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Monthly Archives: 1月 2014

市史の窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
  • 津久井の撚糸(ねんし)や水車の話を聞きました

津久井の撚糸(ねんし)や水車の話を聞きました

 夏の暑さが残る9月15日(木)、「串川流域の撚糸業」をテーマとした座談会が津久井町史編さん会議室で開かれました。この座談会は、津久井町史の機関誌『ふるさと津久井第5号』(平成24年3月刊行予定)で「養蚕と織物」の特集を組むにあたって企画したものです。

 「撚糸」とは、1本または2本以上の生糸を引きそろえて撚り(より)をかける(ねじりあわせる)ことをいいます。絹織物はおよそ養蚕→製糸→撚糸→染色→製織という工程を経て作られ、撚糸の工程では、織物の種類など用途にあわせて撚り方や太さを調整しながら、細い生糸を撚りあわせて織物用の糸を作ります。

 撚糸といえば愛川町の半原地区が有名ですが、もともと養蚕・製糸や製織が盛んだった津久井地域でも、明治~昭和にかけて、串川流域を中心に撚糸が盛んに行われるようになりました。明治~大正頃には、撚糸の機械を動かす動力として水車が利用され、串川流域には130台以上の撚糸用水車があったことが近年の調査で確認されています(津久井町文化財保護委員会編『つくい町の水車』、平成16年)。

 しかし、動力が水力から電力に変わり、撚糸業が衰退した現在では、串川流域に残る水車は一つもなく、かつて盛んだった撚糸を知る人も少なくなりました。

座談会の様子
座談会の様子

 そうした中、撚糸に関する座談会を企画し、ご出席いただける方を探したところ、串川流域にお住まいで撚糸関連の仕事に携わった経験のある4名の方が集ってくださいました。2時間にわたる座談会では、沼謙吉氏(津久井町史編集委員会近代・現代部会長)の司会のもと、出席者の皆さんから、串川沿いにあった水車のこと、撚糸の機械のこと、生産していた糸や販売先のことなど、自らの経験に基づく貴重なお話をうかがうことができました。

 また、座談会の前週に開かれた津久井町史懇話会においても、座談会の内容に関連して、津久井地域の水車のお話をうかがう機会を得ました。ここでも、地元に詳しい皆さんから、水車があった場所やその用途、水車を修理する機械大工の話など、興味あるお話をうかがうことができました。

 この座談会の内容を地域の皆さんにお伝えするとともに、記録として後世に残していくため、現在、『ふるさと津久井第5号』への掲載に向けた編集作業を進めています。また、町史懇話会でのお話は、座談会の記事をまとめる際の参考とするとともに、地域に関する貴重な情報源の一つとして活用するため、テープ起こしの作業を行っています。

 普段当たり前にあることは、記憶には残っても記録には残りにくいものです。仮に、書類や写真が残ったとしても、それが大事と思われなければ、いずれなくなってしまうことでしょう。今回、たくさんのお話をうかがう中で、これからも多くの人やモノや自然に触れ、地域にとって大切なもの、将来に伝えたいことを見逃さないようにしたいと感じています。(町史担当:草薙由美)

市史の窓(平成22年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
  • 社寺文化財調査(泉龍寺、望地弁天堂)(平成22年12月)
  • 丹沢稜線部の昆虫類調査(津久井町史自然編)(平成22年10月) 
  • 市史を作るために調査します(平成22年7月) 

社寺文化財調査(泉龍寺、望地弁天堂)(平成22年12月)

 博物館市史編さん班では、市史『文化遺産編』に収録する彫刻、日本画などの社寺文化財調査を行っています。

 ここでは、昨年度の調査から南区上鶴間本町にある泉龍寺と中央区田名・望地弁天キャンプ場内にある望地弁天堂を紹介します。

泉龍寺の三重塔 (南区上鶴間本町)
泉龍寺の三重塔
(南区上鶴間本町)

 泉龍寺では、涅槃図、十王図などが調査対象として拝見することができました。また、この寺院には、昭和62年に建造された三重塔があり、市内ではここだけと思われます。その圧倒的な存在感からはそれ以上の歳月の流れをも感じさせます。山門は古くからあるもので、その両脇には阿形像、吽形像一対の仁王像が安置されています。

 望地弁天堂の祠 (中央区田名)
望地弁天堂の祠
(中央区田名)

 望地弁天堂の祠は、桧皮葺(ひわだぶき)の立派なもので、市指定文化財である弁才天が安置されています。管理をされている方の話では、その方が以前古老から聞いた言い伝えによると、弁才天には3姉妹説があり、長女が江の島の弁才天で、望地が次女、三女は鹿児島の方に安置されているとのことでしたが、現在ではその話を伝承できる人はいないそうです。

(市史担当:佐藤洋二)

 

丹沢稜線部の昆虫類調査(津久井町史自然編)(平成22年10月)

 今年(2010年4月)から、津久井町史刊行の業務が博物館に加わりました。今までに資料編として「考古・古代・中世」、「近世1」、「近代・現代」の3巻が刊行されていますが、今後も「資料編近世2」、「自然編」などを刊行していく予定です。

檜洞丸(ひのきぼらまる)方向から大室山を望む
檜洞丸(ひのきぼらまる)方向から大室山を望む

 自然編を刊行するための基礎調査では、特別な許可を得て丹沢稜線部の昆虫類調査も実施しました。稜線部を歩きながら、ここも相模原市なのかと思わせる自然豊かな光景が広がり、本市の自然の多様性に驚きます。一方、さまざまな要因で枯れていくブナの大木や崩落した緑地を目にすると、調査結果をどう伝え、どのように読んでもらうのか、自然編刊行の大きな責任を痛感します。(町史担当:守屋博文)

 

市史を作るために調査します(平成22年7月)

 市史を編さんする担当になって驚いたことがあります。それは市史を編さんするために多くの調査が行われていることです。

例えば「考古編」ですが、過去に行われた調査を集約すれば作れるものだと思ってしまいがちです。もちろん過去の調査を利用するものもたくさんあります。しかし実際には、市史編さんをきっかけにした調査が行われているのです。

 先日も、市内上矢部にある土塁に置かれていた石造物の一部について調査を行いました。このような調査の積み重ねが、市史を作っていく上で、欠かせないことなのだと実感しました。(市史担当:塩谷裕久)

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天文の窓(平成24年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
  • “さがぽん”(平成24年2月)

“さがぽん”(平成24年2月)

“さがぽん”をご存知でしょうか?柑橘系の新品種ではありません。 2011年4月から、土曜日、日曜日、祝日及び特別上映期間(夏休みなど)に、こども向けプラネタリウム番組の投影を始めましたが、この番組のキャラクターとして登場したのがタヌキの“さがぽん”です。

ぬりえ
ぬりえ

 誕生以来2年余りになりますが、“さがぽん”をより多くの方にPRし、親しんでいただこうと、様々なグッズが登場しています。ぬりえ、缶バッチ、紙粘土製の人形やスタンプ、市民学芸員(=博物館ボランティア)さん手作りのワッペン、ぬいぐるみ、そして“なりきり”さがぽん撮影コーナーには、着用できる帽子と尻尾も用意されています。お子さまには大好評。大人の方も、恥ずかしがりながらも撮影していらっしゃいます。ご来館の際は、ぜひご利用ください。

こども向けプラネタリウム番組は、“さがぽん”シリーズ第3弾「おしえて!さがぽん お日さまって なに色?」を投影中です。前半に今晩見える星や星座についてご案内し、後半は“さがぽん”といっしょにお日さまの光についての様々な疑問について考える内容になっています。幼児から小学校低学年までのお子さまとご家族が一緒に楽しめる番組です。

また、“さがぽん”の愛称をツイッターや博物館の太陽望遠鏡で撮影した画像をインターネットでライブ配信するsagapon TV など、活躍の場が広がってきており、今や当館のイメージキャラクターと化しています。

これからも、“さがぽん”をよろしくお願いします。

(天文担当 有本)

缶バッチ
缶バッチ

3D
3D

スタンプ
スタンプ

ワッペン
ワッペン

ぬいぐるみ
ぬいぐるみ

なりきりさがぽん
なりきりさがぽん

天文の窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
  • “十三夜”のお月見
  • 天文展示室リニューアルオープン(平成23年4月)

“十三夜”のお月見

 今年は、“十五夜”のお月見をされた方も多かったのではないでしょうか?

 天候の不順な日が続く中、平成23年9月12日(月)は、めずらしく晴れ渡った空に、まんまるのお月さまがとてもきれいでした。

 ところで、お月見のお手本にした中国にはない習慣が、わが国にあります。“中秋の名月”のひと月後、旧暦九月の“十三夜”の月を愛でるもので、“後の月”(のちのつき)とも言います。

 なぜ、“十三夜”なのか、その由来は、諸説ありますが、“十五夜”は、秋の長雨の時期で、雲間に見るなど、すっきりしない天気が多いのに対して、“十三夜”の頃になると、「十三夜に曇り無し」という言葉があるように、晴れることが多いようです。また、日本人独特の美意識にも関係がありそうです。

 中学、高校の「古典」の定番『徒然草』の137段は、こう始まります。

 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは」

 (訳)桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。

 作者吉田兼好のみならず、不完全なもの、未完のものの持つ美しさを理解する日本人だからこそ、生まれた習慣なのかもしれません。

 平成23年は、10月9日(日)が“十三夜”にあたります。(天文担当:上原徹也)

 

天文展示室リニューアルオープン(平成23年4月)

リニューアルオープンした天文展示室
リニューアルオープンした天文展示室

 財団法人日本宝くじ協会の助成を受けて、平成22年12月から平成23年3月までの間、整備工事を実施した天文展示室が『宇宙とつながる』をテーマとして、4月16日(土)にリニューアルオープンしました。

 博物館の立地環境からJAXAとの連携により、他市の科学館・博物館にはあまり事例がない実物の天体観測機器等の展示の実現が、このリニューアルの命題のひとつでしたが、小惑星探査機「はやぶさ」に搭載されたイオンエンジンの開発初号機や実際に宇宙空間で観測をして地球に戻ってきた宇宙赤外線望遠鏡(IRTS:アーツ)などの貴重な資料を借用し、展示することができました。

