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Category Archives: 平成26年度

ボランティアの窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

~横浜市歴史博物館企画展「鶴見川流域のくらし」の関連事業「鶴見川流域フィールドワーク」に協力しました(平成27年2月)~

  本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会では定期的な交流会を行っており、相模原や横浜・伊勢原市大山等で行ったフィールドワークの様子は、これまでも「ボランティアの窓」や「民俗の窓」でも紹介してきました。そして、この交流の一環において、横浜市歴史博物館の企画展「鶴見川流域のくらし」(会期:1月31日~3月15日)の関連事業の「鶴見川流域フィールドワーク」第2回目「鶴見川上流域」を「相模原市立博物館民俗調査会連携フィールドワーク」として2月11日(水・祝)に実施しました。

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町田市木曽町の一里塚。家康の柩が通った際に築かれたと伝える

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木曽町の秋葉神社。境内に稲荷社があり、当日は初午に当たったため、幟が飾られお供えものもあった

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旗本一族の墓を熱心に見学する参加者(町田市山崎町の簗田寺)

 今回の企画展は、町田市小山田地区を源流とし、横浜市鶴見区で東京湾に注ぐ鶴見川を対象として、その流域の農業などの生業と船を用いた水運、神社に見られる狛犬などを中心とした石造物、いくつかの祭礼や信仰を取り上げ、さまざまな資料から主として、明治時代以降の鶴見川を取り巻く環境を利用して営まれていた暮らしの姿を示すことを目的に開催されました。

 その中では、横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会も展示に深く係わり、会員が関心を持ったテーマを展示に組み込むとともに、会員それぞれが書いた資料報告やレポートをまとめた150頁以上にも及ぶ冊子(『歩いた・見た・調べた 横浜市歴史博物館民俗に親しむ会 鶴見川流域フィールドワーク調査報告』)も刊行されました。この冊子には本館の民俗調査会が調べて提出した、鶴見川支流の恩田川流域の本町田・高ヶ坂・南大谷・成瀬地区の神社境内の狛犬と石造物の石工(石工銘が彫られていれば狛犬に限りません)のデータも含まれており、流域の石造物の様相を明らかにすることにお役に立つことができました。

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鶴見川を挟んで町田市野津田町方面を望む。多摩丘陵の地形がよくわかる

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宮川橋付近の大きく湾曲する鶴見川。現在、洪水対策として流れを直線化する護岸工事が行われており、数年後には流れが大幅に変わる

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川島付近の鶴見川。かつての川の様相がよく残る

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町田市図師町熊野神社では、民俗に親しむ会の会員が自ら調べた狛犬の銘文について説明した

 2月11日のフィールドワークでは、12時30分に古淵駅に集合し、鶴見川に掛かる町田市の図師大橋に向けて歩いていきました。今回のコースは、徳川家康の柩(ひつぎ)を静岡の久能山から日光まで運んだ際に通ったとされる道や、相模原市と町田市との境を流れる境川と鶴見川上流域を比較することができるもので、事前に民俗調査会でも下見を行って、見所やトイレの場所などを確認しつつコース設定に当たりました。当日は、申し込まれた一般参加者の人数はそれほど多くはありませんでしたが、何人かの民俗に親しむ会と民俗調査会の会員も随行し、比較的暖かい陽気のなかで充実したフィールドワークを行うことができました。

 両博物館の市民の会の交流も平成23年から4年ほどを経過し、今回の横浜市歴史博物館での企画展の開催は、両者の交流についても一つの大きな意義を持ったものと言えます。今後の展開についてはどうなっていくのか、はっきりしていませんが、これからもより良い交流に向っていけたらと思っています(民俗担当 加藤隆志)。

 第6回目の「民俗探訪会」で淵野辺地区を歩きました(平成26年11月)

毎回、本欄の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を実施しています。11月12日(水)の第6回「民俗探訪会」は、「淵野辺の伝説の地を歩く」と称して実施しました。淵野辺地区は、デイラボッチ(巨人伝説)や淵辺義博(英雄伝説)など、地域の著名な伝説のほか、新田稲荷神社の呼ばわり山や皇武神社の養蚕神であるオキヌサマなど、相模原の特徴をよく示すものが多数分布しており、これらと係わる地を中心に歩きました(簡単な内容は下記をご参照ください)。

 今回も「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、40名以上の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、27名の参加者と会員7名で、淵野辺駅から古淵駅までの約3時間のコースを歩きました。前日までの雨が心配されましたものの雨天にはならず、無事に実施することができました。今回のコースは次の通りです。

 淵野辺駅・9時15分集合→① 鹿沼公園(デイラボッチ伝説)→② 新田稲荷神社(よばわり山)→③ 菖蒲沼弁天社(デイラボッチ伝説)→④ 淵辺義博屋敷跡(淵辺義博伝説)→⑤ 皇武神社(オキヌサマ伝説)→⑥ 中里橋・縁切り榎(淵辺義博伝説)→⑦ 龍像寺(淵辺義博伝説)→⑧ 大山道・当麻山道分岐点→古淵駅・12時30分頃解散

コース名称の説明

①鹿沼公園のデイラボッチ伝説(市登録史跡)

伝説には、山や川、沼などの地形が形成された由来を説くものがあり、市内各地には、デイラボッチなどと呼ばれる巨人が作ったとされる池や窪地等が数か所あった。その中でも、この鹿沼と菖蒲沼のいわれを説く伝説はよく知られており、古くから文献に取り上げられているほか、柳田國男も著書の中で触れている。

②新田稲荷神社のよばわり山(市登録史跡)

新田稲荷神社は、江戸時代後期に開発された淵野辺新田地区の鎮守。境内の小山に祀られている今熊神社は、人探しの神として名高い八王子市川口町の同社からの勧請で、広大な原野にまぎれて行方不明になった者の探索に役立てたといわれる。「はやぶさ」が行方不明になった際に、JAXAの関係者が帰還を祈願したということでも有名である。また、旧陸軍の兵器学校にあった細戈(くわしほこ)神社が移されている。

③菖蒲沼弁天社(デイラボッチ伝説)

菖蒲沼は横浜線を挟んで鹿沼とは反対側にある沼で、やはりデイラボッチによってできたものといわれる。鹿沼は昭和四十年代に埋め立てられて鹿沼公園としてかつての面影をとどめ、菖蒲沼は昭和三十年代後半に埋め立てられたが、現在は弁天社のみが残っている。

④淵辺義博屋敷跡(淵辺義博伝説)

伝説の中には、歴史的な人物の生涯や偉業、それに伴ったさまざまな事物 を伝えるものが数多くあり、市内では淵辺義博伝説が代表的なものの一つである。淵辺伊賀守義博は足利尊氏の弟である直義の家臣で、淵野辺に居を構えていたとされる。中世の軍記物である『太平記』には、幽閉されていた後醍醐帝の子である護良親王を義博が殺害する様子が記されている。

⑤皇武神社(オキヌサマ伝説)

 市内には、かつて大変盛んだった養蚕に係わる神仏が多数祀られていたが、このオキヌサマもその一つで、オキヌサマ人形を祀ると養蚕の作業が忙しい時に手助けしてくれるなどといわれる。明治になって神社の神主によって作り出されたものであり、地元ではその信仰は見られず、埼玉や群馬方面での信仰が厚かったことが特徴である。

⑥中里橋・縁切り榎(淵辺義博伝説)

『太平記』では護良親王を義博が殺害したことになっているが、実際にはひそかに淵野辺に連れて来て、その後、奥州石巻(宮城県)にともに逃げのびた。その時に妻子と別れを惜しみ、縁を切った場所とされ、こうして縁を切った橋なので婚礼の行列はここを通ってはいけないといわれていた。石巻でもこの伝説があり、親王の墓を祀った神社などがある。

⑦龍像寺(淵辺義博伝説)

淵辺義博は、境川のほとりの池に住んでいた大蛇を退治したという伝説もあり、その大蛇の死骸を三つに分け、それぞれ龍頭寺・龍像寺・龍尾寺を建立した。ほかの二か寺はその後なくなってしまったが、胴体を埋めたところに建てられたとされる龍像寺が残っている。なお、境内には旗本岡野氏墓地(市指定史跡)や、徳本念仏塔(市登録有形民俗文化財)がある。

⑧大山道・当麻山道分岐点

多摩地区から伊勢原市大山に向う大山道(行者道)の一つで、大沼の集落の西側を通って磯部の渡しに到る。そして、ここから分岐するのが当麻の無量光寺を目指す当麻山道で、広大な原野を横切って下溝と上溝との境に沿いながら当麻に向った。

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熱心な調査会会員の説明を聞く参加者(新田稲荷神社)

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淵辺義博が護良親王とともに奥州石巻に逃れる際に、妻子と別れた所と伝える縁切り榎。この地に限らず、相模原にも魅力的な伝説が多く見られる

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伝説の地ではないが、あまり知られていない大山道(磯部道)・当麻山道の分岐点も訪れた

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季節は晩秋となり、紅葉の中を歩いていった(鹿沼公園)

 今回も担当学芸員である加藤が説明するとともに、調査会の会員も現在は新田稲荷神社に祀られている旧陸軍の兵器学校にあった神社や、龍像寺境内の旗本岡野家の墓所についてのお話しをしました。また、全体で30名以上が歩くために交通面には特に気を使い、調査会会員は誘導や車への注意を呼びかけるなど、安全で楽しめる探訪会になるように配慮しながら進めていきました。

これまで3年の間実施してきた民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、今後とも「通常の史跡巡りではなかなか行かない、なるべく地元でないと知らないこと」をテーマに行うことを予定しています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。

 *これまでの民俗探訪会については、いずれもこの「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

御蚕様のご逗留(市民学芸員 横須賀・平成26年10月)

今年の初夏、博物館で育てていたカイコの一部を、市民学芸員の横須賀さんが自宅に持ち帰って育ててくださいました。そのようすを文章に綴ってくださいましたので、ボランティアの窓としてご紹介します。なお、ここでできた繭は、博物館でできた繭と合わせて、平成27年1月25日(日)に実施予定の「繭うさぎづくり」ワークショップで使用します。ワークショップの詳細はイベントカレンダーをご覧ください。

 (ここから本文)

  6月4日昼頃、博物館から32個の御蚕様をお連れいたしました。爪の先程の小さな生きものがプラスチック容器の中でウロウロ、早速庭から桑の葉の柔らかいところを取り、さし上げてみるとうれしそうに集まり食べ始めました。口も顔もわからない程小さいのに葉っぱがみるみる減っていきます。食べているのだとわかります。翌朝見るとはっきり大きくなっているのがわかります。お宿も少し大きくしなければと大判のどんぶり型カップ容器にお移りいただきました。ぬれた葉は病気の元とのこと、雨が続くことが予想され、大量に取って一回分ずつビニ-ル袋に入れて冷蔵庫に、天気予報がこんなに気になったのもはじめて。日に四回せっせと食べていただきました。びっくりです。3日目の朝お宿をのぞくと、ほとんど全員つっ立っていて食べません。病気かな葉っぱが悪かったかな心配で日に何度も見ました。

一日半ほどするとまた急に食べはじめました。

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脱皮前の眠に入った3齢のカイコ

 3齢目の脱皮だったのです。又お宿を大きくし葉も次々沢山さし上げました。食べます食べます!すさまじいもの。3日ぐらいするとまた、つっ立って食べなくなりました。それから2日、びっくりするほど大きく成長した御蚕様、バリバリ音をたてながらアっと言う間に大きな葉を食べ尽くします。特大のお宿にお移りいただき、多量の葉を。昼夜関係なく3、4時間ごとに庭から直送、休まず、のみ込むように食べつづける姿をじっとながめていると一時間、二時間がすぐ過ぎてゆきます。けなげさ、いとおしさに感動しました。

1㎝にも満たなかった御蚕様、2週間後には7㎝以上、人の中指ほどにも成長し精密機械のごとく食べつづけます。16日目真夜中大量の桑の葉をさし上げようとお宿をのぞくとどうでしょう。3時間前にさし上げた葉っぱは食べず、全員その葉の上に立ち並んでいます。32頭が一斉に!びっくりです。どうしました?何がありましたか?と見回しました。それでも新しい葉をそっと置きました。10分後おそるおそる見ると又全員立って頭だけキョロキョロ!

