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Category Archives: 博物館の窓

地質の窓(平成25年度)

Posted on 2014年6月7日 by 相模原市立 博物館 Posted in 博物館の窓, 平成25年度

 

  • 相模原市緑区名倉の火山灰

相模原市緑区名倉の火山灰

葛原層の地層。この中に火山灰層が数枚挟まれています。
葛原層の地層。この中に火山灰層が数枚挟まれています。

 相模原市緑区名倉の芝田川沿いでは、約10万年前に遠方から飛来して降り積もった火山灰の地層がいくつか見られます。いずれも、芝田川を渡ったり、川の中を歩いたり、場所によっては急な崖を上ったりしなければたどり着くことはできませんが、相模野台地では見ることのできない火山灰を観察することができます。地層の下の方から順に、御岳(おんたけ)第一軽石、鬼界葛原(きかいとずらはら)火山灰、“未命名火山灰”、御岳伊那(おんたけいな)軽石、葛原(とずらはら)III火山灰、阿蘇4火山灰が見られます。芝田川沿いの数カ所で見ることができますが、場所により見ることができるものと、見られないものとがあります。

 

御岳第一軽石。
御岳第一軽石。

これらの火山灰の中で最も厚く(厚さ約60cm)、はっきりと見られるのが御岳第一軽石です。軽石が降り積もったもので、白い小さな軽石が集まっているのが観察できます。御岳伊那軽石は厚さ約15cmです。軽石と言ってもとても小さく、まるで芥子の実のようなので、“芥子の実軽石”とも呼ばれています。御岳第一軽石と御岳伊那軽石は長野県と岐阜県境にある御嶽山(おんたけさん)が噴出源です。

御岳第一軽石に近づいてみると、小さな軽石が観察できます。
御岳第一軽石に近づいてみると、小さな軽石が観察できます。

御岳伊那軽石。まるで芥子の実のような非常に小さな軽石が降り積もったものです。
御岳伊那軽石。まるで芥子の実のような非常に小さな軽石が降り積もったものです。

鬼界葛原火山灰、“未命名火山灰”、葛原III火山灰、阿蘇4火山灰は層の厚さ数cm程度で、非常に細かい鉱物破片などが降り積もったものです。鬼界葛原火山灰は鹿児島県大隅半島と屋久島の間にある鬼界カルデラが噴出源です。この火山は海中に沈んでおり、火口の縁の一部が硫黄島や竹島として海面上に顔を出しています。阿蘇4火山灰は熊本県の阿蘇山が噴出源です。 葛原III火山灰の噴出源はまだわかっていません。さらに、“未命名火山灰”は名前すら付いておらず、ほとんど研究されていない、不明な点の多い火山灰です。 これらの火山灰は葛原層(とずらはらそう)と呼ばれる、礫・砂・泥からなる地層の間に挟まれています。葛原層は大きな川の下流や湖のような流れの緩やかな環境で堆積したと考えられます。しかし、約10万年前に相模川の上流部にどのようにして流れの緩やかな環境ができたのかは、よくわかっていません。

 この地域の火山灰層についての調査結果は、「相模原市立博物館研究報告第21集」に掲載されている論文「神奈川県相模原市北西部、芝田川流域に見られる葛原層の露頭」で報告しました。(地質担当 河尻清和)

鬼界葛原火山灰。
鬼界葛原火山灰。

“未命名火山灰”。鬼界葛原火山灰よりも目立つくらいの火山灰ですが詳しく調べられていません。
“未命名火山灰”。鬼界葛原火山灰よりも目立つくらいの火山灰ですが詳しく調べられていません。

葛原III火山灰。
葛原III火山灰。

阿蘇4火山灰。連続した層ではなく、レンズ状でとぎれとぎれに堆積しています。
阿蘇4火山灰。連続した層ではなく、レンズ状でとぎれとぎれに堆積しています。

生き物の窓(平成25年度)

Posted on 2014年6月7日 by 相模原市立 博物館 Posted in 博物館の窓, 平成25年度
    • 新しい外来種を確認(平成25年12月)
    • クワコから教わる、カイコに残る野生の記憶(平成25年8月)
    • カワラノギクの種まき(平成25年5月)

新しい外来種を確認(平成25年12月)

 昨年(平成24年)の夏頃、相模原植物調査会会員で横浜市在住の方から、旭区の追分・矢指市民の森付近で見慣れない植物が生育している、との連絡をいただきました。添付されていた写真を見たところ、なんという植物なのかさっぱりわかりません。イラクサ科かクワ科のようにも見えたので、その線で図鑑をいくつか調べたり、さらに何人かの詳しい方にも写真を見ていただいたりしましたが、やはりわかりませんでした。

生育場所の環境
生育場所の環境

  その後、現地を見に行こうと思っていた矢先に草刈りで刈り払われてしまったとの連絡があり、持ち越しとなっていました。今年になって再び「今年も育っています」と連絡があり、今度こそ草刈りする前にと、現場を案内していただくことになりました。

 生育地は保土ヶ谷バイパス下川井インター近くの追分・矢指市民の森の一角と、中原街道の路傍の一部の2カ所で確認できました。その植物は高さ20~30センチほどのあまり特徴の無い草本で、現物を見ると、イラクサ科というよりクワクサやエノキグサに近い印象を受けました。標本用に1株と、生品で検討するために土を付けたままの1株を採集しました。

 その後、相模原植物調査会の野外調査会の帰り、外来植物に明るい会員の方と博物館で鉢植えにしてあったその株を一緒に見て検討したところ、トウダイグサ科ではないか、との結論に至りました。さらにその方が、インターネット上で見つけた中米原産のAcalypha setosa A Rich(トウダイグサ科エノキグサ属)ではないかと連絡をくださったのです。写真を見るとほぼ間違いなく、英名Cuban copperleafというところまでわかりましたが、日本名がありません。つまり、まだ日本では確認されていない外来植物の可能性が高まりました。

 アレチアミガサソウ(仮称)
アレチアミガサソウ(仮称)

 その後も身近な文献やインターネット上で調べた限りでは、やはり国内では報告がなく、日本新産の外来種であろうと判断しました。そこで、和名について発見者と相談し、外来であることと、路傍で生育可能な性質、そして同属のエノキグサの別名であるアミガサソウにちなみ、アレチアミガサソウと仮称することにしました。ちなみに、同属にはキダチアミガサソウとヒメアミガサソウという外来種が報告されていますから、それらとの近縁性もわかり、なかなかよい名前だと思います。  

 さらに地方の植物誌などから情報を集めた上で、ほんとうに国内新産かどうかという検討を続けなくてはいけませんが、時期を見て学術雑誌へ正式に報告したいと考えています。 (生物担当 秋山幸也)

 

クワコから教わる、カイコに残る野生の記憶(平成25年8月)

 今年も春から初夏にかけて、カイコの飼育を行いました。5齢(終齢)になると、クワの葉を食べるスピードが爆発的に増して、あげてもあげてもあっという間に筋(葉脈)だけになってしまいます。だからといって、ドサッと一度に積み上げるように葉をあげればよいかというと、そうでもありません。カイコは自分より上にある葉をどんどん食べ進んでいく性質がある一方で、下に潜って食べるということをしませんから、食べ残しが多くなるだけです。そんなわけで、5齢の間は数時間おきに新鮮な葉を取りに、博物館の敷地内にあるクワの木へ通うことになります。

写真1 クワの葉裏についていたクワコの繭
写真1 クワの葉裏についていたクワコの繭

 ある時、クワの葉の裏に黄色っぽい綿のようなものがついていました(写真1)。これは、カイコに近いなかまの野生の蛾、クワコの繭(まゆ)です。カイコは、中国大陸に生息していたクワコを家畜化したものと言われています。ただし、家畜化の過程で野外に生き抜く能力を完全に失ったカイコと野生のクワコには、習性などに大きな差があります。そのため、分類上の両種の関係には諸説あるものの、カイコとクワコが進化的に非常に近い種類であることは間違いありません。

 さて、このクワコですが、若齢のカイコに見られるまだら模様(写真2)や、終齢になると目立つ眼状紋(写真3)の意味を説明するのに都合がよいので、私はよく「カイコの授業」に使います。カイコは3齢くらいまで、体全体に黒いまだら模様があります。4齢から5齢にかけてだんだん白くなり、5齢になるとそのコントラストから眼状紋や半月状斑紋といった黒っぽい斑紋が目立つようになります。こうした模様は長い選抜、改良の歴史の中で見栄えよくするために人間が意図的に残したものでもあるのですが、「野生の記憶」と言えなくもないのです。

写真2 カイコの2齢幼虫
写真2 カイコの2齢幼虫
写真3 カイコの5齢幼虫
写真3 カイコの5齢幼虫

 黒い模様は眼と間違われることが多いが、胸部にある模様にすぎない では、クワコの幼虫の模様の変化を見てみましょう。若齢のクワコを見ると一目瞭然(写真4)、このまだら模様は、アゲハチョウをはじめ多くのイモムシで見られるのと同じ、「鳥のフンへの擬態」なのです。さらに、クワコの5齢幼虫は、写真5のように枝に対して斜め上にまっすぐ止まる性質があります。クワの枝への見事な擬態です。茶褐色の色合いも、クワの若枝の色だったのです。この性質は、カイコにはもはや残っていません。 しかし、こうしてとまっているクワコの頭を軽くつつくと、写真6のように頭(正確には胸部)を前傾させて丸めます。すると出てくるのが、眼状紋です。枝への擬態では隠していた眼状紋を突然見せるのは、ヘビを意識した「目玉模様」を見せて外敵(鳥)を驚かせるための、最後の抵抗だったのです。

写真4 クワコの3齢幼虫
写真4 クワコの3齢幼虫
写真5 クワコの5齢幼虫 クワの枝に擬態している
写真5 クワコの5齢幼虫 クワの枝に擬態している
写真6 クワコの5齢幼虫 つつくと眼状紋を見せる
写真6 クワコの5齢幼虫 つつくと眼状紋を見せる

 せっかくなので、クワコの成虫も見てみましょう(写真7)。野生に生き、もちろん飛翔可能なシャープな体の線、複雑でメリハリのある翅模様。野趣と表現すればよいでしょうか。モコモコしてぬいぐるみのようにかわいらしいカイコの成虫(写真8、9)と対照的な、野性味あふれるクワコも私は好きな昆虫のひとつです。 (生物担当 秋山幸也)

写真7 クワコの成虫
写真7 クワコの成虫
写真8 カイコの成虫
写真8 カイコの成虫
写真9 カイコの成虫
写真9 カイコの成虫

  過去のカイコ関連記事

平成23年度

  • カイコを育てる(4)-いろいろな繭のはなし(平成23年7月)
  • カイコを育てる(3)-繭になる(平成23年7月)
  • カイコを育てる(2)-どれくらいの期間で繭をつくるの?(平成23年7月)
  • カイコを育てる(1)-最も研究されている昆虫(平成23年6月)

平成22年度 神

  • 奈川の養蚕、終わる(平成22年12月)

カワラノギクの種まき(平成25年5月)

 平成25年3月28日(木)、市内南区下溝の相模川で、カワラノギクの保全圃場(ほじょう)の種まきを行いました。この圃場は、河川管理者である神奈川県のご協力を得て造成され、光明学園相模原高校の理科研究部が育成にあたるものです。種子のまき方は、桂川・相模川流域協議会のみなさんに指導していただきました。理科研究部では在校生に加えて、今春卒業したOBも駆けつけてくれています。ゴミを拾ったあと、川砂と水を混ぜた種子塊(しゅしかい)を、砂礫地(されきち)の上にまんべんなくまいていきました。

種まきの方法を桂川・相模川流域協議会の方から教わる
種まきの方法を桂川・相模川流域協議会の方から教わる
均等に生育するよう、一列に並んで種子をまく
均等に生育するよう、一列に並んで種子をまく

 相模川を象徴する絶滅危惧種であるカワラノギクは、現在、緑区葉山島や同区大島などに大規模な保全圃場が作られ、地元の小学校や市民団体を中心に保全育成が行われています。残念ながら、人間の力を借りずに存続している自然群落はなく、神奈川県版のレッドデータブックでは、最も絶滅の危険性が高い絶滅危惧1A類に区分されています。相模川水系のほかには鬼怒川と多摩川にしか自生していないので、万が一にも相模川の個体群を絶滅させるようなことがあってはならないのです。

今は裸地の河原も、秋にはカワラノギク群落へとうつりかわっているはず
今は裸地の河原も、秋にはカワラノギク群落へとうつりかわっているはず

 さて、この保全圃場を造成したのは、今から20年ほど前まで自生の群落があった場所です。種子は、もっとも近い保全圃場で採種されたものを使いました。この播種作業の前には、私が高校生たちに事前のレクチャーを行い、カワラノギクの生態や保全の経過などを説明しました。地元の高校生が生物多様性の概念を学びながら保全生物学の実習を行うのが、この 圃場です。 なぜカワラノギクを守らなくてはならないのでしょうか。しかも、人工的に作られた裸地で、ほかの植物を抜き取るような過保護をしてまで。 高校生たちは、真夏の炎熱地獄や真冬の吹きすさぶ寒風の中で、その答えを探しながら作業するはずです。カワラノギクの種の保存を第一義として進めてきたこれまでの保全 圃場ほじょうから、ちょっと教育的な意義を含んだ新しい圃場がスタートしました。これからどのような成果の花を咲かせるのか、楽しみに見守りたいと思います。 (生物担当 秋山幸也)

市史の窓(平成25年度)

Posted on 2014年6月7日 by 相模原市立 博物館 Posted in 博物館の窓, 平成25年度
  • 津久井町史自然編刊行記念自然観察会 「仙洞寺山の地層と鳥たち」を開催(平成26年1月)
  • 津久井町史自然編刊行記念講演会「虫は不思議でおもしろい!!」を開催(平成25年9月)
  • 津久井町史自然編刊行記念自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を開催
  • 養蚕の豊作と作業の無事を祈る女性たちの「おこもり」~緑区青野原~
  • 『津久井町史自然編』を刊行!!

津久井町史自然編刊行記念自然観察会 「仙洞寺山の地層と鳥たち」を開催(平成26年1月)

 博物館では、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、昨年夏の自然観察会や秋の講演会など、少しでも多くの方に旧津久井町の豊かな自然について知っていただこうと、市民の皆様を対象とした事業を実施しています。平成26(2014)年1月26日(日)には「仙洞寺山の地層と鳥たち」と題した自然観察会を開催いたしました。津久井生涯学習センターを出発し、目指すは仙洞寺山林道です。仙洞寺山はほとんどが国有林として管理されており、林道の出入口はゲートで車での入場が規制されています。

 まず皆さんで立ち寄ったのがタヌキの溜めフンのある場所です。タヌキになった気持ちで狭いけもの道を進むと、山のように溜まったタヌキのフン。近くにあったイチョウの実(銀杏)を食べた形跡も見られました。

 林道を入ってすぐに観察できたのが、神奈川県で最も古い時代に形成されたとされている「相模湖層群瀬戸層」砂岩の地層です。林道沿いには崖が崩れ地中がむき出しになっている露頭が多く、資料として配られた林道沿いのルートマップ(林道沿いに見られる地層の区分が示された図)を見ながら、講師の髙橋純夫さんから地層が形成された状況や経過を分かり易く説明していただき、皆さん耳を傾けていました。地質の関係では、丹沢山地の形成に伴ってできた谷に堆積した愛川層群の地層や、タマネギのように表面がむけていく「たまねぎ石」など、豊かな自然を支える大地の成り立ちについて学ぶことができました。

 林道沿いには哺乳動物が通った跡のけもの道も多く観察できました。動物に遭遇することはありませんでしたが、テンやイノシシのものと思われるフンや足跡の痕跡、シカやイノシシが体についたダニなどを落とすために使うヌタ場、その時ついた泥を落とすためにこすり付けた木など、身近な場所でありながら動物の気配満載でした。また、昼食をとった場所では、オオタカと思われる猛禽類が、アオバトを捕食した跡も発見され、自然の営みを感じることができました。

 駆け足での観察会となってしまいましたが、1月下旬とは思えない比較的暖かな1日となり、参加者の方からもぜひまた開催してくださいという声をかけていただき、担当者としてもほっとした瞬間でした。冬の第2弾として2月11日(祝・火)に計画していた津久井湖城山公園での観察会は、雪のため残念ながら中止となりました。多くの方に『津久井町史自然編』をご覧いただき、文字や写真で紹介している内容を、実際に体感していただくことができればと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

たまねぎ石の説明をする髙橋講師
たまねぎ石の説明をする髙橋講師

 ヌタ場の観察
ヌタ場の観察

津久井町史自然編刊行記念講演会「虫は不思議でおもしろい!!」を開催(平成25年9月)

 平成25(2015)年9月22日(日)、相模原市史講演会の一環として『津久井町史自然編』の刊行を記念した講演会を開催しました。講師は、津久井町史自然編執筆者の一人でもある養老孟司さんです。

 養老さんに自然編の執筆をしていただいたのは、一連の経過がありました。昆虫特にゾウムシの仲間に興味をお持ちになり研究されていることは、一部の方にはよく知られていることでした。自然編の執筆者で同級生でもある有井一雄さん(神奈川昆虫談話会)が、旧津久井町で採集されたコウチュウの標本を整理しまとめられている際、ゾウムシ標本の一部を養老さんに差し上げたことが執筆していただくこととなったきっかけです。「ガロアコブヒゲボソゾウムシの再発見!」というタイトルで書かれた文章には、1908年高尾山で発見され新種として記載された本種が、他の種と同じものではないかという疑問を持たれていたところ、旧津久井町を含む丹沢山地や箱根、伊豆天城山などから再発見されたため、その存在を明らかにした論文を書かれたという経過が記述されています。

 そして、生息場所として旧津久井町が含められていたこともあり、調査で分かった新たな事実として津久井町史自然編に執筆いただくことになりました。

 講演会では津久井町史自然編の執筆内容には触れられませんでしたが、虫を好きになった経過や思い出話、虫の不思議な行動、家の玄関先にいたアカトンボの話など、虫に関するあるいはかかわりのあるお話しをしていただきました。またお母様が旧津久井町出身であるという相模原市との関わりや、時事問題の話題など、参加者を飽きさせない楽しいお話をしていただき、あっという間に時間が過ぎていきました。

 最後の質疑応答の中では、子どもさんから最近見つけた虹色に光るきれいなゾウムシの名前についての質問があり、困った表情をされた養老さんが印象的でした。

 今回の講演会では、入口のホワイエを使って、講演会タイトルに合わせ、津久井町史自然編刊行のための基礎調査で得られた昆虫標本の一部と写真を、また養老コレクションのほんの一部をお借りし展示しました。さらに、『津久井町史自然編』を紹介するコーナーも設置し、講演会の参加者に直接手に取って見ていただくこともできました。これからも、様々な機会をとらえ『津久井町史自然編』を紹介し、複雑で多様な旧津久井町の自然について知っていただくとともに、足を運んでいただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

講演中の養老さん
講演中の養老さん

ホワイエでの展示風景
ホワイエでの展示風景

 

津久井町史自然編刊行記念自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を開催

 平成25(2013)年7月15日(祝・月)、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を、神奈川県立津久井湖城山公園で開催しました。定員30名のところに40名近くの方からお申し込みをいただき、大盛況の中で行われました。講師は自然編執筆者の面々と、会場となった津久井湖城山公園を管理する(公財)神奈川県公園協会の職員です。

 当日は連日の暑さがそのまま持ち越され、朝から汗ばむ陽気でしたが、オオムラサキの観察にはもってこいです。午前10時から観察会を開始し、一番オオムラサキの出現を期待していた場所ではその姿を確認できず、期待を胸にツタ植物やオオゴキブリ、ムササビの巣を観察し、予定のコースを進みます。

樹液の前でオオムラサキの説明
樹液の前でオオムラサキの説明

ツタ植物の説明
ツタ植物の説明

オオムラサキ
オオムラサキ

 もうすぐお昼という地点に差し掛かった時、コナラの樹液にカナブンやオオスズメバチとともに、3頭のオオムラサキが出現!!なかなか翅(はね)を開いてくれませんが、時折翅をばたつかせ、その度に歓声が上がります。そうこうしていると、1頭のオオムラサキが私たちの眼の前の木に飛来し、頭を下にして止まりました。これには参加者も驚きの歓声を上げ、一斉にカメラが近づきます。

 本来は禁止されていることですが、今日は特別にその個体を採集しじっくり観察です。透明の袋に入れ暴れないようにし、表側と裏側をじっくり見ることができました。その個体はオスで翅の青さが際立ちます。また胴体も太く、思っていたより触角が長いという皆さんの感想でした。何にせよオオムラサキが観察できて一安心です。

 昼からは根小屋段丘や津久井渓谷の形成などについて、展望台から広がる景観を見ながら地形や地質のお話をお聞きしました。オオムラサキを見終わってもう満足という気持ちと、暑さのためか参加者は自然と足早になっていきます。それを制するように、ニイニイゼミの抜け殻やエゴノネコアシを観察し、野外での最後はエノキの木の下でオオムラサキの幼虫とさなぎ、さなぎの抜け殻探しです。木の下からエノキの葉の裏側を見上げるように一斉に探しますが、結局見つけることはできませんでした。

津久井湖方面の地形と地質の説明
津久井湖方面の地形と地質の説明

ニイニイゼミの抜け殻
ニイニイゼミの抜け殻

 エゴノネコアシ(白い袋状の虫こぶ)の中にエゴノネコアシアブラムシが入っている(※)
エゴノネコアシ(白い袋状の虫こぶ)の中にエゴノネコアシアブラムシが入っている(※)

 研究棟に入り一休みし、その後各講師から今日のまとめと補足説明がありました。野外で聞いた話に加え、津久井町史自然編に掲載されている詳しい図や写真を使ってお話しいただくと、さらに深みのある内容に変わっていくのが不思議です。今年度は平成26(2014)年の1月と2月に、それぞれテーマを設け同様の観察会を計画しています。このような事業を通して、旧津久井町の自然を少しでも体感いただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

 ※エノゴネコアシアブラムシがエゴノキの芽に何らかの刺激を与えた結果、エゴノキの芽の一部の組織が大きく肥大化し、白い袋状の虫こぶが形成される。

養蚕の豊作と作業の無事を祈る女性たちの「おこもり」~緑区青野原~

 かつて、相模原周辺では養蚕が盛んに行われ、養蚕に関わるさまざまな行事や信仰が人々の暮らしの中に根付いていました。しかし、養蚕をする家がなくなり、世代交代も進む現在では、そうした行事や信仰が少しずつ姿を消しつつあるように感じます。そんな中、養蚕に関わる女性の集まりが今も緑区青野原で行われているという話を聞き、当館の加藤学芸員(民俗担当)と一緒に、その集まりにお邪魔させていただきました。

 青野原の嵐・上原・下原地区では、毎年5月と6月に1回ずつ、3地区の女性が集まって和讃(仏の功徳や高僧の功績を讃えるもの。歌念仏ともいう。)をあげる、「おこもり」という行事が行われています。

 5月は「火防(ひぶせ)のおこもり」(「迎え」ともいう。)、6月は「お礼のおこもり」(「お礼ごもり」・「送り」ともいう。)と呼ばれ、蚕の飼育が始まる前(5月)に火災除けと繭の豊作を祈願し、また、飼育終了後((6月)には火事なく無事作業を終えたことに感謝して行われてきたそうです。

 この行事がいつごろ始まったものかはわかりませんが、この行事を行うのは「養蚕で火を使ったから」だと伝えられています。養蚕では、蚕がよく育っていい繭を作るように、温度の管理にとても気を遣いました。寒い時には蚕を飼う部屋を暖めるために木炭や練炭等の火力が使われ、火災が発生しやすい状況にあったことが、「おこもり」の行事につながったものと想像されます。

 お話をうかがったところ、青野原にも以前は養蚕を営む家が数多くあったようですが、だいぶ前に一軒もなくなってしまったとのこと、しかし、女性たちが集う「おこもり」はその後も引き続き行われて、現在に至っているということです。

会場の青野原会館。 神楽堂とも呼ばれます。
会場の青野原会館。
神楽堂とも呼ばれます。

上座に用意されたお供え。 ロウソクに火が灯されます。
上座に用意されたお供え。
ロウソクに火が灯されます。

お礼のおこもりの様子。 今回は13名で行われました。
お礼のおこもりの様子。
今回は13名で行われました。

 持参した帳面を手元に広げます。
持参した帳面を手元に広げます。

鉦を打ちながら独特の節回しで歌います。
鉦を打ちながら独特の節回しで歌います。

帳面と鉦と撞木を各自持参します。
帳面と鉦と撞木を各自持参します。

 今年の「お礼のおこもり」は、平成25年(2013)6月10日、青野原バス停近くの青野原会館で行われました。今回の参加者は13名(ほかにお茶出しのお手伝いの方が3名)で、5月13日に行われた「火防のおこもり」には21名が参加されたそうです。

 会場となる部屋の上座にはお酒やお菓子・果物などが供えられ、準備が整うとロウソクに火が灯されます。午後1時30分になると、役員のあいさつの後、和讃が始まりました。各自持参した帳面を広げ、小さな鉦(かね)を打ちながら和讃を行います。女性の歌声と鉦の音で、部屋の中の雰囲気はがらりと変わります。

 最初は「火防せ(ひぶせ)様」と題された和讃です。「あきばさん さんじゃくぼうに みずやしき」から始まる言葉を、独特の節回しで歌います。帳面を拝見すると、火防の神として知られる秋葉神社(静岡県)を表現した文言や、「しもばしら こうりのなげしに ゆきのけた あめのたれきに つゆのふきぐさ(霜柱 氷の長押に 雪の桁 雨の垂木に 露の葺草)」という建物にまつわる火難除けの言葉などが並んでいます。

 続いて、お茶で少し喉を潤したのち、「なむつしまのごずてんのう」から始まる和讃に移ります。節回しも変わり、実に47もの神仏の名をあげていく長丁場です。47の神仏には、青野原地域に祀られている焼山社の焼山権現などのほかに、江の島弁天や成田不動など周辺地域の著名な社寺の神仏の名もみられます。ちなみに、最初の「つしまのごずてんのう」は、疫病・厄除けで有名な津島神社(愛知県)の祭神で、『津久井町郷土誌』によると、青野原では江戸時代に津島神社の牛頭天王(ごずてんのう)を勧請した経過があるようです。江の島弁天等も、あるいは青野原の人々が参詣したりお札を受けたりしたような社寺なのかもしれません。いずれにしても、多くの神仏に対して、火事を出すことなくいい繭がたくさんできるように祈願していたことがうかがえます。

 そうして開始から40分ほどで和讃が終わると、お茶菓子などが用意され、楽しい歓談の時間となります。部屋の中には、鉦の音から一転して女性の笑い声が響きます。こんな楽しみがあるのも、「おこもり」が続いている理由の一つかもしれません。@養蚕が盛んだった相模原周辺では、こうした養蚕に関わる女性の集まりが各地で行われていたようですが、『相模原市史民俗編』等の刊行物で紹介されているものをみると、その有り様はさまざまであったことがわかります。この「おこもり」もまた、青野原の人々の手で育まれてきた、他に二つとないものではないでしょうか。

 『津久井町史』は民俗編の刊行予定はありませんが、地域を知る資料の一つとして今回の記録を保存するとともに、こうした行事が時代によって変化しながらも受け継がれ、その歩んできた歴史や人々の想いを伝えてくれたら、という願いを込めて、この場を借りてご紹介させていただきました。(町史担当 草薙由美) ※平成24年度民俗の窓で中央区田名、南区相模大野、南区磯部で行われている養蚕信仰について紹介しています。

『津久井町史自然編』を刊行!!