 その他、本物の隕石の展示など宇宙とのつながりを考えるヒントが詰まった展示構成となっており、博物館において“宇宙とつながる相模原”を実感できると思います。

 また、リニューアルに伴い、リニューアル前の天文展示室のシンボル的な展示だった大型地球模型を能代市子ども館へ無償譲与することとなり、去る6月26日には現地にて除幕式が行われました。「銀河連邦」の構成員である能代市の子どもたちに夢を与える贈り物ができたことは、大変うれしく思います。(天文担当:有本雅之)

天文の窓(平成22年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
  • 「はやぶさ」カプセル展示を振り返って(平成23年1月)
  • 宙(そら)からの贈りもの(平成22年11月)
  • 宙(そら)を望む(平成22年10月)
  • “宇宙につながる 相模原”(平成22年7月)

「はやぶさ」カプセル展示を振り返って(平成23年1月)

 相模原市立博物館とJAXAとの連携事業についての記事が、「博物館研究」第46巻第1号(平成22年12月25日 財団法人日本博物館協会発行)に掲載されました。「博物館研究」は、全国の博物館活動に関する研究論文・報告・展示案内等について普及・啓発することを目的として毎月発行されています。

 掲載記事は、当館建設当時の様子も含めて、小惑星探査機「はやぶさ」カプセル世界初公開の顛末をメインにした内容となっています。(天文担当:有本雅之)

 「宇宙航空研究開発機構(JAXA)との連携事業-小惑星探査機「はやぶさ」カプセル世界初公開」
(出典:博物館研究Vol.46 №1)(PDFファイル 355KB)

 

宙(そら)からの贈りもの(平成22年11月)

 当館は、今年11月20日に開館15周年の節目をむかえました。これを記念して11月20日(土)、21日(日)の2日間、プラネタリウム等で記念事業を開催しました。

当日エントランス
当日エントランス

 11月20日は、エレクトーン演奏家 神田 将(ゆき)さんによるプラネタリウムコンサート「宙(そら)からの贈りもの」を開催しました。神田さんがたったひとりで奏でる“フルオーケストラ”をほうふつさせるような迫力のあるエレクトーンのサウンドが満天の星空に響きわたりました。本市のシティセールスコピー「潤水都市 さがみはら」があらわす水と豊かな自然をイメージした楽曲と当館学芸員・スタッフが撮影した映像との共演や星空解説時の即興演奏もあり、その場限りの贅沢なBGMで満天の星空を堪能することができました。

 

プラネタリウムコンサート風景
プラネタリウムコンサート風景

  11月21日は、3つの記念事業を開催しました。東京造形大学によるワークショップ「みんなでわっしょい宇宙みこし!~宇宙の彼方へさぁ行こう!~」では、小学生たちが創意工夫により宇宙船を模したみこしを考案・製作し、JAXA宇宙科学研究所に展示してあるロケットの前まで練り歩きました。宇宙科学研究所の阪本成一教授によるオモシロ楽しい宇宙の話には、目を輝かせていました。子どもたちが宇宙への憧れや夢を抱く、よいきっかけになったものと思います。

JAXA宇宙科学研究所のロケット前にて
JAXA宇宙科学研究所のロケット前にて

 プラネタリウムにおいては、女子美術大学による「こどもアニメーションフェスティバル」の優秀作品と、当館が開催した「子どものためのワークショップ 生きものアニメーションをつくろう」の参加者が作った作品の上映会、そして武蔵野美術大学学生によるパフォーマンス「ライツ・オブ・ディスタンス」を行いました。

 今回の記念事業は、大学や研究機関との連携によるプラネタリウムの取り組みなど、今後の博物館事業への手がかりとなりました。(天文担当:有本雅之)

 

宙(そら)を望む(平成22年10月)

 博物館の屋上には、ドームの直径が6mの天体観測室があります。その中に置かれているのが県内最大級の口径40cmカセグレン式反射望遠鏡(焦点距離6m)です。直径40cmの鏡(凹面鏡)で宇宙からの光をとらえます。集光力(=肉眼に対してどれくらい光を集められるかを表した数値)は何と約3,265倍!パソコンによって暗い天体も自動で正確にとらえることができます。

天体観測室
天体観測室

 口径40cmカセグレン式 反射望遠鏡
口径40cmカセグレン式
反射望遠鏡

  金曜日に行っている星空観望会(事前申込制(*))では、この望遠鏡のほか、移動式の口径30cmシュミット・カセグレン式反射望遠鏡や大型の双眼鏡などを用いて、季節の代表的な星座や、惑星・月などを楽しんでいただいています。

夜の観測テラス(奥は天体観測室)
夜の観測テラス(奥は天体観測室)
星空観望会の様子
星空観望会の様子

 開館以来、今年9月に開催回数366回、参加者数は延べ14,273人になりました。これまでは、8月開催分を除き、抽選をすることなくご参加いただけましたが、今年は例年と様子が違い、8~10月開催分の3ヶ月連続で抽選(倍率2~3倍)という状況です。これも、小惑星探査機「はやぶさ」の話題をきっかけにして、天文、宇宙への興味関心が高まっていることの表れなのかも知れません。「はやぶさ」がもたらしてくれた嬉しい効果のひとつです。(天文担当:有本雅之)

*星空観望会は、開催月の前月の1日~15日までの期間に参加者を募集します。詳しくはこちらをご覧ください。

 

“宇宙につながる 相模原”(平成22年7月)

90-06tenmon220701 90-06tenmon220702 地球が誕生した46億年前の記憶を探るため、小惑星の表面から物質のサンプルを採取し、地球に持ち帰る使命を与えられた探査機「はやぶさ」は、幾多のトラブルを乗り越え、約7年、60億kmの長旅から地球に帰ってきました。数々の世界初の偉業を成し遂げた「はやぶさ」本体は、2010年6月13日深夜、大気圏突入で燃え尽きてしまいましたが、「はやぶさ」の活動は、今も私たちに夢と希望と感動を与え続けています。

 7月30日、31日には、JAXA相模原キャンパス特別公開の目玉企画としてカプセルなどが博物館で世界初公開され、2日間で延べ3万人がご覧になりました。壮大な宇宙へのロマンを感じた人もいらっしゃるのではないでしょうか?観覧を待つ人の列は、炎天下にもかかわらず、終始途切れることなく最大で約4時間待ちとなり、「はやぶさ」人気を改めて実感しました。

はやぶさのカプセルの展示風景 カプセル見学のための長蛇の列  「はやぶさ」地球帰還に先駆けて5月21日に打ち上げられた、金星探査機「あかつき」、宇宙ヨット「IKAROS」などの相模原生まれの探査機が次々と開発・運用されています。太陽系や生命の起源・進化に迫るべく、「はやぶさ」に続く「はやぶさ2(仮称)」ミッションが計画されるなど、相模原は宇宙につながる世界的なまちなのです。(天文担当:有本雅之)

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生きものの窓(平成24年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
  • 見かけ倒し?真冬の果実(平成25年1月)
  • 生きものの持ち方(平成24年10月)
  • 夏の花粉症(平成24年7月)
  • 広がりもせず、絶えもせず-不思議な外来植物(平成24年4月)

見かけ倒し?真冬の果実(平成25年1月)

  鳥たちにとって、冬は食べ物探しに苦労する季節です。一年中植物の種子を食べるハトや、水中の魚などを捕るために、ほとんど季節に関係無く食べ物が得られる水鳥を除くと、冬は鳥たちが「食べること」にすべてをかけなくてはいけない厳しい季節です。

トキワサンザシ
トキワサンザシ

 そんな中、博物館の庭に、真冬に実る果実があります。そのありがたい植物はというと、ヤブラン、マンリョウ、ノイバラなど。博物館にはありませんが、今、家々の庭でたわわに実を付けている園芸樹木のトキワサンザシ(ピラカンサ)もその一つです。

ところが、見ているとどうもこれらの果実は、売れ行きが芳しくありません。樹木の果実は一般的に、豊作と不作を周期的に繰り返します。秋深く実るドングリやそのほかの果実の不作が重なった年は、これらの真冬の果実もよく食べられています。しかし、年によってほかの果実が豊作だと、とうとう食べられずに春先まで残ってしまうことがあります。

こんなに美味しそうに実っているのになぜ?と思い、これらの果実の中身を割ってみることにしました。なんと、ヤブランやマンリョウは、果実とほとんど同じ大きさの種子が一つ入っているだけでした。果肉はほとんど無く、わずかに汁があるだけ。ノイバラは水気が無く、お世辞にも美味しそうなシロモノではありません。

左)ヤブラン、右)マンリョウの果実
左)ヤブラン、右)マンリョウの果実
皮をむくと、大きな種子が一つだけ!
皮をむくと、大きな種子が一つだけ!