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蔟に入った熟蚕

上蔟(じょうぞく)です。熟蚕=糸を吐き始めるさい、蔟(まぶし=まゆを作るます)の中にお移りいただく時が近づいております。ダンボールで作った50コほどのますの中に一個ずつそっと入れてさし上げました。個々で好みがあるため多目のますが必要と知り手作りしました。なるほど見ているとあちこちのますに移動、同じますに入っている仲良しもいます。はね繭(糸のつむげないまゆ)になるからと分けました。蔟に入れてから2日、ほとんどがまゆを立派に作り始めました。博物館にお帰りいただく時が来たのです。18日間ご逗留ありがとうございました。一生の思い出です。

「福の会」の展示を今年も行っています(平成26年6月)

 昨年のボランティアの窓でも紹介したように、博物館では、南区下溝地区・福田家の蔵の 中の資料が寄贈されることをきっかけに「福の会」が結成され、民俗・生活資料の整理を 行っています(元々は、先祖が北条氏照[小田原北条氏・四代当主の氏政の弟]の家臣と する福田家の由来については前回のボランティアの窓を参照)。

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 どうやって着物を展示するか、女性の会員が集まって協議中  ウォールケース内の展示ももちろん会員の担当  福田家の三月節供の御殿飾りや、五月節供の内幟り

そして、昨年の5月25日~6月30日には、収蔵品展「蔵の中の世界・福田家資料紹介 ~市民の力で博物館資料へ~」を開催し、蔵や主屋などにあったさまざまな資料を展示し て、会期中には約6800名の方々に見ていただきました。その際には、アンケートでもこの展示に興味関心を持たれた方も多く、「市民がこうした取り組みをしていることはすばらしい」との声も多くいただきました。

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 新屋敷集落の講中道具の一部。吊ってあるのは、土葬時代に使用した穴掘りの人が着るための半てん  当麻の中・下宿地区で行われていた地神講と稲荷講の掛軸等の資料も展示している  今年も多くの着物類を展示しているが、福田家以外のすでに収蔵していた資料を再整理したものも展示している

この福の会が展示資料の選定から実際の展示作業も担当した収蔵品展「蔵の中の世界2~市民の力で博物館資料へ~」を、5月24日(土)から6月29日(日)までの会期で行っています。今回は、福田家の蔵にあった実に多くの衣類やお節供に贈られた三月人形(御殿飾り)などに加え、福の会が福田家資料の整理とともに開始している別の資料についても展示しています。例えば、福田家がある南区下溝・新屋敷地区で所有していた講中道具一式で、講中道具はかつて冠婚葬祭を自宅で行っていた時代に、訪れる多くの客に出す料理の食器やその他の諸道具を地区で共同保管し、必要に応じて各家で使うことができたもので、講中道具は市内及び周辺地域で一般的に見られました。また、近年まで南区当麻の中・下宿地区で行われていた地神講と稲荷講に関わる資料では、講が解散することに伴い、掛軸や帳面などの資料が長く後世まで残ることを願って博物館に寄贈いただきました。なお、昨年の展示でも実施した、福田家の御当主や福の会の会員が、整理作業の苦労や楽しさなどを交えて展示資料についてお話をしたり、いくつかの衣類に触れたりすることもできる「展示説明・展示を語ろう」を6月8日・6月22日(いずれも日曜日)の午前10時30分~午後3時30分(この間随時)に行いますので、ご希望の方は是非おいでください。

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 着物の一部はマネキンを使って展示した。これも会員のアイデア  「展示説明・展示を語ろう」の実施日(写真は5月25日)には、着物に触っていただく機会も設けている  興味深げに御殿飾りを見る子どもに、福の会の会員がやさしく説明する(5月25日)

現在、福の会では、こうした新たな資料の整理のほか、博物館が保管している一部の資料の再整理なども手がけており、活動の場が広がっています。今後とも、多くの市民の皆様に、博物館を中心としてこのような活動を行っていることを広く知っていただくとともに、これからも市民とともに歩む博物館としてさまざまな活動を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る 第5回の「民俗探訪会」で上溝から下溝地区を歩きました(平成26年5月)

 第5回の「民俗探訪会」で上溝地区を歩きました(平成26年5月)

毎回、本欄の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を実施しており、今年度も5月14日(水)に第5回目の「民俗探訪会」を行いました。今回は、上溝地区の南部から下溝北部にかけて歩くもので、こうした催しはどうしても同一の地域内を歩くものになりがちですが、今回は中央区上溝から南区下溝へというように、区をまたいで歩くというコースを設定しました。    4月15日号「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、40名以上の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、28名の参加者と会員11名で、相模線の番田駅から「相模原浄水場」バス停まで、約3時間のコースを歩きました。当日は暑さが心配されたものの、通り抜ける風はまだまだ気持ちよく、無事に実施することができました。

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 熱心に神社合祀にまつわる碑を見学する参加者(上溝・諏訪神社)  子育て地蔵の念仏について説明する会員。現在でも実施されていることが説明された  道保川・宮川合流点での会員の説明。かつてここに家があり、祠などが残っている

民俗探訪会では、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内するものですが、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、なるべく地元に住んでいる者でないと知らないこと」をテーマとして進めています。今回も、加藤の説明の合間に、子育て地蔵(雨乞い地蔵)で現在も行われている地域の念仏の様子や、道保川・宮川合流点付近にかつてあった住居に係わることなど、地元の人々ならではの説明を聞くことができました。また、各種の石仏を見るのもいつものことで、庚申塔など、いくつかの興味深いものを確認しながら歩いていきました。今回のコースは次の通りです(簡単な説明を最後に記しています)。 相模線・番田駅 9時15分集合・「相模原浄水場」バス停 12時30分解散 ① 八王子道大山道分岐道標(①~③上溝)→②清水家旧主屋・長屋門→③諏訪神社→ ④古山橋・当麻山道(④~⑩下溝)→⑤八坂神社・日枝神社合祀碑→ ⑥庚申塔・子育て地蔵(雨乞い地蔵)→⑦道保川・宮川合流点→⑧徳本六字名号塔→⑨十二天神社・オミタレミズ→⑩宮坂  民俗探訪会は、今後ともその都度内容を検討しながら行うことを予定しており、ご希望の方のご参加をお待ちしております。民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。  *これまでの民俗探訪会については、いずれもこの「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

○八王子道大山道分岐道標 橋本から上溝市場を通り、当麻へ至る「大山道」と、座間方面に向かう八王子道の分岐点で、塔頂に不動像を載せた大山道標(嘉永二年[1848]・上溝村田尻不動講造立)など、いくつかの石仏がある。 ○清水家旧主屋・長屋門(市登録有形文化財[建造物]) 旧主屋・長屋門ともに19世紀中頃の建築と推定される。主屋は上層農家に特有の六間取(部屋数が六つ)の大型のもので、養蚕の進展と住居との関係を考える上でも貴重な建物である。長屋門も長大で、堂々たる主屋にふさわしい。*博物館の展示室に、屋敷取りを含めた清水家の模型があります。個人宅であり、屋敷内に立ち入ることはできません。 ○諏訪神社 上溝地区南部の番田集落他の鎮守。元々は八幡社(現・亀が池八幡宮)内に祀られていたが文禄三年(1594)に番田地区に遷座されたと伝える。上溝の天王祭との関係を伝える伝承や、明治後期に行われた神社整理の際に一度、八幡宮に合祀され、また元に戻った経緯など、さまざまな地域の歴史を伝えている。 ○古山橋・当麻山道 当麻山道は、多摩方面から大沼集落の裏側を通り、上溝と下溝 の境に沿いながら当麻の無量光寺に向かう。姥川に架かり、下溝・古山集落に入る所にある古山橋のたもとには、庚申塔や聖徳太子塔などがある。 ○八坂神社・日枝神社合祀碑 明治30年(1897)まで八坂社と日枝社があったが、十 二天神社に合祀された。現在、この地にある碑は、昭和8年(1933)に青年会が記念 として建てたもの。元々は、夏祭りに際して、八坂社があったこの場所から天王祭の 神輿が出て氏子の家を回ったと伝え、今でも神輿は碑の所に来て休む。 ○庚申塔・子育て地蔵(雨乞い地蔵) 享保18年(1733)造立の庚申塔は、青面金剛(しょうめんこんごう)を浮彫りにした典型的な庚申塔で、「小山邑」とあるのが注目される。地蔵は、第二次世界大戦以前は、日照りが続くと、下を流れる道保川に入れて水を掛けて雨乞いをした。また、子育て地蔵ともいって、子どもができない者が信仰すると子どもが授かり、よく育つともいう。4月と12月に地蔵様の念仏がある。 ○ 道保川・宮川合流点 道保川は、上溝の丸崎集落付近から流れ出し、下溝の大下集落で鳩川に合流する川で、上溝から下溝にかけての段丘崖沿いに流れる。道保川には多くの湧き水が流れ込んでおり、十二天神社の下側からの水(オミタレミズ)は宮川と呼ばれ、道保川に合流する。 ○徳本六字名号塔(市登録有形民俗文化財) 徳本は、宝暦八年(1758)に紀州に生まれ、近世後期に各地に念仏を広めた僧。徳本が近隣を訪れた際に、各村の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされる。市内では、相模原地域の13基が登録民俗文化財となっており、本資料は文政四年(1824)の銘がある。※地域の家々の共同墓地の中にあり、墓地には立ち入らず外側から見学します。 ○十二天神社・オミタレミズ 下溝・古山集落の鎮守。寛文二年(1662)にこの地を検地した久世大和守広之との相談で、湧水のすぐ脇にあった祠を現在の高所に移したと伝える。社殿には絵馬があるほか、境内にはいくつかの石仏が残る。特に元禄12年(1699)の阿弥陀如来を彫った庚申塔は古いものである。     神社下側の湧水はオミタレミズと呼ばれ、ここではわさび(「溝わさび」)が作られていた。幕末に糸商をしていた人が、伊豆から苗を持ち込んで作り出したといわれる。 ○宮坂 段丘崖の上側の広い畑に行くのに使われた坂で、かつては十二天神社の前を通り、お宮の後ろを途中からまっすぐに上がっていたといわれる。かなり急で、階段状に赤土を踏み重ねたような坂だったが、関東大震災で崩れてしまった。それで地震後に傾斜を緩くして、荷車が通れるような道に直した。現在の坂は、さらにその後に作られたものである。

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歴史の窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

あの朝ドラは終わったけれど…~白蓮吟歌の真実(平成26年12月)

 前回記事が引き金となったかは定かではありませんが、今年の石老山周辺は相模ナンバー以外の車が普段より多く見受けられたようです(墓マイラー!?)。そんな現地の状況に似たことが、私の元でも起こりました。出版社などからの頻繁な問い合わせのほか、記事内容の真偽を説く御教示も寄せられ新たな事実を知ることができました。連投となりますが、御案内しておきたいと思います。

 それは、お伝えした白蓮の一首「ほろびたる ものは美(うるわ)し 紫の 野菊そよげり 古城のほとり」についてでした。大阪・堺市の閲覧者様から頂戴した懇切丁寧なお便りには、吟歌の創作時期や舞台となった御実家のようすが記され、疑う余地のない真実が浮かび上がりました。次に要約します。

 ・戦後混乱期、東京の大伯母が白蓮を連れて岐阜県土岐町(現瑞浪市土岐町)の大地主であった御実家に逃れ住んだ昭和21年春の作(隣家住人の手紙もそれを証明)。

 ・御実家眼前には滅亡した土岐氏の居城・鶴ヶ城跡がある山がそびえている。

 ・白蓮の寓居となった御実家離れから眺望できる鶴ヶ城跡の風情を詠んだ。

 ・「紫の野菊」とは、土岐氏の家紋に使われた桔梗のこと(旧土岐郡域の市花も桔梗)。

 ・「古城のほとり」とは、仮住まいを得た周辺一帯(鶴城地区)を指す。

 ・御実家には白蓮自筆の短冊と色紙が保存され、確かな証拠となっている。

 白蓮短冊

 

白蓮色紙

白蓮直筆の短冊と色紙(大きさ不同)

※堺市在住の閲覧者様提供&掲載許可(転載厳禁)

 以上の内容から、“慈母の会運動開始直前の事歴” “オリジナルのロケーション” “支援した人々の存在”などが明らかとなりました。翻って前回参考の文献も取材調査に基づいて著されたとした場合、こんなふうに理解できないでしょうか。~美濃・土岐の地で詠んでから12年後、今度は相模・城山の地で同じく戦国の世に滅んだ山城の景色を感じるにつけ、白蓮は往時の作歌をこだまのようにリフレインしてみた~、と…。

 さて間もなく、一年の暮れを迎えます。市内外の耳目を集めた〈白蓮ネタ〉もひとまず幕を下ろすことにし、女史には石老山の大きな懐で再び静かな眠りについていただければと願うばかりです。(歴史担当:土井永好)

 *鶴ヶ城は、神箆(こうの)城・国府城・土岐城などとも呼ばれる岐阜県指定史跡。津久井城と同じく初築年代は不詳ながら、典型的な中世城郭の根小屋式山城を示す。

蓮さま、石老山に眠る~流転の大正歌人(佳人)と落人伝説(平成26年6月)