 平成25(2013)年3月、津久井町史編さん事業としては5冊目となる、『津久井町史自然編』を刊行しました。平成11(1999)年1月に津久井町史編集委員会自然部会を立ち上げ、その後自然に関する各種調査が部会員により実施され、その成果をまとめた集大成としての一冊となります。約900点に及ぶ多くの図や写真を利用し、分かりやすく、親しみのもてる本となっています。

 第1章「自然のあらまし」では、前記自然部会の部会長である髙橋純夫氏が、旧津久井町の自然のあらましについて、特徴と概要により解説しています。そして、第2章から第5章までは、各分野での調査成果を、図や写真を交えながら解説しています。

 第2章「気象」では、旧津久井町が神奈川県内でもいかに寒冷地で、また降水量も多いのかを、グラフや表を使ってお伝えしています。

 第3章「地形・地質」は、旧津久井町の大地の成り立ちを、地質構造や形成過程とともに解説し、付図として地質図を添付しています。

 第4章「植物」は、私たちの生活する場所やその周辺に点在する公園や畑、低山地や渓谷、丹沢山地稜線部やブナ林の植物などを、写真を交えて解説しています。

 第5章「動物」は、哺乳動物や鳥類、両生類、昆虫類、魚類など、動物を大きく10のグループに分け、それぞれ種類や生息する環境ごとなど、少しでもその状況が伝えやすい方法で解説し、多くの写真で紹介しています。

 第6章「特色ある自然と生物」では、これまでに紹介できず、また解説しきれなかった内容について、50項目のタイトルで記述しています。調査により旧津久井町から発見された植物や昆虫、地域ならではの特徴ある自然、時間の経過や人との関わりにより変わってきた自然など、読みやすいように各タイトル数ページで完結しています。

 最後の第7章「自然と環境保全」は、旧津久井町が水と緑の地であることを検証した上で、これからこの自然とどう関わっていったら良いのかを、読者の皆様に考えるきっかけとなればと設けた章です。

 旧津久井町の自然の現状を記録し、お伝えしていくことは、これからの相模原市を考えていくうえでも重要なことです。『津久井町史自然編』が、本棚の隅に置かれたままにならず、いろいろな場面で活用されることを願っています。

ツキノワグマ (撮影:岡林良一氏)
ツキノワグマ
(撮影:岡林良一氏)

 トウゴクミツバツツジ (撮影:山口一郎氏)
トウゴクミツバツツジ
(撮影:山口一郎氏)

ミヤマカラスアゲハ (撮影:嶋﨑えつ子氏)
ミヤマカラスアゲハ
(撮影:嶋﨑えつ子氏)

民俗の窓(平成25年度)

Posted on 2014年6月7日 by 相模原市立 博物館 Posted in 博物館の窓, 平成25年度
  • 相模原の民俗を訪ねて(68)~津久井観音霊場ご開帳の準備(緑区根小屋中野地区・平成26年3月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(67・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す②小田原市前川地区・(平成26年1月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(66・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す①小田原市南鴨宮地区(平成26年1月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(65)~各地のどんど焼き~(平成26年1月)〜
  • 相模原の民俗を訪ねて(64)~変わるどんど焼き~(平成26年1月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(63)~境川対岸の道祖神の建立者(平成26年1月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(62)~フィールドワーク二題(平成25年11月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(61)~南区新戸地区の義太夫関係資料 (平成25年10月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(60)~十五夜の供え物・南区下溝(平成25年9月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(59)~盆の間に作る食べ物・南区下溝(平成25年8月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(58)~緑区根小屋中野の盆棚(平成25年8月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(57)~神輿が相模川へ入る(平成25年7月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(56)~田名・清水の山車人形(平成25年7月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(55)~帆掛け船(新造船)の進水式(平成25年6月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(54)~当麻地区下宿の地神講資料(平成25年5月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(53) ~横浜市歴史博物館との交流会で「大山参り」を行いました(平成25年4月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(52)~下九沢・瘡守稲荷の絵馬(平成25年4月)~
  • 相模原の民俗を訪ねて(通算第51回) ~国立民族学博物館に相模原の農具が常設展示されます~

相模原の民俗を訪ねて(68)~津久井観音霊場ご開帳の準備(緑区根小屋中野地区・平成26年3月)~

 津久井観音霊場は、江戸時代中期の宝暦年代(1751-1763)に、旧津久井郡内の観音を 祀る三十三か所の寺を宗旨や宗派を問わず巡る霊場として開設されたのが始まりで、現在 では他の寺なども加入して四十三か所となっています。普段はお会いすることができない これらの観音様が一斉にご開帳されるのは、本開帳が十二支での午(うま)年、中開帳が 子(ね)年で、午年の今年(平成26年)は5月11日(日)~31日(土)にかけて本開 帳が行なわれます。
 今回紹介するのは、緑区根小屋中野の集会場で本開帳の準備の一つとして、3月9日(日) の午後7時から行われたオヒイチ作りの様子です。根小屋中野の十一面観音は津久井観音霊場の第三番「清水山中野堂」で、元々は地域の個人の家の守護仏でしたが、明治初年の神社にある仏堂や仏像等の破壊を伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れの中で、地区内で祀るようになりました。また、当所はその家の横に堂があり(今でも堂のあった横の道を「堂の坂」と言うそうです)、明治39年(1906)に建物の傷みがひどくなって現在地に移転して「中野堂」と改称し、その後は集落や青年団の集会場、また、繭の乾燥所などとして使われていました。現在の観音を祀る堂と集会所が一緒になった建物は昭和46年(1971)に建てられ、増改築を経て今に至っています。

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多くの女性が集まって作業を進めた

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作られた猿

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 前回のオヒイチが飾られている、奥に観音が祀られている

 観音のご開帳に当たっては、12年に一度の本開帳の年に、観音像の前側に飾ってあるオヒイチ(オヒーチあるいはオヒチなど、いろいろな言い方があるそうです)を作り変えることになっています。これは、大小の三角形のザブトン、くくり猿の形をしたもの、桃の三種類で、観音様は女の仏様なのでみな女性にちなむものと言われ、全部で大きなザブトンは12個、それ以外の小ぶりなザブトン252個、猿288個、桃36個を作ります。この日は作業の二日目で、集会場に25名ほどの地域の女性が集合し、前回の12年前に作ったものも参考にしながら布を縫って作っていきました。当日の作業は和やかな雰囲気の中で午後9時頃まで行われましたが、まだ必要な三分の一ほどの数が完成しただけで、これからも15・16日と作業は続くとのことでした。

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 こうしたオヒイチを作る、これも前回のもの。

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 大きなザブトンの下に、小さなザブトンと猿をつなげる

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 桃は一番下に取り付ける

 このオヒイチ作りが終了した後も、例えばそれらの組み立てや観音様の手からつなぐお手綱を結ぶ回向柱(えこうばしら)のしつらえなど、さまざまな準備をはじめ、さらに、開帳期間中には観音堂に順番に人が詰めて参拝者への接待に当たるなど、開帳が終わるまでいろいろなことがあり、中野自治会あげての行事となるとのことです。そして、ここでは根小屋中野地区を取り上げましたが、もちろん他の地区や寺でも5月のご開帳が盛大で無事に実施され、多くの参拝者を迎えるべく同様の準備が重ねられています。この「民俗の窓」でも、今後の諸準備の状況を含め、今年のご開帳の様子を紹介していきたいと思います。

 なお、今回の調査に当たっては、この欄で年中行事を紹介させていただいている菊地原稔さんや、御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長の山本早苗さん、松本春美さんをはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(67・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す②小田原市前川地区(平成26年1月)~

 今回(№67)も前回の№66に引き続いて、1月11日に訪れた小田原市前川地区の山車について紹介します。前川地区の行事の見学及びこの原稿の作成に当たっても南鴨宮地区と同様に、箱根町立郷土資料館学芸員の高橋一公さんや、平成26年道祖神総代の西村昭雄さん(向原道祖神総代)をはじめ、各地区の多くの皆様に大変お世話になりました。

 前川地区の大きな特徴として道祖神の山車に人形を飾るということがあります。元々は地域内の6地区で人形を飾った山車を出していましたが、その中の一つである西地区に残る記録によると、第二次世界大戦後に大火で人形が焼けてしまったり人手が足りなくなって全地域で実施することができなくなり、さらに、昭和40年(1965)~53年(1978)頃までは、前川地区が東海道(国道1号)に面した場所ということもあって交通事情のために中止となりました。それが昭和54年からは以前の6地区を現在の西・中宿・向原の3地区にまとめて実施するようになり、現在に至っています。山車を飾るのは、かつては12日・13日で今は1月の第二土・日曜日となっています。

公民館の中に用意された人形。西では今年 は「八重の桜」をテーマとした
公民館の中に用意された人形。西では今年 は「八重の桜」をテーマとした

西の山車。トラックの山車で夜には地区内を巡行する
西の山車。トラックの山車で夜には地区内を巡行する

中宿では「本能寺の変」がテーマで、信長の持つ槍の調整をしている
中宿では「本能寺の変」がテーマで、信長の持つ槍の調整をしている

 1月11日(土)の午前中にまず伺ったところ、盛んに準備をしている最中でした。飾る人形のテーマは3地区それぞれ異なり、前年の秋に各地区で検討した結果を持ち寄り、重ならないように調整します。ちなみに今年(2014年)は、西がNHK大河ドラマにちなむ「八重の桜」、中宿は「本能寺の変」、向原は「甲斐姫物語」(戦国時代、埼玉県行田市の忍城を豊臣軍が水攻めをした際に、敵を迎え撃った甲斐姫の故事に係わる)でした。テーマは時代劇等から取られることが多いものの、最近は今年の「八重の桜」のように現代物も見られるようになったそうです。昔は人形もお年寄りが作りましたが今は東京の貸人形屋に発注しており、背景の絵などは描く人が地域にいて、山車の組み立てなどは地元の人が出て行います。

中宿の山車。壁に刺さった矢が迫力がある
中宿の山車。壁に刺さった矢が迫力がある

向原の山車。昔は曳いたとされ、写真には写ってないが車輪が付いている
向原の山車。昔は曳いたとされ、写真には写ってないが車輪が付いている

お囃子を乗せた向原のトラックが巡行する
お囃子を乗せた向原のトラックが巡行する

 人形を飾った山車は、交通事情のために中止となったことからも分かるようにかつては地区内を曳くものでした。今では中宿と向原では飾った山車を曳くことはなく据えたままで、西ではトラックに飾り、完成後に地区を回ります。また、西では少子化のために子ども会が解散したこともあって囃子は行われておらず、中宿と向原は人形の山車とは別に車に子どもたちが乗って囃子の巡行をしています。11日の午後に再度訪れた際には、3地区での完成した人形を飾った山車を拝見するとともに、いろいろなお話しを聞いたり、かつての様子を撮影した写真なども見せていただきました。なお、12日夜には「メーラッセ(参えらっせ)」と言って、子どもたちが一軒ずつ回って山車への参拝を呼びかけながらお金を貰うほか、どんど焼きは別に13日午前中に海岸で行われます。これらの一連の行事が終わると、ようやく正月も終わったという気持ちになると言われた方の一言が印象的でした。

  道祖神の祭りに山車(屋台)やそれに類すると考えられるものを出すことは、前回NO.66に記したように小田原市をはじめ、大磯町・中井町・松田町・開成町・山北町・南足柄市・真鶴町・湯河原町等の県西部から報告されており、さらに、静岡県の伊豆半島北部でも、「サイノカミ」と呼ばれる木製の祠に車が付いた曳車を子どもたちが引っ張って歩く行事があるなど、道祖神山車の分布がつながっている点に注目されます。その土地の民俗を捉えるためには周辺地域も視野に入れる必要があることを示していると言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(66・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す①小田原市南鴨宮地区(平成26年1月)~

 神奈川県内は全国的にもこの時期の道祖神祭祀が盛んな地域であり、県内各地でさまざまな行事が行われている中で、相模原ではまったく見られないようなものもあります。今回は、民俗調査会の会員とともに1月11日に訪れた、道祖神の祭りとして山車を出す行事について、紹介してみたいと思います。なお、今回の行事の見学及び原稿の作成に当たっては、箱根町立郷土資料館学芸員の高橋一公さんや、南鴨宮文化財保存会副会長の堀口康夫さん、青空子供会会長の柏木淳一さんをはじめ、多くの地元の皆様に大変お世話になりました。

 小田原市南鴨宮はJR東海道線鴨宮駅南口周辺の地域で、自治会一区から五区の南鴨宮全体の行事として今年は11日に山車(屋台とも呼ばれます)が曳かれました。かつては14日と15日の小正月行事でしたが、昭和32年(1957)に一度中止になりました。それを昭和50年頃に復活し、現在では子どもの学校の関係もあり、1月の第二土曜日に行われています。この行事は明治頃から始まったものと言われ、山車も古いものがありましたが平成9年(1997)に大修理がなされました。それでも彫り物などは昔のものがそのまま使われているそうです。

	  子どもたちが曳く山車(屋台)。上部にはお囃子の子供たちが乗っている

子どもたちが曳く山車(屋台)。上部にはお囃子の子供たちが乗っている

名前が書かれた提灯や花が飾られている。
名前が書かれた提灯や花が飾られている。

所々で電線を持ち上げる。大きな山車を通すのも一苦労
所々で電線を持ち上げる。大きな山車を通すのも一苦労

  当日は午前10時から途中の休憩や昼食を挟んで夕方まで、地区内を子どもたちが曳く大きな山車が巡行します。山車では囃子保存会の子どもによる小田原囃子も奏でられ、大変華やかな雰囲気です。山車には120ほどにも及ぶ多くの提灯が付けられており、これは前年に生まれた赤子やその親などの名前が書かれたもので、前年の11月に回覧を回して奉納を募ります。また、山車に見える造花は1月4日のハナキリで公民館で作られ、表と裏側に32本ずつ飾られています。翌12日には団子焼きが行われます。なお、ここでも石像の道祖神が祀られていますが、道祖神は道しるべや外からの災いを防ぐ神とともに、子どもが病気になると親が「なおらっせ、なおらっせ」と言いながら青竹で数百回も叩いて子どもの病気が治るように祈願し、こうしたことは昭和23年(1948)頃までは行われていたそうです。

この地区(下新田)で祀る道祖神の一つ。 県西部には双体道祖神が多く分布する
この地区(下新田)で祀る道祖神の一つ。
県西部には双体道祖神が多く分布する

  今回訪れた南鴨宮では、民俗調査会の会員が他にどんな機会に山車を出すのかを質問したところ、一年のうち正月の道祖神の時だけとの答えであり、山車というと当然、夏を中心とした祭りに出すものだと思っている相模原の者たちにとっては大きな驚きでした。実 は神奈川県西部では、正月の道祖神の祭りにこうした山車を曳くことが行われており、足柄上郡山北町の山北駅周辺では数基の花車といわれる山車等が一同に介して曳き回されることが有名で、小田原市内でも以前は他の地区でもあったようですが、現在は、例えば久野地区でも四基ほどの山車があるとのことです。  自分たちが日常的にしているものが普通だと考えていると、別の場所ではまったく異な っていることがあり、そのような発見をするのも各地をフィールドワークする楽しみの一つです。そして、こうしたことを通じて、自らが担っている文化を振り返り、改めて考えてみることが大切です。今後とも相模原という地域を考えるためにも、周辺各地の同様の行事や民俗について機会を捉えて紹介したいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(65)~各地のどんど焼き(平成26年1月)~

  前回の「民俗の窓」の(64)「変わるどんど焼き」にも記したように、今年も市内各地を中心にどんど焼き(団子焼き)を見て回りました。今年は大雪となった昨年の14日とは違い、かなり肌寒い中でも天気は快晴でそれほど風も強くなく、火を盛んに燃やすどんど焼き行事には良い条件のもとで行うことができました。今回はそうした各地の様子について、13日を中心にいくつかの地区の写真を紹介します。

(写真①~⑩は1月13日)

①南区当麻・中下宿の道祖神の小屋。前日に5名の役員によって作られた
①南区当麻・中下宿の道祖神の小屋。前日に5名の役員によって作られた

②南区当麻・中下宿の団子焼き。以前は少し離れた工場の敷地内だったが、昨年から小屋の前側のこの場所で行うようになった。ここでは午前中に実施する
②南区当麻・中下宿の団子焼き。以前は少し離れた工場の敷地内だったが、昨年から小屋の前側のこの場所で行うようになった。ここでは午前中に実施する

③緑区小倉、午前中に通りかかったところ、ちょうど河原に準備中だった
③緑区小倉、午前中に通りかかったところ、ちょうど河原に準備中だった

 ④出来上がったもの。小倉では4か所で行うという
④出来上がったもの。小倉では4か所で行うという

⑤午後4時に点火。大きな火が周りの風景に生える(緑区小倉)
⑤午後4時に点火。大きな火が周りの風景に生える(緑区小倉)

⑥しばらくすると団子焼きが始まる(緑区小倉)
⑥しばらくすると団子焼きが始まる(緑区小倉)

 ⑦③とは少し離れた小倉橋下。午後3時過ぎに到着するとすでに燃えていた。これは午前中のもの
⑦③とは少し離れた小倉橋下。午後3時過ぎに到着するとすでに燃えていた。これは午前中のもの

⑧緑区寸沢嵐・道志南の道祖神の小屋。杉などで葺いて作る。まだ作られてまもなくで新しい
⑧緑区寸沢嵐・道志南の道祖神の小屋。杉などで葺いて作る。まだ作られてまもなくで新しい

⑨緑区中沢。13日の午後5時30分に点火。年男年女の小学校5年生が点火するという
⑨緑区中沢。13日の午後5時30分に点火。年男年女の小学校5年生が点火するという

(写真⑪~⑮は1月14日)

⑩緑区千木良岡本。14日点火。津久井地区は大きなものを作ることが多い
⑩緑区千木良岡本。14日点火。津久井地区は大きなものを作ることが多い

 ⑪町田市金森町。向かって右側の二番目の碑が道祖神。手前の穴には普段は丸石が二つ納められている
⑪町田市金森町。向かって右側の二番目の碑が道祖神。手前の穴には普段は丸石が二つ納められている

⑫少し分かりにくいが、丸石が正月飾りの中で一緒に燃やされている。ここでは道祖神の石を今でも燃やしている(町田市金森)
⑫少し分かりにくいが、丸石が正月飾りの中で一緒に燃やされている。ここでは道祖神の石を今でも燃やしている(町田市金森)

⑬住宅地中の杉山神社敷地で行うため燃やすものを高く積んだりせず、団子焼きにも順次、焼く人が訪れる(町田市金森)
⑬住宅地中の杉山神社敷地で行うため燃やすものを高く積んだりせず、団子焼きにも順次、焼く人が訪れる(町田市金森)

⑭緑区青山神社。18日午前6時点火。津久井地区では早朝に点火の場所が比較的多く見られる。
⑭緑区青山神社。18日午前6時点火。津久井地区では早朝に点火の場所が比較的多く見られる。

⑮緑区青山神社の団子焼き。⑭と⑮は五十嵐さんと千葉さんが訪れた
⑮緑区青山神社の団子焼き。⑭と⑮は五十嵐さんと千葉さんが訪れた

 なお、12日の南区古淵と中央区東淵野辺は、前回の№64で紹介したので省略し、また11日に訪れた道祖神の祭りに山車(屋台)を出す場所である小田原市南鴨宮・前川地区は、次号で触れたいと思います。また、今年も13日には民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(64)~変わるどんど焼き(平成26年1月)~

  「民俗の窓」では、毎年この時期になると市内外のどんど焼き(団子焼き)について記しており、今年も11日(土)から14日(火)まで、いくつかの地区を回ってみました。そして、どんど焼き自体の調査は平成16年(2004)1月以来、民俗講座「道祖神を調べる会」の活動をきっかけとして、多くの市民の皆様のご協力の元に継続して進めており、その10年の間に集まった市内各地の情報は、博物館が毎年刊行している『研究報告』にも掲載しています。

 南区古淵は地域の氏神である鹿島神社の本殿裏手でどんど焼きが毎年行われており、「民俗の窓」の№26「道祖神の小屋作り」でも記したように、正月14日の午後5時から行われていたどんど焼きの当日に、「道祖神のお宮」などと呼ばれる藁製の小屋を作って燃やしている地区です。写真①・②は、二年前の平成24年1月14日のお宮への点火と団子焼きの様子です。

 

写真は南区古淵

①お宮への点火(2012年1月14日
①お宮への点火(2012年1月14日

②団子焼き(2012年1月14日)
②団子焼き(2012年1月14日)

③今年(2014年)のお宮。行う場所は変わらない
③今年(2014年)のお宮。行う場所は変わらない

 それに対して、写真③~⑥は今年の状況ですが、特に①と④、②と⑤を見比べると何か違っていることにお気づきでしょうか。すぐにお分かりのように、周りの明るさが明らかに異なっています。実はこの地区では、今年から14日午後5時ではなく第二日曜日(今年は12日)の午後2時から実施というように日時を変更して行うことになりました。その理由としては、古くからの実施日である14日は、今年のように平日になることが多く、参加できる人の人数の問題や、日曜日の昼間ということで子供も集まりやすいという点があったそうです。元々の団子焼きは正月14日の行事として日は変わらないということだったものの、成人の日が15日から第三月曜日になるといった祝日の変化によって、行事の日取りが変更となりました。こうした点から14日に行う所は次第に少なくなっており、緑区城北地区などでも今年からやはり第二日曜日に変わったとのことです。

 

写真は南区古淵

④お宮への点火(2014年1月12日)。午後2時なのでまだ周りが明るい
④お宮への点火(2014年1月12日)。午後2時なのでまだ周りが明るい

⑤団子焼き(2014年1月12日)
⑤団子焼き(2014年1月12日)

⑥焼いた団子を取り替える「とっかえ団子」は変わらずに行われた
⑥焼いた団子を取り替える「とっかえ団子」は変わらずに行われた

 

 このほかにも、例えば中央区東淵野辺の東嶽之内・ニュー相模団地が主催するどんど焼きは、かつては境川縁の中里橋付近で行われていましたがこの場所が工事の資材置き場となってしまったため、数年前から地元のこども広場を使っています。さらにこの地区で注目されるのは、「道祖大明神」の御札が地域の石仏や、正月飾りなどを積み上げた燃やすものに付けられているのが見られるようになったことで、今のところ経緯は不明なものの、どこからか請けてきた御札が貼られているようです。

 

写真は東淵野辺

⑦こども広場に正月飾り等を積み上げる(2014年1月12日)
⑦こども広場に正月飾り等を積み上げる(2014年1月12日)

⑧燃やすものの正面に貼られた「道祖大明神」の御札。最近見られるようになった
⑧燃やすものの正面に貼られた「道祖大明神」の御札。最近見られるようになった

⑨団子焼き(2014年1月12日
⑨団子焼き(2014年1月12日

 毎年同じように繰り返して行われている地域の年中行事も、10年ほどの期間で捉えると、もちろん変わらずに実施されている所が多い中において、さまざまな理由で変わったり、場合によっては新たに付け加えられているものがあることが分かります。今後とも、まだ訪れていない地域の情報を集めることはもとより、相模原のどんど焼き行事全体の変化にも注目していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(63)~境川対岸の道祖神の建立(平成26年1月)~

  先日、町田市の郷土史等について熱心に調査研究されている「まちだ史考会」の方々が来館され、特に相模原市の石仏の概要についてお話しするとともに、町田市の石仏についてもいろいろと教えていただきました。その中で、興味深いものがありましたので紹介してみたいと思います。

 古淵駅から町田方面に進んで境川を渡ると町田市木曽町となり、山崎町との境付近にかつて「木曽の一本松」と呼ばれた老樹がありました。樹齢六百年と言われ、目通り三メートルもある大木で枝ぶりも見事でしたが、昭和27年(1952)に残念ながら火事で焼けてしまいました。そして、この木があった所の塚は現在も残っており、その塚の上に石祠や堅牢地神塔、道祖神の石仏が建てられています。なお、石祠の隣りの碑は松が焼失した翌年の昭和28年に造られたもので、松の由来や樹の下に浅間社の石祠を文化四年(1807)に祀ったこと、火災の後に後継として稚松を植えたことなどが記されています(一本松や碑文の内容については、町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承第二集』及び町田市史編纂委員会編『町田市史下巻』を参照しました)。

一本松があった塚、この上に道祖神等がある
一本松があった塚、この上に道祖神等がある

 向かって左が堅牢地神塔、右側が道祖神
向かって左が堅牢地神塔、右側が道祖神

 道祖神碑
道祖神碑

 

