「平成25年度」カテゴリーアーカイブ

ボランティアの窓(平成25年度)

民俗調査会で第4回目の「民俗探訪会」を相原地区で行いました(平成25年11月)

 平成23年度及び24年度の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として、毎年5月と11月の第二水曜日に「民俗探訪会」を実施していますが、第4回目の民俗探訪会を、11月13日(水)に相原地区で行いました。

 今回は、民俗調査会とともに「相原の歴史をさぐる会」に参加している方を中心に、「相原地区の文化財めぐり」マップなどを活用して実施しました。これまでと同様に「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集し、定員30名に対して44名の方からの応募がありましたが、探訪会で主に案内等を行う会員の方と相談し、これ以上の人数でも実施した経験があるので、今回は試験的に申し込まれた方全員に参加していただきました(今後の探訪会では、内容等によって抽選となりますのでご了承ください)。

 当日は、横浜線の相原駅を出発して相原駅まで戻ってくるコースで、約3時間ほど歩きました。今回のコースの特徴は、町田市相原町と相模原市緑区相原の両方の相原地区を含めたことで、地形的にも町田側の多摩丘陵部から境川を越えて相模原側の平坦な台地まで、変化に富んだものとなりました。主な見学場所は次のとおりです。

相原駅(9時15分集合)→ ①相原古窯跡群→②獣魂碑→③多摩丘陵尾根道→④七国峠→⑤七国峠追分(出羽三山供養塔)→⑥相原中央公園(トイレ休憩)→⑦長福寺→⑧淊蕩橋(佐奈田与一供養塔・古い放水路)→⑨当麻田自治会館(地名標柱「みのくち」・秋葉灯籠・標柱「相原学校・旭小学校分教場跡」)→⑩土地区画整理竣工記念碑→⑪開田記念碑→⑫庚申塔→⑬おおかみ地蔵(傘地蔵)→⑭横浜線踏切跡と新しい立体交差の道(時間の関係で当日は省略)→相原駅(12時30分解散)

※①~⑦は町田市相原町、⑧~⑭は相模原市緑区相原

 町田市側の多摩丘陵への入り口、たくさん実った柿が季節を伝える
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
町田市側の多摩丘陵への入り口、たくさん実った柿が季節を伝える

相原古窯跡群で、参加者の真ん中で説明する調査会会員。多くの人がいるがこれでも参加者半分への説明
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
相原古窯跡群で、参加者の真ん中で説明する調査会会員。多くの人がいるがこれでも参加者半分への説明

七国峠追分、多摩丘陵の山の中の雰囲気が伝わる
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/50 sec, ISO100)
七国峠追分、多摩丘陵の山の中の雰囲気が伝わる

 民俗探訪会では、当館学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内しますが、毎回、「なるべく地元に住んでいる方でないと知らないこと」をテーマとして進めています。その点からも、今回のコースは相原の歴史をさぐる会員の「一押しのコース」であり、例えば、古くは多摩丘陵の尾根が武蔵・相模の国境(くにざかい)とされていましたが、文禄三年(1594)の検地で田倉川(高座川)に代えられ、以来、川の北を武蔵に編入して相模との境になったため境川と呼ばれるようになったとされることや、町田市の多摩丘陵尾根道に、天保10年(1839)の建立で、相模原側の相原村の小川家に関係する出羽三山供養塔(※山形県の月山・湯殿山・羽黒山の信仰に関係する石仏など、町田・相模原の両相原地区を含めた今回のコースもそうした観点から設定されたものです。また、相模原に入ってからは、普段は気がつきにくいものでも、言い伝えのある石仏や当麻の無量光寺と係わりがある水田跡など、まさに地元で活動する会の会員ならではの興味深い説明がありました。参加者からも、丘陵に上る坂を歩くのは少し大変だったけれどもほとんど行ったことがない所を歩けて良かった、また散歩コースでよく通るのに今までは全然知らなかったことがよく分かったなどの感想をいただき、好評のうちに終了することができました。

 出羽三山供養塔、丘陵の尾根道に、相模原の旧家に係る石仏があるのに驚いた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO120)
出羽三山供養塔、丘陵の尾根道に、相模原の旧家に係る石仏があるのに驚いた
緑区相原の通称「傘地蔵」、地蔵を覆う特徴的な傘の形が目につく
CYBERSHOT (12mm, f/7.1, 1/200 sec, ISO100)
緑区相原の通称「傘地蔵」、地蔵を覆う特徴的な傘の形が目につく
 傘地蔵の前での説明、相模原に入ると平らな場所での説明になる
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/640 sec, ISO100)
傘地蔵の前での説明、相模原に入ると平らな場所での説明になる

民俗探訪会は、今後ともその都度内容やテーマを検討しながら行います。実施に際して「広報さがみはら」などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますのでお問い合わせください(民俗担当 加藤隆志)。

※出羽三山供養塔の銘文等については、『第34回文化財展』資料の「七国峠の出羽三山供養塔」(文化財調査普及員、石造物班)及び、『相模原の自然と文化』第29号 をご参照ください。

福の会が「福田家資料」を麻溝公民館で展示しました(平成25年11月)

 南区麻溝地区の麻溝公民館では、11月2日(土)と3日(日)に「麻溝地区文化展」が 行われました。この文化展は、公民館文化部と公民館を利用するサークル・団体が主体と なり、そのほかの地域住民からも作品が出品されて、絵画やいけばな・書・水墨画・写真 など、さまざまなものが展示されました。

 今回の文化展では、会場となった小会議室の一角で「福田家資料」が展示されました。 福田家は、元々小田原北条家の家臣が下溝の地に定住したと伝える旧家で、当家の明治 30年(1897)に造られた蔵の中にあった数多くの資料を寄贈していただけることとなり、その整理作業を博物館と市民が協働で行うことを目的に「福の会」が結成されて作業を進めています。さらに、5月25日~6月30日には資料整理の成果を活用して、収蔵品展「蔵の中の世界・福田家資料紹介~市民の力で博物館資料へ~」を開催したことは、この「ボランティアの窓」の欄でも紹介しました(「福の会」で展示を行いました(平成25年6月)~市民協働による資料整理の活動~)。

文化展当日の麻溝公民館正面
文化展当日の麻溝公民館正面

今回の展示には、博物館で作成したパネルを活用した
今回の展示には、博物館で作成したパネルを活用した

会場には所狭しとたくさんの資料が展示された
会場には所狭しとたくさんの資料が展示された

 そして、今回は福田家がある下溝地区の公民館の文化展というということもあり、福の会で整理した資料の一部を展示しました。実際の展示の打ち合わせからレイアウト、飾り付けや撤収までも福の会の会員が担当し、文化展当日には会員が会場で見学者に資料や福の会についての説明を行うなど、訪れた多くの皆様に対して地元に残されてきた興味深い資料を紹介することができました。

  展示に訪れた方からは、地元にこのようなものがあったことを初めて知った、自分の家にも同じようなものがあったことを思い出した、散歩の時に長屋門の前をいつも通っているが福田家がこうした歴史を持つ家とは知らずにいたので、機会があればご案内いただきたいと思った、展示に触れて地域の歴史に関心を持ったという感想などをはじめ、今後もこのような展示をして欲しい、他のものも見たいというご意見もいただき、大変好評のうちに実施することができました。

五月節供に際して家の中で飾る内職、多くの人の注目を集めた
五月節供に際して家の中で飾る内職、多くの人の注目を集めた

今回も福田家」の御当主が会場で説明をされた
今回も福田家」の御当主が会場で説明をされた

福の会会員も見学者に説明をした
福の会会員も見学者に説明をした

 今回の公民館での展示は、博物館を舞台とする活動が広く地域に開かれていくといった点からも大変意義深いものといえます。福田家の資料整理はまだ継続しており、その一方で今回展示したもの以外の新たな資料の整理にも取り掛かっています。今後とも、さまざまな機会を通じて、市民とともに歩む博物館としての活動を継続していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

「水曜会」で収蔵資料展(津久井郷土資料室保管資料)を行っています(平成25年9月)

以前にこの「ボランティアの窓」でお知らせしたように、市民ボランティアによる津久井郷土資料室保管資料の整理を現在も継続して行っています(平成23年度ボランティアの窓「鈴木重光関係資料の整理を進めています!・平成23年7月」)。作業に当る会が発足して三年目となり、名称も毎月の奇数週の水曜日に活動を行っていることから「水曜会」と決めて、現在16名の会員が整理作業に当っており、すでに約2000件・5000点以上の資料について目録の作成を完了しています。 そして、水曜会では、資料整理だけではなくその成果を広く市民の皆様に伝えるために、毎年秋に収蔵品展を行っています。

 展示の内容は毎年変わりますが、三回目を迎える今年度は「埋もれた“モノ”に光を!・津久井郷土資料室所蔵資料紹介③~市民の力で博物館資料へ~」をテーマとして実施しています(この原稿を書いているのは会期中ですので現在形にしました。なお、会期は、平成25年9月14日~10月27日です)。今回の展示は、整理作業を進めている資料が当時住民が役場からもらった書類をはじめ、他にも例えば、商店や映画・観光関係のパンフレット、東京府立第四女学校・相原農蚕学校等の学校関係の各種書類や案内、新聞やその切抜き、マッチ箱やキャラメル箱など、実に多種多様なものに及んでいるものを紹介しています。

 それとともに、何の変哲もない身の回りのものでも数をたくさん集めておけば、時間の経過とともにその当時の生活や世相を現す貴重な資料となること、そして、それらはただ集めて置いておくのではなく、今回の市民による水曜会の作業にようにきちんと整理して目録を作成するなど、人々の目に触れてこそ活用されるというのを訴えることが、この展示の狙いの一つです。

  実際の展示に際しては、内容の検討から展示資料の選定、展示説明文やキャプション(資料名の表示)の作成、実際の列品まで、ほとんどすべてを水曜会の会員が担当し、さすがに三回目ともなるとスムーズに各所の作業も進み、見事な展示が完成しました。

 また、会期中に四回ほど、水曜会会員が交代で展示会場に詰めて、見学者に資料の内容や作業中の苦労話など、気軽にお話しをする展示説明の機会を設けました。年配の方には懐かしく、若い世代には珍しいものを見ながら、説明を聞いてよく分かったということで大変好評で、先日(9月22日)の展示説明には多くの観覧者が会員の説明を聞き、あるいは思い出話などいろいろな対話をしている姿を目にしました。 先に紹介したように、水曜会の活動はもすでに三年目を迎えていますが、整理のために一時的に博物館に持ってきている資料のうち整理が終了したのは三分の一ほどで、整理終了まではまだしばらくの時間が必要です。

 今後も着実に整理作業を継続していくとともに、博物館に集まる市民の方々が主体となり、こうした活動を行っていることを、展示をはじめさまざまな機会に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)

展示説明では、展示のあちこちで話す姿がみられた。(9月22日)
NIKON D7000 (21mm, f/3.8, 1/25 sec, ISO400)
展示説明では、展示のあちこちで話す姿がみられた。(9月22日)

現在と70年前の地形図の説明。この地図コーナーは人気が高い。
NIKON D7000 (18mm, f/3.5, 1/40 sec, ISO400)
現在と70年前の地形図の説明。この地図コーナーは人気が高い。

 

「福の会」で展示を行いました(平成25年6月)~市民協働による資料整理の活動~

福田家の蔵
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/160 sec, ISO100)
福田家の蔵

 今回紹介する「福の会」は、民俗・生活資料の整理を行うことを目的として昨年(2012 年)の秋にできた市民の会です。博物館では、すでに緑区中野にある津久井郷土資料室に 保管されている膨大な資料を整理する「水曜会」が活動していますが、「福の会」は南区下 溝地区の福田家の蔵の中の資料が寄贈されることをきっかけに結成され、当面、整理を行 う福田家から会の名称が名付けられました(ただし、将来的には他の資料の整理も行って いきます)。

蔵の中の様子。二階部分に大量の衣類が保管されていた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
蔵の中の様子。二階部分に大量の衣類が保管されていた

蔵の中の調査では、資料の確認と寄贈を受けるものの選別を行った
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
蔵の中の調査では、資料の確認と寄贈を受けるものの選別を行った

 福田家は、元々は北条氏照(小田原北条氏・四代当主の氏政の弟)の家臣で、氏照の娘 (後に出家して「貞心尼」)が結婚するに際して父氏照から上溝・下溝の地を貰って居を構えました。 福田家はその供としてこの地に井上家とともに移り住み、その後、天正16年(1588)に貞心尼が亡くなり、 天正18年(1590)には豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされて村民になったと伝える旧家です。福田家には 多くの古文書が残されており、博物館には近世から明治・大正頃までの古文書580点が寄託されていて、 さらに別に発見された古文書も今後、追加で博物館に寄託される予定です。

 福田家には明治30年(1897)に造られた蔵があり、この蔵の中にあった数多くの資料を寄贈 していただけることとなり、その整理作業を博物館と市民が協働で行うことを目的に「福の会」が結成 されました。蔵の中の調査は、まず平成24年10月に二日間に渡って内部の配置調査と寄贈受け入れ予 定資料の仕分けを行い、11月に福田家から博物館に資料を搬入しました。そして、11~12月に資料を洗浄し、平成25年1月からは本格的に計測やカード化などの作業を開始したほか、資料の殺虫・殺菌をする「くん蒸」 の後には、資料を大型収蔵庫の棚に分類して配架しました。

博物館での整理作業
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO100)
博物館での整理作業

衣類の整理では壁に掛けて寸法を測ったり、撮影を行う
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO100)
衣類の整理では壁に掛けて寸法を測ったり、撮影を行う

 蔵の中にはさまざまなものが収納されており、その中でも大量にあったのが衣類などの身に まとうものです。このほかには、鍋や釜・食器などの日常の生活用具や、節供人形・結納目録等のハレの 機会に用いられたものなども見られます。蔵に置いてある道具の出し入れや蔵の鍵の管理は、主に昭和9 年(1934)に当家に嫁いだ福田利子さん(明治42年生)が平成13年(2001)に91歳で亡くなるまで行っ ていたとのことで、昭和22年(1947)生まれの現在の御当主の両親や兄弟、叔父叔母が使用した頃のも のが多く、それ以降もある程度の時期までは出し入れをしていたようですが、しだいにそのままになっ て現在に至りました。なお、蔵だけでなく、履物類や神仏の御札や掛け軸など、一部は主屋にあるもの も寄贈されることになっています。

 そして、資料整理だけでなく、収蔵品展「蔵の 中の世界・福田家資料紹介~市民の力で博物館資料へ~」を、平成25年5月25日から6月30日までの会期で開催しました。蔵の中の資料 整理はまだ始まったばかりでまだ全体像は明らかではありませんが、それでもこれまでの 成果を基に、市民がこのような活動を行っていることを広く知っていただくことを狙いに実施した もので、展示資料の選定や実際の列品など、展示の準備作業も当然のことながら 福の会が行いました。会期中、約6800名の見学者があり、アンケートでもこの展示に興味 関心を持たれ、さらに「市民がこうした取り組みをしていることはすばらしい」との声が 多く寄せられたことは、福の会の会員一同も大変うれしいことでした。いずれにしても福 田家の資料整理はまだまだ継続しなければならず、一方で新たな別の資料の整理に取り掛かることも 想定されます。今後とも、市民とともに歩む博物館としてこのような活動を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

展示作業を福の会が行った
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/5 sec, ISO100)
展示作業を福の会が行った

特別展示室の壁に解説・写真パネルを打ちつけるのも大事な展示作業
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/2.8, 1/4 sec, ISO100)
特別展示室の壁に解説・写真パネルを打ちつけるのも大事な展示作業

展示会場。全部で120点ほどの実物資料(写真を除く)を展示した
FinePix F30 (8mm, f/2.8, 1/60 sec, ISO400)
展示会場。全部で120点ほどの実物資料(写真を除く)を展示した

6月2日には福の会の会員による展示説明の会が行われ、観覧者に資料の解説はもちろん、整理作業の苦労や楽しさを説明した
NIKON D90 (65mm, f/9, 1/125 sec, ISO0)
6月2日には福の会の会員による展示説明の会が行われ、観覧者に資料の解説はもちろん、整理作業の苦労や楽しさを説明した

昭和10年頃の三月節供に飾った御殿の形をしている雛飾り。きれいな飾り物で、子どもたちも熱心に見ていた
NIKON D90 (29mm, f/4, 1/125 sec, ISO2500)
昭和10年頃の三月節供に飾った御殿の形をしている雛飾り。きれいな飾り物で、子どもたちも熱心に見ていた

同じく昭和10年頃の女児が生まれた際の宮参りに使われた着物。多くの着物は特に女性の人気を集めた
NIKON D90 (22mm, f/3.8, 1/125 sec, ISO2500)
同じく昭和10年頃の女児が生まれた際の宮参りに使われた着物。多くの着物は特に女性の人気を集めた