今年度前半、NHK朝の連続テレビ小説でヒロインの“腹心の友”として登場している「葉山蓮子」(愛称「蓮れんさま」、実際は「燁あきさま」)。モデルはお気付きのとおり、大正天皇のいとこにして大正歌壇の新旋風として活躍した柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)(最後の本名:宮崎燁子)です。その生誕から死去までは、ドラマ以上にドラマを見るかのような波乱な人生が物語られています。当時の新聞各紙をにぎわせた大正10(1921)年「白蓮事件」をはじめ彼女の数奇な運命話は他に譲ることとして、今回はタイムリーな話題となりますか、相模原と白蓮の隠れたエピソードについてお知らせします。すでにいくつかのガイド本などでその存在は周知されていますが、緑区寸沢嵐(増原)にある古刹・石老山顕鏡寺の一隅に白蓮は葬られています。東京に生まれ育ち、「筑紫の女王」となり、再び東京暮らしに戻った彼女の墓所がなぜ、山深い当地に設けられたのか?そんな疑問をきっと皆さんもお持ちになられることでしょう。事の経緯は意外や意外!最愛の夫・宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)が年来の友人の案内で相模湖周遊をした際に石老山に登ったことを白蓮に告げたことに始まります。その後、本人自らも訪れて当地の絶景にいたく感激し、終戦直前に戦死した愛息とともにいられるよう宮崎家永眠の地として選んだとのことです。白蓮は最晩年、緑内障により両眼失明しながらも昭和42(1967)年2月22日に81歳の天寿を全うしました。愛嬢が建立した墓碑には、「妙光院心華白蓮大姉」と戒名が刻まれています。

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石老山顕鏡寺
奇石・古樹・祠堂の類が境内を彩っている。

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白蓮終焉の地
源海上人の墓塔に寄り添う宮崎家墓地(左手奥)。 

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相模湖遠望
融合平からの見晴しで、白蓮お気に入りの景色。

 さて、話題の顕鏡寺には龍介・燁子夫妻の愛の逃避行にも似た縁起伝承が残されています。貞観18(876)年に堂を開いたとされるのは「源海法師」で、その父母は京の宮人・三条殿と八条殿の若君姫御といわれます。ふたりは相思相愛の仲となり、名馬に乗り東国へ落ち延びることに。相模国糟屋で村人の家に宿を得、その主人の助言で相模川上流にある「道志岩窟」に隠棲を求めるべく再び旅を続けました。行き着いた先は深閑幽谷でしたが薪や水に恵まれ、愛情を育むには最適の土地となりました。ほどなく男児を授かりますが、親子は悲運にも離散する運命にあいます。成長した子息は諸国行脚の末、両親と再会できましたが母のみを連れ京に帰ります。やがて彼は仏道に目覚め、悟りを得る場として道志岩窟を選び、法師となって一寺を開くことになりました。以上が顕鏡寺縁起文の大筋ですが、深い愛に結び付いた両夫婦の縁が時を経て石老山を舞台に結び付いたと自然に思いをはせた次第です。  閑話休題。白蓮燁子は亡くなる9年ほど前の梅雨明けの時期、主宰する歌誌『ことだま』の活動の一環か、歌友のもと(葉山島の医師宅)を訪れた際に津久井城跡城山周辺の風情を詠んだ一首を残しています

「ほろびたる ものは美し紫の 野菊そよげり 古城のほとり」。

 彼女がちょうど世界連邦運動協会婦人部活動で多忙なころ、そして光を失う少し前に相模川の美しい風景を短歌に留めたことは、自身の埋葬地が相模川(相模湖)を眺望できる場所になったことと何か因縁めいたつながりを感じてしまうのは私だけでしょうか?  おわりに、この一文を掲げるに当たり私の業務の一つ「尾崎行雄資料調査」に通じるキーワードをいくつか見つけました。白蓮関係では“歌人・九条武子”“佐佐木信綱” “世界連邦”、龍介関係では“普選要求・女性解放運動”“護憲運動”“吉野作造”などです。今後の成り行きで、違った角度から大正・昭和期の文芸史・社会運動史をひも解く幸運に恵まれるかもしれません。皆さんにはぜひ相模原との縁を思い浮かべながら朝ドラをご覧いただき、紅葉の美しくなる晩秋には一度石老山へ足を運んでいただければと考えます。(歴史担当:土井永好) *『郷土さがみこ 寺院号』(1970相模湖町教育委員会)や『相模川歴史ウオーク』(2005前川清治)をはじめ、諸氏のご助言も参考にしました。文中敬称略。

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天文の窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

「はやぶさ2」の現在位置は?(平成27年1月)

 2014年(平成26年)12月3日(水)13時22分4秒に、種子島宇宙センターから打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は順調に飛行を続けています。太陽を約366日でまわる、地球と似た軌道に乗っており、2015年12月には地球に接近します。この接近により、地球の重力を借りた加速を行い、小惑星1999 JU3に向かいます。

  現在、「はやぶさ2」は、どの星座の方向を飛行しているのでしょうか? 地球の軌道の周辺、どのあたりにいるのでしょうか。

  JAXAのwebページ「はやぶさ2カウントアップレポート“L+(エルプラス)”」http://fanfun.jaxa.jp/topics/ をごらんいただきますと、レポート時点の「はやぶさ2」の位置情報が図とともに出ています。また、サイエンスライターの柏井勇魚(かしわい・いさな)さんによるページhttp://www.lizard-tail.com/isana/hayabusa2/ でも軌道上の現在位置が立体的に表示されています。

  もし、天球上の現在位置・今後の位置や、軌道上の現在位置・今後の位置をさまざまな角度から立体的に確認したい、というかたには以下の方法が参考になるかもしれません。

①まずは、「はやぶさ2」の軌道要素の入手

 NASAの惑星探査計画の拠点であるJPLのwebサイトhttp://ssd.jpl.nasa.gov/horizons.cgiにアクセスします。太陽系天体の位置や軌道のデータを提供してくれるのが、この「ホライズン・システム」です。EphemerisTypeをOrbital Elements に設定します。Target Body の Lookup the specified bodyで Hayabusa 2 を指定します。Time Span では、例えば今日の日付から1か月先までなど(Stop Time に限度が設定されていることがあります)指定します。Step Size では、出力する時間間隔(例えば 2 daysなど)を指定します。Generate Ephemeris というボタンで、指定期間中の 「はやぶさ2」の軌道要素が表示されます。使用されている記号については、出力の最後に説明があります。 

 資料(1)によりますと、2015年12月の地球接近までは目立った軌道の変化はないようです。「ホライズン・システム」の出力を見てもそれがわかります。地球接近以降は、かなり軌道が変わりますのでご注意ください。

②軌道の図示

 国立天文台 4次元デジタル宇宙プロジェクトで開発されたフリーソフトの宇宙シミュレーター「Mitaka」http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/index.html

では、太陽系の軌道や位置を表示することもでき、さらにその派生版である「MitakaPlus」http://orihalcon.jp/mitakaplus/ を使うと、「はやぶさ2」の軌道を示すことができます。まず、Mitakaをダウンロードしてパソコンにインストールし、次いでMitaka Plus をダウンロードし、Mitakaと同じ場所に上書きする形でファイルを展開します。¥data¥orbits¥asteroids というフォルダーに、小惑星の軌道要素ファイルがあります。それを参考に、「はやぶさ2」の軌道要素をいれ、hayabusa2 という名前で同じ場所に保存します。同様にして、「ホライズン・システム」から小惑星 1999 JU3 の軌道要素も入手し、その軌道も表示できるようにしておくとよいでしょう。

図1-20150101-0401-はやぶさ2軌道位置

Mitaka Plusで再現した「はやぶさ2」の軌道と左から2015年1月、2月、3月、4月の各1日の地球と「はやぶさ2」の位置。「は」という字の前の小さな点が探査機の位置。地球、「はやぶさ2」、1999 JU3、いずれも太陽の周りを反時計まわりに移動。(開発 Mitaka:  加藤恒彦 国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト/Mitaka Plus:高幣 俊之(ORIHALCON Project))

「Mitaka Plus」を起動して、着陸・離陸(L) を選び、スケールを1天文単位にします。 ターゲットからターゲットブラウザを選択し、小惑星の中から「はやぶさ2」や「1999 JU3」にチェックをいれれば、その軌道が表示されます。

③天球上の位置

 軌道要素がわかれば、星空を表示する、さまざまなプラネタリウム・ソフトで、「はやぶさ2」や「1999 JU3」の天球上の位置、どの星座のどのあたりにいるかを表示できるはずです。みなさんがお使いのプラネタリウム・ソフトで、新発見の彗星や小惑星の表示機能があるかどうか、確認してみてください。筆者がWindows95時代から愛用しているプラネタリウム・ソフトに、StarCalcというフリーソフトがあります。(http://www.m31.spb.ru/StarCalc/main.htm) StarCalcのメニューでは、Services の中に Asteroids and Comets という項目があり、Add というボタンで新たな天体の軌道要素が追加できるようになっています。同じく Services の中のPaths of Objects という機能を使ったものが次の図です。2015年1月1日から4月1日までの「はやぶさ2」の位置が5日毎に示されています。

  図2-はやぶさ経路2015-Jan-Mar

StarCalc で作図した2015年1月1日から4月1日までの「はやぶさ2」の位置。オリオン座の下(南)にある「うさぎ座」を通り、「いっかくじゅう座」に移動していきます。

 ぜひ、みなさんのパソコンでも「はやぶさ2」を追跡してみてください。「はやぶさ2」が今どこにいるのかを知ることによって、「はやぶさ2」への親しみもいっそう増すのではないでしょうか。小惑星1999 JU3のサンプルを収めたカプセルが地球に帰還する2020年12月まで、いや、カプセル切り離し後の「はやぶさ2」の行方もずっとずっと追っていきましょう!

資料

Trajectory Design for Japanese New Asteroid Sample Return Mission Hayabusa-2( http://issfd.org/ISSFD_2012/ISSFD23_IMD1_1.pdf)

(天文担当 山田陽志郎)

ISSの太陽面通過(平成26年5月)

 2014年(平成26年)5月14日(水)の10時半をまわった頃、博物館のエントランスホールには、すでに100名ほどの市民のかたが集まっていました。60インチ大型モニターに映るJAXAからの中継映像を見つめながら、若田宇宙飛行士の帰還を待っていたのです。 10時58分30秒、若田さんを含む3人の宇宙飛行士を乗せたソユーズTMA-11Mの帰還モジュールは無事カザフスタンの平原に着地しました。188日ぶりの宇宙からからの帰還でした。90-26-260522

 そのちょうど1週間前、まだ若田さんが滞在中のISSが、太陽の手前を通過するという珍しい現象が起こっていたのです。博物館には、太陽を安全に観測できる専用の太陽望遠鏡があるため、この現象をビデオ画像としてとらえることができました。博物館から太陽方向、直線距離で600kmほど離れたところをISSが通過していったのです。(写真参照。太陽面を瞬時に移動していくようす)仮に太陽面の中央を通過した場合でも0.8秒という短時間の現象でした。今回の現象はおよそ横浜線古淵駅から根岸線磯子駅を結ぶ線を中心に幅約7kmの範囲でしか見られませんでした。7kmというと徒歩2時間とかからない距離です。

 学校などで、太陽黒点を安全に観察しているかたは、ISSの太陽面通過を見る機会があるかもしれません。また、ISSが月面を通過する場合なら、太陽のような観察上の危険は全くありません。(注意:太陽を直視したり、安全が保証された方法以外での太陽観察は決してなさらないでください。失明の恐れがあります)みなさんの観測地点から、近日中にISSの太陽面・月面通過が見られるかどうかを、以下のwebページを参考に計算することができます。ぜひチャレンジしてみてください。

(1) 人工衛星通過予報サイト Calskyの使い方説明 (ISSの太陽面・月面通過)
(2)ISSの天体通過予報サイトの使い方    

ただし、「以下の場所からDEMをダウンロード」の場所は
http://dds.cr.usgs.gov/srtm/version2_1/SRTM30/   
に変更になっています。
(天文担当 山田陽志郎/写真処理 伊藤雄一)

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生きものの窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

新年最初のビッグな新資料(平成27年1月)

 今年(平成27年)最初の開館日は、1月4日でした。まさにその仕事始めの日、当館で活動されている市民学芸員の方から電話が入りました。

 「知り合いから、道にフクロウが死んでいる、と連絡を受けたのですが、どうしましょう?」

 どうもこうもなく、駆け付けたのは言うまでもありません。フクロウは、緑区の山間部を中心に市内で広く生息する野鳥ですが、夜行性であるために生息記録が多いとは言えません。「鳴き声」の情報でもありがたいのに、実物の発見情報です。やりかけの仕事を中断して標本の確保に向かいました。

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発見してくださったのは、郷土の文化や自然を探求する「城山エコミュージアム」のメンバーの方でした。発見者にも恵まれました。