 鳥たちが好むのは、エネルギー源となる糖分や脂肪分が果肉に豊富に含まれている果実です。植物にとって果実のほんとうの中身である種子は、ほとんどの鳥は消化せず、フンやペリット(未消化物をまとめてはき出したもの)としてそのまま排出されます。じつは、植物はこれをねらっているのです。自ら動くことのできない植物は、子孫を新しい場所で芽生えさせるために、さまざまな方法で種子を運ばせます。果実の多くは、鳥に食べてもらい、飛び回るうちにフンとして種子を落としてくれれば目的を果たしたことになります。

動物とちがって、植物は親のすぐ近くでは日照が足りず、子どもがうまく育ちません。多くの果実の果肉部分には、種子の発芽を抑制する物質が含まれていることが知られています。鳥が食べて果肉を消化し、離れた場所でフンとして出して初めて発芽する体制が整うという、ご丁寧な仕掛けまで備えているのです。

さて、真冬に実る果実は、どうも鳥たちの足下を見ているようです。果肉に糖分や脂肪分をサービスするコストをかけなくても、鳥たちは食べ物に困って食べてくれるだろうと踏んでいるわけです。といっても、食べ残される年も多いことを考えると、やっぱりそうそううまくはいかないのでしょう。

今年は冬鳥の渡来数が多く、木の実は作柄が芳しくなかったという情報があります。そろそろこれらの木の実に手が付けられる日が近いかもしれません。

(生物担当 秋山幸也)

 

生きものの持ち方(平成24年10月)

夏休みも後半の8月29日に、「小中学生のための生物学教室」を実施しました。定員を2倍近く超えるご応募をいただいたため、泣く泣く抽選して参加者を決めることになってしまいました。

さてその教室ですが、午前中は植物を扱い、花粉管の伸びるようすを観察するというオーソドックスな生物学の実験と観察を行いました。午後は、これまでやったことのない内容を試みました。それは、「生きものの持ち方教室」です。

講師は動物カメラマンの松橋利光さんと、ペットショップのオーナーの後藤貴浩さん。松橋さんは、両生類、は虫類を中心として図鑑や写真絵本で独自の世界を築いている人気カメラマンです。じつは、まさに「持ち方大全 プロが教える持つお作法」(山と溪谷社)という本も出している“持ち方マスター”です。後藤さんはもちろん職業柄、あらゆる動物を扱いますし、今回、なかなか手に取ることのできないいろいろな動物を持ってきてくれました。

ウサギの持ち方を松橋さんから教わる
ウサギの持ち方を松橋さんから教わる
ヘビも持ってみるとかわいいもの (左:ボールパイソン、右:コーンスネーク)
ヘビも持ってみるとかわいいもの
(左:ボールパイソン、右:コーンスネーク)
アニメの世界から飛び出してきたようなヨロイモグラゴキブリ
アニメの世界から飛び出してきたようなヨロイモグラゴキブリ

 生きもの好きが集まる教室ですから、子ども達、大興奮でした。ただ、これは持って遊ぶ教室ではないので、生きものを傷つけない、弱らせない持ち方をしっかり解説してもらいます。

今回扱う動物は、犬や猫などペットとして何千年もの歴史のある動物ではなく、いわゆる“エキゾチック系”(ペット業界や獣医師の間で、犬猫以外の動物をこう呼びます)。ウサギに昆虫に甲殻類に…そしてヘビやカエルなど。できれば人間になんて持って欲しくないと(たぶん)思っている動物ばかりです。松橋さんによると、コツは、「動物にあきらめさせること」。つまり、暴れさせず、どうにもならない、降参、と思わせる持ち方が大事だということを教わります。

それでも、気持ちを抑えきれないのが生きもの好きの子ども達。自分たちもまるっきり同じだったので、なでまわしたり肩にのせてみたり、多少のことには目をつむります。それよりも、普段持ったことのない、あるいは、持てるなんて思ってもみなかった動物を持てたという記憶を持ち帰り、そして、その生きものをこれから身近に感じてもらえればこの教室の目的を果たしたことになります。さて、教室参加者の子ども達、今頃は「飼いたい!」とおねだりしておうちの人を困らせているかな? (生物担当 秋山幸也)

 

夏の花粉症(平成24年7月)

花粉症の原因植物と言うと、まっさきにスギが挙げられます。他には?と尋ねられれば、ヒノキ、そしてオオブタクサあたりが次に来るでしょうか。季節的にはスギ、ヒノキは早春、オオブタクサは夏の終わりです。しかし、晩春から初夏にもかなりひどい症状が現れる人もいます。

ネズミムギ
ネズミムギ
カモガヤ
カモガヤ

 その犯人はというと、イネ科植物です。花粉症の原因植物はすべて、風に花粉を飛散させる風媒花(ふうばいか)です。虫に花粉を運んでもらう虫媒花(ちゅうばいか)の花粉は一般的に粒が大きく、また、粘着性もあるので、風で飛ぶことはありません。従って、花弁があって花が目立つ植物は、自然の状態では花粉症の原因とはなりません。逆に、いつ咲いたのかわからないようなイネ科植物などは、まずほとんどが風媒花だと思って間違いありません。

中でも、5月頃から道ばたや、草刈りがあまり行われない草地などにはびこるネズミムギやカモガヤは、代表的な原因植物です。写真を見れば、おそらくご近所で普通に目にされているのに気付くことと思います。花弁が無いのでわかりにくいのですが、雄しべの葯(やく)が飛び出している時が、開花。つまり、花粉をたくさん飛ばしている時です。

もちろん、花粉症の原因となるイネ科植物はこの2種だけではありません。野外で見られる、葉が細長くてイネやアワ、ヒエなどに似た形の植物はほとんどイネ科だと思って間違いありませんし、花粉症の原因となる可能性があります。じつは、イネも原因植物の一つです。8月頃、水田の近くで花粉症の症状が現れる人はイネに反応しているかもしれません。

ところで、花粉症の複合的な原因の一つに、自動車の排気ガスによる大気汚染が疑われています。ネズミムギやカモガヤがクローズアップされるのには、花粉の飛散量が多いことに加え、市街地との相性の良さがあるのかもしれません。

8月から秋にかけては、もう一つ強力な原因植物があります。それは、カナムグラです。茎に小さなとげがびっしりと生えていて、他の植物やフェンスなどにからみつく、つる植物です。花はやはり、花弁が無くて目立たないのですが、開花期にこの植物を揺らすと、もうもうと煙のように花粉が舞います。

こうして見てみると、冬を除いて一年中、花粉症の原因植物が咲いていることになります。私も何を隠そう、イネ科やカナムグラに反応しやすい花粉症です。植物を扱うことが多いだけに、悩ましい問題です。野外調査に出る時は、季節やフィールドの環境によって事前に抗アレルギー薬を飲むなど、花粉症のスイッチが入る前に手を打つようにしています。(生物担当 秋山幸也)

カナムグラ
カナムグラ

カナムグラの花
カナムグラの花

 

広がりもせず、絶えもせず-不思議な外来植物(平成24年4月)

 相模原市南区の、さらに南の端。国道16号線沿いのある一角に、神奈川県内ではここでしか確認されていないという、珍しい外来植物があります。外来植物なので、本来ここにあるべきものではありません。従って、珍しいからと言って絶滅危惧植物というわけでもありません。でも、神奈川県の中でたった1カ所、ここだけ。やっぱり注目せずにはいられません。

ニセカラクサケマン 歩道に沿った20mほどの範囲にだけ生育
ニセカラクサケマン
歩道に沿った20mほどの範囲にだけ生育
花は形も色合いもかわいらしい
花は形も色合いもかわいらしい

 その植物とは、ニセカラクサケマン(ケシ科)。いかにも外来植物らしい名前です。外来植物の和名には、「よそ者」、「招かざる者」というニュアンスが込められたものが少なくありません。「ニセ○○」、「○○モドキ」、「イヌ○○」…。頭にイヌとつくのは、有用とされる植物に似ているけれど、あまり使い物にならないというような意味のようです。なんだかつけられた植物にも、犬にも失礼な話ですね。ちなみに、ニセカラクサケマンの本家扱いのカラクサケマンも、外来植物です。

 さて、そのニセカラクサケマンですが、現在書店で市販されている図鑑でこの名前を探そうとすると、なかなか難儀です。私が知る限り、『日本帰化植物写真図鑑 第2巻』(全国農村教育協会,2010年)しかありません。地方限定の出版物や学術報告書などではほかにもありますが、いずれにせよ、極端に知名度の低い植物であることは間違いありません。

 この場所でニセカラクサケマンが発見されたのは、2003年のことです。相模原植物調査会の会員が見つけて、『神奈川県植物誌2001』などにも記載がないことから、神奈川県新産であることがわかりました。以来9年経ちましたが、不思議なことに、周辺に広がりもせず、絶えることもありません。越年草なので、毎年しっかりと結実し、発芽、越年して代を重ねていることになります。

 外来植物というと、在来の生態系に悪影響を与える特定外来生物がクローズアップされることが多いため、よい印象を持たれることはほとんどありません。事実、在来の植物の生育を脅かすような広がりを見せているものもあり、油断はできません。でも、視点を変えてみると、在来の植物の生育環境を人間が改変してしまった場所へ、外来植物が緑の穴埋めをしてくれている、という見方ができる場合もあります。少なくとも私は、外来植物すら生えていないような環境を、想像したくありません。

 だからと言って、保護しましょうなどと言うつもりは毛頭ありません。しかし、幹線道路を走る自動車の風圧や排気ガスにも耐えて連綿と世代を重ねる姿に、ちょっと共感のようなものを抱いてしまうのも事実です。(生物担当 秋山幸也)

 

生きものの窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
 「標本レスキュー隊、立ち上がる」の記事は、ボランティアの窓に移動しました。
  • 「博物館のまわりのミニ観察会」を実施しています!(平成24年1月)
  • 木のくぼみに虫がごちゃごちゃ(平成23年12月)
  • 絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)の自生地をめぐる
  • 巨大グモが出たっ!
  • カイコを育てる(4)-いろいろな繭のはなし(平成23年7月)
  • カイコを育てる(3)-繭になる(平成23年7月)
  • カイコを育てる(2)-どれくらいの期間で繭をつくるの?(平成23年7月)
  • カイコを育てる(1)-最も研究されている昆虫(平成23年6月)
  • 春が来た(平成23年4月)

「博物館のまわりのミニ観察会」を実施しています!(平成24年1月)

観察会の様子
観察会の様子
ジョロウグモの卵塊
ジョロウグモの卵塊

  生物分野が今年度から始めたイベントに、「博物館のまわりのミニ観察会」があります。毎月1回、土曜日の午前に実施しています。じつは、樹木の多い博物館のまわりには、“自然観察のネタ”がゴロゴロあります。これを使わない手はない、ということで毎回約30分、季節ごとに異なるメニューで文字通り小さな観察を行っています。

 1月14日(土)のテーマは、「生き物たちの冬ごもり」です。博物館の樹木を代表する、入り口正面のクヌギの木が、今回のメインステージです。ここのごつごつした幹のすき間をよく見てみると…、何やら黒いかたまりがあります。参加者のみなさんには場所を教えずに「この幹のどこかにあるものがかたまっています」と言って探してもらいました。

