カテゴリー別アーカイブ: 平成23年度

民俗の窓(平成23年度)

祭り・行事を訪ねて(30)~神社の境内にある不動堂~南区磯部・磯部八幡宮~

 南区磯部の磯部八幡宮は、磯部のうちの上磯部地区の鎮守で祭礼は9月5日(前日の4日が宵宮)に行われます。この神社の境内には不動堂があり、中に納められている木造の不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)は江戸時代に制作されたもので、装飾的な意匠や技術に優れた仏像として相模原市の指定有形文化財となっています。  ところで、神社の境内に仏像が祀られているということを奇異に思われる方もいるのではないでしょうか。ここでは紙面の関係もあって詳しく述べることはできませんが、実は江戸時代までは神社と寺院は密接な関係(「神仏混淆(しんぶつこんこう)」「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」)にあり、神社の管理や祭祀を寺(「別当寺(べっとうじ)」)が行うことが一般的に見られました。そして、近世後期の天保12年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』によると、市内でも多くの神社の別当寺があったことが分かります。磯部の八幡社(現在の磯部八幡宮)も別当は仏像院という寺であり、八幡社には護摩堂があって不動が安置されていると記されていることから、不動像は仏像院の本尊であったことが考えられます。  この不動は特に火災除けにご利益があるとされ、祭祀は毎年3月28日に決まっていて今年(2012年)も午前11時から神社の総代の皆様が集まって実施されました。『相模原市史民俗編』によると、かつては別当の仏像院が祭りを執り行って護摩を焚いたといい、昭和32年(1957)頃までは子ども相撲が開かれたとありますが、現在ではこうしたことは無くなり、八幡宮の年間の行事の一つとして神職が祝詞を上げ、玉串を奉奠(ほうてん)するなど神式の作法に則って行われます。

不動堂の扉を開けて準備
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/500 sec, ISO100)
不動堂の扉を開けて準備
総代による玉串奉奠
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/160 sec, ISO100)
総代による玉串奉奠

 市内では、下溝地区の下溝八幡宮の境内にも木造の不動明王坐像(市指定有形文化財で江戸時代中期の作)があります。こちらも江戸時代には八幡社の別当寺であった大光寺の本尊であったものが、明治初期に神社と寺院の管理を神職と僧侶というように厳密に分ける神仏分離が行われた結果、大光院が廃寺となって不動像が下溝八幡宮の境内に祀られるようになったものです。このように、地域の神社に仏像が残されていることから「神仏混淆」(神仏習合)や別当寺、神仏分離といった日本全体の大きな歴史の流れを知ることができるのですが、そうした観点から改めて身の回りのことを見ていくと、さまざまな地域の歴史や文化が顔を出しているのに気が付きます。  なお、不動堂の中にはいくつかの棟札や絵馬のほかに、蚕の繭を詰めた額が2点あることにも注目されます。明治40年(1907)及び大正6年(1917)にいずれも地元の家から奉納されたもので、繭が三段ずつガラス入りの額の中に並べられており、後者に「9月吉日」とあることから繭がよくできたことを祝って奉納されたものと思われます。不動が火難除けのみならず養蚕に対しても信仰があったことを示す一方で、このような繭額というようなものは市内では他にほとんど例がなく、養蚕が非常に盛んだったこの地域にとって非常に重要な資料と言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。

木造不動明王坐像
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO120)
木造不動明王坐像
不動堂の中にある繭額 写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
不動堂の中にある繭額
写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納

祭り・行事を訪ねて(29)~屋敷神の稲荷を祀る~緑区根小屋・中野地区~

  前回の「祭り・行事を訪ねて(28)」では、地域全体で祀られている稲荷社での初午の行事(稲荷講)を記しましたので、今回は個人の家の屋敷神の初午について紹介したいと思います。  これまでにも「繭玉作り」や「正月飾り」などでこの欄に何回か登場していただいている緑区根小屋の菊地原稔さんは、自家での年中行事を今でもきちんと行われており、初午の行事も写真を撮らせていただきました。ただ、今年(2012年)の初午は2月3日で翌日の立春の前に当たったので、12日後の15日の二の午の日に行われ、昔から立春前には初午はやらないとのことです。  当家には屋敷神の稲荷社が「正一位稲荷(しょういちいいなり)」と「穴守稲荷(あなもりいなり)」の二社あり、前者は元々当家で祀っていたもの(かつては上側の県道の端にあり、道の拡幅のために現在は母屋の裏側に移されています)でどこから勧請(かんじょう)したものか不明で、後者は元々別の家のものでしたがその家が引っ越したため、屋敷跡を購入した当家で継続して祀っています。穴守稲荷は東京都大田区の羽田に鎮座する稲荷で、大鳥居の移転に伴う不思議な話が有名です。

正一位稲荷
正一位稲荷
穴守稲荷
穴守稲荷

 この日の朝に両方の稲荷社に幟をあげ、榊や灯明のろうそくの他に藁を折って作ったツトと呼ばれるものとメザシ(または油揚げ。メザシか油揚げのどちらか)・お神酒・水をお供えします。ツトには赤飯や小豆飯を入れることが一般的に見られるものの、当家では洗った米を使います。また、メザシは二尾を水引で縛って祠の前側に吊り下げるようにします。

藁でメザシをくくる 写真左側にみえるのがツト
藁でメザシをくくる
写真左側にみえるのがツト
灯明のろうそくに火をつける
灯明のろうそくに火をつける
90-03minzoku240304 90-03minzoku240306 90-03minzoku240307

稲荷の手前に見えるのがツト、右上に掛かっているのが用意したメザシ

 なお、この地区にはかつては個人の家だけではなく地区で祀る稲荷社もあり、この稲荷社も初午の時に20軒ほどで稲荷講を行っていて、会費制で回り番で宿が酒と肴を用意し、男衆が集まって飲み食いをしていました。現在、この稲荷講はなくなってしまいましたが、江戸時代末期の嘉永年間に作られた旗は残っているそうです。  『相模原市史民俗編』には、「年中行事と季節感」の章で初午について細かく記載されており、地域や家によってさまざまに行われていたことが分かります。それぞれの年中行事の中で、稲荷を祀る初午行事はやらなくなった所も多い一方で、他の行事に比べて形を変えながらも比較的行われている度合いが高いものの一つと言えます。今後とも、市内各地のさまざまな事例を集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志) 

祭り・行事を訪ねて(28)~正月飾りを燃やす稲荷講~南区下溝・新屋敷地区(平成24年2月)

 市内には集落の神社として、また、一族や個人の家々の神として非常に多くのお稲荷(いなり)さんが祀られており、今回紹介する南区下溝の新屋敷(アラヤシキ)地区にも稲荷社があります。元々はこの稲荷社の敷地は地区内の旧家である福田家の畑の一角にあり、福田家とともにやはり旧家の矢野家一族の守り神でしたが、後には稲荷社の回りも開発されるなど家数も増えたこともあって今では地区全体の神になっています。  各地の稲荷社のお祭りが行われるのが、2月に入って最初の午(ウマ)の日である初午です。新屋敷の稲荷社では、今年(2012年)は初午が3日で金曜日となるため、直後の日曜日である5日の午前中に稲荷講が行われました。福田家や矢野家で祀っていた頃には、初午に各家の中から宿を決めて集まっていたのに対し、現在では稲荷講世話人会と自治会で管理しており、通常の稲荷社の清掃などは平成16年に発足した世話人会が当たり、初午の際の稲荷講は自治会の中の組が毎年当番となって実施する(今年は7組)という形を採っています。  当日は、午前8時30分に7組の方々が稲荷社に集合してテーブルや椅子を出したり、稲荷社の幟旗(のぼりばた)を設置するなどの準備を行いました。ちなみに今の幟旗は二代目で、古い初代のものは京都の伏見稲荷から請けてきたとのことです。また、焚き火を燃やし、9時に稲荷社に全員でお参りして稲荷講が始まりました。ただし、稲荷講といっても特別に改まって何かをするようなことはなく、集まった人々が酒や茶を飲みながら1~2時間の間歓談するだけで、お参りに来た子どもたちにはお菓子などを配ります。その後、焚き火が消える頃に後片付けをして、掛かった経費の精算をして終了となります。

稲荷の祠(ほこら)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO100)
稲荷の祠(ほこら)
幟旗の準備
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
幟旗の準備
稲荷社へのお参り
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO100)
稲荷社へのお参り

  稲荷の祠(ほこら) 幟旗の準備 稲荷社へのお参り  実は、何の変哲もないように思えるこの行事の中で特徴的なのは、オタキアゲと称して各家の正月のお飾りを燃やしていることで、境内の一角に集められた正月飾りを焚き火にくべてその上に網を置き、赤飯やお神酒とともに稲荷社にお供えされた油揚げやめざしをあぶって食べながら話をします。「祭り・行事を訪ねて」の欄でもたびたび紹介しているように、市内では周辺地域を含めて、正月飾りは正月14日頃を中心に実施されるどんど焼き(団子焼き・セイトバライ)で処理するのが当たり前で、その火で団子を焼いて食べることは現在でも広く行われています。ところが新屋敷では昔からどんど焼きがなく、正月飾りは初午の際に燃やしていて、かつて子どもたちは隣接する堀の内や松原集落のどんど焼き(日之下地蔵横、大正坂下の十字路)に団子を焼きに行き、その際にはよそ者が来たというような目で見られたと言います。

正月飾りを燃やす
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
正月飾りを燃やす
 お飾りを燃やした火で油揚げや めざしをあぶる
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/200 sec, ISO100)
お飾りを燃やした火で油揚げや
めざしをあぶる
あぶったものを食べながら 歓談する
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/250 sec, ISO100)
あぶったものを食べながら
歓談する

 神奈川県内では、2月1日に屋内の正月飾りを下ろし、これを初午の時に稲荷の祠の前でオタキアゲをするという所が各地に点々とあることが知られており(『神奈川県史各論編五 民俗』)、新屋敷もこれに該当するものですが、現在分かっている状況においては市内ではあまりない事例ということができます。他の地区では同様な事例がないか、今後とも注目していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 

祭り・行事を訪ねて(27)~団子焼きと道祖神~南区上鶴間本町・鵜野森・東大沼

 今年の団子焼き(どんど焼き)では、「祭り・行事を訪ねて(24)・(25)」で記した町田市木曽町境川や南区当麻の原当麻地区のほかにもいくつかの場所を訪れることができました。今回は、その中から道祖神を燃やしたり小屋を作ることと関連するいくつかの地区を取り上げることにします。  南区上鶴間本町の金山神社は「祭り・行事を訪ねて(14)」で紹介した新しい道祖神碑を建立した地区です。新しいものを作ったのは、以前よりあった道祖神碑を、境川地区のようにかつて火の中に投じていて傷みがひどくなったためで、現在では実際に燃やすことはなく、点火前に持ち出して前面に置くだけになっています。この地区で注目されるのは、点火する火種を神社の外側の辻になっている所で付けることで、これは古くはこの場所に道祖神碑があってその前で団子焼きをしていた名残りであり、新旧の道祖神ができて別の位置に移されても火だけは元あった所から持ってきていることが分かります。今年も例年通り、14日(土)の昼過ぎに点火してすぐに団子が焼けるように準備しておき、午後3時前には団子焼きが始まりました。

かつて道祖神のあった辻で 火をつける
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
かつて道祖神のあった辻で
火をつける
古い道祖神(右側)の前で 点火する
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/320 sec, ISO100)
古い道祖神(右側)の前で
点火する
新しく作られた道祖神碑はそのまま 置かれている
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
新しく作られた道祖神碑はそのまま
置かれている

  同じく道祖神碑を燃やす場に持ってきている地区に大沼があります。大沼では、日取りは異なるものの大沼神社(神社主催で毎年14日に実施)とふれあい広場(自治会主催。今年は8日の日曜日に実施)の二か所で団子焼きが行われており、いずれも点火する際に道祖神を前側に置いています。この2基とも昭和50年代に地元の工務店がそれ以前のものが傷んだために寄付したもので、取り外しができるようになっていて団子焼きに際して移動させられるように作られています(大沼地区には同じ工務店によるものがもう1基あります)。また、大沼ではかつて子どもたちが集落の各家から藁を集めて小屋を作って夜にはオコモリをして遊んでいたとか、昔から大沼では上と下の二か所で団子焼きをしていて、子どもたちが隣りで作った小屋を壊しに来るので外側には棘のあるバラの枝を結んで防いでいた、とのお話しなども聞くことができました。

道祖神碑が燃やされるものの 中に置かれる
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/125 sec, ISO100)
道祖神碑が燃やされるものの
中に置かれる
道祖神は取り外しができる。 (写真は取り外された状態)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
道祖神は取り外しができる。
(写真は取り外された状態)
点火直前に少し離れた 場所に移動
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
点火直前に少し離れた
場所に移動

 今年は8日の日曜日に行ったところが多かった中で、9日(祝)の成人の日に実施した地区の一つが鵜野森自治会です。鵜野森では午後1時が点火の時間で、その10分ほど前に役員が会場となる子ども広場から少し離れた所にある道祖神碑に向かいます。そして、道祖神の前で天眼鏡を使って太陽の光で半紙に火をつけて、その火で灯明を灯して、道祖神に供えてみなで拝んだ後に、さらに油を掛けたお飾りに火を移して会場に運んで点火をしました。こうした行為もかつては道祖神の前で団子焼きを行っていたことを示しています。ここでは正月飾りが燃え盛る火で団子を焼く人々がいる一方で、バーベキューをするような施設が一角に作られており、そこに炭のようになった火を入れて子どもたちが危なくないようにして団子を焼く微笑ましい様子なども見られました。  今回取り上げたのは、今年行われた行事の中でもかつての様相の一端を残すものですが、もちろん市内では古くからあまり変化していないところや大きく変わったもののほか、新しく始まった地区もあります。これからも正月14日前後の一年に一度行なわれるこの行事について、なるべく多くの事例を調べ、報告していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

道祖神の前で点火
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
道祖神の前で点火
お飾りに火を移す
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO100)
お飾りに火を移す
火を移したお飾りを会場まで運び点火
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/400 sec, ISO100)
火を移したお飾りを会場まで運び点火

祭り・行事を訪ねて(26)~「道祖神の小屋」作り②~南区古淵地区

 前回の「祭り・行事を訪ねて(25)」で紹介した原当麻地区と同様に、「道祖神の小屋」を作っているところに古淵地区があります。古淵の団子焼きは、地域の鎮守である鹿島神社境内裏手を会場として、例年、曜日に関係なく14日に点火となっており、自治会などとは関係なく古くから住んでいる人たちを中心に行われています。  準備は、当日の午後に、神社役員が木で枠組みを立てて藁で小屋状のものを作り、7日を過ぎると各家から神社の境内の一角に出されるお飾りやお札などを内側に詰めていきます。この藁の小屋は「道祖神のお宮」などと言われますが、特に中に道祖神があるわけではなく、そもそもこの地区には道祖神碑は見あたりません。また、小屋の隣りには、毎年その場所を使っている少しくぼんだ所があり、ここにはたくさんの枯れ枝などの木の枝を積み上げるほか、お飾りなどが置かれることもあります(こちらのものは特に名称はありません)。

道祖神のお宮 道祖神の小屋の奥に別に燃やすものが見える  あたりが暗くなった午後5時頃が点火の時間で、先に小さな道祖神のお宮に火をつけ、燃えているお宮の火を移すようにして大きな枝を積んだ方も燃やします。点火直後はあまり人もいないものの、次第に団子を三つ又に挿した木の枝を持った人々が集まってきて団子を焼き出します。ここでは団子は各家で作ったものを持参し、かつては団子焼きはお蚕さんのお祭りで、そのために団子を繭の形にしたとのお話を伺いました。そして、なかには焼いた団子を、その場で隣りの人が焼いたものと取り替える「トッケエ団子」をしている様子を見ることができました。このような焼いた団子を交換することは、かつては各地で行われていたことが分かっており、特に前年に蚕が良い繭を作った家の団子を欲しがったとの話もありますが、現在、実際にトッケエ団子を行っている地区はほとんどないようです。

