相模原市立博物館
  • Home
  • イベント
    • イベント
    • 企画展・ミニ展示
    • 講座・講演会等
    • 星空観望会(休止中)
    • 生きものミニサロン
    • イベントニュース
    • 過去の企画展
  • プラネタリウム
    • プラネタリウム
    • 番組紹介
    • 投影・上映スケジュール
    • 団体専用枠用プラネタリウム番組紹介
    • 今月の星空
  • ご利用案内
    • ご利用案内
    • 開館時間・入館料
    • アクセス
    • 団体でのご利用
      • 小学校・中学校
      • 幼稚園・保育園
      • 各種予約受付日早見表
    • 忘れ物及び落し物・その他お問い合わせについて
    • 博物館までの案内看板をたどろう!
  • 博物館の概要
    • 博物館概要
    • 刊行物
      • 図録・研究報告など
      • 年報
      • 市史刊行物
    • 博物館協議会
  • 施設と展示
    • 施設案内
    • 常設展示
      • 1台地の生い立ち
      • 2郷土の歴史
      • 3くらしの姿
      • 4人と自然のかかわり
      • 5地域の変貌
      • 天文展示室 宇宙とつながる
    • 天文研究室・市民研究室
    • ミュージアムショップ
  • リンク
    • リンク
    • ネットで楽しむ博物館
    • どこでも博物館
    • 博物館の窓
    • 発見のこみち
    • 学芸員出前講座〜どこでも博物館〜
    • 相模原市立博物館の職員ブログ
    • プラネタリウムリンク
  • 所管施設
    • 所管施設
    • 尾崎咢堂記念館
    • 吉野宿ふじや
  • 博物館資料の利用について

Author Archives: admin

歴史の窓(平成24年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
  • 「教科書」二題~戦時下の少年兄弟を思う(平成24年12月)
  • 戦地から故郷への便り~親子二代の軍事郵便を調べて(平成24年8月)
  • お江戸日本橋~景観も大切にした咢堂市長(平成24年5月)

 

「教科書」二題~戦時下の少年兄弟を思う(平成24年12月)

  去る10月、緑区在住の方から連絡が寄せられ、ダンボール箱2つにいっぱいの書籍類を点検する運びに。御本人曰く、「爺さんやオヤジたちが使ったものだけど、役立ちそうなものがあれば持っていって構わないよ。」とのこと。そこで箱の中身をざっと眺めたところ、明治期と昭和戦中期の教本類が多い印象を受けました。全件チェックし、状態の悪いものや一般書(娯楽本)を除いて“役立ちそうな”52冊を寄贈していただくこととなりました。その中から希少性を感じた「教科書」にまつわる話題をお届けします。

1つ目は、『警察実務教科書(警視庁警務部警務課教養係編)』。昭和8(1933)年9月から13(1938)年3月までに発行された5冊がありました。もちろん非売品です。これらは、寄贈者の父君(大正9(1920)年生・津久井出身)が<少年警察官>として警視庁Y警察署に勤務していた時に使われたものでした。<少年警察官>とはあまり耳になじみのない言葉ですが、もちろんこれは30年以上も前に流行したギャグ漫画の主人公が自称したものとは違い、戦前にれっきとして存在した未成年警察職員のことを指します。狭義には司法警察権をもった<巡査>もいたようですが、多くは内部庶務に就いた15歳以上20歳未満の少年たちの呼び名だったのです。実際、Y署に配属された父君の名を昭和15(1940)年警視庁職員録に<書記(少警)>として見出すことができ、別の書類から警視庁少年警察官第1期卒業生であったことも分かりました。

警察実務教科書(見開きは第二巻)
警察実務教科書(見開きは第二巻)

  右の写真が、該当の教科書です。第二巻(犯罪捜査の総論・各論)、第三巻(地理編~東京の地理と警察署)、第四巻(保安警察編其一~安寧・風紀・興行の3警察分野)、第五巻(保安警察編其二~交通・工場・建築の3警察分野)、第六巻(衛生警察編~衛生・医務・防疫・獣医の4警察分野)という具合で完全揃いでない点が残念ですが、市内に残された資料から帝都・東京の戦時治安を守る教程の一端を知ることができ望外の喜びでした。さらには『警察練習要書』『警察書道教本』なども見受けられたほか、『受験の研究 警察版』『受験と準備 警察版』や尾崎行雄(咢堂)が会長職を務めた大日本国民中学会発行の『正則 中学講義録』も大切に保存されており、必要な知識と教養を身につけ成年後には正規の警察官となれるよう一生懸命だった姿がしのばれました。

 もう1つは、下の写真の相模陸軍造兵廠技能者養成所で使われた各種『教程』。昭和16(1941)年11月から17(1942)年8月までに発行された17冊が残されていました。内訳は16年編さん13冊及び17年編さん4冊で、寄贈者の叔父が養成工員科第1学年(18歳ころ)と第2学年(19歳ころ)の時に支給されたものです。表紙には、「相模陸軍造兵廠技能者養成所」の角印と「127」「388」の番号印が押されています。番号は、それぞれの学年での生徒番号であったことが容易に想像できます。また別の書籍に自書した内容から彼は、廠内にあった生徒舎の第6寮14号室に寄宿していたことも判明しました。農家の次男坊も兄と同じく津久井の地を離れ、同じ年頃の仲間と肩を寄せ合い奮励努力していた光景が浮かんできました。

陸軍兵器廠発行の各種教科書 (見開きは16年編さんの物理及化学教程)
陸軍兵器廠発行の各種教科書
(見開きは16年編さんの物理及化学教程)

 ともかく、館蔵の相模造兵廠関連実物資料はわずかな図面類以外には存在しておらず、今回の寄贈によってその数を少し増やすことができました。一方、教科書という点では造兵廠に隣接した陸軍兵器学校の充実した資料をこれまで収蔵していることから、教養課程用と専門課程用で構成された当該資料との比較を行う意味でも重要性が高まるものと考えます。

閑話休題。3つ違いの兄弟は、その後も別々の道を歩んだそうです。兄は応召により南方戦線に従軍し、復員後は警察官にはならず津久井で家業の農業を継ぎ、弟は工員生活を経て、終戦後は横浜で家具職人になったとお聞きしました。今回の貴重な資料との出会いに及び、あの重苦しい時代の空気の中で大人になる一歩手前の少年が何を吸収し、将来に対し何を思ったかを考えずにはいられませんでした。そんな気持ちを乗せながら、未成年の若者の生きた証しが詰まった本のホコリを払ったのでした。(歴史担当:土井永好)

 

 

戦地から故郷への便り~親子二代の軍事郵便を調べて(平成24年8月)

美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便 (明治38年12月12日)
美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便
(明治38年12月12日)

 先月(平成24年7月)、手紙・軍隊手帳・日の丸寄せ書きなど50点ほどの戦争関係資料が寄贈されることとなり、事前にその内容について調べました。持ち主のお話を伺いつつ1点ずつ中身を明らかにしていったところ、全体の6割は軍事郵便で、持ち主の祖父が日露戦争に出征した時と父親が日中戦争に従軍した時のものがそれぞれ14枚ありました。当館所蔵の資料でも親子二代に渡る軍事郵便は見受けられず、貴重な出会いとなりました。

大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に 書かれた日中戦軍事郵便 (昭和18年8月8日?)
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に
書かれた日中戦軍事郵便
(昭和18年8月8日?)

 持ち主の祖父は、南多摩郡忠生村の生まれで、明治38年6月から7月初めごろに、物資の輸送を主な任務とする第3軍第1師団第26補助輸卒隊第1小隊第1分隊に入隊しました。軍事郵便を消印等の日付順で並べたところ、部隊の出国から帰国までの動きがわかりました。当初は、世田谷下北沢の森巌寺(しんがんじ)に駐屯し、その後は品川、広島・宇品(伊予丸乗船)、大連、鉄岺(軍務地)、大連(阿波丸乗船)、似島・広島、品川、下北沢、八王子経由で帰郷という、約8か月の流れが追えました。残された軍隊手帳にも従軍歴が明記され、これを補っていました。祖父の父親宛の14枚の便りからは身体の健康を通じて任務を無事に果たしたことが読み取れましたが、日露戦争を題材にした田山花袋の『一兵卒』に表現されたような悲惨さは手紙から読み取れませんでした。

 持ち主の父親は大野村出身で、昭和17年1月10日に牛込戸山町の近衛騎兵第1連隊東部第4部隊に入隊後、3月下旬ごろ中国大陸に渡ってハルビンの満州第92部隊に配属されました。この部隊は満州捜索連隊の配下にあったようで、演習の様子を伝えていることから歩兵部隊と同様に厳しい斥候・偵察任務があったことと思われます。手紙はすべて相模原町渕之辺の長兄にあてて出されました。家族・親類や出征した友人らの安否を尋ねている内容がほとんどでした。郵便は、昭和18年の夏を境に途絶えます。理由は、今となってはわかりません。彼は、結果的に<シベリア抑留>を受けますが、無事帰国できたうちのひとりということでした。

こうして2つの世代の軍事郵便を眺めてみると、いくつかの共通点が見られます。まず、両方とも筆跡・表現が一致していないハガキが多いことや差出人・受取人に誤字があることから口述代筆が頻繁に行われていたことが伺えます。

手紙の内容では、本人の無事を知らせながら遠い故郷の家人や親類・知人の消息を問うものが多いことから、識字や筆上手の問題はあったとしても、検閲制度の下では無難な体裁とするためのやり方であったことが想像できます。映画やTVドラマで、兵士自らが鉛筆をなめなめせっせと内地に手紙を書くというシーンを一考させるものでした。近年、検閲を経た郵便文面を分析することで、戦地の知られざる軍事行動を浮き彫りにするという斬新な研究報告例が見られます。望郷の便り1枚にも、“歴史を叙述する”働きが隠れている訳なのです。

さて、盛夏8月は日露戦争、第二次世界大戦にとって重要な時季でした。先の大戦については言うに及ばず、日露戦争では第1回旅順総攻撃や遼陽会戦(明治37)、ポーツマス講和会議(明治38)がありました。今回、何の奇縁か、真夏猛暑の中の調査となりました。しかし、身近な地域の資料により110年前、70年前に徴兵された人の動きや思いを知ることができたのと同時に平穏な時を過ごせることをとてもありがたく感じた次第です。(歴史担当:土井永好)

※大詔奉戴日(たいしょうほうたいび):昭和17年1月から20年8月までの毎月8日に図られた国民の戦時体制動員運動

 

 

お江戸日本橋~景観も大切にした咢堂市長(平成24年5月)

 今年は、尾崎行雄が明治45年東京市長最後の年に米国ワシントンにサクラの苗木を贈ってちょうど百年となる記念すべき年であり、かの地で咲き誇る桜花とともに日米親善の輪も大いに広がったとの報道がありました。またこの時期になると、改めて第2・3代東京市長時代の尾崎の足跡を読み調べる機会が増えますが、今回は身近で意外な一例をお伝えしたいと思います。

日本国道路元標をもつ日本橋 (花崗岩製2連アーチの美しい外観)
日本国道路元標をもつ日本橋
(花崗岩製2連アーチの美しい外観)

 皆さんは正月の箱根駅伝をテレビ観戦されますか?選手たちが往路スタート後、復路ゴール前に必ず通過する「日本橋」。江戸の名残を留めるそれまでの木橋から堅牢豪華な石橋に生まれ変わらせたのは、何を隠そう桜寄贈1年前の尾崎でした。よく市長時代の2大業績として「都市改造と桜寄贈」が喧伝されますが(本人は回顧で桜寄贈を過小評価!)、あいにく日本橋の改架についてはあまり語られないようです。理由は不可解ながら、明治44(1911)年4月3日の新生日本橋開通式における市長祝辞で「…その堅固を図ると共に美観を添へんと欲し…」と述べたそうで、欧米都市並みの文明化象徴として再建した功績は大きかったと言えましょう。東京のみならず明治20~30年代の大都市整備は時まさに欧化猛追であり、<木・土から石・鉄へ>の変換期でした。しかし尾崎は、建設事業を単なる土木工事に終始させるのではなく、文明国日本の首都の顔づくりを念頭に“地景の美しさ”という考えとマッチさせることにとても苦心したのでした(皮肉にも高度経済成長期に日本橋は高速道路の直下に…)。この間の事情について彼は「都市の美観」(『美術新報』連載の談話集)の中で述べながら、<在来美観の保存と破壊>という理想と現実のギャップを吐露しています。

尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類)
尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類) 尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板
(仮名と漢字の2種類)

 桜木寄贈も橋りょう改築も公費事業、つまり東京市に暮らした人々の汗の結晶に他なりませんが、国会議員を兼務しながらの9年間、率先して市区改正や築港整備、水源林買収など帝都のインフラ整備を導いた尾崎の奮闘なくしては実現できなかったことでしょう。そして何よりも土木や美術の専門家ではない百年前の一政治家が、その外遊経験等から得た知見を施政に活かしたという歴史的事実(美観形成を含む建築条例案の検討をはじめとした都市デザイン)に感心させられるのです。

 さて遣桜百周年でタイムリーとはいえ、また尾崎ネタとなりました。いよいよ開業した東京スカイツリーへ行かれる前にぜひ一度、“咢堂の忘れ形見”重要文化財・日本橋をじっくりとご覧になられてはいかがでしょうか。(歴史担当:土井永好)

 

歴史の窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
  • 日本最初の留学生~伊東方成、三十にして立つ!(平成24年3月)
  • 明治天皇侍医の処方箋~東京の兄から上溝の弟へ(平成24年1月)
  • 軽井沢の咢堂翁(2)(平成23年9月)
  • 軽井沢の咢堂翁(1)(平成23年6月)

 

日本最初の留学生~伊東方成、三十にして立つ!(平成24年3月)

 前回「明治天皇侍医の処方箋」を閲覧された方々から「相模原出身にそんな偉人がいたなんて…」「もう少し方成について知りたい」など、多くの関心の声をお寄せいただきました。そこで蛇足ながら、日本史の隠れた1ページを飾るにふさわしい伊東方成の壮年時の動きについて紹介します。

  「文久年間和蘭留学生一行の写真」  ※1865年オランダ。  ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西  ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道 (国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)
「文久年間和蘭留学生一行の写真」
 ※1865年オランダ。
 ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西
 ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道
(国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)

 文久2(1862)年6月、幕府はオランダに発注した最大級軍艦(開陽丸と命名)の建造立会いと回航を名目として、若き有能な士分・職方16人を選抜し近代科学を本格的に学ばせるために初めて国外派遣しました。その中には、榎本武揚・赤松則良・西周ら維新後の新政府で手腕を発揮する面々がおり、時ちょうど脂の乗る30歳を迎えた伊東方成も長崎養生所での学友・林研海と一緒に医学を修めるため海を渡ることに。