[皆さんも一緒に資料整理を行いませんか。]

「水曜会」ならびに「福の会」の資料整理にご参加いただける方を募集しています。作業は大変なこともありますが新たな発見もあり、 みんなで肩苦しくない雰囲気で行っています。興味・関心のある方は、加藤学芸員までお問い合わせください。

○水曜会:活動日は基本的に毎月第一・第三・第五水曜日の午後1時~3時、場所は博物館二階の実習実験室です。

○福の会:活動日は基本的に毎月第一・第三・第五木曜日の午前10時~午後3時、場所は実習実験室及び、洗浄乾燥室・収蔵庫などです。

民俗調査会で第3回目の「民俗探訪会」を下溝地区で行いました

 平成23年度及び24年度の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を計画していますが、さる平成25年5月8日(水)第3回目の「民俗探訪会」を下溝地区で行いました。今回のコースは、麻溝観光協会が発行した「歩いて楽しむ あさみぞ探訪マップ」の「川めぐりコース」を民俗調査会としてアレンジしたもので、民俗調査会の会員の中に下溝在住で「あさみぞ探訪マップ」の作成にも携わった方が何人かおられたこともあり、その知識や経験を生かして実施することを計画しました。

必ず会員全員で下見をしてコースや内容を確認する (4月10日・下溝八幡宮)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
必ず会員全員で下見をしてコースや内容を確認する
(4月10日・下溝八幡宮)

下見の時には八重桜が満開だった。ちなみに「あさみぞ探訪マップ」にも花めぐりコースが設定されている
CYBERSHOT (12mm, f/7.1, 1/640 sec, ISO100)
下見の時には八重桜が満開だった。ちなみに「あさみぞ探訪マップ」にも花めぐりコースが設定されている

今回も「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集し、これまでは定員内(30名)の申し込みだったのが52名の方からの応募があり、野外を数時間に渡って歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、31名の参加者と会員10名に加え、博物館長や麻溝まちづくりセンターの職員、平成25年度から「博物館ネットワーク」システム作りで博物館と協働事業を行っている神奈川工科大学の白井研究室の方々も参加され、JR相模線の原当麻駅から下溝駅まで、約3時間のコースを歩きました。

  民俗探訪会では、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内しますが、今回は先にも記しましたように地元の方が何人も加わっています。そのため、「なるべく地元に住んでいる者でないと知らないこと」をテーマとして、そうした点に留意して進めて行きました。特に、山の神社で実際に3月の祭りに参加した様子の説明があったり、福田家の御当主も参加されて特別に屋敷内や墓地に入らせていただき、さらに、これも責任者の方に事前にお願いして下溝八幡宮境内の不動明王像(市指定有形文化財)を見学させていただいたりと、まさに地元の人々の企画ならではの充実した内容の探訪会を実施することができました。また、当日は5月の薫風の中を本当に気持ち良く歩き、途中の大山(伊勢原市)の頂きや最後の雄大な相模川の流れの風景も参加者一同で堪能することができました。

福田家長屋門(市登録文化財)。いつもは外からの見学だが、この日は中から見学できた
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/250 sec, ISO100)
福田家長屋門(市登録文化財)。いつもは外からの見学だが、この日は中から見学できた

今回は福田家の御当主にも参加いただき、さまざまなお話しを伺うことができた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
今回は福田家の御当主にも参加いただき、さまざまなお話しを伺うことができた

今回の見所の一つである堀之内集落の「貞心社」でも、地元に住む会員の井上さんから詳しく説明をした
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
今回の見所の一つである堀之内集落の「貞心社」でも、地元に住む会員の井上さんから詳しく説明をした

山の神社から見た大山の遠景。今回は気持ちよい陽気の中を歩くことができた
CYBERSHOT (17.8mm, f/9, 1/250 sec, ISO100)
山の神社から見た大山の遠景。今回は気持ちよい陽気の中を歩くことができた

民俗探訪会は、今後ともその都度内容を検討しながら行うことを予定しています。実施に当っては広報紙などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、詳細につきましてはお問い合わせください。

 

今回のコース:JR相模線・原当麻駅 9時15分集合

①中丸の神明社→②双体道祖神→③横浜水道道→④山の神坂・山の神社→⑤天応院(*門前)→⑥福田家長屋門→⑦貞心社・堀之内集落→⑧日之下地蔵・日之宮→⑨下溝八幡宮・不動堂→⑩泉橋(石仏)→⑪新・三段の滝上から相模川と丹沢の風景→下溝駅 午後0時30分解散

 

*第1回目の新磯地区(平成24年3月実施)については平成23年度のボランティアの窓で、第2回目の田名地区(平成24年11月実施)については平成24年度のボランティアの窓に記事を掲載しています。なお、民俗調査会Aが横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」と行っている交流会についても平成24年度ボランティアの窓で紹介していますのでご参照ください(民俗担当 加藤隆志)。

歴史の窓(平成25年度)

二足の草鞋を履いた名主~開港場に見せたリーダー魂(平成25年9月)

 平成22年度の歴史の窓の「市域最北の寛文総検地帳などとの出会い(平成23年3月)」で、佐野川村和田分の寛文4(1664)年検地帳ほか多数の古文書類寄贈について紹介しました。あれから2年半が経ち、今度は同村岩分で名主を代々つとめられた佐藤家から現存古文書類の寄託打診をいただきました。何はともあれ、その可否を判断するべく事前調査(実況見分)を行うため、猛暑の中にも涼感漂う緑区佐野川へ急行した次第!

未調査資料の入った木箱
未調査資料の入った木箱

 居宅の保存場所から現れた古文書類は和田分・杉本家文書と同様、ちょうど20年前に当時神奈川県立文化資料館実施の資料所在調査が終了した状態(=分類後の封筒入り)で衣装箱に分納され、以後いっさい手を触れていないとのことでした。さらに当日は、古絵図などが納められた木箱が新たに発見され、追加資料として寄託候補にお考えいただくことになりました。

 既往の調査により佐野川村全村の寛文検地帳をはじめ、元和7(1621)年から明治8(1875)年にわたる資料群を再確認できた訳ですが、今回はこのとき目にした資料の中から幕末の名主が起こしたある動きについてお話します。

 佐野川・佐藤家は、美濃国加治田城主に出自をもち、天正年間(1573~1591)に出国し、相模国に土着したと伝えられています。本家は、屋号「中居」で代々「才兵衛」を襲名し、名主を継いでいきました。現当主で15代目にあたり、今回の内容は11代目才兵衛信直のエピソードです。すでに『神奈川県史』『横浜市史』『藤野町史』『城山町史』等でご存知の方もおられるかと思いますが、日本が鎖国から開国へと転換し、激動の時代の始まりを告げた頃の村役人のスピード感あふれる行動を追ってみたいと思います。

 

外国奉行所あての願書
外国奉行所あての願書

 安政6(1859)年1月、前年の五か国条約により3つの港を開くことになるやいなや幕府は箱館・長崎とともに神奈川(横浜)への出稼・移住・自由売買を許可しますが、そのお触れを目にした名主・才兵衛は間髪をいれず外国奉行所に願い出て、出店の許可を取り付けました。才兵衛は従来、絹や紬、漆などを買受けして転売する方法で耕地面積の少ない山村の経済を改善する努力を続けてきており、さらにその輪を広げるため開港場という新天地に販路を見出し、“サトウノミクス”よろしく異国人相手の活発な経済活動を進めたのです。それでは、才兵衛は店をどこに構えたのでしょうか?安政6年1月の『神奈川開港地割元図』(三井文庫蔵)によると、運上所(関税役所のこと。現在地は神奈川県庁)の斜め向かい、外国人商館地へ続く目抜き通り「本町通」に面した五丁目の一等地(?)100坪を出願したことが判ります。

 「佐藤屋本店」の出店跡地 (現在の東京電力神奈川支店のあたり)  
「佐藤屋本店」の出店跡地
(現在の東京電力神奈川支店のあたり)

 現在、横浜市開港記念会館が建つ場所です。直後に200坪増地して300坪規模の大店となったようですが上地され、武州小机村及び上州川俣村の願人が新たに拝借しています。混乱する借地事情もあったのか、南側に道1本隔てた弁天通四丁目に拠点を移したことが同年6月の『横浜町町割図』(個人蔵)から理解できます。当時とは敷地割が違うため、正確なことは言えませんが、おおよそ現在の東京電力神奈川支店周辺にあったのではないかと思われます。移転した事実上の本店舗では、絹や紬、漆などに加え鉄器物・瀬戸物・紙・酒・醤油・煙草・茶・薬・蝋・油・提燈・塗物・小間物・炭・材木など多種多彩な新規商品の直売を申請していて、その外国貿易に対応する能力ぶりが十分にうかがえます。

 

才兵衛最初の出願跡地 (現在の横浜市開港記念会館のあたり)
才兵衛最初の出願跡地
(現在の横浜市開港記念会館のあたり)

 さて、才兵衛は村役人ゆえ貿易商に専念するわけにもいかず、「佐藤屋」の船出を見届けると“店主代理”専左衛門に後を任せ、帰村して名主の役目に戻ったようです。その5年後、世が文久から元治に変わった翌日に人生を終えることになりますが、寒村の一名主をして相模国最北の地から当時の最先端を行く神奈川港へと向かわせしめたのは、何より村を思う一途な心と時代の潮流を即断する感覚にあったのではないでしょうか。佐野川村の素早い動きに応じるかのように、上川尻村や若柳村の村民が相次いで交易・出店を願い出ます。両者にとって佐藤才兵衛信直はおそらく幕末津久井県の先進的リーダーとして頼れる存在に映ったはずです。(歴史担当:土井永好) *現当主・佐藤英雄氏への聞き取りや『博労一代』(佐藤建夫編)を参考にしました。

地質の窓(平成25年度)

 

相模原市緑区名倉の火山灰

葛原層の地層。この中に火山灰層が数枚挟まれています。
葛原層の地層。この中に火山灰層が数枚挟まれています。

 相模原市緑区名倉の芝田川沿いでは、約10万年前に遠方から飛来して降り積もった火山灰の地層がいくつか見られます。いずれも、芝田川を渡ったり、川の中を歩いたり、場所によっては急な崖を上ったりしなければたどり着くことはできませんが、相模野台地では見ることのできない火山灰を観察することができます。地層の下の方から順に、御岳(おんたけ)第一軽石、鬼界葛原(きかいとずらはら)火山灰、“未命名火山灰”、御岳伊那(おんたけいな)軽石、葛原(とずらはら)III火山灰、阿蘇4火山灰が見られます。芝田川沿いの数カ所で見ることができますが、場所により見ることができるものと、見られないものとがあります。

 

御岳第一軽石。
御岳第一軽石。

これらの火山灰の中で最も厚く(厚さ約60cm)、はっきりと見られるのが御岳第一軽石です。軽石が降り積もったもので、白い小さな軽石が集まっているのが観察できます。御岳伊那軽石は厚さ約15cmです。軽石と言ってもとても小さく、まるで芥子の実のようなので、“芥子の実軽石”とも呼ばれています。御岳第一軽石と御岳伊那軽石は長野県と岐阜県境にある御嶽山(おんたけさん)が噴出源です。

御岳第一軽石に近づいてみると、小さな軽石が観察できます。
御岳第一軽石に近づいてみると、小さな軽石が観察できます。

御岳伊那軽石。まるで芥子の実のような非常に小さな軽石が降り積もったものです。
御岳伊那軽石。まるで芥子の実のような非常に小さな軽石が降り積もったものです。

鬼界葛原火山灰、“未命名火山灰”、葛原III火山灰、阿蘇4火山灰は層の厚さ数cm程度で、非常に細かい鉱物破片などが降り積もったものです。鬼界葛原火山灰は鹿児島県大隅半島と屋久島の間にある鬼界カルデラが噴出源です。この火山は海中に沈んでおり、火口の縁の一部が硫黄島や竹島として海面上に顔を出しています。阿蘇4火山灰は熊本県の阿蘇山が噴出源です。 葛原III火山灰の噴出源はまだわかっていません。さらに、“未命名火山灰”は名前すら付いておらず、ほとんど研究されていない、不明な点の多い火山灰です。 これらの火山灰は葛原層(とずらはらそう)と呼ばれる、礫・砂・泥からなる地層の間に挟まれています。葛原層は大きな川の下流や湖のような流れの緩やかな環境で堆積したと考えられます。しかし、約10万年前に相模川の上流部にどのようにして流れの緩やかな環境ができたのかは、よくわかっていません。

 この地域の火山灰層についての調査結果は、「相模原市立博物館研究報告第21集」に掲載されている論文「神奈川県相模原市北西部、芝田川流域に見られる葛原層の露頭」で報告しました。(地質担当 河尻清和)

鬼界葛原火山灰。
鬼界葛原火山灰。

“未命名火山灰”。鬼界葛原火山灰よりも目立つくらいの火山灰ですが詳しく調べられていません。
“未命名火山灰”。鬼界葛原火山灰よりも目立つくらいの火山灰ですが詳しく調べられていません。

葛原III火山灰。
葛原III火山灰。

阿蘇4火山灰。連続した層ではなく、レンズ状でとぎれとぎれに堆積しています。
阿蘇4火山灰。連続した層ではなく、レンズ状でとぎれとぎれに堆積しています。

生き物の窓(平成25年度)

新しい外来種を確認(平成25年12月)

 昨年(平成24年)の夏頃、相模原植物調査会会員で横浜市在住の方から、旭区の追分・矢指市民の森付近で見慣れない植物が生育している、との連絡をいただきました。添付されていた写真を見たところ、なんという植物なのかさっぱりわかりません。イラクサ科かクワ科のようにも見えたので、その線で図鑑をいくつか調べたり、さらに何人かの詳しい方にも写真を見ていただいたりしましたが、やはりわかりませんでした。

生育場所の環境
生育場所の環境

  その後、現地を見に行こうと思っていた矢先に草刈りで刈り払われてしまったとの連絡があり、持ち越しとなっていました。今年になって再び「今年も育っています」と連絡があり、今度こそ草刈りする前にと、現場を案内していただくことになりました。

 生育地は保土ヶ谷バイパス下川井インター近くの追分・矢指市民の森の一角と、中原街道の路傍の一部の2カ所で確認できました。その植物は高さ20~30センチほどのあまり特徴の無い草本で、現物を見ると、イラクサ科というよりクワクサやエノキグサに近い印象を受けました。標本用に1株と、生品で検討するために土を付けたままの1株を採集しました。

 その後、相模原植物調査会の野外調査会の帰り、外来植物に明るい会員の方と博物館で鉢植えにしてあったその株を一緒に見て検討したところ、トウダイグサ科ではないか、との結論に至りました。さらにその方が、インターネット上で見つけた中米原産のAcalypha setosa A Rich(トウダイグサ科エノキグサ属)ではないかと連絡をくださったのです。写真を見るとほぼ間違いなく、英名Cuban copperleafというところまでわかりましたが、日本名がありません。つまり、まだ日本では確認されていない外来植物の可能性が高まりました。

 アレチアミガサソウ(仮称)
アレチアミガサソウ(仮称)

 その後も身近な文献やインターネット上で調べた限りでは、やはり国内では報告がなく、日本新産の外来種であろうと判断しました。そこで、和名について発見者と相談し、外来であることと、路傍で生育可能な性質、そして同属のエノキグサの別名であるアミガサソウにちなみ、アレチアミガサソウと仮称することにしました。ちなみに、同属にはキダチアミガサソウとヒメアミガサソウという外来種が報告されていますから、それらとの近縁性もわかり、なかなかよい名前だと思います。  

 さらに地方の植物誌などから情報を集めた上で、ほんとうに国内新産かどうかという検討を続けなくてはいけませんが、時期を見て学術雑誌へ正式に報告したいと考えています。 (生物担当 秋山幸也)

 

クワコから教わる、カイコに残る野生の記憶(平成25年8月)

 今年も春から初夏にかけて、カイコの飼育を行いました。5齢(終齢)になると、クワの葉を食べるスピードが爆発的に増して、あげてもあげてもあっという間に筋(葉脈)だけになってしまいます。だからといって、ドサッと一度に積み上げるように葉をあげればよいかというと、そうでもありません。カイコは自分より上にある葉をどんどん食べ進んでいく性質がある一方で、下に潜って食べるということをしませんから、食べ残しが多くなるだけです。そんなわけで、5齢の間は数時間おきに新鮮な葉を取りに、博物館の敷地内にあるクワの木へ通うことになります。

写真1 クワの葉裏についていたクワコの繭
NIKON D50 (50mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO0)
写真1 クワの葉裏についていたクワコの繭

 ある時、クワの葉の裏に黄色っぽい綿のようなものがついていました(写真1)。これは、カイコに近いなかまの野生の蛾、クワコの繭(まゆ)です。カイコは、中国大陸に生息していたクワコを家畜化したものと言われています。ただし、家畜化の過程で野外に生き抜く能力を完全に失ったカイコと野生のクワコには、習性などに大きな差があります。そのため、分類上の両種の関係には諸説あるものの、カイコとクワコが進化的に非常に近い種類であることは間違いありません。