 この地神塔は、銘文によると浅間社の石碑が祀られたのと同じ年の文化四年八月に、地元の多摩郡木曽村三家の信徒講中によって建てられました。そして、向かって右側にある道祖神は文政八年(1825)のもので、併せて高座郡渕野辺村石井忠左□□(二文字は破損していて読めません)と記されており、つまりこの道祖神は町田ではなく、境川対岸の淵野辺村の者が造立者であったことが分かります。ちなみに石井姓は淵野辺の旧家に見られる苗字です。そして、この逆の事例が南区古淵・鹿島神社境内の地神塔です。嘉永三年(1850)、「当所境川講中」の造立で、境川講中は境川対岸の町田市木曽町の一つの地区であり、以前、「民俗の窓」の「祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~」でも境川地区のどんど焼きについて触れています。先の道祖神とは反対に、相模原市に町田の人々が建てたものが残されています。

 摩滅して読み取りにくいが、「高座郡渕野」 や「石井忠左」などの文字が見える
摩滅して読み取りにくいが、「高座郡渕野」
や「石井忠左」などの文字が見える

 古淵の地神塔
古淵の地神塔

台座に「当所境川講中」とある
台座に「当所境川講中」とある

 

 さらに、緑区相原一丁目の路傍にある寛延元年(1748)の庚申塔は相州田尻村と武州森久保村による造立であり、田尻は緑区相原、森久保は町田市相原町の中の一集落です(『新編武蔵風土記稿』では、森久保は下相原村の小名の一つで「村の西南、境川の縁を云」と記されています)。この庚申塔は、江戸時代の村の範囲よりもさらに小さな、境川に接した二つの集落によって建てられたもので、庚申講も一緒に行っていたことが想定されます。また、やや境川下流に位置する緑区東橋本四丁目の蓬莱橋たもとの安永十年(1781)造の二十三夜塔は、足の悪い人がよくお参りしたと伝えられ、「武相講」と彫られていて、相模原と町田の双方にある小山地区の人々によって祀られていました(相模原市教育委員会編『小祠調査報告書』)。この庚申塔と二十三夜塔の事例は、境川を挟んだ一つの信仰圏が作られていたことが示されています。

 境川が相模と武蔵の国境となったのは、文禄三年(1594)の検地によるものであり、その後の流域の人々の生活圏は全面的に分かれることはなく交流が続いていくと考えられており(神崎章利「国・郡会境川小考」 町田市立博物館・相模原市立博物館編刊『境川流域民俗調査報告書』)、今回挙げた石仏は、こうした境川流域の相模原と町田地域の関係のあり方の一端を表しているということができます。今後とも民俗はもちろん、石仏から見えてくる地域の歴史に注目しながら調査を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(62)~フィールドワーク二題(平成25年11月)~

 民俗分野では、民俗調査会をはじめ、さまざまな機会を捉えて相模原を中心に周辺地区を含めた地域のフィールドワークを行っています。今回は、そうした活動の状況をお知らせすることを目的に、最近実施した2回のフィールドワークを紹介してみたいと思います。

 最初は11月4日(月・祝)に行った、当館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会との交流会です。両会の定期的な交流会については、「ボランティアの窓」や「民俗の窓」でも紹介しており、四回目となる今回は民俗に親しむ会の皆様に、鶴見川流域の川崎市麻生区岡上・町田市三輪町・横浜市緑区寺家町をご案内いただきました。ちなみに当日は相模原から13名(加藤含む)、横浜から9名(担当の刈田学芸員を含む)の総勢22名が参加しました。

画像(11月4日)

道祖神を覆う小屋、まだこうしたものが残されている地区がある。(川崎市麻生区岡上)
道祖神を覆う小屋、まだこうしたものが残されている地区がある。(川崎市麻生区岡上)

丘陵の間に広がる畑、鶴川駅からすぐとは思えない。(川崎市麻生区岡上)
丘陵の間に広がる畑、鶴川駅からすぐとは思えない。(川崎市麻生区岡上)

熊野神社境内の蚕蛹供養塔。(町田市三輪町)
熊野神社境内の蚕蛹供養塔。(町田市三輪町)

妙福寺の庚申塔、日蓮宗系には「帝釈天」が刻まれることが多い。(町田市三輪町)
妙福寺の庚申塔、日蓮宗系には「帝釈天」が刻まれることが多い。(町田市三輪町)

谷戸の間に残る収穫後の水田、横浜市緑区寺家町とともに多くの水田があった。(町田市三輪町)
谷戸の間に残る収穫後の水田、横浜市緑区寺家町とともに多くの水田があった。(町田市三輪町)

三輪町と寺家町を結ぶ「山谷の切通し」、圧倒的な迫力がある。
三輪町と寺家町を結ぶ「山谷の切通し」、圧倒的な迫力がある。

 今回のコースは、鶴見川の流れに沿って丘陵を登り下りするもので、台地にあり比較的平坦な相模原と比べると歩くのはやや大変な面もありました。それでも、古代の横穴墓群(おうけつぼぐん)や古い寺院・神社を巡って歩いていき、何より住宅地でありながら里山や水田が多く残る美しい風景は心和ませるものがありました。また、途中見かけた大正12年(1923)6月建立の蚕蛹(さんよう)供養塔は、上三輪養蚕組合が創立七周年記念として建てたもので、繭の段階で中にいる蛹(さなぎ)を殺してしまうことから建てられた供養塔ですが、こうした供養塔は相模原の旧市域には無く、津久井地域の三井や与瀬などでは見ることができます。そして、町田市三輪町の日蓮宗の古刹である妙福寺には、「見ざる言わざる聞かざる」の格好をした三猿とともに「奉造立帝釈天王」と記された宝永6年(1709)造の日蓮宗系の庚申塔があるなど、フィールドワークでは大きな楽しみである興味深いいくつかの石仏(石造物)を確認することができました。

 次に紹介するのは、11月20日(水)に実施した、水曜会のメンバーによる甲州道中及び緑区佐野川和田地区のフィールドワークです(加藤を含めて14名参加)。水曜会についても「ボランティアの窓」で紹介していますが、津久井郷土資料室に保管されてきた膨大な資料を整理する一方で、資料整理の成果を展示するとともに、年に二回ほど関連する地域のフィールドワークを行っています。 今回のコースは5月に実施する予定でしたが雨で中止になり、秋に延期となり今回実施したものです。

 当日の午前中は中央本線の上野原駅から藤野駅方面に向って甲州道中の旧道を歩き、午後からはパスに乗った後、周辺の山の上の方まで、茶畑が続く和田地区を歩きました。この日は陽光がたっぷり降り注ぎフィールドワークには絶好の日和で、特に赤や黄色に色づく紅葉は見事なものがありました。さらに、甲州道中旧道沿いに残る上野原宿本陣や番所跡、旧市域に比べて津久井地域の各地に多く残る二十三夜塔等の石仏など、この地域の歴史や文化を物語るさまざまものに触れながら歩くことができました。

画像(11月20日)

上野原宿本陣の門、現在は門のみが残る。(山梨県上野原市)
上野原宿本陣の門、現在は門のみが残る。(山梨県上野原市)

甲斐と相模に置かれた諏訪番所の跡、ここを通り、川を渡れば相模原市。(山梨県上野原市)
甲斐と相模に置かれた諏訪番所の跡、ここを通り、川を渡れば相模原市。(山梨県上野原市)

県境付近の相模川、紅葉が水面に写る。(境川橋)
県境付近の相模川、紅葉が水面に写る。(境川橋)

路傍にたたずむ二十三夜塔、津久井地域には100基以上あるとされる。(緑区小渕)
路傍にたたずむ二十三夜塔、津久井地域には100基以上あるとされる。(緑区小渕)

住宅を越え、山の上側にまで続く茶畑。(緑区佐野川和田)
住宅を越え、山の上側にまで続く茶畑。(緑区佐野川和田)

各地で紅葉が見頃で、美しい風景が見られた。(緑区佐野川和田)
各地で紅葉が見頃で、美しい風景が見られた。(緑区佐野川和田)

 フィールドワークは、実際に地域を丹念に歩き・聞き・見ていきながら、その土地を知り、考えるものです。普段は気が付かない、見過ごしてしまうようなものでも、歴史や文化を物語る資料が地域には顔をのぞかせています。これからもフィールドワークを積み重ね、このような歩いて分かる地域の歴史や文化について紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(61)~南区新戸地区の義太夫関係資料(平成25年10月)~

 神社の祭りに際しては、神職によって神事が粛々となされ、また、神輿や山車が地域を引き回されたりする一方で、その他にもさまざまな出し物が行われています。それは、獅子舞や神楽などの古くから行われる伝統芸能だったり、プロの歌手による歌謡ショー、氏子たちによる演芸会やカラオケなど、さまざまな形式が見られます。これは昔も同様で、芝居の一座を頼んで股旅物(またたびもの)の芝居をやってもらったり、一時期は村の若者などが自ら芝居を演じる地芝居(じしばい)が流行ったということもよく聞くことができます。例えば、南区下溝の古山地区では、神社に明治初期に奉納された地元の者が役者に扮した地芝居の奉納額があり、当時は地芝居が盛んで夢中になってやる者があって、畑に行っても稽古を始めるといった具合で仕事にならず、すっかり評判が悪くなって禁止された、という話が残っており、古山では、昭和の初期頃まで義太夫節(歌舞伎などで用いられる語り)をやる人が結構いたと言います。

 今回紹介するのは、南区新戸在住だった故・佐藤正二さん(明治24年-昭和52年)の義太夫に関するまとまった資料です。佐藤さんは、新戸にあった造り酒屋の次男で、後には平塚で酒屋を営んでいました。それとともに、二十歳代から義太夫を熱心に習って腕を上げていき、その名は近在でも有名になって、大磯に別荘があった多くの名士に呼ばれて義太夫を語り、特に島崎藤村とは懇意だったと言います。その後、平塚で空襲にあって家族とともに生まれ故郷の新戸に引き揚げてからも義太夫の修業を続け、東京の歌舞伎座で頼まれて当時の尾上菊五郎の舞台に出て、歌舞伎座からこのままプロにならないかと誘われたこともありました。そして、昭和28年には欠員になっていた「五代目豊竹生駒太夫」の名跡を襲名することになり、活躍の舞台を一層拡げていきました。例えば、日本大学で非常勤講師として学生を教えたり、県主催の民俗芸能大会に指導していた人形芝居の一座とともに出演する、義太夫連盟の大会で審査員を務める等であり、昭和47年には市の功労者として一般表彰されています(生駒太夫の生涯については、ご家族の方、特に佐藤光江さんからご教示いただきました)。

画像①
画像①

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画像④

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画像説明

  • 画像① 生駒太夫が使った見台。
  • 画像② 床本は、生駒太夫が得意とした「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」など、さまざまなものがある。
  • 画像③ 「五代目豊竹生駒太夫」の譲り状。譲り状に名がある竹本都太夫は、当時の義太夫会の大御所と言われた人物。
  • 画像④ 生駒太夫襲名のお披露目を伊勢原の温泉旅館で行った際の写真。背後の幕に、実家であった新戸の豊国酒造の銘柄であった「士艦桜(しかんざくら)」の名が見える。
  • 画像⑤ 当時講師をしていた日大芸術学部の学生とともに、昭和29年に香川県で学生芝居の公演を行った際に栗林公園で撮影した写真。
  • 画像⑥ 昭和47年11月20日発行「広報さがみはら」、右下の記事で、市から一般表彰された生駒太夫が「義太夫ひとすじ」として紹介されている。

 今回、寄贈された資料は、義太夫を語る際の台本である床本(ゆかぼん)36冊や床本を置く台の見台(けんだい)をはじめ、生駒太夫襲名の際の写真や帳面・譲り状、その活躍を物語る書類(市から表彰された際の「広報さがみはら」等)など、多岐に渡っています。博物館ではこれまでもいくつかの地区で義太夫や村芝居に係わる資料を収集してきましたが、これらはどちらかというと、かつて娯楽が今よりも少なかった時代の人々の楽しみに基づくものなのに対して、生駒太夫の資料は、地域に生きながらも芸を極めた一人の人間の生き様を示すものと言えましょう。これからも本欄では、さまざまな資料から見えてくる地域や人々の姿について考えていきたいと思います。

 なお、今回寄贈された資料(総計89件・116点)の中には、義太夫関係だけではなく戦争(軍隊等)に係わる大変興味深いものも含まれており、それらについても折りに触れて紹介していきます(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(60)~十五夜の供え物・南区下溝(平成25年9月)~

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 今年の十五夜はちょうど満月にあたり、きれいなお月さまでした。

 平成22年度の民俗の窓の『祭り・行事を訪ねて(3)~「お月見ちょうだいな」~』で、平成22年9月と10月に行われた南区下溝古山(こやま)でのお月見の様子について紹介しており、今日でも、十五夜や十三夜の夕方に子どもたちが「お月見ちょうだいな」と言いながら各家を回ってお菓子などをもらっています。

 そして今年、福田家の資 料整理を行っている「福の会」のメンバーとこの行事の見学に伺うことになり、今回は「お月見ちょうだいな」で回っている子どもたちとともに、各家でのお供え物の状況に注目することにしました。 前回にも記したように、十五夜や十三夜の際には、縁側などに台を出してカヤやススキ等の秋の草花を壷に挿 して飾るほか、里芋・薩摩芋などの秋に畑で収穫される野菜や、月にちなんで丸いものということで米粉で作った団子や小麦粉のまんじゅうを供えます。 また、「お月様は豆腐を好む」として豆腐を一緒に供えることも報告されています(『相模原市史民俗編』)。

 この点を踏まえた上で、見せていただいた各家のお供え物をはじめ、関連する話を書き出すと次の通りです。

  • A家 ジャガイモを供えたが本来は里芋。今年の猛暑でまだ里芋が畑から掘れなかった。十三夜には里芋を供える予定。一緒においてある薩摩芋は買ったもの。こうしたものは15個(十三夜は13個)にする。柿が見えており、柿は供える家と供えない家がある。ススキは5本(同じく十三夜は3本)にする。 お菓子を貰いに回るのは小学生までである。
  • B家 供え物はススキ・団子15個・里芋・栗・ジャガイモ・ミニトマトなど。野菜等は自家製のその時にあるものを供える。昔は飾ってあるものを子どもは自由に持って行ってよいことになっていて、手渡しするようなことはなかった。今は衛生面などの理由でお菓子で渡す形になっている。100組くらいの菓子を用意している。
  • C家 団子・里芋・薩摩芋・柿・梨を供える
  • D家 まんじゅうは5個で、今年は隣りのおばあさんが手作りしたのを供えた。落花生・ブドウ・梨などが供えてある。月見には丸いものと白いものをお供えする。秋の花のワレモッコウを供える。
  • E家 ススキ5本、団子や薩摩芋15個を供え、十三夜は同じく3本と13個にする。ワレモッコウを供えていたが今は生えていない。 F家 子どもにも菓子ではなく里芋を配るようにして、袋に里芋を入れたものを供えている。

A家 見えにくいが薩摩芋の奥の柿のまわりにジャガイモがある
A家
見えにくいが薩摩芋の奥の柿のまわりにジャガイモがある

 B家 栗やミニトマトなど、その時に収穫した野菜を供える
B家
栗やミニトマトなど、その時に収穫した野菜を供える

 C家 子供に配る菓子が手前に見える
C家
子供に配る菓子が手前に見える

D家 まんじゅう等が供えられている
D家
まんじゅう等が供えられている

 E家 団子が見えている
E家
団子が見えている

 F家 たくさんの配るための里芋が置いてある
F家
たくさんの配るための里芋が置いてある

 以上のほか、例えば自由に子どもたちが持っていけるように箱に菓子だけを入れておいてあるものなども確認できました。このように、丸いもの・芋類をはじめとした自家で作った畑の収穫物・供え物の数など、基本的なところは同じでも、細かく見ていくと各家によって違いがあるのが分かります。家ごとに行われている年中行事では、共通する部分と相違がある部分を調べていくこともポイントの一つであり、今後ともこうした点に注意しながら、さまざまな市内の年中行事を紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(59)~盆の間に作る食べ物・南区下溝(平成25年8月)~

 前回の緑区根小屋中野の盆棚に続き、今回は南区下溝・新屋敷の福田家の盆棚を紹介するとともに、盆の間に作る食べ物について紹介します。

 福田家は「博物館の窓」の「ボランティアの窓」(「福の会」で展示を行いました(平成25年6月))でも触れたように、元々は北条氏照(小田原北条氏・四代当主の氏政の弟)の娘(後に出家して「貞心尼」)の供としてこの地に移り住み、北条氏が滅ぼされた後に村民になったと伝える旧家です。福田家には当家のものと貞心尼のための二つの仏壇があり、盆棚には仏壇から福田家先祖の位牌とともに貞心尼の位牌も出されます。福田家には盆の期間中の15日に、「福の会」の会員とともにお邪魔して盆棚を拝見させていただきました。

 盆棚は迎え火を焚く13日に作られ、さらに昭和30年代にはこのあたりの古い家ではたいてい盆の砂盛り(*)を作っており、これは子どもの仕事でいかにきれいに作るかを工夫し、階段を作ったりしたそうです。盆棚もかつては竹を立て縄を渡してホオズキを下げ、戸板を台にして作りました。また、棚の下に無縁仏に対しても供え物をして、無縁仏の分として里芋の葉に供え物を乗せました。迎え火は今は長屋門の前、かつては墓に通じる道の所で行い、そこで線香を点し、その火を盆棚に移します。以前は、迎え火の前には順番で風呂に入り、家族全員で迎え火を焚いて揃って夕飯を食べたりしたほか、今でも迎え火を焚いてから、墓には先祖はいないはずなのに14日に墓参りに行っています。 なお、ここでは他の地区とは違って15日が送り火です(隣接する下溝の古山や堀之内も15日が送り火となります)。

盆棚全景
盆棚全景

 空になった仏壇(向って右側が貞心尼の仏壇)
空になった仏壇(向って右側が貞心尼の仏壇)

盆棚に出された福田家と貞心尼(向って右)の位牌
盆棚に出された福田家と貞心尼(向って右)の位牌

 盆棚にはおはぎが供えられていた
盆棚にはおはぎが供えられていた

現在の砂盛り。長屋門の前に作る
現在の砂盛り。長屋門の前に作る

 当家では、盆の最中に作る食べ物が決まっていました。

 まず13日の夕方は、これは人間が食べるものではありませんが、線香と茄子を賽の目に切って洗い米を混ぜたもののほかに、御飯、輪切りの茄子と賽の目豆腐を具にして白ゴマを手でひねって入れた味噌汁とキュウリ揉み、他には有り合わせのものを付けます。 14日、15日の献立は次のとおりです(基本的に精進物で作ります)。

 この献立は、福田家御当主の奥様がノートに書き留められていたものを教えていただきました。なお、食器は、元々使っていた金属製の高杯のようなものが壊れてしまい、現在の容器を使っているとのことです。

●福田家御当主の奥様がノートに書き留めた盆の献立

14日

  • 朝 おはぎ カボチャの煮物 味噌汁(茄子・豆腐・ゴマ)
  • 昼 ソーメン *人間は自由
  • 夜 野菜の天ぷら *人間は自由 墓参りには、芋の葉に刻んだ茄子と洗い米を入れたものを一つ一つの墓石に供える

15日

  • 朝 茶飯。御飯に醤油を入れて供える
  • 昼 マンジュウ *人間はそれに加えて好きなもの
  • 夜 ちらし寿司 *人間はそれに加えて好きなもの。

 送り火には、迎え火と同じく 茄子を賽の目に切って洗い米を混ぜたものを供える 今では盆の食べ物に限らず、全般的にこうした昔からの慣わしは薄れつつあり、当家でも時代に合わせて省略できるところは省きながら行事を行っているとのことですが、大変興味深いお話しを伺うことができました。これからも地域の民俗についてしっかりと調べ、細かい事例を含めて記録していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

*盆の入りの13日に、屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて作った土壇。「祭り・行事を訪ねて(39)お盆の砂盛り~地域差のある民俗~」参照

相模原の民俗を訪ねて(58)~緑区根小屋中野の盆棚(平成25年8月)~

 暑いさなかの8月の年中行事を代表するものがお盆です。市域では、緑区相原・橋本、中央区小山などに7月盆の地域があるものの多くの所では8月に盆が行われ、今でもいくつかの盆行事を目にすることができます。

 今回は、これまでもこの欄に何回もご登場いただいている、緑区根小屋中野の菊地原稔さん(いつもありがとうございます)の家の盆棚について紹介します。 当家では、お盆の期間中だけ臨時に飾り、ご先祖様を迎える盆棚を迎え火をする13日の午前中に作ります。場所は仏壇の前側で、仏壇から位牌を出して仏壇の戸は盆の間は閉じてしまいます。本来は棚の四隅に新しい竹を立てるとのことですが、今年は奥側に二本の竹を立てました。かつてはもっと大きな棚を作り、毎年新しいゴザを中野の市(いち。根小屋中野とは別の場所で、現在、津久井警察署などがある辺りです)で買い求め、棚に敷きました。そして、13の仏が描かれた「十三仏」の掛け軸を飾り、そのほかにホオズキや、スイカ・カボチャなどの季節の野菜・果物を供えるほか、トウモロコシの毛の尻尾を付けた茄子で作った馬なども棚に置きます。

 ちなみに他の家では茄子のほかにキュウリでも馬を作ることがありますが、当家ではキュウリは昔から使いませんでした。また、仏様が茄子の馬に乗って帰るために盆の間、茄子は丈夫でなければならず、茄子を触ると傷むので絶対に触ってはいけない、さらに、棚の下側には特にお供え物をすることはないのですが棚の下には決して入ってはいけないと子どもはよく言われたそうです。 盆棚にお供えする食物は御飯と味噌汁・おかずで、同じものを昔から二膳分供えます。

 この写真では13日の昼に供えたコンニャクや揚げ・インゲン等の煮物が見えています。盆の間は朝にお供えした後、昼食はそのままにしておき、夕食にはまた新しく御飯を炊いて新しいものに変えます(御飯を炊かなければウドンでも可。マンジュウもよくお供えします)。盆の間に作って供えるものに特に決まりは無く、仏様のことなので魚などは使わないとのことです。なお、容器についてはかつては里芋の葉に御飯やおかず等を乗せていて、芋の葉は大きく供え物を全部入れることができました。 盆の迎え火は13日の夕方、暗くなってからで、麦から(最近は麦を作らないので稲藁束)を焚いて仏様を迎え、送り火は16日で迎え火・送り火ともに家の入口のジョウグチと呼ばれる所で火を燃やします。16日には寺で読経や供物をあげる施餓鬼(せがき)があり、そこでいただいた塔婆を持って墓地に行き、墓地中にあるそれぞれの墓に米を少しずつ供えて線香を点し、迎えの時には特に墓地に行かないのに対し、送りには墓まで行ってお盆は終わりとなります。 市域各地で行われているいろいろな盆行事について、これからも紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

盆棚全景
盆棚全景

盆棚を仏壇の前に飾る 盆棚の二膳分のお供え。
盆棚を仏壇の前に飾る 盆棚の二膳分のお供え。

茄子の馬の尻尾はトウモロコシの毛
茄子の馬の尻尾はトウモロコシの毛

相模原の民俗を訪ねて(57)~神輿が相模川へ入る(平成25年7月)~

 神輿が水の中に入る祭りといえば、神奈川県内では例えば茅ヶ崎市の浜降祭(はまおりさい)などがありますが、相模原市内では緑区青山で8月3日に行われる祭りに際して、神輿が夜も更けてから地区内を流れる串川に入るのが有名です。この祭りについては改めて本欄で触れることにして、今回は相模原地域の天王祭において、神輿が相模川に入る例を取り上げてみたいと思います。

 旧暦6月に行われる天王祭は、暑い時期に発生しやすい疫病を防ぐための祭りで、さらに水神祭りの性格をも帯びていると考えられており(吉川弘文館『知っておきたい日本の年中行事事典』)、水に関係した行事や由来が多く見られます。『相模原市史民俗編』に拠ると、オテンノウサマの神輿(祭り自体や神輿のことをオテンノウサマと呼ぶことがよくあります)が「お浜入り」などと言って相模川に入った集落として、緑区大島の古清水(こしみず)や中央区田名の水郷田名(久所(ぐぞ))及び滝が挙げられており、さらに、本欄の「祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ~」でも紹介したように、南区当麻の市場・宿・谷原地区でもかつては神輿が浜降りと称して相模川に入っていました。このように、相模川沿いの集落では神輿が川に入ることが見られ、神輿を流してしまったこともあるというような話も残されています。 そんな中で、現在でも水郷田名と滝集落のいずれも子ども神輿は相模川に入っています。

 今年(平成25年7月14日)の場合、滝と水郷田名の子ども神輿は、清水や陽原(ミナバラ)集落の神輿(いずれも大人と子どもの両方)と一緒に天王祭の当日朝に、田名八幡宮で神職からお祓いを受けて御霊入り(ミタマイリ)を行った後、滝の子ども神輿は滝の自治会館に戻る前に会館横の注連縄を張ったところから川に向かい、川に入りました。滝には、かつて大人の神輿と子ども神輿、山車がありましたが、昭和56年(1981)に火事で焼けてしまいました。神輿がないと子どもがかわいそうだということで作ったのが現在のもので、焼ける以前はやはり神輿が相模川に入っていました。また、焼ける以前は、大きな山車が道を通るために、午前中に道側に伸びた各家の木を伐るコサギリが行われ、勝手に伐られても文句は言えなかったそうです。

 なお、滝では、竹に紙製の花を付けたものを300本ほど作り、それを氏子が持ち帰って門口に飾っておくことが今もあり、各家に花が飾られた道を辿って子どもが神輿を担いでいく光景が見られます。

田名八幡宮での御霊入れの終了後、滝の自治会館に向けて出発する滝の子ども神輿
田名八幡宮での御霊入れの終了後、滝の自治会館に向けて出発する滝の子ども神輿

河原に下りる神輿。大人が主に行う (滝地区)
河原に下りる神輿。大人が主に行う
(滝地区)

 川に入った神輿(滝地区)
川に入った神輿(滝地区)