 博物館から少し離れた場所だったため、現着するのに1時間近く経ってしまいました。しかし、発見者のみなさんは寒い中、死体がカラスやネコなどに持って行かれないよう、待っていてくださいました。実物を見ると、驚くほど状態の良い死体です。おそらく、その日の朝か前夜に落鳥したのだと思います。目立った外傷は無く、羽の傷みもまったく無かったのですが、胸からお腹のあたりを触ってみると、ガリガリに痩せていました。おそらく、食糧が思うように捕れなくて衰弱死してしまったのだと思います。年末年始休で食べ物に恵まれすぎていた我が身に対して、暮れも正月もない自然の厳しさを改めて感じました。

 さて、かわいそうなこのフクロウは、本来ならスカベンジャー(死肉や腐肉、排泄物などを食べる動物)に食べられ、いくつもの過程を経て分解され、土へと還ってゆくのが自然の摂理です。しかし、これほど状態の良い標本を博物館として活用しない手はありません。ありがたく拾得し、持ち帰りました。

 持ち帰ってから改めて計測したり、観察したりして、現在は冷凍保存しています。近々はく製にして、永久保存できる状態へと処理し、その過程で胃内容物や骨の状態なども見て死因の特定もしたいと考えています。

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フクロウのセレーション構造(上)

比較のためのコジュケイの羽縁(下)

 さて、冷凍前の観察の中で撮影した写真をご紹介します。翼を構成し、飛翔に寄与する大きな羽である風切羽の拡大写真です。縁にギザギザがあります。この構造はセレーションと呼ばれ、フクロウのなかま以外の鳥には見られません。飛翔時に気流の乱れを減らして、いわゆる「空気を切る音」を少なくしているのだそうです。実際、フクロウは人間の耳に聞こえるようなはばたき音がしません。これは、闇の中でノネズミなどを狩るのに都合よく発達したものでしょう。

 じつはこの構造、日本の最新鋭の新幹線にも応用されています。初期の新幹線は、パンタグラフの空気を切る音が、少なからぬ騒音となっていました。これを解決するために、パンタグラフの表面にセレーション構造をまねた加工を施した結果、騒音軽減に役立っているというのです。このように生物の形態などにヒントを得た技術を、生物模倣技術(バイオミメティクス)と言います。

 生物の死を扱うのは、決してきれいごとでは済まないことが多く、今回のように状態の良い標本ばかりでもありません。しかし、生物相を記録し、将来へ伝えるにあたって未来永劫、その証拠として残るだけでなく、時として私たちの生活に密着した新技術のヒントが内在していることもあります。自然からの贈り物、と表現するのはやや不謹慎かもしれませんが、今年はそんなありがたい気持ちでいっぱいの仕事始めとなりました。(生物担当学芸員 秋山幸也)

 

ネナシカズラの魅惑(平成26年9月)

世の中には不思議な生態の植物があるもので、それは、熱帯のジャングルや砂漠のような極端な気候の場所へ行かなくても、意外と身近な場所にも生育しています。

 その一つ、アメリカネナシカズラをご紹介します。この植物はつる性の寄生植物で、つる性という以外に共通点はなかなか見いだせないのですが、なんとヒルガオ科に属します。つまり、アサガオと同じなかまで、初秋に大きな川の河原などでよく見られます。そのようすは、宿主となった植物群落に覆いかぶさるように、というか、図鑑などではよく、「ラーメンをぶちまけたような」と表現されます。ちょっと黄色みがかった茎が入り乱れて絡まるようすは、まさしくそんな感じです(写真1)。

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写真1 アメリカネナシカズラ

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写真2 アメリカネナシカズラの花

 この植物は完全な寄生性で、葉っぱどころか、光合成を行う葉緑素そのものを持ちません。だから、植物のくせに緑色の部分がまったくないのです。花も色素が無く、透明に近い白色です(写真2)。地面から発芽してひょろひょろと茎を伸ばし、宿主となる植物の茎や葉にからみつくと、寄生根(写真3)を食い込ませます。水分や養分を吸収できるようになると、なんと、地上に出たあたりの茎が枯れて消失してしまうのです(写真4)。今年は博物館のプランターにまいておいた種子が発芽したので観察していたところ、7月にめでたくそのシーンを撮影することができました。

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写真3 寄生根(下向きの突起)

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写真4 枯れた地上部の根本

そして今、9月となった河原では、まさしく「ラーメンをぶちまけたように」生育しているのが見られます。この植物は名前から想像できるとおり、外来植物です。「アメリカ」と頭につかないネナシカズラという植物もあり、先日相模川を訪れたところ、隣り合って生育していました。こちらは茎が太く、繁茂するようすはなかなか壮観です(写真5)。

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写真5 ネナシカズラ

寄生植物というのはその生き様から、ネガティブなイメージを持たれます。確かに宿主にしてみれば迷惑千万なのですが、私はどうもネナシカズラのなかまが気になってしかたありません。つる性寄生植物なので、宿主を覆い尽くして大繁茂した後は、宿主が支えきれずに共倒れという末路が待っています。実際、この植物は数年繁茂した後はたいてい、ぱたりと姿を消してしまいます。そして、しばらくするとまた、近くの新しい場所で何事もなかったように生育し始める、ということがよくあります。そんな刹那的な生き方に、ちょっと憧れをいだいてしまうのです。(生物担当学芸員 秋山幸也)

 

やっぱり大きな春蚕の繭(平成26年7月)

5月下旬、博物館では今年もカイコの飼育を始めました。掃き立て(ふ化した毛蚕を飼育台へ移す作業)から3週間とちょっと、熟蚕に育て上げて6月中旬には無事、繭となりました。この間、カイコはふ化直後の全長約2.5mmから、5齢(終齢)の半ば、最大で約8cmまで成長します。なんと30倍!1か月にも満たない期間でこれだけの成長を遂げる生きもの、それがカイコです。  
 そのかわり、食べる量は齢期が進むにつれて加速度的に増大します。5齢に脱皮してからは、相当がんばって給桑しても追いつかないくらい、勢いよく食べてくれます。かつて相模原でも養蚕が盛んだった頃、5齢になると家族が交替で24時間体制で給桑していたという話を聞きますが、この食いっぷりを見れば納得です。  
 さて、この時期、シーズンの最初に育てるカイコを春蚕(はるご)と呼びます。カイコの野生原種に近いとされるクワコも同じタイミングでふ化、成長するので、カイコにとって本来の生育シーズンと言えるでしょう。瑞々しい良質なクワの葉をあげられるし、夏ほど気温が高くないため、成長が早すぎることもありません。これは、養蚕学の大きなテーマであった「大きな繭=長い繊維」をとるための必須条件です。実際、昨年秋に育てた晩秋蚕(ばんしゅうさん)の繭と比べると、大きさの違いは歴然としています。

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春蚕(左)と晩秋蚕(右)の繭

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 脱肛症状のカイコ

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小学校での出張授業風景

 繭の大きさだけではありません。芽吹いてから時間の経った水分の少ない葉をあげていると、どうしても病気の蚕が多発します。代表的なものは、脱肛です(写真は昨年の晩秋蚕)。かわいそうですが、このようになったカイコはまゆを作れずにそのまま衰弱死してしまいます。  
 クワを専門に食べるカイコにとって、やはり新緑の頃が一番条件の良い季節ということになります。良質なクワをしっかり食べさせることができた今年は、特に大きな繭をとることができました。  
 繭と言えば、先ごろ、群馬県の富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録されることが決定しました。このニュースに刺激されたのでしょうか、今年は市内の小学校から「カイコの卵を譲ってほしい」という要請が例年よりも多くありました。博物館ではできるだけ要望にお応えし、卵を提供する際には必ず農業としての養蚕について理解を深めていただくため、学芸員が出張授業を行っています。日本の近代化を支えた養蚕から、生物資源として新たに注目を集めるカイコを、これからも学習教材として積極的に扱っていきたいと考えています。 (生物担当 秋山幸也)

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地質の窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

厚木市七沢の地質1(平成27年2月)

 厚木市七沢では、約1,200万年前の海底火山噴火によってできた岩石がみられます。これらの岩石は火山灰が固まってできた凝灰岩のなかまで、丹沢山地をつくっている岩石の一部です。丹沢山地の凝灰岩のなかまの多くのものは緑色をしています。丹沢山地をつくっている凝灰岩や火山岩のなかまは、まとめて丹沢層群と呼ばれています。

 丹沢層群の岩石は元々、今の場所にあったものではありません。地球表面を覆う岩盤の一部であるフィリピン海プレートの上に載っていた海底火山噴出物が、北上するフィリピン海プレートと一緒に移動してきて、日本列島に付け加わったものです。フィリピン海プレートは本州の下にもぐり込んでいきますが、その上に載っていた海底火山噴出物はもぐり込めずに日本列島の一部となり、隆起して山地をつくっています。

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七沢ではこのような緑色をした凝灰岩がいたるところで見られます。

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きれいな縞模様の凝灰岩の地層も観察できます。色や大きさの違う火山灰が交互に積み重なり、縞模様ができます。色の違いは噴火するマグマの性質の違いなど、粒子の大きさの違いは噴火の規模の違いや火山からの距離の違いなどを表しています。

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凝灰岩の中に一際濃い緑色したセラドン石と呼ばれる鉱物が含まれていることがあります。肉眼で見えるのは一つの結晶でなく、顕微鏡で見ても一粒一粒が判別できないような小さな結晶の集合体です。七沢の河床や川原の転石・砂利などからも鮮やかな緑色のセラドン石を採取することができます。

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ごくまれに、非常に粒子の細かい白色の凝灰岩が見られます。これは遠方の火山からの火山灰が海底に降り積もってできた凝灰岩です。どこの火山の噴火によるものなのかはわかっていません。

  七沢を流れる玉川の上流には、数十メートルの切り立った岩壁、弁天岩があります。弁天岩も凝灰岩です。

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弁天岩。

 弁天岩のさらに上流には大釜弁財天があります。ここではポットホール(甌穴)が見られます。ポットホールは上流から流れてきた岩石が河床の岩盤の凹みなどにはまり込み、川の速い流れによって激しく回転することにより、河床の岩盤が削られてできた穴です。大釜弁財天にみられる凝灰岩のなかまにはセラドン石は含まれていません。

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 大釜弁財天のポットホール。

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 大釜弁財天で見られる凝灰岩のなかま。縞模様が見られます。

 (地質担当学芸員 河尻)

 ミョウバン結晶2(平成26年12月)

 典型的なミョウバン結晶の形は正八面体、つまり、2つのピラミッドを底面でくっつけた形をしています。実際には、正八面体の頂点や稜線をナイフで切り取った形のものも良く見られます。飽和水溶液の中に種結晶を吊るして育成した結晶は、典型的な結晶の形になります。

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典型的なミョウバン結晶。

 しかし、ビーカーの底にできる結晶は典型的なものとは違った形に見えます。ビーカーの底では結晶が成長する方向が制限されており、きれいな正八面体になることができません。かといって、まったくでたらめな形になるわけではありません。結晶となる物質はそれぞれ“自分の形”を持っています。同じ物質なら結晶の形をつくっている面と面との角度は必ず同じになります。この性質は「面角一定の法則」と呼ばれています。ビーカーの底にできた結晶の面と面の角度も典型的なミョウバン結晶のものと同じです。どの面が広くなるかによって、全体の形が違って見えます。

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ビーカーの底にできたミョウバン結晶。

  ミョウバンにはいくつかの種類があります。カリミョウバン、アンモニウムミョウバン、クロムミョウバン、鉄ミョウバンなどがあります。これらは含まれている成分が違います。ふつうに「ミョウバン」と呼ばれているものは、カリミョウバンのことで、カリウムアルミニウムミョウバンとも呼ばれます。さらに別の言い方をすれば、硫酸カリウムアルミニウムです。

 以前、色のついたミョウバンの結晶を作ろうと思い、クロムミョウバンの結晶作りに挑戦しました。うまくいけば、濃い紫色をした結晶ができるはずだったのですが、失敗に終わりました。そのときにビーカーの底にできた1~3mmの結晶をチャック付きの袋に入れて、しまっておきました。数年後に取り出してみると、結晶がいくつか成長していました。なかには1cmを超えるものもありました。どのようにして大きくなったのかは、よくわかりません。もしかすると、クロムミョウバンは空気中にわずかに含まれる水分を使って成長できるのかもしれません。カリミョウバンはチャック付きの袋に入れておいても成長しません。

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クロムミョウバンの結晶。写真の左のほうに大きくなった結晶がいくつか見える。

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約1週間かけて作った硫酸銅結晶。

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約1年かけて作った硫酸銅結晶。

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 ペットボトルの底で大きくなった硫酸銅結晶。約1年かけて硫酸銅結晶を作ったときのもの。

 ミョウバンではありませんが、硫酸銅の結晶を作ったこともあります。約1週間で2~3cm、約1年で10cmくらいの結晶を育てることができました。

  さて、ミョウバンと硫酸銅の飽和水溶液を混ぜるとどのような結晶ができるのでしょうか?