 さて、このクワコですが、若齢のカイコに見られるまだら模様(写真2)や、終齢になると目立つ眼状紋(写真3)の意味を説明するのに都合がよいので、私はよく「カイコの授業」に使います。カイコは3齢くらいまで、体全体に黒いまだら模様があります。4齢から5齢にかけてだんだん白くなり、5齢になるとそのコントラストから眼状紋や半月状斑紋といった黒っぽい斑紋が目立つようになります。こうした模様は長い選抜、改良の歴史の中で見栄えよくするために人間が意図的に残したものでもあるのですが、「野生の記憶」と言えなくもないのです。

写真2 カイコの2齢幼虫
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/80 sec, ISO800)
写真2 カイコの2齢幼虫
写真3 カイコの5齢幼虫
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/100 sec, ISO800)
写真3 カイコの5齢幼虫

 黒い模様は眼と間違われることが多いが、胸部にある模様にすぎない では、クワコの幼虫の模様の変化を見てみましょう。若齢のクワコを見ると一目瞭然(写真4)、このまだら模様は、アゲハチョウをはじめ多くのイモムシで見られるのと同じ、「鳥のフンへの擬態」なのです。さらに、クワコの5齢幼虫は、写真5のように枝に対して斜め上にまっすぐ止まる性質があります。クワの枝への見事な擬態です。茶褐色の色合いも、クワの若枝の色だったのです。この性質は、カイコにはもはや残っていません。 しかし、こうしてとまっているクワコの頭を軽くつつくと、写真6のように頭(正確には胸部)を前傾させて丸めます。すると出てくるのが、眼状紋です。枝への擬態では隠していた眼状紋を突然見せるのは、ヘビを意識した「目玉模様」を見せて外敵(鳥)を驚かせるための、最後の抵抗だったのです。

写真4 クワコの3齢幼虫
NIKON D50 (50mm, f/4.5, 1/80 sec, ISO0)
写真4 クワコの3齢幼虫
写真5 クワコの5齢幼虫 クワの枝に擬態している
NIKON D50 (50mm, f/4.5, 1/80 sec, ISO0)
写真5 クワコの5齢幼虫 クワの枝に擬態している
写真6 クワコの5齢幼虫 つつくと眼状紋を見せる
NIKON D50 (50mm, f/4.5, 1/60 sec, ISO0)
写真6 クワコの5齢幼虫 つつくと眼状紋を見せる

 せっかくなので、クワコの成虫も見てみましょう(写真7)。野生に生き、もちろん飛翔可能なシャープな体の線、複雑でメリハリのある翅模様。野趣と表現すればよいでしょうか。モコモコしてぬいぐるみのようにかわいらしいカイコの成虫(写真8、9)と対照的な、野性味あふれるクワコも私は好きな昆虫のひとつです。 (生物担当 秋山幸也)

写真7 クワコの成虫
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/80 sec, ISO800)
写真7 クワコの成虫
写真8 カイコの成虫
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/80 sec, ISO1000)
写真8 カイコの成虫
写真9 カイコの成虫
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/80 sec, ISO1000)
写真9 カイコの成虫

  過去のカイコ関連記事

平成23年度

  • カイコを育てる(4)-いろいろな繭のはなし(平成23年7月)
  • カイコを育てる(3)-繭になる(平成23年7月)
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  • カイコを育てる(1)-最も研究されている昆虫(平成23年6月)

平成22年度 神

  • 奈川の養蚕、終わる(平成22年12月)

カワラノギクの種まき(平成25年5月)

 平成25年3月28日(木)、市内南区下溝の相模川で、カワラノギクの保全圃場(ほじょう)の種まきを行いました。この圃場は、河川管理者である神奈川県のご協力を得て造成され、光明学園相模原高校の理科研究部が育成にあたるものです。種子のまき方は、桂川・相模川流域協議会のみなさんに指導していただきました。理科研究部では在校生に加えて、今春卒業したOBも駆けつけてくれています。ゴミを拾ったあと、川砂と水を混ぜた種子塊(しゅしかい)を、砂礫地(されきち)の上にまんべんなくまいていきました。

種まきの方法を桂川・相模川流域協議会の方から教わる
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/400 sec, ISO80)
種まきの方法を桂川・相模川流域協議会の方から教わる
均等に生育するよう、一列に並んで種子をまく
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/1000 sec, ISO80)
均等に生育するよう、一列に並んで種子をまく

 相模川を象徴する絶滅危惧種であるカワラノギクは、現在、緑区葉山島や同区大島などに大規模な保全圃場が作られ、地元の小学校や市民団体を中心に保全育成が行われています。残念ながら、人間の力を借りずに存続している自然群落はなく、神奈川県版のレッドデータブックでは、最も絶滅の危険性が高い絶滅危惧1A類に区分されています。相模川水系のほかには鬼怒川と多摩川にしか自生していないので、万が一にも相模川の個体群を絶滅させるようなことがあってはならないのです。

今は裸地の河原も、秋にはカワラノギク群落へとうつりかわっているはず
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/500 sec, ISO80)
今は裸地の河原も、秋にはカワラノギク群落へとうつりかわっているはず

 さて、この保全圃場を造成したのは、今から20年ほど前まで自生の群落があった場所です。種子は、もっとも近い保全圃場で採種されたものを使いました。この播種作業の前には、私が高校生たちに事前のレクチャーを行い、カワラノギクの生態や保全の経過などを説明しました。地元の高校生が生物多様性の概念を学びながら保全生物学の実習を行うのが、この 圃場です。 なぜカワラノギクを守らなくてはならないのでしょうか。しかも、人工的に作られた裸地で、ほかの植物を抜き取るような過保護をしてまで。 高校生たちは、真夏の炎熱地獄や真冬の吹きすさぶ寒風の中で、その答えを探しながら作業するはずです。カワラノギクの種の保存を第一義として進めてきたこれまでの保全 圃場ほじょうから、ちょっと教育的な意義を含んだ新しい圃場がスタートしました。これからどのような成果の花を咲かせるのか、楽しみに見守りたいと思います。 (生物担当 秋山幸也)

市史の窓(平成25年度)

津久井町史自然編刊行記念自然観察会 「仙洞寺山の地層と鳥たち」を開催(平成26年1月)

 博物館では、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、昨年夏の自然観察会や秋の講演会など、少しでも多くの方に旧津久井町の豊かな自然について知っていただこうと、市民の皆様を対象とした事業を実施しています。平成26(2014)年1月26日(日)には「仙洞寺山の地層と鳥たち」と題した自然観察会を開催いたしました。津久井生涯学習センターを出発し、目指すは仙洞寺山林道です。仙洞寺山はほとんどが国有林として管理されており、林道の出入口はゲートで車での入場が規制されています。

 まず皆さんで立ち寄ったのがタヌキの溜めフンのある場所です。タヌキになった気持ちで狭いけもの道を進むと、山のように溜まったタヌキのフン。近くにあったイチョウの実(銀杏)を食べた形跡も見られました。

 林道を入ってすぐに観察できたのが、神奈川県で最も古い時代に形成されたとされている「相模湖層群瀬戸層」砂岩の地層です。林道沿いには崖が崩れ地中がむき出しになっている露頭が多く、資料として配られた林道沿いのルートマップ(林道沿いに見られる地層の区分が示された図)を見ながら、講師の髙橋純夫さんから地層が形成された状況や経過を分かり易く説明していただき、皆さん耳を傾けていました。地質の関係では、丹沢山地の形成に伴ってできた谷に堆積した愛川層群の地層や、タマネギのように表面がむけていく「たまねぎ石」など、豊かな自然を支える大地の成り立ちについて学ぶことができました。

 林道沿いには哺乳動物が通った跡のけもの道も多く観察できました。動物に遭遇することはありませんでしたが、テンやイノシシのものと思われるフンや足跡の痕跡、シカやイノシシが体についたダニなどを落とすために使うヌタ場、その時ついた泥を落とすためにこすり付けた木など、身近な場所でありながら動物の気配満載でした。また、昼食をとった場所では、オオタカと思われる猛禽類が、アオバトを捕食した跡も発見され、自然の営みを感じることができました。

 駆け足での観察会となってしまいましたが、1月下旬とは思えない比較的暖かな1日となり、参加者の方からもぜひまた開催してくださいという声をかけていただき、担当者としてもほっとした瞬間でした。冬の第2弾として2月11日(祝・火)に計画していた津久井湖城山公園での観察会は、雪のため残念ながら中止となりました。多くの方に『津久井町史自然編』をご覧いただき、文字や写真で紹介している内容を、実際に体感していただくことができればと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

たまねぎ石の説明をする髙橋講師
たまねぎ石の説明をする髙橋講師

 ヌタ場の観察
ヌタ場の観察

津久井町史自然編刊行記念講演会「虫は不思議でおもしろい!!」を開催(平成25年9月)

 平成25(2015)年9月22日(日)、相模原市史講演会の一環として『津久井町史自然編』の刊行を記念した講演会を開催しました。講師は、津久井町史自然編執筆者の一人でもある養老孟司さんです。

 養老さんに自然編の執筆をしていただいたのは、一連の経過がありました。昆虫特にゾウムシの仲間に興味をお持ちになり研究されていることは、一部の方にはよく知られていることでした。自然編の執筆者で同級生でもある有井一雄さん(神奈川昆虫談話会)が、旧津久井町で採集されたコウチュウの標本を整理しまとめられている際、ゾウムシ標本の一部を養老さんに差し上げたことが執筆していただくこととなったきっかけです。「ガロアコブヒゲボソゾウムシの再発見!」というタイトルで書かれた文章には、1908年高尾山で発見され新種として記載された本種が、他の種と同じものではないかという疑問を持たれていたところ、旧津久井町を含む丹沢山地や箱根、伊豆天城山などから再発見されたため、その存在を明らかにした論文を書かれたという経過が記述されています。

 そして、生息場所として旧津久井町が含められていたこともあり、調査で分かった新たな事実として津久井町史自然編に執筆いただくことになりました。

 講演会では津久井町史自然編の執筆内容には触れられませんでしたが、虫を好きになった経過や思い出話、虫の不思議な行動、家の玄関先にいたアカトンボの話など、虫に関するあるいはかかわりのあるお話しをしていただきました。またお母様が旧津久井町出身であるという相模原市との関わりや、時事問題の話題など、参加者を飽きさせない楽しいお話をしていただき、あっという間に時間が過ぎていきました。

 最後の質疑応答の中では、子どもさんから最近見つけた虹色に光るきれいなゾウムシの名前についての質問があり、困った表情をされた養老さんが印象的でした。

 今回の講演会では、入口のホワイエを使って、講演会タイトルに合わせ、津久井町史自然編刊行のための基礎調査で得られた昆虫標本の一部と写真を、また養老コレクションのほんの一部をお借りし展示しました。さらに、『津久井町史自然編』を紹介するコーナーも設置し、講演会の参加者に直接手に取って見ていただくこともできました。これからも、様々な機会をとらえ『津久井町史自然編』を紹介し、複雑で多様な旧津久井町の自然について知っていただくとともに、足を運んでいただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

講演中の養老さん
NIKON D5000 (29mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO1600)
講演中の養老さん

ホワイエでの展示風景
NIKON D5000 (22mm, f/6.3, 1/160 sec, ISO1600)
ホワイエでの展示風景

 

津久井町史自然編刊行記念自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を開催

 平成25(2013)年7月15日(祝・月)、『津久井町史自然編』の刊行を記念し、自然観察会「オオムラサキの生活と夏の城山」を、神奈川県立津久井湖城山公園で開催しました。定員30名のところに40名近くの方からお申し込みをいただき、大盛況の中で行われました。講師は自然編執筆者の面々と、会場となった津久井湖城山公園を管理する(公財)神奈川県公園協会の職員です。

 当日は連日の暑さがそのまま持ち越され、朝から汗ばむ陽気でしたが、オオムラサキの観察にはもってこいです。午前10時から観察会を開始し、一番オオムラサキの出現を期待していた場所ではその姿を確認できず、期待を胸にツタ植物やオオゴキブリ、ムササビの巣を観察し、予定のコースを進みます。

樹液の前でオオムラサキの説明
NIKON D5100 (26mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO220)
樹液の前でオオムラサキの説明

ツタ植物の説明
NIKON D5100 (18mm, f/7.1, 1/200 sec, ISO100)
ツタ植物の説明

オオムラサキ
NIKON D5100 (55mm, f/8, 1/30 sec, ISO100)
オオムラサキ

 もうすぐお昼という地点に差し掛かった時、コナラの樹液にカナブンやオオスズメバチとともに、3頭のオオムラサキが出現!!なかなか翅(はね)を開いてくれませんが、時折翅をばたつかせ、その度に歓声が上がります。そうこうしていると、1頭のオオムラサキが私たちの眼の前の木に飛来し、頭を下にして止まりました。これには参加者も驚きの歓声を上げ、一斉にカメラが近づきます。

 本来は禁止されていることですが、今日は特別にその個体を採集しじっくり観察です。透明の袋に入れ暴れないようにし、表側と裏側をじっくり見ることができました。その個体はオスで翅の青さが際立ちます。また胴体も太く、思っていたより触角が長いという皆さんの感想でした。何にせよオオムラサキが観察できて一安心です。

 昼からは根小屋段丘や津久井渓谷の形成などについて、展望台から広がる景観を見ながら地形や地質のお話をお聞きしました。オオムラサキを見終わってもう満足という気持ちと、暑さのためか参加者は自然と足早になっていきます。それを制するように、ニイニイゼミの抜け殻やエゴノネコアシを観察し、野外での最後はエノキの木の下でオオムラサキの幼虫とさなぎ、さなぎの抜け殻探しです。木の下からエノキの葉の裏側を見上げるように一斉に探しますが、結局見つけることはできませんでした。

津久井湖方面の地形と地質の説明
NIKON D5100 (18mm, f/10, 1/200 sec, ISO100)
津久井湖方面の地形と地質の説明

ニイニイゼミの抜け殻
NIKON D5100 (18mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO100)
ニイニイゼミの抜け殻

 エゴノネコアシ(白い袋状の虫こぶ)の中にエゴノネコアシアブラムシが入っている(※)
NIKON D5100 (55mm, f/8, 1/60 sec, ISO100)
エゴノネコアシ(白い袋状の虫こぶ)の中にエゴノネコアシアブラムシが入っている(※)

 研究棟に入り一休みし、その後各講師から今日のまとめと補足説明がありました。野外で聞いた話に加え、津久井町史自然編に掲載されている詳しい図や写真を使ってお話しいただくと、さらに深みのある内容に変わっていくのが不思議です。今年度は平成26(2014)年の1月と2月に、それぞれテーマを設け同様の観察会を計画しています。このような事業を通して、旧津久井町の自然を少しでも体感いただければと思います。(津久井町史担当 守屋博文)

 ※エノゴネコアシアブラムシがエゴノキの芽に何らかの刺激を与えた結果、エゴノキの芽の一部の組織が大きく肥大化し、白い袋状の虫こぶが形成される。

養蚕の豊作と作業の無事を祈る女性たちの「おこもり」~緑区青野原~

 かつて、相模原周辺では養蚕が盛んに行われ、養蚕に関わるさまざまな行事や信仰が人々の暮らしの中に根付いていました。しかし、養蚕をする家がなくなり、世代交代も進む現在では、そうした行事や信仰が少しずつ姿を消しつつあるように感じます。そんな中、養蚕に関わる女性の集まりが今も緑区青野原で行われているという話を聞き、当館の加藤学芸員(民俗担当)と一緒に、その集まりにお邪魔させていただきました。

 青野原の嵐・上原・下原地区では、毎年5月と6月に1回ずつ、3地区の女性が集まって和讃(仏の功徳や高僧の功績を讃えるもの。歌念仏ともいう。)をあげる、「おこもり」という行事が行われています。

 5月は「火防(ひぶせ)のおこもり」(「迎え」ともいう。)、6月は「お礼のおこもり」(「お礼ごもり」・「送り」ともいう。)と呼ばれ、蚕の飼育が始まる前(5月)に火災除けと繭の豊作を祈願し、また、飼育終了後((6月)には火事なく無事作業を終えたことに感謝して行われてきたそうです。

 この行事がいつごろ始まったものかはわかりませんが、この行事を行うのは「養蚕で火を使ったから」だと伝えられています。養蚕では、蚕がよく育っていい繭を作るように、温度の管理にとても気を遣いました。寒い時には蚕を飼う部屋を暖めるために木炭や練炭等の火力が使われ、火災が発生しやすい状況にあったことが、「おこもり」の行事につながったものと想像されます。