 一番始めに見つけた親子連れのお母さんが、思わず「キャー!」。すばらしいリアクションです。そこにあったのは、前回の生きものの窓でも紹介した外来昆虫、ヨコヅナサシガメの亜成体のかたまり。もともと日本よりも南方に分布する昆虫ですが、相模原付近ではこの10年ほどの間に急激に分布をひろげています。そんな話題とともに、悲鳴を上げたお母さんにも気を取り直してもらい、冬ごもりのようすをじっくり観察します。

 次に観察したのは、ジョロウグモの卵のかたまり。網でつくった袋の中に、ぎっしりと卵がつまっています。何個入っているんだろう?とみんなで考えながら観察。

 そして、植物の冬ごもり、落葉樹の冬芽に注目します。博物館の前庭には、ミズキとクマノミズキというよく似た種類の木が混在しています。葉っぱを見るとどちらもそっくりで見分けがつきにくいのですが、冬芽はぜんぜん違う形をしています。全体的にそっくりなのに、冬芽というパーツだけ似ても似つかない様子を観察しました。

ミズキ(上3枚)とクマノミズキ(下3枚)の葉
ミズキ(上3枚)とクマノミズキ(下3枚)の葉

 ミズキの冬芽
ミズキの冬芽

クマノミズキの冬芽
クマノミズキの冬芽

 

 ミニ観察会には、ふだん何気なく通り過ぎてしまっている身近な自然に、ちょっと目を向けてもらうという目的があります。いつもより少しだけ顔を近づけてみると、それだけで生き物たちの不思議が見えてくる。そんな発見を参加者のみなさんと共有したいと考えています。

 なお、ミニ観察会で参加者のみなさんに配布している「博物館のまわりの これな~んだ新聞」は、このホームページ上でも公開しています。そちらもぜひご覧下さい。(生物担当 秋山幸也)

博物館のまわりの これな~んだ新聞

木のくぼみに虫がごちゃごちゃ(平成23年12月)

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越冬中のヨコヅナサシガメ 越冬中のヨコヅナサシガメ

   この季節、写真のように、黒・白・赤まだらの虫が、木の幹のくぼみにかたまっているのを見かけたことはありませんか?

 これは、ヨコヅナサシガメ(Agriosphodrus dohrni)というカメムシの一種の幼虫が、集団で越冬をしているところです。写真は、博物館の正面にあるクヌギの幹で撮影したものですが、桜の木で見られる事が多いようです。

 カメムシというと、植物の汁を吸うので農業害虫とされているものもありますが、サシガメの仲間は肉食性です。他の昆虫等を口吻で突き刺して、体液を吸うことによって餌をとっています。このため、不用意に掴むと刺されることもあります。

 その見慣れない風貌にびっくりされる方も多いようです。それもそのはず、この昆虫が関東地方で見られるようになったのは1990年代。もともと東南アジアや中国に分布していたものが、1920年代に九州に侵入し、分布を広げてきたと言われています。相模原市内でも10年程前には比較的珍しい昆虫でしたが、今は普通に見られます。

 日本列島を北上してきたことから、地球温暖化との関係を指摘する人もいますが、確かなことはわかっていません。

 寒い季節になりましたが、注意してみると意外にいろいろな生き物がいるものです。散歩の途中などで、ちょっと足を止めて、生き物さがしをしてみてはいかがでしょう。

(学芸班 木村知之)

 

絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)の自生地をめぐる

コマツカサススキ (カヤツリグサ科)
コマツカサススキ
(カヤツリグサ科)

  絶滅のおそれのある野生動植物(絶滅危惧種)をリストアップしてまとめたものを、レッドデータブックと呼びます。全国版は環境省が作成し、さらに各都道府県版がそれぞれの地域で作成されています。神奈川県では県立生命の星・地球博物館が学術報告書として刊行し、当館が日常的に行っている調査成果も、少なからずこれに反映されています。

 では、絶滅危惧植物とは実際、どんなものなのでしょうか。今回は、市内に生育する、とある絶滅危惧植物をご紹介します。ただ、絶滅危惧種という性質上、場所について詳しく書けませんがその点はご了承ください。

 9月中旬のある日、市内の休耕地へ行きました。県内で確実な自生地は、もしかしたらもうここにしかないかもしれないという、ある絶滅危惧種の現状を確認するのが目的です。それは、コマツカサススキというカヤツリグサ科の植物です。

 写真を見ていただいても、「これが絶滅危惧種?」と思われるかもしれません。植物の好きな人にとっては大型で“華々しい”カヤツリグサのなかまなのですが、一般的には“地味”な部類に入れられてしまい、ウケはあまりよろしくないようです。

 市内には、オキナグサ(キンポウゲ科:絶滅危惧1A類)やカザグルマ(キンポウゲ科:絶滅危惧1B類)といった“スター級”の絶滅危惧種もあります。でも、コマツカサススキだって、れっきとした絶滅危惧1A類で、野生状態にあって最も絶滅の危険性が高いランクに入れられています。

オキナグサ(キンポウゲ科)
オキナグサ(キンポウゲ科)

カザグルマ(キンポウゲ科)
カザグルマ(キンポウゲ科)

 

ミズニラ(ミズニラ科)
ミズニラ(ミズニラ科)

 絶滅危惧種は、特殊な場所にばかりあるわけではありません。この休耕地には、ほかにもミズニラ(ミズニラ科:絶滅危惧1B類)が生育しています。この植物は水性のシダ植物なので、花すら咲きません。よくよく注意して探さないと見過ごしてしまいます。

 今、県内で絶滅危惧種にあげられている植物には、水田雑草と呼ばれてきたものや、里山の植物が多く含まれます。耕作の形態や農地をめぐる社会情勢の変化など、さまざまな要因から水田や里山の雑木林が減少したり、環境が大きく変わってしまったりしています。こうした植物が、人知れず絶滅していってしまわないよう目を光らせておくのも、博物館の仕事なのです。(生物担当 秋山幸也)

 

巨大グモがでたっ!

 博物館へのお問い合わせの中に「家の中に巨大なクモがいる。危険なものではないのか。」というものがよくあります。クモの特徴をきくと、どうやら「アシダカグモ」らしい、という場合がほとんどです。

アシダカグモを上から見たところ
アシダカグモ

 アシダカグモというのは、日本最大のクモで、体長(頭からお尻の先までの長さ)が、大きな個体では3センチ位。足を広げた大きさは10~12センチくらい。「CD盤くらいの大きさだった」という表現もしばしば聞かれますが、実際には、足を広げてもCDよりふたまわりほど小ぶりです。いわゆる「クモの巣」のような網は張らずに、獲物を待ち伏せして捕らえる習性があります。人家に好んで住み、主にハエやゴキブリを食べています。そういった意味では、たいへんな「益虫」です。

 このクモに出会ったらどうしたら良いでしょうか?

 人間がわしづかみにしたりしなければ、クモの方から襲いかかってきたり、噛み付いたりする事はありません。そうっとしておきましょう。もし目障りな場合は、ほうきや軽く丸めた新聞紙などで追いやると良いでしょう。動きがすばやいので、捕虫網がないと、つかまえるのは難しいと思います。

 大変面白いことに、よく似た「コアシダカグモ」という種は、森や林でしか見かけません。どうやって住み場所を選んでいるのか不思議ですが、よりによってなんで我が家を選んでくれたのか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、人は見かけではありません。クモもまた同じです。その働きに免じて、居候を認めてあげても良いように思います。

(学芸班 木村知之)

 

カイコを育てる(4)-いろいろな繭のはなし(平成23年7月)

 (左)1頭で作られた繭と(右)玉繭
(左)1頭で作られた繭と(右)玉繭

  たくさんのカイコを育てていると、まぶしの1つの部屋にうまく1頭ずつ入ってくれるとは限りません。どうしても、2頭がいっぺんに入って繭を作ってしまうことがあります。ふつう繭は楕円体ですが、2頭で作った繭は少し大きめで球体に近く、しかも2頭分の糸が複雑に絡み合っています。このような繭を玉繭(たままゆ)と言います。

 生糸を生産するには、十数個の繭を煮てそれを1本に撚(よ)るのですが、この工程で、1頭で作られた繭と玉繭を一緒にすることができません。そこで、玉繭は生糸にせず、1個ずつ水でほぐして平面上に拡げます。これを乾かしたのが真綿(まわた)です。今、綿と言えば木綿や合成繊維が主流ですが、かつては布団に打つ綿と言えば、玉繭からつくられた真綿のことを指しました。 

交尾(左:オス、右:メス)
交尾(左:オス、右:メス)

 産卵するメス
産卵するメス

   さて、米や野菜を種子から育てるのと同じように、カイコも卵から育てます。養蚕では、卵(蚕種と言います)を生産する専門の業者がいて、たくさん糸を吐いて大きな繭をつくる優良な品種の作出に心血を注いでいました。

 蚕種を生産するには、カイコを成虫にしなくてはいけません。蛹になったカイコは、繭の中で12日ほどすると羽化して成虫になります。成虫は、繭を固めている「のり」を溶かす酵素を口から出して、繭をほぐすようにして出てきます。

 この穴あきの繭を、出殻繭(でがらまゆ)と言います。酵素は糸のまわりの「のり」だけ溶かして、糸の成分である絹タンパクを溶かさないので、この出殻繭の糸は、切れずにつながっています。撚り糸機にはかけられなくても、繊維として充分に利用できます。そこで、出殻繭をていねいに紡いで織物にしたのが、紬(つむぎ)です。絹の紬の産地は、たいてい、蚕種の生産が盛んだった地域と一致します。

 さて、撚り糸の工程で繭から出した蛹もまた、利用されてきました。佃煮にして子どもたちのおやつにしたり、家畜の飼料に混ぜられたりしました。今でも、釣具店に行くと釣り餌として「さなぎ粉」が売られていますが、これがまさに、カイコの蛹です。こうして余すところ無くさまざまに利用されてきたカイコのお話、まだまだ続きます。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(3)-繭になる(平成23年7月)

