- 祭り・行事を訪ねて(50) 相模田名民家資料館の雛飾り(平成25年3月)
- 祭り・行事を訪ねて(49) 秦野市・白笹稲荷の初午と道祖神巡り(平成25年2月)
- 祭り・行事を訪ねて(48) 雪のどんど焼き~市内各地~(平成25年1月)
- 祭り・行事を訪ねて(47) だるま市とどんど焼き~中央区上溝地区~(平成25年1月)
- 祭り・行事を訪ねて(46) 道祖神の小屋~中央区田名地区~(平成25年1月)
- 祭り・行事を訪ねて(45) 道祖神の幟を立てる~南区新戸地区~(平成25年1月)
- 祭り・行事を訪ねて(44) 「一つ目小僧」がやってくる日~緑区根小屋の師走八日~(平成24年12月)
- 祭り・行事を訪ねて(43) 緑区根小屋のエビス講(平成24年11月)
- 祭り・行事を訪ねて(42) 今年も藤野歌舞伎を楽しませていただきました(平成24年10月)
- 祭り・行事を訪ねて(41) 人力で立てる祭りの幟~南区磯部・御嶽神社~(平成24年9月)
- 祭り・行事を訪ねて(40) 中央区上矢部・御嶽神社の湯花神事(平成24年9月)
- 祭り・行事を訪ねて(39) お盆の砂盛り~地域差のある民俗~(平成24年8月)
- 祭り・行事を訪ねて(38) 八王子祭りの山車(平成24年8月)
- 祭り・行事を訪ねて(37) 南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)
- 祭り・行事を訪ねて(36) 市内各地の天王祭(平成24年7月)
- 祭り・行事を訪ねて(35) 勇壮に舞った相模の大凧 ~南区新磯地区の「相模の大凧」~(平成24年6月)
- 祭り・行事を訪ねて(34) さまざまな養蚕信仰③ ~南区磯部・勝源寺の六本庚申~(平成24年6月)
- 祭り・行事を訪ねて(33) さまざまな養蚕信仰② ~南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目~(平成24年4月)
- 祭り・行事を訪ねて(32) さまざまな養蚕信仰① ~中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃~(平成24年4月)
- 祭り・行事を訪ねて(31) 有鹿神社の「お水もらい」(水引祭)~南区磯部・勝坂地区~(平成24年4月)
祭り・行事を訪ねて(50) 相模田名民家資料館の雛飾り(平成25年3月)
「相模田名民家資料館」は、地元の「田名財産管理委員会」が設立した地域の資料館です。この資料館は、市内でも養蚕や製糸が盛んだった田名地域において、往時を偲び、地域の文化を継承することを願って平成7年(1995)に開館しました。資料館の隣りに見える大杉の池の周辺は、今では大杉公園として親しまれており、江戸時代までは明覚寺という寺があったほか、現在の田名小学校の前身である覚明学舎や田名村役場なども建てられるなど、田名地区の中心の場所でした。
資料館の建物は代表的な養蚕農家を移築再現しており、二階を展示室として養蚕をはじめとしたさまざまな資料が展示されています(その中には博物館も所蔵していない資料も含まれています)。そして、一階の和室はかたりべの館として、あるいは生涯学習の場として活用されています。
相模田名民家資料館で2月初旬から3月3日まで、毎年行われているのが「ひなまつり今昔展」です。この時には、近隣の方から寄贈された、明治から大正・昭和にかけての多くの雛人形が一階の和室一杯に飾り付けられ、実に見事です。ちなみに今年は三百三十体ほどの人形を飾っており、展示しなかったものを含めると全部で五百体ほどの人形を保管されているとのことです。この「ひなまつり今昔展」には、例年大勢の人が訪れ、それぞれの時期の人形を見学しながら雛祭りの思い出を語り合う姿が見受けられます。子どもたちの安らかな成長を願い、それを人形に託した人々の想いがよく表れた「ひなまつり今昔展」は、多くの者の心を捉えるものとなっていると言えるでしょう。今年の雛人形の展示は終わりましたが、ご関心のある方は是非、来年にご来館ください。また、資料館では、雛人形とともに4月下旬から5月初旬に掛けて「端午の節句まつり」として五月人形の展示も行っています。ゴールデンウィーク期間中には、同じ田名地区の高田橋付近で、1200匹の鯉のぼりが相模川の上空を泳ぐ「泳げ鯉のぼり相模川」のイベントが実施されます。その機会に資料館を訪れたらいかがでしょうか。きっと爽やかな新緑の風が吹く中で楽しいひと時を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。
*「相模田名民家資料館」
住 所 相模原市中央区田名4856-2 電話 042-761-7118
開 館 日 木・金・土・日の週4日間(正月・盆は休館。また、祝祭日についても休館の場合あり)
開館時間 午前10時~午後4時
入 館 料 無料2階展示室は開館時間中自由に見学できます。一階和室の利用には事前に予約が必要です。
その他、詳細につきましては、資料館までお問い合わせください。
祭り・行事を訪ねて(49) 秦野市・白笹稲荷の初午と道祖神巡り(平成25年2月)
2月の初めての午(うま)の日である初午はお稲荷さんを祀る日です。皆様もよくお分かりの通り、稲荷には集落など地域全体で祀る大きな神社から各家庭にある屋敷神(やしきがみ)までさまざまなものがあり、人々に大変親しまれている神の一つとして初午には多くの稲荷社で祭礼が行われています。ちなみに今年の初午は2月9日(土)でした。
今年の初午の9日には、民俗調査会の会員とともに秦野市今泉に鎮座する白笹稲荷神社にお伺いしました。民俗調査会では、「博物館の窓」でこれまでも紹介しているように、市内をはじめとして各地のフィールドワークを行っており、機会を捉えて市域の様相と比較することを目的として市外の地域も訪れています。秦野市の白笹稲荷は、一説に関東の三大稲荷に挙げられるほどの有名な神社であり、相模原市内でも例えば当麻地区の宿集落では、明治45年(1912)に防火の神として白笹稲荷から分霊を受けて日枝神社の社殿に合祀しており、東林間地区の東林間神社境内にも、大正6年(1917)に分霊され、この地域の新開(しんかい)としての開発の歴史を物語る稲荷社が祀られています(『平成さがみはら風土記稿 神社編』平成5年 市教育委員会発行)。また、地区内の講中や同族等で祀る比較的小さな稲荷社では、初午に市外の稲荷神社に代表者がお参りに行くことがあり、この行き先としても白笹稲荷が多かったようです(『相模原市史民俗編』)。
昼前に白笹稲荷神社に到着するとすでに実に大勢の人が訪れており、お参りするにも社殿にたどりつくまでが大変で、露天もたくさん店開きをしていました。社殿の横には稲荷のお使いである狐が好むとされる油揚げが上げられている光景なども目にすることができました。さらに、境内の石造物に彫られた奉納者によると秦野に限らず遠方の住所も多く、白笹稲荷の信仰がかなり広まっていたことも確認できました。