 お話をうかがったところ、青野原にも以前は養蚕を営む家が数多くあったようですが、だいぶ前に一軒もなくなってしまったとのこと、しかし、女性たちが集う「おこもり」はその後も引き続き行われて、現在に至っているということです。

会場の青野原会館。 神楽堂とも呼ばれます。
会場の青野原会館。
神楽堂とも呼ばれます。

上座に用意されたお供え。 ロウソクに火が灯されます。
上座に用意されたお供え。
ロウソクに火が灯されます。

お礼のおこもりの様子。 今回は13名で行われました。
お礼のおこもりの様子。
今回は13名で行われました。

 持参した帳面を手元に広げます。
持参した帳面を手元に広げます。

鉦を打ちながら独特の節回しで歌います。
鉦を打ちながら独特の節回しで歌います。

帳面と鉦と撞木を各自持参します。
帳面と鉦と撞木を各自持参します。

 今年の「お礼のおこもり」は、平成25年(2013)6月10日、青野原バス停近くの青野原会館で行われました。今回の参加者は13名(ほかにお茶出しのお手伝いの方が3名)で、5月13日に行われた「火防のおこもり」には21名が参加されたそうです。

 会場となる部屋の上座にはお酒やお菓子・果物などが供えられ、準備が整うとロウソクに火が灯されます。午後1時30分になると、役員のあいさつの後、和讃が始まりました。各自持参した帳面を広げ、小さな鉦(かね)を打ちながら和讃を行います。女性の歌声と鉦の音で、部屋の中の雰囲気はがらりと変わります。

 最初は「火防せ(ひぶせ)様」と題された和讃です。「あきばさん さんじゃくぼうに みずやしき」から始まる言葉を、独特の節回しで歌います。帳面を拝見すると、火防の神として知られる秋葉神社(静岡県)を表現した文言や、「しもばしら こうりのなげしに ゆきのけた あめのたれきに つゆのふきぐさ(霜柱 氷の長押に 雪の桁 雨の垂木に 露の葺草)」という建物にまつわる火難除けの言葉などが並んでいます。

 続いて、お茶で少し喉を潤したのち、「なむつしまのごずてんのう」から始まる和讃に移ります。節回しも変わり、実に47もの神仏の名をあげていく長丁場です。47の神仏には、青野原地域に祀られている焼山社の焼山権現などのほかに、江の島弁天や成田不動など周辺地域の著名な社寺の神仏の名もみられます。ちなみに、最初の「つしまのごずてんのう」は、疫病・厄除けで有名な津島神社(愛知県)の祭神で、『津久井町郷土誌』によると、青野原では江戸時代に津島神社の牛頭天王(ごずてんのう)を勧請した経過があるようです。江の島弁天等も、あるいは青野原の人々が参詣したりお札を受けたりしたような社寺なのかもしれません。いずれにしても、多くの神仏に対して、火事を出すことなくいい繭がたくさんできるように祈願していたことがうかがえます。

 そうして開始から40分ほどで和讃が終わると、お茶菓子などが用意され、楽しい歓談の時間となります。部屋の中には、鉦の音から一転して女性の笑い声が響きます。こんな楽しみがあるのも、「おこもり」が続いている理由の一つかもしれません。@養蚕が盛んだった相模原周辺では、こうした養蚕に関わる女性の集まりが各地で行われていたようですが、『相模原市史民俗編』等の刊行物で紹介されているものをみると、その有り様はさまざまであったことがわかります。この「おこもり」もまた、青野原の人々の手で育まれてきた、他に二つとないものではないでしょうか。

 『津久井町史』は民俗編の刊行予定はありませんが、地域を知る資料の一つとして今回の記録を保存するとともに、こうした行事が時代によって変化しながらも受け継がれ、その歩んできた歴史や人々の想いを伝えてくれたら、という願いを込めて、この場を借りてご紹介させていただきました。(町史担当 草薙由美) ※平成24年度民俗の窓で中央区田名、南区相模大野、南区磯部で行われている養蚕信仰について紹介しています。

『津久井町史自然編』を刊行!!

 平成25(2013)年3月、津久井町史編さん事業としては5冊目となる、『津久井町史自然編』を刊行しました。平成11(1999)年1月に津久井町史編集委員会自然部会を立ち上げ、その後自然に関する各種調査が部会員により実施され、その成果をまとめた集大成としての一冊となります。約900点に及ぶ多くの図や写真を利用し、分かりやすく、親しみのもてる本となっています。

 第1章「自然のあらまし」では、前記自然部会の部会長である髙橋純夫氏が、旧津久井町の自然のあらましについて、特徴と概要により解説しています。そして、第2章から第5章までは、各分野での調査成果を、図や写真を交えながら解説しています。

 第2章「気象」では、旧津久井町が神奈川県内でもいかに寒冷地で、また降水量も多いのかを、グラフや表を使ってお伝えしています。

 第3章「地形・地質」は、旧津久井町の大地の成り立ちを、地質構造や形成過程とともに解説し、付図として地質図を添付しています。

 第4章「植物」は、私たちの生活する場所やその周辺に点在する公園や畑、低山地や渓谷、丹沢山地稜線部やブナ林の植物などを、写真を交えて解説しています。

 第5章「動物」は、哺乳動物や鳥類、両生類、昆虫類、魚類など、動物を大きく10のグループに分け、それぞれ種類や生息する環境ごとなど、少しでもその状況が伝えやすい方法で解説し、多くの写真で紹介しています。

 第6章「特色ある自然と生物」では、これまでに紹介できず、また解説しきれなかった内容について、50項目のタイトルで記述しています。調査により旧津久井町から発見された植物や昆虫、地域ならではの特徴ある自然、時間の経過や人との関わりにより変わってきた自然など、読みやすいように各タイトル数ページで完結しています。

 最後の第7章「自然と環境保全」は、旧津久井町が水と緑の地であることを検証した上で、これからこの自然とどう関わっていったら良いのかを、読者の皆様に考えるきっかけとなればと設けた章です。

 旧津久井町の自然の現状を記録し、お伝えしていくことは、これからの相模原市を考えていくうえでも重要なことです。『津久井町史自然編』が、本棚の隅に置かれたままにならず、いろいろな場面で活用されることを願っています。

ツキノワグマ (撮影:岡林良一氏)
ツキノワグマ
(撮影:岡林良一氏)

 トウゴクミツバツツジ (撮影:山口一郎氏)
トウゴクミツバツツジ
(撮影:山口一郎氏)

ミヤマカラスアゲハ (撮影:嶋﨑えつ子氏)
ミヤマカラスアゲハ
(撮影:嶋﨑えつ子氏)

民俗の窓(平成25年度)

相模原の民俗を訪ねて(68)~津久井観音霊場ご開帳の準備(緑区根小屋中野地区・平成26年3月)~

 津久井観音霊場は、江戸時代中期の宝暦年代(1751-1763)に、旧津久井郡内の観音を 祀る三十三か所の寺を宗旨や宗派を問わず巡る霊場として開設されたのが始まりで、現在 では他の寺なども加入して四十三か所となっています。普段はお会いすることができない これらの観音様が一斉にご開帳されるのは、本開帳が十二支での午(うま)年、中開帳が 子(ね)年で、午年の今年(平成26年)は5月11日(日)~31日(土)にかけて本開 帳が行なわれます。
 今回紹介するのは、緑区根小屋中野の集会場で本開帳の準備の一つとして、3月9日(日) の午後7時から行われたオヒイチ作りの様子です。根小屋中野の十一面観音は津久井観音霊場の第三番「清水山中野堂」で、元々は地域の個人の家の守護仏でしたが、明治初年の神社にある仏堂や仏像等の破壊を伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れの中で、地区内で祀るようになりました。また、当所はその家の横に堂があり(今でも堂のあった横の道を「堂の坂」と言うそうです)、明治39年(1906)に建物の傷みがひどくなって現在地に移転して「中野堂」と改称し、その後は集落や青年団の集会場、また、繭の乾燥所などとして使われていました。現在の観音を祀る堂と集会所が一緒になった建物は昭和46年(1971)に建てられ、増改築を経て今に至っています。

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多くの女性が集まって作業を進めた

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作られた猿

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 前回のオヒイチが飾られている、奥に観音が祀られている

 観音のご開帳に当たっては、12年に一度の本開帳の年に、観音像の前側に飾ってあるオヒイチ(オヒーチあるいはオヒチなど、いろいろな言い方があるそうです)を作り変えることになっています。これは、大小の三角形のザブトン、くくり猿の形をしたもの、桃の三種類で、観音様は女の仏様なのでみな女性にちなむものと言われ、全部で大きなザブトンは12個、それ以外の小ぶりなザブトン252個、猿288個、桃36個を作ります。この日は作業の二日目で、集会場に25名ほどの地域の女性が集合し、前回の12年前に作ったものも参考にしながら布を縫って作っていきました。当日の作業は和やかな雰囲気の中で午後9時頃まで行われましたが、まだ必要な三分の一ほどの数が完成しただけで、これからも15・16日と作業は続くとのことでした。

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 こうしたオヒイチを作る、これも前回のもの。

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 大きなザブトンの下に、小さなザブトンと猿をつなげる

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 桃は一番下に取り付ける

 このオヒイチ作りが終了した後も、例えばそれらの組み立てや観音様の手からつなぐお手綱を結ぶ回向柱(えこうばしら)のしつらえなど、さまざまな準備をはじめ、さらに、開帳期間中には観音堂に順番に人が詰めて参拝者への接待に当たるなど、開帳が終わるまでいろいろなことがあり、中野自治会あげての行事となるとのことです。そして、ここでは根小屋中野地区を取り上げましたが、もちろん他の地区や寺でも5月のご開帳が盛大で無事に実施され、多くの参拝者を迎えるべく同様の準備が重ねられています。この「民俗の窓」でも、今後の諸準備の状況を含め、今年のご開帳の様子を紹介していきたいと思います。

 なお、今回の調査に当たっては、この欄で年中行事を紹介させていただいている菊地原稔さんや、御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長の山本早苗さん、松本春美さんをはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(67・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す②小田原市前川地区(平成26年1月)~

 今回(№67)も前回の№66に引き続いて、1月11日に訪れた小田原市前川地区の山車について紹介します。前川地区の行事の見学及びこの原稿の作成に当たっても南鴨宮地区と同様に、箱根町立郷土資料館学芸員の高橋一公さんや、平成26年道祖神総代の西村昭雄さん(向原道祖神総代)をはじめ、各地区の多くの皆様に大変お世話になりました。

 前川地区の大きな特徴として道祖神の山車に人形を飾るということがあります。元々は地域内の6地区で人形を飾った山車を出していましたが、その中の一つである西地区に残る記録によると、第二次世界大戦後に大火で人形が焼けてしまったり人手が足りなくなって全地域で実施することができなくなり、さらに、昭和40年(1965)~53年(1978)頃までは、前川地区が東海道(国道1号)に面した場所ということもあって交通事情のために中止となりました。それが昭和54年からは以前の6地区を現在の西・中宿・向原の3地区にまとめて実施するようになり、現在に至っています。山車を飾るのは、かつては12日・13日で今は1月の第二土・日曜日となっています。

公民館の中に用意された人形。西では今年 は「八重の桜」をテーマとした
公民館の中に用意された人形。西では今年 は「八重の桜」をテーマとした

西の山車。トラックの山車で夜には地区内を巡行する
西の山車。トラックの山車で夜には地区内を巡行する

中宿では「本能寺の変」がテーマで、信長の持つ槍の調整をしている
中宿では「本能寺の変」がテーマで、信長の持つ槍の調整をしている

 1月11日(土)の午前中にまず伺ったところ、盛んに準備をしている最中でした。飾る人形のテーマは3地区それぞれ異なり、前年の秋に各地区で検討した結果を持ち寄り、重ならないように調整します。ちなみに今年(2014年)は、西がNHK大河ドラマにちなむ「八重の桜」、中宿は「本能寺の変」、向原は「甲斐姫物語」(戦国時代、埼玉県行田市の忍城を豊臣軍が水攻めをした際に、敵を迎え撃った甲斐姫の故事に係わる)でした。テーマは時代劇等から取られることが多いものの、最近は今年の「八重の桜」のように現代物も見られるようになったそうです。昔は人形もお年寄りが作りましたが今は東京の貸人形屋に発注しており、背景の絵などは描く人が地域にいて、山車の組み立てなどは地元の人が出て行います。

中宿の山車。壁に刺さった矢が迫力がある
中宿の山車。壁に刺さった矢が迫力がある

向原の山車。昔は曳いたとされ、写真には写ってないが車輪が付いている
向原の山車。昔は曳いたとされ、写真には写ってないが車輪が付いている

お囃子を乗せた向原のトラックが巡行する
お囃子を乗せた向原のトラックが巡行する

 人形を飾った山車は、交通事情のために中止となったことからも分かるようにかつては地区内を曳くものでした。今では中宿と向原では飾った山車を曳くことはなく据えたままで、西ではトラックに飾り、完成後に地区を回ります。また、西では少子化のために子ども会が解散したこともあって囃子は行われておらず、中宿と向原は人形の山車とは別に車に子どもたちが乗って囃子の巡行をしています。11日の午後に再度訪れた際には、3地区での完成した人形を飾った山車を拝見するとともに、いろいろなお話しを聞いたり、かつての様子を撮影した写真なども見せていただきました。なお、12日夜には「メーラッセ(参えらっせ)」と言って、子どもたちが一軒ずつ回って山車への参拝を呼びかけながらお金を貰うほか、どんど焼きは別に13日午前中に海岸で行われます。これらの一連の行事が終わると、ようやく正月も終わったという気持ちになると言われた方の一言が印象的でした。

  道祖神の祭りに山車(屋台)やそれに類すると考えられるものを出すことは、前回NO.66に記したように小田原市をはじめ、大磯町・中井町・松田町・開成町・山北町・南足柄市・真鶴町・湯河原町等の県西部から報告されており、さらに、静岡県の伊豆半島北部でも、「サイノカミ」と呼ばれる木製の祠に車が付いた曳車を子どもたちが引っ張って歩く行事があるなど、道祖神山車の分布がつながっている点に注目されます。その土地の民俗を捉えるためには周辺地域も視野に入れる必要があることを示していると言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(66・番外編)~道祖神の祭りに山車を出す①小田原市南鴨宮地区(平成26年1月)~

 神奈川県内は全国的にもこの時期の道祖神祭祀が盛んな地域であり、県内各地でさまざまな行事が行われている中で、相模原ではまったく見られないようなものもあります。今回は、民俗調査会の会員とともに1月11日に訪れた、道祖神の祭りとして山車を出す行事について、紹介してみたいと思います。なお、今回の行事の見学及び原稿の作成に当たっては、箱根町立郷土資料館学芸員の高橋一公さんや、南鴨宮文化財保存会副会長の堀口康夫さん、青空子供会会長の柏木淳一さんをはじめ、多くの地元の皆様に大変お世話になりました。

 小田原市南鴨宮はJR東海道線鴨宮駅南口周辺の地域で、自治会一区から五区の南鴨宮全体の行事として今年は11日に山車(屋台とも呼ばれます)が曳かれました。かつては14日と15日の小正月行事でしたが、昭和32年(1957)に一度中止になりました。それを昭和50年頃に復活し、現在では子どもの学校の関係もあり、1月の第二土曜日に行われています。この行事は明治頃から始まったものと言われ、山車も古いものがありましたが平成9年(1997)に大修理がなされました。それでも彫り物などは昔のものがそのまま使われているそうです。

	  子どもたちが曳く山車(屋台)。上部にはお囃子の子供たちが乗っている

子どもたちが曳く山車(屋台)。上部にはお囃子の子供たちが乗っている

名前が書かれた提灯や花が飾られている。
名前が書かれた提灯や花が飾られている。

所々で電線を持ち上げる。大きな山車を通すのも一苦労
所々で電線を持ち上げる。大きな山車を通すのも一苦労

  当日は午前10時から途中の休憩や昼食を挟んで夕方まで、地区内を子どもたちが曳く大きな山車が巡行します。山車では囃子保存会の子どもによる小田原囃子も奏でられ、大変華やかな雰囲気です。山車には120ほどにも及ぶ多くの提灯が付けられており、これは前年に生まれた赤子やその親などの名前が書かれたもので、前年の11月に回覧を回して奉納を募ります。また、山車に見える造花は1月4日のハナキリで公民館で作られ、表と裏側に32本ずつ飾られています。翌12日には団子焼きが行われます。なお、ここでも石像の道祖神が祀られていますが、道祖神は道しるべや外からの災いを防ぐ神とともに、子どもが病気になると親が「なおらっせ、なおらっせ」と言いながら青竹で数百回も叩いて子どもの病気が治るように祈願し、こうしたことは昭和23年(1948)頃までは行われていたそうです。