先に道祖神の小屋を燃やす 団子焼きの奥で、少し遅れて 大きなものにも点火する。 トッケエ団子で、焼いた団子を取り替える  原当麻では、作った藁の小屋をそのまま数日間置いてから燃やすのに対して、ここでは石の道祖神碑がないのにもかかわらず「道祖神のお宮」と呼ばれるものを当日に作ってすぐ燃やしてしまうことや、道祖神のお宮とは別に大きな燃やすものを作っていることが特徴です。また、「祭り・行事を訪ねて(24)」で触れた境川対岸の町田市木曽町の境川地区でもかつては藁の小屋を作っていたとの伝承があるなど、境川を挟んだ両者の関係も注目されます。いずれにしても古淵地区の団子焼きは、市内の中でも古い様相を残しているものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(25)~「道祖神の小屋」作り①~南区原当麻地区

 前回の「祭り・行事を訪ねて(24)」で紹介した道祖神石碑を焼くことと並んで、どんど焼き行事の中で現在でも行われている特徴的なものとして「道祖神の小屋」を作ることがあります。これは道祖神やその他の石仏を覆ったり、その近くに藁で小屋状のものを作ることで、かつて作ったとする伝承は各地にありますが今でも田名や当麻の一部の集落や古淵などでは見ることができます。ここでは、今年(2012年)の当麻・原当麻地区の状況を紹介します。

道祖神の前にお仮屋を作る(9日)  原当麻では、団子焼き・どんど焼き・セイトバライなどと呼ばれるこの行事を近年では成人の日としてきたのに対し、今年は本来の当たり日が土曜日になったため14日(土)に行いました。ただ、その前の9日の成人の日の午前中に地域の氏神である浅間神社の世話人が集まり、道祖神の前に各家から出された正月飾りを使ってお仮屋という小屋を作り、また、浅間神社の奥側の広くなった場所(浅間神社の元宮があった所)に木の枝やお飾りを円錐形に積んでいきます。お仮屋は長さが約六尺(約1m80cm)で出されたお飾りの中から神棚に供えてあったものを使って作り、屋根には両側に太い注連縄(しめなわ)を海老のように曲げて立派に飾ります。元は神社の前側を出た、県道の端に道祖神の石碑があってお仮屋もこの場所に作っており、道祖神を現在地に移してからはお仮屋の場所も同様に移っています。  点火は14日の午前8時で、市内でも相模川に沿った南部地域や津久井地域の一部などでは、昔から朝方に火を付けたとする地区があり、原当麻もこうした所になります。実は今から10年ほど前の2004年にもこの地区に展示の関係で訪れたことがあり、その際には朝7時に点火で、かつてはさらに前の6時だったということでした。こんなに早くては子どもが団子を焼きに来られないということで、今回は8時に点火ということとしたそうです。点火すると木立の中でかなり火が燃え上がり、そのうち親子連れを中心に、地区の人々が三つ又の枝に団子を付けたものを持って集まってきて団子を焼き始めます。中には「奉納道祖神」と書いた書初めを枝に付けている人もいて、書初めを火に近づけるとあっという間に半紙が燃え上がります。焼いた団子を食べると風邪をひかないとされるとともに、書初めが高く上がると字が上達すると言われています。

朝方に点火する(14日) 書初めを団子の枝につけて燃やす人 団子焼き  ここで注目されるのは、しばらくすると道祖神の前に作られていたお仮屋を運んできて火に投じて燃やしてしまうことで、この地区のお仮屋が姿を見せるのは一年間のうちのわずか数日間だけで、どのような形のものかを実際に確かめるにはこの間に来て見るしかないということです。同じ当麻地区の中でも昭和橋に近い中・下宿では、団子焼きの前に作った小屋を燃やすことはせずに来年までそのまま置いています。また、かつては大きな小屋を作り、子どもたちがその中に入って夜中遊んでいたとの伝承も残っています。「道祖神の小屋」にも地区によってさまざまな形態があり、変遷も見られたことがわかります(民俗担当 加藤隆志)。

途中でお仮屋を運ぶ お仮屋を火に投じて燃やす 中・下宿では、1年中置いておく。 左は地神塔 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~町田市木曽町境川地区

 今年(2012年)も正月8日から15日にかけて、団子焼き(どんど焼き)の行事が賑やかに行われ、私もできるだけ各地を回り、多くの行事の様子を見せていただきました。その中には大変特徴的なことを行っている地区がありますので、この欄でいくつかの地区の状況を報告したいと思います。  かつてのこの行事では、各家の正月飾りとともに地域で祀る道祖神の石碑を実際に燃やしてしまったとの伝承が残されており、「祭り・行事を訪ねて(14)」でも少し触れましたが、市内でもいくつかの地区でこうした話を聞くことができます。これは現在ではほとんど無くなっていますが、南区古淵地区の境川を挟んだすぐ対岸の町田市木曽町の境川地区では現在でも道祖神の石碑を燃やしています。ここには正面に「道祖神」と刻まれ、文化5年(1808)7月の銘がある石碑「セイノカミと呼ばれていました」が祀られていて、近年までこの石を燃やしていました。しかし、毎年のことなので傷みがひどく、現在は平成20年(2008)に新しく造られたものを燃やしており、以前のものはどんど焼きを行う八坂神社の境内に祀られています。

どんど焼きが行なわれる八坂神社 八坂神社の境内に祀られている古い「道祖神」  今年の境川地区のどんど焼き(かつては「団子焼き」と言った)は、年が改まってすぐの1月8日(日)に行われました。当日は午前中に境川自治会と隣りの中原自治会の皆様が集まって準備に取り掛かりました。中原自治会が加わったのは今年からで、正月のお飾りをゴミとして出していたのに対しどんど焼きをやりたいとの希望があり、普段から会合などをともに行っている境川自治会と一緒にやることになったとのことです。  準備では、まず三つ又の枝作りから始まり、燃やすお飾りを積み上げて円錐形に作ることや集まってくる人々に配る団子を作ることと並んで、いつも置かれている路傍の祠から道祖神の石碑を運んできて燃やすものの前に数メートル離して置き、両者を注連縄(しめなわ)で結んでこれにも各家から出されたお飾りを下げていきます。

道祖神の飾りつけ 円錐形に積み上げたお飾りから道祖神までつなげる  点火は午後1時で、辰年生まれの今年の年男と年女が道祖神のところに火を付け、この火を注連縄や大きい方にも移して燃やします。後は火勢が弱まって熾きが出来たら、集まった人はそれぞれ配られた三つ又の枝に3個挿した団子を焼き、焼けたものはその場で食べたり持ち帰ったりします。点火して一時間ほど経つと燃やした道祖神を一輪車に乗せて元の場所に戻しに行き、また来年まで同じ場所に祀られることになります。

道祖神のところから点火 団子焼き 道祖神を元の場所に戻す  この行事は以前は田の中とか、40年ほど前には道祖神の石碑の前で行われていたといい、今は自治会の主催なのに対してかつては子どもたちの行事でした。また、当時は子どもたちが麦わらを農家から集めて小屋を作ったりしたというお話しも伺いました。注目されるのは境川対岸の古淵地区では今でも道祖神の小屋が作られており、この小屋を14日に燃やしています。今回紹介したのは相模原ではなく町田市の事例ですが、古くは各地で行われていたと考えられる道祖神の石碑を実際に燃やすということが現在も行われているとともに、相模原の民俗を捉える意味においても市内に隣接する地域の事例として大変重要なものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(23)~正月飾りを作る~緑区根小屋地区

 かつて農家が数多くあった時代には、正月を迎えるに当たり、玄関などさまざまな所に飾る正月飾りを各家で作っていました。現在ではこうした自家製のお飾りを見かけることはほとんど無くなってしまいましたが、たまたま昨年(平成23年)の暮に、久しぶりにお飾り作りを見させていただくことができました。

お飾りを作る菊地原さん  緑区根小屋地区の菊地原稔さんは今でも毎年お飾りを作られています。ちなみに当家は「祭り・行事を訪ねて(6)」の繭玉団子作りでも紹介しており、この他の古くからの年中行事も行っておられます。2011年のお飾り作りは12月30日の午前中に行われました。普通、このようなお飾りは、29日や一夜飾りはいけないとして31日に作るのは忌まれることが多いのですが、当家では昔から30日に山に材料とする榊(さかき)を取りに行って、31日に作っていました(これからは大晦日は忙しいので30日に作るとのことです)。この地区では正月飾りに榊と松を使う家が半々だったとのことです。  まず最初に作ったのが神棚用のものです。榊に藁(わら)で編んだ飾りを巻きつけ、真ん中にはユズリハとウラジロ・ダイダイ、裏側には折った半紙を取り付けます。ユズリハなどは買い、縛るのには水引を使います。神棚の中には大神宮・年神・水神などのお札があり、新しいものを入れます。通常は新しいお札を飾ると古いものは取り出して14日などの団子焼きで燃やしてしまうのに対し、当家では古いものも片付けないで溜めておきます。次に、家の中の十畳間の神棚に近い方の鴨居に付ける長い注連縄(しめなわ)を作ります。これは藁で縄をなってつなげて下のハカマの部分を出したものです。藁は上側の縄にするところだけを叩き、「ゾベになえ」と言って荒っぽく、普段とは違って左縄になっていきます。向かって左から七五三にハカマを出し、七と五の間に半紙を折ったものを差し込みます。

神棚のお飾り 十畳間の注連縄  屋敷の入口のジョウグチの所には両側に榊を2本立てます。菊地原さんが子どもの頃には庭に4本の榊を立てて、それを囲うように注連縄を付けたものを作っていて、庭が子どもの遊び場だったのでそれが嫌だったこともあり、今では庭の榊はやめてジョウグチに杭を打って榊を結び付け、お飾りと半紙を水引で縛ります。最後に、ジョウグチ用の飾りよりも細いお飾りを榊に結んでやはり折った半紙を挟みこんだものを、納屋・倉庫・倉・穀倉(かつて穀物を貯蔵した建物)・稲荷二つに飾ってこの日の作業は終了しました。また、前日の29日には、屋敷の上側の道沿いにある当家で管理している地蔵様の掃除やお飾りをしたそうです。  これらの正月飾りは正月7日の朝にお神酒(みき)を供えた後に下ろして、団子焼きの場所に持っていくことになります。なお、市内では正月飾りとして、「年神棚(トシガミダナ)」という正月に訪れる神のための棚を作ることがよくありますが当家では作っていません。  菊地原さんによると、おそらくこの年に正月飾りを作ったのは近所に一軒もないとのことで、古くからのこうした行事を行い、伝えていきたいと仰られています。これからも多くの行事を見せていただき、機会を捉えてこの欄でも紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

ジョウグチのお飾り 建物にお飾りを付ける 年神棚(上九沢・2012年)ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(22)~当麻・三嶋神社のナマスマチ

 南区当麻の芹沢集落は、時宗の開祖である一遍上人ゆかりの無量光寺の東側に位置し、やはり一遍によって建立されたと伝える三嶋神社を祀っています。そして、かつては11月15日に、現在ではその付近の土曜日に行われている三島神社の祭礼の「ナマスマチ」は、これから紹介するように非常に特徴ある内容が現在でも見られます。  この祭礼では、大根を薄く削り、酢と砂糖で味付けをしたナマスが参加者に出されることからナマスマチと呼ばれており、ナマスの上には、これも酢と砂糖を効かせたナマスノコと呼ぶマグロのブツを二切れくらい乗せます。さらに、ナマスとともに一人ひとりに付くのが、鯖と大根・里芋を醤油と砂糖の味付けで煮たもので、これらを一皿に盛り合わせます。氏子がみな農家だった時代には大根とともに里芋も5個ずつ持ち寄ることになっていたと言います。こうした料理を食べる箸は、祭礼当日に神社裏手の細い篠竹を伐り出して作ります。ナマスなどは参列者が食べるだけで特に神前に供えたりすることはなく、かつては料理の準備など全部男によって担われていましたが、今では女性も加わって行われています。

専用のカンナでナマス用 の大根を削る (2011年撮影) 篠竹で作られた箸 (2011年撮影) ナマスノコが乗せられたナマス(左手前) と鯖・大根・里芋の煮物(右手前)が 一人ずつ出される(2007年撮影)

神官と住職が並んで座る (2007年撮影)  ナマスの用意などの諸準備を午前中に行い、午後1時からいよいよ祭りが始まります。ここで目に付くのは神官とともに無量光寺の住職が並んで座ることで、祭式ではまず神官による祝詞の奏上の後、住職による般若心経(はんにゃしんきょう)の読経がなされ、玉串奉奠(たまぐしほてん)となります(玉串奉奠は住職も行います)。当麻地区では、「祭り・行事を訪ねて(16)」で紹介した市場・宿・谷原集落の天王祭(てんのうまつり)でも神輿に対して無量光寺の住職が読経をするなど、神社の祭礼に対しても無量光寺が関わりを持っていることが分かります。そして、一連の祭式が終了すると、神前にお供えしてあったお神酒を下ろし、机を挟んで氏子が座っている両側の下座から上に向かって酒をついでいき、役員の発声で乾杯をしてナマスや鯖の煮付けなどを篠竹の箸で食べながらの歓談となります。

年番の引継ぎ 新旧の年番が盃で酒を飲む (2007年撮影)  しばらくすると神官と住職は退席し、それから年番(ナマスマチなど神社関係の仕事をする一年交代の役)の引継ぎが行われます。新旧の年番が自治会長と宮世話人の立会いの下に、それぞれ盃で酒を飲んで引継ぎとなります。実際には翌年の三月末(年度末)まで年番の任期があるものの、昔はナマスマチの時に変わっていたことの名残りではないかと言われます。この後、しばらくの間は飲食が続き、翌日は朝から片付けをした後、ハチアライといって残ったナマスや神前に供えられていたアジを焼いたものなどを肴に一杯飲み、やはり供えられていた鏡餅なども小さく切って出されます。  祭りの時にナマスをはじめ鯖と大根・里芋の煮物を作って食べることは、周辺の集落には見られず大変に珍しいものです。また、江戸時代までの神仏混交の様相を残す神官と住職の同席や、年番の引継ぎを盃事として行うなど特徴ある要素も保たれ、市域のさまざまな祭りの中でも特に注目されるものの一つと言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(21)~相原地区の秋葉信仰

 私たちが日々の生活をしていくに当たってはいろいろな心配事があり、火災もそのうちの一つです。一度火事になれば、自分の家ばかりか近所が燃えてしまうことも起こりかねません。こうした火事にならないように祈る神仏や行事が市内各所で見られ、現在でも行われている地区があります。今回は緑区相原に残る二つの行事を紹介します。  相原・森下の大門講中は「祭り・行事を訪ねて(10)」で榛名講を紹介した地区で、春の雹除け(ひょうよけ)としての榛名講に対して秋には秋葉講が行われています。秋葉神社は静岡県の天竜川上流にあるものを本社とし、火災除けの神として市内でも広く祀られてきました。  今年(2011年)の大門地区の秋葉講は、11月13日(日)の午後7時から近所の料理屋を会場に会費制で行われました。正面には秋葉神社の掛け軸と、隣りには地区内にある華厳院(けぞういん)から出されたお札が竹に挟んで置かれています。当日の参加者は11名の方で、まず春からの自治会や神社に関わる報告などがあり、その後は宴席に移りました。華厳院のお札は、秋葉講が終わってから後で述べる灯籠の所に持っていって立てます。かつての大門地区の秋葉講は、保管されている帳面によると10月17日に3軒ある当番のうちの1軒に集まり、各家から白米と菜代のお金を集めて行われていたようです。

会場正面に飾られた掛け軸とお札 講中に残る秋葉講の帳面 宴席の様子

秋葉山常夜灯当番の 順番が書かれた板  大門講中も含まれる森下地区にはもう一つ、秋葉信仰に係わる行事が見られます。森下自治会館の向かい側にはいくつかの石仏が並んでいてその中の一つに「常夜塔」と記された灯籠があり(現在は旧塔が壊れたため再建されたもの)、先に述べた大門講中の秋葉講のお札のほか、春の榛名講のお札も講の終了後には灯籠の所に立てられます。  そして、森下では地区全体の古くからある家々に「秋葉山常夜灯当番順番氏名」と書かれた板が順番に回っており、板が回ってきた家では、夕方暗くなってからこの灯籠にろうそくを点しに行きます。板に書いてある順に各家を回っていき、来るとすぐに行って翌日には次の家に送るのを基本に、場合によってはしばらく置いておいたりとその家の都合でいろいろあるとのことです。また、板は平成13年1月吉日に作り直されたもので、両面に86名が書かれていますが今は実際に灯籠に火を付けに行っている家は70数軒ほどと言います。

灯籠のろうそくに火を灯す 今回は阿部幸子さんに お世話になりました  こうした秋葉信仰に関わる行事は、以前は各地にあったことが報告されているものの今では非常に珍しくなっています。相原地区のこれらの行事も長く続いていって欲しいものです(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(20)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~五部会