そして、当日は白笹稲荷の参詣と並んで、秦野の湧水や道祖神等の見学も行いました。秦野盆地の湧水群は環境庁(当時)によって「全国名水百選」に選定されるなど、古くから人々によって利用されてきた水が多くの場所から湧き出しており、今回はそのうちの秦野駅近くにある「弘法の清水」に向いました。ここは弘法大師が持っていた杖を地面に突いたところ水が湧き出したという、全国各地で聞かれる伝説が残されており、年間を通じて水温、水量ともほぼ一定して安定しているという湧き水に触れることができました。秦野というともう一つ著名なのが、神奈川県最古の双体道祖神碑(寛文9年[1669]銘)があることです。双体道祖神とは一つの石に二つの神が並んで彫られているもので、秦野市域では2548基を数える石仏全体のうち道祖神碑が315基を数え、そのうちの184基が双体道祖神というように道祖神の石碑がかなり多い地域です(『秦野の石仏[四]』)。今回は、秦野の中でも今泉・戸川・堀山下の三地区の石仏について、大きな陽石(ようせき)※(今泉)や県内最古の双体道祖神碑(戸川)、辻や道路の端など至る所にある道祖神碑(全域)などを中心に、帰りの電車の時間の許す限り見て歩きました。
この日は少し風が冷たく、やや大変だったところもありますが、それでも澄んだ空気の中、全部で23名の会員の方々とともに、丹沢の山々を身近に感じながら充実したフィールドワークを行うことができました。今後とも各地を歩きながら、その成果を博物館の活動に取り入れて一層充実させ、「民俗の窓」にも反映していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(48) 雪のどんど焼き~市内各地~(平成25年1月)
今年のどんど焼き・団子焼きは12日~14日にかけて市内の各地を回りましたが、12・13日は火に当たっていると汗ばむほどの陽気で、大変和やかに行われました。ところが14日は一転して数年ぶりの大雪となり、特に午後からは短時間に雪が降り積もりました。この日は事前のニュースでも大雪の予報が出されており、調査も若干の躊躇がありました。それでも少し回ってみて、中止や延期の場所が多ければそこで終わりとの心積もりで行ったところ、予想よりも多くの場所で行われていたのに出会いました(もちろん翌日などに延期となった所も確認しました)。
実施していた地区で「この天気の中、大変ですね」と声を掛けたところ、すべての所で「これは14日にやることになっているので仕方がないですね」とのご返事をいただきました。改めて、昔からやっている行事の意義について考えさせられるきっかけとなりました。写真の1~3は平成25年1月12日、4~13は1月14日の様子を紹介しています。なお、14日は、民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(47) だるま市とどんど焼き~中央区上溝地区~(平成25年1月)
中央区上溝3~7丁目付近の県道に沿った地域は、かつて市場が開かれていた場所です。上溝市場は主に生糸や繭などの取引を目的として明治3年(1870)に開設され、毎月6回、3と7の付く日に開かれた六斎市(ろくさいいち)です。市日(いちび)には糸や繭を買う商人などをはじめとして多くの商人が集まり、露天も出て大変に賑やかだったと言います。また、多くの商店も立ち並び、相模原の中心的な商業地となっていました。
この地で今年の1月13日(日)に行われたのが「だるま市」です。元々、上溝にもだるまを作る職人がいて1950年代の前半までだるま市が行われていましたが、その後は職人がいなくなったこともあって行われなくなりました。それを平成元年(1989)に復活させたのが現在のだるま市で、7月の夏祭り(上溝の天王祭)と11月の酉の市とともに上溝の三大イベントを構成するうちの一つとなっています。ちなみに今は相州だるまが売られています。
そして、上溝・本町自治会のどんど焼きもこの日に行われています。当日の午前11時に成田不動堂の横に集めた正月飾りに点火して燃やしていきます。だるま市の会場でもあり、他の地区のように高く積むこともなく少しずつ燃やします(今年は量が多く、半分ほどは別に燃やしたとのことです)。こういった団子焼きなので多くの人が一斉に集まることもなく、各自持参した団子を焼いていく姿が見られました。
正月飾りを少しずつ燃やす 各自で持参した団子を焼く また、午後3時30分頃からは、同じ所に集められた古いだるまのお焚き上げが行われます。これは、上溝・番田地区の安楽寺の住職が、この日には開扉されている成田不動の堂内での読経をした後に行われ、やはり住職の読経の中、各家から納められた多くのだるまが燃やされていきました。
上溝のだるま市は、本町自治会と上溝商店街振興組合が協力して実施しており、このほかにも当日は本町はやし連がお囃子を奏でたり、クーポン対象店舗で買い物をするとサービスを受けられるクーポン券の配布、女子美術大学環境デザイン学科の有志グループ「たまび屋」によるワークショップ「ふうせんだるまをつくろう!」の開催など、さまざまな内容が行われました。この地域のどんど焼き(かつては「団子焼き」と呼ばれていたと言います)は、以前は道祖神のある場所でいくつかの集落が集まってやっていて、本町では日金沢と一緒に旧道の傍で行っていたとのことですが、今では地元の振興のための重要なイベントの中に組み込まれており、まさにかつて市が開かれていたこの地区ならではの変化と捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(46) 道祖神の小屋~中央区田名地区~(平成25年1月)
昨年の「民俗の窓」のNo25とNo26において、南区当麻の原当麻地区と南区古淵地区で行われている道祖神の小屋作りについて記しましたが、市内ではこのほかにも何か所かで同様のものが今でも作られています。今回はそのうちの一つである中央区田名の清水地区の事例を紹介します。
清水集落は田名地区のもっとも北側に位置し、大島の古清水集落と接するように家々が広がっています。団子焼きは13日(日)の午後1時から、自治会館の前側で行われました(終了は4時)。ちなみに自治会館の横には地域で祀る観音堂があります。ここで注目されるのは道祖神碑を覆う小屋を作ることです。この地域では「ムロ」と呼ばれ、柱となる木の枝や屋根に使う竹と屋根材とする杉を用いて、少し離れた場所にあるやはり集落で祀っている不動堂の横に作り、中には双体道祖神碑(現在は上部は欠損)と男根状の石が置かれます。今年は午後にお訪ねしたためすでに完成していましたが、数年前に確認したところでは、ムロは団子焼き当日の朝から地区の長老衆が出て作り、この時には午前9時から作業を始めて11時30分に完成しました。また、完成後には自治会の役員がこの前に集まって拝礼をすることも見られました。このムロは、点火して団子焼きが始まると会場に運んで火の中に投じて燃やされてしまいます。