この地区(下新田)で祀る道祖神の一つ。 県西部には双体道祖神が多く分布する
この地区(下新田)で祀る道祖神の一つ。
県西部には双体道祖神が多く分布する

  今回訪れた南鴨宮では、民俗調査会の会員が他にどんな機会に山車を出すのかを質問したところ、一年のうち正月の道祖神の時だけとの答えであり、山車というと当然、夏を中心とした祭りに出すものだと思っている相模原の者たちにとっては大きな驚きでした。実 は神奈川県西部では、正月の道祖神の祭りにこうした山車を曳くことが行われており、足柄上郡山北町の山北駅周辺では数基の花車といわれる山車等が一同に介して曳き回されることが有名で、小田原市内でも以前は他の地区でもあったようですが、現在は、例えば久野地区でも四基ほどの山車があるとのことです。  自分たちが日常的にしているものが普通だと考えていると、別の場所ではまったく異な っていることがあり、そのような発見をするのも各地をフィールドワークする楽しみの一つです。そして、こうしたことを通じて、自らが担っている文化を振り返り、改めて考えてみることが大切です。今後とも相模原という地域を考えるためにも、周辺各地の同様の行事や民俗について機会を捉えて紹介したいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(65)~各地のどんど焼き(平成26年1月)~

  前回の「民俗の窓」の(64)「変わるどんど焼き」にも記したように、今年も市内各地を中心にどんど焼き(団子焼き)を見て回りました。今年は大雪となった昨年の14日とは違い、かなり肌寒い中でも天気は快晴でそれほど風も強くなく、火を盛んに燃やすどんど焼き行事には良い条件のもとで行うことができました。今回はそうした各地の様子について、13日を中心にいくつかの地区の写真を紹介します。

(写真①~⑩は1月13日)

①南区当麻・中下宿の道祖神の小屋。前日に5名の役員によって作られた
①南区当麻・中下宿の道祖神の小屋。前日に5名の役員によって作られた

②南区当麻・中下宿の団子焼き。以前は少し離れた工場の敷地内だったが、昨年から小屋の前側のこの場所で行うようになった。ここでは午前中に実施する
②南区当麻・中下宿の団子焼き。以前は少し離れた工場の敷地内だったが、昨年から小屋の前側のこの場所で行うようになった。ここでは午前中に実施する

③緑区小倉、午前中に通りかかったところ、ちょうど河原に準備中だった
③緑区小倉、午前中に通りかかったところ、ちょうど河原に準備中だった

 ④出来上がったもの。小倉では4か所で行うという
④出来上がったもの。小倉では4か所で行うという

⑤午後4時に点火。大きな火が周りの風景に生える(緑区小倉)
⑤午後4時に点火。大きな火が周りの風景に生える(緑区小倉)

⑥しばらくすると団子焼きが始まる(緑区小倉)
⑥しばらくすると団子焼きが始まる(緑区小倉)

 ⑦③とは少し離れた小倉橋下。午後3時過ぎに到着するとすでに燃えていた。これは午前中のもの
⑦③とは少し離れた小倉橋下。午後3時過ぎに到着するとすでに燃えていた。これは午前中のもの

⑧緑区寸沢嵐・道志南の道祖神の小屋。杉などで葺いて作る。まだ作られてまもなくで新しい
⑧緑区寸沢嵐・道志南の道祖神の小屋。杉などで葺いて作る。まだ作られてまもなくで新しい

⑨緑区中沢。13日の午後5時30分に点火。年男年女の小学校5年生が点火するという
⑨緑区中沢。13日の午後5時30分に点火。年男年女の小学校5年生が点火するという

(写真⑪~⑮は1月14日)

⑩緑区千木良岡本。14日点火。津久井地区は大きなものを作ることが多い
⑩緑区千木良岡本。14日点火。津久井地区は大きなものを作ることが多い

 ⑪町田市金森町。向かって右側の二番目の碑が道祖神。手前の穴には普段は丸石が二つ納められている
⑪町田市金森町。向かって右側の二番目の碑が道祖神。手前の穴には普段は丸石が二つ納められている

⑫少し分かりにくいが、丸石が正月飾りの中で一緒に燃やされている。ここでは道祖神の石を今でも燃やしている(町田市金森)
⑫少し分かりにくいが、丸石が正月飾りの中で一緒に燃やされている。ここでは道祖神の石を今でも燃やしている(町田市金森)

⑬住宅地中の杉山神社敷地で行うため燃やすものを高く積んだりせず、団子焼きにも順次、焼く人が訪れる(町田市金森)
⑬住宅地中の杉山神社敷地で行うため燃やすものを高く積んだりせず、団子焼きにも順次、焼く人が訪れる(町田市金森)

⑭緑区青山神社。18日午前6時点火。津久井地区では早朝に点火の場所が比較的多く見られる。
⑭緑区青山神社。18日午前6時点火。津久井地区では早朝に点火の場所が比較的多く見られる。

⑮緑区青山神社の団子焼き。⑭と⑮は五十嵐さんと千葉さんが訪れた
⑮緑区青山神社の団子焼き。⑭と⑮は五十嵐さんと千葉さんが訪れた

 なお、12日の南区古淵と中央区東淵野辺は、前回の№64で紹介したので省略し、また11日に訪れた道祖神の祭りに山車(屋台)を出す場所である小田原市南鴨宮・前川地区は、次号で触れたいと思います。また、今年も13日には民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(64)~変わるどんど焼き(平成26年1月)~

  「民俗の窓」では、毎年この時期になると市内外のどんど焼き(団子焼き)について記しており、今年も11日(土)から14日(火)まで、いくつかの地区を回ってみました。そして、どんど焼き自体の調査は平成16年(2004)1月以来、民俗講座「道祖神を調べる会」の活動をきっかけとして、多くの市民の皆様のご協力の元に継続して進めており、その10年の間に集まった市内各地の情報は、博物館が毎年刊行している『研究報告』にも掲載しています。

 南区古淵は地域の氏神である鹿島神社の本殿裏手でどんど焼きが毎年行われており、「民俗の窓」の№26「道祖神の小屋作り」でも記したように、正月14日の午後5時から行われていたどんど焼きの当日に、「道祖神のお宮」などと呼ばれる藁製の小屋を作って燃やしている地区です。写真①・②は、二年前の平成24年1月14日のお宮への点火と団子焼きの様子です。

 

写真は南区古淵

①お宮への点火(2012年1月14日
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
①お宮への点火(2012年1月14日

②団子焼き(2012年1月14日)
②団子焼き(2012年1月14日)

③今年(2014年)のお宮。行う場所は変わらない
③今年(2014年)のお宮。行う場所は変わらない

 それに対して、写真③~⑥は今年の状況ですが、特に①と④、②と⑤を見比べると何か違っていることにお気づきでしょうか。すぐにお分かりのように、周りの明るさが明らかに異なっています。実はこの地区では、今年から14日午後5時ではなく第二日曜日(今年は12日)の午後2時から実施というように日時を変更して行うことになりました。その理由としては、古くからの実施日である14日は、今年のように平日になることが多く、参加できる人の人数の問題や、日曜日の昼間ということで子供も集まりやすいという点があったそうです。元々の団子焼きは正月14日の行事として日は変わらないということだったものの、成人の日が15日から第三月曜日になるといった祝日の変化によって、行事の日取りが変更となりました。こうした点から14日に行う所は次第に少なくなっており、緑区城北地区などでも今年からやはり第二日曜日に変わったとのことです。

 

写真は南区古淵

④お宮への点火(2014年1月12日)。午後2時なのでまだ周りが明るい
④お宮への点火(2014年1月12日)。午後2時なのでまだ周りが明るい

⑤団子焼き(2014年1月12日)
⑤団子焼き(2014年1月12日)

⑥焼いた団子を取り替える「とっかえ団子」は変わらずに行われた
⑥焼いた団子を取り替える「とっかえ団子」は変わらずに行われた

 

 このほかにも、例えば中央区東淵野辺の東嶽之内・ニュー相模団地が主催するどんど焼きは、かつては境川縁の中里橋付近で行われていましたがこの場所が工事の資材置き場となってしまったため、数年前から地元のこども広場を使っています。さらにこの地区で注目されるのは、「道祖大明神」の御札が地域の石仏や、正月飾りなどを積み上げた燃やすものに付けられているのが見られるようになったことで、今のところ経緯は不明なものの、どこからか請けてきた御札が貼られているようです。

 

写真は東淵野辺

⑦こども広場に正月飾り等を積み上げる(2014年1月12日)
⑦こども広場に正月飾り等を積み上げる(2014年1月12日)

⑧燃やすものの正面に貼られた「道祖大明神」の御札。最近見られるようになった
⑧燃やすものの正面に貼られた「道祖大明神」の御札。最近見られるようになった

⑨団子焼き(2014年1月12日
⑨団子焼き(2014年1月12日

 毎年同じように繰り返して行われている地域の年中行事も、10年ほどの期間で捉えると、もちろん変わらずに実施されている所が多い中において、さまざまな理由で変わったり、場合によっては新たに付け加えられているものがあることが分かります。今後とも、まだ訪れていない地域の情報を集めることはもとより、相模原のどんど焼き行事全体の変化にも注目していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(63)~境川対岸の道祖神の建立(平成26年1月)~

  先日、町田市の郷土史等について熱心に調査研究されている「まちだ史考会」の方々が来館され、特に相模原市の石仏の概要についてお話しするとともに、町田市の石仏についてもいろいろと教えていただきました。その中で、興味深いものがありましたので紹介してみたいと思います。

 古淵駅から町田方面に進んで境川を渡ると町田市木曽町となり、山崎町との境付近にかつて「木曽の一本松」と呼ばれた老樹がありました。樹齢六百年と言われ、目通り三メートルもある大木で枝ぶりも見事でしたが、昭和27年(1952)に残念ながら火事で焼けてしまいました。そして、この木があった所の塚は現在も残っており、その塚の上に石祠や堅牢地神塔、道祖神の石仏が建てられています。なお、石祠の隣りの碑は松が焼失した翌年の昭和28年に造られたもので、松の由来や樹の下に浅間社の石祠を文化四年(1807)に祀ったこと、火災の後に後継として稚松を植えたことなどが記されています(一本松や碑文の内容については、町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承第二集』及び町田市史編纂委員会編『町田市史下巻』を参照しました)。

一本松があった塚、この上に道祖神等がある
一本松があった塚、この上に道祖神等がある

 向かって左が堅牢地神塔、右側が道祖神
向かって左が堅牢地神塔、右側が道祖神

 道祖神碑
道祖神碑

 

 この地神塔は、銘文によると浅間社の石碑が祀られたのと同じ年の文化四年八月に、地元の多摩郡木曽村三家の信徒講中によって建てられました。そして、向かって右側にある道祖神は文政八年(1825)のもので、併せて高座郡渕野辺村石井忠左□□(二文字は破損していて読めません)と記されており、つまりこの道祖神は町田ではなく、境川対岸の淵野辺村の者が造立者であったことが分かります。ちなみに石井姓は淵野辺の旧家に見られる苗字です。そして、この逆の事例が南区古淵・鹿島神社境内の地神塔です。嘉永三年(1850)、「当所境川講中」の造立で、境川講中は境川対岸の町田市木曽町の一つの地区であり、以前、「民俗の窓」の「祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~」でも境川地区のどんど焼きについて触れています。先の道祖神とは反対に、相模原市に町田の人々が建てたものが残されています。

 摩滅して読み取りにくいが、「高座郡渕野」 や「石井忠左」などの文字が見える
摩滅して読み取りにくいが、「高座郡渕野」
や「石井忠左」などの文字が見える

 古淵の地神塔
古淵の地神塔

台座に「当所境川講中」とある
台座に「当所境川講中」とある

 

 さらに、緑区相原一丁目の路傍にある寛延元年(1748)の庚申塔は相州田尻村と武州森久保村による造立であり、田尻は緑区相原、森久保は町田市相原町の中の一集落です(『新編武蔵風土記稿』では、森久保は下相原村の小名の一つで「村の西南、境川の縁を云」と記されています)。この庚申塔は、江戸時代の村の範囲よりもさらに小さな、境川に接した二つの集落によって建てられたもので、庚申講も一緒に行っていたことが想定されます。また、やや境川下流に位置する緑区東橋本四丁目の蓬莱橋たもとの安永十年(1781)造の二十三夜塔は、足の悪い人がよくお参りしたと伝えられ、「武相講」と彫られていて、相模原と町田の双方にある小山地区の人々によって祀られていました(相模原市教育委員会編『小祠調査報告書』)。この庚申塔と二十三夜塔の事例は、境川を挟んだ一つの信仰圏が作られていたことが示されています。

 境川が相模と武蔵の国境となったのは、文禄三年(1594)の検地によるものであり、その後の流域の人々の生活圏は全面的に分かれることはなく交流が続いていくと考えられており(神崎章利「国・郡会境川小考」 町田市立博物館・相模原市立博物館編刊『境川流域民俗調査報告書』)、今回挙げた石仏は、こうした境川流域の相模原と町田地域の関係のあり方の一端を表しているということができます。今後とも民俗はもちろん、石仏から見えてくる地域の歴史に注目しながら調査を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(62)~フィールドワーク二題(平成25年11月)~

 民俗分野では、民俗調査会をはじめ、さまざまな機会を捉えて相模原を中心に周辺地区を含めた地域のフィールドワークを行っています。今回は、そうした活動の状況をお知らせすることを目的に、最近実施した2回のフィールドワークを紹介してみたいと思います。

 最初は11月4日(月・祝)に行った、当館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会との交流会です。両会の定期的な交流会については、「ボランティアの窓」や「民俗の窓」でも紹介しており、四回目となる今回は民俗に親しむ会の皆様に、鶴見川流域の川崎市麻生区岡上・町田市三輪町・横浜市緑区寺家町をご案内いただきました。ちなみに当日は相模原から13名(加藤含む)、横浜から9名(担当の刈田学芸員を含む)の総勢22名が参加しました。

画像(11月4日)

道祖神を覆う小屋、まだこうしたものが残されている地区がある。(川崎市麻生区岡上)
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/30 sec, ISO250)
道祖神を覆う小屋、まだこうしたものが残されている地区がある。(川崎市麻生区岡上)

丘陵の間に広がる畑、鶴川駅からすぐとは思えない。(川崎市麻生区岡上)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
丘陵の間に広がる畑、鶴川駅からすぐとは思えない。(川崎市麻生区岡上)

熊野神社境内の蚕蛹供養塔。(町田市三輪町)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/80 sec, ISO100)
熊野神社境内の蚕蛹供養塔。(町田市三輪町)

妙福寺の庚申塔、日蓮宗系には「帝釈天」が刻まれることが多い。(町田市三輪町)
CYBERSHOT (24mm, f/5.6, 1/50 sec, ISO120)
妙福寺の庚申塔、日蓮宗系には「帝釈天」が刻まれることが多い。(町田市三輪町)

谷戸の間に残る収穫後の水田、横浜市緑区寺家町とともに多くの水田があった。(町田市三輪町)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/160 sec, ISO100)
谷戸の間に残る収穫後の水田、横浜市緑区寺家町とともに多くの水田があった。(町田市三輪町)

三輪町と寺家町を結ぶ「山谷の切通し」、圧倒的な迫力がある。
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO200)
三輪町と寺家町を結ぶ「山谷の切通し」、圧倒的な迫力がある。

 今回のコースは、鶴見川の流れに沿って丘陵を登り下りするもので、台地にあり比較的平坦な相模原と比べると歩くのはやや大変な面もありました。それでも、古代の横穴墓群(おうけつぼぐん)や古い寺院・神社を巡って歩いていき、何より住宅地でありながら里山や水田が多く残る美しい風景は心和ませるものがありました。また、途中見かけた大正12年(1923)6月建立の蚕蛹(さんよう)供養塔は、上三輪養蚕組合が創立七周年記念として建てたもので、繭の段階で中にいる蛹(さなぎ)を殺してしまうことから建てられた供養塔ですが、こうした供養塔は相模原の旧市域には無く、津久井地域の三井や与瀬などでは見ることができます。そして、町田市三輪町の日蓮宗の古刹である妙福寺には、「見ざる言わざる聞かざる」の格好をした三猿とともに「奉造立帝釈天王」と記された宝永6年(1709)造の日蓮宗系の庚申塔があるなど、フィールドワークでは大きな楽しみである興味深いいくつかの石仏(石造物)を確認することができました。

 次に紹介するのは、11月20日(水)に実施した、水曜会のメンバーによる甲州道中及び緑区佐野川和田地区のフィールドワークです(加藤を含めて14名参加)。水曜会についても「ボランティアの窓」で紹介していますが、津久井郷土資料室に保管されてきた膨大な資料を整理する一方で、資料整理の成果を展示するとともに、年に二回ほど関連する地域のフィールドワークを行っています。 今回のコースは5月に実施する予定でしたが雨で中止になり、秋に延期となり今回実施したものです。

