相模原の民俗を訪ねて(№94)
~緑区三ケ木新宿・団子焼きの際の囃子~(平成29年1月)
緑区三ケ木新宿地区のどんど焼きは、燃やすものは昨年のうちに準備しておき、行事自体は津久井中央小学校の道路向かいの畑の中で1月8日(日)の朝に行われました。本来は子どもたちの行事として育成会が主催していましたが、ここでも少子化の影響があり、今年から自治会の有志による「新宿団子焼き会」を結成して実施することとしたそうです。
三ケ木新宿では、行事にまつわるさまざまなお話しを伺うことができました。それは、例えば、以前は小中学校の子どもたちが準備から行い、山に木を集めに行って燃やすものは二階建てに作り、下に杉の枝などを積み、上側にはお飾りを入れたことや、三ケ木全体で15日朝に燃やすことに決まっていて、三ケ木の中の四地区(新宿と野尻・原替戸・中村)で競うように朝早くに燃やしたことなどで、ほかにもこの火で焼いた団子を食べると風邪を引かない、習字を燃やして高く上がると字がうまくなると言われていました。また、焼け残った炭は持ち帰った人もいて、囲炉裏の火種に使ったそうです。
写真1 点火したところ。中に石が入れられている
写真2 各家から団子を持ち寄って焼く
三ケ木新宿では30年ほど前までは、現在地の下側の道が曲がっている場所で行われていたそうですが、そこにはセーノカミの石が二つあり、この石もお飾りなどと一緒に燃やしていました。これは現在地でも行われていて、実施場所とともにセーノカミの石も移動されています。この石は子孫繁栄の男女の夫婦石と言われており、準備の際に中に入れておき、最後に灰の中から出てきたものを現在置いてある所に戻しています。ただ、残念ながらいつの頃からかセーノカミの石は一つだけになってしまい、今は一つの石を焼いています。市内及び周辺では、これまでに「民俗の窓」で紹介してきたように各地に道祖神の石を焼く地区が確認されており、旧津久井町でも現在も行われている地区があることが明らかになりました。
写真3 中央向って左のやや下側の灰の中に石が見える
写真4 取り出されたセーノカミの石。中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう。供養塔・墓碑塔)の一部分であり、県内ではこうしたものが道祖神として祀られていることも目立つ。
そして、大変注目されるもう一つのお話しを聞くことができました。50年ほど前までは火の神様として火災がないように、この火を燃やす時に囃す唄のようなものがあり、「団子焼きだい、丸焼けだい、道祖神の丸焼けだい」というもので、勢いをつけるために誰言うとなく、断続的にこの言葉を言いながら唄っていたと言います。県内では、道祖神が丸焼けになったなどと言いながら大声で笑うところがあり、旧津久井郡では他にもあったことが報告されていて、県内の道祖神行事の中でも津久井地域の特色とされています(平塚市博物館『相模の道祖神』)。
実は私もかつてこうした囃し言葉があったことはいくつかの本によって知ってはいたのですが、実際に行われていたものとして伺うことは初めてのことでした。その意味では津久井町史の文化遺産編のデータとして、非常に重要な資料を得ることができたといえ、ほかのさまざまな伝承とともに、より良い内容の本に向けてこうした成果を生かしていければと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№93)
~平成29年のどんど焼き(1)~(平成29年1月)
毎年恒例となった1月のどんど焼き(団子焼き)の調査は、昨年に引き続き、29年度刊行予定の「津久井町史文化遺産編」の基礎資料とするために、緑区の旧津久井町域の中で昨年に撮影できなかった地区を中心に7日(土)~15日(日)にかけて各地に伺いました。
今年は、この行事が本来実施されることが多かった14日が土曜日に当たったため、14日に行われる所が多いのではと予想したものの、実際はかなり日程はバラバラでした。
また、道祖神碑の前で火が焚かれたり(鳥屋道場・中野大沢)、道祖神碑と係わりがあることが見られる(中野奈良井・青野原西野々)など、かつての行事の伝承が伺える地区が確認されました。
昨年と今年の調査において、旧津久井町各地のどんど焼き(団子焼き)についてはほぼすべての地区を回ることができました。一連の調査の成果はもちろん町史文化遺産編に活用しますが、ここではその一部について一足早く紹介します。
今回掲載するのは、7日から順に加藤が訪れた地区を中心に、同時に何か所でも行なわれるために手分けをして町史編さん室の職員が回った他の所についても一部取り上げました。
特徴的な点が見られた三ケ木新宿地区については、№94として次に記します(民俗担当 加藤隆志)。
[7日]
写真1 青根 上野田 団子焼きは翌日の8日に行われる予定で、前日には道志川の河原に燃やすものが積み重ねられていた。
写真2~4 中野・奈良井 奈良井では場所が移動しており、元々行っていた場所にある秋葉灯籠から燃やす火種を子どもたちが運んで点火する。