山車の清掃  上溝の五部会は現在の元町・田中・本久の三自治会の範囲で、古くから地域の結びつきが強く、オテンノウサマの神輿や山車も一緒に所有していたと言われています。ちなみに、五部会の神輿は文化六年(1807)に半原(愛川町)の大工が作ったもので、現在上溝に残っている神輿としてはもっとも古いもので(昭和57年[1982]に大修理)、山車は明治10年(1877)作と伝えられています。  五部会では、7月1日は道切りのシメ縄張りとともに太鼓開きで、この日からお囃子の練習が各地区持ち回りで行われます。また、上溝地区の各自治会では祭り本番(本宮)の前日の宵宮に神輿へのミタマ入れとなりますが、ここ五部会では宵宮の前日(2011年は22日[金])に朝から三自治会の大勢の方が集まって神輿や山車の準備を行うほか、上溝の通りに面したところにお仮屋を設営します。そして、午後3時からお仮屋に安置された神輿に亀が池八幡宮の神官によってミタマ入れがなされました(本町自治会もこの日にミタマ入れとなります)。

神輿の飾りつけ お仮屋の設置 お仮屋に安置された神輿  五部会で注目されるのは、本宮の神輿の氏子回りに際して最初に亀が池八幡宮に行く点です。かつては上溝の各集落の神輿は本宮の昼過ぎに神社に集まってお祓いを受けてから地区に戻って氏子回りとなり、その後、上溝の本通りに出て夜遅くまでにぎやかに担ぎましたが、現在はすべての神輿が神社に向かうわけではなく、五部会と丸崎・虹吹地区の神輿が亀が池八幡宮でお祓いを受けています。

神輿出発前の手締め  自治会の範囲が広い五部会では、神輿がお仮屋を出発したのは今年(2011年)は午前8時30分で、大当番(五部会長)の挨拶や乾杯、神輿連会長の手締めなどの後に堂々と担ぎ出された神輿は、相模線の線路などを越しながらまず亀が池八幡宮に向います。神社では大人の神輿・子ども神輿ともに鳥居から境内に入り(山車は外で待つ)、ひとしきり揉んだ後に社殿の前に置いて役員一同が宮司からお祓いを受け、それから五部会の自治会の範囲を本久から田中、元町の順に氏子回りを行います。途中、高齢者福祉施設などに寄ってお囃子や神輿振りを披露し、ひと時の間、祭りの雰囲気を高齢者の方にも楽しんでいただくといった微笑ましい様子も眼にすることができました。氏子回りが終わると他の地区とともに街中に集合し、勇壮な神輿の渡御と山車の巡行が繰り広げられることとなります。

相模線ガード下をくぐる神輿 社殿前に置かれた神輿 宮司のお祓いを受ける  現在の「上溝夏祭り」は、以前のオテンノウサマの祭礼を基に時代によって移り変わってきたことは間違いありません。それでも五部会の神輿が神社に向うことは、この祭りのかつての様相の一端を知る上で重要な意味を示しています。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(19)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会

 本町自治会のシメ縄張りで取り上げたように、祭りの準備は7月1日から行われる所が多く、神輿の渡御(とぎょ)と山車の巡行をする本宮(2011年は24日[日])の前日の宵宮(2011年は23日[土])には、自治会ごとにお仮屋を設置して神輿を安置します。  それぞれのお仮屋に亀が池八幡宮の神官が回って神輿のお祓いとミタマ入れをしていきますが、本町自治会と五部会(元町・田中・本久自治会の範囲)では、宵宮の前日の金曜日に別にミタマ入れが行われています。  本町ではこの日ではなく事前にシメ縄を張った横にお仮屋を作っておき、当日は神輿や山車の準備をして神官が来るのを待ちます。午後4時から自治会長や役員が並ぶ中で神輿のミタマ入れが厳かに行われ、これ以降は神様が神輿に宿っているため、祭りが終了してミタマが抜かれるまではたとえ深夜であっても、誰かが神輿のそばにいて番をします。また、お仮屋の所は場所が狭いこともあり、ミタマ入れが終わると本町の山車は少し離れた場所に移動していき、ここで宵宮を待つことになります。そして、宵宮の夕方から夜にかけて、上溝の駅前通りなどを歩行者天国にして山車の巡行が行われ、各地区の山車が集まって来てにぎやかにお囃子が奏でられます。なお、本町自治会の山車は明治40年(1907)に八王子市横山町から譲り受けたものともいわれ、元は二階部分があり、その上に豪華な天照大神の人形が乗った人形山車であったことが大正初期頃の写真によって確認できます(『相模原市史民俗編』334頁)。

宵宮前日に行われるミタマ入れ 本町自治会の神輿 本町自治会の山車 (古くは人形山車だった)

神輿は時として左右に大きく振られる  祭り本番の本宮には各自治会で神輿が「氏子回り」をします。大きな提灯や幣束を先頭に、神輿(子ども神輿が後ろに付く)と山車が氏子の範囲を回るもので、本町自治会では午前10時45分出発で氏子回りを行い、神輿は途中、幾度となく左右に大きく振られ、一層勇壮な姿を見せます。かつての神輿は「走り神輿」でワッショイ、ワッショイと声を掛けながら走るように通りを往復したとのお話しも伺いました。本町自治会の神輿は文久元年(1861)に寒川村の神輿を移籍したと伝えられています(昭和61年[1986]に大改修を実施)。  夕方までに上溝の各地区の神輿は氏子回りを終え、いよいよ20基以上の神輿(こども神輿を含む)と8台ほどの山車がすべてメイン会場に集まり、各神輿が激しく揉み合い、祭りは最高潮に達します。薄暗くなると神輿にはたくさんの提灯が装着され、より一層華やかさが増すかのようです。相模原市を代表する祭りの一つである「上溝の夏祭り」は、今後とも多くの人々の思いを受けて盛大に行われていくことでしょう。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(18)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会のシメ縄張り

 毎年、7月下旬の土日に行われている「上溝夏祭り」は県北最大の夏祭りの一つであり、30~40万人もの人出を数える相模原市を代表する観光行事です。また、江戸時代後期の神輿が何基か残されていることから、この頃にはすでに、祭りがある程度盛大に行われていたと考えられています。古くは祭りのことをオテンノウサマといい、祭り自体や神輿そのものをオテンノウサマと呼ぶことが今でもありますが、現在は相模原市の祭りとして「上溝夏祭り」が正式の名称となっています。今年(2011年)の上溝夏祭りは7月23日(土)と24日(日)に、例年のようににぎやかに実施されました。  神輿の渡御(とぎょ)や山車の巡行が行われる本番を前にして、上溝の多くの自治会では7月1日から祭りの準備に取り掛かります。  まず朝には長い竹を伐り出し、自治会館の前や自治会の境などにシメ縄を張った二本の竹を立てます。これを「シメ張り」といい、道切りとして集落に悪い病気が入ってこないように立てるとされています。ここに掲げた写真は今年の本町自治会のシメ張りの様子で、長さは約7m、8人掛かりで1時間30分ほどで完成しました。かつては集落境に、隣りの集落同士が競うようにシメ張りをしたものの今では少なくなり、本町では上溝商店街の駐車場の所(この奥に自治会館や本町でお祀りしている不動堂と大鷲神社などがあります)の1か所だけになったとのことです。

竹に縄を結びつけている様子 シメ縄を張った竹を立てる様子 駐車場入口に張られたシメ縄  また、1日は「太鼓開き」の日でもあり、この日から祭りの際に山車に乗るお囃子の練習を始める自治会が見られます。本町では、2日から自治会館において祭り当日までの数日間、夜の7時から9時にかけて保存会の会員によるお囃子の練習が行われました。  かつて上溝の中でも久保と番田集落では神輿がないばかりか担いではいけないとも言われ、オテンノウサマを行いませんでした。しかし、現在の「上溝夏祭り」はそんなこともなくなり、上溝の地区全体が加わる祭礼として賑わいを見せています。車の通行を止めた中を実に勇壮に担がれる神輿や賑やかにお囃子の音を奏す山車があまりにも有名ですが、このシメ縄張りのように、地域のお祭りにはさまざまな準備がなされ、多くの人々の協力があって行われていることが分かります。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(17)~相模川の帆掛け舟の再現~磯部民俗資料保存会の活動

現在では、大きな川というと橋が架けられ、そこで車が渋滞する交通をさえぎるものと捉えられがちです。しかし、今から八十年ほど前の昭和初期までは、相模川でも船を使って盛んに上流と下流を結ぶ物資の運搬が行われ、上流の津久井方面からは薪や炭などの山の産物が、下流の河口部からは米や肥料・日用雑貨などが運ばれ、また、砂利の運搬にも活用されるなど、地域の人々の生活において重要な役割を果たしていました。  荷物を船で運ぶには、上流から下るのは川の流れにそのまま乗れば良いのに対し、問題は下流からあがってくる場合です。この時に大切だったのが帆であり、特に春から夏にかけて吹く南風を帆一杯に受けて川を遡れば、河口部の須賀(平塚市)から緑区の小倉まで半日ほどで行くこともできたと言います。ただ、それも風があればで、風が吹かなければ船に縄を掛けて人間が引っ張り上げ、どうしても船が川岸に寄ってきてしまうために、一人が棒で船を押すなどして数日かかって上げてきたというような話も残されています。

かつて見つかった帆  今では、すっかりなくなってしまったかに見える帆掛けの技術を、今でも伝えているのが南区の磯部民俗資料保存会です。この会は地元に残るさまざまな民具やその他の資料を集め、後世に引き継いでいくことを目的に地域の皆様によって昭和53年(1978)に結成されました。その後、明治頃に使われていた高さ約5mの帆が見つかり、帆掛け船の船頭経験者の方に紐の結び方など、技術の指導を受けて帆掛け船を復元しました。そして、昭和61年からは実際に相模川に帆掛け船(船はかつての物資運搬用のものがないので別の船で代用)を浮かべており、近年では毎年8月第一日曜日に「帆掛け船復元実演会」を開催し、その技術を披露するとともに、希望者は帆掛け船に伴走する船に乗船するなど、夏の風物詩として親しまれています。  今年(2011)も8月7日(日)に磯部頭首工の上流付近で実演会が行われ、多くの見学者が訪れました。船の走行には4~5mほどの風速が最適とされていますが、今回は吹く風が今一つ弱かったものの、それでも帆に風を一杯に受けて上流に向けて進む興味深い姿を見ることができました。

帆掛けの準備 相模川を遡る帆掛け舟  磯部民俗資料保存会の皆様の長年に渡る活動は、大変貴重なものであることは言うまでもありません。今後とも、相模川と人々の関係のあり方の一端を示す帆掛けの技術が長く伝えられることを願わずにはいられません。(民俗担当 加藤隆志) *保存会では、収集した資料を磯部民俗資料館で公開しています。   磯部民俗資料館  場所:相模原市南区磯部295番地               開館日・開館時間:基本的には12月29日から1月7日を除く土・日曜日の午前10時~午後3時開館 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ(平成23年7月)

 7月中旬から8月にかけて、市内各地ではオテンノウサマ(お天王様・天王祭)と称される夏祭りが行われています。この祭りは神輿とともにお囃子が乗った山車が一緒に引き回されるなど、華やかでにぎやかなものであり、祭りの熱気で病気を追い払うとともに暑い夏を乗り切り、また、今では地域の結束を高めるためにも大切な行事の一つとなっています。市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」が有名ですが、ここでは当麻地区の市場・宿・谷原集落の天王祭を紹介します。  当麻のオテンノウサマはかつては7月19・20日、現在はその近くの土日に行われます。今年は16・ 17日で、当麻だけに限らず特に旧市域では上溝の夏祭りを避けてその一週間前に実施することが多いようです。16日の午後に、この地区の鎮守である天満宮で祭典を行います。この時は、神社に集まった役員やお囃子の子どもたちなどが並ぶ中、亀が池八幡宮の神官が大きな神輿と実際に担ぐ子ども神輿をお払いし、大きな神輿にはミタマを入れます。

オテンノウサマの神輿 平成23年7月16日撮影 神官による神輿のお払い 神輿にミタマを入れる ミタマが参列者の眼に触れないように、ミタマを持った神官の周りを年番が布で囲う。

無量光寺住職による読経  また、注目されるのは神官とともに地元の無量光寺の住職も立ち会うことで、神主の祝詞(のりと)の後に神輿に読経(どきょう)します。昔は神輿は無量光寺にあったといわれ、神輿の氏子回りが終わった最後には寺へ寄っていたのが無くなったため、今は最初にやっているとのことです。当麻では、例えば芹沢地区の三島神社のナマスマチと呼ばれる祭礼にも神主とともに住職が参加し、緑区の青山神社で神輿が地域を回る途中に光明寺の住職が読経するなど、いくつかの地域で同様のことがあり、以前の神仏習合の状況を見ることができます。

お仮屋に移される神輿  ミタマ入れが済んだ神輿はトラックに載せられ、お囃子が乗るハナグルマ(山車は明治期に火災で焼失)とともに近くに作られたお仮屋に運ばれます。神輿はここに一晩安置され、そして、翌日の午後に神事を行って神輿とハナグルマの氏子回りが始まります。昭和30年代中頃までは神輿を実際に担いでいたものの、交通量が激しくなったこともあって担がなくなり、子ども神輿だけになっています。それでも途中に四か所ほどあるお旅所(神輿等が休むところ)のうちの一か所は相模川のそばで、これは浜降りと言ってかつては神輿が川に入ったことのなごりとのことです。この後、氏子の範囲を回り終わった神輿とハナグルマは夕方に天満宮まで戻り、神輿からミタマを移して祭りは終了します。  天王祭は各地域で祀られている神社の例大祭とは別に行われていることも多く、盛んに神輿が担がれ、山車などが出ることが特徴で、祭りの名称のほかに神輿自体のこともオテンノウサマと呼ぶことがあります。いずれにしても神輿や山車を伴い、夏場に盛大に行われている天王祭は市域を代表する祭礼ということができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(15)~相模原を代表する民俗芸能~三匹獅子舞

 これから真夏の季節を迎える中、そのさなかの8月中旬から9月初頭にかけて、暑さを吹き飛ばすかのように行われている民俗芸能が獅子舞です。市内では緑区鳥屋・諏訪神社、緑区下九沢・御嶽神社、緑区大島・諏訪明神、中央区田名八幡宮の4か所で各神社の祭礼に併せて行われ、いずれも県の無形民俗文化財あるいは市の無形民俗文化財に指定・登録されています。このほかに中央区矢部の村富神社には、実際に踊ることはないものの三つの古い獅子頭が保管されています(文化三年[1806]の銘があり、市指定有形民俗文化財です)。

鳥屋の獅子舞(ヤマガラ) 獅子舞当日には多くの万灯もでる。(鳥屋)

下九沢の獅子舞(ブッソロイ) 大島の獅子舞(行進) 獅子の他、右から2番目にいる鬼も見えている 田名の獅子舞(雌獅子隠し)  日本各地で見られる獅子舞は、大きくは一頭の獅子頭を一人の舞手が被る「一人立ち」と二人が入って担当する「二人立ち」に分けられます。市内の獅子舞は前者のもので、これは東日本を中心に分布しており、特に三匹の獅子を中心に構成される「一人立ち三匹獅子舞」の形態に分類されます。そして、三匹獅子舞が分布する地域は、その大半が福島、新潟を北端として栃木、群馬、茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川の各県の、中部・東北南部から関東地方で占められており、神奈川県では他に横浜市や川崎市にあるほかは、相模原市や愛川町三増より南側では行われていません(例えば、箱根町の宮城野や仙石原で行われている「湯立獅子舞」などは別の系統のものです)。つまり相模原の三匹獅子舞は、県内のみならず日本における南限に位置付けられることになり、こうした点からも注目される民俗芸能と言うことができます。  実際の獅子舞では、三匹の獅子のほかに岡崎や天狗などが付いて一緒に踊ったり、唄が歌われたりとさまざまに行われており、それぞれの場所により共通する点や特徴的なところも見られます。各地区の獅子舞を巡る歴史や注目される伝承については、『相模原市史民俗編』をはじめ教育委員会が刊行した獅子舞の報告書に記されていますが、それらを参考として是非、皆様も一度訪れて見学されてみたらいかがでしょうか。祭礼の華やいだ雰囲気とともに、きっと地域の人々によって伝えられてきた獅子舞に触れて楽しく思い出に残る夏の1日を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。  *毎年の各神社での獅子舞の日時は変更されることがあります。必ずご確認の上、お出かけください。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(14)~新たに作られた道祖神 南区上鶴間本町・金山神社~(平成23年4月)