 ふ化してから4週間弱、体がやや縮んで飴色に透き通ってきたカイコを、「まぶし」に移します。まぶしとは、ボール紙を4センチ角くらいの格子状に組んだもので、博物館では職員が自作したものを使っています。

 まぶしの中で繭を作り始めるカイコ
まぶしの中で繭を作り始めるカイコ
だんだん丸い形ができてくる
だんだん丸い形ができてくる

  ふだん、餌が無くてもあちこち動き回らずじっと待っているカイコですが、このときだけは何かに突き動かされるようにウロウロします。繭(まゆ)をつくる場所を探し回るというよりも、ウロウロ動き回っているうちに、どうしようもなくなって同じ場所で糸を吐きまくっていたら繭になってしまった、という雰囲気です。

 糸を吐くと表現しましたが、正確には「引く」方が正しいかもしれません。繭をつくる糸は、カイコの体内の絹糸腺(けんしせん)という器官から、口のすぐ下にある吐糸管(としかん)を通って吐き出されます。しかし、体内ではまだ液体で、外に出て空気に触れた瞬間に固まって糸になります。そのため、カイコは常に頭を振って糸を引き出しながら繭をつくっていくのです。

そうしてまぶしの中に落ち着き、糸を吐き続けて半日ほどすると、うっすらと繭の外側ができてきます。さらに半日すると、はっきりと繭の形になりますが、中は透けてカイコが動いているのが見えます。丸2日ほどかけて繭が完成すると、中でカイコは脱皮して蛹になります。

 さて、農業としての養蚕は、産品である繭ができあがったこの時点で、まぶしから繭を取り外して出荷し、終了です。出荷された繭は熱乾燥して中の蛹を殺し、撚(よ)り糸の工程を経て絹織物の原料である生糸になります。農業から工業へのバトンタッチです。

 次回は、産品として余すところ無く使われてきた繭のいろいろについてのお話です。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(2)-どれくらいの期間で繭をつくるの?(平成23年7月)

 博物館では、今年もカイコを育て、実際に飼育のようすを3週間ほど展示しました。博物館の職員や、ボランティアとして毎週来られている市民の方々にも人気で、「大きくなったねえ」などと声をかけてもらいました。

さて、そんなカイコの成長についてよく尋ねられるのは、「ふ化してどれくらいで繭を作るのですか?」という質問です。「だいたい4週間弱です。」と答えると、ほとんどの方がその早さに驚かれます。少し詳しくご説明しましょう。

 カイコは一生のうち、6回脱皮をします。幼虫の間に4回、幼虫から蛹(さなぎ)になるときと、蛹から成虫になるときにそれぞれ1回ですから、合わせて6回です。最後の2回の脱皮は、繭の中で行われます。

 ふ化したばかりの1齢幼虫には毛が生えています。まだ体も頭も黒くて、知らなければこれがカイコとは思えません(カイコを育てる(1)参照)。産まれてすぐにクワを食べ始め、3日後にはもう最初の脱皮をします。2齢になると毛がなくなり、小さいながらも形はもうカイコらしくなっています。ただし、黒い斑点が体中に残ります。2回目の脱皮まで、やはり3日くらいです。この時、黒かった頭が褐色になり、色もカイコそのものになります。3齢は少し長くて、4日~5日くらい。3回目の脱皮の後、4齢はさらに少し長くて、6日くらいです。ちなみに、脱皮の前の1日~1日半くらい、カイコは頭をもたげて動かなくなります。体の内側で、新しい皮膚が作られているのです。この状態を、眠(みん)と言います。

 4回目の脱皮を終えると、いよいよ5齢(終齢)となります。5齢は7~8日で、このとき、カイコ1頭が一生に食べるクワの量(およそ25グラム)の8割以上を食べます。クワの葉をあげてもあげてもすぐに食べ尽くしてしまうので、担当者はしょっちゅう博物館の敷地内に植えられたクワの木へ葉を取りに行かなくてはいけません。他の職員から「たいへんだねえ」とねぎらわれるのもこの頃です。

3齢幼虫(眠の状態)
3齢幼虫(眠の状態)

5齢幼虫
5齢幼虫

クワの葉
クワの葉

 

 5齢になって約1週間、バリバリもりもりと食べ続けていたカイコが、突然食べなくなり、頭を八の字に振り始めます。体が少し縮み、色もなんとなく飴色に透き通った感じになります。これが、繭をつくり始める熟蚕と呼ばれる状態です。このタイミングで、繭をつくらせる「まぶし」に移すのですが、ここから先は次回といたします。(生物担当 秋山幸也)

 

カイコを育てる(1)-最も研究されている昆虫(平成23年6月)

 神奈川県の養蚕の灯は昨年秋、静かに消えました(バックナンバー「神奈川の養蚕、終わる」参照)。しかし、カイコは地球上で最も生物学的な研究が進んだ昆虫と言われています。発生のしくみから遺伝まで、膨大な研究成果が蓄積されています。

 たとえば遺伝学の祖、メンデル(1822-1884)がエンドウマメで発見した遺伝法則を、カイコを使っていち早く動物で実証したのが、神奈川県出身の外山亀太郎博士(1867-1918)です。また、外山博士はカイコの日本産品種とタイ産品種をかけあわせた一代雑種が著しく大きな繭をつくることを発見しました。この雑種強勢(ヘテローシス)という現象は今や、野菜や家畜の生産現場では常識となり、収量増加に大きく貢献しています。

 さらに、カイコはふ化の日にちをほぼ正確に調整することができます。休眠したカイコの卵を低温下に置いたのち、酸に浸けるなどの処置を施すことにより、休眠が打破されて発生が再開されるのです。この技術は、江戸時代から行われていました。

 このように、人間が飼育のためのさまざまな技術を発達させてきたカイコという昆虫は、生物学だけでなく、郷土の歴史や産業を学ぶための生きた教材として活用することができます。ふ化のタイミングをコントロールできることも、教材としてたいへん好都合と言えるでしょう。さらに有用性を補強するもう一つの大きなポイントは、「かわいい」ということです。ムシが嫌いという人でも、一度飼ってみると、たいていの場合カイコに限っては抵抗がなくなるようです。クワの葉を一心不乱に食べ続ける姿や、誰に教わるでもなく美しい繭をつくるようすは、何時間見ていても飽きません。

 相模原の、ひいては日本の近代化を支えたカイコという昆虫について、「生きものの窓」の中で引き続きご紹介していきたいと思います。(生物担当 秋山幸也)

カイコの卵とふ化したばかりの1齢幼虫
カイコの卵とふ化したばかりの1齢幼虫

脱皮前の2齢幼虫
脱皮前の2齢幼虫

 

春が来た(平成23年4月)

 この10年くらいの中で、今年ほど春の花を見ていない年はありません。そして、今年ほど春の花が待ち遠しい年もありません。

フデリンドウのつぼみ (平成23年3月30日撮影)
フデリンドウのつぼみ
(平成23年3月30日撮影)

 

フデリンドウの花 (平成22年4月初旬ころ)
フデリンドウの花
(平成22年4月初旬ころ)

 いつもの年なら駆け抜ける春を追いかけて、あっちへ行き、こっちへ行きと焦りながら走り回っています。しかし今年は遠出を控えて、身近な木々や草花の動きを見ています。すると、今まで春は足が速すぎると考えていたのが、じつは思い込みであることに気付きました。あちこち追いかけるから、速いと感じる。追いかけず、身近な場所に腰を据えて見ていると、その歩みは案外速くもなかったのです。むしろ、待ち遠しいくらいにゆったりと進んでいました。

 実際、今年は植物の動きが全体的に少し遅いようです。博物館の隣の林には、毎年たくさんのフデリンドウが咲きます。例年3月の末から咲き始め、4月に入ると遠目にも目立つようになり、中旬には数え切れないほどの花が咲き乱れます。しかし、今年は3月30日の時点でまだ1輪も咲いていません。やっとちらほらと、つぼみが伸びてきたところです。

 

ミミガタテンナンショウ (平成23年3月30日撮影)
ミミガタテンナンショウ
(平成23年3月30日撮影)

 ふとまわりを見回すと、ミミガタテンナンショウは他の植物の動きなど我関せず、というようにすくっと伸びて花を咲かせていました。こちらは例年とあまり変わりないか、むしろちょっと早いくらいのタイミングです。

 地球が回りさえすれば、必ず明日が来るし、季節はめぐります。決して裏切ることのない自然の歩みを、身近に感じる幸せがあります。一方で、牙をむいた自然の凶暴なエネルギーを目の当たりにして震え上がり、とまどい、そして残されたたくさんの悲しみに呆然とする私たちの姿があります。

 自然を相手にする仕事をしていながら、それを自然として冷静に扱う気構えはありません。ただ、身近なところに春が来ていることを見落とさないようにしよう、それを伝えようと考える毎日です。(生物担当 秋山幸也)

生きものの窓(平成22年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成22年度
  • 冬の河原(平成23年1月)
  • 神奈川の養蚕、終わる(平成22年12月)
  • キアシナガバチの巣(平成22年10月)
  • 最強のアザミ、あらわる!(平成22年7月)

冬の河原(平成23年1月)

 冬は生きものたちにとって厳しい季節。でも、厳しいからこそ、生きものたちの飾らない“素顔”が見られるのも、この季節です。

 1月。冬晴れのある日、緑区大島の相模川の河原にあるカワラノギクの保全地を訪れました。カワラノギクは、市内に自生する絶滅危惧植物です。種の保存のために、種子の採取と、越冬株(ロゼット株)の生育状況を調査するのです。この日は、博物館を拠点に活動する相模原植物調査会のみなさんと、丸石のすき間に生えるカワラノギクの株数を数えたり、同じような環境に生育するカワラハハコの分布状況を調査したりしました。

カワラノギクの調査の様子
カワラノギクの調査の様子

 調査の後、保全地のまわりを歩いて自然観察を楽しみました。すっかり葉が落ちた夏緑樹は、一見すると命の営みを止めてしまったかのように感じられます。しかし、春への準備は着々と進んでいます。アカメガシワやニガキの冬芽はたくさんの毛に覆われていて、毛糸の帽子をかぶったようです。これなら河原の強い寒風にも耐えられそう。