写真5~6 青野原 上原・下原・嵐 昨年も掲載したが、ここでは道祖神の幟を上げている。今年はその準備の様子を撮影した。
[8日]
写真7~8 長竹・石ケ沢 それまでは水田で行っていたが、後片付けが大変ということで昨年から串川の河原で実施。火が熱いので団子を立てかけるものをその場で作った。
[9日]
写真9~10 青山 仲組・橋場・柿浜 青山自治会では、自治会単位ではなく、昔の組を単位として、現在は二か所で行われており、そのうちの一か所。
[14日]
写真11 根小屋 中野 個人で繭玉飾りを作る家はほとんどなくなった。この家では、現 在でも毎年作り、三人のお孫さんが団子を飾っている様子である。
写真12 青山 鮑子 後述の青野原地区の何か所とともに14日の午後3時過ぎに行われた。
写真13 青野原 梶野 自治会館前の広場で行われた。
写真14 青野原 東野・東開戸・上村・宮下 団子を焼く頃には辺りは暗くなっている。
写真15~16 青野原 西野々 道祖神碑に置かれていたお飾りを集めて、現在行事を実施する場所に運んで準備する。かつてはこの碑の前で行われていたという。
[15日]
写真17~18 鳥屋 道場 朝方のまだ暗いうちに行われるが、道祖神碑の前で燃やされる。
道祖神碑にお神酒が供えられている。
写真19~20 中野 大沢 大沢でも自治会ではなく昔から組で行われ、現在はそのうちの一つの組で実施している。
旧道と思われるところに道祖神碑があり、その前で燃やしている。道祖神碑には酒をお供えし、団子焼きでは書き初めを燃やしている。
写真21 三ケ木 原替戸 自治会ではなく有志によって行われている。かつては神様の石を燃やしていたが、現在は行っていないという。
写真22 三ケ木 野尻 育成会が主催で、15日朝に畑の中で行わた
相模原の民俗を訪ねて(№92)~緑区根小屋地区・功雲寺の道了大祭~(平成28年10月)
本欄の№89でも紹介した功雲寺は緑区根小屋地区にある曹洞宗の古刹です。今回は、10月30日(日)に当寺で行われた道了大祭(どうりょうたいさい)について紹介します。
壇上の奥に道了大薩埵が祀られている。手前にあるのは終了後に檀家に配られる御札
道了大薩埵の前に置かれている般若心経の経典
功雲寺本堂内の向かって左側に祀られているのが道了大薩埵(どうりょうだいさった)です。道了尊というと南足柄市大雄町の曹洞宗・最乗寺が有名ですが、最乗寺を開く時に怪力をもって土木工事を行い、約一年でこの大事業を成し遂げました。そして、最乗寺の開山の了庵禅師が亡くなった際に天狗の姿に変じて山中に身を隠したといい、広く諸願成就の仏として信仰を集めています。そして、功雲寺の開山の大綱明宗和尚は了庵禅師の高弟であり、功雲寺境内に墓所がある津久井城主であった内藤氏が最乗寺より道了尊を勧請して城内の守護神としましたが、天正18年(1590)の津久井城の落城によって下ろされ、功雲寺で祀るようになったとされています(『津久井町郷土史』他)。
般若心経の経典はいくつかに分けて置かれる
経典を10名ほどの僧侶がそれぞれ分けて転読する
当日は、午前9時から寺の役員や婦人会、功雲寺がある根小屋地区谷戸集落の方々がお集まりになって準備が進められ、午後2時から開始となりました。開始に当たっては、まず梅花講に属する女性の皆様の御詠歌があり、その後、道了大祭の行事の中心となる般若心経の経典六百巻の転読(てんどく)が行われました。大般若転読は、六百巻に及ぶ大部な経典を短時間に読み上げる法要で、多くの僧侶が分担して速読していきます。今回は、10名以上の僧侶(周辺地域の曹洞宗の寺院から来られているとのことです。)が集まって行われ、道了大薩埵の前に分けて置かれた経典を、それぞれの僧侶が扇のように、また流れるように広げて左右に傾けながら転読していく様は実に見事で、大変見ごたえもあり有難いものでした。
経典を広げて流れるように転読していく
僧侶による転読の終了後、住職が参列者の間を経典を広げて祈祷して回る
また、檀家の中の喜寿や米寿の方と金婚式を迎えられるご夫婦はお祝いされ、お名前を読み上げられるとともに御札をいただけます。最後に参列者全員の間を功雲寺の御住職が経典を広げながら祈祷して回り、45分程度で終了しました。
前述のように、功雲寺の道了尊は津久井城にまつわる由緒を伝えていますが、その祭りの道了大祭は、大般若経の転読という仏教行事とともに檀家の長命や家内安寧を祝う要素も含まれ、地域に根ざした行事とも言えます。今後ともこうしたさまざまな行事について紹介していければと思います。 なお、前回に引き続き、今回も功雲寺の御住職をはじめ、檀家の婦人部及び御詠歌の皆様など多くの方々に多大なご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№91)~「大島の獅子舞」の獅子頭をお預かりすることになりました~(平成28年8月)