 町田駅から境川を左手に見ながら南に向かって進むと、10分ほどで金山神社に到着します。金山神社は上鶴間・谷口地区の中でも第一町内(竹之内講中)の鎮守で、境内には八坂神社や第六天のお宮なども祀られています。そして、この神社の一角に、新たな道祖神がお目見えすることとなりました。  石造の道祖神は市内各地で確認され、この地のものは一つの石に二神が彫られた「双体道祖神」で、かつて調査された際の銘文からは寛政11年(1799)に造られたものであることが分かります。しかし、今ではこの像の傷みがひどく、二神のお姿もはっきりとしない状況になってしまいました。そこで、この機会に新しい道祖神を造立しようという機運が盛り上がり、今年(2011年)4月29日に神官や地域の代表の人々の立会いの下に無事にお披露目(遷座式)が行われたのです。 新旧の道祖神 遷座式の様子 新旧の道祖神(向かって右が地神塔) 遷座式の様子  実はこの道祖神が損傷しているのには理由が考えられます。市内では、現在でも正月14日を中心とした日に団子焼きの行事が盛んに行われていますが、いくつかの場所では道祖神石碑の前で行っていたり、わざわざ道祖神を燃やすところに移す(南区大沼など)、燃やす前に道祖神に挨拶に行く(緑区千木良中央など)ことが見られます。金山神社の団子焼きでも、神社境内に移す前に道祖神があったとされる少し離れた場所で点火してそこからの火種で団子焼きをし、また、燃やすところの前に道祖神を持ってくることが行われており、そればかりか以前には道祖神そのものをこの火にしばらく燃やしてしまい、熱いので竹で引っ掛けて取り出したとの話も聞かれます。道祖神やその近くに置かれた石を一緒に燃やしたとする伝承は神奈川県各地にもあり、金山神社では古くから行われてきた団子焼きの形式を今に伝えている貴重な事例と言うことができます。 団子焼きの準備 かつて道祖神があった場所の前で点火 団子焼きの準備。手前に古い道祖神石碑が置かれている(2009年1月14日撮影) かつて道祖神があった場所の前で点火し、この火で団子焼きを行う。(2009年1月14日撮影)  新しく造られた道祖神は二神が寄り添ってお酒を注いでいる微笑ましい姿で、石屋さんの資料にあった見本の中から選ぶ一方、石屋に道祖神を注文した以外は、例えば説明板の材料を用意して作ったり、回りのコンクリートを打ったりするのもみんな氏子の皆様の手に拠ったとのことです。真新しいものと古くからの道祖神も処分されることなく並んでいる姿を眼にするにつけ、これからも新旧の道祖神は地域にとって大切な存在であり続けるとともに、人々の幸せを見守って行ってくれることでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 *同じ場所には、新旧の道祖神と一緒に文化11年(1814)造立の地神塔も祀られています。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(13)~中央区上矢部の薬師堂~(平成23年4月)

 矢部駅や淵野辺駅から町田市方面に向かう道を一本右手に入った、上矢部地区の集落の中に薬師堂があります。地区内に寺院がない上矢部ではこの薬師堂を古くからお祀りしてきました。  薬師堂で毎年4月8日のオシャカサンの日に行われているのが花祭り(潅仏会・カンブツエ)です。当日の午前中に薬師堂を管理する役員(上矢部の神社である御嶽神社総代)が集まり、桃色の椿の花びらを一枚ずつ屋根に貼り付けた花御堂(ハナミドウ)の飾り付けなどの準備をします。この花御堂は桶に乗せて、内側にはお釈迦様が片手を挙げている姿の誕生仏の像を納めますが、桶には甘茶の木を煮出して作った甘茶を入れ、お参りに来た人は甘茶を柄杓で汲んで釈迦像に注いで手を合わせます。甘茶は目につけると良いとされています。そして、地域の人たちがお堂で飲食しながら談笑する中で、午後3時からは地区の女性たちによるお念仏が30分ほど行われ、念仏が終わると後片付けが始まり、この行事も終了となります。なお、市内では、4月8日の花祭りは例えば当麻地区(南区)の観心寺などいくつかの所で見られます。 中央区上矢部の薬師堂 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 上矢部の薬師堂(2011年4月8日撮影) 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 女性による念仏 女性による念仏  また、薬師堂では毎年10月22日(現在はその近くの休日)にオコモリと呼ばれる行事も行われており、その際にも女性たちによる念仏が唱えられます。このオコモリと関連して忘れることができないのが本尊であるお薬師様の開帳です。普段には4月8日を含めて薬師堂のご本尊のお薬師様が開帳されることはありません。それが、33年間に一回、オコモリの際に薬師像の本開帳があり、さらに間の17年ごとには中開帳が行われます。本開帳や中開帳には、薬師の手から五色の布を引き出して薬師堂の前側に立てた角柱の塔婆に結び付け、参詣者はこの布を触り、さらに布を貰うとお産が軽いとか魔よけになると言われていたそうです。  毎年恒例の行事はもちろんのこと、10数年を経て実施されるものを地域で守っていくのは大変です。それでもこれからも末永く続いていかれることを願っています(民俗担当 加藤隆志)。 *近年では中開帳は平成20年(2008)に行われ、次回の本開帳は平成37年(2025)となります。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(12)~中央区上溝の元町観音堂~(平成23年4月)

 明治3年(1870)、繭や糸を売買することを目的として、現在の上溝繁華街の大通りで市場が開設されました。  この市が開かれた大通りを一本入ったところの裏の通りに位置する元町観音堂は、現在は元町自治会館の中にあります。江戸時代から続く高厳寺という寺の観音堂で、今でも本尊であった観音菩薩像が祀られています。この観音様は奈良時代の高僧として有名な行基作と伝え、堂の西側の堂ヶ谷戸に住んでいた老夫婦が途方にくれた旅の僧の願いを聞いて泊めて厚くもてなしたところ、そのお礼として僧が置いていったものと伝えられ、養蚕や安産のご利益あらたかな仏様として五部会(元町・田中・本久自治会で構成)の皆様によって大切に守られてきました。  観音堂の縁日はミクンチといって毎年10月の9日・19日・29日で、お堂の扉が開けられてお参りできる(この時には観音様の安置されている厨子は開かれない)ほか、地元の女性たちによる御詠歌の奉詠も行われています。さらに、元町観音堂は昔の武蔵国と相模国にかけての寺々を巡拝する武相観音霊場の三十番札所であり、この武相観音霊場では12年に一回、卯年の4月1か月間だけ観音像が開帳されることになっていてお姿を拝観することができるとともに、観音様の手から外の角塔婆(回向柱)につながれたお手綱に触れてそのご利益に浴することができます。また、角塔婆には五色の布が観音様の体からつながれたお手綱代わりの飾りがありますが、この木綿の布をもらって腹帯にすると安産になると言われていました。  今年(2011年)がその開帳の年に当たり、観音堂の周囲には参拝者の道案内とともに12年ぶりのご開帳を盛り上げるように赤い多数の幟旗が立てられました。参拝の方々は観音様に手を合わせ、それぞれ観音像の描かれた御朱印のお札を買い求めて次の寺に向かう姿が見られました。地元はもちろん遠くからも来るたくさんの人々の願いを受け止めてきた観音堂は、これからも末永く祀られていくことでしょう(この稿は、五部会観音様世話人の皆様のご指導の元に、民俗担当の加藤隆志がまとめました)。 *武相観音霊場は第1回目の開帳を宝暦9年(1759)に行い、今年は第22回目でした。相模原市(旧城山町を含む)をはじめ八王子市・町田市・多摩市・日野市・大和市・横浜市に及ぶ48か寺の札所があり、市内では、元町観音堂(中央区上溝)のほか、泉龍寺(南区上鶴間)・普門寺(緑区中沢)・長徳寺(緑区大島)・観心寺(南区当麻)・清水寺(南区下溝)・慈眼寺(緑区城山)・龍像寺(中央区淵野辺)の八か寺が札所となっています。次回の開帳は平成35年(2023)となります。

観音堂と回向柱 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札 観音堂と角塔婆 (2011年4月1日撮影) 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札。 高厳寺の文字が見える。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(11)~与瀬神社の祭礼と精進衆(しょうじんしゅう)(緑区与瀬)~(平成23年4月)

 相模湖駅から西に少し歩いた山の中腹にある与瀬神社は「与瀬の権現様」として親しまれ、かつては子どもの夜泣き止めにご利益があるとして多くの参拝者がありました。与瀬神社の例大祭は、現在、4月の第2土曜日に行われており、特に多くの担ぎ手によって50段もの急な勾配の石段を神輿が降りていく様は大変有名で、その後、数時間かけて地区内を巡行し、相模湖を背景として勇壮に神輿が担がれていく様子を見ることができます。 相模湖を背に担がれる神輿 急な石段を神輿が下がる 勇壮に担がれる神輿 急な石段を神輿が降りる (小田和夫さん撮影)  この祭りで特に興味深いのは、「精進衆」と呼ばれる決まった家があることです。精進衆は、昔、ヤヨさんとキヨさんという人が魚とりをしていた時に相模川から神社のご神体を引き上げたとされる家の子孫で、神輿を担ぐ際に「ヤヨー、キヨー」という掛け声があったり、御神体を取り上げた場所という御供岩(現在は相模ダム建造のため元あった位置からは移転)まで神輿が行くのもそれに由来しています。地元の慈眼寺には天明8年(1788)の精進衆について書かれた資料が残るなど、精進衆は当時からすでに祭礼に係わっていたことが分かります。こうした家は元々は数軒あったものの、現在では祭礼等に当たって役割を果たしているのは1軒となっています。  ここでは細かいことには触れられませんが、昔は境内の祠をお祀りするのは精進衆の仕事だったと言われており、例えば鳥居や御供岩、社殿などへ注連縄を張る作業は、今でも精進衆のみで行って他の氏子総代の人たちは手出しをしません。また、宵宮(祭礼前日の夜)に行われるいくつかの祭祀の準備や実施、神輿に随行する者たちが持つ祭具を作る、神輿に御霊を移す際に神主の補助をする、神輿に付いて歩いてお旅所でお神酒を供えるなど、精進衆は祭礼の諸準備から実施に至るまでのさまざまな仕事を担っています。与瀬神社の祭礼にあたって、神主ではなく神社と関わりのあるとされている精進衆が重要な役割を果たすなど、比較的古い祭祀のあり方を示すものとして注目されます。(民俗担当 加藤隆志) 精進衆(2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで神輿が担がれる 精進衆 (2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の 注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで 神輿が担がれる  ここに挙げた写真は2008年の祭礼を撮影したものです。※2011年の開催については、地震の影響で未定です。 ページトップに戻る

地質の窓(平成23年度)

包丁岩(ほうちょういわ)~緑区名倉

 緑区名倉の山梨県との県境付近に、包丁岩と呼ばれている岩があります。この岩は南から北に突き出た細長い尾根状の地形をつくっており、包丁の刃を上にして立てたような形をしています。長さは50~60m、幅は土台部分では20~30mですが、岩の上の部分は馬の背中のようになっており、人が1人通れるくらいの幅しかありません。高さは30mくいらで、ほぼ垂直に切り立っています。
 岩の上は「人が1人通れる」といっても、滑りやすく、途中つかまる木も無いので、落ちたら最後、約30m下の谷底まで落ちてしまいます。非常に危険なので、岩の上を歩くのは無理です。

東側( シュタイナー学園付近)から 包丁岩を見下ろしたところ
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/125 sec, ISO0)
東側( シュタイナー学園付近)から
包丁岩を見下ろしたところ
西側から見た包丁岩
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/200 sec, ISO0)
西側から見た包丁岩
東側の麓から包丁岩を 見上げたところ
Canon IXY DIGITAL 900 IS (10.833mm, f/4.5, 1/125 sec, ISO0)
東側の麓から包丁岩を
見上げたところ
 包丁岩の頂部 付け根部分(左の写真の左側)から 先端(左の写真の右側)を見ています。
包丁岩の頂部
付け根部分(左の写真の左側)から
先端(左の写真の右側)を見ています。

東側の麓から包丁岩を
見上げたところ 包丁岩の頂部
付け根部分(左の写真の左側)から
先端(左の写真の右側)を見ています。
 包丁岩をつくっている岩石は、愛川層群中津峡層石老山礫岩(あいかわそうぐんなかつきょうそうせきろうざんれきがん)と呼ばれる礫岩です。名前のとおり、石老山(せきろうざん)を中心に分布している礫岩です。石老山礫岩(せきろうざんれきがん)は硬く、割れ目などができると、そこが集中して浸食されます。浸食(しんしょく)がどんどん進み、割れ目の少ない部分が削り残されて、包丁のような形になったと思われます。
 全体を見渡せる場所はなかなか無く、シュタイナー学園付近で木々の間から一部を見ることができます。

用語解説
礫岩:地質学では2mm以上の石ころのことを礫(れき)と呼びます。礫が集まってできた岩石のことを礫岩といいます。礫が集まっただけで、硬い岩石になっていなければ礫層(れきそう)といいます。
浸食:岩石や地層が、波や川、氷河などの水の働きや風の働きで削られること。
(地質担当:河尻清和)。

博物館実習生VS富士相模川泥流(ふじさがみがわでいりゅう)

 毎年、博物館では8月から9月にかけて学芸員実習生を受け入れています。実習生は、実習の一環として展示を制作しています。平成23年度の地質分野は、地層の剥ぎ取り方法や標本を紹介する展示を制作しました。
 2011年8月30日、相模原市緑区名倉で富士相模川泥流の地層の剥ぎ取り標本を作製しました。泥流(でいりゅう)というのは、泥(土砂)と水が混ざったものが谷や川を流れ下る現象のことです。通常の洪水よりも泥の割合が多く、大きな岩石を運ぶことができます。
 富士相模川泥流は、約2万2千年前に富士山麓から相模川を流れ下った泥流です。この泥流による堆積物の地層が相模川沿いに点々と残されており、相模原市内でも観察することができます。地層の剥ぎ取り標本については、「地層の標本を作製(平成23年3月)」を参考にしてください。
 今回、剥ぎ取り標本を作製した富士相模川泥流の地層は固く締まっており、剥ぎ取るのに非常に苦労しました。地層を固める薬剤が染み込みにくく、無理に剥ぎ取ろうとすると固まった薬剤だけが剥がれてきてしまいます。鎌で地層を削り取りながら、標本を作製しました。まさに悪戦苦闘。やわらかい地層ならば半日で10枚以上剥ぎ取ることができるのですが、今回は4枚しか作業ができず、しかも、実際に標本として使えたのは2枚だけ。1枚剥ぎ取るのに1時間以上もかかりました。

剥ぎ取る面を削って平らにしています
剥ぎ取る面を削って平らにしています
 鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
鎌を使って、地層を剥ぎ取り中


剥ぎ取る面を削って平らにしています 鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
 実習生はさらに、剥ぎ取りを紹介する展示を製作したのですが、ここでも悪戦苦闘。展示物の選択、解説文の作成、解説・写真パネルのレイアウト、展示作業、などなど。苦労しながら無事、展示を完成させることができました。
 平成23年度の博物館実習生制作展の展示期間は9月10日(土)から10月16日(日)までです。(地質担当:河尻清和)

陣馬山麓の黄鉄鉱(おうてっこう)

 相模原地質研究会のメンバーとともに相模原市緑区佐野川地域を調査中に、黒っぽい表面に金色に光る粒がばら撒かれたような岩石を見つけました。 この金色の粒は、もちろん『金』ではなく、黄鉄鉱と呼ばれる鉱物です。黒っぽい岩石は千枚岩(せんまいがん)です。この千枚岩は、泥が固まってできた泥岩(でいがん)が、さらに圧力を受けて薄くはがれやすくなった岩石です。千枚岩は陣馬山周辺でよく見られます。
 黄鉄鉱は、泥に含まれていたわけではなく、泥岩が変成作用(もともとあった岩石が熱や圧力によって、さらに別の岩石が作られる作用)を受けて、岩に含まれていた成分が結晶化してできたものです。
 黄鉄鉱は薄い金色というか、真鍮(しんちゅう)色をした、立方体や5角12面体をした鉱物です。鉄(Fe)と硫黄(S)の化合物で、化学組成で表すとFeS2です。本物の金より色が薄く、きちんとした結晶の形になりやすいので、簡単に金と区別できます。陣馬山麓の黄鉄鉱は大きくても直径1 mmくらいで、非常に小さなものですが、きれいな立方体をしています。(地質担当:河尻清和)