カワラノギクのたね
カワラノギクのたね

アカメガシワの冬芽
アカメガシワの冬芽

ニガキの冬芽
ニガキの冬芽

ニガキの冬芽
ニガキの冬芽

アカメガシワの若葉(6月頃
アカメガシワの若葉(6月頃

 ニガキの展葉(4月頃)
ニガキの展葉(4月頃)

 カワラノギクの花(11月頃) アカメガシワの若葉(6月頃) ニガキの展葉(4月頃)  葉が茂っている時には気付かなかった、鳥たちの巣もこの時期は簡単に見つけられます。低い位置に作るホオジロ、ちょっと高いところにはヒヨドリ、もっと高いところにはハシボソガラス。こんなにあったんだ!と思うくらい、河原には鳥たちの巣がたくさんあります。

ヘクソカズラの果実
ヘクソカズラの果実
ヘクソカズラの花(7月頃)
ヘクソカズラの花(7月頃)

 体全体に鋭いトゲをまとったサイカチは、葉が茂っている頃よりもトゲが目立ち、攻撃的です。ここまで徹底して武装するのには、遠い昔、食害する動物たちとよほど激しい戦いの歴史があったのでしょう。

 この時期も黄金色の光沢を失わないのは、ヘクソカズラの果実。人間にはひどい名前をつけられてしまいましたが、ヒヨドリなどの鳥たちにとっては大切な冬の食料です。

  観察を終えて帰途につこうとふと空を見上げれば、ノスリが円を描いて飛んでいます。抜けるような青空をおう歌するかのように、高く高く、見えなくなるくらい高く舞い上がっていきました。(生物担当 秋山幸也)

ホオジロの古巣
ホオジロの古巣

サイカチのトゲ
サイカチのトゲ

 大空高く飛ぶノスリ
大空高く飛ぶノスリ

 

神奈川の養蚕、終わる(平成22年12月)

桑畑で桑とりをする笹野さん夫妻
桑畑で桑とりをする笹野さん夫妻
 給桑する笹野さん
給桑する笹野さん

 日本の近代化を支えた養蚕と生糸の輸出。相模原はかつて県内でも有数の、養蚕の盛んな地域として知られていました。桑都八王子と生糸の輸出拠点であった横浜港をつなぐのが、いわゆる「絹の道」(神奈川往還)です。市域東部の主要な交通路である国道16号、町田街道、そしてJR横浜線は、繭や生糸の輸送効率を上げるために整備されてきた側面があります。

 その養蚕も近年は急激に生産量が減り、養蚕農家は数えるほどになっていました。そして今年秋、とうとう相模原から、いえ、神奈川県から養蚕の灯が消えることになったのです。

 近代以降の養蚕は、農家が卵(養蚕の世界ではタネと呼びます)から育てるわけではありません。優良な品種を安定して供給するため、孵化後しばらくは一括して営農センターなどが人工飼料を使って飼育し、2回脱皮をして3齢幼虫になったところで各農家へ配布するのです。そのため、1軒だけで養蚕を続けることはできません。今年、県内の養蚕農家は12軒。そのうち、4軒が相模原市内でした。

 博物館では、市内の養蚕農家である緑区上九沢の笹野さんと緑区根小屋の菊池原さんを取材し、菊地原さんのお宅では一連の作業を映像に収めました

 養蚕はたいへんな重労働です。3齢からさらに2回脱皮するまで2週間とちょっと。それまでは、脱皮前に2日ほど動きを止める「眠」の期間を除いて、ひたすら桑をあげ続けなくてはいけません。終齢の5齢になったカイコが桑を食べる勢いは、尋常ではありません。枝ごとあげた桑の葉が、みるみるうちに葉脈だけになってしまいます。

  5齢になって8日ほどすると、カイコの体全体が飴色になります。これが、糸をはく直前の「熟蚕」です。このタイミングを見計らい、繭を作らせる「まぶし」に移すのですが、この作業の前にも大仕事があります。カビや寄生虫に弱いカイコを守るため、まぶしも部屋も消毒を行うのです。繭ができて中でさなぎに脱皮した頃、今度はまぶしから繭をはずしてケバを取り、ようやく出荷となります。

まぶしの上をはいまわる熟蚕
まぶしの上をはいまわる熟蚕

 2010(平成22)年は、神奈川の養蚕が終了した年として歴史に刻まれました。しかし、産業としての養蚕が終わっても、その伝統技術や生物工学的な研究成果、そして教育素材としての利用の道はまだ残されていますし、それを後世へ伝えていかなくてはなりません。博物館でも、今後は文字どおりの「生きた理科教材」として利用していきたいと考えています。(生物担当:秋山幸也)

 

キアシナガバチの巣(平成22年10月)

 博物館に巣を作ったキアシナガバチの巣
博物館に巣を作ったキアシナガバチの巣

 これは、キアシナガバチの巣です。7月初旬から博物館正面入り口前の通路の天井部分に巣をつくりはじめました。木々に囲まれたこの博物館では、建物の周囲に毎年どこかしらで巣がつくられます。見やすい位置にある場合は、生きた展示物として案内表示を出してご来館のみなさまに観察していただいています。

 殺虫風景
殺虫風景
キアシナガバチの死がい
キアシナガバチの死がい

  しかし今年、キアシナガバチが巣の場所に選んだのは、よりによって通路の真上。注意を呼びかける張り紙とともに、しばらくようすを見ていました。折しも小惑星探査機はやぶさのブームでたくさんの方がご来館される中、来館者とのトラブルもなく、ハチたちの子育ては順調に進みましたが、8月下旬に、館内へ迷い込んだハチが来館者を刺してしまう事態がおきました。そこで8月25日、これ以上の被害を出さないために巣を撤去しました。

 来館者に被害が及んでしまったこと、結果的に子育てのピークにあるハチを、幼虫ごと殺してしまったことは、誠に申し訳なく、残念な結果です。昔から、軒にハチが巣を作るのは、その家の繁栄を象徴する縁起のよいものとされてきました。国際生物多様性年の今年、10月に名古屋でCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が開催されます。現代を生きる私たち人間と生きものとの共生の難しさを、改めて考えさせられました。(生物担当:秋山幸也)

オオスズメバチとキアシナガバチの比較

左がオオスズメバチ、右がキアシナガバチ
左がオオスズメバチ、右がキアシナガバチ
キアシナガバチ

 木の枝や軒先などに、巣を作ります。オオスズメバチのようなスズメバチ類に比べて小さめで、見た目がほっそりとしており、攻撃性もそれほど強くありません。巣を揺らしたり、手で払ったりしなければ、めったにさされる事はないと言われています。仲間にはセグロアシナガバチがいます。

オオスズメバチ

 日本最大のハチで、樹洞や屋根裏などに大きなボール状の巣を作ります。攻撃性が強く、巣の近くを通っただけで刺される事があります。仲間には、キイロスズメバチ、コガタスズメバチなどがおり、いずれも攻撃性が強く、刺傷例がよく報道されるのはこの仲間です。

 

最強のアザミ、あらわる!(平成22年7月)

 毎年、なにかしら新しい外来植物が入ってきて、あるものは消滅し、あるものは定着して分布を広げていきます。こうした外来植物がいつ、どのような経路で入ってきて、どう広まっていくのか。それを知るために、私たちは外来植物の情報に日々アンテナを張り巡らせています。

90-05ikimono220702 90-05ikimono220701 2010年5月、このアンテナがすごい外来植物の情報をキャッチしました。オオアザミというキク科の植物です。日本に渡来した歴史は古いのですが、神奈川県ではまだ野外の記録がありませんでした。それが横浜市の西のはずれ、相模原市からも近い場所に堂々と咲いているというのです。早速行ってみると、遠目にもわかる大きな株がありました。

 頭花を包む総苞という部分に、拷問具を連想させる4センチほどの強大なトゲがあります。もちろん、葉も茎もトゲだらけ。たくさんのアザミを見てきましたが、こんな攻撃的なトゲを持つ種類は見たことがありません。これを引っこ抜こうとするなら、手も腕も穴だらけになってしまいそうです。

 オオアザミよりもう少し小ぶりのアメリカオニアザミが今、幹線道路沿いに増えています。これも、草丈が伸びて気づく頃にはトゲだらけでうかつに触れないため、抜かれずに広まっているようです。オオアザミが相模原の路傍に幅をきかせる日も遠からず訪れるかもしれません。(生物担当:秋山幸也)

歴史の窓(平成24年度)

Posted on 2014年1月21日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成24年度
  • 「教科書」二題~戦時下の少年兄弟を思う(平成24年12月)
  • 戦地から故郷への便り~親子二代の軍事郵便を調べて(平成24年8月)
  • お江戸日本橋~景観も大切にした咢堂市長(平成24年5月)

 

「教科書」二題~戦時下の少年兄弟を思う(平成24年12月)

  去る10月、緑区在住の方から連絡が寄せられ、ダンボール箱2つにいっぱいの書籍類を点検する運びに。御本人曰く、「爺さんやオヤジたちが使ったものだけど、役立ちそうなものがあれば持っていって構わないよ。」とのこと。そこで箱の中身をざっと眺めたところ、明治期と昭和戦中期の教本類が多い印象を受けました。全件チェックし、状態の悪いものや一般書(娯楽本)を除いて“役立ちそうな”52冊を寄贈していただくこととなりました。その中から希少性を感じた「教科書」にまつわる話題をお届けします。

1つ目は、『警察実務教科書(警視庁警務部警務課教養係編)』。昭和8(1933)年9月から13(1938)年3月までに発行された5冊がありました。もちろん非売品です。これらは、寄贈者の父君(大正9(1920)年生・津久井出身)が<少年警察官>として警視庁Y警察署に勤務していた時に使われたものでした。<少年警察官>とはあまり耳になじみのない言葉ですが、もちろんこれは30年以上も前に流行したギャグ漫画の主人公が自称したものとは違い、戦前にれっきとして存在した未成年警察職員のことを指します。狭義には司法警察権をもった<巡査>もいたようですが、多くは内部庶務に就いた15歳以上20歳未満の少年たちの呼び名だったのです。実際、Y署に配属された父君の名を昭和15(1940)年警視庁職員録に<書記(少警)>として見出すことができ、別の書類から警視庁少年警察官第1期卒業生であったことも分かりました。