滝の自治会館におかれている花を持ち帰る
滝の自治会館におかれている花を持ち帰る

花は各家の門口に飾られる(滝地区)
花は各家の門口に飾られる(滝地区)

集落の境である滝坂の途中まで頑張って登る(滝地区)
集落の境である滝坂の途中まで頑張って登る(滝地区)

これに対して、水郷田名では一度、田名八幡宮のすぐ隣りにある水郷田名の自治会館の前(神楽殿もあります)に戻った後、午前10時40分頃に出発して高田橋のやや下流の河原の注連縄を張った所まで担いで行き、到着後すぐに相模川に入りました。 そして、両地区ともに子ども神輿は、囃子を乗せた山車とともに、午後からそれぞれの集落内を回ることになります。

相模川の河原を進む水郷田名地区の子ども神輿
相模川の河原を進む水郷田名地区の子ども神輿

注連縄を張っている所を通って川に向う (水郷田名地区)
注連縄を張っている所を通って川に向う
(水郷田名地区)

相模川に入った子ども神輿 (水郷田名地区)
相模川に入った子ども神輿
(水郷田名地区)

天王祭では子どもたちのお囃子もにぎやかに行われる(水郷田名)
天王祭では子どもたちのお囃子もにぎやかに行われる(水郷田名)

 もちろん神輿が相模川に入ると言っても、特に今は川底が砂利ではなく泥状になっていて注意が必要であり、大人が付き添いながら岸辺の所で神輿を揉んですぐに川から上がります。こうした特徴ある行事が、今後とも安全性に充分気をつけながら続けられていくことを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(56)~田名・清水の山車人形(平成25年7月)~

 今年の夏も市内の各地でオテンノウサマ(天王祭)の祭りが華やかに行われました。天王祭では、神輿を担ぎ、また、お囃子を載せた山車(市内では屋台と呼ばれることも多いのですが、ここでは山車と表記します)を曳くことが特徴で、この欄でもこれまでいくつかの地区の天王祭を取り上げてきました。

 今回は、市内では大変珍しい中央区田名の清水集落の山車人形を紹介します。 田名地区では各自治会が天王祭を行い、そのうち清水集落は陽原(ミナバラ)等と並んで大人が担ぐ大きな神輿があり、さらに古い山車(明治29年[1896]頃に地元の大工が製作)を持っている場所です。

 ちなみにこの神輿は、一説に暴れ神輿だったため海に沈められる予定だったのを明治初期に湘南地方から譲り受けたもので、田名の中でも盛大に担いで練り歩いていたのが第二次世界大戦の頃には担ぎ手がいなくなり、その後は傷みも大きく、置いて参拝するだけになっていました。それを平成2年(1990)に、人形を飾る山車を修理したことをきっかけとして翌年には神輿も元の姿に近いきらびやかなものに修復し、再び往時のように担げるようになりました(『田名のくらし・四季』相模原市立田名公民館 2006.3刊行)。

7月13日(土)夕方に伺った時には自治会館の中に飾られていた
7月13日(土)夕方に伺った時には自治会館の中に飾られていた

 山車人形は文字通り天王祭の山車の上に飾る人形で、清水のものは刀を右手に持った「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」像で高さが2m40cmほどあり、山車の上に建てると全体で7mにもなるそうです。

 この人形は、第二次世界大戦後には長い期間飾っておらず、祭りには頭を出したり衣装も干して保存してきましたが、胴体の部分は保管場所のこともあって傷みが大きくなり、処分されていました。それを平成8~9年にかけて衣装を計ったりして胴体の大きさを割り出して体の部分を作り、ようやく飾ることが可能になりました(その後も胴体は肉付きを良くするなど手を入れているとのことです)。

 山車への取り付け方は、心柱(しんばしら)を立てて先端に人形を飾る一本柱形式とされるものであり、やはりかつては山車に人形を上げていた「八王子祭り」や藤沢の皇大神宮(こうたいじんぐう)の人形山車と同系統で、心柱は山車の後部から起されます。今では電線などの関係で人形を立てたままで山車を曳くことは難しいため、天王祭の前日の宵宮の時(今年は7月13日(土))に山車に飾って地元の皆様でその勇姿を楽しんでいます。

まず人形を乗せる心柱(一本柱)を準備する
まず人形を乗せる心柱(一本柱)を準備する

 山車の後部から人形をセットして少しずつ引っ張る
山車の後部から人形をセットして少しずつ引っ張る

 山車に飾られた人形
山車に飾られた人形。山車の中にはお囃子の子どもたちがいる

市内では清水のほかに、山車に乗せる人形として、緑区小原に鐘馗(ショウキ)像があったことが報告されており、近年、新しいものを山車に乗せて巡行しています。また、緑区中野上町の山車は、元々八王子の八日町一・二丁目のものを譲り受けたもので、山車とともに人形の台座(人形はなし)も譲り受けました(八王子では雄略天皇を飾ります。「祭り・行事を訪ねて(38)~八王子祭りの山車~」参照)。これ以外にも、現在は見られませんが上溝本町の大正初期の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に掲載されているほか、大島など何ヶ所で山車人形があったとも言われており、今後も引き続き調査を進める必要があります。 そんな中で清水の人形で特に注目されるのは、付属品の布団に押されている朱印などから、東京の赤坂氷川神社や千葉・成田、群馬・高崎など、関東各地に残る人形を作った通称「だし鉄」こと、山本鉄之の作である可能性が高いと考えられる点です。清水でどのような経過でだし鉄の人形が残されることになったのかについては今のところ資料はなく、詳細は不明です。それでも著名な人形師の作と思われるものがこの地に残され、さらに曳かないまでも、1年に一回は実際に地元の皆様の熱意と努力によって山車に飾られている事例は市内にはほとんどありません。清水の山車人形は非常に貴重であり、相模原の民俗を考える上でも重要なものと言えましょう(民俗担当 加藤隆志)。

お囃子の様子をわざわざ見せてくれた
お囃子の様子をわざわざ見せてくれた

大人の神輿と子ども神輿。夜になると付ける提灯を飾っていただいた
大人の神輿と子ども神輿。夜になると付ける提灯を飾っていただいた

14日(日)の天王祭当日。大人の神輿が自治会館から出発する
14日(日)の天王祭当日。大人の神輿が自治会館から出発する

夜遅くまで神輿は集落中を担がれる
夜遅くまで神輿は集落中を担がれる

大人の神輿に続いて子ども神輿も出発
大人の神輿に続いて子ども神輿も出発

山車と囃子は、天王祭には切っても切れないものである
山車と囃子は、天王祭には切っても切れないものである

 オテンノウサマの関連記事

平成24年度

  • 祭り・行事を訪ねて(38)八王子祭りの山車(平成24年8月)
  • 祭り・行事を訪ねて(37)南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)
  • 祭り・行事を訪ねて(36)市内各地の天王祭(平成24年7月)

平成23年度

  • 祭り・行事を訪ねて(20)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~ 五部会
  • 祭り・行事を訪ねて(19)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~ 本町自治会
  • 祭り・行事を訪ねて(18)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~ 本町自治会のシメ縄張り
  • 祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ~

相模原の民俗を訪ねて(55)~帆掛け船(新造船)の進水式(平成25年6月)~

 「民俗の窓」のNo.17(相模川の帆掛け船の再現)でも紹介したように、8月の第一日曜日には磯部民俗資料保存会の皆様によって、帆掛け船を実際に相模川に浮かべて川を登ることが行われています。しかし、これまで使われてきた船も長年の間に傷みが目立つようになって新たな船を作ることが計画され、このたびついに船が完成して、6月9日(日)に新造船の進水式が相模川三段の滝下広場(5月に上磯部地区の大凧揚げの会場となる場所です)で行われました。

 新造船の計画は三~四年前から話が出て、保存会で調査や討議を重ねて作成することを決定しましたが、大変だったのがすでに相模川筋には確認することが難しい船を作る大工を探すことでした。それが、これまで二十艘ほどの船を作った経験のある地元出身で現在は相模台にお住まいの大工が見つかり、この方に依頼することになりました。ちなみに船では船釘が普通の釘とは異なっており、今回の船の製造に合わせてこの方は自分で500本の船釘を作られたとのことです。また、船材とする杉は緑区青野原の樹齢80~100年のものを使い、伐採後は半年の間自然乾燥して用いました。今回製造した船は帆掛け用のものと帆掛け船を引っ張ったりする伴走船の二艘で、帆掛け船が昨年(24年)の10月~11月、伴走船は今年の1月から2月にかけて作られました。

 進水式の当日は心配された雨もなく、午前11時から無事に実施されました。まず挨拶や新造船建設の経過説明、大工や製材所・原木提供者への感謝状の贈呈の後に、神職による神事や船のお祓いと関係者によるテープカットなどがあり、いよいよ実際に新しい帆掛け船と伴走船を相模川に浮かべて保存会による乗り初めが行われました。この日はやや風が強く、さらに毎年の帆掛け船の再現をしている場所とは異なった位置のために川底の深さなども違って大変だったところもありますが、気持ちの良い風の中を船が帆を揚げて川上に向って疾走する姿を見ることができました。

二艘の新造船。奥が帆掛け船、手前が伴走船
二艘の新造船。奥が帆掛け船、手前が伴走船

 船材を取った後の木の丸太が飾られていた
船材を取った後の木の丸太が飾られていた

神職による船のお祓い
神職による船のお祓い

実際に船を川に浮かべる前に関係者によるテープカット
実際に船を川に浮かべる前に関係者によるテープカット

 いよいよ初めて川に下ろす
いよいよ初めて川に下ろす

初めての帆を張る様子
初めての帆を張る様子

帆一杯の風を受けて川を遡る
帆一杯の風を受けて川を遡る

 船の製作には、当然のことながら例えば経費のやりくりをはじめ、大工や木材の手当てなどさまざまな問題があり、とても簡単に解決できるものではありません。ちなみに今回は、市の地域活性化事業の補助金や企業協賛金、会員・元会員及びその家族等の寄付金が当られたとのことです。それでも地元の保存会の皆様の、帆掛け船の様子と技術を現代に示し、また後世に継承するといった想いが新造船の製作といったことに繋がったことは言うまでもありません。博物館としても、こうしたすばらしい地域の活動があることを今後とも広く伝えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(54)~当麻地区下宿の地神講資料(平成25年5月)~

 地神講(じじんこう)は、農業の神、土地の神を祀る信仰的なあつまりとして、相模原市内はもとより神奈川県内で広く行われていました。春と秋の彼岸の中日に近い戊(つちのえ)の日である社日(しゃにち)に地神講があり、講に参加している家が順番に宿を務めて、地神像が描かれた掛け軸を飾ってお神酒を供え、講員が豊作を祈って一杯やりました。また、地神様は土地の神だから、この日には畑仕事をしたり土をいじったりしないなどと言われていました。

地神講の掛け軸
地神講の掛け軸

掛け軸に描かれた武神像。右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ
掛け軸に描かれた武神像。右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ

 このように各地に見られた地神講も、農家が少なくなるとともに次第に中止するところが多くなっており、やはり南区当麻地区・下宿(しもしゅく)の皆様(現在の講員の方は9名)が長く続けてこられた地神講を昨年(2012年)の秋をもって解散したのに伴い、講で祀っていた掛け軸と帳面類を博物館に御寄贈いただきました。

地神講の推移が記録された帳面類
地神講の推移が記録された帳面類

 掛け軸は、表に「地神様眞影壱幅(じしんさましんえいいっぷく)」、横に「明治四十年秋九月新調」(1907)と記された軸箱に入っており、一般に地神講の掛け軸は右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ武神像が描かれることが多く、この掛け軸も同様の武神像です。他の地区の多くの掛け軸が刷物であるのに対して、これは手書きである点が注目されます。帳面は、表紙に「明治十丑年三月吉日 地神講連名帳」及び「昭和三十四年三月吉日 地神講連名帳」と書かれたものと、表紙はなく昭和26年からの宿や講にかかった経費等の記載がある帳面の3点で、これらを見比べていくと明治10年(1877)からのこの地区の地神講の移り変わりの様相を詳しく知ることができます。

 例えば、明治10年3月の申し合わせでは、おそらく飲食やその他の経費のための白米五合とお供え用として神酒料を一銭ずつ集めており、さらにこのほかに懸銭(かけせん=掛け金)を各自から七銭徴集しています。これは地神講の際に、講員が持ち寄った掛け金を順に入札で貰っていく頼母子(たのもし、「無尽・むじん」ともいう)を行っていたことを示しており、近隣の下溝地区・古山(こやま)でも地神講に無尽をしていて、ある家では昭和の初めに無尽に当った金で学校を卒業した長男の鍬を買ったというような話も残っています。この地神講では、昭和5年(1930)3月に規約の改正をして頼母子を廃止したようです。

旅行を行うことを記した記載。昭和37年の地神講の際に決められたことが分かる
旅行を行うことを記した記載。昭和37年の地神講の際に決められたことが分かる

昭和44年の四国旅行の際の旗。「相州当麻地神講」と書かれている
昭和44年の四国旅行の際の旗。「相州当麻地神講」と書かれている

 同じく48年の東北旅行の旗
同じく48年の東北旅行の旗

 この後に地神講に大きな変化があったのは昭和40年(1965)頃です。以前から春の3月とともに秋は彼岸中での9月ではなく、稲の収穫後の10月に行われることが多くなっていたようですが、翌年の昭和41年からは地神講を年に一回、毎年10月9日前後に実施する一方、4年に一回は遠隔地を旅行することになり、昭和40年に佐渡、昭和44年に四国、昭和48年に東北に行っています。ちなみに今回の寄贈の資料の中には、四国と東北旅行の際に使った手持ちの旗が含まれています。2年後の昭和50年に北九州、昭和52年と昭和54年にはいずれも山陰山陽方面を旅行し、この年をもって地神講主催の旅行は終了しました。

 そして、昭和58年(1983)10月の地神講でも重大な規定の変更があり、それまで個人の家を宿として講を行っていたのを、会食は料理屋や温泉地等の別の会場として、当番(2名で任期2年)が10月9日に自宅の床の間に掛け軸を飾ってお神酒と肴を供えることとするもので、翌年の昭和59年からはこのやり方となっています。ちなみに帳面では、平成16年(2004)の当番の記載が最後です。

 このほかにも講金の変化や宿の状況など、帳面を見ていくことで地神講のあり方について分かることは大変多くに及びます。そうした貴重な資料を御寄贈いただいた当麻・下宿の地神講の皆様に深くお礼申し上げるとともに、今後ともこのような資料によって知ることができるさまざまな地域の歴史や文化について、「民俗の窓」でも記していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(53)~横浜市歴史博物館との交流会で「大山参り」を行いました(平成25年4月)~

天気は悪かったものの至る所できれいな花が見られた
天気は悪かったものの至る所できれいな花が見られた

 本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会が定期的に交流会を行っていることは「ボランティアの窓」でも紹介していますが、その第3回目になる交流会を伊勢原市の大山で行いました。これまでの交流会では、横浜市民が相模原に来て調査会Aの会員が説明をし、別の機会には相模原市民が横浜を訪れて民俗に親しむ会の皆様にご案内いただくなど、お互いの市のフィールドワークを行ってきました。それに対して今回は、それぞれの市以外の地域を歩いてみるということを目的として、江戸時代から信仰の山として名高く、相模原・横浜ともに地域の民俗を考える上でも欠かせない大山を選びました。資料は、以前、本館で実施した民俗講座「大山道を歩く」を開催した際に作成したものを利用し、相模原から16名(担当学芸員~加藤です~1名含む)、横浜から10名(担当学芸員2名を含む)の総勢26名が参加しました。

立派な石仏を調べる参加者。いろいろな見所があり、なかなか進まない
立派な石仏を調べる参加者。いろいろな見所があり、なかなか進まない
大山阿夫利神社の下社。江戸時代まではこの場所に不動堂があった
大山阿夫利神社の下社。江戸時代まではこの場所に不動堂があった
上社(石尊社)に登る所にある「片開きの門」。普段は扉が片方だけ開いているが、今回は両開きになっていた
上社(石尊社)に登る所にある「片開きの門」。普段は扉が片方だけ開いているが、今回は両開きになっていた

 小田急線伊勢原駅に集合し、バスに乗って「〆引」バス停近くの大きな鳥居に向かいました。通常ならバスで真っ直ぐ終点の「大山ケーブル駅」に向かうところですが、今回は「みんなが知らない大山参り」をテーマとしているため、かなり手前でバスを降り、さまざまなものを見学しながら歩いていきました。

 この鳥居は、県内の主要な大山道の一つだった「田村通り大山道」の二の鳥居で、ちなみに一の鳥居は東海道から大山道が分岐する藤沢市の城南(旧羽鳥村四ツ谷)に建っています。そして、安産祈願で有名であり、かつての大山登拝の入口だったようでもある比々多神社(子易明神)やいくつかの石仏を見ながら進んで行き、途中からは旧道に入って先導師(せんどうし。大山参詣の世話をする者)の家が並ぶ集落を歩きました。さらに、かつてはここで水垢離(みずごり)をした良弁の滝や、葬式があると100日目(あるいは101日)にお参りする茶湯寺(ちゃとうでら。百か日参りをすると途中で死んだ人に似た人に会えると言います)などを経て、ようやく大山ケーブルカーの追分駅に着きました。しかし、それでもすんなりとはケーブルカーには乗らず、少し上側にある追分社に行きました。江戸時代までは前不動堂があったところで、大山阿夫利神社下社(下の前不動堂に対して、かつて不動堂があったところ)まで歩く場合、ここで男坂と女坂に分かれます。その後はいよいよケーブルカーで下社に向かい、下社に参拝の後には、大山へ雨乞いをする時にはここから水を汲む二重滝にも行きました。最後にケーブルカーを途中下車して大山寺にもお参りし、バスで伊勢原駅まで戻って終了となりました。

大山ケーブルカーの大山寺駅から見た下側の「コマ参道」の集落。ケーブルカーの急な線路も見える
大山ケーブルカーの大山寺駅から見た下側の「コマ参道」の集落。ケーブルカーの急な線路も見える

 当日は、午後から雨が降り出すあいにくの天気となり、陽気も季節はずれの寒さで予定も一部変更をせざる得なくなったほか、意外と歩く距離が長く、大変な面もありました。それでも普通に大山へ行く時とは異なり、歩くからこそ見たり知ったりすることができるポイントがたくさんあり、フィールドワークの楽しさを充分に味わうことができるコースだったといえるでしょう。また、参加者は昼食の弁当や大山名物の饅頭を一緒に食べたり、歩きながらいろいろとお話するなど、回を増すごとに交流も深まっています。

 今回のようなお互いに離れた場所のフィールドワークを通じて、改めて自らが生活する地域を見直すとともに、今後とも両博物館の市民の会の一層の交流を図り、それぞれの館の活動に反映させていきたいと思っています。(民俗担当 加藤隆志)

相模原の民俗を訪ねて(52)~下九沢・瘡守稲荷の絵馬(平成25年4月)~

社殿の中にある瘡守稲荷。左横に絵馬がまとめて置かれている
社殿の中にある瘡守稲荷。左横に絵馬がまとめて置かれている

 緑区下九沢の塚場集落にある「瘡守(かさもり)稲荷」は、当地の旧家である今井家(現在の御当主で九代目とのことです)が個人で祀っているお稲荷さんです。下九沢が含まれる大沢地区に関する郷土史をまとめた『おおさわ風土記』にも、この稲荷社について紹介されています。(ちなみに同書は、大沢小学校のPTA会誌に地元の郷土史家だった、故・笹野邦一さんが連載された記事をまとめたもので、博物館の建設準備の際にも笹野さんにはいろいろとご協力をいただきましたことが思い出されます。)

 この稲荷は、主に病気平癒や家内安全、入学祈願等、いろいろなことを願って信仰され、まず土の団子を年齢の数(年配者は端数だけ)だけ上げ、目的が適うと米の団子を供えました。戦時中には出征兵士の武運長久を祈願する者も多く、大変信仰が厚かったため、絵馬が数百枚にも達したそうです。また、天保六年(1835)や文久四年(1864)の資料も残されており、江戸時代の後期にはすでに祀られていたことが分かります。なお、御当主に伺うと、かつては今井家も知らないうちに祈願に来ており、朝に見ると土製の黒い団子が上げられていましたがそれも子どもの頃で、もう数十年もこのようなことはないとのことです。

一部の絵馬は、壁に提げられていた
一部の絵馬は、壁に提げられていた

博物館では、この瘡守稲荷に残っていた絵馬類の一部について寄贈を受けることになり、先日、今井家にお伺いしました。祠がある周囲を整備して祠を新しくするに伴い、祠の中にあった絵馬も整理することになられたそうで、もちろん地域の信仰を示す貴重な資料として博物館に御寄贈いただくこととなりました。

鳥居のミニチュアもあった
鳥居のミニチュアもあった
絵馬の図柄の一部
絵馬の図柄の一部

 絵馬は多くが縦15cm×横20cmほどの大きさで、全部で227点ありました。図柄は女性が社殿に向って拝んでいる姿を描いたものが130点で全体の六割近くを占めており、病気の中でも特に女性の病によかったといわれていたことを表しているようです。男性の拝み図も38点あり、先ほどの出征にまつわるものとも考えられます。他の図柄は、親子(母と子)拝み図6点、子ども拝み図6点、向かい狐図21点などで、ごくわずかに僧侶を描いたものや蛇図などがありました。祈願に関するものは全部で214点で、今回はこれらの絵馬のうち157点が寄贈されました。そのほかの13点は伏見稲荷や寒川神社、高尾山などで売られたものであり、今井家がこうした社寺に出かけて購入したものです。また、大きさはいろいろですが金属製の鳥居のミニチュアも13点残されていました。

 絵馬に文字が書かれていたものは30点ほどと少なく、「奉納」が多い中で、1点だけ「明治32年」(1899)との年号がありました。また、「田名四ツ谷」の地名や、特に田名地区に多い苗字が書かれた絵馬が数点あり、この稲荷の信仰が地元だけではなく、ある程度の広がりを持っていたことが窺えます。

 瘡守稲荷は東京にもいくつかあり、いずれも皮膚病や下の病の平癒を願って、初めに土の団子、治ると米の団子を供えるといった同様のことが見られ、この近辺では座間市新田宿の専念寺(浄土宗)の境内にも瘡守稲荷が祀られ、遠方からもお参りに来る人がいたといいます。博物館では、今後もこうした地域のさまざまな歴史や民俗を物語る資料を収集し整理して後世に残していくとともに、この「博物館の窓」など、さまざまな機会を捉えて地域の文化を紹介していければと思っています。(民俗担当 加藤隆志)

資料整理には市民も係わって作業を行った。(絵馬の汚れを落としているところ)
資料整理には市民も係わって作業を行った。(絵馬の汚れを落としているところ)

 

相模原の民俗を訪ねて(通算第51回) ~国立民族学博物館に相模原の農具が常設展示されます~

国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子①
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子①
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子②
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子②
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子③
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子③

 現在も岡本太郎作の「太陽の塔」が残る千里万博公園(大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(正式名称「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構国立民族学博物館」)は、通称「みんぱく」と呼ばれ、延べ床面積51,225㎡を誇る日本を代表する博物館の一つです(ちなみに本館は9,510㎡ですが市町村立の博物館では大型のものの一つです)。

 「みんぱく」は文化人類学・民族学(「民俗学」ではありません)に関する調査研究を行うとともに、民族資料の収集や公開を通じて、世界の諸民族の社会と文化に関する理解を深めることを目的に昭和52年(1977)11月に開館しました。 「みんぱく」の展示室は、世界の諸民族の文化と社会を扱う地域展示と、音楽や言語などのテーマに基づく通文化展示に分かれており、地域展示の中の東アジアの一角に日本の文化も展示しています。そして、今年(2013年)の3月に、日本の展示がリニューアルされて新しくなり、「日々のくらし」と「祭りと芸能」のコーナーができましたが、この「日々のくらし」の畑作の様相を示す展示として本館の収蔵資料が展示されることになりました。

 日本の社会では、農業や漁業・林業・諸職(さまざまな職人)・商業などさまざまな生業が営まれており、農業では稲作と並んで畑作も重要なものでした。そこでは、例えば基本的に毎年稲だけを作る水田に対して、畑では麦や芋・野菜等、いろいろなものを組み合わせて栽培するなどの畑作ならではの特徴があり、こうした作業に応じた各種の農具が使用されてきました。このような畑作の様相を表す展示の資料として白羽の矢が立ったのが、かつて耕地の中で畑地の割合が非常に高く、まさに畑作卓越地域であった相模原の地であったのです。

 今回の展示に際しては「みんぱく」の笹原教授から依頼があり、館内で検討の上、実際に使われてきた農具類を中心に写真等も含めて約40点を長期貸出しすることになりました。実は笹原教授は、本館の建設準備の際には本市の学芸員として携わり、開館まもなく「みんぱく」に移られていった方で、現在、展示室にある物置の移築や鍬類の展示について担当するほか、特に三匹獅子舞の調査を熱心に行って報告書をまとめています。今回の展示に当たっては、その構成や内容に際して当館からもさまざまなアイデアを出してお互いに協議を行うとともに、展示案に基づく資料として数多くの収蔵資料の中からどれを選定するのか、背景に用いるパネルの写真をどうするのか、解説文の文案は、などと半年近くに渡りいろいろなやり取りをして進めていきました。

 私も先日、確認のために「みんぱく」を訪れ、笹原教授にご案内いただきました。そこでは遠く大阪の地で、相模原の資料が畑作の様相を示すために展示されており、これらの資料はしばらくの間、新たな役割を果たすことになります。皆様もお近くに行った際には、是非、地元相模原の農具が立派に展示されている様をご覧いただければ幸いです。また、相模原の資料だけではなく、日本はもとより世界各地の諸民族の実に多彩で興味深い資料を目の当たりにして、大変楽しく貴重な時間を過ごすことができると思います。(民俗担当 加藤隆志) *国立民族学博物館のアドレスは www.minpaku.ac.jp です。休館日等ご確認の上、ご来館ください。 *これまで、本欄は「祭り・行事を訪ねて」として連載してきましたが、今後は、例えば博物館に新たに収蔵されるようになった資料や民俗分野のさまざまな活動など、幅広い内容を紹介していくことを予定しています。もちろん従来どおり、祭りや行事についても取り上げていきますのでご期待ください。