※岩石や鉱物などについてちょっと知りたくなった方は、次のような本をお薦めします。図書館で探してみては。
 『ニューワイド学研の図鑑 鉱物・岩石・化石』松原聰・猪郷久義・小畠郁夫 監修 学研 ・・・子ども向け
 『かながわの自然図鑑1 岩石・鉱物・地層』神奈川県立生命の星・地球博物館 編 有隣堂
 『楽しい鉱物図鑑』 堀秀道 著 草思社
 『楽しい鉱物図鑑2』 堀秀道 著 草思社

黄鉄鉱を含む千枚岩の標本
Canon IXY DIGITAL 900 IS (4.6mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO0)
黄鉄鉱を含む千枚岩の標本
 千枚岩中の黄鉄鉱 金色、立方体の結晶が黄鉄鉱
Canon IXY DIGITAL 900 IS (14.694mm, f/5.6, 1/5 sec, ISO0)
千枚岩中の黄鉄鉱
金色、立方体の結晶が黄鉄鉱
黄鉄鉱の結晶 大きさは約1mm
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/80 sec, ISO0)
黄鉄鉱の結晶
大きさは約1mm

番外編(平成23年度)

全天周映画「はやぶさ」の観覧者が、もうすぐ5万人(平成23年12月)

 当館で上映している全天周映画「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」の観覧者がもうすぐ5万人になろうとしています。

 上坂浩光さん監督のこの映画は2009年に公開され、小惑星探査機「はやぶさ」が地球に戻った後には「帰還バージョン」が制作・公開されました。当館では2010年1月から「2009年バージョン」の上映を開始し、2011年1月からは「帰還バージョン」を上映してきました。

 全編CGで制作されたこの映画は、出演者が「はやぶさ」ただひとりで、あとは篠田三郎さんのナレーションと効果的な音楽と素敵な主題歌というシンプルなものでありながら、優れた科学映画であり、また、多くの人に感動を与える映画でもあります。

 映画として優れた作品であることは、「第52回科学技術映像祭」科学教養部門での文部科学大臣賞受賞や「映文連アワード2011」での最優秀作品賞受賞などを見ても明らかです。

 ところで、この映画で涙腺の緩んでしまう人が少なからずいます。それは見る人が、擬人化された「はやぶさ」とともに宇宙を旅し、苦難を乗り越える体験を共有するためなのでしょう。そして、その物語の背景には暗く広い宇宙があり、その宇宙を行く小さな探査機の例えようもない孤独があるように感じられます。そこでは、人は寄り添ことを選ぶしかないのでしょう。

 この映画が描いた「はやぶさ」のプロジェクトは、そんな途方もなく広い宇宙の中にぽつんと存在する小さな小さな星に探査機が行き、なおかつ地球に帰ってくることを目指したもので、私などには気の遠くなるような計画です。しかし、このプロジェクトにかかわった人々は、永年にわたり叡智を結集し、多くの技術を積み上げ、創造し、そして決してあきらめない心で実現してしまったのです。

 さて、当館のスタッフは、この全天周映画を見終わって泣いている子どもを何人も見ています。ある子どもは「はやぶさが燃えてしまってかわいそう」と泣いていました。それを見て、傍らのお父さんが「泣かないでいいんだよ。“はやぶさ”は大事な仕事をちゃんとやり遂げたんだから」と言い、お母さんが「今度はJAXAに燃えない“はやぶさ”を作ってもらおうね」と話しかけている、そんな光景も見ています。

 「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」の当館の観覧者累計が5万人になろうとする今、この作品と、そして「はやぶさ」のプロジェクトそのものが、どれほど大きな影響を、とりわけ子どもたちに与えたことだろうと、あらためて思っています。(館長)

 

入館者200万人達成しました!(平成23年8月)

 おかげさまで、8月28日(日)に入館者数200万人を達成しました。

 200万人目の来場者は、相模原市中央区にお住まいの白川睦生くんです。両親と妹さんの4人で訪れてくれました。「自分が200万人目だったことにびっくりした。博物館には何度も来ているが、200万人というたくさんの人が来ていることに驚いた。」と話してくれました。

 エントランスに200万人達成セレモニーのアナウンスが流れると、その場に居合わせた入館者から祝福の拍手が起こりました。白川くんには、加山俊夫相模原市長から花束と記念品(ライト付地球儀/天球儀)が、岡本実教育長から図鑑と「プラネタリウム・全天周映画招待券」が贈られました。

 

 当館は、毎年10万人を超える入館者数がありますが、平成22年6月、小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還したことで、当館で上映された全天周映画「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」が好評を博し、さらに「はやぶさ」が持ち帰ったカプセルの世界初展示などにより入館者数が急増、200万人達成が予想より半年ほど早まりました。

 遠方からのお客様も増えており、これを契機に一層魅力ある博物館になるよう、スタッフ一同、気持ちを新たに取り組んでいきたいと思っています。(企画情報班 金井)

ボランティアの窓(平成23年度)

民俗調査会で「民俗探訪会」を行いました(平成24年3月)

 現在、多くの市民の皆様が博物館の活動にボランティアとして関わっていただいており、民俗分野にも民俗調査会という市民の会があります。民俗調査会には毎月第二水曜日に活動する通称「民俗調査会A」と、同様に第四土曜日を活動日とする「民俗調査会B」があってそれぞれ20名以上の方が加わっていますが、さる平成24年3月14日(水)に調査会Aの活動の一環として新磯地区の「民俗探訪会」を行いました。

 調査会Aでは、平成23年度の活動の一つとして新磯地区の「散策マップ」を作ることをテーマに置き、実際に博物館の担当学芸員(この記事を書いている加藤です。)とともにフィールドワークを重ねてきました。マップは手軽に持ち運びできるA4サイズで表面に地図、裏面には見所の説明を載せたものとし、新磯地区は広いために、勝坂遺跡と相模川に沿って歩く北部ルートと鳩川の流れに沿った南部ルートの2コースを設定することにしました。

 神社や寺院・石仏など、地域に残るさまざまなものをすべて取り上げることは分量の関係からも当然不可能で、その中から何を選び出し、どのような説明を付けるか、相当に頭を悩ませました。また、両ルートともに半日程度で歩けるものとして、負担の少ないコース設定も考えなければなりませんし、地図化に当たっては例えばトイレの位置なども確認しなければなりません。 このようなことを頭に入れながら数回のフィールドワークを行い、いろいろな苦労や工夫を加えてようやく完成したもののうちの南部ルートを歩いたのが3月14日(水)の民俗探訪会です。

 マップ作成のためのフィールドワークはもちろん会員が歩いたものですが、民俗探訪会では「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集し、当日は平日の午前中にもかかわらず24名の方のご参加がありました。実際に南部ルートのマップを参加者に配布してそのコースを歩いていき、ポイントごとに学芸員のみならず、中心になって作成に当たった会員も説明をしました。そして、そのほかの会員も開始や終了の際の挨拶のほか、どうしても長くなる歩行の誘導や交通安全への配慮など、事故なくスムーズに進行できるように気を配り、歩いている途中には参加者に気軽に声を掛けるなど、和やかな雰囲気の中で探訪会を実施することができました。

会員で御嶽神社の氏子の方がお祭りの様子などを説明しました。 (御嶽神社にて)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
会員で御嶽神社の氏子の方がお祭りの様子などを説明しました。
(御嶽神社にて)
新磯小学校の校庭の大楠 (学校には事前に了解を得て 校庭に入りました)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/640 sec, ISO100)
新磯小学校の校庭の大楠
(学校には事前に了解を得て
校庭に入りました)
最後の挨拶も会員の方の役目です。 「楽しかったですか。」という質問には参加者の方から手があがりました。
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/320 sec, ISO100)
最後の挨拶も会員の方の役目です。
「楽しかったですか。」という質問には参加者の方から手があがりました。
探訪会終了後に記念撮影 写真右側に写っている旗は 会員の手作りです。
CYBERSHOT (10.4mm, f/6.3, 1/320 sec, ISO100)
探訪会終了後に記念撮影
写真右側に写っている旗は
会員の手作りです。

 博物館を舞台に活躍するボランティアの皆様は実に多彩な活動を展開しており、民俗調査会でも市内外を積極的にフィールドワークして自分たちも楽しみつつ、会の活動を博物館の運営の中に生かしていくことを目指しています。今回の民俗探訪会もそうした試みの一つであり、今後も年に何回かは探訪会を実施することを計画しています。その都度、「広報さがみはら」や博物館ホームページなどで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時、入会ができますので、詳細につきましてはお問い合わせください。(民俗担当 加藤隆志)。

 

*民俗調査会の方が作成したマップは、このホームページの「どこでも博物館→発見のこみち」から見ることができます。

*散策マップは印刷してお使いください。北部ルートと南部ルートのマップとともに、ポイントごとの補足の説明をしたものと、交通機関や掲載した施設、主なイベントなどを紹介した資料が掲載されています。なお、今回の散策マップに掲載した情報は平成24年(2012)3月段階のものであり、今後、変更される可能性があります。

*散策には、車など、交通安全にお気をつけてお歩きください。見学に際しては、管理者の方や近隣の皆様のご迷惑にならないよう、マナーには充分ご配慮いただきますようお願い致します。

 

平塚市博物館の「博物館文化祭」発表会に出席しました(平成24年2月)

 昨年の11月に盛大に行われた「学びの収穫祭」については、この「ボランティアの窓」の欄でも紹介されていますが、同じような催しが平塚市博物館でも行われています。ちなみに平塚市博物館では「博物館文化祭」(このタイトルは今回からで、これまでは「博物館まつり」)と称して開催しています。平塚市博物館は1976年5月に開館してすでに35年以上の実績を持ち、特に開館当初から市民とともにいろいろな活動を展開しており、その間、多くの成果を積み重ねてきた全国的にも有名な博物館の一つです。当館もまた平塚市博物館と同様に、市民の方々とさまざまな面において協働していくことを目指して活動をしており、実は「学びの収穫祭」も平塚市博物館の「博物館文化祭」に倣って実施しているものです。

平塚市博物館
平塚市博物館
博物館文化祭の看板
博物館文化祭の看板
特別展示室での 各サークルの展示
特別展示室での
各サークルの展示

 今年度の第13回「博物館文化祭」は2月4日から19日を会期とし、期間中は平塚市博物館の特別展示室において博物館に拠点を置く10の市民サークルが日ごろの活動実績や成果を展示しました。さらに、12日(日)の午後からはそのうちの6団体が口頭発表を行って、より具体的に自分たちのサークルの活動について紹介する発表会(別の日に実演を行った会もあります)があり、この発表会に当館の民俗調査会のメンバー10数名が出席させていただきました。

 発表会では、民俗調査会でも馴染み深い石仏や漁村の信仰に係わる内容のほか、古文書や平塚空襲をはじめ、水辺の生き物や星の撮影の仕方など、多彩な発表があり、会場一杯の聴衆の参加のもと、大変熱心な発表がなされました。何より長年、博物館を舞台として実りある活動を平塚市民の方々が着実に行われ、また、楽しんで活動されている様子がよく伝わりました。そして、発表会終了後には、平塚市博物館の各サークルの代表の皆様と当館の民俗調査会のメンバーの交流会があり、お互いの活動の状況や課題について若干の質疑応答や話し合いをするなど、これからの当館の民俗調査会をはじめとした活動を考えていくに際しても刺激的で非常に有意義なものとなりました。

屋上での太陽の観察会
屋上での太陽の観察会
発表会の様子 (民俗探訪会の発表)
発表会の様子
(民俗探訪会の発表)
発表会の休憩時間には 展示解説もありました
発表会の休憩時間には
展示解説もありました

 現在、多くの博物館では市民サークルが結成され、学芸員とともに多彩な活動を行っているものの、こうした情報はどうしても館の内部にとどまってしまい勝ちです。今後とも各館で行われている多くの取り組みを広く紹介していくとともに、それぞれの博物館での情報交換や交流を通じて、博物館と市民との協働をさらに強め、より良い活動を積み重ねて「市民とともに歩む博物館」として一層進んでいくことが求められます。当館としても、今回のような機会を通じて積極的に他の館及び市民の方々と交流をしていきたいと考えています。

 最後となりましたが、「博物館文化祭」に出席させていただいた平塚市博物館と、すばらしい発表をしていただいた市民サークルの皆様にお礼申し上げます。本当にありがとうございました(民俗担当 加藤隆志)。

*平塚市博物館のアドレスは、http://www.hirahaku.jp/ です。

 

市民学芸員の活動~盛況だった「繭うさぎ作り」(平成24年1月)

繭うさぎ
繭うさぎ

 さる1月29日(日)の午前10時から午後4時まで、博物館の地下・大会議室で「繭うさぎ作り」を実施しました。この事業は、参加された方々が蚕が作る繭を使ってうさぎの繭人形を作るもので、これまでもたくさんの繭の用意ができた時に行ってきました(ちなみに今回は、生物担当の学芸員が中心となって昨年飼った蚕が作った繭を使用しました)。毎回好評で、当日は繭の数の都合で先着200名の定員のところ、定員ギリギリの193名もの方にご参加いただきました。

 繭人形の中でも、うさぎは一個の繭で比較的簡単にできる(繭の一部を切ってそれで二つの耳と尾を作り、本体の繭に差し込む。そして、目と口なと゛をマジックインキで書き入れる)ものですが、それでも手順やカッターなどの刃物を使うために多少の危険が伴います。

 当館の繭うさぎ作りは、特に対象の年齢は設けずに、小さいお子様から高齢者までどなたでも楽しく作り、自分で作った繭うさぎは持ち帰ることができることにしているため、作り方を説明するほか、刃物などで手を切ったりしないように注意している人手が必要です。今回は、こうした指導や説明を市民学芸員が担当しました。

 当日は参加者はそれぞれ好きなようにうさぎを作り、みなさん大事そうにご自分の作った繭うさぎをお持ち帰りになりました。また、ご両親や祖父母が蚕や養蚕について子どもに一生懸命にお話している微笑ましい様子や、中には繭うさぎを作ることとは別に、市民学芸員とかつての養蚕の様子などをしばらく話し込む参加者などもいて、終始和やかな雰囲気で実施することができました。博物館では、今後とも市民学芸員と力を携えて、展示や教育普及などさまざまな活動を行っていきます(民俗担当 加藤隆志)。

参加者に教える市民学芸員 (黄色のジャンパーを着ています)
参加者に教える市民学芸員
(黄色のジャンパーを着ています)
できた繭うさぎを指にはめてみました
できた繭うさぎを指にはめてみました

 

「植物の日ワークショップ」を実施しました(平成23年12月)

 ワークショップの様子
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO100)
ワークショップの様子

 毎月1回行われる「博物館の日」(ほぼ第4日曜日に実施しています。)。各専門分野がワークショップや講演会などを実施しています。12月25日は、「植物の日」。博物館を拠点に活動するボランティアグループ、相模原植物調査会が中心となり、落ち葉を使ったワークショップを行いました。

 年末ということもあり、2012年のカレンダーを落ち葉でデコレーションする工作が、この日のメニューです。事前にさまざまな形や色の落ち葉を調達したのも、調査会のみなさんです。当日は都合で参加できないからと、たくさんの落ち葉を持参してくれた方もいました。

 博物館に来られたお客さんが、ふらりと立ち寄って季節感のある素敵なカレンダーを作って行かれます。親子連れで参加して、いつのまにか子どもよりもお父さんお母さんが夢中になっていたり、じっくり取り組みすぎて、プラネタリウムの時間に遅れそうになったりと、楽しくにぎやかに一日が過ぎました。調査会のみなさんは、さりげなく参加者に語りかけ、落ち葉の使い方をアドバイスしたり、葉っぱの種類を教えてあげたりします。

ボランティアさんの指導により 落ち葉でデコレーション
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO200)
ボランティアさんの指導により
落ち葉でデコレーション
参加者の作品 1
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO80)
参加者の作品 1
参加者の作品2
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO125)
参加者の作品2

 調査会では、ふだんはかなり専門的な植物調査を行っています。市域を中心に野生植物を採集し、押し葉標本にして採集データとともに博物館へ納めるという地道な作業ですが、これには高度な専門性と技術が要求されます。でも、みなさんがこうした活動に加わったきっかけは、例外なく「植物が好きだから」です。落ち葉の美しさ、形の楽しさをいちばんよく知っているのも、調査会のみなさんです。楽しそうに作業する参加者を見つめるやさしいまなざしがあるからこそ、こうしたワークショップが成り立っています。(生物担当 秋山)