警察実務教科書(見開きは第二巻)
警察実務教科書(見開きは第二巻)

  右の写真が、該当の教科書です。第二巻(犯罪捜査の総論・各論)、第三巻(地理編~東京の地理と警察署)、第四巻(保安警察編其一~安寧・風紀・興行の3警察分野)、第五巻(保安警察編其二~交通・工場・建築の3警察分野)、第六巻(衛生警察編~衛生・医務・防疫・獣医の4警察分野)という具合で完全揃いでない点が残念ですが、市内に残された資料から帝都・東京の戦時治安を守る教程の一端を知ることができ望外の喜びでした。さらには『警察練習要書』『警察書道教本』なども見受けられたほか、『受験の研究 警察版』『受験と準備 警察版』や尾崎行雄(咢堂)が会長職を務めた大日本国民中学会発行の『正則 中学講義録』も大切に保存されており、必要な知識と教養を身につけ成年後には正規の警察官となれるよう一生懸命だった姿がしのばれました。

 もう1つは、下の写真の相模陸軍造兵廠技能者養成所で使われた各種『教程』。昭和16(1941)年11月から17(1942)年8月までに発行された17冊が残されていました。内訳は16年編さん13冊及び17年編さん4冊で、寄贈者の叔父が養成工員科第1学年(18歳ころ)と第2学年(19歳ころ)の時に支給されたものです。表紙には、「相模陸軍造兵廠技能者養成所」の角印と「127」「388」の番号印が押されています。番号は、それぞれの学年での生徒番号であったことが容易に想像できます。また別の書籍に自書した内容から彼は、廠内にあった生徒舎の第6寮14号室に寄宿していたことも判明しました。農家の次男坊も兄と同じく津久井の地を離れ、同じ年頃の仲間と肩を寄せ合い奮励努力していた光景が浮かんできました。

陸軍兵器廠発行の各種教科書 (見開きは16年編さんの物理及化学教程)
陸軍兵器廠発行の各種教科書
(見開きは16年編さんの物理及化学教程)

 ともかく、館蔵の相模造兵廠関連実物資料はわずかな図面類以外には存在しておらず、今回の寄贈によってその数を少し増やすことができました。一方、教科書という点では造兵廠に隣接した陸軍兵器学校の充実した資料をこれまで収蔵していることから、教養課程用と専門課程用で構成された当該資料との比較を行う意味でも重要性が高まるものと考えます。

閑話休題。3つ違いの兄弟は、その後も別々の道を歩んだそうです。兄は応召により南方戦線に従軍し、復員後は警察官にはならず津久井で家業の農業を継ぎ、弟は工員生活を経て、終戦後は横浜で家具職人になったとお聞きしました。今回の貴重な資料との出会いに及び、あの重苦しい時代の空気の中で大人になる一歩手前の少年が何を吸収し、将来に対し何を思ったかを考えずにはいられませんでした。そんな気持ちを乗せながら、未成年の若者の生きた証しが詰まった本のホコリを払ったのでした。(歴史担当:土井永好)

 

 

戦地から故郷への便り~親子二代の軍事郵便を調べて(平成24年8月)

美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便 (明治38年12月12日)
美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便
(明治38年12月12日)

 先月(平成24年7月)、手紙・軍隊手帳・日の丸寄せ書きなど50点ほどの戦争関係資料が寄贈されることとなり、事前にその内容について調べました。持ち主のお話を伺いつつ1点ずつ中身を明らかにしていったところ、全体の6割は軍事郵便で、持ち主の祖父が日露戦争に出征した時と父親が日中戦争に従軍した時のものがそれぞれ14枚ありました。当館所蔵の資料でも親子二代に渡る軍事郵便は見受けられず、貴重な出会いとなりました。

大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に 書かれた日中戦軍事郵便 (昭和18年8月8日?)
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に
書かれた日中戦軍事郵便
(昭和18年8月8日?)

 持ち主の祖父は、南多摩郡忠生村の生まれで、明治38年6月から7月初めごろに、物資の輸送を主な任務とする第3軍第1師団第26補助輸卒隊第1小隊第1分隊に入隊しました。軍事郵便を消印等の日付順で並べたところ、部隊の出国から帰国までの動きがわかりました。当初は、世田谷下北沢の森巌寺(しんがんじ)に駐屯し、その後は品川、広島・宇品(伊予丸乗船)、大連、鉄岺(軍務地)、大連(阿波丸乗船)、似島・広島、品川、下北沢、八王子経由で帰郷という、約8か月の流れが追えました。残された軍隊手帳にも従軍歴が明記され、これを補っていました。祖父の父親宛の14枚の便りからは身体の健康を通じて任務を無事に果たしたことが読み取れましたが、日露戦争を題材にした田山花袋の『一兵卒』に表現されたような悲惨さは手紙から読み取れませんでした。

 持ち主の父親は大野村出身で、昭和17年1月10日に牛込戸山町の近衛騎兵第1連隊東部第4部隊に入隊後、3月下旬ごろ中国大陸に渡ってハルビンの満州第92部隊に配属されました。この部隊は満州捜索連隊の配下にあったようで、演習の様子を伝えていることから歩兵部隊と同様に厳しい斥候・偵察任務があったことと思われます。手紙はすべて相模原町渕之辺の長兄にあてて出されました。家族・親類や出征した友人らの安否を尋ねている内容がほとんどでした。郵便は、昭和18年の夏を境に途絶えます。理由は、今となってはわかりません。彼は、結果的に<シベリア抑留>を受けますが、無事帰国できたうちのひとりということでした。

こうして2つの世代の軍事郵便を眺めてみると、いくつかの共通点が見られます。まず、両方とも筆跡・表現が一致していないハガキが多いことや差出人・受取人に誤字があることから口述代筆が頻繁に行われていたことが伺えます。

手紙の内容では、本人の無事を知らせながら遠い故郷の家人や親類・知人の消息を問うものが多いことから、識字や筆上手の問題はあったとしても、検閲制度の下では無難な体裁とするためのやり方であったことが想像できます。映画やTVドラマで、兵士自らが鉛筆をなめなめせっせと内地に手紙を書くというシーンを一考させるものでした。近年、検閲を経た郵便文面を分析することで、戦地の知られざる軍事行動を浮き彫りにするという斬新な研究報告例が見られます。望郷の便り1枚にも、“歴史を叙述する”働きが隠れている訳なのです。

さて、盛夏8月は日露戦争、第二次世界大戦にとって重要な時季でした。先の大戦については言うに及ばず、日露戦争では第1回旅順総攻撃や遼陽会戦(明治37)、ポーツマス講和会議(明治38)がありました。今回、何の奇縁か、真夏猛暑の中の調査となりました。しかし、身近な地域の資料により110年前、70年前に徴兵された人の動きや思いを知ることができたのと同時に平穏な時を過ごせることをとてもありがたく感じた次第です。(歴史担当:土井永好)

※大詔奉戴日(たいしょうほうたいび):昭和17年1月から20年8月までの毎月8日に図られた国民の戦時体制動員運動

 

 

お江戸日本橋~景観も大切にした咢堂市長(平成24年5月)

 今年は、尾崎行雄が明治45年東京市長最後の年に米国ワシントンにサクラの苗木を贈ってちょうど百年となる記念すべき年であり、かの地で咲き誇る桜花とともに日米親善の輪も大いに広がったとの報道がありました。またこの時期になると、改めて第2・3代東京市長時代の尾崎の足跡を読み調べる機会が増えますが、今回は身近で意外な一例をお伝えしたいと思います。

日本国道路元標をもつ日本橋 (花崗岩製2連アーチの美しい外観)
日本国道路元標をもつ日本橋
(花崗岩製2連アーチの美しい外観)

 皆さんは正月の箱根駅伝をテレビ観戦されますか?選手たちが往路スタート後、復路ゴール前に必ず通過する「日本橋」。江戸の名残を留めるそれまでの木橋から堅牢豪華な石橋に生まれ変わらせたのは、何を隠そう桜寄贈1年前の尾崎でした。よく市長時代の2大業績として「都市改造と桜寄贈」が喧伝されますが(本人は回顧で桜寄贈を過小評価!)、あいにく日本橋の改架についてはあまり語られないようです。理由は不可解ながら、明治44(1911)年4月3日の新生日本橋開通式における市長祝辞で「…その堅固を図ると共に美観を添へんと欲し…」と述べたそうで、欧米都市並みの文明化象徴として再建した功績は大きかったと言えましょう。東京のみならず明治20~30年代の大都市整備は時まさに欧化猛追であり、<木・土から石・鉄へ>の変換期でした。しかし尾崎は、建設事業を単なる土木工事に終始させるのではなく、文明国日本の首都の顔づくりを念頭に“地景の美しさ”という考えとマッチさせることにとても苦心したのでした(皮肉にも高度経済成長期に日本橋は高速道路の直下に…)。この間の事情について彼は「都市の美観」(『美術新報』連載の談話集)の中で述べながら、<在来美観の保存と破壊>という理想と現実のギャップを吐露しています。

尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類)
尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類) 尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板
(仮名と漢字の2種類)

 桜木寄贈も橋りょう改築も公費事業、つまり東京市に暮らした人々の汗の結晶に他なりませんが、国会議員を兼務しながらの9年間、率先して市区改正や築港整備、水源林買収など帝都のインフラ整備を導いた尾崎の奮闘なくしては実現できなかったことでしょう。そして何よりも土木や美術の専門家ではない百年前の一政治家が、その外遊経験等から得た知見を施政に活かしたという歴史的事実(美観形成を含む建築条例案の検討をはじめとした都市デザイン)に感心させられるのです。