 使節一行はオランダのハーグやライデンに居を構え各自の任務を果たしていきますが、伊東・林の両人はニューウェ・ディープにある海軍病院を拠点に他の仲間よりも滞在期間を延長して研さんに励みました。また伊東は、当地で「電信」を体験したようすで、アムステルダムにいる同僚・赤松に宛てた発信記録が伝わっており、“日本人初の電報利用者”としてのエピソードも残しています。

 明治元(1868)年12月の帰国後、伊東は宮内省典薬寮医師となり、名を玄伯から方成へと改めます(「方」は上溝村の実父・鈴木方策の1字に通じます)。翌年9月には大典医に昇進しますが向学の念冷めず、その1年後から3回の留学へ。再三の渡欧では特に眼科学研究に打ち込み、日本には無かった精巧な木製眼球模型の入手や視力検査表の翻訳などを行い、それまでの学恩に報いるため250ギルダー(現在の価値で推定500万円)をオランダ眼科病院に寄付し理事としてその名を留めるほどになりました。

 一方、帰国後には、箱館戦争の末に投獄された留学仲間の榎本を陰ながら支え、ついには榎本の新政府への出仕を仲立ちする役割も果たしました。ほかにも洋行経験の先輩であり榎本の助命にも尽力した福沢諭吉の病気(発疹チフス)治療に当たったことがわかっています。

 このように、方成には近代日本の知られざる立役者という側面もありますが、私には学問熱心で仲間思い、そして恩義に厚い幕末・明治人の姿が浮かんできます。その豊かな人間性は、きっと「三つ子の魂…」よろしく幼少時を過ごした上溝村の風土や人々との交流が育んだものなのでしょう。伊東方成(前名:伊東玄伯、鈴木玄昌)に関する内外の資料や情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報いただきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

 

明治天皇侍医の処方箋~東京の兄から上溝の弟へ(平成24年1月)

 

 昨年6月に、県内にお住まいの医師から上溝村出身の洋方医・伊東方成(いとう・ほうせい)についてのお問い合わせがありました。

 方成は、激動の幕末から維新期にかけて若い情熱を医学に捧げ、ついには従三位(じゅさんみ)勲一等宮中顧問官・侍医頭という栄職を極めた人です。彼の生涯は、『相模原市史』第二巻や市立中学校社会科副読本などで若干触れられていますが、その経歴に比べて知名度はあまり高くないようです。それは彼が若くして江戸へ出て、伊東玄朴(いとう・げんぼく)※の門弟・婿養子となったため、地元に関係資料がないことも理由のひとつと思われます。

 ところが、その問い合わせをきっかけに方成の生家をお邪魔した際、唯一伝来する方成直筆の書簡のすがたを知ることに…。今回は、この資料を調べる機会を与えていただいた御当主の承諾を得て、判読した書簡の概略を御案内します。

 明治28年10月の処方箋(一部) 「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
明治28年10月の処方箋(一部)
「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右) (写真左は伊東玄朴の墓)
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右)
(写真左は伊東玄朴の墓)

 書簡は2通ありました。1通は、納められた封筒の消印によると、明治27年5月9日の発信。もう1通は明治28年10月の書上げと思われ、封筒は付いていませんでした。ちょうど方成が、皇太子嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の御養育に精力を傾けていた時期です。2通の書簡には1年半ほどの時間差がありますが、中身はいずれも実家を継いだただひとりの弟(御当主の曾祖父)に宛てた処方箋と説明書きであることが判明しました。要約すると、慢性的な下痢症対策として<ホミカチンキ><アヘンチンキ><クミチンキ><ハッカ水><水>を適量調合し、1日3回の服用を勧めた内容となっています。チンキ剤の保管には気密容器を必要とし、当時の上溝(溝村)で簡単に入手できたかは定かでありませんが、方成の助力もあったかもしれません。

 方成は、明治31年に66歳で亡くなりました。亡くなる3、4年前に、4歳違いの年老いてきた実弟を案じて、晩年の宮中医師がふるさと・上溝へ宛てた貴重な手紙に出会えました。(歴史担当:土井永好)

※伊東玄朴(いとう・げんぼく)…蘭方医で後に幕府機関・西洋医学所の推進役。TVドラマ「篤姫」や「JIN-仁-」の登場人物にもなっています。

 

軽井沢の咢堂翁(2)(平成23年9月)

 「軽井沢の咢堂翁(1)」で紹介した尾崎行雄関係資料の所蔵者から、より詳しい調査のお許しをいただき、9月中旬に暑さまだ残る軽井沢の御宅を再訪しました。所蔵者には当館の調査に対し大きな理解と協力をいただき、関係氏名や資料自体の公開も快諾されましたので、支障のない範囲で示していくことにします(敬称略)。

 今回の訪問でも、所蔵者の話しぶりから、曽祖父・市村一郎と尾崎咢堂の親しい関係を垣間見ることができました。

村内遊歩中の休憩地にて (右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)  (「栽華園」所蔵)
村内遊歩中の休憩地にて
(右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)
(「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋  (「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋
(「栽華園」所蔵)

 尾崎は、軽井沢生活において元駅前郵便局を頻繁に利用しており、初代局長であった市村一郎との縁はそこから深まることに…。当の市村は、ちょうど一回り歳の離れた尾崎を兄のごとく敬い、地元の東・西長倉村(軽井沢町の前身)や周辺地の案内役を務めるなど家族ぐるみのつきあいを広げたとのことです。 そんな市村に尾崎も心を許し、公私に渡る交流を通じて地域の課題解決にも協力したのではないでしょうか。

 調査では、資料の分類や調査カードの作成などを行いました。総点数では、概要を把握した6月時点から30点ほど増加しましたが、時間の制約もあり、全体の3割を調べるに留まりました。

 これらの資料群は、生地・相模原(緑区又野)と結びつくものではないかもしれません。しかし、大正~昭和初期の人間・咢堂を知る上で、こんなに“匂い”のある資料はなかなかお目にかかれるというものでもありません。根気よく地道に調査を続けていこうと思います。 (歴史担当:土井永好)

 

軽井沢の咢堂翁(1)(平成23年6月)

 今春、長野県軽井沢町在住の方から尾崎行雄(咢堂)に関するいくつかの資料情報をお寄せいただき、去る6月末にはその概要を調べる機会に恵まれました。お持ちの資料は、所蔵者の曽祖父が避暑地に集う多種多彩な人物たちと親交を結んだ内容を示すものでした。中でも尾崎とやりとりしたものが一番多く見られ、日常生活での意外な面を今に知ることができそうな気配が…。

 尾崎は生涯、生活の拠点を方々にもったことは周知の事実ですが、東京市長時代は北品川(東海寺跡)と軽井沢(莫哀山荘)の二重生活を繰り返しました。特に再婚した明治38(1905)年以降は、職責の重荷から心身を解放してくれる信州北佐久の気候・風土が大のお気に入りだったことが随筆等からうかがえます。

現在3代目の倉賀橋銘板
現在3代目の倉賀橋銘板

 当日短時間ながら拝見した尾崎関係資料は、別荘である莫哀山荘の維持・修繕等に関わる通信文や在京家族からの便り、軽井沢での記念写真、揮ごう類など150点余りを数え、状態良く収蔵されていました。永く個人蔵であったため未出資料を多く含み、尾崎が土地の住民に慕われ、いかに交流していたかを物語る貴重な品々がそこにありました。

 一例を引くと、初代「倉賀橋」(現しなの鉄道の信濃追分-御代田駅間にある跨線橋)架工にまつわる資料。これは、隣村まで含めて生活の利便を図りたいという発起人たちの要請に応えて、用地の仲介や橋の命名、記念碑の撰文などに当たったことが分かります。尾崎が軽井沢の住人として関わった地域活動の一場面を伝える資料と言えましょう。このような未知の資料につきましても、今後の博物館活動に活かすべく調査研究を続けていきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

歴史の窓(平成22年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
  • 市域最北の寛文総検地帳などとの出会い(平成23年3月)
  • 相模原の”正倉院”に!?~博物館資料の保存(平成22年12月)
  • 博物館資料をスモークする!?~くん蒸消毒(平成22年10月)
  • 資料保管への第一歩~クリーニング(平成22年7月)

 

市域最北の寛文総検地帳などとの出会い(平成23年3月)

「相州津久井領愛甲郡(津久井領之内) 佐野川村御水帳」
「相州津久井領愛甲郡(津久井領之内)
佐野川村御水帳」

 緑区佐野川にお住まいの方から貴重な古文書類の寄贈を受けました。

佐野川村御水帳」  寄贈された古文書類は、神奈川県及び旧藤野町により、すでに目録化され、整理用封筒に収納され保管されていました。資料数は600件1400点にのぼり、一部の資料は『藤野町史』にも紹介されていますが、多くの資料はまだまだ世に知られていない貴重なものばかりでした。

  一例をあげると、「相州津久井領愛甲郡(津久井領之内)佐野川村御水帳」です。これは、時の老中・久世大和守広之支配時に、寛文4(1664)年津久井の村々の検地を一斉に行ったときの記録の副本と思われ、畑・田・山畑・屋敷の4冊からなり、保存状態は良好でした。市内に残る他の久世氏寛文総検地帳と同様、前代の永高ではなく石高で記載されており、近世農民支配の本格的な始まりを理解できる貴重な文献を博物館の資料に加えることができました。

 寄贈された資料は、今後既刊の目録と照合し、再整理を進め、博物館資料として活用を図りながら次世代に引き継いでいきます。古文書などの貴重な資料をお持ちで、継承にお困りの場合には、一度博物館までご連絡ください。(歴史担当:土井永好)

 

相模原の”正倉院”に!?~博物館資料の保存(平成22年12月)

生活資料収蔵庫
生活資料収蔵庫

 博物館資料は、くん蒸が完了すると次に分類・整理(登録)が待っていますが、ひとまず専用の施設に収納して次の作業に備えます。その施設は通常、どの博物館でも「収蔵庫」と呼んでいる部屋を指します。

 歴史分野では、大部分を特別収蔵庫・古文書収蔵庫・生活資料収蔵庫に収めており、郷土の先人たちが残した貴重な品々を将来に伝えます。特に、ぜい弱な紙資料を多く保管する特別収蔵庫と古文書収蔵庫は、建物コンクリートから出る湿気に対して特殊防湿パネルと北米杉を用いた二重壁及び木製の天井・床で六方を囲み、二酸化炭素放出消火機器と合わせて大切な市民の財産を守っています。また、卓越したその構造により、国宝・重文級の資料を借り受ける場合に一時保管が公認されるほどの設備環境を整えています。今回は、普段お目にかけることのできない博物館の舞台裏を紹介してみました。(歴史担当:土井永好)

 

博物館資料をスモークする!?~くん蒸消毒(平成22年10月)

 資料をパッキング
資料をパッキング
薬剤を封入
薬剤を封入
ビン詰めされたコクゾウムシ(黒いもの)
ビン詰めされたコクゾウムシ(黒いもの)

 前回は資料受入の際の事前クリーニングについて話しましたが、資料保存に向かう次のステップとして虫菌害防除の一例をご案内します。

 古来、日本人は自らの生活必需品を害虫やカビから守るために虫干し(曝書・曝涼)の作業や調度品等に通気性や忌避性のある材料を用いることを通じ、経験的効果的な対策を施し忍び寄る魔の手を防いできました。一方、国内博物館におけるそれは、技術的充実や費用対効果の面から薬剤を使用する方法がここ40年来の主流のようです。その中でも定番は、「ガスくん蒸処理」と言えましょう。

 当館でも、これまで年間定期的なくん蒸消毒を実施しています。直近では残暑厳しく害虫の活動も活発な9月初めに今年度2回目の作業を行いました。手法上は「被覆くん蒸法」。ガス化した薬剤を、対象資料を集めシート等で密閉した場所に一定時間封入・浸透させるものです。効果は、ビンに詰めたサンプルのコクゾウムシの死滅確認で判断します。処理後はガスの蒸発拡散が早いため人体への影響はなく、収蔵庫格納等予定する次の作業を円滑に進めることができます。(歴史担当:土井永好)

 

資料保管への第一歩~クリーニング(平成22年7月)

資料のクリーニング作業1
資料のクリーニング作業1
資料のクリーニング作業2
資料のクリーニング作業2

 4月の着任早々、歴史分野の新規寄贈・寄託資料にめぐり合うこととなりました(多少の戸惑いも感じつつ…)。尾崎咢堂翁にゆかりの深い品々をはじめとして、数多くの貴重な資料群でとても圧倒された次第。今日までそして明日からもずっと続く地道な資料の収集活動―現況確認と受入、そして点検等を経て保管に至るまでの作業の中では<驚き><悲しみ><喜び><感謝>の気持ちも当然に湧いてきます。そうしたモノとの出会い話や耳寄りなトピックなど、新しい担当職員が見た“ものヒストリア”を紹介していきますので、お気軽にお読みください。

資料のクリーニング作業3
資料のクリーニング作業3

 所蔵元で永く大事に伝えられてきた品々も埃やクモの巣、カビ等の攻撃にさらされている状況が見受けられます。博物館に運ばれてくるのはそのままの場合が少なくありません。そこで、薬剤消毒(くん蒸)をかける前に資料のクリーニング作業できる限りのクリーニングを行う必要があります。モノの材質や状態によってはブラッシングや水洗いを済ませておくことにより他への害の波及を未然に防ぎ、くん蒸効果を高める算段です。資料との結びつきを強める第一歩と言えましょう。(歴史担当:土井永好)

考古の窓(平成22年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
  • 春季企画展準備(平成23年3月)
  • 津久井城跡の地形測量調査を実施しました(平成22年12月)
  • 津久井城測量調査の研修会(平成22年12月)
  • 考古学講座「相模川沿いの遺跡を歩く」を開催しました(平成22年11月)
  • 発掘体験事業で学んだ子どもたちの展示(平成22年10月)
  • 大日野原遺跡(緑区澤井)の発掘調査(平成22年8月)
  • 遺跡探訪ルートの検討(平成22年7月)

 

春季企画展準備(平成23年3月)

 3月20日(日)から春季企画展「相模原市遺跡発掘調査成果展」が始まりました。

 通常、博物館で開催される企画展は数年前から構想が練られ、開催前年度の秋頃つまり来年度予算の要求時期までに、年間の開催計画とともに基本的内容が確定されます。本格的な準備が始まるのは展示の規模にもよりますが、今回の企画展の場合、およそ1年前から準備作業が始まっています。

展示資料の調書
展示資料の調書

 作業の内容は多岐にわたりますが、まず展示構想を具体化するための展示資料の選定や展示レイアウトの検討、資料借用に伴う調査や交渉、展示パネル類の作成などがあります。以上は展示そのものに関わる部分ですが、これに加え展示に関連する講演会や体験教室などの準備も同時に行なわれます。さらにチラシやポスターの作成、様々なメディアへの情報提供など広報も欠かせません。3月になり、展示の準備も佳境を向かえ、借用資料の運搬作業や列品作業が始まっています。