市内四か所では8月中旬から9月初頭にかけて、暑さを吹き飛ばすかのように各地で獅子舞が行われています。今年は緑区鳥屋の諏訪神社が8月13日(土)、緑区下九沢・御嶽神社は8月26日(金)、緑区大島・諏訪明神が8月27日(土)、中央区田名八幡宮が9月1日(木)の予定となっています。
三つの獅子頭
これらの獅子舞は、いずれも一頭の獅子頭を一人の舞手がかぶり、獅子は三匹で踊る「一人立ち三匹獅子舞」と言われるものです(実際の獅子舞では、三匹の獅子のほかに岡崎や天狗などが付いて一緒に踊ったりしています)。この形態の獅子舞が分布する地域は、中部・東北南部から関東地方で占められ、神奈川県では他に横浜市や川崎市にあるほかは相模原市や愛川町三増より南側では行われておらず、相模原の三匹獅子舞は県内や日本の南限に位置付けられています(『相模原市史民俗編』等)。
剣獅子
巻獅子
雌獅子
このたび博物館に、大島の獅子舞で長年使われてきた獅子頭3点が寄託されました。この獅子頭は、剣獅子・巻獅子・雌獅子と呼ばれ、剣獅子は角が剣のような形をしているもので、巻獅子はらせん状の角を付け、雌獅子は角がなく宝珠を乗せています。これらの獅子頭がいつ作られたのかについては不明ですが、剣獅子の内部に文政12年(1829)に修理したことを示す記載があり、そのころには獅子舞が行われていたことを推測させる資料となっています。
大島の獅子舞。獅子のほか鬼も見えている。
現在の獅子舞では、平成9年(1997)に製作された新しいものが使用され、ここで紹介した獅子頭は個人宅に置かれていましたが、その後、神社で保管されてきました。しかし、盗難等の問題や、新旧の獅子頭を同じ場所で保管すると、例えば火災などに遭うと両方とも失われてしまう等の懸念もあり、今回、博物館への寄託のご相談がありました。市域に伝承されてきた民俗芸能で長年用いられてきた獅子頭であり、加えて修理の墨書が残るなど、獅子舞の伝来や由来を物語る貴重な資料であることから、博物館でお預かりすることになりました。
博物館では、9月17日(土)から10月16日(日)にかけて、特別展示室でこれらの獅子頭を展示します。地元を代表する民俗芸能である三匹獅子舞で長く用いられてきた獅子頭を、この機会に是非、多くの皆様にご覧いただければと思います(民俗担当 加藤隆志)。
*毎年行われる獅子舞の日時は変更されることがあります。ご見学の際はご確認の上、お出かけください。
相模原の民俗を訪ねて(№90)~相模湖町史・民俗編の調査資料が寄贈されました~(平成28年5月)
旧相模湖町では、平成5年(1993)から町史の編さん事業を開始し、平成13年3月に原始・古代から第二次世界大戦後までを扱う『相模湖町史歴史編』を刊行しました。その後、相模原市との合併を経た後も事業が引き継がれ、平成19年に民俗編、20年に自然編が刊行されて、当初の予定通り、相模湖町史の全三巻が揃いました。このうち、民俗編は平成6年から順次、千木良・内郷・与瀬地区の民俗調査を行い、補充調査の後の平成10年度には原稿が完成しましたが、諸般の事情によって発刊が遅れ、ようやく19年2月に刊行の運びとなりました。
千木良・牛鞍神社宵宮(平成6年8月20日)
千木良中村・薬師様のオコモリ(平成7年1月12日)
今回、この相模湖町史民俗編の調査を担当された後藤廣史さんから、調査で得た写真やその他の資料の寄贈を受けました。後藤さんは町史の調査には、特に信仰に関する内容を担当されており、民俗編の中では「第6章 社寺と信仰」を執筆されています。そのため寄贈された資料は、地域の信仰に関するものが中心です。
内郷・阿津天神社 神輿(平成9年8月17日)
内郷・鼠坂八幡神社 子ども相撲(平成9年8月18日)
資料全体はダンボール箱二個に及ぶ大量のもので、まず目に付くのは、平成6年から10年の間に行われた旧相模湖町各地の祭礼・行事の写真です。これは与瀬神社や牛鞍神社などの神社の祭りや、各地区にある祠・堂で行われた講や正月のどんど焼きなどの行事、小原本陣祭をはじめとする新しい祭り等を撮影したもので、神社や寺院・石仏を撮影したものと合わせて約1700点ほどにも及びます。これらの写真のごく一部は実際に民俗編の中に掲載されているものの、分量の関係もあって大多数が未掲載であり、何より今から20年も前の状況が写されていて、現状と比較することで変化が分かるなど、大変貴重なものです。
小原本陣祭(平成9年11月3日)
与瀬神社 急な石段を登る神輿(平成10年4月13日)
このほかには調査の過程で得られた、各神社の祭礼記録(祭典の役割表や収支決算帳など)や念仏講・観音講の帳面、与瀬神社虫封じ祈願者名簿(与瀬神社や隣りの慈眼寺は子どもの夜泣き封じ祈願で有名です)などの資料と、過去に刊行された調査報告書のコピー等で、やはりいずれも地域の信仰の状況を知るために重要なものと言えます。
いずれにしても今後、保存や活用のために確認していく作業が必要ですが、改めて何らかの形で資料の内容についてお知らせしたいと思います(民俗担当・加藤隆志)