かつて昭和30年(1955)頃までは、子どもたちが7日に正月のお飾りを各家から集めて歩き、それらで子どもが立って入れるくらいの大きなムロを作っていて、お飾り集めとともに賽銭も貰ってその金で菓子などを買っていました。そして14日には、子どもが作った大きなムロを壊して年寄りが小さなものを作り、それが現在も残っているムロだとのお話しをうかがっています。
市内で今も作られているこうした「道祖神の小屋」は、作ったものを翌年までそのままにしておく所(南区当麻の中・下宿や緑区寸沢嵐道志)やその後に燃やしてしまうもの(原当麻や古淵)があり、清水地区は後者の事例となります。特にこのムロは、一年のうちわずか一~二時間しか姿を表していないことになり、その時に現地にいかなければなかなか分からないと言えます。今回紹介した事例は、市民の方からこうしたことがあるとご連絡をいただいて調べることができたものです。団子焼きに限らずこうした情報があれば是非博物館にお寄せください(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(45) 道祖神の幟を立てる~南区新戸地区~(平成25年1月)
この冬も団子焼き・どんど焼きの時期がやってきました。今年は成人の日と日曜日の関係で12日(土)から14日(祝)までに行われた地区がほとんどで、昨年に比べて短期集中となりました。例年通り、いくつかの地区を回らせていただきましたが、まず南区新戸の上地区のどんど焼きについて紹介します。
南区新戸は市内でもっとも南西部にあり、水田に乏しい市域の中でも相模川に面した比較的田の多い所です。今回取り上げるのは新戸の北側にあたる、荒井耕地西・荒井耕地東・上新・中央・新道の五つの自治会が合同で行っているどんど焼きで、毎年五つの自治会が順番に準備などに当たることになっており、今年は荒井耕地西自治会が担当しました。
どんど焼きの準備は12日(土)の午前9時頃から始まりました。どんど焼きで燃やす正月飾りは、地区ごとに集められて行事を行う場所(「新磯ふれあいセンター」裏側の休耕田となっている所)に運び、まず長い竹を中心に立てて、回りにも三本の竹を立てかけるようにして中心の竹に結び付け、中に笹や板を詰めて正月飾りも積んでいきます。最後に氏神である日枝神社に飾られていた昨年の大きな注連縄を巻いて燃やすものは完成しました。
その後、午前11時30分頃から行われたのが道祖神の幟立てです。この地区では、現在行事を行っている場所から200mほど離れた、集落が並んだ四つ角の場所に道祖神などの石碑がありますが、そこに「奉納道祖神 明治二十二年一月十四日 上講中」と記された幟を自治会長が中心になって立てました。市域各地で盛んに行われているどんど焼きのなかでも道祖神の幟がある地区は今のところ他には確認できず、大変珍しいものということができます。この幟は翌日のどんど焼きの終了後に片付けます。そして、午後5時からは道祖神の石碑に灯明やお神酒などを上げて、自治会長と荒井耕地西自治会の代表の方々が拝礼し、12日の準備は終了しました。
13日(日)にもまず道祖神碑の前で拝礼し、そこから会場に向かって午前9時に点火されました。背後に大山などの丹沢の山々を望みながらの団子を焼く光景は見事で、三つ又の木の枝に刺した団子を持ち寄った人々がそれぞれを焼き、枝にはスルメが付いたものもあってスルメを炙る人なども見られました。どんど焼きは午前11時までの予定で行われ、団子を食べると風邪を引かないということで多くの参加者がありました。
道祖神の幟とともにこの地区で興味深いのは、「左義長当番控 上新戸道祖神講中」と書かれた帳面があることです。「左義長」(さぎちょう)との呼び名は大磯海岸で行われる「大磯の左義長」(国指定重要無形民俗文化財)が有名なものの、古くは神奈川県ではほとんど使われなかった名称です。また、現在は自治会単位で行っているこの行事が、かつては「道祖神講中」という別の組織によって担われていたことを示しており、今でも行事の実施を知らせる掲示には、当番自治会(今年の場合は荒井耕地西)とともに「上新戸道祖神講中」と書かれています。この帳面には、主にどんど焼きに掛かった経費や収入(寄付をいただいた人の名前)などの会計に関することが記されており、当番となった自治会が記録して翌年の当番自治会に送っていきます。現在は平成16年(2005)からの帳面ですが、これ以前の古い帳面もあったとのことです。
博物館で、この行事(団子焼き・どんど焼き・サイトバライ)の調査を市民の皆様と一緒に調べ出して今年でちょうど10年になります。この間、さまざまなデータを得ることができた中で、今回の道祖神の幟のように初めて分かった事例もあります。今後ともさらに調査を続けて、市域の状況の様相と変化について捉えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(44) 「一つ目小僧」がやってくる日~緑区根小屋の師走八日~(平成24年12月)
『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によると、2月8日と12月8日は「事八日(コトヨウカ)」の日で、この日には全国的に各種の神や妖怪が訪れるとされ、特に疫病神が来ることを恐れる伝承が東日本の広い範囲に見られます。神奈川県内ではこの日を「ヨウカゾウ」あるいは一つ目小僧が来る日なので「一つ目小僧」などと言い、2月と12月の両方、あるいは2月か12月のどちらかだけの8日とする場合があります。また、県内では広く見られる伝承であるものの、三浦郡と津久井の藤野町や相模湖町では伝承が希薄であることが指摘されています(『神奈川県民俗分布地図』神奈川県立博物館。1984年刊行なので地名はそのまま記載しました)。
市域でもこの日をヨウカゾウとすることが多く、一つ目小僧が来る日として子ども心に怖かったと言います。そして、今回も写真を撮らせていただいた緑区根小屋中野の菊地原稔さんのお宅では12月8日を「師走八日」と言い、2月8日の方は特に何も行いませんでした。師走八日には、やはり一つ目小僧が来て下駄などの履物に判を押してしまい、それを知らないで履くと病気になるため、子どもは外に出しっぱなしにしている下駄などを「今日は一つ目小僧の日だ、早く仕舞え」と親に言われて片付けました。一つ目小僧は目が一つしかないので、たくさん目のある籠や笊を吊るしておくと逃げていくとされ、根小屋中野では里芋を洗うイモフリメカイや篩(フルイ)のどちらかを、一つ目小僧は夜に来るので夕方に吊るすのが多かったそうです。今回の写真にイモフリメカイと篩の両方が吊るされているのは、二つの方が良いと思って両方吊るしているとのことです。