展示レイアウト図
展示レイアウト図

 もちろんこうした作業は担当学芸員一人が全てをこなしているわけではありません。そこには市民ボランティアをはじめとする多くの方々の協力があり、いわば展示はチームワークの結晶として成り立っています。

 今回の企画展は5月8日(日)まで開催していますので、ご来館のおりには、ぜひ特別展示室まで足をお運びください。(考古担当:河本雅人)。

 

津久井城跡の地形測量調査を実施しました(平成22年12月)

 

測量機器の設置
測量機器の設置

 11月29日(月)~12月10日(金)に津久井城跡の地形測量調査を実施しました。

 津久井城は戦国期における国内有数の山城跡として知られており、小田原北条氏の勢力下にあった頃は甲斐武田氏への備えとして重要な役割を果たしていました。平成7年以降、発掘等による調査によって戦国期の建物跡や土塁跡、堀跡などの山城に備わる防御施設が次々と見つかっています。

測量風景
測量風景

 今回、地形測量を行なったのは、県立津久井湖城山公園内の城坂曲輪群南地点と呼称している場所で、山の斜面に造成された曲輪と呼ばれる平坦部がいくつも確認されているところです。(財)神奈川県公園協会・市文化財保護課・博物館が合同調査体制を作り、ボランティアと協働する初めての試みでした。標高の変化を20㎝間隔で捉え等高線図を描いていくのは大変骨の折れる作業でしたが、ボランティアのメンバーが研修の成果を存分に発揮し、今年度の調査を予定どおり完了することができました。今回の成果については、来年3月から始まる考古分野の企画展等で紹介する予定です(考古担当 河本雅人)。

 

津久井城測量調査の研修会(平成22年12月)

研修会風景1
研修会風景1

 11月29日(月)から12月10日(金)まで津久井城跡の地形測量調査が実施されました。調査は、(財)神奈川県公園協会・市文化財保護課・博物館による合同体制で、調査のために集まったボランティアとともに行いました。

研修会風景2
研修会風景2

 この調査に先立ち、11月16~18日の3日間でボランティアとともに地形測量の実地研修会を津久井城跡近くのゴルフ場跡地で実施しました。地形測量では、平板やレベルといった測量器材を使用しますが、まずこれらの扱い方からはじまり、地形の高低差を算出する方法なども学びました。当然ですがまったく触れたことのない測量器材や計算式に多くの参加者が戸惑っていましたが、最終的には実際に等高線図を作成するところまで到達することができました。

研修会風景3
研修会風景3

 冷え込みが厳しく雨の降る日もありましたが、全員が真剣な眼差しで意欲的に学んでいる姿が非常に印象的でした。もちろんわずか3日間の研修で全ての知識や技術をマスターすることはできません。むしろ本番の調査の中で学ぶことのほうが大きいと思います。今回の調査は、等高線図を作成することだけが目的ではありません。地域の歴史を市民自らの手によって明らかにする学びの機会として位置づけようとしています。3日間の研修会はこの目標に向かって多くの人が手ごたえを感じることのできた有意義な時間であったと思います(考古担当:河本雅人)。

 

考古学講座「相模川沿いの遺跡を歩く」を開催しました(平成22年11月)

まとめ学習の様子
まとめ学習の様子

 10~11月は考古学講座を開催しました。今回の講座は相模川とその支流に点在する遺跡に注目し、事前学習と遺跡探訪を実施し、最後にまとめ学習をしました。

川尻遺跡(10/24)
川尻遺跡(10/24)

 今回歩いた遺跡探訪のコースは、緑区三ヶ木~寸沢嵐周辺(10/10)、緑区谷ヶ原~小倉周辺(10/24)、南区新戸~下溝周辺(11/14)の3ヶ所で、これらは事前にボランティアグループ相模原縄文研究会のメンバーと検討と下見を重ねてきたコースです(考古の窓7月をご参照下さい)。寸沢嵐遺跡、川尻遺跡、勝坂遺跡などの国指定史跡のほか、県立津久井高校内で発見された数少ない弥生時代遺跡として知られる三ヶ木遺跡や、新小倉橋の建設に伴って調査された川尻中村遺跡・原東遺跡などを訪れました。

勝坂遺跡(11/14)
勝坂遺跡(11/14)

 台風14号の接近に伴い、急遽、遺跡探訪が延期になるなどアクシデントもありましたが、無事全てのコースを踏破することができました。今後も考古学講座を、連綿と続いてきた郷土の先人の暮らしを再確認し、私たちのくらしの成り立ちを知る機会として続けていきたいと思います(考古担当:河本雅人)。

 

発掘体験事業で学んだ子どもたちの展示(平成22年10月)

史跡勝坂遺跡公園の見学
史跡勝坂遺跡公園の見学
発掘体験の様子
発掘体験の様子

 8月に中央大学と共同で大日野原遺跡の発掘調査を実施しましたが(8月の「考古の窓」をご覧下さい)、調査期間中、藤野中央公民館との共催で、地元の小学校5、6年生を対象とした発掘体験事業を実施しました。事業は中央大学や市文化財保護課の協力のもと全5回のプログラムで実施し、現地での発掘体験だけではなく、縄文時代や発掘のことを知るための学習会や、遺物の整理作業、史跡勝坂遺跡公園の見学など、さまざまなプログラムを通じ、考古学や郷土の歴史についてより深く学べる機会としました。

展示の様子(藤野中央公民館にて)
展示の様子(藤野中央公民館にて)

 8月27日(金)の事業最終日は学習成果のまとめとして、藤野中央公民館の交流スペースで、子どもたちが出土品や写真パネルの展示を行いました。また、自分たちでとった土器の拓本(土器の文様を紙の上に墨で写し取ったもの)や、毎回付けていた日記なども展示しました。藤野中央公民館での展示は9月末日までで、これまでに多くの方々にご覧いただきましたが、10月3日(日)からは博物館の特別展示室で展示しています。(考古担当:河本雅人)

 

大日野原遺跡(緑区澤井)の発掘調査(平成22年8月)

発掘作業風景
発掘作業風景
土器発掘の様子
土器発掘の様子

 8月2日(月)から13日(金)にかけて、緑区澤井の大日野原遺跡で発掘調査を実施しました。中央大学(小林謙一准教授)との共同学術調査で、今年で3年次目の調査になります。学生と博物館ボランティアを中心とした30名以上が調査に参加し、炎天下の過酷な状況の中で、およそ5,000年前の縄文時代中期の竪穴住居跡の調査に奮闘しました。昨年の段階で6軒以上の竪穴住居跡が存在すると推定されていましたが、今年はそのうちの3軒を中心に調査を進め、縄文土器の完形品を含む多数の遺物を検出しました。

 

発掘現場見学会(平成22年8月8日開催)
発掘現場見学会(平成22年8月8日開催)

 調査期間中の6日(金)には地元の小学生が参加して発掘体験が行なわれ、また、8日(日)の現地説明会には約50名の方々にご参加いただきました。

発掘現場見学会(平成22年8月8日開催)  多くの方々に支えられ、今年も大日野原遺跡の発掘調査を無事終了することができました。来年度以降も検出した竪穴住居跡の調査を継続し、縄文集落の実像に迫る研究を進めていきたいと思います。(考古担当:河本雅人)

 

遺跡探訪ルートの検討(平成22年7月)

90-01 kouko220701 秋に実施する考古学講座では相模川沿いに分布する遺跡を訪ね歩く予定です。同じ相模川流域でも下流域の相模野台地側と上流域の山地部側では、出土する考古資料に地域色が見られます。一方で、相模川は台地と山地を結ぶ人々の交流ルートとして重要な役割を果たしていたものと思われます。今年度の講座はそのような相模川に結ばれた人々のくらしを知る機会として、現在、準備を進めています。

史跡田名向原遺跡公園
史跡田名向原遺跡公園
川尻遺跡
川尻遺跡

 6~7月は探訪コースを検討するためボランティアグループ「相模原縄文研究会」のメンバーとともに緑区三ヶ木~寸沢嵐周辺、緑区谷ヶ原~向原周辺、南区新戸~下溝周辺、南区当麻~中央区田名塩田周辺の4ヶ所を歩きました。発掘調査された遺跡の多くは、住宅地や道路などに変貌し、遠い過去にさかのぼる人々の暮らしが、かつてその場所にあったことなど忘れてしまいそうです。ところが、住宅地の合間に残ったわずかな畑地や空地で縄文土器のかけらなどを見つけると、確かに人々の暮らしがそこにあったのだという実感が湧いてきます。そして、数千年の時間を飛び越えて、過去と現在が一体となったような感覚を味わうことができます。(考古担当:河本雅人)

考古の窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
  • 考古資料の収集(2)
  • 考古資料の収集(1)

考古資料の収集(2)

 寄贈資料の一部
寄贈資料の一部

 博物館で収集された考古資料は発掘調査で得られたものだけではありません。数量的には多くありませんが個人などからの寄贈資料もあります。耕作などによって地下に埋もれている遺跡が掘り返され、地表に土器や石器のかけらが散布している場所を見かけることができますが、個人からの寄贈資料の多くは、そうした場所で採集されたものです。

 これらの資料は採集地点が正確に記録されていれば、遺跡の有無やある程度の性格を把握するために役立つもので、これまで博物館では資料的価値が高いものについては、『相模原市立博物館研究報告』で報告してきました。

採集地点が記録された地図
採集地点が記録された地図

 平成23年度これまでに寄贈された資料では、市内にお住まいの石藏政雄さんが長年にわたって市内を踏査し丹念に採集された縄文時代を中心とする資料が注目されます。これらの資料は約100地点におよぶ採集地点が地図上に記録された資料的価値の高いものです。

 このように市民の皆さんが個人の力で集められた考古資料の中には、市域の歴史を知るための貴重な手がかりとなるものもあり、博物館ではそれらの収集や整理も行っています。(考古担当 河本雅人)

考古資料の収集(1)

 博物館における資料収集の方法としては、調査に伴うもの、寄贈・寄託、購入などがあげられます。

 考古資料の収蔵状況
考古資料の収蔵状況

 その比率は分野によって大きく異なりますが、考古分野の場合、収蔵されている資料の大半は開発に伴う発掘調査で出土したものになります。広い意味で調査に伴うものと言えるかもしれませんが、それらは博物館の収集方針にもとづいて、博物館が主体的に調査を行って収集したものではありません。つまり、収集方針にかかわらず資料が次々と蓄積していく点において、他の分野の資料とは異なる性格をもっていると言えるでしょう。

大日野原遺跡から出土した縄文土器
大日野原遺跡から出土した縄文土器

 もちろん目的をもって行われる資料収集もあります。平成22年度の博物館の窓でご紹介した、緑区澤井で中央大学と共同で実施している大日野原遺跡の発掘調査は、遺跡の価値を明らかにするとともに、市域山間部における縄文時代資料の収集を目的として実施されているものです。大日野原遺跡については平成23年度で第1期の調査が終了し、多量の遺物が出土しましたが、これらは調査報告が行われた後、博物館の常設展示室に展示される予定です。(考古担当 河本雅人)

考古の窓(平成24年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度

平成24年度の大日野原遺跡発掘調査(平成24年8月)

発掘の様子
発掘の様子

 平成22年8月の「考古の窓」で大日野原遺跡(緑区澤井)の発掘調査について紹介しましたが、当該地点の発掘調査は平成23年度をもって一旦終了しました。

 平成24年度からは、大日野原遺跡の別の地点を調査地に定め、引き続き中央大学文学部と共同で第2期の縄文時代住居の調査を行います。

レベル(標高)の計測
レベル(標高)の計測

 第2期の初年度にあたる平成24年度は、調査地にトレンチ(細長い溝)を掘り、遺構の有無を確認する作業を行いました。トレンチをカタカナの「キ」の字状に設定し、重機を使わずに人力で注意深く掘削していきます。今年度は原則として遺構が確認できる土層までの掘削とし、縄文時代の遺構の本格的な調査は平成25年度からとなります。

古代の住居址(上面)
古代の住居址(上面)

  発掘調査には中央大学をはじめ諸大学の学生や他自治体教育委員会の埋蔵文化財担当職員、相模原市立博物館の市民ボランティアの方々が参加しました。

 今回の調査では縄文時代の住居址と明らかに言える遺構は残念ながら確認できなかったものの、古代の住居址が検出されました。この大日野原遺跡に古代の住居が存在したことは新しい知見であり、今後につながる成果といえます。平成24年度は確認調査であったため現地説明会は行いませんでしたが、来年度以降は開催し市民の皆さんに発掘調査現場を見学していただきたいと考えています。

小学生の発掘体験

小学生の発掘体験
小学生の発掘体験

 今年度も「ふじの発掘探検隊」として、地元の小学生を対象に発掘調査体験をしてもらいました。幸運にも今回小学生が発掘した場所からは多数の遺物が出土し、子どもたちは目を輝かせていました。自分たちの住んでいる場所で先人たちがどのような生活をしていたのかを知るということは、とても大切なことです。発掘調査の大変さと楽しさを通じて先人の生活に思いを馳せ、ひいては埋蔵文化財の重要性を認識してもらうきっかけになればと考えています。(考古担当:正洋樹)

民俗の窓(平成24年度)

Posted on 2013年12月17日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
  • 祭り・行事を訪ねて(50) 相模田名民家資料館の雛飾り(平成25年3月)
  •  祭り・行事を訪ねて(49) 秦野市・白笹稲荷の初午と道祖神巡り(平成25年2月)
  •  祭り・行事を訪ねて(48) 雪のどんど焼き~市内各地~(平成25年1月)
  •  祭り・行事を訪ねて(47) だるま市とどんど焼き~中央区上溝地区~(平成25年1月)
  •  祭り・行事を訪ねて(46) 道祖神の小屋~中央区田名地区~(平成25年1月)
  •  祭り・行事を訪ねて(45) 道祖神の幟を立てる~南区新戸地区~(平成25年1月)
  •  祭り・行事を訪ねて(44) 「一つ目小僧」がやってくる日~緑区根小屋の師走八日~(平成24年12月)
  • 祭り・行事を訪ねて(43) 緑区根小屋のエビス講(平成24年11月)
  •  祭り・行事を訪ねて(42) 今年も藤野歌舞伎を楽しませていただきました(平成24年10月)
  • 祭り・行事を訪ねて(41) 人力で立てる祭りの幟~南区磯部・御嶽神社~(平成24年9月)
  •  祭り・行事を訪ねて(40) 中央区上矢部・御嶽神社の湯花神事(平成24年9月)
  • 祭り・行事を訪ねて(39) お盆の砂盛り~地域差のある民俗~(平成24年8月)
  •  祭り・行事を訪ねて(38) 八王子祭りの山車(平成24年8月)
  • 祭り・行事を訪ねて(37) 南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)
  •  祭り・行事を訪ねて(36) 市内各地の天王祭(平成24年7月)
  • 祭り・行事を訪ねて(35) 勇壮に舞った相模の大凧 ~南区新磯地区の「相模の大凧」~(平成24年6月)
  • 祭り・行事を訪ねて(34) さまざまな養蚕信仰③ ~南区磯部・勝源寺の六本庚申~(平成24年6月)
  • 祭り・行事を訪ねて(33) さまざまな養蚕信仰② ~南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目~(平成24年4月)
  • 祭り・行事を訪ねて(32) さまざまな養蚕信仰① ~中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃~(平成24年4月)
  • 祭り・行事を訪ねて(31) 有鹿神社の「お水もらい」(水引祭)~南区磯部・勝坂地区~(平成24年4月)