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ミョウバンと硫酸銅のそれぞれの飽和水溶液を混ぜた溶液からできた結晶。

 答えは、飽和水溶液からそれぞれが別々に結晶となって、モザイク状になります。両方が混ざった結晶や、全く別の物質ができたりすることはありません。

 (地質担当学芸員 河尻)

ミョウバン結晶1(平成26年10月)

相模原市立博物館では毎年夏休みに、「子ども鉱物教室」を開催しています。鉱物が大きくなっていく様子を体験してもらうために、ミョウバン結晶の育成を行います。この教室で見本のミョウバン結晶を見せるために、大きな結晶つくりに挑戦しています。今回、2年5ヶ月かけて10cmを超える結晶を作ることができました。ただし、この大きな結晶は下半分が階段状になっています。写真ではわかりにくいですね。

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今回、2年5ヶ月かけて作ったミョウバン結晶。

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今回作った結晶の作成開始から1年後の様子。この時はまだ、形もよく、透明できれいな結晶でした。

ミョウバン結晶の作り方を簡単に説明します。ミョウバンは水に溶けることができる量が決まっています。例えば、20℃では、100gの水に対して約12gのミョウバンが溶けることができます。もうこれ以上、溶けることができなくなった状態を「飽和」といいます。飽和状態の水溶液を「飽和水溶液」といいます。さて、わざわざ「20℃では」と限定したのは、温度によって溶けることができる限界量が変わってくるからです。温度が高いほどたくさんの量が溶けることができます。高い温度で飽和水溶液を作っておいて、それを冷ましていくと、溶けていられなくなったミョウバンが結晶として現れてきます。結晶として現れることを晶出といいます。また同じ温度でも、水の量が多ければ多くのミョウバンが溶けることができます。飽和水溶液が蒸発して、水の量が少なくなると、溶けていられなくなったミョウバンが晶出します。つまり、飽和水溶液の温度を下げるか、もしくは、水分を蒸発させるかすれば、ミョウバンが晶出します。

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左:約9ヶ月かけて作ったミョウバン結晶、右:約6ヶ月かけて作ったミョウバン結晶。

結晶が晶出する時に“核”となる結晶があるとその周りに晶出していきます。“核”となる結晶を種結晶と呼びます。飽和水溶液に針金などにつけた種結晶をつるしておくとそこに結晶が晶出して、結晶がどんどん大きくなっていきます。相模原市立博物館では、1cmくらいの結晶になるまでは温度を下げる方法で結晶を作ります。その後は、水分が自然に蒸発するのを利用して、結晶を大きくします。

今回、作り終わった結晶は、作り始めてから約2年がたった今年の春、ほこりが入らないようにふたをかぶせました。ただし、隙間を空けておかないと、水分が蒸発できないので、隙間は空けておきました。ふたをかぶせた時期は、ちょうど冬から春に向かって気温が暖かくなる時期です。ふたがなければ、気温が上がっても、その分、水分が蒸発するのでミョウバンが晶出します。しかし、温度が上がったのに、ふたがあったため少しの水分しか蒸発できなかったので、せっかく作った結晶の一部が溶けてしまったようです。

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2年かけて作ったミョウバン結晶。この時も最後に少し溶けてしまい、下の方(写真の右側)が階段状になってしまいました。

結晶の溶け方は、上半分は上端のとがった部分から溶けていき、下半分は結晶面の平らな部分の真ん中から溶けていきました。途中で溶けていることに気がついたので、あわててふたをはずしました。しばらくすると、再び晶出が始まりました。しかし、結晶の上半分は元の形に戻ったのですが、下半分は階段状になってしまいました。晶出するときはとがった部分やエッジの部分から晶出していきます。溶けた真ん中の部分は後から晶出したので、階段状になったようです。

 (地質担当学芸員 河尻)

道志川上流の地質(平成26年6月)

相模原市西部を流れる道志川は相模川の主要な支流の一つです。山梨県山中湖村と道志村の境界、山伏峠付近を源流とし、相模原市緑区三ケ木付近で相模川と合流します。道志川の上流部には富士山が噴火したときの噴出物や丹沢山地の中心部をつくっている岩石がみられます。 富士山の噴出物は相模原でみられる関東ロ-ム層とよく似ていますが、こちらの方が厚く堆積しており、層がはっきり見えています。含まれている溶岩の破片も相模原のローム層中のものよりも大きなものが多いです。富士山が近いため噴出物の粒も大きく、地層も厚くなります。また、道志川の護岸には天然石が利用されているところもあります。使われている石は玄武岩で、富士山の溶岩の可能性が高いです。

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山伏峠付近の富士山の噴出物。層がはっきり見える。

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山伏峠付近の富士山の噴出物。相模原のローム層中のものよりも大きな溶岩の破片が含まれる。

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富士山の溶岩と考えられる玄武岩が使われている道志川の堤防。

丹沢山地の中心部をつくっている岩石は、閃緑岩や斑れい岩のなかまです。閃緑岩や斑れい岩は、マグマが地下深くで、ゆっくり冷えて固まってできた岩石、いわゆる御影石と呼ばれているものの一種です。含まれている鉱物がかなり大粒の斑れい岩もみられます。

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道志川源流部河床の閃緑岩のなかま。

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道志川源流部の斑れい岩。

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斑れい岩には粗粒なものも見られる。

 

 道志川の支流、室久保川の河床に目玉のような模様が見られます。この模様は「的様」と呼ばれており、伝承では昔、源頼朝が武道鍛錬のために作った標的ということです。他にもあったようですが埋もれてしまったそうです。このあたりの河床は閃緑岩のなかまでできています。全体(灰色の部分)が閃緑岩のなかまで、目玉模様の白い部分は別の種類のマグマが冷えて固まってできたものです。「的様」は“的”の周囲の閃緑岩のなかまをつくったマグマと“的”の白い部分を作ったマグマが完全に混じらずにできた模様です。マーブルケーキのマーブル模様のようなものです。

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室久保川の河床の「的様」。

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 「的様」の周辺の閃緑岩のなかま。

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室久保川下流の結晶片岩。

「的様」の下流、「道志の湯」の近くでは、変成岩の一種である結晶片岩が見られます。丹沢山地に見られる結晶片岩は、凝灰岩や安山岩・玄武岩等の火山岩が高い圧力によって押しつぶされてできたものです。高い圧力により、もともとの岩石を構成していた鉱物は別の鉱物につくり変えられています。 (地質担当学芸員 河尻)

 

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民俗の窓(平成26年度)

Posted on 2015年5月5日 by admin Posted in 博物館の窓, 平成26年度

相模原の民俗を訪ねて(№80)~各地のどんど焼き(2)~

 前号の№79に引き続き、今年(2015年)の12日(祝)と14日(水)のどんど焼きの様子を写真を中心に紹介します。

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【写真1】12日・水郷田名。河原での準備

 写真1は中央区田名の水郷田名(久所)地区です。田名は前日の11日(日)が多かったようですが、ここでは12日に相模川河原の高田橋の下側にたくさんの正月飾りなど多くの燃やすものを積んで大きなものが作られました。

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【写真2】葉山島・下河原。津久井地域では、竿を高くして上にだるまを付けるのをよく見かける

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【写真3】葉山島・中平。高い竿が青空に映える

 写真2と3は12日の緑区葉山島で、2が下河原、3が中平です。いずれも相模川沿いの水田の一角にかなり高いものが見られました。下河原では18日(日)にどんど焼きを行うとのことでした。

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【写真4】鵜野森。数年ぶりに訪れたところ、場所が変更されていた

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【写真5】横側に団子を焼く所を作ってあり、ここで多くの人が焼いていた

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【写真6】道祖神碑の前で点火するに当たり、お供えされた花などがあった

写真4~6も12日の南区鵜野森地区の日枝神社です。この地区は以前は地区内のこども広場で成人の日に実施していましたが、今年は地区の氏神の日枝神社境内に場所が変更されていました。町田駅にもほど近く、周囲に住宅もあるため網で囲った中で燃やすようにして、別に団子を焼く場所が作られていました(この設備は以前もありました)。また、地域の道祖神碑には花や米・塩が供えられており、これまでと同様に道祖神碑の前でどんど焼きの種火を付けたと思われます。

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【写真7】14日・大沼神社。ふれあい広場と同様に道祖神碑が取り外しできるようになっている

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【写真8】燃やすものの前に道祖神碑を飾る

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【写真9】点火する前には道祖神碑にも酒を掛けて清める

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【写真10】周囲から点火していく

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【写真11】点火する前には道祖神碑を少し火から遠ざける。後ろ側で盛んに燃えているのが分かる

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【写真12】今年は団子焼き用に小さな燃やすものも作られていた

 写真7~12はいずれも14日の南区大沼神社です。№79でも記したように、大沼地区ではふれあい広場と大沼神社でどんど焼きが行われており、大沼神社では平日に関係なく、14日実施に固定されています。ちなみに現在でも14日に行うのは神社の行事として位置付けられていることが多いようです。大沼では昔から地区の上と下地区に二か所で団子焼きが行われ、以前は子どもたちが各家から麦藁を集めて道祖神碑(セーノカミ。現在のものは第二次世界大戦後に作られたもので、古くは七沢石製のものがあったそうです)が入るくらいの小屋を作り、前側は悪いものが入らないように棘があるバラの木の枝を飾ったそうです。そして、今はどんど焼きは無病息災のための行事とされていますが、養蚕が非常に盛んだったこの土地では白い羽二重のような良い繭ができるように行ったのだ、というお話しも伺いました。

 博物館で多くの市民の皆様のご協力を得ながら毎年進めてきたどんど焼き調査も、今年で12年目を迎えました。それでもまだ情報がない地区のほか、新たな発見があったり大きく変化した所もあります。今後とも調査を継続して各地の事例を「民俗の窓」にしていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№79)~各地のどんど焼き(1)~

 前号の№78に引き続き、今年(2015年)の市内各地のどんど焼きの様子を写真を中心に紹介します。写真の枚数が多くなるため、10日(土)と11日(日・№78で記した田名新宿地区は除きます)を(1)に、12日(祝)と14日(水)を(2)に記すことにします。

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(写真1)10日・大沼ふれあい広場。かなり大きなものを広場に作る

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(写真2)道祖神碑は取り外せるようになっている

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(写真3)燃やすものの前に道祖神碑を置く

 写真1~3は南区大沼のふれあい広場です。大沼地区は、(2)でも見るようにこの場所のほかに大沼神社でもどんど焼きが行われており、ふれあい広場は成人の日が多かったようですが今年は10日の午前に準備し、11日(日)の午後に点火されました。大沼では両地区とも道祖神碑を燃やす所の前に移動しています。

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(写真4)古淵・正月飾りで道祖神の小屋を作る

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(写真5)10日午後2時に点火したが、まず小屋の方から火をつける

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(写真6)燃やすものは二つ作られ、小屋の後に枯れ枝等を積んだものも燃やす

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(写真7)火が収まってきたら適宜団子を焼く

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(写真8)トッカエ団子。かつては各地で行われていたが、現在も見られる地区は少ない

 写真4~8は南区古淵で、昨年から14日夕方に固定されていたものが、第二土曜か日曜というように日取りが大きく変わった地区です。今年は10日の午前9時30分から準備が始まり、正月飾りで飾る道祖神の小屋と、木材と枯れ枝などを積み上げたものの二つが作られます。昔は古淵では上と下の二か所でどんど焼きが行われていたことや、この火を家に持って帰って神棚のろうそくに点したり、書初めも燃やしたことを伺いました。また、各自が焼いた団子を取り替えるトッケエ団子は今も行われており、三つ又の枝の先に取り付けた三個の団子のうち二個を取り替え、一個は自家用に持ち帰るとのことです。

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(写真9)南区当麻・原当麻。道祖神碑の前側に作る

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(写真10)当麻地区中・下宿。ここでは小屋を燃やさないで一年間そのまま置いておく

 写真9は南区当麻の原当麻、写真10は同じく当麻の中・下宿で、いずれも藁などで小屋状のものを作る地区です。今年も10日には作られており、中・下宿ではそのまま置き、原当麻ではどんど焼きで燃やしてしまいます。

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(写真11)11日・田名滝。11日午前8時30分準備、午後1時点火

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(写真12)田名・陽原。自治会等の主催以外に、昔からの講中などで行っている地区もある

 写真11・12は11日のもので、いずれも中央区田名地区です。この行事はかつては成人の日前日の14日に実施されることが多かったものの、ハッピーマンディー法が施行されて祝日が第二月曜日になってからは、地区によって日が異なる状況も見られました。しかし、最近は成人の日前日の第二日曜日が多くなっており、今年も各地で行われました。写真11は滝地区で相模川の河原で行われていました。写真12は陽原(みなばら)地区で、この道路向かいにある道祖神碑の近くにある家で行っています。陽原では三か所で実施するとのことで、すでに午後三時過ぎでもあり、団子を焼く人が帰った後ということもありますが、それでもそれほど多くの人々ではなく、今でも昔からの地域単位でこじんまりと行っている地区の一つです(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№78)~道祖神のお社を作る~(中央区田名新宿地区・平成27年1月)