 

大きな収穫のあった「学びの収穫祭」(平成23年11月)

 11月19日(土)と20日(日)の二日間、「学びの収穫祭」と題して研究活動の発表会を行いました。博物館を拠点に活動するボランティアグループや、学芸員が活動を支援する中学や高校の自然科学系の部活動など、市民がみずから調べ、活動する様子を口頭発表と展示・ポスター発表で紹介しました。

 19日は中学、高校の発表会。今、自然科学系の部活動がある中学や高校は、市内でも数えるほどです。運動部や音楽系の部活動と異なり、活動の発表の場が少なく他校との交流も限られている中で、顧問の先生の熱意でわずかな部が存続しているのが実情です。ならば、博物館が発表の場の一つを設けましょうということで、「学びの収穫祭」に学校の発表の時間をつくりました。呼びかけに応じてくださった上溝中学校科学部、光明学園相模原高等学校理科研究部、相模原青陵高等学校地球惑星科学部ほか、都立日野高等学校地学部が、それぞれ若い感性のすばらしい発表を披露してくれました。また、さがみはら水生動物調査会からの発表者は中学生だったため、同じ時間帯で発表していただきました。

展示の準備
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/50 sec, ISO800)
展示の準備
高校生による口頭発表
NIKON D7000 (18mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO400)
高校生による口頭発表

 20日は博物館を拠点に活動するボランティアグループや、協働で調査、研究を行う他機関のボランティアグループ、大学などの発表です。歴史、考古、民俗、生物、地学、博物館での普及活動など内容は多岐にわたりましたが、「市民がみずから活動する」というスタンスは共通です。どの発表も意欲的な活動のようすを垣間見ることができて、また、お互いの活動のようすを知り、大きな刺激を受けました。

 ポスター発表と展示のコ-ナーでは、口頭発表をフォローアップするポスターに加えて体験コーナーなどもあり、発表者や観覧者がお互いに積極的に意見を交換し合うなど活気に満ちた発表会となりました。

 口頭発表の様子(一般)
NIKON D7000 (18mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO400)
口頭発表の様子(一般)
ポスター発表と展示コーナー
NIKON D7000 (18mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO400)
ポスター発表と展示コーナー
拓本の体験コーナー
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/60 sec, ISO800)
拓本の体験コーナー

 じつはこの発表会、今年3月に実施する予定でしたが、東日本大震災の影響で中止となりました。仕切り直していく中で、時期を秋にして学校が参加しやすく、そして、博物館の開館記念日に合わせてより規模の大きなものにしようと企画をふくらませてきたものです。発表会のすばらしいタイトル「学びの収穫祭」も、ボランティアグループの代表のみなさんが集まる場で生まれたものです。このイベントはこれから、博物館の普及教育事業の柱の一つとして続いていくことでしょう。今年はその記念すべき節目の年となりました。

(担当 秋山幸也)

 

川崎市市民ミュージアム視察(平成23年6月)

 6月22日(水)市民学芸員の研修として、川崎市市民ミュージアムを視察しました。

ボランティア制度等の説明
ボランティア制度等の説明

 午前中はボランティア制度の説明と、ボランティアとして活動している方のお話を伺いました。実際に活動している方のお話は大変参考になり、担当者としても、もっとこの時間をメインに構成しても良かったかも、とやや反省。

 午後は常設展示室と企画展(岩合光昭どうぶつ写真展)の展示解説。学芸員の方々に大変熱のこもった解説をしていただき、内容の濃い研修となりました。

 長時間にわたる視察に快く応じていただいた、川崎市市民ミュージアムの職員とボランティアのみなさん。本当にありがとうございました。

 展示観覧 (河童の説明を受けているところ)
展示観覧
(河童の説明を受けているところ)

 全体を通して、何よりボランティアという同じ立場の方のお話が、非常に刺激になったようです。研修後に回収した感想でも「来館者と直接関わる重要な役割であり、その活動が定期的にある事がすばらしい」「展示物についてのガイドは、かなりの研修を積まないとやれないものだと納得」「ボランティア募集が活動別になっていて、参加しやすそう」「自発性、独立性が重視されている」など、ボランティアに関するものが多く、相模原市立博物館での、これからの活動を進めていく上で大変有意義であったといえるでしょう。(学芸班 木村知之)

 

鈴木重光関係資料の整理を進めています!(平成23年7月)

  現在、鈴木重光氏が寄贈し津久井郷土資料室に保管されている資料の整理作業を、市民学芸員の有志の皆さんが行っています。

鈴木重光資料整理の様子1

鈴木重光資料整理の様子2
鈴木重光資料整理の様子2

 鈴木重光は、緑区若柳の奥畑に生きた民俗学研究家です。明治21(1888)年に生まれ、日本民俗学の生みの親である柳田国男に師事しました。津久井地域の歴史・民俗資料を収集・研究し、大正13(1924)年『相州内郷村話』をまとめています。昭和42(1967)年に亡くなって以降、生前に集めた膨大な資料群をどうするかが検討され、旧津久井郡4町の文化財保護委員を中心に一部の資料について整理が行われました。それら鈴木重光収集資料に、津久井湖建設に伴う水没地で収集された生活資料を併せ、昭和46年に開設された津久井郡郷土資料館(相模原市との合併により「相模原市津久井郷土資料室」に名称変更)に収められました。

 今回は、これらの資料のうち、これまで整理が行われていなかったものを対象に整理を進めています。資料の内容は、チラシやポスター、会議資料、葉書、書簡、原稿、メモなど多岐にわたっています。毎月2回程度を作業日として、一点一点内容を確認し、一覧表を作っていく地道な作業です。また、5月にはフィールドワークとして、鈴木重光の生家及び相模湖周辺の史跡等を踏査しました。

 11月には、整理作業の成果を含め、鈴木重光に関する企画展示を行う予定です。ご期待ください。(歴史担当 井上 泰)

 

標本レスキュー隊、立ち上がる(平成23年5月)

 東日本大震災の被災地のために、なにをすべきか。そう自問しながらも、すぐに現地へ駆けつけることもできないし、支援物資を送ろうにも、個人のレベルで送れるものが現在のニーズに合っているかわからない・・。こうしたジレンマを抱えている方がとても多いのではないでしょうか。そんな中、植物を専門に扱う当館のボランティアさんたちが、これまでに培った専門技術と知識を生かして、被災した植物標本のレスキューに立ち上がりました。

津波の被害を受けた植物標本
津波の被害を受けた植物標本

 東日本大震災で大津波の被害を受けた陸前高田市立博物館(岩手県)は、6名の職員全員が死亡、または行方不明のままで、建物内部も壊滅状態です。このような中、4月末に岩手県立博物館の学芸員や陸前高田市立博物館の元職員が、がれきに埋もれた博物館資料の救出にあたりました。

 

  その中には約10,000点の植物標本が含まれていて、これは地元出身の博物学者、鳥羽源蔵が昭和初期やそれ以前に採集した貴重な標本を中心に構成されています。幸い、ほとんどは1枚ずつビニール袋がかけられていたため、完全に破損しているものは少なかったものの、海水と泥をかぶり、すでにカビなどの発生がみられる標本が半数以上にのぼりました。そこで岩手県立博物館では、全国の学芸員のネットワークを使って植物標本を扱える博物館、植物園などに標本の救済作業への協力を呼びかけました。

作業手順を確認
作業手順を確認

 相模原市立博物館では、植物分布を調査する専門ボランティアグループである相模原植物調査会が博物館を拠点に活動しています。会員のみなさんは担当学芸員を通じてこの呼びかけに応え、まず300点の標本を引き受けることにしました。5月31日に博物館の実習実験室に集まった6名のボランティアさんたちは標本を前に黙祷したあと、早速標本を開封して状態を調べました。現在、標本の状態に応じた手当の方法を話し合いながら慎重に作業を進めているところです。

慎重に洗浄作業を行う
慎重に洗浄作業を行う

 今回の震災では、文化財や学術資料も少なからず被災しています。人的被害のあまりの大きさに、まだまだこれらの被害の多くは実態すらつかめていないのが現状です。しかし、地域のアイデンティティーであるこうした資料を救済していくことが、被災地の長期的な復興に不可欠であり、今後の大きな課題になることは間違いありません。博物館のボランティアさんたちの今回の取り組みは、今住む地域にいながらできる、専門を生かした支援として、これから注目されていくことでしょう。(生物担当 秋山幸也)

 

市民学芸員

 博物館には、市民学芸員制度があります。この制度は平成19年にスタートしましたが、前身である「展示活動協力員」を発展させたもので、「市民と博物館が協働で展示や教育普及活動を行うこと」を目的にしています。希望者は博物館が主催する研修を履修することで登録することができます。

 研修の総仕上げとして、常設展示を活用したクイズラリーを毎年行ってきました。

 クイズラリーの参加者は、受付でクイズが書いてあるシートをもらい、展示を見ながら正解の番号をチェックしていき、全問正解で「認定証」と記念品がもらえます。子どもたちにとっては展示室を回ってクイズに答えることで、楽しみながら学習でき、オマケまでついてくる楽しい企画ですが、クイズラリーの準備には大変な手間がかかっています。

 クイズを作るには、市民学芸員自らが、展示室をくまなく歩き、展示の意味を理解しなければいけません。次に、その中からクイズになりそうな事柄を拾い上げ、文章化し、写真を添えます。いくつも作ったクイズのなかから選りすぐりをまとめ、担当学芸員の監修を受けます。修正を加えて、出来上がったクイズをもとに、市民学芸員が問題用紙や解答用紙はもちろんのこと、ときには記念品もをつくります。これらの作業は、どんなに短くても2か月から3か月かかります。

 博物館というと硬いイメージがつきまといがちですが、このようにボランティアが心をこめて作っているイベントもあります。もし参加される機会があったら、そんなことをちょっと思い出してみてください。

 平成22年度は、クイズラリーを8月22日(日)と2月27日(日)の2回実施しました。8月は326人、2月は212人がクイズラリーに参加してくれました。

市民学芸員の活動の様子

 黄色いジャンバーが市民学芸員の目印です。「学習資料展」と同時開催される「昔の遊び体験」ではもちろん、昨年(平成22年)小惑星探査機「はやぶさ」のカプセル展示の際には来館者の誘導に大活躍でした。

クイズラリーの様子
クイズラリーの様子
はやぶさカプセル展示の様子※
はやぶさカプセル展示の様子※
「昔の遊び体験」の様子
「昔の遊び体験」の様子

※ 「昔の遊び体験」の様子 ※当館の小惑星探査機「はやぶさ」のカプセル展示は、平成22年7月30日~31日で終了しています。

 

市民ボランティア研修会を行いました。

 平成23年4月20日(水)午後1時~4時30分まで、博物館の大会議室でボランティア研修会を行いました。これは、博物館を拠点に活動するボランティアグループのみなさんに、博物館の調査・研究活動への理解を深めていただくために企画したものです。考古、民俗、歴史、生物、地質の各専門分野の学芸員が、最新の調査・研究のトピックを紹介しました。

 また、天文分野は、4月16日にリニューアルオープンしたばかりの天文展示室で展示解説を行いました。

 さらに、相模原市から大船渡市へ被災地支援活動のために派遣された秋山学芸員から、被災1週間後の大船渡市のようすについて報告がありました。

 各分野の発表内容タイトルは次のとおりです。

  •  考古分野(河本学芸員) 「津久井地域の遺跡調査」
  •  民俗分野(加藤学芸員) 「津久井地域の祭礼行事」
  •  歴史分野(土井学芸員) 「歴史分野の現状と課題」
  •  生物分野(秋山学芸員) 「絶滅危惧種から見る相模原市の特色」
  •  地質分野(河尻学芸員) 「相模原の台地の成り立ち」
  •  天文分野(上原指導主事・有本主査) 「リニューアルした天文展示室」
  •  被災地派遣報告(秋山学芸員)
スライドを使った講義
スライドを使った講義
熱心に話を聴くボランティアの皆さん
熱心に話を聴くボランティアの皆さん

市史の窓(平成23年度)

津久井の撚糸(ねんし)や水車の話を聞きました

 夏の暑さが残る9月15日(木)、「串川流域の撚糸業」をテーマとした座談会が津久井町史編さん会議室で開かれました。この座談会は、津久井町史の機関誌『ふるさと津久井第5号』(平成24年3月刊行予定)で「養蚕と織物」の特集を組むにあたって企画したものです。

 「撚糸」とは、1本または2本以上の生糸を引きそろえて撚り(より)をかける(ねじりあわせる)ことをいいます。絹織物はおよそ養蚕→製糸→撚糸→染色→製織という工程を経て作られ、撚糸の工程では、織物の種類など用途にあわせて撚り方や太さを調整しながら、細い生糸を撚りあわせて織物用の糸を作ります。

 撚糸といえば愛川町の半原地区が有名ですが、もともと養蚕・製糸や製織が盛んだった津久井地域でも、明治~昭和にかけて、串川流域を中心に撚糸が盛んに行われるようになりました。明治~大正頃には、撚糸の機械を動かす動力として水車が利用され、串川流域には130台以上の撚糸用水車があったことが近年の調査で確認されています(津久井町文化財保護委員会編『つくい町の水車』、平成16年)。

 しかし、動力が水力から電力に変わり、撚糸業が衰退した現在では、串川流域に残る水車は一つもなく、かつて盛んだった撚糸を知る人も少なくなりました。

座談会の様子
NIKON D70 (28mm, f/5, 1/80 sec, ISO0)
座談会の様子

 そうした中、撚糸に関する座談会を企画し、ご出席いただける方を探したところ、串川流域にお住まいで撚糸関連の仕事に携わった経験のある4名の方が集ってくださいました。2時間にわたる座談会では、沼謙吉氏(津久井町史編集委員会近代・現代部会長)の司会のもと、出席者の皆さんから、串川沿いにあった水車のこと、撚糸の機械のこと、生産していた糸や販売先のことなど、自らの経験に基づく貴重なお話をうかがうことができました。

 また、座談会の前週に開かれた津久井町史懇話会においても、座談会の内容に関連して、津久井地域の水車のお話をうかがう機会を得ました。ここでも、地元に詳しい皆さんから、水車があった場所やその用途、水車を修理する機械大工の話など、興味あるお話をうかがうことができました。

 この座談会の内容を地域の皆さんにお伝えするとともに、記録として後世に残していくため、現在、『ふるさと津久井第5号』への掲載に向けた編集作業を進めています。また、町史懇話会でのお話は、座談会の記事をまとめる際の参考とするとともに、地域に関する貴重な情報源の一つとして活用するため、テープ起こしの作業を行っています。

 普段当たり前にあることは、記憶には残っても記録には残りにくいものです。仮に、書類や写真が残ったとしても、それが大事と思われなければ、いずれなくなってしまうことでしょう。今回、たくさんのお話をうかがう中で、これからも多くの人やモノや自然に触れ、地域にとって大切なもの、将来に伝えたいことを見逃さないようにしたいと感じています。(町史担当:草薙由美)

天文の窓(平成23年度)

“十三夜”のお月見

 今年は、“十五夜”のお月見をされた方も多かったのではないでしょうか?