 

祭り・行事を訪ねて(50) 相模田名民家資料館の雛飾り(平成25年3月)

相模田名民家資料館
相模田名民家資料館

 「相模田名民家資料館」は、地元の「田名財産管理委員会」が設立した地域の資料館です。この資料館は、市内でも養蚕や製糸が盛んだった田名地域において、往時を偲び、地域の文化を継承することを願って平成7年(1995)に開館しました。資料館の隣りに見える大杉の池の周辺は、今では大杉公園として親しまれており、江戸時代までは明覚寺という寺があったほか、現在の田名小学校の前身である覚明学舎や田名村役場なども建てられるなど、田名地区の中心の場所でした。

二階の養蚕等の展示
二階の養蚕等の展示

 資料館の建物は代表的な養蚕農家を移築再現しており、二階を展示室として養蚕をはじめとしたさまざまな資料が展示されています(その中には博物館も所蔵していない資料も含まれています)。そして、一階の和室はかたりべの館として、あるいは生涯学習の場として活用されています。

所狭しと並ぶ多くの雛人形
所狭しと並ぶ多くの雛人形
いろいろな時期のものがある
いろいろな時期のものがある
明治から大正の人形も見られる
明治から大正の人形も見られる

 相模田名民家資料館で2月初旬から3月3日まで、毎年行われているのが「ひなまつり今昔展」です。この時には、近隣の方から寄贈された、明治から大正・昭和にかけての多くの雛人形が一階の和室一杯に飾り付けられ、実に見事です。ちなみに今年は三百三十体ほどの人形を飾っており、展示しなかったものを含めると全部で五百体ほどの人形を保管されているとのことです。この「ひなまつり今昔展」には、例年大勢の人が訪れ、それぞれの時期の人形を見学しながら雛祭りの思い出を語り合う姿が見受けられます。子どもたちの安らかな成長を願い、それを人形に託した人々の想いがよく表れた「ひなまつり今昔展」は、多くの者の心を捉えるものとなっていると言えるでしょう。今年の雛人形の展示は終わりましたが、ご関心のある方は是非、来年にご来館ください。また、資料館では、雛人形とともに4月下旬から5月初旬に掛けて「端午の節句まつり」として五月人形の展示も行っています。ゴールデンウィーク期間中には、同じ田名地区の高田橋付近で、1200匹の鯉のぼりが相模川の上空を泳ぐ「泳げ鯉のぼり相模川」のイベントが実施されます。その機会に資料館を訪れたらいかがでしょうか。きっと爽やかな新緑の風が吹く中で楽しいひと時を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。

*「相模田名民家資料館」

住 所 相模原市中央区田名4856-2 電話 042-761-7118

開 館 日 木・金・土・日の週4日間(正月・盆は休館。また、祝祭日についても休館の場合あり)

開館時間 午前10時~午後4時

入 館 料 無料2階展示室は開館時間中自由に見学できます。一階和室の利用には事前に予約が必要です。

その他、詳細につきましては、資料館までお問い合わせください。

 

祭り・行事を訪ねて(49) 秦野市・白笹稲荷の初午と道祖神巡り(平成25年2月)

 2月の初めての午(うま)の日である初午はお稲荷さんを祀る日です。皆様もよくお分かりの通り、稲荷には集落など地域全体で祀る大きな神社から各家庭にある屋敷神(やしきがみ)までさまざまなものがあり、人々に大変親しまれている神の一つとして初午には多くの稲荷社で祭礼が行われています。ちなみに今年の初午は2月9日(土)でした。

白笹稲荷の鳥居。多くの参詣者で賑わう
白笹稲荷の鳥居。多くの参詣者で賑わう
社殿の前には油揚げが供えられていた
社殿の前には油揚げが供えられていた

 今年の初午の9日には、民俗調査会の会員とともに秦野市今泉に鎮座する白笹稲荷神社にお伺いしました。民俗調査会では、「博物館の窓」でこれまでも紹介しているように、市内をはじめとして各地のフィールドワークを行っており、機会を捉えて市域の様相と比較することを目的として市外の地域も訪れています。秦野市の白笹稲荷は、一説に関東の三大稲荷に挙げられるほどの有名な神社であり、相模原市内でも例えば当麻地区の宿集落では、明治45年(1912)に防火の神として白笹稲荷から分霊を受けて日枝神社の社殿に合祀しており、東林間地区の東林間神社境内にも、大正6年(1917)に分霊され、この地域の新開(しんかい)としての開発の歴史を物語る稲荷社が祀られています(『平成さがみはら風土記稿 神社編』平成5年 市教育委員会発行)。また、地区内の講中や同族等で祀る比較的小さな稲荷社では、初午に市外の稲荷神社に代表者がお参りに行くことがあり、この行き先としても白笹稲荷が多かったようです(『相模原市史民俗編』)。

 昼前に白笹稲荷神社に到着するとすでに実に大勢の人が訪れており、お参りするにも社殿にたどりつくまでが大変で、露天もたくさん店開きをしていました。社殿の横には稲荷のお使いである狐が好むとされる油揚げが上げられている光景なども目にすることができました。さらに、境内の石造物に彫られた奉納者によると秦野に限らず遠方の住所も多く、白笹稲荷の信仰がかなり広まっていたことも確認できました。

弘法の清水
弘法の清水

  そして、当日は白笹稲荷の参詣と並んで、秦野の湧水や道祖神等の見学も行いました。秦野盆地の湧水群は環境庁(当時)によって「全国名水百選」に選定されるなど、古くから人々によって利用されてきた水が多くの場所から湧き出しており、今回はそのうちの秦野駅近くにある「弘法の清水」に向いました。ここは弘法大師が持っていた杖を地面に突いたところ水が湧き出したという、全国各地で聞かれる伝説が残されており、年間を通じて水温、水量ともほぼ一定して安定しているという湧き水に触れることができました。秦野というともう一つ著名なのが、神奈川県最古の双体道祖神碑(寛文9年[1669]銘)があることです。双体道祖神とは一つの石に二つの神が並んで彫られているもので、秦野市域では2548基を数える石仏全体のうち道祖神碑が315基を数え、そのうちの184基が双体道祖神というように道祖神の石碑がかなり多い地域です(『秦野の石仏[四]』)。今回は、秦野の中でも今泉・戸川・堀山下の三地区の石仏について、大きな陽石(ようせき)※(今泉)や県内最古の双体道祖神碑(戸川)、辻や道路の端など至る所にある道祖神碑(全域)などを中心に、帰りの電車の時間の許す限り見て歩きました。 

今泉の陽石道祖神。手前の庚申塔の前には「ケズリカケ※」が供えられている  ※木を削って花のような形にしたもの
今泉の陽石道祖神。手前の庚申塔の前には「ケズリカケ※」が供えられている
 ※木を削って花のような形にしたもの

双体道祖神碑を観察する会員。ここにも「ケズリカケ※」がある
双体道祖神碑を観察する会員。ここにも「ケズリカケ※」がある

戸川の県内最古の双体道祖神碑。近年、祠に扉が付けられ、上部から見るようになった
戸川の県内最古の双体道祖神碑。近年、祠に扉が付けられ、上部から見るようになった

堀山下の双体道祖神碑。周りに五輪塔などの多くの石が置かれているのが特徴的
堀山下の双体道祖神碑。周りに五輪塔などの多くの石が置かれているのが特徴的

 この日は少し風が冷たく、やや大変だったところもありますが、それでも澄んだ空気の中、全部で23名の会員の方々とともに、丹沢の山々を身近に感じながら充実したフィールドワークを行うことができました。今後とも各地を歩きながら、その成果を博物館の活動に取り入れて一層充実させ、「民俗の窓」にも反映していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(48) 雪のどんど焼き~市内各地~(平成25年1月)

 今年のどんど焼き・団子焼きは12日~14日にかけて市内の各地を回りましたが、12・13日は火に当たっていると汗ばむほどの陽気で、大変和やかに行われました。ところが14日は一転して数年ぶりの大雪となり、特に午後からは短時間に雪が降り積もりました。この日は事前のニュースでも大雪の予報が出されており、調査も若干の躊躇がありました。それでも少し回ってみて、中止や延期の場所が多ければそこで終わりとの心積もりで行ったところ、予想よりも多くの場所で行われていたのに出会いました(もちろん翌日などに延期となった所も確認しました)。

 実施していた地区で「この天気の中、大変ですね」と声を掛けたところ、すべての所で「これは14日にやることになっているので仕方がないですね」とのご返事をいただきました。改めて、昔からやっている行事の意義について考えさせられるきっかけとなりました。写真の1~3は平成25年1月12日、4~13は1月14日の様子を紹介しています。なお、14日は、民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。

1  南区新戸 同じ田に二つの地区のものが見える(1月12日)
1 南区新戸 同じ田に二つの地区のものが見える(1月12日)

2  南区新戸河原(1月12日)
2 南区新戸河原(1月12日)

3  南区当麻 小屋はまだできていない(1月12日)
3 南区当麻 小屋はまだできていない(1月12日)

4  南区当麻 3の小屋は14日には完成していた(1月14日午前 雨)
4 南区当麻 3の小屋は14日には完成していた(1月14日午前 雨)

5  緑区葉山島 (1月14日午前 雨)
5 緑区葉山島 (1月14日午前 雨)

6  緑区小倉 小倉橋の下側(1月14日午前 みぞれ)
6 緑区小倉 小倉橋の下側(1月14日午前 みぞれ)

7  緑区寸沢嵐 雪がうっすら積った道志地区の道祖神の小屋(1月14日午前 雪)
7 緑区寸沢嵐 雪がうっすら積った道志地区の道祖神の小屋(1月14日午前 雪)

8  緑区橋本 どんど焼き(1月14日午後 雪)
8 緑区橋本 どんど焼き(1月14日午後 雪)

9  中央区清新 団子焼き(1月14日午後 雪)
9 中央区清新 団子焼き(1月14日午後 雪)

10  中央区清新(1月14日午後 雪が激しくなってきた)
10 中央区清新(1月14日午後 雪が激しくなってきた)

11  南区上鶴間本町 谷口地区ではいずれも行われたという(1月14日午後)
11 南区上鶴間本町 谷口地区ではいずれも行われたという(1月14日午後)

12  南区上鶴間本町 夕方近く、来る人もいなくなり、ほぼ終了(1月14日午後)
12 南区上鶴間本町 夕方近く、来る人もいなくなり、ほぼ終了(1月14日午後)

13  南区上鶴間本町 雪に埋もれた道祖神碑(1月14日午後)
13 南区上鶴間本町 雪に埋もれた道祖神碑(1月14日午後)

 

祭り・行事を訪ねて(47) だるま市とどんど焼き~中央区上溝地区~(平成25年1月)

 中央区上溝3~7丁目付近の県道に沿った地域は、かつて市場が開かれていた場所です。上溝市場は主に生糸や繭などの取引を目的として明治3年(1870)に開設され、毎月6回、3と7の付く日に開かれた六斎市(ろくさいいち)です。市日(いちび)には糸や繭を買う商人などをはじめとして多くの商人が集まり、露天も出て大変に賑やかだったと言います。また、多くの商店も立ち並び、相模原の中心的な商業地となっていました。

 この地で今年の1月13日(日)に行われたのが「だるま市」です。元々、上溝にもだるまを作る職人がいて1950年代の前半までだるま市が行われていましたが、その後は職人がいなくなったこともあって行われなくなりました。それを平成元年(1989)に復活させたのが現在のだるま市で、7月の夏祭り(上溝の天王祭)と11月の酉の市とともに上溝の三大イベントを構成するうちの一つとなっています。ちなみに今は相州だるまが売られています。

 そして、上溝・本町自治会のどんど焼きもこの日に行われています。当日の午前11時に成田不動堂の横に集めた正月飾りに点火して燃やしていきます。だるま市の会場でもあり、他の地区のように高く積むこともなく少しずつ燃やします(今年は量が多く、半分ほどは別に燃やしたとのことです)。こういった団子焼きなので多くの人が一斉に集まることもなく、各自持参した団子を焼いていく姿が見られました。

左が成田不動堂、右が大鷲神社
左が成田不動堂、右が大鷲神社

だるまが売られている
だるまが売られている

正月飾りを少しずつ燃やす
正月飾りを少しずつ燃やす

各自で持参した団子を焼く
各自で持参した団子を焼く

正月飾りを少しずつ燃やす 各自で持参した団子を焼く また、午後3時30分頃からは、同じ所に集められた古いだるまのお焚き上げが行われます。これは、上溝・番田地区の安楽寺の住職が、この日には開扉されている成田不動の堂内での読経をした後に行われ、やはり住職の読経の中、各家から納められた多くのだるまが燃やされていきました。

住職による読経
住職による読経

読経の中だるまのお焚き上げ
読経の中だるまのお焚き上げ

燃え上がるだるま
燃え上がるだるま

本町はやし連によるお囃子
本町はやし連によるお囃子

 上溝のだるま市は、本町自治会と上溝商店街振興組合が協力して実施しており、このほかにも当日は本町はやし連がお囃子を奏でたり、クーポン対象店舗で買い物をするとサービスを受けられるクーポン券の配布、女子美術大学環境デザイン学科の有志グループ「たまび屋」によるワークショップ「ふうせんだるまをつくろう!」の開催など、さまざまな内容が行われました。この地域のどんど焼き(かつては「団子焼き」と呼ばれていたと言います)は、以前は道祖神のある場所でいくつかの集落が集まってやっていて、本町では日金沢と一緒に旧道の傍で行っていたとのことですが、今では地元の振興のための重要なイベントの中に組み込まれており、まさにかつて市が開かれていたこの地区ならではの変化と捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(46) 道祖神の小屋~中央区田名地区~(平成25年1月)