天文の窓(平成25年度)

Posted on 2014年6月7日 by 相模原市立 博物館 Posted in 博物館の窓, 平成25年度
  • ビオンカプセル(平成25年9月)
  • ビオンカプセル(平成25年9月)

    ビオンカプセル(展示用にカプセル内部が見えるようになっている。)
    ビオンカプセル(展示用にカプセル内部が見えるようになっている。)

     2013年(平成25年)7月13日(土)から9月1日(日)まで当館特別展示室で開催された、はやぶさ2応援企画展『片道から往復へ~新たな宇宙時代の到来~』は、おかげさまで多くのかたにご来場いただきました。会場に足を踏み入れると、まっさきに目に留まるのが大きな球形の物体「ビオンカプセル」でした。 筑波宇宙センターからお借りしたこのカプセルは、ロシア(打上げ当時はまだソ連)の生物科学衛星「ビオン9号」の再突入カプセルの実物です。直径2.2m、重量約2.4トンのこのカプセルは、1989年に実際に宇宙へ行き、14日間地球をまわって地上に帰還しました。いかにも頑丈そうなカプセルで、1992年打上げの「ビオン10号」でも再利用されたそうです。「小さな宇宙飛行士」として、 さまざまな種類の生物をカプセルに入れて、無重量状態や放射線など、宇宙での環境が生物にどのような影響を与えるかが調べられました。そうしたデータは、人間が宇宙で生活するうえで重要であるだけでなく、生物の各器官の働きに関する理解も深まり、人間の病気やけがの治療にも役立てられています。 「ビオン9号」に乗った「小さな宇宙飛行士たち」はどのような生き物だったのでしょう? カプセルそのものはアルミ合金製ですが、再突入時の高熱からどうやってカプセルを守ったのでしょう? 飛行中のトラブルとは? なぜ1996年の11号以降しばらくビオン衛星の打ち上げがなかったのでしょう?(2013年に再開)こうした疑問については、当博物館の研究報告第22号(2014年3月刊行予定)の中で詳しくお知らせできればと思っています。 (天文担当 山田陽志郎)

    民俗の窓(平成23年度)

    Posted on 2014年1月23日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
    • 祭り・行事を訪ねて(30)~神社の境内にある不動堂~南区磯部・    磯部八幡宮~
    • 祭り・行事を訪ねて(29)~屋敷神の稲荷を祀る~緑区根小屋・中野    地区~
    • 祭り・行事を訪ねて(28)~正月飾りを燃やす稲荷講~南区下溝・    新屋敷地区
    • 祭り・行事を訪ねて(27)~団子焼きと道祖神~南区上鶴間本町・    鵜野森・東大沼
    • 祭り・行事を訪ねて(26)~「道祖神の小屋」作り②~南区古淵地区 
    • 祭り・行事を訪ねて(25)~「道祖神の小屋」作り①~南区原当麻地
    • 祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~町田市木曽町境川地区
    • 祭り・行事を訪ねて(23)~正月飾りを作る~緑区根小屋地区   
    • 祭り・行事を訪ねて(22)~当麻・三嶋神社のナマスマチ   
    • 祭り・行事を訪ねて(21)~相原地区の秋葉信仰   
    • 祭り・行事を訪ねて(20)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~五部会
    • 祭り・行事を訪ねて(19)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会
    • 祭り・行事を訪ねて(18)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会の    シメ縄張り
    • 祭り・行事を訪ねて(17)~相模川の帆掛け舟の再現~磯部民俗資料    保存会の活動
    • 祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ~
    • 祭り・行事を訪ねて(15)~相模原を代表する民俗芸能~三匹獅子舞
    • 祭り・行事を訪ねて(14)~新たに作られた道祖神 南区上鶴間本町・    金山神社~(平成23年4月)  
    • 祭り・行事を訪ねて(13)~中央区上矢部の薬師堂~(平成23年4月)
    • 祭り・行事を訪ねて(12)~中央区上溝の元町観音堂~(平成23年4月) 
    • 祭り・行事を訪ねて(11)~与瀬神社の祭礼と精進衆(しょうじんしゅう)   (緑区与瀬)~(平成23年4月)

    祭り・行事を訪ねて(30)~神社の境内にある不動堂~南区磯部・磯部八幡宮~

     南区磯部の磯部八幡宮は、磯部のうちの上磯部地区の鎮守で祭礼は9月5日(前日の4日が宵宮)に行われます。この神社の境内には不動堂があり、中に納められている木造の不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)は江戸時代に制作されたもので、装飾的な意匠や技術に優れた仏像として相模原市の指定有形文化財となっています。  ところで、神社の境内に仏像が祀られているということを奇異に思われる方もいるのではないでしょうか。ここでは紙面の関係もあって詳しく述べることはできませんが、実は江戸時代までは神社と寺院は密接な関係(「神仏混淆(しんぶつこんこう)」「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」)にあり、神社の管理や祭祀を寺(「別当寺(べっとうじ)」)が行うことが一般的に見られました。そして、近世後期の天保12年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』によると、市内でも多くの神社の別当寺があったことが分かります。磯部の八幡社(現在の磯部八幡宮)も別当は仏像院という寺であり、八幡社には護摩堂があって不動が安置されていると記されていることから、不動像は仏像院の本尊であったことが考えられます。  この不動は特に火災除けにご利益があるとされ、祭祀は毎年3月28日に決まっていて今年(2012年)も午前11時から神社の総代の皆様が集まって実施されました。『相模原市史民俗編』によると、かつては別当の仏像院が祭りを執り行って護摩を焚いたといい、昭和32年(1957)頃までは子ども相撲が開かれたとありますが、現在ではこうしたことは無くなり、八幡宮の年間の行事の一つとして神職が祝詞を上げ、玉串を奉奠(ほうてん)するなど神式の作法に則って行われます。

    不動堂の扉を開けて準備
    不動堂の扉を開けて準備

    総代による玉串奉奠
    総代による玉串奉奠

     市内では、下溝地区の下溝八幡宮の境内にも木造の不動明王坐像(市指定有形文化財で江戸時代中期の作)があります。こちらも江戸時代には八幡社の別当寺であった大光寺の本尊であったものが、明治初期に神社と寺院の管理を神職と僧侶というように厳密に分ける神仏分離が行われた結果、大光院が廃寺となって不動像が下溝八幡宮の境内に祀られるようになったものです。このように、地域の神社に仏像が残されていることから「神仏混淆」(神仏習合)や別当寺、神仏分離といった日本全体の大きな歴史の流れを知ることができるのですが、そうした観点から改めて身の回りのことを見ていくと、さまざまな地域の歴史や文化が顔を出しているのに気が付きます。  なお、不動堂の中にはいくつかの棟札や絵馬のほかに、蚕の繭を詰めた額が2点あることにも注目されます。明治40年(1907)及び大正6年(1917)にいずれも地元の家から奉納されたもので、繭が三段ずつガラス入りの額の中に並べられており、後者に「9月吉日」とあることから繭がよくできたことを祝って奉納されたものと思われます。不動が火難除けのみならず養蚕に対しても信仰があったことを示す一方で、このような繭額というようなものは市内では他にほとんど例がなく、養蚕が非常に盛んだったこの地域にとって非常に重要な資料と言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。

    木造不動明王坐像
    木造不動明王坐像

    不動堂の中にある繭額 写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納
    不動堂の中にある繭額
    写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納

    祭り・行事を訪ねて(29)~屋敷神の稲荷を祀る~緑区根小屋・中野地区~

      前回の「祭り・行事を訪ねて(28)」では、地域全体で祀られている稲荷社での初午の行事(稲荷講)を記しましたので、今回は個人の家の屋敷神の初午について紹介したいと思います。  これまでにも「繭玉作り」や「正月飾り」などでこの欄に何回か登場していただいている緑区根小屋の菊地原稔さんは、自家での年中行事を今でもきちんと行われており、初午の行事も写真を撮らせていただきました。ただ、今年(2012年)の初午は2月3日で翌日の立春の前に当たったので、12日後の15日の二の午の日に行われ、昔から立春前には初午はやらないとのことです。  当家には屋敷神の稲荷社が「正一位稲荷(しょういちいいなり)」と「穴守稲荷(あなもりいなり)」の二社あり、前者は元々当家で祀っていたもの(かつては上側の県道の端にあり、道の拡幅のために現在は母屋の裏側に移されています)でどこから勧請(かんじょう)したものか不明で、後者は元々別の家のものでしたがその家が引っ越したため、屋敷跡を購入した当家で継続して祀っています。穴守稲荷は東京都大田区の羽田に鎮座する稲荷で、大鳥居の移転に伴う不思議な話が有名です。

    正一位稲荷
    正一位稲荷

    穴守稲荷
    穴守稲荷

     この日の朝に両方の稲荷社に幟をあげ、榊や灯明のろうそくの他に藁を折って作ったツトと呼ばれるものとメザシ(または油揚げ。メザシか油揚げのどちらか)・お神酒・水をお供えします。ツトには赤飯や小豆飯を入れることが一般的に見られるものの、当家では洗った米を使います。また、メザシは二尾を水引で縛って祠の前側に吊り下げるようにします。

    藁でメザシをくくる 写真左側にみえるのがツト
    藁でメザシをくくる
    写真左側にみえるのがツト

    灯明のろうそくに火をつける
    灯明のろうそくに火をつける
    90-03minzoku240304 90-03minzoku240306 90-03minzoku240307

    稲荷の手前に見えるのがツト、右上に掛かっているのが用意したメザシ

     なお、この地区にはかつては個人の家だけではなく地区で祀る稲荷社もあり、この稲荷社も初午の時に20軒ほどで稲荷講を行っていて、会費制で回り番で宿が酒と肴を用意し、男衆が集まって飲み食いをしていました。現在、この稲荷講はなくなってしまいましたが、江戸時代末期の嘉永年間に作られた旗は残っているそうです。  『相模原市史民俗編』には、「年中行事と季節感」の章で初午について細かく記載されており、地域や家によってさまざまに行われていたことが分かります。それぞれの年中行事の中で、稲荷を祀る初午行事はやらなくなった所も多い一方で、他の行事に比べて形を変えながらも比較的行われている度合いが高いものの一つと言えます。今後とも、市内各地のさまざまな事例を集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志) 

    祭り・行事を訪ねて(28)~正月飾りを燃やす稲荷講~南区下溝・新屋敷地区(平成24年2月)

     市内には集落の神社として、また、一族や個人の家々の神として非常に多くのお稲荷(いなり)さんが祀られており、今回紹介する南区下溝の新屋敷(アラヤシキ)地区にも稲荷社があります。元々はこの稲荷社の敷地は地区内の旧家である福田家の畑の一角にあり、福田家とともにやはり旧家の矢野家一族の守り神でしたが、後には稲荷社の回りも開発されるなど家数も増えたこともあって今では地区全体の神になっています。  各地の稲荷社のお祭りが行われるのが、2月に入って最初の午(ウマ)の日である初午です。新屋敷の稲荷社では、今年(2012年)は初午が3日で金曜日となるため、直後の日曜日である5日の午前中に稲荷講が行われました。福田家や矢野家で祀っていた頃には、初午に各家の中から宿を決めて集まっていたのに対し、現在では稲荷講世話人会と自治会で管理しており、通常の稲荷社の清掃などは平成16年に発足した世話人会が当たり、初午の際の稲荷講は自治会の中の組が毎年当番となって実施する(今年は7組)という形を採っています。  当日は、午前8時30分に7組の方々が稲荷社に集合してテーブルや椅子を出したり、稲荷社の幟旗(のぼりばた)を設置するなどの準備を行いました。ちなみに今の幟旗は二代目で、古い初代のものは京都の伏見稲荷から請けてきたとのことです。また、焚き火を燃やし、9時に稲荷社に全員でお参りして稲荷講が始まりました。ただし、稲荷講といっても特別に改まって何かをするようなことはなく、集まった人々が酒や茶を飲みながら1~2時間の間歓談するだけで、お参りに来た子どもたちにはお菓子などを配ります。その後、焚き火が消える頃に後片付けをして、掛かった経費の精算をして終了となります。

    稲荷の祠(ほこら)
    稲荷の祠(ほこら)

    幟旗の準備
    幟旗の準備

    稲荷社へのお参り
    稲荷社へのお参り

      稲荷の祠(ほこら) 幟旗の準備 稲荷社へのお参り  実は、何の変哲もないように思えるこの行事の中で特徴的なのは、オタキアゲと称して各家の正月のお飾りを燃やしていることで、境内の一角に集められた正月飾りを焚き火にくべてその上に網を置き、赤飯やお神酒とともに稲荷社にお供えされた油揚げやめざしをあぶって食べながら話をします。「祭り・行事を訪ねて」の欄でもたびたび紹介しているように、市内では周辺地域を含めて、正月飾りは正月14日頃を中心に実施されるどんど焼き(団子焼き・セイトバライ)で処理するのが当たり前で、その火で団子を焼いて食べることは現在でも広く行われています。ところが新屋敷では昔からどんど焼きがなく、正月飾りは初午の際に燃やしていて、かつて子どもたちは隣接する堀の内や松原集落のどんど焼き(日之下地蔵横、大正坂下の十字路)に団子を焼きに行き、その際にはよそ者が来たというような目で見られたと言います。

    正月飾りを燃やす
    正月飾りを燃やす

     お飾りを燃やした火で油揚げや めざしをあぶる
    お飾りを燃やした火で油揚げや
    めざしをあぶる

    あぶったものを食べながら 歓談する
    あぶったものを食べながら
    歓談する

     神奈川県内では、2月1日に屋内の正月飾りを下ろし、これを初午の時に稲荷の祠の前でオタキアゲをするという所が各地に点々とあることが知られており(『神奈川県史各論編五 民俗』)、新屋敷もこれに該当するものですが、現在分かっている状況においては市内ではあまりない事例ということができます。他の地区では同様な事例がないか、今後とも注目していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 

    祭り・行事を訪ねて(27)~団子焼きと道祖神~南区上鶴間本町・鵜野森・東大沼

     今年の団子焼き(どんど焼き)では、「祭り・行事を訪ねて(24)・(25)」で記した町田市木曽町境川や南区当麻の原当麻地区のほかにもいくつかの場所を訪れることができました。今回は、その中から道祖神を燃やしたり小屋を作ることと関連するいくつかの地区を取り上げることにします。  南区上鶴間本町の金山神社は「祭り・行事を訪ねて(14)」で紹介した新しい道祖神碑を建立した地区です。新しいものを作ったのは、以前よりあった道祖神碑を、境川地区のようにかつて火の中に投じていて傷みがひどくなったためで、現在では実際に燃やすことはなく、点火前に持ち出して前面に置くだけになっています。この地区で注目されるのは、点火する火種を神社の外側の辻になっている所で付けることで、これは古くはこの場所に道祖神碑があってその前で団子焼きをしていた名残りであり、新旧の道祖神ができて別の位置に移されても火だけは元あった所から持ってきていることが分かります。今年も例年通り、14日(土)の昼過ぎに点火してすぐに団子が焼けるように準備しておき、午後3時前には団子焼きが始まりました。

    かつて道祖神のあった辻で 火をつける
    かつて道祖神のあった辻で
    火をつける

    古い道祖神(右側)の前で 点火する
    古い道祖神(右側)の前で
    点火する

    新しく作られた道祖神碑はそのまま 置かれている
    新しく作られた道祖神碑はそのまま
    置かれている

      同じく道祖神碑を燃やす場に持ってきている地区に大沼があります。大沼では、日取りは異なるものの大沼神社(神社主催で毎年14日に実施)とふれあい広場(自治会主催。今年は8日の日曜日に実施)の二か所で団子焼きが行われており、いずれも点火する際に道祖神を前側に置いています。この2基とも昭和50年代に地元の工務店がそれ以前のものが傷んだために寄付したもので、取り外しができるようになっていて団子焼きに際して移動させられるように作られています(大沼地区には同じ工務店によるものがもう1基あります)。また、大沼ではかつて子どもたちが集落の各家から藁を集めて小屋を作って夜にはオコモリをして遊んでいたとか、昔から大沼では上と下の二か所で団子焼きをしていて、子どもたちが隣りで作った小屋を壊しに来るので外側には棘のあるバラの枝を結んで防いでいた、とのお話しなども聞くことができました。

    道祖神碑が燃やされるものの 中に置かれる
    道祖神碑が燃やされるものの
    中に置かれる

    道祖神は取り外しができる。 (写真は取り外された状態)
    道祖神は取り外しができる。
    (写真は取り外された状態)

    点火直前に少し離れた 場所に移動
    点火直前に少し離れた
    場所に移動

     今年は8日の日曜日に行ったところが多かった中で、9日(祝)の成人の日に実施した地区の一つが鵜野森自治会です。鵜野森では午後1時が点火の時間で、その10分ほど前に役員が会場となる子ども広場から少し離れた所にある道祖神碑に向かいます。そして、道祖神の前で天眼鏡を使って太陽の光で半紙に火をつけて、その火で灯明を灯して、道祖神に供えてみなで拝んだ後に、さらに油を掛けたお飾りに火を移して会場に運んで点火をしました。こうした行為もかつては道祖神の前で団子焼きを行っていたことを示しています。ここでは正月飾りが燃え盛る火で団子を焼く人々がいる一方で、バーベキューをするような施設が一角に作られており、そこに炭のようになった火を入れて子どもたちが危なくないようにして団子を焼く微笑ましい様子なども見られました。  今回取り上げたのは、今年行われた行事の中でもかつての様相の一端を残すものですが、もちろん市内では古くからあまり変化していないところや大きく変わったもののほか、新しく始まった地区もあります。これからも正月14日前後の一年に一度行なわれるこの行事について、なるべく多くの事例を調べ、報告していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

    道祖神の前で点火
    道祖神の前で点火

    お飾りに火を移す
    お飾りに火を移す

    火を移したお飾りを会場まで運び点火
    火を移したお飾りを会場まで運び点火

    祭り・行事を訪ねて(26)~「道祖神の小屋」作り②~南区古淵地区

     前回の「祭り・行事を訪ねて(25)」で紹介した原当麻地区と同様に、「道祖神の小屋」を作っているところに古淵地区があります。古淵の団子焼きは、地域の鎮守である鹿島神社境内裏手を会場として、例年、曜日に関係なく14日に点火となっており、自治会などとは関係なく古くから住んでいる人たちを中心に行われています。  準備は、当日の午後に、神社役員が木で枠組みを立てて藁で小屋状のものを作り、7日を過ぎると各家から神社の境内の一角に出されるお飾りやお札などを内側に詰めていきます。この藁の小屋は「道祖神のお宮」などと言われますが、特に中に道祖神があるわけではなく、そもそもこの地区には道祖神碑は見あたりません。また、小屋の隣りには、毎年その場所を使っている少しくぼんだ所があり、ここにはたくさんの枯れ枝などの木の枝を積み上げるほか、お飾りなどが置かれることもあります(こちらのものは特に名称はありません)。

    道祖神のお宮 道祖神の小屋の奥に別に燃やすものが見える  あたりが暗くなった午後5時頃が点火の時間で、先に小さな道祖神のお宮に火をつけ、燃えているお宮の火を移すようにして大きな枝を積んだ方も燃やします。点火直後はあまり人もいないものの、次第に団子を三つ又に挿した木の枝を持った人々が集まってきて団子を焼き出します。ここでは団子は各家で作ったものを持参し、かつては団子焼きはお蚕さんのお祭りで、そのために団子を繭の形にしたとのお話を伺いました。そして、なかには焼いた団子を、その場で隣りの人が焼いたものと取り替える「トッケエ団子」をしている様子を見ることができました。このような焼いた団子を交換することは、かつては各地で行われていたことが分かっており、特に前年に蚕が良い繭を作った家の団子を欲しがったとの話もありますが、現在、実際にトッケエ団子を行っている地区はほとんどないようです。

    先に道祖神の小屋を燃やす 団子焼きの奥で、少し遅れて 大きなものにも点火する。 トッケエ団子で、焼いた団子を取り替える  原当麻では、作った藁の小屋をそのまま数日間置いてから燃やすのに対して、ここでは石の道祖神碑がないのにもかかわらず「道祖神のお宮」と呼ばれるものを当日に作ってすぐ燃やしてしまうことや、道祖神のお宮とは別に大きな燃やすものを作っていることが特徴です。また、「祭り・行事を訪ねて(24)」で触れた境川対岸の町田市木曽町の境川地区でもかつては藁の小屋を作っていたとの伝承があるなど、境川を挟んだ両者の関係も注目されます。いずれにしても古淵地区の団子焼きは、市内の中でも古い様相を残しているものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(25)~「道祖神の小屋」作り①~南区原当麻地区

     前回の「祭り・行事を訪ねて(24)」で紹介した道祖神石碑を焼くことと並んで、どんど焼き行事の中で現在でも行われている特徴的なものとして「道祖神の小屋」を作ることがあります。これは道祖神やその他の石仏を覆ったり、その近くに藁で小屋状のものを作ることで、かつて作ったとする伝承は各地にありますが今でも田名や当麻の一部の集落や古淵などでは見ることができます。ここでは、今年(2012年)の当麻・原当麻地区の状況を紹介します。

    道祖神の前にお仮屋を作る(9日)  原当麻では、団子焼き・どんど焼き・セイトバライなどと呼ばれるこの行事を近年では成人の日としてきたのに対し、今年は本来の当たり日が土曜日になったため14日(土)に行いました。ただ、その前の9日の成人の日の午前中に地域の氏神である浅間神社の世話人が集まり、道祖神の前に各家から出された正月飾りを使ってお仮屋という小屋を作り、また、浅間神社の奥側の広くなった場所(浅間神社の元宮があった所)に木の枝やお飾りを円錐形に積んでいきます。お仮屋は長さが約六尺(約1m80cm)で出されたお飾りの中から神棚に供えてあったものを使って作り、屋根には両側に太い注連縄(しめなわ)を海老のように曲げて立派に飾ります。元は神社の前側を出た、県道の端に道祖神の石碑があってお仮屋もこの場所に作っており、道祖神を現在地に移してからはお仮屋の場所も同様に移っています。  点火は14日の午前8時で、市内でも相模川に沿った南部地域や津久井地域の一部などでは、昔から朝方に火を付けたとする地区があり、原当麻もこうした所になります。実は今から10年ほど前の2004年にもこの地区に展示の関係で訪れたことがあり、その際には朝7時に点火で、かつてはさらに前の6時だったということでした。こんなに早くては子どもが団子を焼きに来られないということで、今回は8時に点火ということとしたそうです。点火すると木立の中でかなり火が燃え上がり、そのうち親子連れを中心に、地区の人々が三つ又の枝に団子を付けたものを持って集まってきて団子を焼き始めます。中には「奉納道祖神」と書いた書初めを枝に付けている人もいて、書初めを火に近づけるとあっという間に半紙が燃え上がります。焼いた団子を食べると風邪をひかないとされるとともに、書初めが高く上がると字が上達すると言われています。

    朝方に点火する(14日) 書初めを団子の枝につけて燃やす人 団子焼き  ここで注目されるのは、しばらくすると道祖神の前に作られていたお仮屋を運んできて火に投じて燃やしてしまうことで、この地区のお仮屋が姿を見せるのは一年間のうちのわずか数日間だけで、どのような形のものかを実際に確かめるにはこの間に来て見るしかないということです。同じ当麻地区の中でも昭和橋に近い中・下宿では、団子焼きの前に作った小屋を燃やすことはせずに来年までそのまま置いています。また、かつては大きな小屋を作り、子どもたちがその中に入って夜中遊んでいたとの伝承も残っています。「道祖神の小屋」にも地区によってさまざまな形態があり、変遷も見られたことがわかります(民俗担当 加藤隆志)。

    途中でお仮屋を運ぶ お仮屋を火に投じて燃やす 中・下宿では、1年中置いておく。 左は地神塔 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~町田市木曽町境川地区

     今年(2012年)も正月8日から15日にかけて、団子焼き(どんど焼き)の行事が賑やかに行われ、私もできるだけ各地を回り、多くの行事の様子を見せていただきました。その中には大変特徴的なことを行っている地区がありますので、この欄でいくつかの地区の状況を報告したいと思います。  かつてのこの行事では、各家の正月飾りとともに地域で祀る道祖神の石碑を実際に燃やしてしまったとの伝承が残されており、「祭り・行事を訪ねて(14)」でも少し触れましたが、市内でもいくつかの地区でこうした話を聞くことができます。これは現在ではほとんど無くなっていますが、南区古淵地区の境川を挟んだすぐ対岸の町田市木曽町の境川地区では現在でも道祖神の石碑を燃やしています。ここには正面に「道祖神」と刻まれ、文化5年(1808)7月の銘がある石碑「セイノカミと呼ばれていました」が祀られていて、近年までこの石を燃やしていました。しかし、毎年のことなので傷みがひどく、現在は平成20年(2008)に新しく造られたものを燃やしており、以前のものはどんど焼きを行う八坂神社の境内に祀られています。

    どんど焼きが行なわれる八坂神社 八坂神社の境内に祀られている古い「道祖神」  今年の境川地区のどんど焼き(かつては「団子焼き」と言った)は、年が改まってすぐの1月8日(日)に行われました。当日は午前中に境川自治会と隣りの中原自治会の皆様が集まって準備に取り掛かりました。中原自治会が加わったのは今年からで、正月のお飾りをゴミとして出していたのに対しどんど焼きをやりたいとの希望があり、普段から会合などをともに行っている境川自治会と一緒にやることになったとのことです。  準備では、まず三つ又の枝作りから始まり、燃やすお飾りを積み上げて円錐形に作ることや集まってくる人々に配る団子を作ることと並んで、いつも置かれている路傍の祠から道祖神の石碑を運んできて燃やすものの前に数メートル離して置き、両者を注連縄(しめなわ)で結んでこれにも各家から出されたお飾りを下げていきます。