 博物館では、平成16年から市民の皆様にご協力を得ながら毎年、どんど焼き(団子焼き・サイトバライ)の調査を続けており、その成果はこの「民俗の窓」でもたびたび紹介しています。今回は、中央区田名新宿地区で、道祖神の石碑に被せる小屋状のものを作って燃やす事例について紹介します。

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上組のお社の枠組み

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次第にできあがる上組のお社

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完成したお社は上組みの道祖神碑に飾る

 田名新宿集落は田名地区の中でも東寄りに位置し、上溝地区に近いところです。田名新宿では、今年は1月11日(日)にどんど焼きが行われました。この地区の古くからの家々は集落の中を通る旧道に沿ってあり、北側の上組と南側の下組に分かれています。そして、上組・下組ともにお社(オヤシロ)と呼ばれる、道祖神碑に被せるものを作っています。今から15~16年ほど前までは、各家から納められる正月飾りでお社を作っていましたが、現在では正月飾りが少なくなったため、設計図に基づいて枠組みを木材で作り、回りを正月飾りで飾るようになりました。これに対して、上組の道祖神碑は交差点の角に他の地蔵などの石仏とともにあり、動かすことができないのでお社を道祖神の横から入れ、下組の道祖神碑は移動ができるため、上から被せるように作るそうです。

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下組ではまず道祖神碑を移動する

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道祖神碑が中に置かれているのが見える

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お社のお飾りで飾っていく

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できあがった下組のお社

 当日は、上組では午前9時から個人宅の車庫で作り始め、約一時間ほどで完成して道祖神碑にお社を被せました。下組では、田名新宿の神社である稲荷社に納められていたお飾りを自治会館(観音堂も兼ねています)の敷地に運んで選別したりして、10時頃から製作が始まりました。まず敷地内にある道祖神碑をお社を作る場所に移し、屋根を杉葉で葺いて棟などの部分は大根巻きと呼ぶ太いしめ縄で囲い、回りもお飾りで飾っていきます。下組の方もやはり一時間弱でできました。この後は、午後1時からの点火までしばらく置いておきます。そして、点火前には上組のお社を自治会館に運んで上下のお社を並べ、下組のお社から道祖神碑を取り出して元の場所に戻して点火となります。その後は適宜、団子を焼きに来る人が訪れ、いろいろと話をしながら団子を焼いてその場で食べたり、家に持ち帰る姿が見られました。なお、やはり15年ほど前まではお社を上組と下組が別々に作るだけでなく、燃やすのもそれぞれの場所で行っていたとのことです。

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燃やす前には上組のお社を持ってくる。向って左側が上組のもの

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点火前には下組の道祖神碑を取り出して元の場所に戻す

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点火されたお社

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その後は適宜、団子焼きが行われる

 市内ではどんど焼きは各地で盛んに行われており、その中には道祖神の小屋を作ったり、燃やす場所に道祖神碑を運ぶなど、道祖神と係わる古くからの要素を残していると考えられる地区もあって、そうした状況も「民俗の窓」で紹介してきました。今回の田名新宿地区のような、どんど焼きの当日(あるいは数日前)に、道祖神碑の小屋状のものを作る事例は南区当麻の原当麻や田名清水地区に見られ、特に田名清水は田名新宿と同様に、どんど焼き当日に道祖神碑の上に作って数時間後に燃やしています。また、道祖神碑等を移動させるのも南区大沼(二か所)や南区上鶴間・金山神社をはじめ、町田市の境川・八坂神社や金森・杉山神社などでも行われていることを紹介してきました。今後も市内外の注目される地区のどんど焼きについて紹介していきたいと思いますが、実はここで取り上げた田名新宿のお社を作る事例は、冒頭に記したようにすでに10年以上もこの行事に注目している中で、民俗講座に参加されている方から情報が寄せられて初めて分かったものであり、まだまだ知らないことも多いことを改めて実感しました。今後も何か情報があれば、是非お知らせいただければ幸いです(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№77)~お地蔵様の念仏~(南区下溝古山地区・平成26年12月)

 前回の「民俗の窓」では、緑区久保沢の観音堂に祀られている石造の百体観音について記しましたが、今回は南区下溝・古山地区の石造地蔵塔とその念仏(和讃)について紹介します。なお、当日は民俗資料の整理作業に当たっている「福の会」の会員が10名ほど見学させていただきました。

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地蔵が祀られている祠

 古山地区は下溝のもっとも北側にある集落で、「民俗の窓」No.37では平成24年7月の天王祭について触れています。古山集落の南側にある古山坂(下坂)の登り口の所にある小さな祠の中に祀られているのが地蔵塔で、現在では大正頃のものが前側にあり、それ以前の古い地蔵と思われるものが裏側に置かれています。この地蔵は子育地蔵と言われ、4月と12月の4日が地蔵様の日で、かつては近所の人が自家製の煮物や菓子などを持って集まり、祠の前にムシロを敷いて念仏をしていました。その後は地区の公会堂に場所を移し、現在でもこの両日に古山の高齢者の女性によって念仏が行われています。

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当日、午前中に総代が掃除や幟立てなどの準備を行う

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準備が整った地蔵の祠

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念仏に訪れた方はまず掛軸を拝む

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念仏を唱えている様子

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「お茶念仏」の前には新しいお茶を入れる

 今年(2014年)の12月4日には、まず午前9時頃に古山の3名の氏子総代の男性の方々が地蔵に集まり、祠とその周辺の掃除をするほか、幟を立てて花などをお供えしました。地蔵の念仏は女性によって実施されるものの、行事自体は集落全体のものとして鎮守である十二天神社の総代の主催となっており、総代は当日の準備等を担当します。念仏は午後1時から公会堂で約20名ほどの皆様によって行われ、「下村地蔵様念仏」と記された帳面に基づき、30分ほどで終了しました。途中、「お茶念仏」と言われる念仏の前には茶を入れ替えるとのことで、参加者全員に新しいお茶を出すことなどもありました。

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「請雨」の文字が記された御札

 ところでこの地域の民俗について大変に詳しく、博物館の建設に際しても本当にお世話になった座間惣吉さん(博物館の常設展示室内にある物置は、座間惣吉さんの家にあったものです)が書かれた『古山こぼれ話』(1978年3月刊)によると、この地蔵は子育て地蔵として子どもができない者が信仰すると子どもが授かり、よく育つと言われる一方で、「雨降り地蔵」で夏場に干ばつが続くと雨乞いに地蔵を下側を流れる道保川に入れ、水をかけて降雨を願いました。その後、雨が降ると「おしめり正月」で地蔵を元の位置に納めお神酒と菓子を供えてお礼をして、大人は仕事を休み、子どもには菓子のおすそ分けをしたとのことで、このような雨乞いは第二次世界大戦後にも何回か行われたようです。現在では、この地蔵が雨乞いにもご利益があったとの話はほとんどなくなっているようですが、当日の参加者に配られる御札には「請雨地蔵菩薩」と記されており、まさに雨降り地蔵であった頃のなごりを留めています。周辺では雨乞いに地蔵を水に投じた例として、同じ下溝地区の大正坂下にある日之下地蔵があり、地蔵に限らず石が用いられたものとして田名地区のジンジ石・バンバ石なども有名です。こうした点からは、地域の中で地蔵やそのほかの石などが、その時期の人々のさまざまな願いに応えながら祀られていたことがわかります。

 いずれにしても、こうした行事が行われることは市内でもかなり少なくなっており、以前は各集落で行われていた念仏講もめっきり少なくなっています。実は古山集落の下古山で各家を順番に回して実施されていた念仏講は平成14年(2002)3月の彼岸念仏で終了し、念仏講で使われていた掛軸などは博物館に御寄贈いただいています。今回紹介したこの念仏も二〇名ほどの方がお集まりになりましたが、それでも参加される方が次第に少なくなっているとのことです。地元で大切に祀られてきた地蔵様の念仏が長く継続されることをお祈りするとともに、これからも各地のこのような行事について「民俗の窓」で取り上げることができたらと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№76)~久保沢観音堂の百体観音~(緑区久保沢地区・平成26年10月)

「民俗の窓」では今年の津久井観音霊場の本開帳のうち、緑区根小屋中野の第三番・清水山中野堂の開帳の状況をNo68~70で報告してきましたが、今回紹介するのは、津久井観音霊場第五番の久保沢観音堂です。久保沢観音堂は集落を見下ろす小高い場所にあり、代々、久保沢の集落によって管理され、平成16年(2004)からは大正寺観音堂保存会が発足して地域の皆様によって大事に保存されてきました。観音堂の本尊は聖観世音で、すでに文政10年(1827)には観音堂が地元の資料に記録され、また、天保13年(1842)の資料には、聖観音が行基菩薩の作と言い伝えられる旨の記述があり、古い歴史を有していることが分かります。そして、堂内には百体に及ぶ石造の観音像が祀られていることでも知られています。

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久保沢観音堂。幕がご開帳を引き立てる

観音に対する信仰としては、西国三十三観音霊場・坂東三十三観音霊場・秩父三十四観音霊場などの三十三か所(秩父は三十四か所)の札所を巡るものが有名で、それらを合計すると百か所となります。この百体の観音像は、明治11年(1878)に堂を管理していた桂昌寺(明治年間に焼失し、林泉寺と合併して現在は大正寺の管理)の渓山和尚が百体の観音像を祀ることを計画し、近在の者から寄付を募って実に16年もの歳月をかけて明治27年に完成したものです。百体の観音像には、それぞれ例えば「坂東一番」や「秩父九番」などというように札所番号や施主の名前が記され、造立の目的は亡くなった近親者の供養のためが多いものの、なかには養蚕がよくできるように願ったものもあるようです。また、百体観音で注目されるのは、観音像を彫った石工名が彫られていることで、作者の北原七兵衛祥重は長野県の高遠から七沢(厚木市)に来た代表的な石工で、市内をはじめ近在にすぐれた作例を残しています。

久保沢観音堂では、六十年に一度、甲午(きのえうま)歳の大開帳があり、さらに津久井観音霊場の12年に一度の午歳ごとの本開帳(今年が大開帳及び本開帳の年に当たっていました)、午歳の中間にある六年目の子(ね)歳の半開帳のほか、毎年10月の9の付く日をハツクンチ(9日)、ナカクンチ(19日)、シマイクンチ(29日)を縁日にしており、縁日には堂が開扉されて百体観音を拝観することができます。今年のシマイクンチの10月29日には、本欄でも紹介している津久井郷土資料室保管の資料整理を行っている市民の会の「水曜会」の会員と観音堂を訪れ、百体観音を拝見するとともに保存会の方からさまざまなお話しを伺うことができました。

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水曜会でお参りをさせていただいた

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観音堂本尊の聖観音と百体観音

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堂内正面にはびっしりと観音像が並ぶ

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水曜会のフィールドワークとしては、当日は観音堂のほかにもいろいろな所に行き、津久井湖の北側も歩いた。奥に小さく見えるのが三井大橋

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緑区三井には、高さが2m60㎝以上にも及ぶ非常に大きな徳本仏供養塔(文政2年[1819]造立・市登録有形民俗文化財)があり、これらも見学した

市内でも、「坂東・西国・秩父 百番観世音」などと記された観音塔の石仏が残されており、例えば『相模原市史民俗編』によると相模原地区には10基が確認されています。その中で実際に百体の観音の石塔を設置したものとしては、久保沢観音堂のほかに同じく緑区上九沢の梅宗寺の観音堂があります。こちらの造立年代は天明5年(1785)以降で久保沢のものより百年ほど古く、さらに石工として信州高遠の高島清七・北原藤右ヱ門・藤木團蔵の名が記され、久保沢と同様に高遠石工の北原姓が見えています(服部比呂美・山口千恵子「梅宗寺百観音石塔調査報告」『相模原市史ノート』第6号)。

いずれにしても、このような百体の観音石造が一挙に祀られていることはかなり珍しく、市内ではこの二か所しか確認されておりません。その意味でも久保沢や梅宗寺の観音堂は相模原が誇る重要な文化財であり、地域の皆様が大事に護ってきた郷土の遺産ということができます。さまざまお顔やお姿をされた観音像は、今後ともこの地域を長く見守ってくださると思います(民俗担当 加藤隆志)。

 相模原の民俗を訪ねて(№75)~ここにもあった山車人形・緑区相原当麻田地区(平成26年8月)~

緑区相原地区の鎮守は相原八幡宮で、毎年、8月末の土日曜に祭りが行われます。『相模原市史民俗編』に拠ると、相原地区では、江戸時代には八幡社と天王社を祀っていて祭礼も両方あり、関東大震災後には二つの祭りを一緒にして9月1~3日、その後に8月25日に行うようになって、さらに現在のように8月末の日曜日と移り変わりました。今年(2014年)は8月23・24日に実施されました。