 天候の不順な日が続く中、平成23年9月12日(月)は、めずらしく晴れ渡った空に、まんまるのお月さまがとてもきれいでした。

 ところで、お月見のお手本にした中国にはない習慣が、わが国にあります。“中秋の名月”のひと月後、旧暦九月の“十三夜”の月を愛でるもので、“後の月”(のちのつき)とも言います。

 なぜ、“十三夜”なのか、その由来は、諸説ありますが、“十五夜”は、秋の長雨の時期で、雲間に見るなど、すっきりしない天気が多いのに対して、“十三夜”の頃になると、「十三夜に曇り無し」という言葉があるように、晴れることが多いようです。また、日本人独特の美意識にも関係がありそうです。

 中学、高校の「古典」の定番『徒然草』の137段は、こう始まります。

 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは」

 (訳)桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。

 作者吉田兼好のみならず、不完全なもの、未完のものの持つ美しさを理解する日本人だからこそ、生まれた習慣なのかもしれません。

 平成23年は、10月9日(日)が“十三夜”にあたります。(天文担当:上原徹也)

 

天文展示室リニューアルオープン(平成23年4月)

リニューアルオープンした天文展示室
リニューアルオープンした天文展示室

 財団法人日本宝くじ協会の助成を受けて、平成22年12月から平成23年3月までの間、整備工事を実施した天文展示室が『宇宙とつながる』をテーマとして、4月16日(土)にリニューアルオープンしました。

 博物館の立地環境からJAXAとの連携により、他市の科学館・博物館にはあまり事例がない実物の天体観測機器等の展示の実現が、このリニューアルの命題のひとつでしたが、小惑星探査機「はやぶさ」に搭載されたイオンエンジンの開発初号機や実際に宇宙空間で観測をして地球に戻ってきた宇宙赤外線望遠鏡(IRTS:アーツ)などの貴重な資料を借用し、展示することができました。

 その他、本物の隕石の展示など宇宙とのつながりを考えるヒントが詰まった展示構成となっており、博物館において“宇宙とつながる相模原”を実感できると思います。

 また、リニューアルに伴い、リニューアル前の天文展示室のシンボル的な展示だった大型地球模型を能代市子ども館へ無償譲与することとなり、去る6月26日には現地にて除幕式が行われました。「銀河連邦」の構成員である能代市の子どもたちに夢を与える贈り物ができたことは、大変うれしく思います。(天文担当:有本雅之)

生きものの窓(平成23年度)

 「標本レスキュー隊、立ち上がる」の記事は、ボランティアの窓に移動しました。

「博物館のまわりのミニ観察会」を実施しています!(平成24年1月)

観察会の様子
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/3.2, 1/30 sec, ISO80)
観察会の様子
ジョロウグモの卵塊
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/30 sec, ISO80)
ジョロウグモの卵塊

  生物分野が今年度から始めたイベントに、「博物館のまわりのミニ観察会」があります。毎月1回、土曜日の午前に実施しています。じつは、樹木の多い博物館のまわりには、“自然観察のネタ”がゴロゴロあります。これを使わない手はない、ということで毎回約30分、季節ごとに異なるメニューで文字通り小さな観察を行っています。

 1月14日(土)のテーマは、「生き物たちの冬ごもり」です。博物館の樹木を代表する、入り口正面のクヌギの木が、今回のメインステージです。ここのごつごつした幹のすき間をよく見てみると…、何やら黒いかたまりがあります。参加者のみなさんには場所を教えずに「この幹のどこかにあるものがかたまっています」と言って探してもらいました。

 一番始めに見つけた親子連れのお母さんが、思わず「キャー!」。すばらしいリアクションです。そこにあったのは、前回の生きものの窓でも紹介した外来昆虫、ヨコヅナサシガメの亜成体のかたまり。もともと日本よりも南方に分布する昆虫ですが、相模原付近ではこの10年ほどの間に急激に分布をひろげています。そんな話題とともに、悲鳴を上げたお母さんにも気を取り直してもらい、冬ごもりのようすをじっくり観察します。

 次に観察したのは、ジョロウグモの卵のかたまり。網でつくった袋の中に、ぎっしりと卵がつまっています。何個入っているんだろう?とみんなで考えながら観察。

 そして、植物の冬ごもり、落葉樹の冬芽に注目します。博物館の前庭には、ミズキとクマノミズキというよく似た種類の木が混在しています。葉っぱを見るとどちらもそっくりで見分けがつきにくいのですが、冬芽はぜんぜん違う形をしています。全体的にそっくりなのに、冬芽というパーツだけ似ても似つかない様子を観察しました。

ミズキ(上3枚)とクマノミズキ(下3枚)の葉
NIKON D7000 (50mm, f/9, 1/250 sec, ISO400)
ミズキ(上3枚)とクマノミズキ(下3枚)の葉
 ミズキの冬芽
NIKON D7000 (50mm, f/9, 1/320 sec, ISO400)
ミズキの冬芽
クマノミズキの冬芽
NIKON D7000 (50mm, f/8, 1/250 sec, ISO400)
クマノミズキの冬芽

 

 ミニ観察会には、ふだん何気なく通り過ぎてしまっている身近な自然に、ちょっと目を向けてもらうという目的があります。いつもより少しだけ顔を近づけてみると、それだけで生き物たちの不思議が見えてくる。そんな発見を参加者のみなさんと共有したいと考えています。

 なお、ミニ観察会で参加者のみなさんに配布している「博物館のまわりの これな~んだ新聞」は、このホームページ上でも公開しています。そちらもぜひご覧下さい。(生物担当 秋山幸也)

博物館のまわりの これな~んだ新聞

木のくぼみに虫がごちゃごちゃ(平成23年12月)

90-05-23ikimono231202
越冬中のヨコヅナサシガメ 越冬中のヨコヅナサシガメ

   この季節、写真のように、黒・白・赤まだらの虫が、木の幹のくぼみにかたまっているのを見かけたことはありませんか?

 これは、ヨコヅナサシガメ(Agriosphodrus dohrni)というカメムシの一種の幼虫が、集団で越冬をしているところです。写真は、博物館の正面にあるクヌギの幹で撮影したものですが、桜の木で見られる事が多いようです。

 カメムシというと、植物の汁を吸うので農業害虫とされているものもありますが、サシガメの仲間は肉食性です。他の昆虫等を口吻で突き刺して、体液を吸うことによって餌をとっています。このため、不用意に掴むと刺されることもあります。

 その見慣れない風貌にびっくりされる方も多いようです。それもそのはず、この昆虫が関東地方で見られるようになったのは1990年代。もともと東南アジアや中国に分布していたものが、1920年代に九州に侵入し、分布を広げてきたと言われています。相模原市内でも10年程前には比較的珍しい昆虫でしたが、今は普通に見られます。

 日本列島を北上してきたことから、地球温暖化との関係を指摘する人もいますが、確かなことはわかっていません。

 寒い季節になりましたが、注意してみると意外にいろいろな生き物がいるものです。散歩の途中などで、ちょっと足を止めて、生き物さがしをしてみてはいかがでしょう。

(学芸班 木村知之)

 

絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)の自生地をめぐる

コマツカサススキ (カヤツリグサ科)
NIKON D7000 (50mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO200)
コマツカサススキ
(カヤツリグサ科)

  絶滅のおそれのある野生動植物(絶滅危惧種)をリストアップしてまとめたものを、レッドデータブックと呼びます。全国版は環境省が作成し、さらに各都道府県版がそれぞれの地域で作成されています。神奈川県では県立生命の星・地球博物館が学術報告書として刊行し、当館が日常的に行っている調査成果も、少なからずこれに反映されています。

 では、絶滅危惧植物とは実際、どんなものなのでしょうか。今回は、市内に生育する、とある絶滅危惧植物をご紹介します。ただ、絶滅危惧種という性質上、場所について詳しく書けませんがその点はご了承ください。

 9月中旬のある日、市内の休耕地へ行きました。県内で確実な自生地は、もしかしたらもうここにしかないかもしれないという、ある絶滅危惧種の現状を確認するのが目的です。それは、コマツカサススキというカヤツリグサ科の植物です。

 写真を見ていただいても、「これが絶滅危惧種?」と思われるかもしれません。植物の好きな人にとっては大型で“華々しい”カヤツリグサのなかまなのですが、一般的には“地味”な部類に入れられてしまい、ウケはあまりよろしくないようです。

 市内には、オキナグサ(キンポウゲ科:絶滅危惧1A類)やカザグルマ(キンポウゲ科:絶滅危惧1B類)といった“スター級”の絶滅危惧種もあります。でも、コマツカサススキだって、れっきとした絶滅危惧1A類で、野生状態にあって最も絶滅の危険性が高いランクに入れられています。

オキナグサ(キンポウゲ科)
NIKON D50 (50mm, f/5, 1/100 sec, ISO0)
オキナグサ(キンポウゲ科)
カザグルマ(キンポウゲ科)
NIKON D50 (70mm, f/5, 1/400 sec, ISO0)
カザグルマ(キンポウゲ科)

 

ミズニラ(ミズニラ科)
NIKON D50 (34mm, f/11, 1/500 sec, ISO0)
ミズニラ(ミズニラ科)

 絶滅危惧種は、特殊な場所にばかりあるわけではありません。この休耕地には、ほかにもミズニラ(ミズニラ科:絶滅危惧1B類)が生育しています。この植物は水性のシダ植物なので、花すら咲きません。よくよく注意して探さないと見過ごしてしまいます。

 今、県内で絶滅危惧種にあげられている植物には、水田雑草と呼ばれてきたものや、里山の植物が多く含まれます。耕作の形態や農地をめぐる社会情勢の変化など、さまざまな要因から水田や里山の雑木林が減少したり、環境が大きく変わってしまったりしています。こうした植物が、人知れず絶滅していってしまわないよう目を光らせておくのも、博物館の仕事なのです。(生物担当 秋山幸也)

 

巨大グモがでたっ!

 博物館へのお問い合わせの中に「家の中に巨大なクモがいる。危険なものではないのか。」というものがよくあります。クモの特徴をきくと、どうやら「アシダカグモ」らしい、という場合がほとんどです。

アシダカグモを上から見たところ
アシダカグモ

 アシダカグモというのは、日本最大のクモで、体長(頭からお尻の先までの長さ)が、大きな個体では3センチ位。足を広げた大きさは10~12センチくらい。「CD盤くらいの大きさだった」という表現もしばしば聞かれますが、実際には、足を広げてもCDよりふたまわりほど小ぶりです。いわゆる「クモの巣」のような網は張らずに、獲物を待ち伏せして捕らえる習性があります。人家に好んで住み、主にハエやゴキブリを食べています。そういった意味では、たいへんな「益虫」です。

 このクモに出会ったらどうしたら良いでしょうか?

 人間がわしづかみにしたりしなければ、クモの方から襲いかかってきたり、噛み付いたりする事はありません。そうっとしておきましょう。もし目障りな場合は、ほうきや軽く丸めた新聞紙などで追いやると良いでしょう。動きがすばやいので、捕虫網がないと、つかまえるのは難しいと思います。

 大変面白いことに、よく似た「コアシダカグモ」という種は、森や林でしか見かけません。どうやって住み場所を選んでいるのか不思議ですが、よりによってなんで我が家を選んでくれたのか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、人は見かけではありません。クモもまた同じです。その働きに免じて、居候を認めてあげても良いように思います。

(学芸班 木村知之)

 

カイコを育てる(4)-いろいろな繭のはなし(平成23年7月)

 (左)1頭で作られた繭と(右)玉繭
(左)1頭で作られた繭と(右)玉繭

  たくさんのカイコを育てていると、まぶしの1つの部屋にうまく1頭ずつ入ってくれるとは限りません。どうしても、2頭がいっぺんに入って繭を作ってしまうことがあります。ふつう繭は楕円体ですが、2頭で作った繭は少し大きめで球体に近く、しかも2頭分の糸が複雑に絡み合っています。このような繭を玉繭(たままゆ)と言います。

 生糸を生産するには、十数個の繭を煮てそれを1本に撚(よ)るのですが、この工程で、1頭で作られた繭と玉繭を一緒にすることができません。そこで、玉繭は生糸にせず、1個ずつ水でほぐして平面上に拡げます。これを乾かしたのが真綿(まわた)です。今、綿と言えば木綿や合成繊維が主流ですが、かつては布団に打つ綿と言えば、玉繭からつくられた真綿のことを指しました。 

交尾(左:オス、右:メス)
交尾(左:オス、右:メス)
 産卵するメス
産卵するメス

   さて、米や野菜を種子から育てるのと同じように、カイコも卵から育てます。養蚕では、卵(蚕種と言います)を生産する専門の業者がいて、たくさん糸を吐いて大きな繭をつくる優良な品種の作出に心血を注いでいました。

 蚕種を生産するには、カイコを成虫にしなくてはいけません。蛹になったカイコは、繭の中で12日ほどすると羽化して成虫になります。成虫は、繭を固めている「のり」を溶かす酵素を口から出して、繭をほぐすようにして出てきます。

 この穴あきの繭を、出殻繭(でがらまゆ)と言います。酵素は糸のまわりの「のり」だけ溶かして、糸の成分である絹タンパクを溶かさないので、この出殻繭の糸は、切れずにつながっています。撚り糸機にはかけられなくても、繊維として充分に利用できます。そこで、出殻繭をていねいに紡いで織物にしたのが、紬(つむぎ)です。絹の紬の産地は、たいてい、蚕種の生産が盛んだった地域と一致します。

 さて、撚り糸の工程で繭から出した蛹もまた、利用されてきました。佃煮にして子どもたちのおやつにしたり、家畜の飼料に混ぜられたりしました。今でも、釣具店に行くと釣り餌として「さなぎ粉」が売られていますが、これがまさに、カイコの蛹です。こうして余すところ無くさまざまに利用されてきたカイコのお話、まだまだ続きます。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(3)-繭になる(平成23年7月)

 ふ化してから4週間弱、体がやや縮んで飴色に透き通ってきたカイコを、「まぶし」に移します。まぶしとは、ボール紙を4センチ角くらいの格子状に組んだもので、博物館では職員が自作したものを使っています。

 まぶしの中で繭を作り始めるカイコ
まぶしの中で繭を作り始めるカイコ
だんだん丸い形ができてくる
だんだん丸い形ができてくる

  ふだん、餌が無くてもあちこち動き回らずじっと待っているカイコですが、このときだけは何かに突き動かされるようにウロウロします。繭(まゆ)をつくる場所を探し回るというよりも、ウロウロ動き回っているうちに、どうしようもなくなって同じ場所で糸を吐きまくっていたら繭になってしまった、という雰囲気です。

 糸を吐くと表現しましたが、正確には「引く」方が正しいかもしれません。繭をつくる糸は、カイコの体内の絹糸腺(けんしせん)という器官から、口のすぐ下にある吐糸管(としかん)を通って吐き出されます。しかし、体内ではまだ液体で、外に出て空気に触れた瞬間に固まって糸になります。そのため、カイコは常に頭を振って糸を引き出しながら繭をつくっていくのです。

そうしてまぶしの中に落ち着き、糸を吐き続けて半日ほどすると、うっすらと繭の外側ができてきます。さらに半日すると、はっきりと繭の形になりますが、中は透けてカイコが動いているのが見えます。丸2日ほどかけて繭が完成すると、中でカイコは脱皮して蛹になります。

 さて、農業としての養蚕は、産品である繭ができあがったこの時点で、まぶしから繭を取り外して出荷し、終了です。出荷された繭は熱乾燥して中の蛹を殺し、撚(よ)り糸の工程を経て絹織物の原料である生糸になります。農業から工業へのバトンタッチです。

 次回は、産品として余すところ無く使われてきた繭のいろいろについてのお話です。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(2)-どれくらいの期間で繭をつくるの?(平成23年7月)

 博物館では、今年もカイコを育て、実際に飼育のようすを3週間ほど展示しました。博物館の職員や、ボランティアとして毎週来られている市民の方々にも人気で、「大きくなったねえ」などと声をかけてもらいました。

さて、そんなカイコの成長についてよく尋ねられるのは、「ふ化してどれくらいで繭を作るのですか?」という質問です。「だいたい4週間弱です。」と答えると、ほとんどの方がその早さに驚かれます。少し詳しくご説明しましょう。

 カイコは一生のうち、6回脱皮をします。幼虫の間に4回、幼虫から蛹(さなぎ)になるときと、蛹から成虫になるときにそれぞれ1回ですから、合わせて6回です。最後の2回の脱皮は、繭の中で行われます。

 ふ化したばかりの1齢幼虫には毛が生えています。まだ体も頭も黒くて、知らなければこれがカイコとは思えません(カイコを育てる(1)参照)。産まれてすぐにクワを食べ始め、3日後にはもう最初の脱皮をします。2齢になると毛がなくなり、小さいながらも形はもうカイコらしくなっています。ただし、黒い斑点が体中に残ります。2回目の脱皮まで、やはり3日くらいです。この時、黒かった頭が褐色になり、色もカイコそのものになります。3齢は少し長くて、4日~5日くらい。3回目の脱皮の後、4齢はさらに少し長くて、6日くらいです。ちなみに、脱皮の前の1日~1日半くらい、カイコは頭をもたげて動かなくなります。体の内側で、新しい皮膚が作られているのです。この状態を、眠(みん)と言います。

 4回目の脱皮を終えると、いよいよ5齢(終齢)となります。5齢は7~8日で、このとき、カイコ1頭が一生に食べるクワの量(およそ25グラム)の8割以上を食べます。クワの葉をあげてもあげてもすぐに食べ尽くしてしまうので、担当者はしょっちゅう博物館の敷地内に植えられたクワの木へ葉を取りに行かなくてはいけません。他の職員から「たいへんだねえ」とねぎらわれるのもこの頃です。