なお、この日はもちろん冬至ではなかったのですが特別に冬至の日に行うことも見せていただきました。このあたりでは、冬至の夕方に母屋はもちろん物置などすべての建物の周囲にジョウロで水を撒き、昔は火事が多く延焼を防ぐためと言われているそうです。家によっては家の破風の部分に竹の水筒に入れた水を吊るすこともあり、建物の水撒きかどちらかをやっていました。さらに、冬至から暮の餅つき、三が日、七草、十五日正月、節分までの正月を挟んだ行事の朝に、おばあさんが「良いこと聞くがら」として菊ガラ(菊の茎)、「まめに働く」として豆ガラ、「借金なし」としてナスガラ(なすの茎)を、毎回かまどで燃やしていたとのことです。
相模原地域の大沼や古淵・上溝などでは、12月8日に来る一つ目小僧が村人の誰を悪病にするかを書いた帳面を道祖神に預けて2月8日に取りに来ると言ったのに対し、正月14日の団子焼き(どんど焼き・サイトバライ)の火で道祖神の家が火事になって帳面を焼いてしまったのでどの人を病気にしたら良いか分からなくなって、その一年は病気にならなかったとする、ヨウカゾウと正月の団子焼き行事の由来との関連を説く伝承などもあります。今回の根小屋中野ではそうした話は伝えられていないようですが、市内でも年中行事に関わるさまざまな伝承が残されています。これからもいろいろな行事を取り上げていく予定です(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(43) 緑区根小屋のエビス講(平成24年11月)
エビス講は、各家での年中行事の中でも大いに行われていた行事の一つで、『相模原市史民俗編』や『相模湖町史民俗編』などをはじめ、これまでにも市内各地からの多数の報告があります。エビス講は、福の神であるエビス・大黒にいろいろなお供え物をして祀る行事で、基本的に一年に2回、正月と秋(10月か11月)に行われます。特に商家のほか、農家でも盛んに行われていました。この行事もほかのものと同様に近年ではあまり見られなくなっていますが、「民俗の窓」に何回も登場いただいている、緑区根小屋の菊地原稔さんの家では現在でも行っているということで、写真を撮らせていただきました。
エビス講は正月と11月の2回あり、当家では養蚕を遅くまでやっていたので養蚕の作業の関係で10月ではなく11月に行っていました。正月は、エビス・大黒が働きに出て行くということで、前日の夜に準備をしていて朝早くお供えし、その逆に11月は稼いで帰ってくるので夜に行います。当家では、現在、土間としている所の先の居間の奥の廊下状になっている場所の上側にエビス・大黒の像を祀る棚があり、通常はエビス・大黒の像一対で祀られていることが多いのに対し、棚の中には大きさは小さいものの、50体以上ものお像が入っています。
当家では御当主の祖母に当たる方がこうした信仰に熱心で、例えば、路傍の道祖神などの石仏に納められている(どんど焼きで燃やすためにおいてある)エビスや大黒像を貰い受けて来て、酒を供えて「この家のために働いてください」と言ってお祀りしました。ちなみに祖母は御札や達磨などもどんど焼きで毎年焼くのではなく、「御札が千枚集まれば長者になる」として保管していて、今も御札などはたくさん残されているとのことです。
この棚の下側にテーブルを置き、灯明と魚、膳をエビスと大黒の分として二膳お供えします。魚は鯛で、皿に腹合わせに載せます。ただし、昔は鯛などはなかなか買えなかったため、鯵が多くてサンマだったこともありました。膳には箸のほか、お神酒、小豆飯、柿、野菜の煮物を付け、小豆飯はうるち米を焚いたもので、エビス講の時にはもち米を蒸かした赤飯は使いません。柿は「掻き取る」ということで供えますが、あまり他の家で供えているのを見たことはなく、野菜の煮物は大根・ニンジン・ゴボウ・里芋を煮て、その上には油揚げが一枚載せられていて、これは根小屋辺りではよく作られているそうです。このお供え物は当日はそのまま置き、翌日の朝に下げて食べることになります。なお、エビス・大黒がお金を稼いできたためエビス講には財布や金を一升枡などに入れてお供えするという話もあるものの、当家では金を上げると働かなくなるといってやりませんでした。
かつての人々の生活に対するさまざまな想いが窺われるこのような年中行事について、今後とも機会を捉えて調べ、「民俗の窓」の欄に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(42) 今年も藤野歌舞伎を楽しませていただきました(平成24年10月)
復活後21回目を迎えた藤野村歌舞伎が、今年は神奈川県立藤野芸術の家クリエーションホールにおいて10月14日(日)の午後1時から行われました(藤野村歌舞伎の復活の経緯については、「祭り・行事を訪ねて4(平成22年11月)」をご参照ください。)。今年(平成24年)の演目は、第一部が「忠臣蔵七段目 一力茶屋の場」で、第二部が恒例の「白波五人男 稲瀬川勢揃いの場」でした。
忠臣蔵(「仮名手本忠臣蔵」)に登場する人物の中で、おかると勘平(かんぺい)は有名な役どころですが、七段目では、祇園町の遊女となったおかるが大星由良之助(大石内蔵助)に届いた密書を盗み見してしまったため、大星に殺される運命となります。そこに現れたおかるの兄の平右衛門は、事情を察して自らの手でおかるを殺し、それを功として高師直(吉良上野介)への仇討ちの参加を許してもらおうとします。驚くおかるに平右衛門はおかるの夫の勘平もこの世にいないことを告げると、悲しみのあまりおかるは自害しようとしますが、大星はそれを止めた上で、由良助の仇討ちへの真意を探ろうとして床下に隠れている九太夫を刺し、平右衛門が同志に加わることを許す、という筋立てになっています。
途中、突然に兄に殺されそうになって驚き、また、夫が死んだことを知って嘆き悲しむおかるの姿をはじめとして多くの者に親しまれてきた名場面であり、当日は約1時間に渡っての熱演が見られました。
第二部の白波五人男は、10名の子どもたちによる演目で毎回人気があり、今年は藤野南小の3年~6年生の8名と藤野中2名が見事に演じて小銭を包んだ多くのおひねりが舞台に投げ入れられました。
毎年、藤野村歌舞伎の定期公演は10月に賑やかに上演され、今年は途中のアナウンスによると250名以上の観客があったとのことです。私も楽しみにしており、これからも見続けて行きたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(41) 人力で立てる祭りの幟~南区磯部・御嶽神社~(平成24年9月)
7月の天王祭から引き続き、8月から9月にかけては各神社で祭りが行われます。こうした祭りに行くとまず目に付くのが、鳥居の両脇に建てられた幟(のぼり)です。幟は大きなものや小ぶりなものもありますが、神社が祭りであることを周囲に示す重要なしるしとなっています。