 昨年の「民俗の窓」のNo25とNo26において、南区当麻の原当麻地区と南区古淵地区で行われている道祖神の小屋作りについて記しましたが、市内ではこのほかにも何か所かで同様のものが今でも作られています。今回はそのうちの一つである中央区田名の清水地区の事例を紹介します。

ムロ(正面)
ムロ(正面)

ムロ(側面)
ムロ(側面)

 清水集落は田名地区のもっとも北側に位置し、大島の古清水集落と接するように家々が広がっています。団子焼きは13日(日)の午後1時から、自治会館の前側で行われました(終了は4時)。ちなみに自治会館の横には地域で祀る観音堂があります。ここで注目されるのは道祖神碑を覆う小屋を作ることです。この地域では「ムロ」と呼ばれ、柱となる木の枝や屋根に使う竹と屋根材とする杉を用いて、少し離れた場所にあるやはり集落で祀っている不動堂の横に作り、中には双体道祖神碑(現在は上部は欠損)と男根状の石が置かれます。今年は午後にお訪ねしたためすでに完成していましたが、数年前に確認したところでは、ムロは団子焼き当日の朝から地区の長老衆が出て作り、この時には午前9時から作業を始めて11時30分に完成しました。また、完成後には自治会の役員がこの前に集まって拝礼をすることも見られました。このムロは、点火して団子焼きが始まると会場に運んで火の中に投じて燃やされてしまいます。

団子焼き(点火したところ)
団子焼き(点火したところ)

ムロを団子焼きの会場に運ぶ
ムロを団子焼きの会場に運ぶ

ムロを団子焼きの火に投じる
ムロを団子焼きの火に投じる

  かつて昭和30年(1955)頃までは、子どもたちが7日に正月のお飾りを各家から集めて歩き、それらで子どもが立って入れるくらいの大きなムロを作っていて、お飾り集めとともに賽銭も貰ってその金で菓子などを買っていました。そして14日には、子どもが作った大きなムロを壊して年寄りが小さなものを作り、それが現在も残っているムロだとのお話しをうかがっています。

 市内で今も作られているこうした「道祖神の小屋」は、作ったものを翌年までそのままにしておく所(南区当麻の中・下宿や緑区寸沢嵐道志)やその後に燃やしてしまうもの(原当麻や古淵)があり、清水地区は後者の事例となります。特にこのムロは、一年のうちわずか一~二時間しか姿を表していないことになり、その時に現地にいかなければなかなか分からないと言えます。今回紹介した事例は、市民の方からこうしたことがあるとご連絡をいただいて調べることができたものです。団子焼きに限らずこうした情報があれば是非博物館にお寄せください(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(45) 道祖神の幟を立てる~南区新戸地区~(平成25年1月)

 この冬も団子焼き・どんど焼きの時期がやってきました。今年は成人の日と日曜日の関係で12日(土)から14日(祝)までに行われた地区がほとんどで、昨年に比べて短期集中となりました。例年通り、いくつかの地区を回らせていただきましたが、まず南区新戸の上地区のどんど焼きについて紹介します。

 南区新戸は市内でもっとも南西部にあり、水田に乏しい市域の中でも相模川に面した比較的田の多い所です。今回取り上げるのは新戸の北側にあたる、荒井耕地西・荒井耕地東・上新・中央・新道の五つの自治会が合同で行っているどんど焼きで、毎年五つの自治会が順番に準備などに当たることになっており、今年は荒井耕地西自治会が担当しました。

当番自治会で燃やすものを準備
当番自治会で燃やすものを準備

 どんど焼きの準備は12日(土)の午前9時頃から始まりました。どんど焼きで燃やす正月飾りは、地区ごとに集められて行事を行う場所(「新磯ふれあいセンター」裏側の休耕田となっている所)に運び、まず長い竹を中心に立てて、回りにも三本の竹を立てかけるようにして中心の竹に結び付け、中に笹や板を詰めて正月飾りも積んでいきます。最後に氏神である日枝神社に飾られていた昨年の大きな注連縄を巻いて燃やすものは完成しました。

 その後、午前11時30分頃から行われたのが道祖神の幟立てです。この地区では、現在行事を行っている場所から200mほど離れた、集落が並んだ四つ角の場所に道祖神などの石碑がありますが、そこに「奉納道祖神 明治二十二年一月十四日 上講中」と記された幟を自治会長が中心になって立てました。市域各地で盛んに行われているどんど焼きのなかでも道祖神の幟がある地区は今のところ他には確認できず、大変珍しいものということができます。この幟は翌日のどんど焼きの終了後に片付けます。そして、午後5時からは道祖神の石碑に灯明やお神酒などを上げて、自治会長と荒井耕地西自治会の代表の方々が拝礼し、12日の準備は終了しました。

幟の準備
幟の準備

道祖神の幟
道祖神の幟

12日夕方に道祖神に灯明を上げては拝礼する
12日夕方に道祖神に灯明を上げては拝礼する

 13日(日)にもまず道祖神碑の前で拝礼し、そこから会場に向かって午前9時に点火されました。背後に大山などの丹沢の山々を望みながらの団子を焼く光景は見事で、三つ又の木の枝に刺した団子を持ち寄った人々がそれぞれを焼き、枝にはスルメが付いたものもあってスルメを炙る人なども見られました。どんど焼きは午前11時までの予定で行われ、団子を食べると風邪を引かないということで多くの参加者がありました。

13日点火前にも道祖神に拝礼
13日点火前にも道祖神に拝礼

点火の前にお神酒を撒く
点火の前にお神酒を撒く

背後に大山を望む
背後に大山を望む

団子焼き
団子焼き

団子の他にスルメを炙る人もいる
団子の他にスルメを炙る人もいる
「左義長当番控」の帳面
「左義長当番控」の帳面

 道祖神の幟とともにこの地区で興味深いのは、「左義長当番控 上新戸道祖神講中」と書かれた帳面があることです。「左義長」(さぎちょう)との呼び名は大磯海岸で行われる「大磯の左義長」(国指定重要無形民俗文化財)が有名なものの、古くは神奈川県ではほとんど使われなかった名称です。また、現在は自治会単位で行っているこの行事が、かつては「道祖神講中」という別の組織によって担われていたことを示しており、今でも行事の実施を知らせる掲示には、当番自治会(今年の場合は荒井耕地西)とともに「上新戸道祖神講中」と書かれています。この帳面には、主にどんど焼きに掛かった経費や収入(寄付をいただいた人の名前)などの会計に関することが記されており、当番となった自治会が記録して翌年の当番自治会に送っていきます。現在は平成16年(2005)からの帳面ですが、これ以前の古い帳面もあったとのことです。

博物館で、この行事(団子焼き・どんど焼き・サイトバライ)の調査を市民の皆様と一緒に調べ出して今年でちょうど10年になります。この間、さまざまなデータを得ることができた中で、今回の道祖神の幟のように初めて分かった事例もあります。今後ともさらに調査を続けて、市域の状況の様相と変化について捉えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(44) 「一つ目小僧」がやってくる日~緑区根小屋の師走八日~(平成24年12月)

 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によると、2月8日と12月8日は「事八日(コトヨウカ)」の日で、この日には全国的に各種の神や妖怪が訪れるとされ、特に疫病神が来ることを恐れる伝承が東日本の広い範囲に見られます。神奈川県内ではこの日を「ヨウカゾウ」あるいは一つ目小僧が来る日なので「一つ目小僧」などと言い、2月と12月の両方、あるいは2月か12月のどちらかだけの8日とする場合があります。また、県内では広く見られる伝承であるものの、三浦郡と津久井の藤野町や相模湖町では伝承が希薄であることが指摘されています(『神奈川県民俗分布地図』神奈川県立博物館。1984年刊行なので地名はそのまま記載しました)。

篩を玄関に吊るす
篩を玄関に吊るす

吊るされた篩とイモフリメカイ
吊るされた篩とイモフリメカイ

 市域でもこの日をヨウカゾウとすることが多く、一つ目小僧が来る日として子ども心に怖かったと言います。そして、今回も写真を撮らせていただいた緑区根小屋中野の菊地原稔さんのお宅では12月8日を「師走八日」と言い、2月8日の方は特に何も行いませんでした。師走八日には、やはり一つ目小僧が来て下駄などの履物に判を押してしまい、それを知らないで履くと病気になるため、子どもは外に出しっぱなしにしている下駄などを「今日は一つ目小僧の日だ、早く仕舞え」と親に言われて片付けました。一つ目小僧は目が一つしかないので、たくさん目のある籠や笊を吊るしておくと逃げていくとされ、根小屋中野では里芋を洗うイモフリメカイや篩(フルイ)のどちらかを、一つ目小僧は夜に来るので夕方に吊るすのが多かったそうです。今回の写真にイモフリメカイと篩の両方が吊るされているのは、二つの方が良いと思って両方吊るしているとのことです。

冬至には建物の周りに水を撒く
冬至には建物の周りに水を撒く

 なお、この日はもちろん冬至ではなかったのですが特別に冬至の日に行うことも見せていただきました。このあたりでは、冬至の夕方に母屋はもちろん物置などすべての建物の周囲にジョウロで水を撒き、昔は火事が多く延焼を防ぐためと言われているそうです。家によっては家の破風の部分に竹の水筒に入れた水を吊るすこともあり、建物の水撒きかどちらかをやっていました。さらに、冬至から暮の餅つき、三が日、七草、十五日正月、節分までの正月を挟んだ行事の朝に、おばあさんが「良いこと聞くがら」として菊ガラ(菊の茎)、「まめに働く」として豆ガラ、「借金なし」としてナスガラ(なすの茎)を、毎回かまどで燃やしていたとのことです。

相模原地域の大沼や古淵・上溝などでは、12月8日に来る一つ目小僧が村人の誰を悪病にするかを書いた帳面を道祖神に預けて2月8日に取りに来ると言ったのに対し、正月14日の団子焼き(どんど焼き・サイトバライ)の火で道祖神の家が火事になって帳面を焼いてしまったのでどの人を病気にしたら良いか分からなくなって、その一年は病気にならなかったとする、ヨウカゾウと正月の団子焼き行事の由来との関連を説く伝承などもあります。今回の根小屋中野ではそうした話は伝えられていないようですが、市内でも年中行事に関わるさまざまな伝承が残されています。これからもいろいろな行事を取り上げていく予定です(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(43) 緑区根小屋のエビス講(平成24年11月)

 エビス講は、各家での年中行事の中でも大いに行われていた行事の一つで、『相模原市史民俗編』や『相模湖町史民俗編』などをはじめ、これまでにも市内各地からの多数の報告があります。エビス講は、福の神であるエビス・大黒にいろいろなお供え物をして祀る行事で、基本的に一年に2回、正月と秋(10月か11月)に行われます。特に商家のほか、農家でも盛んに行われていました。この行事もほかのものと同様に近年ではあまり見られなくなっていますが、「民俗の窓」に何回も登場いただいている、緑区根小屋の菊地原稔さんの家では現在でも行っているということで、写真を撮らせていただきました。

たくさんのエビス・大黒の像が祀られている棚
たくさんのエビス・大黒の像が祀られている棚

 エビス講は正月と11月の2回あり、当家では養蚕を遅くまでやっていたので養蚕の作業の関係で10月ではなく11月に行っていました。正月は、エビス・大黒が働きに出て行くということで、前日の夜に準備をしていて朝早くお供えし、その逆に11月は稼いで帰ってくるので夜に行います。当家では、現在、土間としている所の先の居間の奥の廊下状になっている場所の上側にエビス・大黒の像を祀る棚があり、通常はエビス・大黒の像一対で祀られていることが多いのに対し、棚の中には大きさは小さいものの、50体以上ものお像が入っています。

当家では御当主の祖母に当たる方がこうした信仰に熱心で、例えば、路傍の道祖神などの石仏に納められている(どんど焼きで燃やすためにおいてある)エビスや大黒像を貰い受けて来て、酒を供えて「この家のために働いてください」と言ってお祀りしました。ちなみに祖母は御札や達磨などもどんど焼きで毎年焼くのではなく、「御札が千枚集まれば長者になる」として保管していて、今も御札などはたくさん残されているとのことです。

この棚の下側にテーブルを置き、灯明と魚、膳をエビスと大黒の分として二膳お供えします。魚は鯛で、皿に腹合わせに載せます。ただし、昔は鯛などはなかなか買えなかったため、鯵が多くてサンマだったこともありました。膳には箸のほか、お神酒、小豆飯、柿、野菜の煮物を付け、小豆飯はうるち米を焚いたもので、エビス講の時にはもち米を蒸かした赤飯は使いません。柿は「掻き取る」ということで供えますが、あまり他の家で供えているのを見たことはなく、野菜の煮物は大根・ニンジン・ゴボウ・里芋を煮て、その上には油揚げが一枚載せられていて、これは根小屋辺りではよく作られているそうです。このお供え物は当日はそのまま置き、翌日の朝に下げて食べることになります。なお、エビス・大黒がお金を稼いできたためエビス講には財布や金を一升枡などに入れてお供えするという話もあるものの、当家では金を上げると働かなくなるといってやりませんでした。

魚(鯛)や小豆飯や柿、油揚げが載った野菜の煮物を供える
魚(鯛)や小豆飯や柿、油揚げが載った野菜の煮物を供える

油揚げがのった野菜の煮物
油揚げがのった野菜の煮物

 かつての人々の生活に対するさまざまな想いが窺われるこのような年中行事について、今後とも機会を捉えて調べ、「民俗の窓」の欄に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(42) 今年も藤野歌舞伎を楽しませていただきました(平成24年10月)

 復活後21回目を迎えた藤野村歌舞伎が、今年は神奈川県立藤野芸術の家クリエーションホールにおいて10月14日(日)の午後1時から行われました(藤野村歌舞伎の復活の経緯については、「祭り・行事を訪ねて4(平成22年11月)」をご参照ください。)。今年(平成24年)の演目は、第一部が「忠臣蔵七段目 一力茶屋の場」で、第二部が恒例の「白波五人男 稲瀬川勢揃いの場」でした。

忠臣蔵七段目。おかるが大星の密書を盗み見ている場面
忠臣蔵七段目。おかるが大星の密書を盗み見ている場面

 忠臣蔵(「仮名手本忠臣蔵」)に登場する人物の中で、おかると勘平(かんぺい)は有名な役どころですが、七段目では、祇園町の遊女となったおかるが大星由良之助(大石内蔵助)に届いた密書を盗み見してしまったため、大星に殺される運命となります。そこに現れたおかるの兄の平右衛門は、事情を察して自らの手でおかるを殺し、それを功として高師直(吉良上野介)への仇討ちの参加を許してもらおうとします。驚くおかるに平右衛門はおかるの夫の勘平もこの世にいないことを告げると、悲しみのあまりおかるは自害しようとしますが、大星はそれを止めた上で、由良助の仇討ちへの真意を探ろうとして床下に隠れている九太夫を刺し、平右衛門が同志に加わることを許す、という筋立てになっています。