 当日の午前中は中央本線の上野原駅から藤野駅方面に向って甲州道中の旧道を歩き、午後からはパスに乗った後、周辺の山の上の方まで、茶畑が続く和田地区を歩きました。この日は陽光がたっぷり降り注ぎフィールドワークには絶好の日和で、特に赤や黄色に色づく紅葉は見事なものがありました。さらに、甲州道中旧道沿いに残る上野原宿本陣や番所跡、旧市域に比べて津久井地域の各地に多く残る二十三夜塔等の石仏など、この地域の歴史や文化を物語るさまざまものに触れながら歩くことができました。

画像(11月20日)

上野原宿本陣の門、現在は門のみが残る。(山梨県上野原市)
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/500 sec, ISO100)
上野原宿本陣の門、現在は門のみが残る。(山梨県上野原市)

甲斐と相模に置かれた諏訪番所の跡、ここを通り、川を渡れば相模原市。(山梨県上野原市)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
甲斐と相模に置かれた諏訪番所の跡、ここを通り、川を渡れば相模原市。(山梨県上野原市)

県境付近の相模川、紅葉が水面に写る。(境川橋)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
県境付近の相模川、紅葉が水面に写る。(境川橋)

路傍にたたずむ二十三夜塔、津久井地域には100基以上あるとされる。(緑区小渕)
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/320 sec, ISO100)
路傍にたたずむ二十三夜塔、津久井地域には100基以上あるとされる。(緑区小渕)

住宅を越え、山の上側にまで続く茶畑。(緑区佐野川和田)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
住宅を越え、山の上側にまで続く茶畑。(緑区佐野川和田)

各地で紅葉が見頃で、美しい風景が見られた。(緑区佐野川和田)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO100)
各地で紅葉が見頃で、美しい風景が見られた。(緑区佐野川和田)

 フィールドワークは、実際に地域を丹念に歩き・聞き・見ていきながら、その土地を知り、考えるものです。普段は気が付かない、見過ごしてしまうようなものでも、歴史や文化を物語る資料が地域には顔をのぞかせています。これからもフィールドワークを積み重ね、このような歩いて分かる地域の歴史や文化について紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(61)~南区新戸地区の義太夫関係資料(平成25年10月)~

 神社の祭りに際しては、神職によって神事が粛々となされ、また、神輿や山車が地域を引き回されたりする一方で、その他にもさまざまな出し物が行われています。それは、獅子舞や神楽などの古くから行われる伝統芸能だったり、プロの歌手による歌謡ショー、氏子たちによる演芸会やカラオケなど、さまざまな形式が見られます。これは昔も同様で、芝居の一座を頼んで股旅物(またたびもの)の芝居をやってもらったり、一時期は村の若者などが自ら芝居を演じる地芝居(じしばい)が流行ったということもよく聞くことができます。例えば、南区下溝の古山地区では、神社に明治初期に奉納された地元の者が役者に扮した地芝居の奉納額があり、当時は地芝居が盛んで夢中になってやる者があって、畑に行っても稽古を始めるといった具合で仕事にならず、すっかり評判が悪くなって禁止された、という話が残っており、古山では、昭和の初期頃まで義太夫節(歌舞伎などで用いられる語り)をやる人が結構いたと言います。

 今回紹介するのは、南区新戸在住だった故・佐藤正二さん(明治24年-昭和52年)の義太夫に関するまとまった資料です。佐藤さんは、新戸にあった造り酒屋の次男で、後には平塚で酒屋を営んでいました。それとともに、二十歳代から義太夫を熱心に習って腕を上げていき、その名は近在でも有名になって、大磯に別荘があった多くの名士に呼ばれて義太夫を語り、特に島崎藤村とは懇意だったと言います。その後、平塚で空襲にあって家族とともに生まれ故郷の新戸に引き揚げてからも義太夫の修業を続け、東京の歌舞伎座で頼まれて当時の尾上菊五郎の舞台に出て、歌舞伎座からこのままプロにならないかと誘われたこともありました。そして、昭和28年には欠員になっていた「五代目豊竹生駒太夫」の名跡を襲名することになり、活躍の舞台を一層拡げていきました。例えば、日本大学で非常勤講師として学生を教えたり、県主催の民俗芸能大会に指導していた人形芝居の一座とともに出演する、義太夫連盟の大会で審査員を務める等であり、昭和47年には市の功労者として一般表彰されています(生駒太夫の生涯については、ご家族の方、特に佐藤光江さんからご教示いただきました)。

画像①
CYBERSHOT (12mm, f/3.5, 1/30 sec, ISO320)
画像①

61-2
CYBERSHOT (10.4mm, f/3.2, 1/30 sec, ISO320)
画像②

61-3
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/30 sec, ISO320)
画像③

画像④
CYBERSHOT (20.4mm, f/5, 1/30 sec, ISO320)
画像④

61-5
CYBERSHOT (20.4mm, f/5, 1/30 sec, ISO320)
画像⑤

61-6
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/30 sec, ISO320)
画像⑥

画像説明

  • 画像① 生駒太夫が使った見台。
  • 画像② 床本は、生駒太夫が得意とした「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」など、さまざまなものがある。
  • 画像③ 「五代目豊竹生駒太夫」の譲り状。譲り状に名がある竹本都太夫は、当時の義太夫会の大御所と言われた人物。
  • 画像④ 生駒太夫襲名のお披露目を伊勢原の温泉旅館で行った際の写真。背後の幕に、実家であった新戸の豊国酒造の銘柄であった「士艦桜(しかんざくら)」の名が見える。
  • 画像⑤ 当時講師をしていた日大芸術学部の学生とともに、昭和29年に香川県で学生芝居の公演を行った際に栗林公園で撮影した写真。
  • 画像⑥ 昭和47年11月20日発行「広報さがみはら」、右下の記事で、市から一般表彰された生駒太夫が「義太夫ひとすじ」として紹介されている。

 今回、寄贈された資料は、義太夫を語る際の台本である床本(ゆかぼん)36冊や床本を置く台の見台(けんだい)をはじめ、生駒太夫襲名の際の写真や帳面・譲り状、その活躍を物語る書類(市から表彰された際の「広報さがみはら」等)など、多岐に渡っています。博物館ではこれまでもいくつかの地区で義太夫や村芝居に係わる資料を収集してきましたが、これらはどちらかというと、かつて娯楽が今よりも少なかった時代の人々の楽しみに基づくものなのに対して、生駒太夫の資料は、地域に生きながらも芸を極めた一人の人間の生き様を示すものと言えましょう。これからも本欄では、さまざまな資料から見えてくる地域や人々の姿について考えていきたいと思います。

 なお、今回寄贈された資料(総計89件・116点)の中には、義太夫関係だけではなく戦争(軍隊等)に係わる大変興味深いものも含まれており、それらについても折りに触れて紹介していきます(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(60)~十五夜の供え物・南区下溝(平成25年9月)~

60-1 NIKON D90 (200mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO1600)

 今年の十五夜はちょうど満月にあたり、きれいなお月さまでした。

 平成22年度の民俗の窓の『祭り・行事を訪ねて(3)~「お月見ちょうだいな」~』で、平成22年9月と10月に行われた南区下溝古山(こやま)でのお月見の様子について紹介しており、今日でも、十五夜や十三夜の夕方に子どもたちが「お月見ちょうだいな」と言いながら各家を回ってお菓子などをもらっています。

 そして今年、福田家の資 料整理を行っている「福の会」のメンバーとこの行事の見学に伺うことになり、今回は「お月見ちょうだいな」で回っている子どもたちとともに、各家でのお供え物の状況に注目することにしました。 前回にも記したように、十五夜や十三夜の際には、縁側などに台を出してカヤやススキ等の秋の草花を壷に挿 して飾るほか、里芋・薩摩芋などの秋に畑で収穫される野菜や、月にちなんで丸いものということで米粉で作った団子や小麦粉のまんじゅうを供えます。 また、「お月様は豆腐を好む」として豆腐を一緒に供えることも報告されています(『相模原市史民俗編』)。

 この点を踏まえた上で、見せていただいた各家のお供え物をはじめ、関連する話を書き出すと次の通りです。

  • A家 ジャガイモを供えたが本来は里芋。今年の猛暑でまだ里芋が畑から掘れなかった。十三夜には里芋を供える予定。一緒においてある薩摩芋は買ったもの。こうしたものは15個(十三夜は13個)にする。柿が見えており、柿は供える家と供えない家がある。ススキは5本(同じく十三夜は3本)にする。 お菓子を貰いに回るのは小学生までである。
  • B家 供え物はススキ・団子15個・里芋・栗・ジャガイモ・ミニトマトなど。野菜等は自家製のその時にあるものを供える。昔は飾ってあるものを子どもは自由に持って行ってよいことになっていて、手渡しするようなことはなかった。今は衛生面などの理由でお菓子で渡す形になっている。100組くらいの菓子を用意している。
  • C家 団子・里芋・薩摩芋・柿・梨を供える
  • D家 まんじゅうは5個で、今年は隣りのおばあさんが手作りしたのを供えた。落花生・ブドウ・梨などが供えてある。月見には丸いものと白いものをお供えする。秋の花のワレモッコウを供える。
  • E家 ススキ5本、団子や薩摩芋15個を供え、十三夜は同じく3本と13個にする。ワレモッコウを供えていたが今は生えていない。 F家 子どもにも菓子ではなく里芋を配るようにして、袋に里芋を入れたものを供えている。

A家 見えにくいが薩摩芋の奥の柿のまわりにジャガイモがある
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
A家
見えにくいが薩摩芋の奥の柿のまわりにジャガイモがある

 B家 栗やミニトマトなど、その時に収穫した野菜を供える
B家
栗やミニトマトなど、その時に収穫した野菜を供える

 C家 子供に配る菓子が手前に見える
C家
子供に配る菓子が手前に見える

D家 まんじゅう等が供えられている
D家
まんじゅう等が供えられている

 E家 団子が見えている
NIKON D90 (48mm, f/4.5, 1/160 sec, ISO1600)
E家
団子が見えている

 F家 たくさんの配るための里芋が置いてある
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
F家
たくさんの配るための里芋が置いてある

 以上のほか、例えば自由に子どもたちが持っていけるように箱に菓子だけを入れておいてあるものなども確認できました。このように、丸いもの・芋類をはじめとした自家で作った畑の収穫物・供え物の数など、基本的なところは同じでも、細かく見ていくと各家によって違いがあるのが分かります。家ごとに行われている年中行事では、共通する部分と相違がある部分を調べていくこともポイントの一つであり、今後ともこうした点に注意しながら、さまざまな市内の年中行事を紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(59)~盆の間に作る食べ物・南区下溝(平成25年8月)~

 前回の緑区根小屋中野の盆棚に続き、今回は南区下溝・新屋敷の福田家の盆棚を紹介するとともに、盆の間に作る食べ物について紹介します。

 福田家は「博物館の窓」の「ボランティアの窓」(「福の会」で展示を行いました(平成25年6月))でも触れたように、元々は北条氏照(小田原北条氏・四代当主の氏政の弟)の娘(後に出家して「貞心尼」)の供としてこの地に移り住み、北条氏が滅ぼされた後に村民になったと伝える旧家です。福田家には当家のものと貞心尼のための二つの仏壇があり、盆棚には仏壇から福田家先祖の位牌とともに貞心尼の位牌も出されます。福田家には盆の期間中の15日に、「福の会」の会員とともにお邪魔して盆棚を拝見させていただきました。

 盆棚は迎え火を焚く13日に作られ、さらに昭和30年代にはこのあたりの古い家ではたいてい盆の砂盛り(*)を作っており、これは子どもの仕事でいかにきれいに作るかを工夫し、階段を作ったりしたそうです。盆棚もかつては竹を立て縄を渡してホオズキを下げ、戸板を台にして作りました。また、棚の下に無縁仏に対しても供え物をして、無縁仏の分として里芋の葉に供え物を乗せました。迎え火は今は長屋門の前、かつては墓に通じる道の所で行い、そこで線香を点し、その火を盆棚に移します。以前は、迎え火の前には順番で風呂に入り、家族全員で迎え火を焚いて揃って夕飯を食べたりしたほか、今でも迎え火を焚いてから、墓には先祖はいないはずなのに14日に墓参りに行っています。 なお、ここでは他の地区とは違って15日が送り火です(隣接する下溝の古山や堀之内も15日が送り火となります)。

盆棚全景
盆棚全景

 空になった仏壇(向って右側が貞心尼の仏壇)
空になった仏壇(向って右側が貞心尼の仏壇)

盆棚に出された福田家と貞心尼(向って右)の位牌
盆棚に出された福田家と貞心尼(向って右)の位牌

 盆棚にはおはぎが供えられていた
盆棚にはおはぎが供えられていた

現在の砂盛り。長屋門の前に作る
現在の砂盛り。長屋門の前に作る

 当家では、盆の最中に作る食べ物が決まっていました。

 まず13日の夕方は、これは人間が食べるものではありませんが、線香と茄子を賽の目に切って洗い米を混ぜたもののほかに、御飯、輪切りの茄子と賽の目豆腐を具にして白ゴマを手でひねって入れた味噌汁とキュウリ揉み、他には有り合わせのものを付けます。 14日、15日の献立は次のとおりです(基本的に精進物で作ります)。

 この献立は、福田家御当主の奥様がノートに書き留められていたものを教えていただきました。なお、食器は、元々使っていた金属製の高杯のようなものが壊れてしまい、現在の容器を使っているとのことです。

●福田家御当主の奥様がノートに書き留めた盆の献立

14日

  • 朝 おはぎ カボチャの煮物 味噌汁(茄子・豆腐・ゴマ)
  • 昼 ソーメン *人間は自由
  • 夜 野菜の天ぷら *人間は自由 墓参りには、芋の葉に刻んだ茄子と洗い米を入れたものを一つ一つの墓石に供える

15日

  • 朝 茶飯。御飯に醤油を入れて供える
  • 昼 マンジュウ *人間はそれに加えて好きなもの
  • 夜 ちらし寿司 *人間はそれに加えて好きなもの。

 送り火には、迎え火と同じく 茄子を賽の目に切って洗い米を混ぜたものを供える 今では盆の食べ物に限らず、全般的にこうした昔からの慣わしは薄れつつあり、当家でも時代に合わせて省略できるところは省きながら行事を行っているとのことですが、大変興味深いお話しを伺うことができました。これからも地域の民俗についてしっかりと調べ、細かい事例を含めて記録していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

*盆の入りの13日に、屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて作った土壇。「祭り・行事を訪ねて(39)お盆の砂盛り~地域差のある民俗~」参照

相模原の民俗を訪ねて(58)~緑区根小屋中野の盆棚(平成25年8月)~

 暑いさなかの8月の年中行事を代表するものがお盆です。市域では、緑区相原・橋本、中央区小山などに7月盆の地域があるものの多くの所では8月に盆が行われ、今でもいくつかの盆行事を目にすることができます。

 今回は、これまでもこの欄に何回もご登場いただいている、緑区根小屋中野の菊地原稔さん(いつもありがとうございます)の家の盆棚について紹介します。 当家では、お盆の期間中だけ臨時に飾り、ご先祖様を迎える盆棚を迎え火をする13日の午前中に作ります。場所は仏壇の前側で、仏壇から位牌を出して仏壇の戸は盆の間は閉じてしまいます。本来は棚の四隅に新しい竹を立てるとのことですが、今年は奥側に二本の竹を立てました。かつてはもっと大きな棚を作り、毎年新しいゴザを中野の市(いち。根小屋中野とは別の場所で、現在、津久井警察署などがある辺りです)で買い求め、棚に敷きました。そして、13の仏が描かれた「十三仏」の掛け軸を飾り、そのほかにホオズキや、スイカ・カボチャなどの季節の野菜・果物を供えるほか、トウモロコシの毛の尻尾を付けた茄子で作った馬なども棚に置きます。

 ちなみに他の家では茄子のほかにキュウリでも馬を作ることがありますが、当家ではキュウリは昔から使いませんでした。また、仏様が茄子の馬に乗って帰るために盆の間、茄子は丈夫でなければならず、茄子を触ると傷むので絶対に触ってはいけない、さらに、棚の下側には特にお供え物をすることはないのですが棚の下には決して入ってはいけないと子どもはよく言われたそうです。 盆棚にお供えする食物は御飯と味噌汁・おかずで、同じものを昔から二膳分供えます。

 この写真では13日の昼に供えたコンニャクや揚げ・インゲン等の煮物が見えています。盆の間は朝にお供えした後、昼食はそのままにしておき、夕食にはまた新しく御飯を炊いて新しいものに変えます(御飯を炊かなければウドンでも可。マンジュウもよくお供えします)。盆の間に作って供えるものに特に決まりは無く、仏様のことなので魚などは使わないとのことです。なお、容器についてはかつては里芋の葉に御飯やおかず等を乗せていて、芋の葉は大きく供え物を全部入れることができました。 盆の迎え火は13日の夕方、暗くなってからで、麦から(最近は麦を作らないので稲藁束)を焚いて仏様を迎え、送り火は16日で迎え火・送り火ともに家の入口のジョウグチと呼ばれる所で火を燃やします。16日には寺で読経や供物をあげる施餓鬼(せがき)があり、そこでいただいた塔婆を持って墓地に行き、墓地中にあるそれぞれの墓に米を少しずつ供えて線香を点し、迎えの時には特に墓地に行かないのに対し、送りには墓まで行ってお盆は終わりとなります。 市域各地で行われているいろいろな盆行事について、これからも紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