幟は、元々は神を招いたり神が訪れたことを表した旗飾りで、「依代(よりしろ)」と考えられています。古くの日本の神は社殿に常在するのではなくて祭りの時に迎えるものであり、そのために神が降臨するためのものが必要で、それは天然の樹木や岩・山のほか幟などの柱を立てることもあります。幟の先に榊などの葉を付けるのは単なる飾りではなく、神を迎える装置としての意味があったとされています(『日本民俗大辞典』)。
このような幟も近年は立てることが大変になり、金属製の常設のポールになっているのをよく見かけ、木製の幟竿の場合でもクレーンなどを使用することが多くなっています。そんな中で、南区磯部の御嶽神社では現在でも大勢の氏子が寄り集まって、人力で幟の設営と撤収を行っています。御嶽神社は磯部地区のうちの下磯部の鎮守で、毎年9月1日が祭日です。今年は8月19日(日)の午前8時30分から幟立て、宵宮となる8月31日(金)に子ども御輿、9月1日は午後1時から祭典で夜には演芸大会、翌2日(日)に幟返しの日程で実施されました。
私が訪れたのは幟を片付ける幟返しが行われた2日で、作業が開始される午前8時30分には40名ほどの男性が集まり、挨拶と清めの酒を飲んでから幟返しが始まりました。当社の幟には、両方ともに幟枠という龍が彫られた立派な木製の彫り物(ちなみに片方は10年近く前に盗難にあい、残った方を見本に作り直したということです)が取り付けられており、まずこれを外します。そして、「鎮守 御嶽神社 昭和五十八年九月一日 氏子中」と書かれた幟を下げて竿から取り、幟枠の上部の飾りを外していよいよ竿を倒し始めます。幟竿はかつてはもっと大きかったようですが、現在の一回り小さくしたものでも10mほどの長さはあるとのことで、倒す方向とは反対側では急に落ちたりしないように縄で引っ張り、梯子で枠を支えながらゆっくり倒していきました。そして、約1時間で二本の幟を片付けることができました。ちなみに幟立ては梯子で支えながらなのでもっと大変で、約2時間ほど掛かったそうです。
最初にも記したように、祭りに当たって氏子が寄り集まって人力で大きな幟を立てることは古い形式を残しており、また、大勢の氏子の方が集まることは、地域の祭りの一環として意味あるものとして位置付けられていることが分かります。それでも実際に仕事に当たられる立場からは、作業が大変なこともあって常設のポールを設置する意見も出されているとのことで、今後の推移を見守っていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(40) 中央区上矢部・御嶽神社の湯花神事(平成24年9月)
境川近くの地区の神社の多くは川沿いに見られ、中央区上矢部地区の鎮守である御嶽神社も同様に常矢橋のすぐ西側に鎮座しています。御嶽神社の例祭は日取りがいくつか動いた後に現在は9月の第一土曜日となり、この日には相模原地域ではここだけである湯花(ゆばな)神事が行われています。
湯花神事には境内の社殿の前に笹竹を四方に立てて注連縄を張り、その中央に三本の丸太を組んで大釜を据えます。また、地元でカツンボと呼ばれるニワトコの木を13本編んで棚を作り、この棚は社殿の向かって右側にある柱に設けて桶を乗せておきます。かつては川原にあったカツンボは無くなってしまい、最近では参道の脇のところに植えたりしているそうです。
今年の湯花は神官の都合により、当日の午後3時からの社殿での式典の後に行われました。式典終了後、社殿の中では囃子連の代表の方による獅子舞とヒョットコなどの踊りがあり、その後に神官以下氏子総代などの役員が、湯が沸かされた釜の前に集合し、神官が湯をかき混ぜてからこちらに持ってきた先ほどの桶に初湯を入れ、柱の所にお供えします。そして、釜の前で祝詞を唱え、湯を四方に軽く撒くようにして湯花の神事は終了しました。ちなみに湯はそのままで、特に処置するということはないそうです。祭礼では夕方から演芸が始まり、釜の当番に当たる三名の方は、祭りがすべて終了する9時30分頃までは釜の火が消えないようにそばに付いていることになります。
このように上矢部地区の御嶽神社の祭りは御輿などが出ることもなく、他に比べれば簡潔で静かな祭りですが、特に相模原地区ではほかに湯花神事は行われておらず、興味深いものといえます。町田に在住されている神官にお話しをうかがうと、この方が管轄している町田や八王子の神社では、数は多くないものの他の神社でも湯花神事を行っている所があるとのことで、こうした観点から地域の祭礼や神事を捉えてみる必要がありそうです(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(39) お盆の砂盛り~地域差のある民俗~(平成24年8月)
8月を代表する年中行事と言えばやはりお盆を挙げることができます。古くからの行事が廃れていく中、盆行事は正月行事と並んで簡略化されながらも今でも続けられていることが多いものの一つです。
ところで、神奈川県の盆を代表する行事としてよく紹介されるものに「盆の砂盛り」があります。県内の各地では、スナモリとかツカ・ツジなどと言って、盆の入りの13日に屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて土壇を作り、中には何かが登るためなのか階段を付けたりすることもあります。そして、この砂などを盛ったところに線香を立てて造花などの花をさし、その脇で迎え火や送り火を焚きます。砂盛りは、静岡県や多摩地方にも見られるとも言われますが他県ではほとんどないとされており、その意味で神奈川県を代表する民俗として捉えられています。
しかし、この砂盛りはもう一つの重要な特徴があります。それは、砂盛りを作る地域は県内では東西に帯状に広がっていることが分かっており、三浦半島では希薄であり、相模原市でも緑区や中央区ではほとんど作られていないということです。この点を『相模原市史・民俗編』によって確認すると、市域での名称は一般に「線香立て」と呼ばれており、地域としては下溝・当麻・磯部・新戸・上鶴間にあり、特に磯部や新戸には色濃く見られます。また、例えば下溝では、大下集落では作るものの古山集落では行わないというように地区内すべてにあるわけではなく、当麻や上鶴間も同様の傾向があります。中央区になりますが上溝や田名では、やっていた家もある一方で一般的ではなかったとのことです。つまり、県内を帯状に分布するこの砂盛りは市内でも南部地域では作られ、特に新磯地区に顕著というように地域差が顕著な民俗であるということができます。
今年の8月17日にこうした地域の一部を回ってみたところ、さすがに現在では土や砂を固めて作ったのは少なく、鉢や缶・箱に砂などを詰めて線香立てとしているものが多くありました。また、中には石製で盆のたびに出してそのまま使っていると思われるものがあったり、階段付きも確認できました。ちょうど送り火の翌日でしたので隣りには送り火を焚いた跡があり、砂盛りとその近くには、線香を立てる竹筒や盆棚に供えてあった造花やナスとキュウリの馬、アライアゲといって刻んだナスとインゲンに洗った米を混ぜて里芋の葉に載せたもの、アライアゲに水をふりかけるのに使うミソハギ、オガラ(麻幹)などが置かれていました。