    道祖神の飾りつけ 円錐形に積み上げたお飾りから道祖神までつなげる  点火は午後1時で、辰年生まれの今年の年男と年女が道祖神のところに火を付け、この火を注連縄や大きい方にも移して燃やします。後は火勢が弱まって熾きが出来たら、集まった人はそれぞれ配られた三つ又の枝に3個挿した団子を焼き、焼けたものはその場で食べたり持ち帰ったりします。点火して一時間ほど経つと燃やした道祖神を一輪車に乗せて元の場所に戻しに行き、また来年まで同じ場所に祀られることになります。

    道祖神のところから点火 団子焼き 道祖神を元の場所に戻す  この行事は以前は田の中とか、40年ほど前には道祖神の石碑の前で行われていたといい、今は自治会の主催なのに対してかつては子どもたちの行事でした。また、当時は子どもたちが麦わらを農家から集めて小屋を作ったりしたというお話しも伺いました。注目されるのは境川対岸の古淵地区では今でも道祖神の小屋が作られており、この小屋を14日に燃やしています。今回紹介したのは相模原ではなく町田市の事例ですが、古くは各地で行われていたと考えられる道祖神の石碑を実際に燃やすということが現在も行われているとともに、相模原の民俗を捉える意味においても市内に隣接する地域の事例として大変重要なものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(23)~正月飾りを作る~緑区根小屋地区

     かつて農家が数多くあった時代には、正月を迎えるに当たり、玄関などさまざまな所に飾る正月飾りを各家で作っていました。現在ではこうした自家製のお飾りを見かけることはほとんど無くなってしまいましたが、たまたま昨年(平成23年)の暮に、久しぶりにお飾り作りを見させていただくことができました。

    お飾りを作る菊地原さん  緑区根小屋地区の菊地原稔さんは今でも毎年お飾りを作られています。ちなみに当家は「祭り・行事を訪ねて(6)」の繭玉団子作りでも紹介しており、この他の古くからの年中行事も行っておられます。2011年のお飾り作りは12月30日の午前中に行われました。普通、このようなお飾りは、29日や一夜飾りはいけないとして31日に作るのは忌まれることが多いのですが、当家では昔から30日に山に材料とする榊(さかき)を取りに行って、31日に作っていました(これからは大晦日は忙しいので30日に作るとのことです)。この地区では正月飾りに榊と松を使う家が半々だったとのことです。  まず最初に作ったのが神棚用のものです。榊に藁(わら)で編んだ飾りを巻きつけ、真ん中にはユズリハとウラジロ・ダイダイ、裏側には折った半紙を取り付けます。ユズリハなどは買い、縛るのには水引を使います。神棚の中には大神宮・年神・水神などのお札があり、新しいものを入れます。通常は新しいお札を飾ると古いものは取り出して14日などの団子焼きで燃やしてしまうのに対し、当家では古いものも片付けないで溜めておきます。次に、家の中の十畳間の神棚に近い方の鴨居に付ける長い注連縄(しめなわ)を作ります。これは藁で縄をなってつなげて下のハカマの部分を出したものです。藁は上側の縄にするところだけを叩き、「ゾベになえ」と言って荒っぽく、普段とは違って左縄になっていきます。向かって左から七五三にハカマを出し、七と五の間に半紙を折ったものを差し込みます。

    神棚のお飾り 十畳間の注連縄  屋敷の入口のジョウグチの所には両側に榊を2本立てます。菊地原さんが子どもの頃には庭に4本の榊を立てて、それを囲うように注連縄を付けたものを作っていて、庭が子どもの遊び場だったのでそれが嫌だったこともあり、今では庭の榊はやめてジョウグチに杭を打って榊を結び付け、お飾りと半紙を水引で縛ります。最後に、ジョウグチ用の飾りよりも細いお飾りを榊に結んでやはり折った半紙を挟みこんだものを、納屋・倉庫・倉・穀倉(かつて穀物を貯蔵した建物)・稲荷二つに飾ってこの日の作業は終了しました。また、前日の29日には、屋敷の上側の道沿いにある当家で管理している地蔵様の掃除やお飾りをしたそうです。  これらの正月飾りは正月7日の朝にお神酒(みき)を供えた後に下ろして、団子焼きの場所に持っていくことになります。なお、市内では正月飾りとして、「年神棚(トシガミダナ)」という正月に訪れる神のための棚を作ることがよくありますが当家では作っていません。  菊地原さんによると、おそらくこの年に正月飾りを作ったのは近所に一軒もないとのことで、古くからのこうした行事を行い、伝えていきたいと仰られています。これからも多くの行事を見せていただき、機会を捉えてこの欄でも紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

    ジョウグチのお飾り 建物にお飾りを付ける 年神棚(上九沢・2012年)ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(22)~当麻・三嶋神社のナマスマチ

     南区当麻の芹沢集落は、時宗の開祖である一遍上人ゆかりの無量光寺の東側に位置し、やはり一遍によって建立されたと伝える三嶋神社を祀っています。そして、かつては11月15日に、現在ではその付近の土曜日に行われている三島神社の祭礼の「ナマスマチ」は、これから紹介するように非常に特徴ある内容が現在でも見られます。  この祭礼では、大根を薄く削り、酢と砂糖で味付けをしたナマスが参加者に出されることからナマスマチと呼ばれており、ナマスの上には、これも酢と砂糖を効かせたナマスノコと呼ぶマグロのブツを二切れくらい乗せます。さらに、ナマスとともに一人ひとりに付くのが、鯖と大根・里芋を醤油と砂糖の味付けで煮たもので、これらを一皿に盛り合わせます。氏子がみな農家だった時代には大根とともに里芋も5個ずつ持ち寄ることになっていたと言います。こうした料理を食べる箸は、祭礼当日に神社裏手の細い篠竹を伐り出して作ります。ナマスなどは参列者が食べるだけで特に神前に供えたりすることはなく、かつては料理の準備など全部男によって担われていましたが、今では女性も加わって行われています。

    専用のカンナでナマス用 の大根を削る (2011年撮影) 篠竹で作られた箸 (2011年撮影) ナマスノコが乗せられたナマス(左手前) と鯖・大根・里芋の煮物(右手前)が 一人ずつ出される(2007年撮影)

    神官と住職が並んで座る (2007年撮影)  ナマスの用意などの諸準備を午前中に行い、午後1時からいよいよ祭りが始まります。ここで目に付くのは神官とともに無量光寺の住職が並んで座ることで、祭式ではまず神官による祝詞の奏上の後、住職による般若心経(はんにゃしんきょう)の読経がなされ、玉串奉奠(たまぐしほてん)となります(玉串奉奠は住職も行います)。当麻地区では、「祭り・行事を訪ねて(16)」で紹介した市場・宿・谷原集落の天王祭(てんのうまつり)でも神輿に対して無量光寺の住職が読経をするなど、神社の祭礼に対しても無量光寺が関わりを持っていることが分かります。そして、一連の祭式が終了すると、神前にお供えしてあったお神酒を下ろし、机を挟んで氏子が座っている両側の下座から上に向かって酒をついでいき、役員の発声で乾杯をしてナマスや鯖の煮付けなどを篠竹の箸で食べながらの歓談となります。

    年番の引継ぎ 新旧の年番が盃で酒を飲む (2007年撮影)  しばらくすると神官と住職は退席し、それから年番(ナマスマチなど神社関係の仕事をする一年交代の役)の引継ぎが行われます。新旧の年番が自治会長と宮世話人の立会いの下に、それぞれ盃で酒を飲んで引継ぎとなります。実際には翌年の三月末(年度末)まで年番の任期があるものの、昔はナマスマチの時に変わっていたことの名残りではないかと言われます。この後、しばらくの間は飲食が続き、翌日は朝から片付けをした後、ハチアライといって残ったナマスや神前に供えられていたアジを焼いたものなどを肴に一杯飲み、やはり供えられていた鏡餅なども小さく切って出されます。  祭りの時にナマスをはじめ鯖と大根・里芋の煮物を作って食べることは、周辺の集落には見られず大変に珍しいものです。また、江戸時代までの神仏混交の様相を残す神官と住職の同席や、年番の引継ぎを盃事として行うなど特徴ある要素も保たれ、市域のさまざまな祭りの中でも特に注目されるものの一つと言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(21)~相原地区の秋葉信仰

     私たちが日々の生活をしていくに当たってはいろいろな心配事があり、火災もそのうちの一つです。一度火事になれば、自分の家ばかりか近所が燃えてしまうことも起こりかねません。こうした火事にならないように祈る神仏や行事が市内各所で見られ、現在でも行われている地区があります。今回は緑区相原に残る二つの行事を紹介します。  相原・森下の大門講中は「祭り・行事を訪ねて(10)」で榛名講を紹介した地区で、春の雹除け(ひょうよけ)としての榛名講に対して秋には秋葉講が行われています。秋葉神社は静岡県の天竜川上流にあるものを本社とし、火災除けの神として市内でも広く祀られてきました。  今年(2011年)の大門地区の秋葉講は、11月13日(日)の午後7時から近所の料理屋を会場に会費制で行われました。正面には秋葉神社の掛け軸と、隣りには地区内にある華厳院(けぞういん)から出されたお札が竹に挟んで置かれています。当日の参加者は11名の方で、まず春からの自治会や神社に関わる報告などがあり、その後は宴席に移りました。華厳院のお札は、秋葉講が終わってから後で述べる灯籠の所に持っていって立てます。かつての大門地区の秋葉講は、保管されている帳面によると10月17日に3軒ある当番のうちの1軒に集まり、各家から白米と菜代のお金を集めて行われていたようです。

    会場正面に飾られた掛け軸とお札 講中に残る秋葉講の帳面 宴席の様子

    秋葉山常夜灯当番の 順番が書かれた板  大門講中も含まれる森下地区にはもう一つ、秋葉信仰に係わる行事が見られます。森下自治会館の向かい側にはいくつかの石仏が並んでいてその中の一つに「常夜塔」と記された灯籠があり(現在は旧塔が壊れたため再建されたもの)、先に述べた大門講中の秋葉講のお札のほか、春の榛名講のお札も講の終了後には灯籠の所に立てられます。  そして、森下では地区全体の古くからある家々に「秋葉山常夜灯当番順番氏名」と書かれた板が順番に回っており、板が回ってきた家では、夕方暗くなってからこの灯籠にろうそくを点しに行きます。板に書いてある順に各家を回っていき、来るとすぐに行って翌日には次の家に送るのを基本に、場合によってはしばらく置いておいたりとその家の都合でいろいろあるとのことです。また、板は平成13年1月吉日に作り直されたもので、両面に86名が書かれていますが今は実際に灯籠に火を付けに行っている家は70数軒ほどと言います。

    灯籠のろうそくに火を灯す 今回は阿部幸子さんに お世話になりました  こうした秋葉信仰に関わる行事は、以前は各地にあったことが報告されているものの今では非常に珍しくなっています。相原地区のこれらの行事も長く続いていって欲しいものです(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(20)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~五部会

    山車の清掃  上溝の五部会は現在の元町・田中・本久の三自治会の範囲で、古くから地域の結びつきが強く、オテンノウサマの神輿や山車も一緒に所有していたと言われています。ちなみに、五部会の神輿は文化六年(1807)に半原(愛川町)の大工が作ったもので、現在上溝に残っている神輿としてはもっとも古いもので(昭和57年[1982]に大修理)、山車は明治10年(1877)作と伝えられています。  五部会では、7月1日は道切りのシメ縄張りとともに太鼓開きで、この日からお囃子の練習が各地区持ち回りで行われます。また、上溝地区の各自治会では祭り本番(本宮)の前日の宵宮に神輿へのミタマ入れとなりますが、ここ五部会では宵宮の前日(2011年は22日[金])に朝から三自治会の大勢の方が集まって神輿や山車の準備を行うほか、上溝の通りに面したところにお仮屋を設営します。そして、午後3時からお仮屋に安置された神輿に亀が池八幡宮の神官によってミタマ入れがなされました(本町自治会もこの日にミタマ入れとなります)。

    神輿の飾りつけ お仮屋の設置 お仮屋に安置された神輿  五部会で注目されるのは、本宮の神輿の氏子回りに際して最初に亀が池八幡宮に行く点です。かつては上溝の各集落の神輿は本宮の昼過ぎに神社に集まってお祓いを受けてから地区に戻って氏子回りとなり、その後、上溝の本通りに出て夜遅くまでにぎやかに担ぎましたが、現在はすべての神輿が神社に向かうわけではなく、五部会と丸崎・虹吹地区の神輿が亀が池八幡宮でお祓いを受けています。

    神輿出発前の手締め  自治会の範囲が広い五部会では、神輿がお仮屋を出発したのは今年(2011年)は午前8時30分で、大当番(五部会長)の挨拶や乾杯、神輿連会長の手締めなどの後に堂々と担ぎ出された神輿は、相模線の線路などを越しながらまず亀が池八幡宮に向います。神社では大人の神輿・子ども神輿ともに鳥居から境内に入り(山車は外で待つ)、ひとしきり揉んだ後に社殿の前に置いて役員一同が宮司からお祓いを受け、それから五部会の自治会の範囲を本久から田中、元町の順に氏子回りを行います。途中、高齢者福祉施設などに寄ってお囃子や神輿振りを披露し、ひと時の間、祭りの雰囲気を高齢者の方にも楽しんでいただくといった微笑ましい様子も眼にすることができました。氏子回りが終わると他の地区とともに街中に集合し、勇壮な神輿の渡御と山車の巡行が繰り広げられることとなります。

    相模線ガード下をくぐる神輿 社殿前に置かれた神輿 宮司のお祓いを受ける  現在の「上溝夏祭り」は、以前のオテンノウサマの祭礼を基に時代によって移り変わってきたことは間違いありません。それでも五部会の神輿が神社に向うことは、この祭りのかつての様相の一端を知る上で重要な意味を示しています。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(19)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会

     本町自治会のシメ縄張りで取り上げたように、祭りの準備は7月1日から行われる所が多く、神輿の渡御(とぎょ)と山車の巡行をする本宮(2011年は24日[日])の前日の宵宮(2011年は23日[土])には、自治会ごとにお仮屋を設置して神輿を安置します。  それぞれのお仮屋に亀が池八幡宮の神官が回って神輿のお祓いとミタマ入れをしていきますが、本町自治会と五部会(元町・田中・本久自治会の範囲)では、宵宮の前日の金曜日に別にミタマ入れが行われています。  本町ではこの日ではなく事前にシメ縄を張った横にお仮屋を作っておき、当日は神輿や山車の準備をして神官が来るのを待ちます。午後4時から自治会長や役員が並ぶ中で神輿のミタマ入れが厳かに行われ、これ以降は神様が神輿に宿っているため、祭りが終了してミタマが抜かれるまではたとえ深夜であっても、誰かが神輿のそばにいて番をします。また、お仮屋の所は場所が狭いこともあり、ミタマ入れが終わると本町の山車は少し離れた場所に移動していき、ここで宵宮を待つことになります。そして、宵宮の夕方から夜にかけて、上溝の駅前通りなどを歩行者天国にして山車の巡行が行われ、各地区の山車が集まって来てにぎやかにお囃子が奏でられます。なお、本町自治会の山車は明治40年(1907)に八王子市横山町から譲り受けたものともいわれ、元は二階部分があり、その上に豪華な天照大神の人形が乗った人形山車であったことが大正初期頃の写真によって確認できます(『相模原市史民俗編』334頁)。

    宵宮前日に行われるミタマ入れ 本町自治会の神輿 本町自治会の山車 (古くは人形山車だった)

    神輿は時として左右に大きく振られる  祭り本番の本宮には各自治会で神輿が「氏子回り」をします。大きな提灯や幣束を先頭に、神輿(子ども神輿が後ろに付く)と山車が氏子の範囲を回るもので、本町自治会では午前10時45分出発で氏子回りを行い、神輿は途中、幾度となく左右に大きく振られ、一層勇壮な姿を見せます。かつての神輿は「走り神輿」でワッショイ、ワッショイと声を掛けながら走るように通りを往復したとのお話しも伺いました。本町自治会の神輿は文久元年(1861)に寒川村の神輿を移籍したと伝えられています(昭和61年[1986]に大改修を実施)。  夕方までに上溝の各地区の神輿は氏子回りを終え、いよいよ20基以上の神輿(こども神輿を含む)と8台ほどの山車がすべてメイン会場に集まり、各神輿が激しく揉み合い、祭りは最高潮に達します。薄暗くなると神輿にはたくさんの提灯が装着され、より一層華やかさが増すかのようです。相模原市を代表する祭りの一つである「上溝の夏祭り」は、今後とも多くの人々の思いを受けて盛大に行われていくことでしょう。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(18)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会のシメ縄張り

     毎年、7月下旬の土日に行われている「上溝夏祭り」は県北最大の夏祭りの一つであり、30~40万人もの人出を数える相模原市を代表する観光行事です。また、江戸時代後期の神輿が何基か残されていることから、この頃にはすでに、祭りがある程度盛大に行われていたと考えられています。古くは祭りのことをオテンノウサマといい、祭り自体や神輿そのものをオテンノウサマと呼ぶことが今でもありますが、現在は相模原市の祭りとして「上溝夏祭り」が正式の名称となっています。今年(2011年)の上溝夏祭りは7月23日(土)と24日(日)に、例年のようににぎやかに実施されました。  神輿の渡御(とぎょ)や山車の巡行が行われる本番を前にして、上溝の多くの自治会では7月1日から祭りの準備に取り掛かります。  まず朝には長い竹を伐り出し、自治会館の前や自治会の境などにシメ縄を張った二本の竹を立てます。これを「シメ張り」といい、道切りとして集落に悪い病気が入ってこないように立てるとされています。ここに掲げた写真は今年の本町自治会のシメ張りの様子で、長さは約7m、8人掛かりで1時間30分ほどで完成しました。かつては集落境に、隣りの集落同士が競うようにシメ張りをしたものの今では少なくなり、本町では上溝商店街の駐車場の所(この奥に自治会館や本町でお祀りしている不動堂と大鷲神社などがあります)の1か所だけになったとのことです。

    竹に縄を結びつけている様子 シメ縄を張った竹を立てる様子 駐車場入口に張られたシメ縄  また、1日は「太鼓開き」の日でもあり、この日から祭りの際に山車に乗るお囃子の練習を始める自治会が見られます。本町では、2日から自治会館において祭り当日までの数日間、夜の7時から9時にかけて保存会の会員によるお囃子の練習が行われました。  かつて上溝の中でも久保と番田集落では神輿がないばかりか担いではいけないとも言われ、オテンノウサマを行いませんでした。しかし、現在の「上溝夏祭り」はそんなこともなくなり、上溝の地区全体が加わる祭礼として賑わいを見せています。車の通行を止めた中を実に勇壮に担がれる神輿や賑やかにお囃子の音を奏す山車があまりにも有名ですが、このシメ縄張りのように、地域のお祭りにはさまざまな準備がなされ、多くの人々の協力があって行われていることが分かります。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(17)~相模川の帆掛け舟の再現~磯部民俗資料保存会の活動

    現在では、大きな川というと橋が架けられ、そこで車が渋滞する交通をさえぎるものと捉えられがちです。しかし、今から八十年ほど前の昭和初期までは、相模川でも船を使って盛んに上流と下流を結ぶ物資の運搬が行われ、上流の津久井方面からは薪や炭などの山の産物が、下流の河口部からは米や肥料・日用雑貨などが運ばれ、また、砂利の運搬にも活用されるなど、地域の人々の生活において重要な役割を果たしていました。  荷物を船で運ぶには、上流から下るのは川の流れにそのまま乗れば良いのに対し、問題は下流からあがってくる場合です。この時に大切だったのが帆であり、特に春から夏にかけて吹く南風を帆一杯に受けて川を遡れば、河口部の須賀(平塚市)から緑区の小倉まで半日ほどで行くこともできたと言います。ただ、それも風があればで、風が吹かなければ船に縄を掛けて人間が引っ張り上げ、どうしても船が川岸に寄ってきてしまうために、一人が棒で船を押すなどして数日かかって上げてきたというような話も残されています。

    かつて見つかった帆  今では、すっかりなくなってしまったかに見える帆掛けの技術を、今でも伝えているのが南区の磯部民俗資料保存会です。この会は地元に残るさまざまな民具やその他の資料を集め、後世に引き継いでいくことを目的に地域の皆様によって昭和53年(1978)に結成されました。その後、明治頃に使われていた高さ約5mの帆が見つかり、帆掛け船の船頭経験者の方に紐の結び方など、技術の指導を受けて帆掛け船を復元しました。そして、昭和61年からは実際に相模川に帆掛け船(船はかつての物資運搬用のものがないので別の船で代用)を浮かべており、近年では毎年8月第一日曜日に「帆掛け船復元実演会」を開催し、その技術を披露するとともに、希望者は帆掛け船に伴走する船に乗船するなど、夏の風物詩として親しまれています。  今年(2011)も8月7日(日)に磯部頭首工の上流付近で実演会が行われ、多くの見学者が訪れました。船の走行には4~5mほどの風速が最適とされていますが、今回は吹く風が今一つ弱かったものの、それでも帆に風を一杯に受けて上流に向けて進む興味深い姿を見ることができました。

    帆掛けの準備 相模川を遡る帆掛け舟  磯部民俗資料保存会の皆様の長年に渡る活動は、大変貴重なものであることは言うまでもありません。今後とも、相模川と人々の関係のあり方の一端を示す帆掛けの技術が長く伝えられることを願わずにはいられません。(民俗担当 加藤隆志) *保存会では、収集した資料を磯部民俗資料館で公開しています。   磯部民俗資料館  場所:相模原市南区磯部295番地               開館日・開館時間:基本的には12月29日から1月7日を除く土・日曜日の午前10時~午後3時開館 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ(平成23年7月)

     7月中旬から8月にかけて、市内各地ではオテンノウサマ(お天王様・天王祭)と称される夏祭りが行われています。この祭りは神輿とともにお囃子が乗った山車が一緒に引き回されるなど、華やかでにぎやかなものであり、祭りの熱気で病気を追い払うとともに暑い夏を乗り切り、また、今では地域の結束を高めるためにも大切な行事の一つとなっています。市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」が有名ですが、ここでは当麻地区の市場・宿・谷原集落の天王祭を紹介します。  当麻のオテンノウサマはかつては7月19・20日、現在はその近くの土日に行われます。今年は16・ 17日で、当麻だけに限らず特に旧市域では上溝の夏祭りを避けてその一週間前に実施することが多いようです。16日の午後に、この地区の鎮守である天満宮で祭典を行います。この時は、神社に集まった役員やお囃子の子どもたちなどが並ぶ中、亀が池八幡宮の神官が大きな神輿と実際に担ぐ子ども神輿をお払いし、大きな神輿にはミタマを入れます。

    オテンノウサマの神輿 平成23年7月16日撮影 神官による神輿のお払い 神輿にミタマを入れる ミタマが参列者の眼に触れないように、ミタマを持った神官の周りを年番が布で囲う。

    無量光寺住職による読経  また、注目されるのは神官とともに地元の無量光寺の住職も立ち会うことで、神主の祝詞(のりと)の後に神輿に読経(どきょう)します。昔は神輿は無量光寺にあったといわれ、神輿の氏子回りが終わった最後には寺へ寄っていたのが無くなったため、今は最初にやっているとのことです。当麻では、例えば芹沢地区の三島神社のナマスマチと呼ばれる祭礼にも神主とともに住職が参加し、緑区の青山神社で神輿が地域を回る途中に光明寺の住職が読経するなど、いくつかの地域で同様のことがあり、以前の神仏習合の状況を見ることができます。

    お仮屋に移される神輿  ミタマ入れが済んだ神輿はトラックに載せられ、お囃子が乗るハナグルマ(山車は明治期に火災で焼失)とともに近くに作られたお仮屋に運ばれます。神輿はここに一晩安置され、そして、翌日の午後に神事を行って神輿とハナグルマの氏子回りが始まります。昭和30年代中頃までは神輿を実際に担いでいたものの、交通量が激しくなったこともあって担がなくなり、子ども神輿だけになっています。それでも途中に四か所ほどあるお旅所(神輿等が休むところ)のうちの一か所は相模川のそばで、これは浜降りと言ってかつては神輿が川に入ったことのなごりとのことです。この後、氏子の範囲を回り終わった神輿とハナグルマは夕方に天満宮まで戻り、神輿からミタマを移して祭りは終了します。  天王祭は各地域で祀られている神社の例大祭とは別に行われていることも多く、盛んに神輿が担がれ、山車などが出ることが特徴で、祭りの名称のほかに神輿自体のこともオテンノウサマと呼ぶことがあります。いずれにしても神輿や山車を伴い、夏場に盛大に行われている天王祭は市域を代表する祭礼ということができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(15)~相模原を代表する民俗芸能~三匹獅子舞

     これから真夏の季節を迎える中、そのさなかの8月中旬から9月初頭にかけて、暑さを吹き飛ばすかのように行われている民俗芸能が獅子舞です。市内では緑区鳥屋・諏訪神社、緑区下九沢・御嶽神社、緑区大島・諏訪明神、中央区田名八幡宮の4か所で各神社の祭礼に併せて行われ、いずれも県の無形民俗文化財あるいは市の無形民俗文化財に指定・登録されています。このほかに中央区矢部の村富神社には、実際に踊ることはないものの三つの古い獅子頭が保管されています(文化三年[1806]の銘があり、市指定有形民俗文化財です)。

    鳥屋の獅子舞(ヤマガラ) 獅子舞当日には多くの万灯もでる。(鳥屋)