盆棚全景
盆棚全景

盆棚を仏壇の前に飾る 盆棚の二膳分のお供え。
盆棚を仏壇の前に飾る 盆棚の二膳分のお供え。

茄子の馬の尻尾はトウモロコシの毛
茄子の馬の尻尾はトウモロコシの毛

相模原の民俗を訪ねて(57)~神輿が相模川へ入る(平成25年7月)~

 神輿が水の中に入る祭りといえば、神奈川県内では例えば茅ヶ崎市の浜降祭(はまおりさい)などがありますが、相模原市内では緑区青山で8月3日に行われる祭りに際して、神輿が夜も更けてから地区内を流れる串川に入るのが有名です。この祭りについては改めて本欄で触れることにして、今回は相模原地域の天王祭において、神輿が相模川に入る例を取り上げてみたいと思います。

 旧暦6月に行われる天王祭は、暑い時期に発生しやすい疫病を防ぐための祭りで、さらに水神祭りの性格をも帯びていると考えられており(吉川弘文館『知っておきたい日本の年中行事事典』)、水に関係した行事や由来が多く見られます。『相模原市史民俗編』に拠ると、オテンノウサマの神輿(祭り自体や神輿のことをオテンノウサマと呼ぶことがよくあります)が「お浜入り」などと言って相模川に入った集落として、緑区大島の古清水(こしみず)や中央区田名の水郷田名(久所(ぐぞ))及び滝が挙げられており、さらに、本欄の「祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ~」でも紹介したように、南区当麻の市場・宿・谷原地区でもかつては神輿が浜降りと称して相模川に入っていました。このように、相模川沿いの集落では神輿が川に入ることが見られ、神輿を流してしまったこともあるというような話も残されています。 そんな中で、現在でも水郷田名と滝集落のいずれも子ども神輿は相模川に入っています。

 今年(平成25年7月14日)の場合、滝と水郷田名の子ども神輿は、清水や陽原(ミナバラ)集落の神輿(いずれも大人と子どもの両方)と一緒に天王祭の当日朝に、田名八幡宮で神職からお祓いを受けて御霊入り(ミタマイリ)を行った後、滝の子ども神輿は滝の自治会館に戻る前に会館横の注連縄を張ったところから川に向かい、川に入りました。滝には、かつて大人の神輿と子ども神輿、山車がありましたが、昭和56年(1981)に火事で焼けてしまいました。神輿がないと子どもがかわいそうだということで作ったのが現在のもので、焼ける以前はやはり神輿が相模川に入っていました。また、焼ける以前は、大きな山車が道を通るために、午前中に道側に伸びた各家の木を伐るコサギリが行われ、勝手に伐られても文句は言えなかったそうです。

 なお、滝では、竹に紙製の花を付けたものを300本ほど作り、それを氏子が持ち帰って門口に飾っておくことが今もあり、各家に花が飾られた道を辿って子どもが神輿を担いでいく光景が見られます。

田名八幡宮での御霊入れの終了後、滝の自治会館に向けて出発する滝の子ども神輿
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/1000 sec, ISO100)
田名八幡宮での御霊入れの終了後、滝の自治会館に向けて出発する滝の子ども神輿

河原に下りる神輿。大人が主に行う (滝地区)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
河原に下りる神輿。大人が主に行う
(滝地区)

 川に入った神輿(滝地区)
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
川に入った神輿(滝地区)

滝の自治会館におかれている花を持ち帰る
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/1000 sec, ISO100)
滝の自治会館におかれている花を持ち帰る

花は各家の門口に飾られる(滝地区)
CYBERSHOT (12mm, f/7.1, 1/250 sec, ISO100)
花は各家の門口に飾られる(滝地区)

集落の境である滝坂の途中まで頑張って登る(滝地区)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/60 sec, ISO100)
集落の境である滝坂の途中まで頑張って登る(滝地区)

これに対して、水郷田名では一度、田名八幡宮のすぐ隣りにある水郷田名の自治会館の前(神楽殿もあります)に戻った後、午前10時40分頃に出発して高田橋のやや下流の河原の注連縄を張った所まで担いで行き、到着後すぐに相模川に入りました。 そして、両地区ともに子ども神輿は、囃子を乗せた山車とともに、午後からそれぞれの集落内を回ることになります。

相模川の河原を進む水郷田名地区の子ども神輿
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/640 sec, ISO100)
相模川の河原を進む水郷田名地区の子ども神輿

注連縄を張っている所を通って川に向う (水郷田名地区)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/2000 sec, ISO100)
注連縄を張っている所を通って川に向う
(水郷田名地区)

相模川に入った子ども神輿 (水郷田名地区)
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/400 sec, ISO100)
相模川に入った子ども神輿
(水郷田名地区)

天王祭では子どもたちのお囃子もにぎやかに行われる(水郷田名)
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/320 sec, ISO100)
天王祭では子どもたちのお囃子もにぎやかに行われる(水郷田名)

 もちろん神輿が相模川に入ると言っても、特に今は川底が砂利ではなく泥状になっていて注意が必要であり、大人が付き添いながら岸辺の所で神輿を揉んですぐに川から上がります。こうした特徴ある行事が、今後とも安全性に充分気をつけながら続けられていくことを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(56)~田名・清水の山車人形(平成25年7月)~

 今年の夏も市内の各地でオテンノウサマ(天王祭)の祭りが華やかに行われました。天王祭では、神輿を担ぎ、また、お囃子を載せた山車(市内では屋台と呼ばれることも多いのですが、ここでは山車と表記します)を曳くことが特徴で、この欄でもこれまでいくつかの地区の天王祭を取り上げてきました。

 今回は、市内では大変珍しい中央区田名の清水集落の山車人形を紹介します。 田名地区では各自治会が天王祭を行い、そのうち清水集落は陽原(ミナバラ)等と並んで大人が担ぐ大きな神輿があり、さらに古い山車(明治29年[1896]頃に地元の大工が製作)を持っている場所です。

 ちなみにこの神輿は、一説に暴れ神輿だったため海に沈められる予定だったのを明治初期に湘南地方から譲り受けたもので、田名の中でも盛大に担いで練り歩いていたのが第二次世界大戦の頃には担ぎ手がいなくなり、その後は傷みも大きく、置いて参拝するだけになっていました。それを平成2年(1990)に、人形を飾る山車を修理したことをきっかけとして翌年には神輿も元の姿に近いきらびやかなものに修復し、再び往時のように担げるようになりました(『田名のくらし・四季』相模原市立田名公民館 2006.3刊行)。

7月13日(土)夕方に伺った時には自治会館の中に飾られていた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO120)
7月13日(土)夕方に伺った時には自治会館の中に飾られていた

 山車人形は文字通り天王祭の山車の上に飾る人形で、清水のものは刀を右手に持った「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」像で高さが2m40cmほどあり、山車の上に建てると全体で7mにもなるそうです。

 この人形は、第二次世界大戦後には長い期間飾っておらず、祭りには頭を出したり衣装も干して保存してきましたが、胴体の部分は保管場所のこともあって傷みが大きくなり、処分されていました。それを平成8~9年にかけて衣装を計ったりして胴体の大きさを割り出して体の部分を作り、ようやく飾ることが可能になりました(その後も胴体は肉付きを良くするなど手を入れているとのことです)。

 山車への取り付け方は、心柱(しんばしら)を立てて先端に人形を飾る一本柱形式とされるものであり、やはりかつては山車に人形を上げていた「八王子祭り」や藤沢の皇大神宮(こうたいじんぐう)の人形山車と同系統で、心柱は山車の後部から起されます。今では電線などの関係で人形を立てたままで山車を曳くことは難しいため、天王祭の前日の宵宮の時(今年は7月13日(土))に山車に飾って地元の皆様でその勇姿を楽しんでいます。

まず人形を乗せる心柱(一本柱)を準備する
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
まず人形を乗せる心柱(一本柱)を準備する

 山車の後部から人形をセットして少しずつ引っ張る
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
山車の後部から人形をセットして少しずつ引っ張る

 山車に飾られた人形
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO100)
山車に飾られた人形。山車の中にはお囃子の子どもたちがいる

市内では清水のほかに、山車に乗せる人形として、緑区小原に鐘馗(ショウキ)像があったことが報告されており、近年、新しいものを山車に乗せて巡行しています。また、緑区中野上町の山車は、元々八王子の八日町一・二丁目のものを譲り受けたもので、山車とともに人形の台座(人形はなし)も譲り受けました(八王子では雄略天皇を飾ります。「祭り・行事を訪ねて(38)~八王子祭りの山車~」参照)。これ以外にも、現在は見られませんが上溝本町の大正初期の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に掲載されているほか、大島など何ヶ所で山車人形があったとも言われており、今後も引き続き調査を進める必要があります。 そんな中で清水の人形で特に注目されるのは、付属品の布団に押されている朱印などから、東京の赤坂氷川神社や千葉・成田、群馬・高崎など、関東各地に残る人形を作った通称「だし鉄」こと、山本鉄之の作である可能性が高いと考えられる点です。清水でどのような経過でだし鉄の人形が残されることになったのかについては今のところ資料はなく、詳細は不明です。それでも著名な人形師の作と思われるものがこの地に残され、さらに曳かないまでも、1年に一回は実際に地元の皆様の熱意と努力によって山車に飾られている事例は市内にはほとんどありません。清水の山車人形は非常に貴重であり、相模原の民俗を考える上でも重要なものと言えましょう(民俗担当 加藤隆志)。

お囃子の様子をわざわざ見せてくれた
CYBERSHOT (12mm, f/3.5, 1/50 sec, ISO100)
お囃子の様子をわざわざ見せてくれた

大人の神輿と子ども神輿。夜になると付ける提灯を飾っていただいた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/60 sec, ISO100)
大人の神輿と子ども神輿。夜になると付ける提灯を飾っていただいた

14日(日)の天王祭当日。大人の神輿が自治会館から出発する
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/200 sec, ISO100)
14日(日)の天王祭当日。大人の神輿が自治会館から出発する

夜遅くまで神輿は集落中を担がれる
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/400 sec, ISO100)
夜遅くまで神輿は集落中を担がれる

大人の神輿に続いて子ども神輿も出発
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/640 sec, ISO100)
大人の神輿に続いて子ども神輿も出発

山車と囃子は、天王祭には切っても切れないものである
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/500 sec, ISO100)
山車と囃子は、天王祭には切っても切れないものである

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  • 祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ~

相模原の民俗を訪ねて(55)~帆掛け船(新造船)の進水式(平成25年6月)~

 「民俗の窓」のNo.17(相模川の帆掛け船の再現)でも紹介したように、8月の第一日曜日には磯部民俗資料保存会の皆様によって、帆掛け船を実際に相模川に浮かべて川を登ることが行われています。しかし、これまで使われてきた船も長年の間に傷みが目立つようになって新たな船を作ることが計画され、このたびついに船が完成して、6月9日(日)に新造船の進水式が相模川三段の滝下広場(5月に上磯部地区の大凧揚げの会場となる場所です)で行われました。

 新造船の計画は三~四年前から話が出て、保存会で調査や討議を重ねて作成することを決定しましたが、大変だったのがすでに相模川筋には確認することが難しい船を作る大工を探すことでした。それが、これまで二十艘ほどの船を作った経験のある地元出身で現在は相模台にお住まいの大工が見つかり、この方に依頼することになりました。ちなみに船では船釘が普通の釘とは異なっており、今回の船の製造に合わせてこの方は自分で500本の船釘を作られたとのことです。また、船材とする杉は緑区青野原の樹齢80~100年のものを使い、伐採後は半年の間自然乾燥して用いました。今回製造した船は帆掛け用のものと帆掛け船を引っ張ったりする伴走船の二艘で、帆掛け船が昨年(24年)の10月~11月、伴走船は今年の1月から2月にかけて作られました。

 進水式の当日は心配された雨もなく、午前11時から無事に実施されました。まず挨拶や新造船建設の経過説明、大工や製材所・原木提供者への感謝状の贈呈の後に、神職による神事や船のお祓いと関係者によるテープカットなどがあり、いよいよ実際に新しい帆掛け船と伴走船を相模川に浮かべて保存会による乗り初めが行われました。この日はやや風が強く、さらに毎年の帆掛け船の再現をしている場所とは異なった位置のために川底の深さなども違って大変だったところもありますが、気持ちの良い風の中を船が帆を揚げて川上に向って疾走する姿を見ることができました。

二艘の新造船。奥が帆掛け船、手前が伴走船
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/1000 sec, ISO100)
二艘の新造船。奥が帆掛け船、手前が伴走船

 船材を取った後の木の丸太が飾られていた
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/200 sec, ISO100)
船材を取った後の木の丸太が飾られていた

神職による船のお祓い
CYBERSHOT (24mm, f/10, 1/160 sec, ISO100)
神職による船のお祓い

実際に船を川に浮かべる前に関係者によるテープカット
CYBERSHOT (24mm, f/10, 1/320 sec, ISO100)
実際に船を川に浮かべる前に関係者によるテープカット

 いよいよ初めて川に下ろす
CYBERSHOT (20.4mm, f/9, 1/320 sec, ISO100)
いよいよ初めて川に下ろす

初めての帆を張る様子
CYBERSHOT (24mm, f/10, 1/250 sec, ISO100)
初めての帆を張る様子

帆一杯の風を受けて川を遡る
CYBERSHOT (24mm, f/10, 1/250 sec, ISO100)
帆一杯の風を受けて川を遡る

 船の製作には、当然のことながら例えば経費のやりくりをはじめ、大工や木材の手当てなどさまざまな問題があり、とても簡単に解決できるものではありません。ちなみに今回は、市の地域活性化事業の補助金や企業協賛金、会員・元会員及びその家族等の寄付金が当られたとのことです。それでも地元の保存会の皆様の、帆掛け船の様子と技術を現代に示し、また後世に継承するといった想いが新造船の製作といったことに繋がったことは言うまでもありません。博物館としても、こうしたすばらしい地域の活動があることを今後とも広く伝えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(54)~当麻地区下宿の地神講資料(平成25年5月)~

 地神講(じじんこう)は、農業の神、土地の神を祀る信仰的なあつまりとして、相模原市内はもとより神奈川県内で広く行われていました。春と秋の彼岸の中日に近い戊(つちのえ)の日である社日(しゃにち)に地神講があり、講に参加している家が順番に宿を務めて、地神像が描かれた掛け軸を飾ってお神酒を供え、講員が豊作を祈って一杯やりました。また、地神様は土地の神だから、この日には畑仕事をしたり土をいじったりしないなどと言われていました。

地神講の掛け軸
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO250)
地神講の掛け軸

掛け軸に描かれた武神像。右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/50 sec, ISO200)
掛け軸に描かれた武神像。右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ

 このように各地に見られた地神講も、農家が少なくなるとともに次第に中止するところが多くなっており、やはり南区当麻地区・下宿(しもしゅく)の皆様(現在の講員の方は9名)が長く続けてこられた地神講を昨年(2012年)の秋をもって解散したのに伴い、講で祀っていた掛け軸と帳面類を博物館に御寄贈いただきました。

地神講の推移が記録された帳面類
CYBERSHOT (12mm, f/3.5, 1/30 sec, ISO250)
地神講の推移が記録された帳面類

 掛け軸は、表に「地神様眞影壱幅(じしんさましんえいいっぷく)」、横に「明治四十年秋九月新調」(1907)と記された軸箱に入っており、一般に地神講の掛け軸は右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ武神像が描かれることが多く、この掛け軸も同様の武神像です。他の地区の多くの掛け軸が刷物であるのに対して、これは手書きである点が注目されます。帳面は、表紙に「明治十丑年三月吉日 地神講連名帳」及び「昭和三十四年三月吉日 地神講連名帳」と書かれたものと、表紙はなく昭和26年からの宿や講にかかった経費等の記載がある帳面の3点で、これらを見比べていくと明治10年(1877)からのこの地区の地神講の移り変わりの様相を詳しく知ることができます。

 例えば、明治10年3月の申し合わせでは、おそらく飲食やその他の経費のための白米五合とお供え用として神酒料を一銭ずつ集めており、さらにこのほかに懸銭(かけせん=掛け金)を各自から七銭徴集しています。これは地神講の際に、講員が持ち寄った掛け金を順に入札で貰っていく頼母子(たのもし、「無尽・むじん」ともいう)を行っていたことを示しており、近隣の下溝地区・古山(こやま)でも地神講に無尽をしていて、ある家では昭和の初めに無尽に当った金で学校を卒業した長男の鍬を買ったというような話も残っています。この地神講では、昭和5年(1930)3月に規約の改正をして頼母子を廃止したようです。

