、ここでもお産の時にはろうそくの短いものを借りて行き、お産が始まると灯したとのことで(『内田要寿と上溝』)、こうした信仰が各地にあったことが確認されます。いつの世も、子どもの安産を願う親や地域の人々の姿は同じです。こうした子どもたちが無事に生まれ、あるいは健やかに育つことを祈る行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません(民俗担当 加藤隆志)。