地域に伝えられてきた民俗はそれぞれの土地によって違いがあり、人々が担っている文化であることから単純に行政単位では区切れない面があります。一口に「相模原の民俗」と言っても県内の中で位置付けると、似たような状況にあるものや特徴のある分布を持つものなどがあり、さらには今回の「盆の砂盛り」のように市内の中でも違った様相を示すものなども見られます。『相模原市史・民俗編』ではこうした民俗についての細かい記載がありますが、この欄でもさまざまな観点から市域の民俗や祭礼行事を取り上げていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(38) 八王子祭りの山車(平成24年8月)
8月5日の日曜日に、民俗調査会では「八王子祭り」の見学を行いました。毎月第二水曜日に活動する民俗調査会Aと第四土曜日を活動日とする同Bの合同の見学会で、民俗調査会では市域を中心に各地のフィールドワークを行っていますが、さすがに暑い盛りの8月は長い距離の外歩きは危険ということで、毎年、さまざまな祭礼の見学をしています。今回の見学会も相当の暑さの中、総勢36名の会員が参加しました。
「八王子祭り」は8月第一の金・土・日(今年は3・4・5日)で、民俗調査会では5日午後にまず八王子市郷土資料館で学芸員の方から、祭りの歴史や移り変わり、見所などのご説明をいただき、その後、八王子の町のメインストリートである甲州街道(国道20号線)に移動し、華やかで勇壮な御輿の渡御や山車巡行を見学しました。
この祭りは江戸時代に甲州街道の八王子宿だった地域(旧市街地)で行われており、八王子駅寄りの下地区と西側の上地区に分かれていて、下地区に八幡八雲神社、上地区には多賀神社があり、元々は祭りは別々で祭礼日も違っていました。それが昭和43年(1968)に「八王子まつり」として御輿や山車が参加するようになり、両社の祭礼の日程を変更(ただし、八幡八雲神社では本来の日取りである7月23日に現在でも神事を行っている)して同じ日にするなどの変遷を経てきました。そして、平成14年(2002)からは、それまで一緒に行っていた花火大会や武者行列などを切り離して御輿と山車を中心とした伝統祭りとして位置付け、現在に至っています。
八王子祭りの大きな見所に、八幡八雲神社及び多賀神社の宮神輿の渡御と並んで各町内から出される山車があります。八王子の山車は上側に人形を飾ったり、全面に彫刻を施した彫刻山車の祭りとして江戸時代から著名でした。しかし、昭和20年(1945)の八王子空襲によって多くの山車が焼失してしまいました。それでも焼け残った山車や人形を修理したり新たに再建するなど、今では19台の山車が祭りに参加し、賑やかな囃子を奏でながら自分たちの町内や甲州街道の巡行を行います。
相模原市内でも中央区上溝をはじめとして各地に山車が出る祭りがありますが、上溝・本町の山車は明治40年(1907)に八王子の横山町から譲り受けたものといわれ、大正初期頃に撮影された上部に天照大神(アマテラスオオミカミ)の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に紹介されています。また、緑区中野上町の山車は、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から譲り受けたもので、雄略天皇を乗せる人形山車の形態です。八日町一・二丁目にあった山車は、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされ、八王子ではその後の空襲で多くの山車が失われていますので、中野上町の山車は八王子の山車を知る上でも重要なものと言えます。今回の見学会でもこうした八王子と相模原のつながりに注意して実施したのはもちろんで、市内の祭り・行事や民俗をより深く理解するためにも、このような周辺地域との関係や異同などを調査し、検討していく必要があります。今後とも、機会を捉えて周辺地域の状況を含めて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(37) 南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)
南区下溝の古山集落は下溝地区のもっとも北側にあり、集落の神社として十二天神社を祀っています。この十二天神社の祭礼が、今年(平成24年)は7月21日(宵宮)と22日(本宮)に行われ、集落の中を大人の御輿と子ども御輿2基、囃子連を乗せた屋台(山車)が巡行しました。この御輿は天保10年(1839)製で市内に残る御輿でも古いものの一つとされ、屋台も古くは慶応年間(1865~1868)に上溝で再造したものでしたが、現在は新しく作り直したものを使っています。
この地域の伝承を調べた『古山の集落と土地利用』(相模原市教育委員会が刊行した)によると、かつては古山の中には十二天神社のほかに八坂神社と日枝神社があり、それぞれ3月(十二天神社)・7月(八坂神社)・9月(日枝神社)というように年に三回の祭礼を行っていました。それが明治30年(1897)に、八坂神社と日枝神社が十二天神社に合祀されて祠がなくなり、その後も二社の祭りはあったようですが、昭和に入ると三社合わせて7月に祭りをすることになりました。このように本来の十二天神社の祭日ではなく、地域の神社の祭礼として合祀された八坂神社の祭礼日の方を行うようになったのは、やはり御輿や屋台を出す華やかなオテンノウサマの祭りの魅力が強かったと考えられます。
また、以前は古山は集落の内が丸(マル)・上(カミ)・下(シモ)というように三つに大きく分かれ、例えば葬式があった際にはそれぞれの中で手伝い合ったりしており、祭礼の御輿も丸と上から7名、下から7名が出て(実際に担ぐのは12名で残りの2人は御輿を乗せる台を担ぐ)、これ以外の人は手出しをしたり途中で替わってはいけないなど、厳しい決まりがありました(現在ではこうしたことはもちろんありません)。一度担ぐと集落のもっとも下側の家に行くまで御輿から肩を抜いてはいけないということで、途中出される酒も担いだまま飲んだとか、御輿が重くて肩の皮が剥けているため翌日にうっかり鍬を担いだりするとあまりの痛さに鍬を畑に投げ出すほどだったなど、祭りに関するさまざまな話が残されています。
今年(2012年)の本宮は、22日の午後1時から式典を行い、2時から御輿と屋台の氏子回りとなりました。鎮守の森に抱かれた神社の正面から御輿が出て行く様子は見ごたえがあり、その後を子どもが一生懸命に小さな御輿を担いでいきます。御輿を担いでいる時や休んでいる間も絶えずお囃子が奏でられ、祭りの雰囲気を一層高めます。古山の囃子は上手で、当麻や上溝などに教えに行ったとも言われています。