ところで「民俗の窓」では、市域各地の山車に飾る人形について紹介してきましたが、相原の当麻田地区にも人形が残っていることを、博物館の民俗調査会にも参加されている橋本勝邦さんから教えていただきました。今回は、祭りの当日に金太郎人形を拝見するとともに、地区の方から人形や山車(「屋台」と呼ばれています)・神輿などについてお話しを伺いました。

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金太郎人形(全体)

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金太郎人形(顔部分)

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人形を収納している箱の墨書。明治27年8月と記されている(橋本勝邦さん提供)

この金太郎人形は、台座を含めて二、四メートルの大きさで全身が赤く、小熊を右手で差し上げており、祭りの際に当麻田自治会館内に飾られます。普段、分解してしまってある箱に、明治27年(1894)に30円で八王子から購入したことが記されていて、屋台と一緒に買ったものではないかとのことです。ちなみに相原のもう一つの古い集落である森下の屋台も同じ時期に八王子から購入したようで、現在は無くなっているもののかつては人形(鐘馗[しょうき]?)もあったそうです。当麻田の金太郎人形は、以前取り上げた田名・清水集落と同様に一本柱に人形を付けて、その柱を前方から持ち上げて立てるものですが、当麻田ではほとんど人形を立てて屋台を巡行したことは無く、第二次世界大戦後には人形を乗せる台を作って曳いたことが二、三回ありました。ただ、15年ほど前に神社に持っていき、夜に照明を当てて飾った時はかなりきれいだったとのことです。なお、森下の屋台は、屋根の後部に手すり状の柵で囲った台があり、ここに人形を飾る形式です。

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向って左が当麻田、右が森下の屋台。

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森下の屋台

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当麻田の屋台。雨の予報により、シートが被されている

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当麻田の子ども神輿と屋台の氏子回り

また、屋台で奏でられる祭り囃子にも興味深い伝承があります。当麻田の囃子は、最初は屋台を八王子から買ったので囃子も八王子から伝えられたと考えられますが、そのうち隣りの森下と同じではつまらないということで、足柄上郡の山北町の方から地元の酒屋に来ていた酒造りの杜氏から「オオバ囃子」を改めて習ったとするもので、「目黒流」などと称される森下をはじめ、町田市相原町の大戸囃子や同市小山町の三ツ目囃子など周辺の集落で行われている著名な囃子とはかなり違って威勢が良く、例えば茅ヶ崎の浜降祭の時に聞く囃子と太鼓の叩き方が同じだなどと言われます。市内では各地で祭り囃子が盛んであり、その始まりや伝来についても『相模原市史民俗編』にさまざまな伝承が記されている中で、こうした経緯を持つ囃子は他にはあまりなく注目されます。

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相原地区の大人が担ぐ神輿

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大人神輿の渡御(2008年8月23日。橋本勝邦さん提供)

大人が担ぐ大きな神輿は、昔から森下と当麻田に別々にはなく八幡宮の宮神輿が一つで、第二次世界大戦の頃に神輿を担いではいけないとされた時期もあり、それでも当麻田と森下の若い衆が対抗して早い物勝ちで夜中に神輿を運んできて、自分たちの集落の中を神輿を担いだこともあったそうです。子ども神輿は古くから当麻田と森下それぞれにあり、当麻田では三角地のようになっている所に笹を4本立て、ここをお仮所として子ども神輿を置いていました。

今年の祭りでは、23日の昼に、森下と当麻田から子ども神輿と屋台が相原八幡宮に集まり、式典の後、午後1時から子ども神輿と屋台がそれぞれの集落の氏子回りを行いました。夜は民謡流しやよさこい踊りなども含んだ歩行者天国パレードで、24日は朝から神社神輿の渡御があり、夜は奉納演芸大会となります。これからも市民の皆様からさまざまな情報を寄せていただき、市内各地の祭礼の状況について「民俗の窓」で取り上げられたらと思いますのでよろしくお願い申し上げます(民俗担当 加藤隆志)。

※今回の記事に際しては、橋本勝邦さんの屋台等に関する調査成果を一部使わせていただきました。

相模原の民俗を訪ねて(№74)~大島・古清水集落の神輿と山車人形(平成26年7月)~

今年の夏も天王祭(オテンノウサマ)の時期がやってきました。天王祭では、神輿を担ぎ、お囃子を載せた山車(市内では屋台と呼ばれることも多い)を曳くことが特徴で、この欄でもいくつかの地区の天王祭を取り上げてきましたが、今回は、緑区大島・古清水集落の天王祭について紹介します。

古清水は大島地区の中ではもっとも南側に位置し、田名に接した地区です。大島には諏訪明神と日々神社という大きな神社が二社ありますが、古清水は諏訪明神の氏子であるとともに地区内に八坂神社を祀っており、以前は7月20日、現在はその近くの土曜日に祭礼を行い、今年(2014年)は7月19日(土)に実施されました。実際の祭礼は、午前9時頃に自治会の皆様が自治会館(敷地内に八坂神社もある)に集合し、それぞれ準備が進められました。そして、自治会館内に大人・子ども神輿を運んで飾り付けが行われ、午後12時からの神官による神事の後、古清水では数十年ぶりとなる諏訪明神の獅子舞が奉納され、子どもたちを中心とした獅子舞が見られました。そして、午後1時30分頃から、昭和61年(1986)に製作された子ども神輿の巡行が始まりました。

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八坂神社。普段は二基の神輿が神社に納められているが、祭り当日には運び出されていない

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大人神輿

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大人神輿を運び出す。子ども神輿は先に運ばれている

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神輿は自治会館内に運ばれて飾り付けが行われる

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神輿の棟札。右側が文政九年、左側が明治一五年のもの

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棟札の裏側。年号や祭祀者名など、興味深い記載がある

古清水の天王祭で注目されるのは、神輿に関する言い伝えと古い神輿が残っていることです。古清水では、昔、神輿をお諏訪様(上大島の諏訪明神)に持って行きましたが、その後、お諏訪様から「相模川に神輿を流すので古清水で受け取ってくれ」ということで、相模川で拾って八坂神社に納めたと言われており、『相模原市史民俗編』によると、「(古清水では)大人の神輿はかつては川に入ったりしたが、戦時中に担がなくなって火災が発生した。「神様が祟ったんだべ」と言われ、再び神輿が川へ入るようになったが、今は担ぎ手がなく飾るだけである。」との記載があり、市内の他の地区と同様に、テンノウサマの神輿が川から流れてきたとか、水と関係するといった伝承があったことが分かります。

また、現在、大人神輿と子ども神輿が納められている八坂神社のお堂には、特に八坂神社の御霊のようなものは見当たらず、昔から神輿自体にお初穂を供えるなど、神輿そのものがご神体と考えられていたようです。やはり『相模原市史民俗編』では、上溝や田名でお天王様といえば神社を指すのではなく、祭りそのものやあるいは祭礼で担ぐ神輿のことを指し、神社がなくても祭りは行われ、この場合は神輿がお天王様となるとされており、古清水の場合もこの事例に当たります。さらに、大人神輿には文政九年(1826)六月の銘がある棟札が納められており、神輿自体を天王様(棟札には八坂神社の旧名である「奉建立 牛頭天王(ごずてんのう)宮 鎮座」と記されている)としていたことや、神輿に御霊を入れる祭祀を行った者が、津久井・長竹村の修験者の泉乗院であったことなどが記されています。神輿には明治十五年(1882)八月の棟札も入っており、このような神輿に関する資料が残されていることは大変貴重であり、今後、他の地域での調査が期待されるところです。

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現在も残されている大和武尊の山車人形

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神社の中には奉納額もあり、これは藍瓶が描かれており、紺屋が奉納したもの

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子どもたちによる大島の獅子舞が奉納された

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子ども神輿の巡行。古清水内を回っていく。大人神輿は担がない

古清水にはかつては山車があり、この山車は明治二十八年(1895)に、宮大工の地として著名な愛川町半原の矢内右兵衛が建造したもので、残念ながら古い時期に壊れてしまったようで現在は残っていません。ただ、山車に飾った日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の山車人形がかなり傷みは多いものの残されています。山車人形は、「相模原の民俗を訪ねて(56)」でも紹介したように、古清水と接する田名・清水地区にもあり、相原・当麻田でも残されていることが分かってきました。こうした山車やその上に飾った人形等についても引き続き調査が必要です。

いずれにしても、市内各地で盛んに行なわれている夏の天王祭はまだまだ奥が深そうです。これからも関心を持ちつつ、この欄で紹介していけたらと思います。なお、今回の調査に際しては、古清水自治会の多くの皆様に大変お世話になりました(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№73)~中央区星が丘地区の夏祭り (平成26年7月)~

中央区星が丘は、旧陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)の従業員用に建てられた県営住宅が発端となった地区で、第二次世界大戦以後に開発が進んだ場所が多い市内の中では、比較的早い時期に開発された所の一つです。

星が丘地区には神社はありませんが、毎年7月には星が丘1~4丁目全体の祭りが行われています。この祭りには神輿や山車も出て、大人神輿の担ぎ手は各町内から20名ずつを目安に募っており、子ども神輿や山車は各自治会で持っています。また、祭りの実行委員長(1名)・副委員長(3名)は各自治会長が務め、別に組織されている夏祭り保存会も、各町会から男性2名・女性1名が出て祭り全般のことを担当し、次年度以降に祭りのやり方を引き継ぐ仕組みとなっています。地区の有志が会員となっている星友睦という神輿保存会もあり、各自治会から募集された方々と一緒に神輿を担ぐとともに、神輿の飾り付けや出し入れなど、神輿に関するさまざまな仕事に当たります。

実はこの星が丘の祭りは、隣接する上溝地区の祭り(天王祭)と深い係わりを持っています。地元で作成している資料に拠ると、上溝の丸崎集落では、明治九年(1876)九月に、宮大工の里として著名な半原(愛川町)の宮大工藤原高光によって造られた神輿を担いでいましたが新調することになり、昭和22年(1947)にこの神輿を星が丘自治会連合会が譲り受けました。それで星が丘でも上溝のお天王様に参加し、後には交通事情の関係もあって星が丘だけで祭りを行うようになりました。そして、平成2年(1990)には、この神輿の老朽化によって新しい神輿を製作して(現在担いでいるものは平成19年に大修理)、古い神輿は博物館に寄贈されました。星が丘でも、今はあまり馴染みがないものの昔は祭りや神輿自体のことをお天王様と言っていたとのお話しをうかがうことができました。

今年(2014年)の星が丘の祭礼は、7月26日(土・宵宮)と27日(日・本宮)の2日間に渡って行われました。前記のような由来があるため、上溝祭りと同じ日に実施することになっています。土曜日は、午前11時30分に、上溝の亀が池八幡宮の神職が祭り全体のお神酒所が作られた星が丘小学校に来て、御魂入れ等の式典が行われました。その際には、大人が担ぐ神輿とともに、星が丘1丁目から4丁目までの各自治会の子ども神輿と山車や太鼓が揃い、式典に参加します。終了後、子ども神輿や山車はそれぞれの自治会に帰って午後から町内の巡行となり、大人神輿の方は、午後6時から星が丘小学校前の通りを中心に提灯に火を点して渡御します。

7月26日(土)

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全体のお神酒所。八坂神社の掛軸の左側に大人神輿が飾られている

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星友睦が神輿の飾り付けを行う

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式典の終了後、子ども神輿や山車は自分たちの町内に戻る

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午後からは子ども神輿が町内を回る(4丁目)

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囃子の乗った山車も神輿とともに巡行する。囃子は昭和57年(1982)に丸崎から習ったという(4丁目)

翌日の日曜日は、やはり子ども神輿が町内を回っている中、大人神輿が午前10時から1丁目から4丁目の順に担いでいきますが、例えば1丁目では1丁目の者が前面に出るというように、各町内ごとの担ぎ手が主に神輿を担くようになっているそうです。そして、当日は最後にものすごい雷雨に見舞われましたが、午後4時には出発した星が丘小学校に子ども神輿を含むすべての神輿と山車・太鼓が集まり、やはり神職による御魂抜きの式典が行われ、無事に今年の祭りは終了しました。

7月27日(日)

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小学校を出発する大人神輿

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住宅地の中を担がれる大人神輿

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突然の雷雨にも負けず最後まで担ぐ

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子ども神輿はこの日も担ぐ。神輿の前には花を集める子どもたちが付く(1丁目)

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1丁目の子ども神輿には太鼓が随行する。太鼓には「昭和36年7月吉日」とある(1丁目)