途中、突然に兄に殺されそうになって驚き、また、夫が死んだことを知って嘆き悲しむおかるの姿をはじめとして多くの者に親しまれてきた名場面であり、当日は約1時間に渡っての熱演が見られました。

第二部の白波五人男は、10名の子どもたちによる演目で毎回人気があり、今年は藤野南小の3年~6年生の8名と藤野中2名が見事に演じて小銭を包んだ多くのおひねりが舞台に投げ入れられました。

白波五人男(3人を撮影)
白波五人男(3人を撮影)

白波五人男。捕り物の場面
白波五人男。捕り物の場面

保存会会長(真ん中)を囲んで出演者一同で観客にご挨拶
保存会会長(真ん中)を囲んで出演者一同で観客にご挨拶

 毎年、藤野村歌舞伎の定期公演は10月に賑やかに上演され、今年は途中のアナウンスによると250名以上の観客があったとのことです。私も楽しみにしており、これからも見続けて行きたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(41) 人力で立てる祭りの幟~南区磯部・御嶽神社~(平成24年9月)

 7月の天王祭から引き続き、8月から9月にかけては各神社で祭りが行われます。こうした祭りに行くとまず目に付くのが、鳥居の両脇に建てられた幟(のぼり)です。幟は大きなものや小ぶりなものもありますが、神社が祭りであることを周囲に示す重要なしるしとなっています。

 幟は、元々は神を招いたり神が訪れたことを表した旗飾りで、「依代(よりしろ)」と考えられています。古くの日本の神は社殿に常在するのではなくて祭りの時に迎えるものであり、そのために神が降臨するためのものが必要で、それは天然の樹木や岩・山のほか幟などの柱を立てることもあります。幟の先に榊などの葉を付けるのは単なる飾りではなく、神を迎える装置としての意味があったとされています(『日本民俗大辞典』)。

幟が立っている様子(9月1日)
幟が立っている様子(9月1日)

 このような幟も近年は立てることが大変になり、金属製の常設のポールになっているのをよく見かけ、木製の幟竿の場合でもクレーンなどを使用することが多くなっています。そんな中で、南区磯部の御嶽神社では現在でも大勢の氏子が寄り集まって、人力で幟の設営と撤収を行っています。御嶽神社は磯部地区のうちの下磯部の鎮守で、毎年9月1日が祭日です。今年は8月19日(日)の午前8時30分から幟立て、宵宮となる8月31日(金)に子ども御輿、9月1日は午後1時から祭典で夜には演芸大会、翌2日(日)に幟返しの日程で実施されました。

 私が訪れたのは幟を片付ける幟返しが行われた2日で、作業が開始される午前8時30分には40名ほどの男性が集まり、挨拶と清めの酒を飲んでから幟返しが始まりました。当社の幟には、両方ともに幟枠という龍が彫られた立派な木製の彫り物(ちなみに片方は10年近く前に盗難にあい、残った方を見本に作り直したということです)が取り付けられており、まずこれを外します。そして、「鎮守 御嶽神社 昭和五十八年九月一日 氏子中」と書かれた幟を下げて竿から取り、幟枠の上部の飾りを外していよいよ竿を倒し始めます。幟竿はかつてはもっと大きかったようですが、現在の一回り小さくしたものでも10mほどの長さはあるとのことで、倒す方向とは反対側では急に落ちたりしないように縄で引っ張り、梯子で枠を支えながらゆっくり倒していきました。そして、約1時間で二本の幟を片付けることができました。ちなみに幟立ては梯子で支えながらなのでもっと大変で、約2時間ほど掛かったそうです。

最初にも記したように、祭りに当たって氏子が寄り集まって人力で大きな幟を立てることは古い形式を残しており、また、大勢の氏子の方が集まることは、地域の祭りの一環として意味あるものとして位置付けられていることが分かります。それでも実際に仕事に当たられる立場からは、作業が大変なこともあって常設のポールを設置する意見も出されているとのことで、今後の推移を見守っていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

飾られた幟枠
飾られた幟枠

幟枠を外す
幟枠を外す

幟を下ろす
幟を下ろす

幟を竿から外す
幟を竿から外す

竿を支える支柱を外す
竿を支える支柱を外す

竿が倒れないように反対側では縄で引っ張る
竿が倒れないように反対側では縄で引っ張る

梯子で支えながら倒す①
梯子で支えながら倒す①

梯子で支えながら倒す②。支えている縄が見えている
梯子で支えながら倒す②。支えている縄が見えている

幟の先に取り付けられていた榊など
幟の先に取り付けられていた榊など

竿を立てる穴は常設で掘られている。普段は金板でふさいでいる
竿を立てる穴は常設で掘られている。普段は金板でふさいでいる

 

祭り・行事を訪ねて(40) 中央区上矢部・御嶽神社の湯花神事(平成24年9月)

 境川近くの地区の神社の多くは川沿いに見られ、中央区上矢部地区の鎮守である御嶽神社も同様に常矢橋のすぐ西側に鎮座しています。御嶽神社の例祭は日取りがいくつか動いた後に現在は9月の第一土曜日となり、この日には相模原地域ではここだけである湯花(ゆばな)神事が行われています。

湯花神事には境内の社殿の前に笹竹を四方に立てて注連縄を張り、その中央に三本の丸太を組んで大釜を据えます。また、地元でカツンボと呼ばれるニワトコの木を13本編んで棚を作り、この棚は社殿の向かって右側にある柱に設けて桶を乗せておきます。かつては川原にあったカツンボは無くなってしまい、最近では参道の脇のところに植えたりしているそうです。

大釜の設え
大釜の設え

社殿の柱に置かれた桶
社殿の柱に置かれた桶

 今年の湯花は神官の都合により、当日の午後3時からの社殿での式典の後に行われました。式典終了後、社殿の中では囃子連の代表の方による獅子舞とヒョットコなどの踊りがあり、その後に神官以下氏子総代などの役員が、湯が沸かされた釜の前に集合し、神官が湯をかき混ぜてからこちらに持ってきた先ほどの桶に初湯を入れ、柱の所にお供えします。そして、釜の前で祝詞を唱え、湯を四方に軽く撒くようにして湯花の神事は終了しました。ちなみに湯はそのままで、特に処置するということはないそうです。祭礼では夕方から演芸が始まり、釜の当番に当たる三名の方は、祭りがすべて終了する9時30分頃までは釜の火が消えないようにそばに付いていることになります。

桶を釜の前に運ぶ
桶を釜の前に運ぶ

桶に湯を入れる
桶に湯を入れる

初湯を柱の所に供える
初湯を柱の所に供える

釜の湯をかき混ぜる
釜の湯をかき混ぜる

湯を四方に撒く
湯を四方に撒く

 このように上矢部地区の御嶽神社の祭りは御輿などが出ることもなく、他に比べれば簡潔で静かな祭りですが、特に相模原地区ではほかに湯花神事は行われておらず、興味深いものといえます。町田に在住されている神官にお話しをうかがうと、この方が管轄している町田や八王子の神社では、数は多くないものの他の神社でも湯花神事を行っている所があるとのことで、こうした観点から地域の祭礼や神事を捉えてみる必要がありそうです(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(39) お盆の砂盛り~地域差のある民俗~(平成24年8月)

 8月を代表する年中行事と言えばやはりお盆を挙げることができます。古くからの行事が廃れていく中、盆行事は正月行事と並んで簡略化されながらも今でも続けられていることが多いものの一つです。

 ところで、神奈川県の盆を代表する行事としてよく紹介されるものに「盆の砂盛り」があります。県内の各地では、スナモリとかツカ・ツジなどと言って、盆の入りの13日に屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて土壇を作り、中には何かが登るためなのか階段を付けたりすることもあります。そして、この砂などを盛ったところに線香を立てて造花などの花をさし、その脇で迎え火や送り火を焚きます。砂盛りは、静岡県や多摩地方にも見られるとも言われますが他県ではほとんどないとされており、その意味で神奈川県を代表する民俗として捉えられています。

 しかし、この砂盛りはもう一つの重要な特徴があります。それは、砂盛りを作る地域は県内では東西に帯状に広がっていることが分かっており、三浦半島では希薄であり、相模原市でも緑区や中央区ではほとんど作られていないということです。この点を『相模原市史・民俗編』によって確認すると、市域での名称は一般に「線香立て」と呼ばれており、地域としては下溝・当麻・磯部・新戸・上鶴間にあり、特に磯部や新戸には色濃く見られます。また、例えば下溝では、大下集落では作るものの古山集落では行わないというように地区内すべてにあるわけではなく、当麻や上鶴間も同様の傾向があります。中央区になりますが上溝や田名では、やっていた家もある一方で一般的ではなかったとのことです。つまり、県内を帯状に分布するこの砂盛りは市内でも南部地域では作られ、特に新磯地区に顕著というように地域差が顕著な民俗であるということができます。

今年の8月17日にこうした地域の一部を回ってみたところ、さすがに現在では土や砂を固めて作ったのは少なく、鉢や缶・箱に砂などを詰めて線香立てとしているものが多くありました。また、中には石製で盆のたびに出してそのまま使っていると思われるものがあったり、階段付きも確認できました。ちょうど送り火の翌日でしたので隣りには送り火を焚いた跡があり、砂盛りとその近くには、線香を立てる竹筒や盆棚に供えてあった造花やナスとキュウリの馬、アライアゲといって刻んだナスとインゲンに洗った米を混ぜて里芋の葉に載せたもの、アライアゲに水をふりかけるのに使うミソハギ、オガラ(麻幹)などが置かれていました。

下溝・大下 紙箱に砂を詰めて代用している。
下溝・大下 紙箱に砂を詰めて代用している。

上磯部 階段を付けている。
上磯部 階段を付けている。

90-03-240813
下磯部 毎年使える石製のものを作っている。

 地域に伝えられてきた民俗はそれぞれの土地によって違いがあり、人々が担っている文化であることから単純に行政単位では区切れない面があります。一口に「相模原の民俗」と言っても県内の中で位置付けると、似たような状況にあるものや特徴のある分布を持つものなどがあり、さらには今回の「盆の砂盛り」のように市内の中でも違った様相を示すものなども見られます。『相模原市史・民俗編』ではこうした民俗についての細かい記載がありますが、この欄でもさまざまな観点から市域の民俗や祭礼行事を取り上げていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

新戸 現在では少なくなった土製もの。手前にナスの馬などが見える。
新戸 現在では少なくなった土製もの。手前にナスの馬などが見える。

 新戸 左と同じ。
新戸 左と同じ。

座間市上宿 ここでは土製のものがいくつか見られた。
座間市上宿 ここでは土製のものがいくつか見られた。

秦野市上大槻(1987年)。秦野市などでも盛んに作られ、階段も見えている。
秦野市上大槻(1987年)。秦野市などでも盛んに作られ、階段も見えている。

 

祭り・行事を訪ねて(38) 八王子祭りの山車(平成24年8月)

 8月5日の日曜日に、民俗調査会では「八王子祭り」の見学を行いました。毎月第二水曜日に活動する民俗調査会Aと第四土曜日を活動日とする同Bの合同の見学会で、民俗調査会では市域を中心に各地のフィールドワークを行っていますが、さすがに暑い盛りの8月は長い距離の外歩きは危険ということで、毎年、さまざまな祭礼の見学をしています。今回の見学会も相当の暑さの中、総勢36名の会員が参加しました。

「八王子祭り」は8月第一の金・土・日(今年は3・4・5日)で、民俗調査会では5日午後にまず八王子市郷土資料館で学芸員の方から、祭りの歴史や移り変わり、見所などのご説明をいただき、その後、八王子の町のメインストリートである甲州街道(国道20号線)に移動し、華やかで勇壮な御輿の渡御や山車巡行を見学しました。

八幡八雲神社の宮御輿
八幡八雲神社の宮御輿

 この祭りは江戸時代に甲州街道の八王子宿だった地域(旧市街地)で行われており、八王子駅寄りの下地区と西側の上地区に分かれていて、下地区に八幡八雲神社、上地区には多賀神社があり、元々は祭りは別々で祭礼日も違っていました。それが昭和43年(1968)に「八王子まつり」として御輿や山車が参加するようになり、両社の祭礼の日程を変更(ただし、八幡八雲神社では本来の日取りである7月23日に現在でも神事を行っている)して同じ日にするなどの変遷を経てきました。そして、平成14年(2002)からは、それまで一緒に行っていた花火大会や武者行列などを切り離して御輿と山車を中心とした伝統祭りとして位置付け、現在に至っています。

八王子祭りの大きな見所に、八幡八雲神社及び多賀神社の宮神輿の渡御と並んで各町内から出される山車があります。八王子の山車は上側に人形を飾ったり、全面に彫刻を施した彫刻山車の祭りとして江戸時代から著名でした。しかし、昭和20年(1945)の八王子空襲によって多くの山車が焼失してしまいました。それでも焼け残った山車や人形を修理したり新たに再建するなど、今では19台の山車が祭りに参加し、賑やかな囃子を奏でながら自分たちの町内や甲州街道の巡行を行います。

小門町(上地区)・新しく参加した町内も山車が華やかに巡行する
小門町(上地区)・新しく参加した町内も山車が華やかに巡行する

八幡上町(上地区)・明治期の建造で、古い山車の一つ
八幡上町(上地区)・明治期の建造で、古い山車の一つ

上八日町(下地区)・人形は素盞鳴尊(スサノウノミコト)で明治16年作。山車は近年のもの
上八日町(下地区)・人形は素盞鳴尊(スサノウノミコト)で明治16年作。山車は近年のもの

三崎町(下地区)・上側に人形が乗るのではない形式の山車で明治40年頃の建造と伝える
三崎町(下地区)・上側に人形が乗るのではない形式の山車で明治40年頃の建造と伝える

 相模原市内でも中央区上溝をはじめとして各地に山車が出る祭りがありますが、上溝・本町の山車は明治40年(1907)に八王子の横山町から譲り受けたものといわれ、大正初期頃に撮影された上部に天照大神(アマテラスオオミカミ)の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に紹介されています。また、緑区中野上町の山車は、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から譲り受けたもので、雄略天皇を乗せる人形山車の形態です。八日町一・二丁目にあった山車は、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされ、八王子ではその後の空襲で多くの山車が失われていますので、中野上町の山車は八王子の山車を知る上でも重要なものと言えます。今回の見学会でもこうした八王子と相模原のつながりに注意して実施したのはもちろんで、市内の祭り・行事や民俗をより深く理解するためにも、このような周辺地域との関係や異同などを調査し、検討していく必要があります。今後とも、機会を捉えて周辺地域の状況を含めて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