御輿は集落の中を公会堂や氏子の家の前など、何か所かで休みながら進んでいき、止まる前には左右に大きく三回ずつ揉む勇壮な姿も見ることができます。そして、辺りが暗くなると御輿に付けられた提灯に蝋燭の火が灯り、幻想的な光景となりました。
御輿は記念碑のところに寄る 御輿は左右に大きく揉まれる 提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である
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こうした御輿を担ぐ中で注目されるのは、八坂社と山王社があった場所(サンノウヤマ)に立つ昭和8年(1933)に建てられた記念碑の前でも止まることで、合祀以前はここから御輿が出て集落の南に行き、そこから十二天神社を経て戻ってきました。つまり、かつてはこの場所に八坂神社があって御輿が出ていたことを合祀されてからも旧地に向かう点を通して記憶に留めており、文字として書かれているわけではないかつての地域の歴史の一端を、御輿の巡行という行為によって示していると捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(36) 市内各地の天王祭(平成24年7月)
今年も市内各地で夏の風物詩である天王祭(オテンノウサマ)が行われました。今年は土日の巡り合せの関係で(第五の土・日曜があった)、日程が分散する傾向も見られたようですが、いろいろな地区で大人や子どもの御輿に加え、お囃子を奏でる昔風の山車(屋台)や囃子の子どもを乗せた自動車などを見かけることができました。天王祭は、元々は人々が恐れる疫病を免れるために病気が発生しやすい夏場に行われ、日本を代表する夏祭りである京都の祇園祭(祇園会)も同じ目的をもったもので、この祇園会が長い歴史の中で全国に広まりました。御輿や山車などが連なり、にぎやかなお囃子にのって巡行する形式は京都の祇園祭の影響と考えられています。
市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」があまりに有名ですが、『相模原市史民俗編』に拠ると天王祭は新磯地区を除く地域で行われており、津久井地域でも各地で行われています。この「民俗の窓」でも、昨年は上溝の本町と五部会、当麻地区を取り上げ、今年は「民俗の窓」No37として22日に行われた下溝・古山集落のオテンノウサマについて記していますので参照していただければと思います。ここでは今年(2012年)訪れることができたいくつかの地区の写真を掲載します。これからも各地の天王祭を紹介していく予定です(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(35) 勇壮に舞った相模の大凧
~南区新磯地区の「相模の大凧」~(平成24年6月)
相模の大凧は、相模川に面した新磯地区で相模の大凧保存会によって揚げられ、毎年、ゴールデンウィークの最中の5月4、5日に「相模の大凧まつり」として行われています。新磯地区の上磯部・下磯部・勝坂・新戸地区がそれぞれ凧を作って相模川の河川敷で揚げており、特に新戸地区の八間(14,5m)四方の大凧が有名です。これらの地区の南側では、座間市主催の「座間の大凧まつり」も実施されています。
新磯地区の大凧は江戸時代の後半には行われていたとも言われ、現在見るような大凧が本格的に揚げられるようになったのは明治中頃からとされています。新戸では、日清戦争の戦勝祈願か凱旋記念で揚げた凧が最初の大凧と言われ、もともと5月のお節供に各家で凧を揚げ、特に男の子が生まれた初節供には一間ほどの大きさの凧を揚げていたのが、次第に大型化して地域全体で行うものとなりました。
大凧に記された題字は昔から漢字二文字で、今年は“潤水都市さがみはら”になぞらえて「潤風」でしたが、これは昨年に東日本大地震が起こって大凧まつりが中止になってしまったために、昨年選ばれていた「潤風」が改めて用いられました。今年は4日の日は午後から雨が降るなど天候に恵まれなかったものの、幸いにも5日は天気も回復して気持ち良い風が吹くなど、絶好の大凧揚げ日和となり、一番大きな新戸の八間凧も揚がって勇壮な姿を見せました。関心のある方は是非、大凧まつりに足をお運びください。5月の気持ちの良い風の中、地域の伝統や関連して行われる各種のイベントに触れることができると思います(民俗担当 加藤隆志)。
*ここに掲載したのは、博物館の民俗調査会でボランティアとして活動している市民の方から提供していただいた新戸地区の大凧揚げの写真です。これからも市民の方が撮影したさまざまな行事等の写真を紹介していきたいと思います。
祭り・行事を訪ねて(34) さまざまな養蚕信仰③
~南区磯部・勝源寺の六本庚申~(平成24年6月)
南区磯部の勝坂集落の中ほどにある勝源寺(しょうげんじ)は、千手観音をご本尊とする曹洞宗の寺院です。そして、本堂の一角に本尊とともにお祀りされているのが、今回紹介する青面金剛(しょうめんこんごう)像で、第二次世界大戦前の養蚕が盛んだった時期には、手が六本あるため六本庚申(こんしん)あるいは千体庚申と呼ばれ、養蚕に効験のある仏様として市内ばかりか広範囲からの信仰を集めていたことが知られています。
この像を祀る縁日は4月の初申の日あたりで、養蚕を行う多くの人がお参りに訪れました。この時には多くの露店も出て賑やかで、露店では木の枝に丸や繭の形をしたものや小判などを付けたお宝というものを売っており、それを買っていくと蚕が当たると言われました。また、本堂にはお姿をかたどった焼き物のミニチュアが1000個もあり、これを縁日にお参りに来た者が借りていき、養蚕の期間中は家で祀って秋に養蚕が終了すると返しに来ました。このミニチュアのお姿は、関東大震災の時に棚から落ちて多くが割れてしまったものの、今でもわずかにごく一部が残されています。
六本庚申の信仰がどのあたりまで広まっていたのを示す資料として、ミニチュア像を貸し出した際の帳面があり、それによると市内の磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市などの住所が挙げられています。また、ミニチュア像の中には裏側に奉納した者の名前や住所が記されているものがあり、それにはこうした場所のほかに綾瀬市や藤沢市・横浜市などの地名も見えます。帳面などはかつてはもっとたくさんあったようですが、それでも地元の磯部地区を中心として主に南側の地域に信仰が広がっていたことが分かります。