    下九沢の獅子舞(ブッソロイ) 大島の獅子舞(行進) 獅子の他、右から2番目にいる鬼も見えている 田名の獅子舞(雌獅子隠し)  日本各地で見られる獅子舞は、大きくは一頭の獅子頭を一人の舞手が被る「一人立ち」と二人が入って担当する「二人立ち」に分けられます。市内の獅子舞は前者のもので、これは東日本を中心に分布しており、特に三匹の獅子を中心に構成される「一人立ち三匹獅子舞」の形態に分類されます。そして、三匹獅子舞が分布する地域は、その大半が福島、新潟を北端として栃木、群馬、茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川の各県の、中部・東北南部から関東地方で占められており、神奈川県では他に横浜市や川崎市にあるほかは、相模原市や愛川町三増より南側では行われていません(例えば、箱根町の宮城野や仙石原で行われている「湯立獅子舞」などは別の系統のものです)。つまり相模原の三匹獅子舞は、県内のみならず日本における南限に位置付けられることになり、こうした点からも注目される民俗芸能と言うことができます。  実際の獅子舞では、三匹の獅子のほかに岡崎や天狗などが付いて一緒に踊ったり、唄が歌われたりとさまざまに行われており、それぞれの場所により共通する点や特徴的なところも見られます。各地区の獅子舞を巡る歴史や注目される伝承については、『相模原市史民俗編』をはじめ教育委員会が刊行した獅子舞の報告書に記されていますが、それらを参考として是非、皆様も一度訪れて見学されてみたらいかがでしょうか。祭礼の華やいだ雰囲気とともに、きっと地域の人々によって伝えられてきた獅子舞に触れて楽しく思い出に残る夏の1日を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。  *毎年の各神社での獅子舞の日時は変更されることがあります。必ずご確認の上、お出かけください。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(14)~新たに作られた道祖神 南区上鶴間本町・金山神社~(平成23年4月)

     町田駅から境川を左手に見ながら南に向かって進むと、10分ほどで金山神社に到着します。金山神社は上鶴間・谷口地区の中でも第一町内(竹之内講中)の鎮守で、境内には八坂神社や第六天のお宮なども祀られています。そして、この神社の一角に、新たな道祖神がお目見えすることとなりました。  石造の道祖神は市内各地で確認され、この地のものは一つの石に二神が彫られた「双体道祖神」で、かつて調査された際の銘文からは寛政11年(1799)に造られたものであることが分かります。しかし、今ではこの像の傷みがひどく、二神のお姿もはっきりとしない状況になってしまいました。そこで、この機会に新しい道祖神を造立しようという機運が盛り上がり、今年(2011年)4月29日に神官や地域の代表の人々の立会いの下に無事にお披露目(遷座式)が行われたのです。 新旧の道祖神 遷座式の様子 新旧の道祖神(向かって右が地神塔) 遷座式の様子  実はこの道祖神が損傷しているのには理由が考えられます。市内では、現在でも正月14日を中心とした日に団子焼きの行事が盛んに行われていますが、いくつかの場所では道祖神石碑の前で行っていたり、わざわざ道祖神を燃やすところに移す(南区大沼など)、燃やす前に道祖神に挨拶に行く(緑区千木良中央など)ことが見られます。金山神社の団子焼きでも、神社境内に移す前に道祖神があったとされる少し離れた場所で点火してそこからの火種で団子焼きをし、また、燃やすところの前に道祖神を持ってくることが行われており、そればかりか以前には道祖神そのものをこの火にしばらく燃やしてしまい、熱いので竹で引っ掛けて取り出したとの話も聞かれます。道祖神やその近くに置かれた石を一緒に燃やしたとする伝承は神奈川県各地にもあり、金山神社では古くから行われてきた団子焼きの形式を今に伝えている貴重な事例と言うことができます。 団子焼きの準備 かつて道祖神があった場所の前で点火 団子焼きの準備。手前に古い道祖神石碑が置かれている(2009年1月14日撮影) かつて道祖神があった場所の前で点火し、この火で団子焼きを行う。(2009年1月14日撮影)  新しく造られた道祖神は二神が寄り添ってお酒を注いでいる微笑ましい姿で、石屋さんの資料にあった見本の中から選ぶ一方、石屋に道祖神を注文した以外は、例えば説明板の材料を用意して作ったり、回りのコンクリートを打ったりするのもみんな氏子の皆様の手に拠ったとのことです。真新しいものと古くからの道祖神も処分されることなく並んでいる姿を眼にするにつけ、これからも新旧の道祖神は地域にとって大切な存在であり続けるとともに、人々の幸せを見守って行ってくれることでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 *同じ場所には、新旧の道祖神と一緒に文化11年(1814)造立の地神塔も祀られています。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(13)~中央区上矢部の薬師堂~(平成23年4月)

     矢部駅や淵野辺駅から町田市方面に向かう道を一本右手に入った、上矢部地区の集落の中に薬師堂があります。地区内に寺院がない上矢部ではこの薬師堂を古くからお祀りしてきました。  薬師堂で毎年4月8日のオシャカサンの日に行われているのが花祭り(潅仏会・カンブツエ)です。当日の午前中に薬師堂を管理する役員(上矢部の神社である御嶽神社総代)が集まり、桃色の椿の花びらを一枚ずつ屋根に貼り付けた花御堂(ハナミドウ)の飾り付けなどの準備をします。この花御堂は桶に乗せて、内側にはお釈迦様が片手を挙げている姿の誕生仏の像を納めますが、桶には甘茶の木を煮出して作った甘茶を入れ、お参りに来た人は甘茶を柄杓で汲んで釈迦像に注いで手を合わせます。甘茶は目につけると良いとされています。そして、地域の人たちがお堂で飲食しながら談笑する中で、午後3時からは地区の女性たちによるお念仏が30分ほど行われ、念仏が終わると後片付けが始まり、この行事も終了となります。なお、市内では、4月8日の花祭りは例えば当麻地区(南区)の観心寺などいくつかの所で見られます。 中央区上矢部の薬師堂 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 上矢部の薬師堂(2011年4月8日撮影) 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 女性による念仏 女性による念仏  また、薬師堂では毎年10月22日(現在はその近くの休日)にオコモリと呼ばれる行事も行われており、その際にも女性たちによる念仏が唱えられます。このオコモリと関連して忘れることができないのが本尊であるお薬師様の開帳です。普段には4月8日を含めて薬師堂のご本尊のお薬師様が開帳されることはありません。それが、33年間に一回、オコモリの際に薬師像の本開帳があり、さらに間の17年ごとには中開帳が行われます。本開帳や中開帳には、薬師の手から五色の布を引き出して薬師堂の前側に立てた角柱の塔婆に結び付け、参詣者はこの布を触り、さらに布を貰うとお産が軽いとか魔よけになると言われていたそうです。  毎年恒例の行事はもちろんのこと、10数年を経て実施されるものを地域で守っていくのは大変です。それでもこれからも末永く続いていかれることを願っています(民俗担当 加藤隆志)。 *近年では中開帳は平成20年(2008)に行われ、次回の本開帳は平成37年(2025)となります。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(12)~中央区上溝の元町観音堂~(平成23年4月)

     明治3年(1870)、繭や糸を売買することを目的として、現在の上溝繁華街の大通りで市場が開設されました。  この市が開かれた大通りを一本入ったところの裏の通りに位置する元町観音堂は、現在は元町自治会館の中にあります。江戸時代から続く高厳寺という寺の観音堂で、今でも本尊であった観音菩薩像が祀られています。この観音様は奈良時代の高僧として有名な行基作と伝え、堂の西側の堂ヶ谷戸に住んでいた老夫婦が途方にくれた旅の僧の願いを聞いて泊めて厚くもてなしたところ、そのお礼として僧が置いていったものと伝えられ、養蚕や安産のご利益あらたかな仏様として五部会(元町・田中・本久自治会で構成)の皆様によって大切に守られてきました。  観音堂の縁日はミクンチといって毎年10月の9日・19日・29日で、お堂の扉が開けられてお参りできる(この時には観音様の安置されている厨子は開かれない)ほか、地元の女性たちによる御詠歌の奉詠も行われています。さらに、元町観音堂は昔の武蔵国と相模国にかけての寺々を巡拝する武相観音霊場の三十番札所であり、この武相観音霊場では12年に一回、卯年の4月1か月間だけ観音像が開帳されることになっていてお姿を拝観することができるとともに、観音様の手から外の角塔婆(回向柱)につながれたお手綱に触れてそのご利益に浴することができます。また、角塔婆には五色の布が観音様の体からつながれたお手綱代わりの飾りがありますが、この木綿の布をもらって腹帯にすると安産になると言われていました。  今年(2011年)がその開帳の年に当たり、観音堂の周囲には参拝者の道案内とともに12年ぶりのご開帳を盛り上げるように赤い多数の幟旗が立てられました。参拝の方々は観音様に手を合わせ、それぞれ観音像の描かれた御朱印のお札を買い求めて次の寺に向かう姿が見られました。地元はもちろん遠くからも来るたくさんの人々の願いを受け止めてきた観音堂は、これからも末永く祀られていくことでしょう(この稿は、五部会観音様世話人の皆様のご指導の元に、民俗担当の加藤隆志がまとめました)。 *武相観音霊場は第1回目の開帳を宝暦9年(1759)に行い、今年は第22回目でした。相模原市(旧城山町を含む)をはじめ八王子市・町田市・多摩市・日野市・大和市・横浜市に及ぶ48か寺の札所があり、市内では、元町観音堂(中央区上溝)のほか、泉龍寺(南区上鶴間)・普門寺(緑区中沢)・長徳寺(緑区大島)・観心寺(南区当麻)・清水寺(南区下溝)・慈眼寺(緑区城山)・龍像寺(中央区淵野辺)の八か寺が札所となっています。次回の開帳は平成35年(2023)となります。

    観音堂と回向柱 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札 観音堂と角塔婆 (2011年4月1日撮影) 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札。 高厳寺の文字が見える。 ページトップに戻る

    祭り・行事を訪ねて(11)~与瀬神社の祭礼と精進衆(しょうじんしゅう)(緑区与瀬)~(平成23年4月)

     相模湖駅から西に少し歩いた山の中腹にある与瀬神社は「与瀬の権現様」として親しまれ、かつては子どもの夜泣き止めにご利益があるとして多くの参拝者がありました。与瀬神社の例大祭は、現在、4月の第2土曜日に行われており、特に多くの担ぎ手によって50段もの急な勾配の石段を神輿が降りていく様は大変有名で、その後、数時間かけて地区内を巡行し、相模湖を背景として勇壮に神輿が担がれていく様子を見ることができます。 相模湖を背に担がれる神輿 急な石段を神輿が下がる 勇壮に担がれる神輿 急な石段を神輿が降りる (小田和夫さん撮影)  この祭りで特に興味深いのは、「精進衆」と呼ばれる決まった家があることです。精進衆は、昔、ヤヨさんとキヨさんという人が魚とりをしていた時に相模川から神社のご神体を引き上げたとされる家の子孫で、神輿を担ぐ際に「ヤヨー、キヨー」という掛け声があったり、御神体を取り上げた場所という御供岩(現在は相模ダム建造のため元あった位置からは移転)まで神輿が行くのもそれに由来しています。地元の慈眼寺には天明8年(1788)の精進衆について書かれた資料が残るなど、精進衆は当時からすでに祭礼に係わっていたことが分かります。こうした家は元々は数軒あったものの、現在では祭礼等に当たって役割を果たしているのは1軒となっています。  ここでは細かいことには触れられませんが、昔は境内の祠をお祀りするのは精進衆の仕事だったと言われており、例えば鳥居や御供岩、社殿などへ注連縄を張る作業は、今でも精進衆のみで行って他の氏子総代の人たちは手出しをしません。また、宵宮(祭礼前日の夜)に行われるいくつかの祭祀の準備や実施、神輿に随行する者たちが持つ祭具を作る、神輿に御霊を移す際に神主の補助をする、神輿に付いて歩いてお旅所でお神酒を供えるなど、精進衆は祭礼の諸準備から実施に至るまでのさまざまな仕事を担っています。与瀬神社の祭礼にあたって、神主ではなく神社と関わりのあるとされている精進衆が重要な役割を果たすなど、比較的古い祭祀のあり方を示すものとして注目されます。(民俗担当 加藤隆志) 精進衆(2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで神輿が担がれる 精進衆 (2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の 注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで 神輿が担がれる  ここに挙げた写真は2008年の祭礼を撮影したものです。※2011年の開催については、地震の影響で未定です。 ページトップに戻る

    民俗の窓(平成22年度)

    Posted on 2014年1月23日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
    •  祭り・行事を訪ねて(10)~相原地区の榛名講~(平成23年2月)
    •  祭り・行事を訪ねて(9)~緑区与瀬・横橋地区の秋葉神社の火祭り~(平成23年3月)
    •  祭り・行事を訪ねて(8)~復活した荒川集落のドンドヤキの飾り~(平成23年1月)
    •  祭り・行事を訪ねて(7)~緑区寸沢嵐・増原と各地域の団子焼き~(平成23年1月)
    •  祭り・行事を訪ねて(6)~緑区根小屋の繭玉飾り~(平成23年1月)
    •  祭り・行事を訪ねて(5)~南区磯部地区の薬師堂~(平成22年12月)
    •  祭り・行事を訪ねて(4)~藤野村歌舞伎~(平成22年11月)
    •  祭り・行事を訪ねて(3)~「お月見ちょうだいな」~(平成22年11月)
    •  祭り・行事を訪ねて(2)~青野原八幡神社の子ども相撲~(平成22年10月)
    •  祭り・行事を訪ねて(1)~川尻八幡宮祭礼~(平成22年10月)
    •  待望の『相模原市史民俗編』刊行!!(平成22年7月)

    祭り・行事を訪ねて(10)~相原地区の榛名講~(平成23年2月)

    榛名神社(八王子市寺田町)
    榛名神社(八王子市寺田町)  
     榛名神社というと群馬県が有名ですが、実は相模原と係わりの深い

    榛名神社(八王子市寺田町)
    榛名神社(八王子市寺田町)

    榛名神社が八王子市南部の寺田町にもあるのをご存知でしょうか。春先に雹(ひょう)にあうと農作物に大きな影響があり、特に春蚕のための桑に良くありません。雹が降らないことを願うために、津久井地域や旧相模原市域北部の集落を中心にこの榛名神社が信仰され、かつては3~4月頃に神社に代表者がお参りしてお札を受けて来て榛名講を行うことが見られました。
     今回は、相原・森下地区の大門講中で実施されている榛名講の様子を紹介します。
     今年(2011年)の大門講中の榛名講は祝日の2月11日に行われました。当日の午前中に当番の2名の方が寺田町の神社社務所を兼ねている個人の方の家を訪ねて、榛名神社の大きな紙のお札を求めます。この後、相原に帰ってきて、近所の竹やぶから適当な竹を伐り出してお札を挟むものを作ります。榛名講は午後7時から地区の自治会館で行われ、「榛名神社」と書かれた掛け軸や蚕神(かいこがみ)を描いたものを飾り、お札を挟んだ竹も同じところに置きます。当日の参加者は17名の方で、今では次年度の自治会の役員を決める打ち合わせも兼ねているため、まず自治会の事業報告や役員の人選が行われた後に宴会に移ります。なお、お札を挟んだ竹は後日、近くにある石仏の所に立てられ、翌年までそのままにしておきます。

    お札を竹に挟む
    お札を竹に挟む

    榛名講で飾られる掛け軸
    榛名講で飾られる掛け軸

     榛名講の様子
    榛名講の様子

    お札を竹に挟む 榛名講で飾られる掛け軸 榛名講の様子  大門講中でもかつては4月に行ったようで、順番に当番の家に集まり、かなり昔は各人が米などを持ち寄って榛名講を実施していたことが帳面類から分かります。また、他の集落ではむら境に榛名神社のお札を置いたり、各家でも畑に雹除けとしてお札を立てたりするのがあったことが報告されています。現在ではめっきり少なくなった榛名講は、実施されている大門講中でも豊作祈願や雹除けというより地区の役員決定の機会としての性格が強くなっています。それでも畑作や養蚕が大変盛んだったこの地域の信仰を伝える行事として、大変貴重なものと言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。

    祭り・行事を訪ねて(9)~緑区与瀬・横橋地区の秋葉神社の火祭り~(平成23年3月)

      緑区与瀬(旧相模湖町与瀬)横橋地区の秋葉神社の祭礼である火祭りを紹介します。
     横橋地区のうち、祠がある横道はJR相模湖駅から西方に約20分ほど歩いた所の集落で、甲州街道の旧道のいくつかの石仏が並ぶ傍らの道を登った山の上に祠があり、さらに西側に位置する橋沢集落とともに秋葉神社を祀っています。江戸時代の終わりの大火によって講ができて火防せの神として祀るようになったと伝えられ、元は3月17日に行われていましたが、現在では3月17日近くの日曜日に火祭りが行われています。
     当日は、まず地元自治会による秋葉神社周辺などの掃除の後、火祭りに燃やす松明作りなどが主に「若葉会」によって行われます。若葉会はさまざまな活動を行う地元有志の会で、以前は個々の家で用意をしていた松明も、今では燃やすヒデ(松の根)集めや松明の作成をはじめとして火祭りの実施まで、若葉会が実際の行事を一手に引き受けています。
     松明は、太い竹の先をいくつかに割って拡げた先に松の根のヒデを挟み込んで針金で縛り、竹の反対側は地面に刺せるように半分削ります。横道と橋沢全部で62世帯あるため昨年(2010年)には70本作られ、一度に30数本ずつ二回交代で燃やしました。また、古くは各家から祠まで松明を持ち上げて立てたものの、今では道の上側の場所に二mほどの間隔で穴を掘って松明を立てています。午後7時頃に松明に一斉に点灯されると実に幻想的な光景がかもし出されます。松明はしばらく燃えていてヒデが落ちてしまったのは拾い、消えたら新しいものと取り替えていきます。風が強いと実施できませんが、幸いにしてここ20年ほどの間では中止になったことはないとのことです。松明はどんどん燃えるため一時間ほどで火祭りは終了となりました。
     今後、ヒデが用意できるかなど課題も多いとのことですが、これからも長く続いて欲しい行事です。(民俗担当 加藤隆志)
    *2011年は3月13日(日)の午後7時から行われる予定でしたが、中止となりました。

     松明作り 松の根を竹の先に挟み込む作業をしています
    松明作り
    松の根を竹の先に挟み込む作業をしています

     夜空に燃える松明
    夜空に燃える松明

    祭り・行事を訪ねて(8)~復活した荒川集落のドンドヤキの飾り~(平成23年1月)

     緑区二本松地区にある八幡神社は、元々は城山ダムの建設によって津久井湖の湖底に沈んだ荒川地区の氏神で、荒川の多くの人々が移転することとなった二本松地区に祀られている神社です。この神社の境内でもドンドヤキが行われており、今年(2011年)は正月15日(土)の朝8時からの予定で実施されました。数年前にはダイオキシン等の問題で一時、中止していた時期もあるとのことで、それでも3年ほど前から復活し、子どもたちをはじめ多くの参加者で賑わっていました。
     二本松のドンドヤキの飾りで注目されるのが、正月飾りなどを積み上げたものの中心に立派なお飾りやダルマを上側に取り付けた竹が立てられることです。これは津久井地域ではよく見られる形で、実は再度、神社でドンドヤキを行うに当たって荒川地区で行っていたものを復元して作るようになったそうです。荒川では、昔からこの行事を「団子焼き」と呼び、焼いた団子を食べると風邪を引かないということでその年の無病息災を願い、焼いた松の焼け残りを持ち帰って家の入り口に置くと泥棒よけになると言われていました。
     もちろん、荒川では子どもたちが各家に下げられた正月飾りを集めたり、もっと大きな竹を山で普段から探しておいて期日が近くなると伐りに行き、燃やすのも14日の夜でしたが、現在では住宅地の中にあって昔通りに行うことはできません。また、現在ではこの地区でも多くの家が建てられ、神社の氏子や役員の方も荒川から移転されてきた方々より他地から引っ越してきた住民が多くなっています。それでも荒川の方々が二本松地区に移転されてほぼ50年になろうとしている今日、八幡神社のドンドヤキの飾りはそうした歴史の印を行事の中に留め、さらには二本松地区にお住まいのさまざまな人々の交流のシンボルとしても大事なものになるのではないかと思いました。(民俗担当 加藤隆志)

    飾りの上部 立派な正月飾りや ダルマがみえる
    飾りの上部
    立派な正月飾りや
    ダルマがみえる

    ドンドヤキの飾りに 点火されたところ
    ドンドヤキの飾りに
    点火されたところ

    多くの参加者で賑わう
    多くの参加者で賑わう

    昭和36年正月、水没前に 最後に行われた団子焼き (八木孝雄さん提供)
    昭和36年正月、水没前に
    最後に行われた団子焼き
    (八木孝雄さん提供)

    祭り・行事を訪ねて(7)~緑区寸沢嵐・増原と各地域の団子焼き~(平成23年1月)

     今年も市内各地で賑やかに団子焼き行事が行われました。かつては正月14日に行われることが一般的だったこの行事も、現在では地区や自治会の都合で今年(2011年)の場合は8日(土)から16日(日)頃までのさまざまな日に実施されており、今年も時間の許す限り各地の様子を見学させていただきました。ここでは緑区寸沢嵐の増原自治会の団子焼きを中心に記すことにします。
     増原の団子焼き(最近はドンドヤキということも多くなったそうです)は10日(日)に行われました。午後3時の点火予定ということで1時過ぎから準備が行われ、正月飾りを集めて燃やすための穴を掘ったり、各家から道祖神の石碑の前に納められたお飾りを運んだりします。また、増原では数年前から、現在は作られることも少なくなった繭玉飾り(木は梅やつげの木を用い、ダンゴバラといったそうです)を模したものを燃やす場所の一角に飾っており、ミカンをたくさん付けています。「祭り・行事を訪ねて」(6)で紹介している根小屋地区の事例ではミカンはありませんでしたが、ここでは昔からミカンをたくさん付け、ミカンを子どもが食べたくて仕方なかったと言います。また、この飾りのユニークなのは、実は米の粉の団子ではなくマシュマロを使っていることで、三つ又の枝に刺した団子を焼いた後にマシュマロも枝に刺して火であぶって食べており、なかなか甘くておいしいものでした。団子焼きにはたくさんの老若男女の皆さんが集まり、新年の挨拶とともに楽しく歓談されている姿を拝見することができました。この行事は、単に正月のお飾りを燃やして団子を焼くだけでなくて地区の人々の大きな交流の場となっていることがよく分かり、地域にとっても大切なものとしてこれからも長く続いていくことでしょう。

    石碑の前に納められた お飾りを運ぶ
    石碑の前に納められた
    お飾りを運ぶ

    飾られた「繭玉飾り」 団子の代わりにマシュマロ が付いている
    飾られた「繭玉飾り」
    団子の代わりにマシュマロ
    が付いている

    地区の人々が集まってきて 団子焼きをする
    地区の人々が集まってきて
    団子焼きをする

      なお、今年、津久井地域(旧城山町・津久井町)で見られた、お飾り等を集めて積み上げた様子をいくつか紹介します。いずれも14日に撮影したもので、場所によって形が違っていることなど、いくつか注目される点があります。(民俗担当 加藤隆志)

    緑区川尻(城北)
    緑区川尻(城北)

    緑区葉山島(下倉)
    緑区葉山島(下倉)

    緑区三ヶ木(原替戸)
    緑区三ヶ木(原替戸)

    青山神社(緑区青山)
    青山神社(緑区青山)

    緑区青野原(西野々) 会場に飾られる団子飾り
    緑区青野原(西野々)
    会場に飾られる団子飾り

    緑区青野原(西野々)
    緑区青野原(西野々)

    緑区青根(上青根)
    緑区青根(上青根)

    祭り・行事を訪ねて(6)~緑区根小屋の繭玉飾り~(平成23年1月)

     現在、正月の団子焼きは市内各地でも盛んに行われていますが、個人の家で繭玉団子を作ることはめっきり少なくなってしまいました。かつては、正月13日に各家で、養蚕によってたくさん繭ができるように大きな繭玉飾りを作るほか、神仏に供える団子や翌日の団子焼きに燃やすものを作ることが普通に行われていました。緑区根小屋の菊地原さんのお宅では今でも自宅で繭玉飾りを作っており、ここでは今年(2011年)見させていただいた内容を紹介します。
     繭玉作りは13日の夕方に行われます。家によって団子を飾る木は異なりますが当家では梅の木をもっぱら用い、床の間の前に台とする石臼を置いて臼の穴に梅の木を刺し込んで梅の枝に蒸かした団子を付けていきます。他の家では団子とともにミカンを飾ることもあったものの、小便繭といって汚れた悪い繭ができるとしてミカンは決して付けなかったそうです。また、かつては繭がたくさん取れるように、オシラサマと呼ぶ女の神様を描いた掛け軸を床の間に吊るしていました(これは今は行っていません)。今回は、お孫さんと一緒にきれいに飾っていただきました。
     翌日の14日の朝には、中に焼いた餅を入れた「糸引き粥」といわれるお粥を作って繭玉飾りの前に供えるとともに、家族も朝食としてこの粥を食べます。そして、16日まではそのまま置いておき、16日朝には「繭かき」といって梅の木から団子を取り外します。団子は乾いてコチコチになっていて今はあまり食べることはなくなっています。以前は保管しておき、茹でてしばらくの間は食べていました。菊地原さんはこのほか各種の正月飾りも自分で作るなど、昔からの家の行事を続けておられます。今では少なくなったこのような地域に伝わってきた行事を私たちも大切にしていきたいものです。(民俗担当 加藤隆志)

    繭玉作り お孫さんもお手伝い
    繭玉作り
    お孫さんもお手伝い

    繭玉飾り 手前に糸引き粥が見える
    繭玉飾り
    手前に糸引き粥が見える

    16日朝の繭かき
    16日朝の繭かき

    祭り・行事を訪ねて(5)~南区磯部地区の薬師堂~(平成22年12月)