上溝・本町の山車。現在は人形は乗せていない
上溝・本町の山車。現在は人形は乗せていない

緑区中野上町の山車。八王子市八日町一・二丁目の山車を譲り受けた(2007年)
緑区中野上町の山車。八王子市八日町一・二丁目の山車を譲り受けた(2007年)

山車に乗せる人形の台座も一緒に買った。現在は山車に人形は乗せていない(2007年)
山車に乗せる人形の台座も一緒に買った。現在は山車に人形は乗せていない(2007年)

 

祭り・行事を訪ねて(37) 南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)

 南区下溝の古山集落は下溝地区のもっとも北側にあり、集落の神社として十二天神社を祀っています。この十二天神社の祭礼が、今年(平成24年)は7月21日(宵宮)と22日(本宮)に行われ、集落の中を大人の御輿と子ども御輿2基、囃子連を乗せた屋台(山車)が巡行しました。この御輿は天保10年(1839)製で市内に残る御輿でも古いものの一つとされ、屋台も古くは慶応年間(1865~1868)に上溝で再造したものでしたが、現在は新しく作り直したものを使っています。

 この地域の伝承を調べた『古山の集落と土地利用』(相模原市教育委員会が刊行した)によると、かつては古山の中には十二天神社のほかに八坂神社と日枝神社があり、それぞれ3月(十二天神社)・7月(八坂神社)・9月(日枝神社)というように年に三回の祭礼を行っていました。それが明治30年(1897)に、八坂神社と日枝神社が十二天神社に合祀されて祠がなくなり、その後も二社の祭りはあったようですが、昭和に入ると三社合わせて7月に祭りをすることになりました。このように本来の十二天神社の祭日ではなく、地域の神社の祭礼として合祀された八坂神社の祭礼日の方を行うようになったのは、やはり御輿や屋台を出す華やかなオテンノウサマの祭りの魅力が強かったと考えられます。

 また、以前は古山は集落の内が丸(マル)・上(カミ)・下(シモ)というように三つに大きく分かれ、例えば葬式があった際にはそれぞれの中で手伝い合ったりしており、祭礼の御輿も丸と上から7名、下から7名が出て(実際に担ぐのは12名で残りの2人は御輿を乗せる台を担ぐ)、これ以外の人は手出しをしたり途中で替わってはいけないなど、厳しい決まりがありました(現在ではこうしたことはもちろんありません)。一度担ぐと集落のもっとも下側の家に行くまで御輿から肩を抜いてはいけないということで、途中出される酒も担いだまま飲んだとか、御輿が重くて肩の皮が剥けているため翌日にうっかり鍬を担いだりするとあまりの痛さに鍬を畑に投げ出すほどだったなど、祭りに関するさまざまな話が残されています。

 今年(2012年)の本宮は、22日の午後1時から式典を行い、2時から御輿と屋台の氏子回りとなりました。鎮守の森に抱かれた神社の正面から御輿が出て行く様子は見ごたえがあり、その後を子どもが一生懸命に小さな御輿を担いでいきます。御輿を担いでいる時や休んでいる間も絶えずお囃子が奏でられ、祭りの雰囲気を一層高めます。古山の囃子は上手で、当麻や上溝などに教えに行ったとも言われています。

鳥居から出る御輿。これから氏子回りに出発する
鳥居から出る御輿。これから氏子回りに出発する

子ども御輿と囃子連が乗った屋台
子ども御輿と囃子連が乗った屋台

子ども御輿。奥にもう一基と屋台が見える
子ども御輿。奥にもう一基と屋台が見える

屋台も一緒に巡行する
屋台も一緒に巡行する

囃子が祭りに色を添える
囃子が祭りに色を添える

 御輿は集落の中を公会堂や氏子の家の前など、何か所かで休みながら進んでいき、止まる前には左右に大きく三回ずつ揉む勇壮な姿も見ることができます。そして、辺りが暗くなると御輿に付けられた提灯に蝋燭の火が灯り、幻想的な光景となりました。

 御輿は記念碑のところに寄る 御輿は左右に大きく揉まれる 提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である

御輿は記念碑のところに寄る
御輿は記念碑のところに寄る

 

御輿は左右に大きく揉まれる
御輿は左右に大きく揉まれる

提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である
提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である
八坂・日枝神社があった所に建つ記念碑
八坂・日枝神社があった所に建つ記念碑

 こうした御輿を担ぐ中で注目されるのは、八坂社と山王社があった場所(サンノウヤマ)に立つ昭和8年(1933)に建てられた記念碑の前でも止まることで、合祀以前はここから御輿が出て集落の南に行き、そこから十二天神社を経て戻ってきました。つまり、かつてはこの場所に八坂神社があって御輿が出ていたことを合祀されてからも旧地に向かう点を通して記憶に留めており、文字として書かれているわけではないかつての地域の歴史の一端を、御輿の巡行という行為によって示していると捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(36) 市内各地の天王祭(平成24年7月)

 今年も市内各地で夏の風物詩である天王祭(オテンノウサマ)が行われました。今年は土日の巡り合せの関係で(第五の土・日曜があった)、日程が分散する傾向も見られたようですが、いろいろな地区で大人や子どもの御輿に加え、お囃子を奏でる昔風の山車(屋台)や囃子の子どもを乗せた自動車などを見かけることができました。天王祭は、元々は人々が恐れる疫病を免れるために病気が発生しやすい夏場に行われ、日本を代表する夏祭りである京都の祇園祭(祇園会)も同じ目的をもったもので、この祇園会が長い歴史の中で全国に広まりました。御輿や山車などが連なり、にぎやかなお囃子にのって巡行する形式は京都の祇園祭の影響と考えられています。

市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」があまりに有名ですが、『相模原市史民俗編』に拠ると天王祭は新磯地区を除く地域で行われており、津久井地域でも各地で行われています。この「民俗の窓」でも、昨年は上溝の本町と五部会、当麻地区を取り上げ、今年は「民俗の窓」No37として22日に行われた下溝・古山集落のオテンノウサマについて記していますので参照していただければと思います。ここでは今年(2012年)訪れることができたいくつかの地区の写真を掲載します。これからも各地の天王祭を紹介していく予定です(民俗担当 加藤隆志)。

祭りの前には集落の境にシメナワが張られる(田名・ふれあい科学館前。7月14日)。
祭りの前には集落の境にシメナワが張られる(田名・ふれあい科学館前。7月14日)。

田名八幡宮に集まった各地区(水郷田名・清水・陽原・滝)の御輿。神職による御輿の御霊入れのために集まっている(田名地区。7月15日)。
田名八幡宮に集まった各地区(水郷田名・清水・陽原・滝)の御輿。神職による御輿の御霊入れのために集まっている(田名地区。7月15日)。

堀之内の子ども御輿(田名地区。7月15日)
堀之内の子ども御輿(田名地区。7月15日)

半在家の囃子が乗った車(田名地区。7月15日)
半在家の囃子が乗った車(田名地区。7月15日)

水郷田名の山車(田名地区。7月15日)
水郷田名の山車(田名地区。7月15日)

滝の子ども御輿(田名地区。7月15日)
滝の子ども御輿(田名地区。7月15日)

陽原の御輿。田名地区の数か所で担がれている大人の神輿の一つ(田名地区。7月15日)
陽原の御輿。田名地区の数か所で担がれている大人の神輿の一つ(田名地区。7月15日)

陽原の山車(田名地区。7月15日)。
陽原の山車(田名地区。7月15日)。

旧の大山道を、太鼓を先頭に進む橋本地区の御輿と山車(7月29日)
旧の大山道を、太鼓を先頭に進む橋本地区の御輿と山車(7月29日)

橋本の山車(7月29日)
橋本の山車(7月29日)

上溝・田尻の御輿(上溝地区。7月29日)
上溝・田尻の御輿(上溝地区。7月29日)

久保の御輿。各地区の御輿や山車は夕方に「上溝まつり」会場に集まる前に集落内を巡る(上溝地区。7月29日)。
久保の御輿。各地区の御輿や山車は夕方に「上溝まつり」会場に集まる前に集落内を巡る(上溝地区。7月29日)。

丸崎の山車。上溝の囃子は市内の中でも古い時期に伝わったと考えられている(上溝地区。7月29日)。
丸崎の山車。上溝の囃子は市内の中でも古い時期に伝わったと考えられている(上溝地区。7月29日)。

日曜日の夕方になると各地区の御輿や山車が集まってくる。手前の御輿は本町、奥が丸崎、遠くには丸崎の山車が見える(上溝地区。7月29日)。
日曜日の夕方になると各地区の御輿や山車が集まってくる。手前の御輿は本町、奥が丸崎、遠くには丸崎の山車が見える(上溝地区。7月29日)。

 

祭り・行事を訪ねて(35) 勇壮に舞った相模の大凧

~南区新磯地区の「相模の大凧」~(平成24年6月)

 

大凧の骨組み
大凧の骨組み

 相模の大凧は、相模川に面した新磯地区で相模の大凧保存会によって揚げられ、毎年、ゴールデンウィークの最中の5月4、5日に「相模の大凧まつり」として行われています。新磯地区の上磯部・下磯部・勝坂・新戸地区がそれぞれ凧を作って相模川の河川敷で揚げており、特に新戸地区の八間(14,5m)四方の大凧が有名です。これらの地区の南側では、座間市主催の「座間の大凧まつり」も実施されています。

 新磯地区の大凧は江戸時代の後半には行われていたとも言われ、現在見るような大凧が本格的に揚げられるようになったのは明治中頃からとされています。新戸では、日清戦争の戦勝祈願か凱旋記念で揚げた凧が最初の大凧と言われ、もともと5月のお節供に各家で凧を揚げ、特に男の子が生まれた初節供には一間ほどの大きさの凧を揚げていたのが、次第に大型化して地域全体で行うものとなりました。

 大凧に記された題字は昔から漢字二文字で、今年は“潤水都市さがみはら”になぞらえて「潤風」でしたが、これは昨年に東日本大地震が起こって大凧まつりが中止になってしまったために、昨年選ばれていた「潤風」が改めて用いられました。今年は4日の日は午後から雨が降るなど天候に恵まれなかったものの、幸いにも5日は天気も回復して気持ち良い風が吹くなど、絶好の大凧揚げ日和となり、一番大きな新戸の八間凧も揚がって勇壮な姿を見せました。関心のある方は是非、大凧まつりに足をお運びください。5月の気持ちの良い風の中、地域の伝統や関連して行われる各種のイベントに触れることができると思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

*ここに掲載したのは、博物館の民俗調査会でボランティアとして活動している市民の方から提供していただいた新戸地区の大凧揚げの写真です。これからも市民の方が撮影したさまざまな行事等の写真を紹介していきたいと思います。

大凧揚げる手順①
大凧揚げる手順①

大凧揚げる手順②
大凧揚げる手順②

大凧揚げる手順③
大凧揚げる手順③

大凧揚げる手順④
大凧揚げる手順④

大凧揚げる手順⑤
大凧揚げる手順⑤

揚がった八間凧。上に見えるのは同時に揚げられている三間凧
揚がった八間凧。上に見えるのは同時に揚げられている三間凧

 

祭り・行事を訪ねて(34) さまざまな養蚕信仰③

~南区磯部・勝源寺の六本庚申~(平成24年6月)

 

 南区磯部の勝坂集落の中ほどにある勝源寺(しょうげんじ)は、千手観音をご本尊とする曹洞宗の寺院です。そして、本堂の一角に本尊とともにお祀りされているのが、今回紹介する青面金剛(しょうめんこんごう)像で、第二次世界大戦前の養蚕が盛んだった時期には、手が六本あるため六本庚申(こんしん)あるいは千体庚申と呼ばれ、養蚕に効験のある仏様として市内ばかりか広範囲からの信仰を集めていたことが知られています。

 この像を祀る縁日は4月の初申の日あたりで、養蚕を行う多くの人がお参りに訪れました。この時には多くの露店も出て賑やかで、露店では木の枝に丸や繭の形をしたものや小判などを付けたお宝というものを売っており、それを買っていくと蚕が当たると言われました。また、本堂にはお姿をかたどった焼き物のミニチュアが1000個もあり、これを縁日にお参りに来た者が借りていき、養蚕の期間中は家で祀って秋に養蚕が終了すると返しに来ました。このミニチュアのお姿は、関東大震災の時に棚から落ちて多くが割れてしまったものの、今でもわずかにごく一部が残されています。

本堂内の青面金剛像
本堂内の青面金剛像

青面金剛のミニチュア
青面金剛のミニチュア

 六本庚申の信仰がどのあたりまで広まっていたのを示す資料として、ミニチュア像を貸し出した際の帳面があり、それによると市内の磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市などの住所が挙げられています。また、ミニチュア像の中には裏側に奉納した者の名前や住所が記されているものがあり、それにはこうした場所のほかに綾瀬市や藤沢市・横浜市などの地名も見えます。帳面などはかつてはもっとたくさんあったようですが、それでも地元の磯部地区を中心として主に南側の地域に信仰が広がっていたことが分かります。

 

明治5年に建てられた同形の34基の庚申塔が並んでいるところもある
明治5年に建てられた同形の34基の庚申塔が並んでいるところもある
勝坂集落に入る所にある大きな庚申塔の一つ。正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている
勝坂集落に入る所にある大きな庚申塔の一つ。正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている

 この勝源寺の六本庚申と関連すると考えられるのが、磯部地区に大量に建てられている庚申塔です。市内の相模原地域には、これまでの調査によって1600基ほどの石仏が確認されており、その中でもっとも多いのが庚申塔で200基以上あります。しかし、庚申塔は各地区に満遍なく見られるわけではなくて磯部に80数基が残されており、しかもその多くが大きさや形が同じでいずれも明治5年(1872)に造立されています。このような磯部地区の多くの庚申塔が、六本庚申の信仰に関わるものであることを直接に示す資料はありませんが、勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道しるべの役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます。

 庚申信仰は、60日に一度回ってくる庚申の日に徹夜しておこもりするのが本来で、市内でもかつては各地で行われており、庚申講が実施されたことを示すものが庚申塔です。このような庚申に対する信仰が養蚕信仰となっているのは他の場所ではほとんど聞くことがなく、かなり珍しい事例と言うことができます。市域が県下でも養蚕が盛んな地域だったことや、多くの神仏が養蚕信仰に「現世利益」化していったことを示しており、地域の特徴をよく表すものとして注目されます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(33) さまざまな養蚕信仰②

~南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目~(平成24年4月)

 