星が丘の夏祭りは、開始からすでに今年で66年を経ており、当初は上溝の影響も強かったと考えられるものの今ではすっかり地元の祭りとして定着しています。星が丘地区では8月の盆踊りも今年で65回目となり、さらに星が丘公民館区の14の自治会が参加する運動会も行われるなど、さまざまな催しが実施されています。他の土地から移り住んで来た住民が圧倒的に多いこの相模原にとって、自ら生活する地域に親しみ、より良いまちづくりのために、こうした祭りなどが果たしてきた役割は大きいものがあると言えます。今後とも、星が丘の夏祭りがますます盛んに行われることを願ってやみません。なお、今回の調査に際しても、星が丘地区の多くの皆様に大変お世話になりました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(№72)~上溝のオテンノウサマ(天王様)・久保の神輿と山車 (平成26年7月)~

中央区上溝の夏祭りは相模原市を代表する祭りの一つで、神奈川県北部最大の祭りとして「かながわのまつり50選」にも選ばれています。かつてはオテンノウサマ(天王祭)として7月27日(宵宮)と28日(本宮)、現在はその近くの第四土日曜日に行われています(上溝の天王祭は、「民俗の窓」No.17~19でも紹介しています)。

祭りでは、各町内の神輿(大人・子ども神輿)や山車が自らの町内を巡行する一方、本宮の日曜日には山車とともに、各町内での氏子回りを終えたすべての神輿が上溝商店街の通りに一堂に会し、勇壮に渡御することが祭りの呼び物となっています。今年(2014年)の祭りには、大人神輿13基、子ども神輿8基、山車8基が集まり、大変な盛り上がりを見せました。

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お仮屋に置かれた久保の神輿

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氏子回りをする久保の山車(26日)

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27日夕方に上溝商店街の通りに来た久保の神輿

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他の地区からも続々と神輿が集まる。一番手前が久保の神輿

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神輿とともに山車も集まってくる。久保とともに四ツ谷の山車が隣りに見える

ところで上溝の神輿は、江戸時代後期から末期に製作されたものが五基(五部会・田尻・四ツ谷[石橋から移籍・現在博物館で保管]・石橋・本町)ほど確認され、この頃にはすでに天王祭が行われ、明治期にかけて盛大になったと考えられています。このほか、丸崎や虹吹の神輿も第二次世界大戦以前に造られています。それに対して、同じく上溝の古い集落である久保と番田諏訪面では戦前は神輿がなく、かつてはこの祭りに参加していませんでした。その理由は、どちらも集落で祀っている久保・浅間神社や番田諏訪面・諏訪神社とお天王様の仲が悪いとされていたためです。ちなみにお天王様と諏訪神社の仲が悪いとの話は他にもあり、南区下溝では上庭集落のお諏訪様とは特に仲が悪く、担ぐと怪我人が出るので下溝の鎮守である八幡神社の前に埋めてしまった(『相模原市史民俗編』)、緑区鳥屋では天王様が氏神のお諏訪様と仲が悪く、悪病が流行ったので天王様のご神体を串川に流してしまった。それを拾い上げて祀ったのが青山の天王様としています(『串川・中津川流域の民俗』)。

こうした伝承がある久保や番田諏訪面ですが、現在は両地区とも大人神輿と山車を有しています(番田諏訪面は子ども神輿もあり)。久保では、昭和22年(1947)終戦後いち早く青年層の発意で、天王祭を町内に復活しようと呼びかけて町内全般の賛意を得て神輿を造りました(『上溝の夏祭り』 上溝夏祭り実行(常任)委員会 1989。番田諏訪面の神輿は昭和55年製作)。この神輿は浅草の宮本卯之助商店から購入したもので、購入に際して寄付をいただいた方の名前を記した板が現在も見られます。また、東京が大きな空襲に遭った中でこの神輿は戦災を免れた三基のうちの一基で、真ん中の大きさの神輿が久保、もう一基が丸崎に来ており(一番大きなものはどこに行ったか不明)、久保と丸崎の神輿は兄弟分と言われているそうです。戦後まもなくの昭和22年当時であり、購入には金とともに米や麦など食糧を持っていかないと売ってくれなかった、との話も伝えられています。なお、山車も神輿と一緒に造られ、山車で奏でる囃子は丸崎に習いに行きました。この山車は、その後、南区当麻の原当麻集落に移され、現在の久保の山車は昭和52年(1977)に新たに造られました。この際の寄付者を記した板も残っています。

このように盛大に行われている上溝夏祭りも、長い時間の経過の中でさまざまな展開を遂げつつ実施されてきたことが分かりますが、将来に渡って、地域の人々の熱い想いの下で祭りが繰り広げられていくことに変わりはありません。今後とも見続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 相模原の民俗を訪ねて(№71)~甲州道中と八王子城跡(平成26年5月)~

博物館の民俗分野では、民俗調査会をはじめ、さまざまな機会を捉えて相模原を中心に周辺地区を含めた地域のフィールドワークを行っていることは「博物館の窓」でも触れていますが、今回は5月28日(水)に行った水曜会のフィールドワークについて記したいと思います

水曜会は、津久井郷土資料室に保管されてきた膨大な資料を整理することを目的に始まった会で、この三年半の間の活動で約一万点以上の資料の目録を作成しています。また、資料整理の成果を示す展示を毎年一回実施して、実にさまざまな資料を多くの皆様に見ていく機会も設けてきました。そして、それぞれの資料に対する理解を深めるとともに、今後の活動に対する意欲を一層高めることを主な目的として、年に春秋の二回ほど関連する地域のフィールドワークを行っています。

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旧道から景信山への上り口付近で、この先をもう少し行くと小仏峠に至る

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台座に「小仏宿」と記した馬頭観音塔。こうした大きな馬頭観音は津久井地域でも何か所かに残っている

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中央本線煉瓦構造物。八王子~上野原間の中央本線は明治34年(1901年)に開通し、橋梁などに煉瓦が使われている。

今年の春のフィールドワークは、八王子市浅川地区の甲州道中旧道と八王子城跡の見学を企画しました(加藤を含めて12名参加)。まず午前中は、昨年の秋に中央線の上野原駅から藤野駅方面に向って甲州道中の旧道沿いに残る上野原宿本陣や番所跡などを訪れたのにつなげる意味もあり、今回は途中にそびえる甲州道中の小仏峠越えはまたの機会として、小仏峠を越した麓から高尾駅までのコースとしました。途中では、台座に大きく「小仏宿」(甲州道中の宿場)と書かれた馬頭観音塔(弘化四年[1847]再建)や駒木野宿にある小仏関所など、甲州道中の名残りを示すものや、高尾山信仰とも係わる蛇滝茶屋跡、中央本線開設時からの煉瓦構造物など、いろいろなものを見ながら少し早足となりましたが歩きました。

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小仏関所跡。戦国時代には小仏峠にあった関所は江戸時代に現在地に移された。甲州道中の重要な関所の一つだった

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 熱心な八王子城跡のボランティアガイドの方の説明があった

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右側に見えているのは土塁。土塁一つとっても規模が大きかったことが分かる

 午後からは、小田原に本拠地を持ち、広く勢力を誇った小田原北条氏の重要な支城であった八王子城跡に向かいました。八王子城は天正18年(1590)に豊臣秀吉の関東制圧の一環として前田利家等によって攻め落とされ、それによって小田原開城の引き金となり、秀吉の天下統一がなされたことでも有名です。相模原市緑区の津久井城もこの時に、徳川家康軍によって攻められて落城したとされています。当日は、山の上にある本丸跡ではなく、八王子城跡のボランティアガイドの方のご案内の元、城主であった北条氏照(小田原北条氏四代当主・氏政の弟)の館などがあったと考えられている御主殿(ごしゅでん)跡を中心に見学しました。ガイドの方の熱心な説明は1時間30分にも及び、戦国時代を代表する城跡を堪能しました。ちなみに八王子城は国の史跡で、「日本百名城」の一つにも数えられています。

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 御主殿の滝。落城した際に多くの北条方の武将や帰女子が自刃し、滝に身を投じたと伝える

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御主殿跡。城主・氏照の館などがあったとされ、建物の礎石などが発掘されている

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氏照及び家臣墓。氏照の百回忌を機に建てられたもので、少し離れた所にある。氏照は小田原城下で切腹し、小田原駅近くに墓がある

これまでも述べてきたように、フィールドワークは実際に丹念に歩き・聞き・見ていきながら、地域を知り、考えるものです。今後とも市民とともにフィールドワークを積み重ねながらさまざまな活動を展開し、フィールドワークを通じて分かった地域の歴史や文化についても積極的に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№70)~津久井観音霊場ご開帳③~(緑区根小屋中野地区・平成26年5月)

 前々回(№68)及び前回の「民俗の窓・相模原の民俗を訪ねて(№69)」で紹介してきた津久井観音霊場のご開帳は、午歳の本開帳は三週間と決まっているとのことで、5月11日(日)から31日(土)まで無事に実施されました。

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 観音堂は中野自治会館の中にあり、観音像の前側に回向柱が建てられる

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オヒイチなどが飾られた観音堂

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参拝者が受けるお札。向かって左側が長札、右側は四角札。長札は版木が地元に伝わっていて、これを刷るのも仕事の一つとなる

 初日の11日の観音様の開扉式は午後0時から行われました。まず実行委員長をはじめ何人かの方からご挨拶があり、昨年の12月から33名の委員のもとで諸準備を進めてきたことや、オヒイチ作成や御詠歌の額の修理の経過など、さまざまな御開帳に係わる点について報告されました。そして、地元の功雲寺(津久井城主であったと伝える内藤氏の墓があることで有名です)の住職・副住職による読経の中、参列者一同に焼香が回され、8名の女性たちによる御詠歌がありました。その後、住職の挨拶、記念撮影と進んで懇親会となりました。また、最終日の31日には閉扉式があり、午後2時から11日と同様に住職による読経や女性の御詠歌も行われました。  

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 開扉式の様子。功雲寺の住職と副住職の読経の中、進められる

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 開扉式・閉扉式ともに女性たちの御詠歌がある

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閉扉の間にも参拝者が訪れる

  今年の御開帳には全体で750名ほどのご参拝があり、近場はもちろんのこと、遠くは都内や鎌倉、あるいは宮城県や静岡県からお見えになった方もあったそうです。いずれにしても地元の皆様の力を合わせて実施された平成26年の午歳の本開帳は終了し、6年後の中開帳まで観音像の扉は閉められることになりますが、今回の観音様への参拝と何より根小屋中野の皆様の暖かいもてなしは、参拝に訪れた多くの人々の心に残るものとなったことは間違いないでしょう。

 今回の中野堂の観音御開帳の準備から実施・終了までの調査に際しては、菊地原稔さんや御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長で自治会長の篠田隆夫さん、同じく副委員長の山本早苗さん、松本春美さんや自治会の副会長の方々をはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました。改めて深くお礼を申し上げます(民俗担当 加藤隆志)。   

相模原の民俗を訪ねて(№69)~津久井観音霊場ご開帳準備②~(緑区根小屋中野地区・平成26年5月)~

前回の「民俗の窓・相模原の民俗を訪ねて(№69)」で紹介した津久井観音霊場のご開帳は、女性たちによるオヒイチ作りを3月9日を含めて4日間行い、全体で600個ものオヒイチを完成させるなど準備が進められました。そして、連休中の5月3日の午前9時から全体のしつらえがなされました。

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観音堂前に回向柱を立てる

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 回向柱の下には杉の葉を飾る

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鰐口を叩くための綱を男たちが集まって編む

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できた綱を堂の前に取り付ける

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用意されたオヒイチ

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 オヒイチを傘に取り付けていく

観音堂前に回向柱を立てる 回向柱の下には杉の葉を飾る 鰐口を叩くための綱を男たちが集まって編むできた綱を堂の前に取り付ける 用意されたオヒイチ オヒイチを傘に取り付けていく  作業は野外と室内とで手分けして行われ、野外では、回向柱を立てたり柱の下に杉葉を飾る、参拝者が鰐口(わにぐち)を叩くための綱を編むなどの作業が男性によって行われます。室内では女性の手により、傘を上側に付けてそれぞれ繋げたオヒイチを観音様の両側に飾りつけ、これとは別に個人の方から奉納された千羽鶴なども飾ります。そして、男性の仕事になりますが、提灯を取り付け、観音像の手に結びつけるお手綱とそれをつなぐ五色の布などの用意も行われました。なお、五色の布を通じて観音様のお手綱が結び付けられる回向柱は、オヒイチと同様に12年に一度の本開帳の時に新しくして、その間の中開帳の際には表面を削って使うそうです。

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 傘に付けられたオヒイチ

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曲がったりしないか様子を見ながら、オヒイチを吊り下げる

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  オヒイチは一対なので、一つ吊ったら次に取り掛かる

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観音像の手から結ぶお手綱の準備

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お手綱に結びつける五色の布を伸ばす

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五色の布は回向柱に結ぶ

 この日の準備は午前中には終わらずに片付けなど、一部の作業が午後からになりました。 こうしたさまざまな準備を経て、ようやく5月11日からの開帳を迎えることになります。 当日の調査に当たっても、引き続き菊地原稔さんや、御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長の山本早苗さん、松本春美さんをはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。

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