     地域の中には宗教法人名簿に載せられているような神社や寺院とは別に、地元の方々が大事にお祀りしているお宮や堂がよく見られます。それらは稲荷であったり観音や不動などいろいろなものがありますが、今回はその中から、今年(2010年)拝見することができた磯部地区にある薬師堂のご縁日の様子を紹介したいと思います。
     薬師堂は磯部の中でも下磯部の東地区にあり、地域の5軒の女性が日常の管理をしています(以前は8軒だったそうです)。創建されて500年も経つと言われる古いもので、お薬師様と脇侍(きょうじ)の日光・月光菩薩が祀られています。
     縁日の毎年10月12日には昼から能徳寺の住職が読経をして薬師の厨子の扉を開き、この扉は一年に一度、住職しか開けてはいけないとされているそうです。その後、やはり能徳寺の檀家の女性の方々による御詠歌(ごえいか)があり、終了すると近所の皆さんや毎年お参りされているという人が訪れます。
     このお薬師様は目の仏様として親しまれており、お参りした人には護符と一緒に「オメンタマ」と称する小さな丸い団子2個(偶数)やお菓子などが配られます。ちなみにこうした団子を作るのも管理されている五人の女性が前日に準備しています。当日は午後9時頃までに60~70人ものお参りがあったとのことです。なお、10月以外の毎月12日にも管理されている皆さんによって薬師堂は開いており(ご本尊の薬師如来の厨子は開きません)、お参りすることができます。
     薬師堂は大正時代に火事になって大変な時代もあったという話も伺いましたが、今後とも薬師堂が後世まで祀られていくことをお祈りするとともに、そうした身近にあって人々が大切にお守りされているお堂や宮などを通じて、地域の歴史や文化について調べ考えていきたいと思います。(民俗担当:加藤隆志)

    薬師堂
    薬師堂

    本尊をお参りする親子
    本尊をお参りする親子

    祭り・行事を訪ねて(4)~藤野村歌舞伎~(平成22年11月)

     さる10月17日(日)の午後1時30分から、牧郷体育館(旧牧郷小学校)において、復活後19回目となる藤野村歌舞伎が盛大に行われました。緑区の藤野地域では、佐野川や牧野地区など、かつて地芝居(専門の役者ではなく地域の者が演じるもの)が盛んで当時演じられた舞台がいくつか残されています。特に牧野の篠原地区では、明治29年(1896)に氏神の大石神社を再建した際に回り舞台を設けて拝殿を舞台兼用に設計するなど、熱心に行なわれたことで有名です。しかし、各地の地芝居も第二次世界大戦後には次第に消滅していき、篠原でも昭和40年の神奈川県民俗芸能大会が最後の公演となり、衣装類などは県立歴史博物館に寄贈されています。現在行われている藤野村歌舞伎は、地区の有志によって保存会が結成されて平成4年に復活したものです。
     当日の演目は「一谷嫩軍記((いちのたにふたばぐんき)」のうち「熊谷陣屋」の場と「白波五人男」より「稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろい)」の場です。ここでは詳しいあらすじには触れませんが、いずれも歌舞伎や浄瑠璃の名場面として有名です。特に「熊谷陣屋」は藤野村歌舞伎の中でも十八番であり、1時間15分にも及ぶ力演でした。また、「稲瀬川勢揃い」では多くの藤野中と藤野南小の子どもたちが出演し、見学者一同から大きな声援を受けていました。これからも藤野歌舞伎保存会の活動を応援していただければ幸いです(民俗担当 加藤隆志)。

    「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の場
    「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の場

    「白波五人男」より「稲瀬川勢揃」
    「白波五人男」より「稲瀬川勢揃」

    祭り・行事を訪ねて(3)~「お月見ちょうだいな」~(平成22年11月)

     秋の十五夜や十三夜は風情あふれる年中行事の一つです。この日には縁側などに台を出してカヤやススキ等の秋の草花を壷に挿して飾り、里芋・薩摩芋などの秋に畑で収穫されるものや、月にちなんで丸いものということで団子やまんじゅうなどを供えるほか、「お月様は豆腐を好む」として豆腐を一緒に供えることもあります。また、片月見はいけないとされ、十五夜をしたら必ず十三夜も祝うものだと伝えられています。ちなみに今年(2010年)の十五夜は9月22日、十三夜は10月20日でした。
     ところで、上溝や下溝・田名・当麻・磯部などでは、十五夜や十三夜の夕方に子どもたちが各家を回ってお菓子などをもらうことが今日でも見られます。盛んに行われている地区の一つである下溝の古山では、近所の友だちが4,5人と連れ立って家々を回り(小さな子どもには親が付き添います)、縁側などにお供え物がある家を見つけると屋敷内に入って「お月見ちょうだいな」と声をかけ、用意してあったお菓子をもらい「ありがとう」とお礼を言って次の家に向かいます。かなり以前は誰にも知られないようにそっと持っていきましたが、次第に柿や栗などを配るものとなり、さらに子どもたちが好むお菓子になったと言います。古山ではお月見に各家で80~100組ほども菓子を用意しているそうで、子どもたちは手にした袋にお菓子を一杯にしてうれしそうです。地域に残る行事に子どもたちが触れ合う機会としてこれからも長く続くことを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

    お月見のお供え物
    お月見のお供え物

    「お月見ちょうだいな」
    「お月見ちょうだいな」

    祭り・行事を訪ねて(2)~青野原八幡神社の子ども相撲~(平成22年10月)

     さる9月12日(日)、緑区青野原(旧津久井町)の八幡神社で子ども相撲が行われました。この神社は元々は「若宮八幡宮」として別の地にあったものが江戸時代中期に現在地に遷座したと言われる古社で、青野原地区の東側の地域の鎮守として祀られています。子ども相撲は、以前は敬老の日の9月15日、今ではハッピーマンデー法の関係でその近くの休日に行われます。かつては大人の相撲もあったものの、今ではもっぱら小学生までの子どもが男女を問わず参加しています。
     当日は午後1時から相撲が始まりました。だいたい年齢や学年が同じような子ども同士の取り組みが行われ、装束を付けた行司がさばきます。子どもたちは勝っても負けてもいろいろな賞品が貰え、うれしそうです。また、神社境内の土俵の横には桟敷も設けられ、地域のお年寄りを中心とした見物人や親たちが盛んに声援を送ります。休憩の途中では、これを食べると一年間風邪をひかないということでおにぎりを皆で食べる姿も見られました。今年は参加する子どもが他の行事と重なったためやや少なかったそうですが、力の入った取り組みも多く、大変に盛り上がった中で午後3時前には終了しました。
    子ども相撲の取り組み風景 子ども相撲の応援をする観客

    はっけよい、のこった!!
    はっけよい、のこった!!

    見物人の応援にも力が入ります
    見物人の応援にも力が入ります

    市内では、青野原の八幡神社とともに緑区鼠坂(旧相模湖町)の八幡神社でも子ども相撲があり、現在もこうした行事が残る貴重な祭礼となっています。地域の大人たちが子どもの成長を見守る行事として、これからも大切にしていきたいものです。(民俗担当:加藤隆志)

    祭り・行事を訪ねて(1)~川尻八幡宮祭礼~(平成22年10月)

     記録的な猛暑だったこの夏ですが、それでも市内各地で賑やかに祭りが行われました。民俗担当では、この数年間はなるべく津久井地域の祭りの見学にお伺いしています。今回はその中でも、大変盛大な神輿(みこし)の巡行と各地区から出される山車(だし)が有名な緑区川尻(旧城山町)地区の川尻八幡宮の祭礼について紹介します。
     川尻八幡宮の祭礼は、8月27・28日の両日に渡って行われます。27日には「応神(おうじん)」と「八坂(やさか)」と呼ばれる大小2基の神輿が早朝に神社を出て川尻中の各地区を練り歩き、途中では神輿を高く掲げたり左右に大きく振る動作などが見られました。特に午後7時過ぎに一度神社に戻ってからは、もう一基の「春日(かすが)」を加えた三基の神輿を夜遅くまで神社周辺の道路で車を止めながら勇壮に担ぎます。翌日は山車とお囃子が主役です。午前中から各地区を回ってきた9基の山車がやはり夜には一同に会し、同時に囃子を叩き合うほか、各山車が順番にこの日に向けた特別の囃子を奏でることも行われています。

    大小二基の神輿
    大小二基の神輿

    一同に集まった山車
    一同に集まった山車

     こうした各地区のさまざまな祭りは、人々にとっての大きな楽しみであるとともに地域の大切な生活文化です。今後ともできるだけ多くの祭りを訪れて、写真を撮り、お話しを伺っていきたいと思っています。(民俗担当:加藤隆志)

    待望の『相模原市史民俗編』刊行!!(平成22年7月)

    相模原市史民俗編表紙
     平成15年から筆者を含む大勢の者が係わりながら作業を進めてきた『相模原市史民俗編』がこのたび刊行されました。この本はA4判で550頁にも及ぶ大部なもので、相模原のさまざまな民俗について紹介されています(なお、この事業は合併以前から進められているため、対象地は旧市域の相模原地域です)。
     これまでも民俗関係の報告書などが出されてきましたが、例えば年中90-03minzoku220701行事や獅子舞などといった特定のテーマごとにまとめることが多く、市域の民俗全般が体系立てて記述される良い機会となりました。 全体に多くの写真が掲載されて内容の理解を助け、索引もあるので調べたいことを検索するのに便利です。
     また、付録の明治39年の地形図は、集落や耕地・山林などが色分けされているほか寺社や伝承地・地名などが記されており、一枚の地図から多くの情報を読み取ることができます。是非一度、博物館や図書館などでご覧になってください。そして、いろいろな面でご活用いただければと思います。
     購入の場合、一冊2550円・DVD版は1550円。博物館ミュージアムショップなどで販売しています。(民俗担当:加藤隆志)

    地質の窓(平成24年度)

    Posted on 2014年1月23日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
    • 山梨県大月市の謎のマントル物質(平成25年1月)
    • 地質学講座 in 奥多摩(平成24年6月)

    山梨県大月市の謎のマントル物質(平成25年1月)

     山梨県大月市笹子町には、地球内部のマントルを構成している岩石がみられます。ただし、マントルを構成する岩石が直接露出しているわけではありません。ここで見られるのは、蛇紋岩(じゃもんがん)で、マントルを構成しているカンラン岩が変質したものです。蛇紋岩は、黒色や濃い緑色をしており、独特の光沢を持つことが特徴です。ビルの壁などの石材にも利用されています。

    蛇紋岩
    蛇紋岩

    ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩
    ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩

     カンラン岩(※) (当館天文展示室に展示しています)
    カンラン岩(※)
    (当館天文展示室に展示しています)

     大月市の蛇紋岩は、分布が数メートルと非常に狭く、周囲の岩石に挟み込まれるように分布しています。また、現在では植生や上から崩れてきた土砂などに覆われており、見つけるのにかなり苦労しました。この蛇紋岩の周囲の岩石は、相模湖層群瀬戸層 (さがみこそうぐんせとそう)の約3,000万年前の泥岩や砂岩です。地表近くで形成された泥岩や砂岩の中に、なぜ、地下深部を構成していた岩石が挟み込まれるようになったのかは、明らかになっていません。

    90-04-240104 90-04-240105

    蛇紋岩の屋外での様子。黒っぽく見えているのが蛇紋岩
    (左:地表に出ているもの 右:土砂に埋まっていたのを掘り起こしたもの)

     ほぼ同時代の蛇紋岩は、赤石山脈、三浦半島、房総半島でもみられます。ちょうど伊豆半島を取り巻くように分布しているので、「環伊豆地域蛇紋岩類(かんいずちいきじゃもんがんるい)」とも呼ばれています。なぜ、伊豆半島を取り巻くように蛇紋岩が分布しているのかも、よくわかっていません。
     まだまだ、謎の多い「環伊豆地域蛇紋岩類」ですが、研究が進めば、南関東の地質がどのように形成されたのかを解明するための重要な手がかりをつかむことができるかもしれません。(地質担当:河尻清和)
    ※カンラン岩・・・緑色のカンラン石と呼ばれる鉱物からできています。緑色のカンラン石はペリドットと呼ばれ、8月の誕生石として宝石に利用されています。

    地質学講座 in 奥多摩(平成24年6月)

     2012年5月13、20日、6月3、10日の計4回、地質学講座を開催しました。例年、地質分野の教育普及事業は相模原地質研究会の協力を得て開催していますが、今年からは県立相模原青陵高校地球惑星科学部にも協力していただいて、教育普及事業を進めています。今回は受付や野外観察時の補助をお願いしました。

    さて、今年の地質学講座は、「2億年前の海底を歩く‐多摩川 御岳渓谷の地質‐」と題して開催しました。1・4回目は博物館での講義、2回目は奥多摩町鳩ノ巣渓谷で、3回目は青梅市御岳渓谷で野外観察を行いました。青梅市御岳渓谷の地質に関しては平成22年度の博物館の窓「紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐」を参照していただくとして、ここでは、奥多摩町鳩ノ巣渓谷の地質について簡単に説明します。

    受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。
    受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。

    鳩ノ巣渓谷。
    鳩ノ巣渓谷。

    鳩ノ巣渓谷で見られる岩石は、チャートと砂岩です。チャートというのは放散虫(ほうさんちゅう)という生物の死骸が海底に降り積もったものが固まってできた岩石です。放散虫は二酸化ケイ素(ガラスの主成分)の骨格を持つ海のプランクトンです。チャートは陸地から遠く離れた海底

    三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。
    三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。

    に堆積してできます。鳩ノ巣渓谷のものは三畳紀(さんじょうき)前期(約2億4千万年前)~ジュラ紀中期(約1億7千万年前)にできました。砂岩は砂が固まってできた岩石です。鳩ノ巣渓谷のものはジュラ紀後期(約1億5千万年前)に海溝で堆積した砂が固まってできました。
     これらのチャートや砂岩はもともと現在見られる場所でできたのではありません。陸地から離れた海底や海溝で堆積したものが移動する海洋プレートに乗って運ばれてきて、さらに地殻変動により陸上に露出したものです。海洋プレートは、ちょうどベルトコンベアーのように、上に乗せたものを陸の方まで運ぶ役割をしています。このように、プレートによって運ばれて陸地の一部となった地層・岩石の集まりを付加体(ふかたい)と呼んでいます。鳩ノ巣渓谷や御岳渓谷はプレート運動の証拠を陸上で見られることができる場所の一つです。(地質担当:河尻清和)

    層状チャート。
    層状チャート。

    しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。
    しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。

    砂岩。
    砂岩。

    地質の窓(平成23年度)

    Posted on 2014年1月23日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
    •   包丁岩(ほうちょういわ)~緑区名倉
    •   博物館実習生VS富士相模川泥流(ふじさがみがわでいりゅう)
    •   陣馬山麓の黄鉄鉱(おうてっこう)

    包丁岩(ほうちょういわ)~緑区名倉

     緑区名倉の山梨県との県境付近に、包丁岩と呼ばれている岩があります。この岩は南から北に突き出た細長い尾根状の地形をつくっており、包丁の刃を上にして立てたような形をしています。長さは50~60m、幅は土台部分では20~30mですが、岩の上の部分は馬の背中のようになっており、人が1人通れるくらいの幅しかありません。高さは30mくいらで、ほぼ垂直に切り立っています。
     岩の上は「人が1人通れる」といっても、滑りやすく、途中つかまる木も無いので、落ちたら最後、約30m下の谷底まで落ちてしまいます。非常に危険なので、岩の上を歩くのは無理です。

    東側( シュタイナー学園付近)から 包丁岩を見下ろしたところ
    東側( シュタイナー学園付近)から
    包丁岩を見下ろしたところ

    西側から見た包丁岩
    西側から見た包丁岩

    東側の麓から包丁岩を 見上げたところ
    東側の麓から包丁岩を
    見上げたところ

     包丁岩の頂部 付け根部分(左の写真の左側)から 先端(左の写真の右側)を見ています。
    包丁岩の頂部
    付け根部分(左の写真の左側)から
    先端(左の写真の右側)を見ています。

    東側の麓から包丁岩を
    見上げたところ 包丁岩の頂部
    付け根部分(左の写真の左側)から
    先端(左の写真の右側)を見ています。
     包丁岩をつくっている岩石は、愛川層群中津峡層石老山礫岩(あいかわそうぐんなかつきょうそうせきろうざんれきがん)と呼ばれる礫岩です。名前のとおり、石老山(せきろうざん)を中心に分布している礫岩です。石老山礫岩(せきろうざんれきがん)は硬く、割れ目などができると、そこが集中して浸食されます。浸食(しんしょく)がどんどん進み、割れ目の少ない部分が削り残されて、包丁のような形になったと思われます。
     全体を見渡せる場所はなかなか無く、シュタイナー学園付近で木々の間から一部を見ることができます。

    用語解説
    礫岩:地質学では2mm以上の石ころのことを礫(れき)と呼びます。礫が集まってできた岩石のことを礫岩といいます。礫が集まっただけで、硬い岩石になっていなければ礫層(れきそう)といいます。
    浸食:岩石や地層が、波や川、氷河などの水の働きや風の働きで削られること。
    (地質担当:河尻清和)。

    博物館実習生VS富士相模川泥流(ふじさがみがわでいりゅう)

     毎年、博物館では8月から9月にかけて学芸員実習生を受け入れています。実習生は、実習の一環として展示を制作しています。平成23年度の地質分野は、地層の剥ぎ取り方法や標本を紹介する展示を制作しました。
     2011年8月30日、相模原市緑区名倉で富士相模川泥流の地層の剥ぎ取り標本を作製しました。泥流(でいりゅう)というのは、泥(土砂)と水が混ざったものが谷や川を流れ下る現象のことです。通常の洪水よりも泥の割合が多く、大きな岩石を運ぶことができます。
     富士相模川泥流は、約2万2千年前に富士山麓から相模川を流れ下った泥流です。この泥流による堆積物の地層が相模川沿いに点々と残されており、相模原市内でも観察することができます。地層の剥ぎ取り標本については、「地層の標本を作製(平成23年3月)」を参考にしてください。
     今回、剥ぎ取り標本を作製した富士相模川泥流の地層は固く締まっており、剥ぎ取るのに非常に苦労しました。地層を固める薬剤が染み込みにくく、無理に剥ぎ取ろうとすると固まった薬剤だけが剥がれてきてしまいます。鎌で地層を削り取りながら、標本を作製しました。まさに悪戦苦闘。やわらかい地層ならば半日で10枚以上剥ぎ取ることができるのですが、今回は4枚しか作業ができず、しかも、実際に標本として使えたのは2枚だけ。1枚剥ぎ取るのに1時間以上もかかりました。

    剥ぎ取る面を削って平らにしています
    剥ぎ取る面を削って平らにしています

     鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
    鎌を使って、地層を剥ぎ取り中

    剥ぎ取る面を削って平らにしています 鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
     実習生はさらに、剥ぎ取りを紹介する展示を製作したのですが、ここでも悪戦苦闘。展示物の選択、解説文の作成、解説・写真パネルのレイアウト、展示作業、などなど。苦労しながら無事、展示を完成させることができました。
     平成23年度の博物館実習生制作展の展示期間は9月10日(土)から10月16日(日)までです。(地質担当:河尻清和)

    陣馬山麓の黄鉄鉱(おうてっこう)

     相模原地質研究会のメンバーとともに相模原市緑区佐野川地域を調査中に、黒っぽい表面に金色に光る粒がばら撒かれたような岩石を見つけました。 この金色の粒は、もちろん『金』ではなく、黄鉄鉱と呼ばれる鉱物です。黒っぽい岩石は千枚岩(せんまいがん)です。この千枚岩は、泥が固まってできた泥岩(でいがん)が、さらに圧力を受けて薄くはがれやすくなった岩石です。千枚岩は陣馬山周辺でよく見られます。
     黄鉄鉱は、泥に含まれていたわけではなく、泥岩が変成作用(もともとあった岩石が熱や圧力によって、さらに別の岩石が作られる作用)を受けて、岩に含まれていた成分が結晶化してできたものです。
     黄鉄鉱は薄い金色というか、真鍮(しんちゅう)色をした、立方体や5角12面体をした鉱物です。鉄(Fe)と硫黄(S)の化合物で、化学組成で表すとFeS2です。本物の金より色が薄く、きちんとした結晶の形になりやすいので、簡単に金と区別できます。陣馬山麓の黄鉄鉱は大きくても直径1 mmくらいで、非常に小さなものですが、きれいな立方体をしています。(地質担当:河尻清和)

    ※岩石や鉱物などについてちょっと知りたくなった方は、次のような本をお薦めします。図書館で探してみては。
     『ニューワイド学研の図鑑 鉱物・岩石・化石』松原聰・猪郷久義・小畠郁夫 監修 学研 ・・・子ども向け
     『かながわの自然図鑑1 岩石・鉱物・地層』神奈川県立生命の星・地球博物館 編 有隣堂
     『楽しい鉱物図鑑』 堀秀道 著 草思社
     『楽しい鉱物図鑑2』 堀秀道 著 草思社

    黄鉄鉱を含む千枚岩の標本
    黄鉄鉱を含む千枚岩の標本

     千枚岩中の黄鉄鉱 金色、立方体の結晶が黄鉄鉱
    千枚岩中の黄鉄鉱
    金色、立方体の結晶が黄鉄鉱

    黄鉄鉱の結晶 大きさは約1mm
    黄鉄鉱の結晶
    大きさは約1mm

    地質の窓(平成22年度)

    Posted on 2014年1月22日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
    • 地層の標本を作製(平成23年3月)
    • 紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐(平成22年11月)
    • 戦前の鉱物・岩石標本(平成22年10月)
    • 結晶作りに挑戦!(平成22年7月)

    地層の標本を作製(平成23年3月)

     2011年3月11日に相模原市緑区根小屋の津久井城跡荒久地区遺跡群で、相模原地質研究会のメンバーおよび相模原青陵高校の小尾先生と一緒に地層の剥ぎ取り標本を作製しました。作業中に東北地方太平洋沖地震が発生し大きく揺れましたが、幸い被害はなく、無事作業を終えることができました。

     岩石・鉱物・化石は採集したものを標本として博物館に所蔵・展示することができますが、やわらかい地層はそのまま採集するわけにはいきません。そこで、地層の表面に硬化剤や接着剤を塗り、固まった部分だけを剥ぎ取って標本にします。これで、たとえごく一部分とはいえ、地層の実物を博物館で収蔵・展示することが可能になります。博物館の常設展示室「台地の生いたち」コーナーに展示してある地層も剥ぎ取り標本です。

     今回作成したものは50cm×30cm程度の大きさです。このくらいですと、収蔵するのに場所をとりません。また、運ぶことも可能なので、学校へ教材として貸し出すこともできます。

     剥ぎ取りのできる地層は非常に限られていますが、できるだけ標本を増やしていきたいと思います。(地質担当:河尻清和)

    地層の剥ぎ取り作業中 (黒ボクと関東ローム層)
    地層の剥ぎ取り作業中
    (黒ボクと関東ローム層)

    剥ぎ取った地層
    剥ぎ取った地層

     

    紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐(平成22年11月)

    紅葉しげる御岳渓谷
    紅葉しげる御岳渓谷

     11月23日、相模原地質研究会のメンバーと紅葉真っ盛りの青梅市の御岳渓谷に行ってきました。目的はもちろん美しい紅葉、ではなく、多摩川沿いの地質調査です。当日は朝方まで残っていた雨も、調査を開始するまでにはすっかり上がり、秋晴れの好天に恵まれました。まさに、紅葉狩り日和、いやいや、調査日和でした。

     御岳渓谷の地質はメランジュ、もしくは混在岩と呼ばれるものです。メランジュというのは細粒に粉砕された基質の中に大小さまざまな大きさの岩塊が含まれているものです。メランジュはフランス語で「混合」を意味し、お菓子のメレンゲと同じ語源を持つものです。

     御岳渓谷ではぺらぺらと割れやすくなった黒色の泥岩の中に、砂岩・チャート・石灰岩・凝灰岩などの岩塊が含まれているのが観察できました。御岳渓谷のメランジュは、プレート運動によりものすごい圧力が地下深部で種々の岩石に加えられることにより、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされ、それが隆起して、現在、地表で見られるようになったものです。(地質担当:河尻清和)

    相模原地質研究会調査中
    相模原地質研究会調査中

     御岳渓谷で見られるメランジュ
    御岳渓谷で見られるメランジュ

     

    戦前の鉱物・岩石標本(平成22年10月)

      2008年3月、株式会社ニコン 相模原製作所より、鉱物岩石標本が寄贈されました。これらの標本は、株式会社ニコンが、自社製品のレンズ用ガラスの品質向上のための研究目的で購入・採集したということです。標本ラベルに「甲斐國」、「神奈川縣」など旧国名、旧字体で表記されているものも多くあります。また、「満州」、「朝鮮」、「東京府」と、標本ラベルに記載されている資料もあることから、少なくとも戦前に購入・採集したと考えられ、当時の標本の様子を今に伝える貴重な資料です。

     これらの標本の一部を、10月末まで、特別展示室で展示します。この展示は地質分野の博物館実習生が実習の一環で製作したものです。展示するのにあたって、産地を現在の市町村名に直したのですが、かなり苦労しました。また、地名だけからは現在の朝鮮民主主義人民共和国なのか大韓民国なのか、わかりにくい資料もありました。例えば「江原道」という行政区画は、朝鮮民主主義人民共和国にも大韓民国にもあります。そのため、どちらから採集された標本であるのかを突き止めるために、いろいろと資料を調べることになりました。(地質担当:河尻清和)

    富士山の玄武岩と標本ラベル
    富士山の玄武岩と標本ラベル 富士山の玄武岩と標本ラベル

    朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル
    朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル 朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル

     

    結晶作りに挑戦!(平成22年7月)

     水晶、ダイヤモンド、エメラルド・・・、美しい宝石の多くは鉱物であり、地球がつくったものです。美しい鉱物をつくることはできないのでしょうか?まったくできないわけではありませんが、大がかりな装置が必要になり、簡単にはできません。

     宝石になるような鉱物はできないけれど、きれいな結晶を作ることは可能です。そこで、相模原市立博物館では毎年、小学校4年生から中学生を対象にした子ども鉱物教室を開催し、参加者に結晶作りを体験してもらっています。この教室は毎年多くの方にお申し込みいただいており、毎回、抽選になります。今年は7月30日と8月6日に行われました。

     子ども鉱物教室ではミョウバンの結晶を作ります。ミョウバンは漬物を漬けるときに、色を良くするために使われています。うまく作ると10cmくらいの結晶もできるそうですが、鉱物教室では1cmくらいのものをつくります。今年は博物館のスタッフが大きな結晶作りに挑戦しました。5cmくらいの結晶ができましたが、透明ではなく、形もそれほど良くありません。もっといい結晶を作ろうと、現在挑戦中です。うまくきれいな結晶ができたら、また報告したいと思います。(地質担当:河尻清和)

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