3齢幼虫(眠の状態)
3齢幼虫(眠の状態)
5齢幼虫
5齢幼虫
クワの葉
クワの葉

 

 5齢になって約1週間、バリバリもりもりと食べ続けていたカイコが、突然食べなくなり、頭を八の字に振り始めます。体が少し縮み、色もなんとなく飴色に透き通った感じになります。これが、繭をつくり始める熟蚕と呼ばれる状態です。このタイミングで、繭をつくらせる「まぶし」に移すのですが、ここから先は次回といたします。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(1)-最も研究されている昆虫(平成23年6月)

 神奈川県の養蚕の灯は昨年秋、静かに消えました(バックナンバー「神奈川の養蚕、終わる」参照)。しかし、カイコは地球上で最も生物学的な研究が進んだ昆虫と言われています。発生のしくみから遺伝まで、膨大な研究成果が蓄積されています。

 たとえば遺伝学の祖、メンデル(1822-1884)がエンドウマメで発見した遺伝法則を、カイコを使っていち早く動物で実証したのが、神奈川県出身の外山亀太郎博士(1867-1918)です。また、外山博士はカイコの日本産品種とタイ産品種をかけあわせた一代雑種が著しく大きな繭をつくることを発見しました。この雑種強勢(ヘテローシス)という現象は今や、野菜や家畜の生産現場では常識となり、収量増加に大きく貢献しています。

 さらに、カイコはふ化の日にちをほぼ正確に調整することができます。休眠したカイコの卵を低温下に置いたのち、酸に浸けるなどの処置を施すことにより、休眠が打破されて発生が再開されるのです。この技術は、江戸時代から行われていました。

 このように、人間が飼育のためのさまざまな技術を発達させてきたカイコという昆虫は、生物学だけでなく、郷土の歴史や産業を学ぶための生きた教材として活用することができます。ふ化のタイミングをコントロールできることも、教材としてたいへん好都合と言えるでしょう。さらに有用性を補強するもう一つの大きなポイントは、「かわいい」ということです。ムシが嫌いという人でも、一度飼ってみると、たいていの場合カイコに限っては抵抗がなくなるようです。クワの葉を一心不乱に食べ続ける姿や、誰に教わるでもなく美しい繭をつくるようすは、何時間見ていても飽きません。

 相模原の、ひいては日本の近代化を支えたカイコという昆虫について、「生きものの窓」の中で引き続きご紹介していきたいと思います。(生物担当 秋山幸也)

カイコの卵とふ化したばかりの1齢幼虫
カイコの卵とふ化したばかりの1齢幼虫
脱皮前の2齢幼虫
脱皮前の2齢幼虫

 

春が来た(平成23年4月)

 この10年くらいの中で、今年ほど春の花を見ていない年はありません。そして、今年ほど春の花が待ち遠しい年もありません。

フデリンドウのつぼみ (平成23年3月30日撮影)
フデリンドウのつぼみ
(平成23年3月30日撮影)

 

フデリンドウの花 (平成22年4月初旬ころ)
フデリンドウの花
(平成22年4月初旬ころ)

 いつもの年なら駆け抜ける春を追いかけて、あっちへ行き、こっちへ行きと焦りながら走り回っています。しかし今年は遠出を控えて、身近な木々や草花の動きを見ています。すると、今まで春は足が速すぎると考えていたのが、じつは思い込みであることに気付きました。あちこち追いかけるから、速いと感じる。追いかけず、身近な場所に腰を据えて見ていると、その歩みは案外速くもなかったのです。むしろ、待ち遠しいくらいにゆったりと進んでいました。

 実際、今年は植物の動きが全体的に少し遅いようです。博物館の隣の林には、毎年たくさんのフデリンドウが咲きます。例年3月の末から咲き始め、4月に入ると遠目にも目立つようになり、中旬には数え切れないほどの花が咲き乱れます。しかし、今年は3月30日の時点でまだ1輪も咲いていません。やっとちらほらと、つぼみが伸びてきたところです。

 

ミミガタテンナンショウ (平成23年3月30日撮影)
ミミガタテンナンショウ
(平成23年3月30日撮影)

 ふとまわりを見回すと、ミミガタテンナンショウは他の植物の動きなど我関せず、というようにすくっと伸びて花を咲かせていました。こちらは例年とあまり変わりないか、むしろちょっと早いくらいのタイミングです。

 地球が回りさえすれば、必ず明日が来るし、季節はめぐります。決して裏切ることのない自然の歩みを、身近に感じる幸せがあります。一方で、牙をむいた自然の凶暴なエネルギーを目の当たりにして震え上がり、とまどい、そして残されたたくさんの悲しみに呆然とする私たちの姿があります。

 自然を相手にする仕事をしていながら、それを自然として冷静に扱う気構えはありません。ただ、身近なところに春が来ていることを見落とさないようにしよう、それを伝えようと考える毎日です。(生物担当 秋山幸也)

歴史の窓(平成23年度)

 

日本最初の留学生~伊東方成、三十にして立つ!(平成24年3月)

 前回「明治天皇侍医の処方箋」を閲覧された方々から「相模原出身にそんな偉人がいたなんて…」「もう少し方成について知りたい」など、多くの関心の声をお寄せいただきました。そこで蛇足ながら、日本史の隠れた1ページを飾るにふさわしい伊東方成の壮年時の動きについて紹介します。

  「文久年間和蘭留学生一行の写真」  ※1865年オランダ。  ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西  ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道 (国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)
「文久年間和蘭留学生一行の写真」
 ※1865年オランダ。
 ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西
 ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道
(国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)

 文久2(1862)年6月、幕府はオランダに発注した最大級軍艦(開陽丸と命名)の建造立会いと回航を名目として、若き有能な士分・職方16人を選抜し近代科学を本格的に学ばせるために初めて国外派遣しました。その中には、榎本武揚・赤松則良・西周ら維新後の新政府で手腕を発揮する面々がおり、時ちょうど脂の乗る30歳を迎えた伊東方成も長崎養生所での学友・林研海と一緒に医学を修めるため海を渡ることに。

 使節一行はオランダのハーグやライデンに居を構え各自の任務を果たしていきますが、伊東・林の両人はニューウェ・ディープにある海軍病院を拠点に他の仲間よりも滞在期間を延長して研さんに励みました。また伊東は、当地で「電信」を体験したようすで、アムステルダムにいる同僚・赤松に宛てた発信記録が伝わっており、“日本人初の電報利用者”としてのエピソードも残しています。

 明治元(1868)年12月の帰国後、伊東は宮内省典薬寮医師となり、名を玄伯から方成へと改めます(「方」は上溝村の実父・鈴木方策の1字に通じます)。翌年9月には大典医に昇進しますが向学の念冷めず、その1年後から3回の留学へ。再三の渡欧では特に眼科学研究に打ち込み、日本には無かった精巧な木製眼球模型の入手や視力検査表の翻訳などを行い、それまでの学恩に報いるため250ギルダー(現在の価値で推定500万円)をオランダ眼科病院に寄付し理事としてその名を留めるほどになりました。

 一方、帰国後には、箱館戦争の末に投獄された留学仲間の榎本を陰ながら支え、ついには榎本の新政府への出仕を仲立ちする役割も果たしました。ほかにも洋行経験の先輩であり榎本の助命にも尽力した福沢諭吉の病気(発疹チフス)治療に当たったことがわかっています。

 このように、方成には近代日本の知られざる立役者という側面もありますが、私には学問熱心で仲間思い、そして恩義に厚い幕末・明治人の姿が浮かんできます。その豊かな人間性は、きっと「三つ子の魂…」よろしく幼少時を過ごした上溝村の風土や人々との交流が育んだものなのでしょう。伊東方成(前名:伊東玄伯、鈴木玄昌)に関する内外の資料や情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報いただきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

 

明治天皇侍医の処方箋~東京の兄から上溝の弟へ(平成24年1月)

 

 昨年6月に、県内にお住まいの医師から上溝村出身の洋方医・伊東方成(いとう・ほうせい)についてのお問い合わせがありました。

 方成は、激動の幕末から維新期にかけて若い情熱を医学に捧げ、ついには従三位(じゅさんみ)勲一等宮中顧問官・侍医頭という栄職を極めた人です。彼の生涯は、『相模原市史』第二巻や市立中学校社会科副読本などで若干触れられていますが、その経歴に比べて知名度はあまり高くないようです。それは彼が若くして江戸へ出て、伊東玄朴(いとう・げんぼく)※の門弟・婿養子となったため、地元に関係資料がないことも理由のひとつと思われます。

 ところが、その問い合わせをきっかけに方成の生家をお邪魔した際、唯一伝来する方成直筆の書簡のすがたを知ることに…。今回は、この資料を調べる機会を与えていただいた御当主の承諾を得て、判読した書簡の概略を御案内します。

 明治28年10月の処方箋(一部) 「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
明治28年10月の処方箋(一部)
「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右) (写真左は伊東玄朴の墓)
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右)
(写真左は伊東玄朴の墓)

 書簡は2通ありました。1通は、納められた封筒の消印によると、明治27年5月9日の発信。もう1通は明治28年10月の書上げと思われ、封筒は付いていませんでした。ちょうど方成が、皇太子嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の御養育に精力を傾けていた時期です。2通の書簡には1年半ほどの時間差がありますが、中身はいずれも実家を継いだただひとりの弟(御当主の曾祖父)に宛てた処方箋と説明書きであることが判明しました。要約すると、慢性的な下痢症対策として<ホミカチンキ><アヘンチンキ><クミチンキ><ハッカ水><水>を適量調合し、1日3回の服用を勧めた内容となっています。チンキ剤の保管には気密容器を必要とし、当時の上溝(溝村)で簡単に入手できたかは定かでありませんが、方成の助力もあったかもしれません。

 方成は、明治31年に66歳で亡くなりました。亡くなる3、4年前に、4歳違いの年老いてきた実弟を案じて、晩年の宮中医師がふるさと・上溝へ宛てた貴重な手紙に出会えました。(歴史担当:土井永好)

※伊東玄朴(いとう・げんぼく)…蘭方医で後に幕府機関・西洋医学所の推進役。TVドラマ「篤姫」や「JIN-仁-」の登場人物にもなっています。

 

軽井沢の咢堂翁(2)(平成23年9月)

 「軽井沢の咢堂翁(1)」で紹介した尾崎行雄関係資料の所蔵者から、より詳しい調査のお許しをいただき、9月中旬に暑さまだ残る軽井沢の御宅を再訪しました。所蔵者には当館の調査に対し大きな理解と協力をいただき、関係氏名や資料自体の公開も快諾されましたので、支障のない範囲で示していくことにします(敬称略)。

 今回の訪問でも、所蔵者の話しぶりから、曽祖父・市村一郎と尾崎咢堂の親しい関係を垣間見ることができました。

村内遊歩中の休憩地にて (右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)  (「栽華園」所蔵)
村内遊歩中の休憩地にて
(右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)
(「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋  (「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋
(「栽華園」所蔵)

 尾崎は、軽井沢生活において元駅前郵便局を頻繁に利用しており、初代局長であった市村一郎との縁はそこから深まることに…。当の市村は、ちょうど一回り歳の離れた尾崎を兄のごとく敬い、地元の東・西長倉村(軽井沢町の前身)や周辺地の案内役を務めるなど家族ぐるみのつきあいを広げたとのことです。 そんな市村に尾崎も心を許し、公私に渡る交流を通じて地域の課題解決にも協力したのではないでしょうか。

 調査では、資料の分類や調査カードの作成などを行いました。総点数では、概要を把握した6月時点から30点ほど増加しましたが、時間の制約もあり、全体の3割を調べるに留まりました。

 これらの資料群は、生地・相模原(緑区又野)と結びつくものではないかもしれません。しかし、大正~昭和初期の人間・咢堂を知る上で、こんなに“匂い”のある資料はなかなかお目にかかれるというものでもありません。根気よく地道に調査を続けていこうと思います。 (歴史担当:土井永好)

 

軽井沢の咢堂翁(1)(平成23年6月)

 今春、長野県軽井沢町在住の方から尾崎行雄(咢堂)に関するいくつかの資料情報をお寄せいただき、去る6月末にはその概要を調べる機会に恵まれました。お持ちの資料は、所蔵者の曽祖父が避暑地に集う多種多彩な人物たちと親交を結んだ内容を示すものでした。中でも尾崎とやりとりしたものが一番多く見られ、日常生活での意外な面を今に知ることができそうな気配が…。

 尾崎は生涯、生活の拠点を方々にもったことは周知の事実ですが、東京市長時代は北品川(東海寺跡)と軽井沢(莫哀山荘)の二重生活を繰り返しました。特に再婚した明治38(1905)年以降は、職責の重荷から心身を解放してくれる信州北佐久の気候・風土が大のお気に入りだったことが随筆等からうかがえます。

現在3代目の倉賀橋銘板
現在3代目の倉賀橋銘板

 当日短時間ながら拝見した尾崎関係資料は、別荘である莫哀山荘の維持・修繕等に関わる通信文や在京家族からの便り、軽井沢での記念写真、揮ごう類など150点余りを数え、状態良く収蔵されていました。永く個人蔵であったため未出資料を多く含み、尾崎が土地の住民に慕われ、いかに交流していたかを物語る貴重な品々がそこにありました。

 一例を引くと、初代「倉賀橋」(現しなの鉄道の信濃追分-御代田駅間にある跨線橋)架工にまつわる資料。これは、隣村まで含めて生活の利便を図りたいという発起人たちの要請に応えて、用地の仲介や橋の命名、記念碑の撰文などに当たったことが分かります。尾崎が軽井沢の住人として関わった地域活動の一場面を伝える資料と言えましょう。このような未知の資料につきましても、今後の博物館活動に活かすべく調査研究を続けていきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

考古の窓(平成23年度)

考古資料の収集(2)

 寄贈資料の一部
NIKON D70s (18mm, f/5, 1/40 sec, ISO0)
寄贈資料の一部

 博物館で収集された考古資料は発掘調査で得られたものだけではありません。数量的には多くありませんが個人などからの寄贈資料もあります。耕作などによって地下に埋もれている遺跡が掘り返され、地表に土器や石器のかけらが散布している場所を見かけることができますが、個人からの寄贈資料の多くは、そうした場所で採集されたものです。

 これらの資料は採集地点が正確に記録されていれば、遺跡の有無やある程度の性格を把握するために役立つもので、これまで博物館では資料的価値が高いものについては、『相模原市立博物館研究報告』で報告してきました。

採集地点が記録された地図
NIKON D70s (18mm, f/4.5, 1/80 sec, ISO0)
採集地点が記録された地図

 平成23年度これまでに寄贈された資料では、市内にお住まいの石藏政雄さんが長年にわたって市内を踏査し丹念に採集された縄文時代を中心とする資料が注目されます。これらの資料は約100地点におよぶ採集地点が地図上に記録された資料的価値の高いものです。

 このように市民の皆さんが個人の力で集められた考古資料の中には、市域の歴史を知るための貴重な手がかりとなるものもあり、博物館ではそれらの収集や整理も行っています。(考古担当 河本雅人)

考古資料の収集(1)

 博物館における資料収集の方法としては、調査に伴うもの、寄贈・寄託、購入などがあげられます。

 考古資料の収蔵状況
NIKON D70s (18mm, f/8, 1/1.6 sec, ISO0)
考古資料の収蔵状況

 その比率は分野によって大きく異なりますが、考古分野の場合、収蔵されている資料の大半は開発に伴う発掘調査で出土したものになります。広い意味で調査に伴うものと言えるかもしれませんが、それらは博物館の収集方針にもとづいて、博物館が主体的に調査を行って収集したものではありません。つまり、収集方針にかかわらず資料が次々と蓄積していく点において、他の分野の資料とは異なる性格をもっていると言えるでしょう。

大日野原遺跡から出土した縄文土器
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
大日野原遺跡から出土した縄文土器

 もちろん目的をもって行われる資料収集もあります。平成22年度の博物館の窓でご紹介した、緑区澤井で中央大学と共同で実施している大日野原遺跡の発掘調査は、遺跡の価値を明らかにするとともに、市域山間部における縄文時代資料の収集を目的として実施されているものです。大日野原遺跡については平成23年度で第1期の調査が終了し、多量の遺物が出土しましたが、これらは調査報告が行われた後、博物館の常設展示室に展示される予定です。(考古担当 河本雅人)