 小田急線相模大野駅そばの、行幸道路と国道16号線の陸橋が交わる所の角に小さな鳥居が見える神社は蚕守(かいこもり)稲荷神社で、上鶴間の谷口集落の中の山野講中の家々によって祀られています。この稲荷には、嘉永7年(1854)に京都の伏見稲荷神社から出された古文書が残されており、文書には「正一位蚕守稲荷」とあることから(「蚕守」の文字は右横に書き添えられています)、この時期にはその名の通り、養蚕の神として祀られていたとも考えられています。祭礼は、2月初午、4月17日の大題目(おおだいもく)、7月24日の御命日(ごめいにち)の三回で、このうち特に春の養蚕が始まる前に行われる大題目には、豊繭を願って近隣から大変多くの参詣者がありました。

蚕守稲荷神社。
蚕守稲荷神社。

社殿中で住職が読経を行い、右方では太鼓を叩いています
社殿中で住職が読経を行い、右方では太鼓を叩いています

  かつて大題目が近づくと当番は、境川の田から土を取ってきて便利な場所に土窯を三つも四つも作っておき、当日は朝早くから年寄りは米を研いだり炊き出しをし、若い者はケンチン汁の支度をします。10時くらいになると参詣人が来始め、この人たちに御飯とケンチン汁に香の物を振る舞い、大正頃の最盛期には米を五俵も焚きました。この飯を食べると養蚕が当たるとされ、朝から晩まで多くの人がやって来て拝殿に上がって御飯を食べてもらうのに、この人々を講中総出で接待したため、山野の者でこの日に家にいるのは病人ぐらいだと言われるほどだったそうです。また、それ以前には一斗樽から酒を振舞っていたものの、酒だとどうしても喧嘩になるので飯にしたとのことです。昔は女性(特に若い嫁)が家を空けられることが少なく、養蚕の祈願ということなら外に出られたので、まず大沼の弁天様(現在の大沼神社。ここも蚕に良くないねずみの天敵である蛇を祀るということで、養蚕の神として信仰を集めていました)にお参りし、その後に谷口のお稲荷さんに行ってケンチン汁をご馳走になるのが非常に楽しみだったという下溝の大正2年(1913)生まれの女性からのお話しは、今でも印象深く思い出されます。

かつて貸し出されて蚕室に飾られた絵馬(現在は整理されて残っていません)
かつて貸し出されて蚕室に飾られた絵馬(現在は整理されて残っていません)

  そして、参詣者はケンチン汁を食べるだけでなく、地元の日蓮宗の寺院である青柳寺から出された御札とクチドメという名刺くらいの大きさのお守りを受けました。絵馬もあり、これは蚕室に飾っておくと蚕が当たると言われ、前年に借りて行った絵馬を持ってきて新しいものと替えて行きます。クチドメもやはり蚕室に貼っておくとねずみが出ないとされました。このほか、当日は青柳寺の住職がお題目を上げ、講中の者が太鼓を叩きますがこれは今でも行われています。

 市内の各地に見られる稲荷社は元々養蚕にご利益があるとされ、その中でもこの蚕守稲荷神社は養蚕守護の信仰に特化して絶大なる人気を集めました。しかし、こうして近隣にも著名であった蚕守稲荷神社の大題目も、養蚕がすっかり見られなくなった現在では他地区からお参りに来る人もなくなり、現在では地区内と氏子の家内安全と招福除災を祈って地元の皆様によって行われています。このような地域に残る神社と行事が伝える養蚕に関したさまざまな民俗や文化について、これからも長く語り継いでいきたいものです(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(32) さまざまな養蚕信仰①

~中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃~(平成24年4月)

 

祠の隣りにある男根型の道祖神。古くから有名なものですが、今では盗難防止で柵の中です
祠の隣りにある男根型の道祖神。古くから有名なものですが、今では盗難防止で柵の中です

  今年(2012年)の冬は例年になく寒さが続いて桜の開花もかなり遅れましたが、その桜もいよいよ散り始めて花が舞う4月15日(日)に田名・堀之内地区の蚕影山(こかげさん)の春の祭りが行われました。蚕影社(こかげしゃ)はその名の通り養蚕の神として市内でも各地に祀られており、『相模原市史民俗編』によると、多くの蚕影社は明治時代以降により養蚕が盛んになるにつれて祀られ始められたもので、さらに祠はなくても、掛け軸を下げて念仏を唱える蚕影講(こかげこう)などもあったことが記されています。

 田名・堀之内地区の蚕影山の祠は堀之内自治会館の敷地にあり、隣りには男根型の大きなサイノカミ(道祖神)が並んでいることでも有名です。蚕影山の祠の中には金色姫(こんじきひめ)という女神が舟に乗っているお姿の像が祀られているのが特徴で、こうしたものをお祀りするのは他の地区にはあまり見られません。この像も養蚕の神として有名で、明治末から大正頃に八王子方面から買ってきたとも言われており、元々は4月18日と10月18日がお祭りで今ではこの縁日に近い日曜日に行われています。やはり『市史民俗編』によると、お祭りは春はその年の蚕の豊作を祈願し、秋は豊繭を感謝するもので、堀之内の念仏講中によって行われてきたのが昭和40年代に絶えてしまいました。しかし、蚕影山の和讃(わさん)は講中の女性たちによって続けられ、昭和51年(1976)には自治会の行事として復活して、午前中に和讃をあげ、午後からは自治会主催のお祭りを行うという現在の形になりました(ただし、秋には和讃のみが行われます)。

 蚕影山の和讃の内容は蚕の由来を説くもので、金色姫という天竺(てんじく)の帝の姫君が継母のいじめに遭って孤島に追いやられたり土中に埋めたりとさまざまな苦難を受け、姫の身を案じた帝は桑の木で舟を作って姫を乗せて海に流します。舟は常陸の国(今の茨城県)の豊浦という地に流れ着いて権の太夫(ごんのたゆう)という土地の者が介抱したものの、ついに長路の疲れによって姫は亡くなってしまいます。すると姫の体は虫となり、その虫が桑の葉を食べて成長して繭を作って絹ができたというあらすじで、この物語が哀調を帯びた独特の節回しで唄われます。今年の蚕影山和讃は、新築されたばかりの自治会館の二階で自治会長や自治会婦人部の皆様が立ち会う中、13名の女性の方々によって午前10時30分前から約20分ほどの時間で行われました。

桜の花が舞い散る中で行われました
桜の花が舞い散る中で行われました

女性たちによって蚕影山和讃が行われました
女性たちによって蚕影山和讃が行われました

祠の中の金色姫のお像。波間に漂う舟に乗っています
祠の中の金色姫のお像。波間に漂う舟に乗っています

 以前は春の祭りは養蚕の準備に忙しいため祈願が中心であったのに対し、秋には一年の感謝として盛大に行われ、余興として周辺の一座を呼んで芝居をしたり、青年団が歌や踊りをすることもあったといいます。現在では、午後から地元の皆様による模擬店などが出るほか、カラオケや子ども会の囃子・景品が当たるくじ引きなどが行われています。

 相模原は養蚕が大変に盛んであった地域であり、多くの養蚕に関わる行事や信仰が見られました。今では産業としての養蚕はすべてなくなってしまいましたが、今回紹介したような行事は、これからも地域の文化を伝えるものとして長く続いていっていただければと願っています(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(31) 有鹿神社の「お水もらい」(水引祭)~南区磯部・勝坂地区~(平成24年4月)

  南区磯部の国指定史跡である勝坂遺跡(国指定史跡)は勝坂遺跡公園として整備されていますが、その段丘崖の下の湧き水が流れる一角に鎮座している石祠が有鹿(あるか)神社です。有鹿様というと海老名市上郷の鳩川が相模川に合流する地点にある神社が有名で、ここは神奈川県最古の神社とも称されています。そして、海老名にある御本宮に対して奥宮と位置付けられているのが勝坂の有鹿神社です。

 この有鹿神社には大変興味深い伝承があります。かつて4月8日の有鹿神社の祭りは「有鹿様のお水もらい」などと言って、海老名から御神体を入れた神輿を担いで来てそのまま帰り、6月14日に改めて御神体を迎えに来たといわれ、この時には白い大蛇がよく見受けられたため神様が現れたといったそうです。勝坂はたくさんの湧水が湧き出す段丘の下に位置し、それらの水が鳩川に流れ込んで海老名に広がる水田の水源となっていたために行われた行事ではないかとされ、また、御神体が勝坂に渡御するに際しては、海老名と勝坂の途中にある座間の神様ともいろいろと係わりがあったとの話も伝えられています。

海老名の有鹿神社本宮
海老名の有鹿神社本宮

勝坂にある奥宮
勝坂にある奥宮
幟立て (4月3日。なお、祭りの様子を写したものはすべて昨年の撮影です)
幟立て
(4月3日。なお、祭りの様子を写したものはすべて昨年の撮影です)
石祠へのお供えものの準備 (4月3日)
石祠へのお供えものの準備
(4月3日)

  実は有鹿神社の祭りは現在も行われており、昨年(2011年)の場合には、まず4月3日(日)に地元の勝坂地区の方々によって実施されました。当日は午前中に氏子総代や自治会の社係り(地区の神社に関する当番)の皆様を中心に祠や参道の清掃を行い、幟を立てて鳥居などの注連縄を新しくして祠には米や酒を供え、代表者が榊をあげて全員でお神酒を飲んで終了となりました。この行事は8日に備えてであり、古くからのものではないとのことです。本来の祭礼日の8日(金)には海老名の有鹿神社の宮司と氏子総代(上郷及び河原口地区)の一行が勝坂までやってきて、「水引祭」が行われます。水引祭は海老名の方々だけで行われ、勝坂の人は参加しません(ただし、最後に海老名の代表が勝坂の総代の家に挨拶に行きます)。ここでは祭式の後に、石祠のさらに奥にある湧水の湧き出し口から宮司と総代の代表が水を汲むといった非常に特徴的な行為がなされており、この水は海老名まで持ち帰ります。また、この日、海老名の男の神が勝坂に至り、6月まで勝坂の女の神の元に留まることになるので帰りには軽くなっているとされています。海老名の有鹿神社からは、神を迎えるために6月14日を中心とした日に再度やって来るほか、最近では12 月20日にも祭りを行っているとのことです。

宮司による祝詞(4月8日)
宮司による祝詞(4月8日)

湧水から水を汲む(4月8日)
湧水から水を汲む(4月8日)

 このような一連の行事に見る、水をめぐる海老名と勝坂の二つの有鹿神社の深い関係のあり方は、市内ばかりでなく相模川や鳩川流域に係わる広い地域の歴史や文化を考える際に重要な資料であり、注目される行事と言えます(民俗担当 加藤隆志)。

天文教室

Posted on 2013年11月27日 by admin Posted in イベント
内 容 今年春に観測されたパンスターンズ彗星に続き、明るくなると期待されているアイソン彗星がいよいよ11月末から12月に接近します。また、はやぶさ2がめざす小惑星1999 JU3とはどのような小惑星なのでしょうか。今年は彗星や小惑星の話題に触れながら、天体望遠鏡操作の基礎を学びます。
※第1回・第2回は公開講演です。

 回 開催日 内容 講師
1 10月11日(金)
【公開講演】
・小惑星の基礎
・小惑星イトカワの姿
・「はやぶさ2」がめざす小惑星「1999 JU3」とは
講師:矢野創さん(JAXA宇宙科学研究所 太陽系探査科学助教)
2 10月18日(金)
【公開講演】
・彗星の基礎
・彗星はどこからやってくるのか。
・海王星よりも遠い太陽系天体の姿
講師:猿楽祐樹さん(JAXA宇宙科学研究所 赤外・サブミリ波天文学研究系研究員)
3 10月25日(金) ・天体望遠鏡操作の基礎
・赤経、赤緯の扱いと天体導入
博物館職員
4 11月8日(金) ・天体を記録する
・デジタルカメラ等で天体を撮影する
博物館職員
5 11月15日(金) ・淡い天体をとらえてみよう 博物館職員
6 11月22日(金) ・アイソン彗星を観察する
・11月29日早朝の観察に向けた確認
博物館職員
7 11月29日(金) ・今回の教室のまとめとアイソン彗星最新情報 博物館職員

協力:博物館天文クラブメンバー

日時・場所 10月11日(金)から11月29日(金)までの金曜日、午後7時~8時30分、全7回
博物館実習実験室、天体観測室等
対 象 市内在住、在学または在勤で15歳以上の方
参加費 無料
定員 30名(申込多数の場合は抽選)※第1回・第2回は公開講演のため、定員200名(当日受付)。
申込方法 ※第1回(10月11日)、第2回(10月18日)のみ、当日午後6時から7時に会場で受付を行ないます(公開講演・事前申込不要)。
以下の事前申込はすでに締切りました。
往復はがき(1枚につき1名)に
①教室名(天文教室)
②参加者の住所
③参加者の氏名
④参加者の年齢
⑤電話番号
⑥在勤・在学は勤務先・学校名
を明記して、相模原市立博物館まで。返信用の宛先も記入して下さい。
(〒252-0221 相模原市中央区高根3-1-15)
募集期間 9月1日(日)~15日(日)(必着)※募集期間外の申し込みは無効となります)

体験教室「砂を顕微鏡で見てみよう」

Posted on 2013年11月27日 by admin Posted in イベント
内 容 日本各地の砂の中に含まれている鉱物や岩石を顕微鏡で観察します。
日時・場所 12月22日(日) 午前10時から午後4時まで
博物館2階実習実験室
対 象 どなたでも
参加費 無料
申込方法 当日、直接会場へ

民俗講演会「柳田國男と内郷村調査」

Posted on 2013年11月27日 by admin Posted in イベント
内 容 大正7年に当時の内郷村(現・緑区寸沢嵐及び若柳地区)で行われた、柳田國男を中心とした「郷土会」による調査の経緯や内容、その後の展開等を通じて、この調査の意義や重要性について紹介します。
日時・場所 8月4日(日)午後2時から午後4時まで
博物館大会議室
対 象 どなたでも
参加費 無料
定員 200人(当日先着順)
« 前ページへ
次ページへ »

R7年度開館日カレンダー

R7年度博物館開館日カレンダー

プラネタリウム

ネットで楽しむ博物館

RSS 相模原市立博物館の職員ブログ

  • ヤマトシロアリの結婚飛行 2025年(シロアリの群の画像あり)
  • バードウイーク
  • 緑区三ケ木の村芝居

相模原市立博物館 ・ X

【公式】相模原市立博物館 (@sagamihara_city_museum) ・ Instagram

おびのっち

尾崎咢堂記念館

吉野宿ふじや

相模原市ホームページ

相模原市立博物館

〒252-0221
神奈川県相模原市中央区高根3-1-15
TEL:042-750-8030
FAX:042-750-8061
E-mail:
hakubutsukan@city.sagamihara.kanagawa.jp

※E-mailでの問い合わせの際は、ドメイン「@city.sagamihara.kanagawa.jp」からのメールが受信できるよう設定をお願いします。

CyberChimps ©2025