旅行を行うことを記した記載。昭和37年の地神講の際に決められたことが分かる
CYBERSHOT (24mm, f/5.6, 1/30 sec, ISO320)
旅行を行うことを記した記載。昭和37年の地神講の際に決められたことが分かる

昭和44年の四国旅行の際の旗。「相州当麻地神講」と書かれている
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/30 sec, ISO320)
昭和44年の四国旅行の際の旗。「相州当麻地神講」と書かれている

 同じく48年の東北旅行の旗
CYBERSHOT (12mm, f/3.5, 1/30 sec, ISO320)
同じく48年の東北旅行の旗

 この後に地神講に大きな変化があったのは昭和40年(1965)頃です。以前から春の3月とともに秋は彼岸中での9月ではなく、稲の収穫後の10月に行われることが多くなっていたようですが、翌年の昭和41年からは地神講を年に一回、毎年10月9日前後に実施する一方、4年に一回は遠隔地を旅行することになり、昭和40年に佐渡、昭和44年に四国、昭和48年に東北に行っています。ちなみに今回の寄贈の資料の中には、四国と東北旅行の際に使った手持ちの旗が含まれています。2年後の昭和50年に北九州、昭和52年と昭和54年にはいずれも山陰山陽方面を旅行し、この年をもって地神講主催の旅行は終了しました。

 そして、昭和58年(1983)10月の地神講でも重大な規定の変更があり、それまで個人の家を宿として講を行っていたのを、会食は料理屋や温泉地等の別の会場として、当番(2名で任期2年)が10月9日に自宅の床の間に掛け軸を飾ってお神酒と肴を供えることとするもので、翌年の昭和59年からはこのやり方となっています。ちなみに帳面では、平成16年(2004)の当番の記載が最後です。

 このほかにも講金の変化や宿の状況など、帳面を見ていくことで地神講のあり方について分かることは大変多くに及びます。そうした貴重な資料を御寄贈いただいた当麻・下宿の地神講の皆様に深くお礼申し上げるとともに、今後ともこのような資料によって知ることができるさまざまな地域の歴史や文化について、「民俗の窓」でも記していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(53)~横浜市歴史博物館との交流会で「大山参り」を行いました(平成25年4月)~

天気は悪かったものの至る所できれいな花が見られた
天気は悪かったものの至る所できれいな花が見られた

 本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会が定期的に交流会を行っていることは「ボランティアの窓」でも紹介していますが、その第3回目になる交流会を伊勢原市の大山で行いました。これまでの交流会では、横浜市民が相模原に来て調査会Aの会員が説明をし、別の機会には相模原市民が横浜を訪れて民俗に親しむ会の皆様にご案内いただくなど、お互いの市のフィールドワークを行ってきました。それに対して今回は、それぞれの市以外の地域を歩いてみるということを目的として、江戸時代から信仰の山として名高く、相模原・横浜ともに地域の民俗を考える上でも欠かせない大山を選びました。資料は、以前、本館で実施した民俗講座「大山道を歩く」を開催した際に作成したものを利用し、相模原から16名(担当学芸員~加藤です~1名含む)、横浜から10名(担当学芸員2名を含む)の総勢26名が参加しました。

立派な石仏を調べる参加者。いろいろな見所があり、なかなか進まない
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO100)
立派な石仏を調べる参加者。いろいろな見所があり、なかなか進まない
大山阿夫利神社の下社。江戸時代まではこの場所に不動堂があった
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/100 sec, ISO100)
大山阿夫利神社の下社。江戸時代まではこの場所に不動堂があった
上社(石尊社)に登る所にある「片開きの門」。普段は扉が片方だけ開いているが、今回は両開きになっていた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/60 sec, ISO100)
上社(石尊社)に登る所にある「片開きの門」。普段は扉が片方だけ開いているが、今回は両開きになっていた

 小田急線伊勢原駅に集合し、バスに乗って「〆引」バス停近くの大きな鳥居に向かいました。通常ならバスで真っ直ぐ終点の「大山ケーブル駅」に向かうところですが、今回は「みんなが知らない大山参り」をテーマとしているため、かなり手前でバスを降り、さまざまなものを見学しながら歩いていきました。

 この鳥居は、県内の主要な大山道の一つだった「田村通り大山道」の二の鳥居で、ちなみに一の鳥居は東海道から大山道が分岐する藤沢市の城南(旧羽鳥村四ツ谷)に建っています。そして、安産祈願で有名であり、かつての大山登拝の入口だったようでもある比々多神社(子易明神)やいくつかの石仏を見ながら進んで行き、途中からは旧道に入って先導師(せんどうし。大山参詣の世話をする者)の家が並ぶ集落を歩きました。さらに、かつてはここで水垢離(みずごり)をした良弁の滝や、葬式があると100日目(あるいは101日)にお参りする茶湯寺(ちゃとうでら。百か日参りをすると途中で死んだ人に似た人に会えると言います)などを経て、ようやく大山ケーブルカーの追分駅に着きました。しかし、それでもすんなりとはケーブルカーには乗らず、少し上側にある追分社に行きました。江戸時代までは前不動堂があったところで、大山阿夫利神社下社(下の前不動堂に対して、かつて不動堂があったところ)まで歩く場合、ここで男坂と女坂に分かれます。その後はいよいよケーブルカーで下社に向かい、下社に参拝の後には、大山へ雨乞いをする時にはここから水を汲む二重滝にも行きました。最後にケーブルカーを途中下車して大山寺にもお参りし、バスで伊勢原駅まで戻って終了となりました。

大山ケーブルカーの大山寺駅から見た下側の「コマ参道」の集落。ケーブルカーの急な線路も見える
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/40 sec, ISO120)
大山ケーブルカーの大山寺駅から見た下側の「コマ参道」の集落。ケーブルカーの急な線路も見える

 当日は、午後から雨が降り出すあいにくの天気となり、陽気も季節はずれの寒さで予定も一部変更をせざる得なくなったほか、意外と歩く距離が長く、大変な面もありました。それでも普通に大山へ行く時とは異なり、歩くからこそ見たり知ったりすることができるポイントがたくさんあり、フィールドワークの楽しさを充分に味わうことができるコースだったといえるでしょう。また、参加者は昼食の弁当や大山名物の饅頭を一緒に食べたり、歩きながらいろいろとお話するなど、回を増すごとに交流も深まっています。

 今回のようなお互いに離れた場所のフィールドワークを通じて、改めて自らが生活する地域を見直すとともに、今後とも両博物館の市民の会の一層の交流を図り、それぞれの館の活動に反映させていきたいと思っています。(民俗担当 加藤隆志)

相模原の民俗を訪ねて(52)~下九沢・瘡守稲荷の絵馬(平成25年4月)~

社殿の中にある瘡守稲荷。左横に絵馬がまとめて置かれている
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO200)
社殿の中にある瘡守稲荷。左横に絵馬がまとめて置かれている

 緑区下九沢の塚場集落にある「瘡守(かさもり)稲荷」は、当地の旧家である今井家(現在の御当主で九代目とのことです)が個人で祀っているお稲荷さんです。下九沢が含まれる大沢地区に関する郷土史をまとめた『おおさわ風土記』にも、この稲荷社について紹介されています。(ちなみに同書は、大沢小学校のPTA会誌に地元の郷土史家だった、故・笹野邦一さんが連載された記事をまとめたもので、博物館の建設準備の際にも笹野さんにはいろいろとご協力をいただきましたことが思い出されます。)

 この稲荷は、主に病気平癒や家内安全、入学祈願等、いろいろなことを願って信仰され、まず土の団子を年齢の数(年配者は端数だけ)だけ上げ、目的が適うと米の団子を供えました。戦時中には出征兵士の武運長久を祈願する者も多く、大変信仰が厚かったため、絵馬が数百枚にも達したそうです。また、天保六年(1835)や文久四年(1864)の資料も残されており、江戸時代の後期にはすでに祀られていたことが分かります。なお、御当主に伺うと、かつては今井家も知らないうちに祈願に来ており、朝に見ると土製の黒い団子が上げられていましたがそれも子どもの頃で、もう数十年もこのようなことはないとのことです。

一部の絵馬は、壁に提げられていた
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
一部の絵馬は、壁に提げられていた

博物館では、この瘡守稲荷に残っていた絵馬類の一部について寄贈を受けることになり、先日、今井家にお伺いしました。祠がある周囲を整備して祠を新しくするに伴い、祠の中にあった絵馬も整理することになられたそうで、もちろん地域の信仰を示す貴重な資料として博物館に御寄贈いただくこととなりました。

鳥居のミニチュアもあった
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/50 sec, ISO200)
鳥居のミニチュアもあった
絵馬の図柄の一部
CYBERSHOT (13.7mm, f/3.5, 1/400 sec, ISO100)
絵馬の図柄の一部

 絵馬は多くが縦15cm×横20cmほどの大きさで、全部で227点ありました。図柄は女性が社殿に向って拝んでいる姿を描いたものが130点で全体の六割近くを占めており、病気の中でも特に女性の病によかったといわれていたことを表しているようです。男性の拝み図も38点あり、先ほどの出征にまつわるものとも考えられます。他の図柄は、親子(母と子)拝み図6点、子ども拝み図6点、向かい狐図21点などで、ごくわずかに僧侶を描いたものや蛇図などがありました。祈願に関するものは全部で214点で、今回はこれらの絵馬のうち157点が寄贈されました。そのほかの13点は伏見稲荷や寒川神社、高尾山などで売られたものであり、今井家がこうした社寺に出かけて購入したものです。また、大きさはいろいろですが金属製の鳥居のミニチュアも13点残されていました。

 絵馬に文字が書かれていたものは30点ほどと少なく、「奉納」が多い中で、1点だけ「明治32年」(1899)との年号がありました。また、「田名四ツ谷」の地名や、特に田名地区に多い苗字が書かれた絵馬が数点あり、この稲荷の信仰が地元だけではなく、ある程度の広がりを持っていたことが窺えます。

 瘡守稲荷は東京にもいくつかあり、いずれも皮膚病や下の病の平癒を願って、初めに土の団子、治ると米の団子を供えるといった同様のことが見られ、この近辺では座間市新田宿の専念寺(浄土宗)の境内にも瘡守稲荷が祀られ、遠方からもお参りに来る人がいたといいます。博物館では、今後もこうした地域のさまざまな歴史や民俗を物語る資料を収集し整理して後世に残していくとともに、この「博物館の窓」など、さまざまな機会を捉えて地域の文化を紹介していければと思っています。(民俗担当 加藤隆志)

資料整理には市民も係わって作業を行った。(絵馬の汚れを落としているところ)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
資料整理には市民も係わって作業を行った。(絵馬の汚れを落としているところ)

 

相模原の民俗を訪ねて(通算第51回) ~国立民族学博物館に相模原の農具が常設展示されます~

国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子①
DSC-T90 (6.18mm, f/3.5, 1/10 sec, ISO1600)
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子①
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子②
DSC-T90 (6.18mm, f/3.5, 1/6 sec, ISO1600)
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子②
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子③
DSC-T90 (6.18mm, f/3.5, 1/5 sec, ISO1600)
国立民族学博物館の畑作コーナーの展示の様子③

 現在も岡本太郎作の「太陽の塔」が残る千里万博公園(大阪府吹田市)内にある国立民族学博物館(正式名称「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構国立民族学博物館」)は、通称「みんぱく」と呼ばれ、延べ床面積51,225㎡を誇る日本を代表する博物館の一つです(ちなみに本館は9,510㎡ですが市町村立の博物館では大型のものの一つです)。

 「みんぱく」は文化人類学・民族学(「民俗学」ではありません)に関する調査研究を行うとともに、民族資料の収集や公開を通じて、世界の諸民族の社会と文化に関する理解を深めることを目的に昭和52年(1977)11月に開館しました。 「みんぱく」の展示室は、世界の諸民族の文化と社会を扱う地域展示と、音楽や言語などのテーマに基づく通文化展示に分かれており、地域展示の中の東アジアの一角に日本の文化も展示しています。そして、今年(2013年)の3月に、日本の展示がリニューアルされて新しくなり、「日々のくらし」と「祭りと芸能」のコーナーができましたが、この「日々のくらし」の畑作の様相を示す展示として本館の収蔵資料が展示されることになりました。

 日本の社会では、農業や漁業・林業・諸職(さまざまな職人)・商業などさまざまな生業が営まれており、農業では稲作と並んで畑作も重要なものでした。そこでは、例えば基本的に毎年稲だけを作る水田に対して、畑では麦や芋・野菜等、いろいろなものを組み合わせて栽培するなどの畑作ならではの特徴があり、こうした作業に応じた各種の農具が使用されてきました。このような畑作の様相を表す展示の資料として白羽の矢が立ったのが、かつて耕地の中で畑地の割合が非常に高く、まさに畑作卓越地域であった相模原の地であったのです。

 今回の展示に際しては「みんぱく」の笹原教授から依頼があり、館内で検討の上、実際に使われてきた農具類を中心に写真等も含めて約40点を長期貸出しすることになりました。実は笹原教授は、本館の建設準備の際には本市の学芸員として携わり、開館まもなく「みんぱく」に移られていった方で、現在、展示室にある物置の移築や鍬類の展示について担当するほか、特に三匹獅子舞の調査を熱心に行って報告書をまとめています。今回の展示に当たっては、その構成や内容に際して当館からもさまざまなアイデアを出してお互いに協議を行うとともに、展示案に基づく資料として数多くの収蔵資料の中からどれを選定するのか、背景に用いるパネルの写真をどうするのか、解説文の文案は、などと半年近くに渡りいろいろなやり取りをして進めていきました。

 私も先日、確認のために「みんぱく」を訪れ、笹原教授にご案内いただきました。そこでは遠く大阪の地で、相模原の資料が畑作の様相を示すために展示されており、これらの資料はしばらくの間、新たな役割を果たすことになります。皆様もお近くに行った際には、是非、地元相模原の農具が立派に展示されている様をご覧いただければ幸いです。また、相模原の資料だけではなく、日本はもとより世界各地の諸民族の実に多彩で興味深い資料を目の当たりにして、大変楽しく貴重な時間を過ごすことができると思います。(民俗担当 加藤隆志) *国立民族学博物館のアドレスは www.minpaku.ac.jp です。休館日等ご確認の上、ご来館ください。 *これまで、本欄は「祭り・行事を訪ねて」として連載してきましたが、今後は、例えば博物館に新たに収蔵されるようになった資料や民俗分野のさまざまな活動など、幅広い内容を紹介していくことを予定しています。もちろん従来どおり、祭りや行事についても取り上げていきますのでご期待ください。

天文の窓(平成25年度)

  • ビオンカプセル(平成25年9月)
  • ビオンカプセル(平成25年9月)

    ビオンカプセル(展示用にカプセル内部が見えるようになっている。)
    iPhone 5 (4.13mm, f/2.4, 1/20 sec, ISO250)
    ビオンカプセル(展示用にカプセル内部が見えるようになっている。)

     2013年(平成25年)7月13日(土)から9月1日(日)まで当館特別展示室で開催された、はやぶさ2応援企画展『片道から往復へ~新たな宇宙時代の到来~』は、おかげさまで多くのかたにご来場いただきました。会場に足を踏み入れると、まっさきに目に留まるのが大きな球形の物体「ビオンカプセル」でした。 筑波宇宙センターからお借りしたこのカプセルは、ロシア(打上げ当時はまだソ連)の生物科学衛星「ビオン9号」の再突入カプセルの実物です。直径2.2m、重量約2.4トンのこのカプセルは、1989年に実際に宇宙へ行き、14日間地球をまわって地上に帰還しました。いかにも頑丈そうなカプセルで、1992年打上げの「ビオン10号」でも再利用されたそうです。「小さな宇宙飛行士」として、 さまざまな種類の生物をカプセルに入れて、無重量状態や放射線など、宇宙での環境が生物にどのような影響を与えるかが調べられました。そうしたデータは、人間が宇宙で生活するうえで重要であるだけでなく、生物の各器官の働きに関する理解も深まり、人間の病気やけがの治療にも役立てられています。 「ビオン9号」に乗った「小さな宇宙飛行士たち」はどのような生き物だったのでしょう? カプセルそのものはアルミ合金製ですが、再突入時の高熱からどうやってカプセルを守ったのでしょう? 飛行中のトラブルとは? なぜ1996年の11号以降しばらくビオン衛星の打ち上げがなかったのでしょう?(2013年に再開)こうした疑問については、当博物館の研究報告第22号(2014年3月刊行予定)の中で詳しくお知らせできればと思っています。 (天文担当 山田陽志郎)