 さて遣桜百周年でタイムリーとはいえ、また尾崎ネタとなりました。いよいよ開業した東京スカイツリーへ行かれる前にぜひ一度、“咢堂の忘れ形見”重要文化財・日本橋をじっくりとご覧になられてはいかがでしょうか。(歴史担当:土井永好)

 

歴史の窓(平成23年度)

Posted on 2014年1月20日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成23年度
  • 日本最初の留学生~伊東方成、三十にして立つ!(平成24年3月)
  • 明治天皇侍医の処方箋~東京の兄から上溝の弟へ(平成24年1月)
  • 軽井沢の咢堂翁(2)(平成23年9月)
  • 軽井沢の咢堂翁(1)(平成23年6月)

 

日本最初の留学生~伊東方成、三十にして立つ!(平成24年3月)

 前回「明治天皇侍医の処方箋」を閲覧された方々から「相模原出身にそんな偉人がいたなんて…」「もう少し方成について知りたい」など、多くの関心の声をお寄せいただきました。そこで蛇足ながら、日本史の隠れた1ページを飾るにふさわしい伊東方成の壮年時の動きについて紹介します。

  「文久年間和蘭留学生一行の写真」  ※1865年オランダ。  ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西  ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道 (国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)
「文久年間和蘭留学生一行の写真」
 ※1865年オランダ。
 ※前列左から沢太郎左衛門・ひとりおいて赤松・西
 ※後列左から伊東・林・榎本・ひとりおいて津田真道
(国立国会図書館所蔵・掲載許可/禁複製・転載)

 文久2(1862)年6月、幕府はオランダに発注した最大級軍艦(開陽丸と命名)の建造立会いと回航を名目として、若き有能な士分・職方16人を選抜し近代科学を本格的に学ばせるために初めて国外派遣しました。その中には、榎本武揚・赤松則良・西周ら維新後の新政府で手腕を発揮する面々がおり、時ちょうど脂の乗る30歳を迎えた伊東方成も長崎養生所での学友・林研海と一緒に医学を修めるため海を渡ることに。

 使節一行はオランダのハーグやライデンに居を構え各自の任務を果たしていきますが、伊東・林の両人はニューウェ・ディープにある海軍病院を拠点に他の仲間よりも滞在期間を延長して研さんに励みました。また伊東は、当地で「電信」を体験したようすで、アムステルダムにいる同僚・赤松に宛てた発信記録が伝わっており、“日本人初の電報利用者”としてのエピソードも残しています。

 明治元(1868)年12月の帰国後、伊東は宮内省典薬寮医師となり、名を玄伯から方成へと改めます(「方」は上溝村の実父・鈴木方策の1字に通じます)。翌年9月には大典医に昇進しますが向学の念冷めず、その1年後から3回の留学へ。再三の渡欧では特に眼科学研究に打ち込み、日本には無かった精巧な木製眼球模型の入手や視力検査表の翻訳などを行い、それまでの学恩に報いるため250ギルダー(現在の価値で推定500万円)をオランダ眼科病院に寄付し理事としてその名を留めるほどになりました。

 一方、帰国後には、箱館戦争の末に投獄された留学仲間の榎本を陰ながら支え、ついには榎本の新政府への出仕を仲立ちする役割も果たしました。ほかにも洋行経験の先輩であり榎本の助命にも尽力した福沢諭吉の病気(発疹チフス)治療に当たったことがわかっています。

 このように、方成には近代日本の知られざる立役者という側面もありますが、私には学問熱心で仲間思い、そして恩義に厚い幕末・明治人の姿が浮かんできます。その豊かな人間性は、きっと「三つ子の魂…」よろしく幼少時を過ごした上溝村の風土や人々との交流が育んだものなのでしょう。伊東方成(前名:伊東玄伯、鈴木玄昌)に関する内外の資料や情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報いただきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

 

明治天皇侍医の処方箋~東京の兄から上溝の弟へ(平成24年1月)

 

 昨年6月に、県内にお住まいの医師から上溝村出身の洋方医・伊東方成(いとう・ほうせい)についてのお問い合わせがありました。

 方成は、激動の幕末から維新期にかけて若い情熱を医学に捧げ、ついには従三位(じゅさんみ)勲一等宮中顧問官・侍医頭という栄職を極めた人です。彼の生涯は、『相模原市史』第二巻や市立中学校社会科副読本などで若干触れられていますが、その経歴に比べて知名度はあまり高くないようです。それは彼が若くして江戸へ出て、伊東玄朴(いとう・げんぼく)※の門弟・婿養子となったため、地元に関係資料がないことも理由のひとつと思われます。

 ところが、その問い合わせをきっかけに方成の生家をお邪魔した際、唯一伝来する方成直筆の書簡のすがたを知ることに…。今回は、この資料を調べる機会を与えていただいた御当主の承諾を得て、判読した書簡の概略を御案内します。

 明治28年10月の処方箋(一部) 「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
明治28年10月の処方箋(一部)
「ホミカチンキ 15滴」ほかの記載が見える
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右) (写真左は伊東玄朴の墓)
上野谷中・天龍院にある方成の墓(写真右)
(写真左は伊東玄朴の墓)

 書簡は2通ありました。1通は、納められた封筒の消印によると、明治27年5月9日の発信。もう1通は明治28年10月の書上げと思われ、封筒は付いていませんでした。ちょうど方成が、皇太子嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の御養育に精力を傾けていた時期です。2通の書簡には1年半ほどの時間差がありますが、中身はいずれも実家を継いだただひとりの弟(御当主の曾祖父)に宛てた処方箋と説明書きであることが判明しました。要約すると、慢性的な下痢症対策として<ホミカチンキ><アヘンチンキ><クミチンキ><ハッカ水><水>を適量調合し、1日3回の服用を勧めた内容となっています。チンキ剤の保管には気密容器を必要とし、当時の上溝(溝村)で簡単に入手できたかは定かでありませんが、方成の助力もあったかもしれません。

 方成は、明治31年に66歳で亡くなりました。亡くなる3、4年前に、4歳違いの年老いてきた実弟を案じて、晩年の宮中医師がふるさと・上溝へ宛てた貴重な手紙に出会えました。(歴史担当:土井永好)

※伊東玄朴(いとう・げんぼく)…蘭方医で後に幕府機関・西洋医学所の推進役。TVドラマ「篤姫」や「JIN-仁-」の登場人物にもなっています。

 

軽井沢の咢堂翁(2)(平成23年9月)

 「軽井沢の咢堂翁(1)」で紹介した尾崎行雄関係資料の所蔵者から、より詳しい調査のお許しをいただき、9月中旬に暑さまだ残る軽井沢の御宅を再訪しました。所蔵者には当館の調査に対し大きな理解と協力をいただき、関係氏名や資料自体の公開も快諾されましたので、支障のない範囲で示していくことにします(敬称略)。

 今回の訪問でも、所蔵者の話しぶりから、曽祖父・市村一郎と尾崎咢堂の親しい関係を垣間見ることができました。

村内遊歩中の休憩地にて (右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)  (「栽華園」所蔵)
村内遊歩中の休憩地にて
(右手前から市村、尾崎の二女・品江、咢堂)
(「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋  (「栽華園」所蔵)
咢堂が建設に協力した初代・倉賀橋
(「栽華園」所蔵)

 尾崎は、軽井沢生活において元駅前郵便局を頻繁に利用しており、初代局長であった市村一郎との縁はそこから深まることに…。当の市村は、ちょうど一回り歳の離れた尾崎を兄のごとく敬い、地元の東・西長倉村(軽井沢町の前身)や周辺地の案内役を務めるなど家族ぐるみのつきあいを広げたとのことです。 そんな市村に尾崎も心を許し、公私に渡る交流を通じて地域の課題解決にも協力したのではないでしょうか。

 調査では、資料の分類や調査カードの作成などを行いました。総点数では、概要を把握した6月時点から30点ほど増加しましたが、時間の制約もあり、全体の3割を調べるに留まりました。

 これらの資料群は、生地・相模原(緑区又野)と結びつくものではないかもしれません。しかし、大正~昭和初期の人間・咢堂を知る上で、こんなに“匂い”のある資料はなかなかお目にかかれるというものでもありません。根気よく地道に調査を続けていこうと思います。 (歴史担当:土井永好)

 

軽井沢の咢堂翁(1)(平成23年6月)

 今春、長野県軽井沢町在住の方から尾崎行雄(咢堂)に関するいくつかの資料情報をお寄せいただき、去る6月末にはその概要を調べる機会に恵まれました。お持ちの資料は、所蔵者の曽祖父が避暑地に集う多種多彩な人物たちと親交を結んだ内容を示すものでした。中でも尾崎とやりとりしたものが一番多く見られ、日常生活での意外な面を今に知ることができそうな気配が…。

 尾崎は生涯、生活の拠点を方々にもったことは周知の事実ですが、東京市長時代は北品川(東海寺跡)と軽井沢(莫哀山荘)の二重生活を繰り返しました。特に再婚した明治38(1905)年以降は、職責の重荷から心身を解放してくれる信州北佐久の気候・風土が大のお気に入りだったことが随筆等からうかがえます。

現在3代目の倉賀橋銘板
現在3代目の倉賀橋銘板

 当日短時間ながら拝見した尾崎関係資料は、別荘である莫哀山荘の維持・修繕等に関わる通信文や在京家族からの便り、軽井沢での記念写真、揮ごう類など150点余りを数え、状態良く収蔵されていました。永く個人蔵であったため未出資料を多く含み、尾崎が土地の住民に慕われ、いかに交流していたかを物語る貴重な品々がそこにありました。

 一例を引くと、初代「倉賀橋」(現しなの鉄道の信濃追分-御代田駅間にある跨線橋)架工にまつわる資料。これは、隣村まで含めて生活の利便を図りたいという発起人たちの要請に応えて、用地の仲介や橋の命名、記念碑の撰文などに当たったことが分かります。尾崎が軽井沢の住人として関わった地域活動の一場面を伝える資料と言えましょう。このような未知の資料につきましても、今後の博物館活動に活かすべく調査研究を続けていきたいと思います。(歴史担当:土井永好)

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