二足の草鞋を履いた名主~開港場に見せたリーダー魂(平成25年9月)
平成22年度の歴史の窓の「市域最北の寛文総検地帳などとの出会い(平成23年3月)」で、佐野川村和田分の寛文4(1664)年検地帳ほか多数の古文書類寄贈について紹介しました。あれから2年半が経ち、今度は同村岩分で名主を代々つとめられた佐藤家から現存古文書類の寄託打診をいただきました。何はともあれ、その可否を判断するべく事前調査(実況見分)を行うため、猛暑の中にも涼感漂う緑区佐野川へ急行した次第!
居宅の保存場所から現れた古文書類は和田分・杉本家文書と同様、ちょうど20年前に当時神奈川県立文化資料館実施の資料所在調査が終了した状態(=分類後の封筒入り)で衣装箱に分納され、以後いっさい手を触れていないとのことでした。さらに当日は、古絵図などが納められた木箱が新たに発見され、追加資料として寄託候補にお考えいただくことになりました。
既往の調査により佐野川村全村の寛文検地帳をはじめ、元和7(1621)年から明治8(1875)年にわたる資料群を再確認できた訳ですが、今回はこのとき目にした資料の中から幕末の名主が起こしたある動きについてお話します。
佐野川・佐藤家は、美濃国加治田城主に出自をもち、天正年間(1573~1591)に出国し、相模国に土着したと伝えられています。本家は、屋号「中居」で代々「才兵衛」を襲名し、名主を継いでいきました。現当主で15代目にあたり、今回の内容は11代目才兵衛信直のエピソードです。すでに『神奈川県史』『横浜市史』『藤野町史』『城山町史』等でご存知の方もおられるかと思いますが、日本が鎖国から開国へと転換し、激動の時代の始まりを告げた頃の村役人のスピード感あふれる行動を追ってみたいと思います。
安政6(1859)年1月、前年の五か国条約により3つの港を開くことになるやいなや幕府は箱館・長崎とともに神奈川(横浜)への出稼・移住・自由売買を許可しますが、そのお触れを目にした名主・才兵衛は間髪をいれず外国奉行所に願い出て、出店の許可を取り付けました。才兵衛は従来、絹や紬、漆などを買受けして転売する方法で耕地面積の少ない山村の経済を改善する努力を続けてきており、さらにその輪を広げるため開港場という新天地に販路を見出し、“サトウノミクス”よろしく異国人相手の活発な経済活動を進めたのです。それでは、才兵衛は店をどこに構えたのでしょうか?安政6年1月の『神奈川開港地割元図』(三井文庫蔵)によると、運上所(関税役所のこと。現在地は神奈川県庁)の斜め向かい、外国人商館地へ続く目抜き通り「本町通」に面した五丁目の一等地(?)100坪を出願したことが判ります。
現在、横浜市開港記念会館が建つ場所です。直後に200坪増地して300坪規模の大店となったようですが上地され、武州小机村及び上州川俣村の願人が新たに拝借しています。混乱する借地事情もあったのか、南側に道1本隔てた弁天通四丁目に拠点を移したことが同年6月の『横浜町町割図』(個人蔵)から理解できます。当時とは敷地割が違うため、正確なことは言えませんが、おおよそ現在の東京電力神奈川支店周辺にあったのではないかと思われます。移転した事実上の本店舗では、絹や紬、漆などに加え鉄器物・瀬戸物・紙・酒・醤油・煙草・茶・薬・蝋・油・提燈・塗物・小間物・炭・材木など多種多彩な新規商品の直売を申請していて、その外国貿易に対応する能力ぶりが十分にうかがえます。
さて、才兵衛は村役人ゆえ貿易商に専念するわけにもいかず、「佐藤屋」の船出を見届けると“店主代理”専左衛門に後を任せ、帰村して名主の役目に戻ったようです。その5年後、世が文久から元治に変わった翌日に人生を終えることになりますが、寒村の一名主をして相模国最北の地から当時の最先端を行く神奈川港へと向かわせしめたのは、何より村を思う一途な心と時代の潮流を即断する感覚にあったのではないでしょうか。佐野川村の素早い動きに応じるかのように、上川尻村や若柳村の村民が相次いで交易・出店を願い出ます。両者にとって佐藤才兵衛信直はおそらく幕末津久井県の先進的リーダーとして頼れる存在に映ったはずです。(歴史担当:土井永好) *現当主・佐藤英雄氏への聞き取りや『博労一代』(佐藤建夫編)を参考にしました。