この勝源寺の六本庚申と関連すると考えられるのが、磯部地区に大量に建てられている庚申塔です。市内の相模原地域には、これまでの調査によって1600基ほどの石仏が確認されており、その中でもっとも多いのが庚申塔で200基以上あります。しかし、庚申塔は各地区に満遍なく見られるわけではなくて磯部に80数基が残されており、しかもその多くが大きさや形が同じでいずれも明治5年(1872)に造立されています。このような磯部地区の多くの庚申塔が、六本庚申の信仰に関わるものであることを直接に示す資料はありませんが、勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道しるべの役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます。
庚申信仰は、60日に一度回ってくる庚申の日に徹夜しておこもりするのが本来で、市内でもかつては各地で行われており、庚申講が実施されたことを示すものが庚申塔です。このような庚申に対する信仰が養蚕信仰となっているのは他の場所ではほとんど聞くことがなく、かなり珍しい事例と言うことができます。市域が県下でも養蚕が盛んな地域だったことや、多くの神仏が養蚕信仰に「現世利益」化していったことを示しており、地域の特徴をよく表すものとして注目されます(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(33) さまざまな養蚕信仰②
~南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目~(平成24年4月)
小田急線相模大野駅そばの、行幸道路と国道16号線の陸橋が交わる所の角に小さな鳥居が見える神社は蚕守(かいこもり)稲荷神社で、上鶴間の谷口集落の中の山野講中の家々によって祀られています。この稲荷には、嘉永7年(1854)に京都の伏見稲荷神社から出された古文書が残されており、文書には「正一位蚕守稲荷」とあることから(「蚕守」の文字は右横に書き添えられています)、この時期にはその名の通り、養蚕の神として祀られていたとも考えられています。祭礼は、2月初午、4月17日の大題目(おおだいもく)、7月24日の御命日(ごめいにち)の三回で、このうち特に春の養蚕が始まる前に行われる大題目には、豊繭を願って近隣から大変多くの参詣者がありました。
かつて大題目が近づくと当番は、境川の田から土を取ってきて便利な場所に土窯を三つも四つも作っておき、当日は朝早くから年寄りは米を研いだり炊き出しをし、若い者はケンチン汁の支度をします。10時くらいになると参詣人が来始め、この人たちに御飯とケンチン汁に香の物を振る舞い、大正頃の最盛期には米を五俵も焚きました。この飯を食べると養蚕が当たるとされ、朝から晩まで多くの人がやって来て拝殿に上がって御飯を食べてもらうのに、この人々を講中総出で接待したため、山野の者でこの日に家にいるのは病人ぐらいだと言われるほどだったそうです。また、それ以前には一斗樽から酒を振舞っていたものの、酒だとどうしても喧嘩になるので飯にしたとのことです。昔は女性(特に若い嫁)が家を空けられることが少なく、養蚕の祈願ということなら外に出られたので、まず大沼の弁天様(現在の大沼神社。ここも蚕に良くないねずみの天敵である蛇を祀るということで、養蚕の神として信仰を集めていました)にお参りし、その後に谷口のお稲荷さんに行ってケンチン汁をご馳走になるのが非常に楽しみだったという下溝の大正2年(1913)生まれの女性からのお話しは、今でも印象深く思い出されます。
そして、参詣者はケンチン汁を食べるだけでなく、地元の日蓮宗の寺院である青柳寺から出された御札とクチドメという名刺くらいの大きさのお守りを受けました。絵馬もあり、これは蚕室に飾っておくと蚕が当たると言われ、前年に借りて行った絵馬を持ってきて新しいものと替えて行きます。クチドメもやはり蚕室に貼っておくとねずみが出ないとされました。このほか、当日は青柳寺の住職がお題目を上げ、講中の者が太鼓を叩きますがこれは今でも行われています。
市内の各地に見られる稲荷社は元々養蚕にご利益があるとされ、その中でもこの蚕守稲荷神社は養蚕守護の信仰に特化して絶大なる人気を集めました。しかし、こうして近隣にも著名であった蚕守稲荷神社の大題目も、養蚕がすっかり見られなくなった現在では他地区からお参りに来る人もなくなり、現在では地区内と氏子の家内安全と招福除災を祈って地元の皆様によって行われています。このような地域に残る神社と行事が伝える養蚕に関したさまざまな民俗や文化について、これからも長く語り継いでいきたいものです(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(32) さまざまな養蚕信仰①
~中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃~(平成24年4月)
今年(2012年)の冬は例年になく寒さが続いて桜の開花もかなり遅れましたが、その桜もいよいよ散り始めて花が舞う4月15日(日)に田名・堀之内地区の蚕影山(こかげさん)の春の祭りが行われました。蚕影社(こかげしゃ)はその名の通り養蚕の神として市内でも各地に祀られており、『相模原市史民俗編』によると、多くの蚕影社は明治時代以降により養蚕が盛んになるにつれて祀られ始められたもので、さらに祠はなくても、掛け軸を下げて念仏を唱える蚕影講(こかげこう)などもあったことが記されています。
田名・堀之内地区の蚕影山の祠は堀之内自治会館の敷地にあり、隣りには男根型の大きなサイノカミ(道祖神)が並んでいることでも有名です。蚕影山の祠の中には金色姫(こんじきひめ)という女神が舟に乗っているお姿の像が祀られているのが特徴で、こうしたものをお祀りするのは他の地区にはあまり見られません。この像も養蚕の神として有名で、明治末から大正頃に八王子方面から買ってきたとも言われており、元々は4月18日と10月18日がお祭りで今ではこの縁日に近い日曜日に行われています。やはり『市史民俗編』によると、お祭りは春はその年の蚕の豊作を祈願し、秋は豊繭を感謝するもので、堀之内の念仏講中によって行われてきたのが昭和40年代に絶えてしまいました。しかし、蚕影山の和讃(わさん)は講中の女性たちによって続けられ、昭和51年(1976)には自治会の行事として復活して、午前中に和讃をあげ、午後からは自治会主催のお祭りを行うという現在の形になりました(ただし、秋には和讃のみが行われます)。
蚕影山の和讃の内容は蚕の由来を説くもので、金色姫という天竺(てんじく)の帝の姫君が継母のいじめに遭って孤島に追いやられたり土中に埋めたりとさまざまな苦難を受け、姫の身を案じた帝は桑の木で舟を作って姫を乗せて海に流します。舟は常陸の国(今の茨城県)の豊浦という地に流れ着いて権の太夫(ごんのたゆう)という土地の者が介抱したものの、ついに長路の疲れによって姫は亡くなってしまいます。すると姫の体は虫となり、その虫が桑の葉を食べて成長して繭を作って絹ができたというあらすじで、この物語が哀調を帯びた独特の節回しで唄われます。今年の蚕影山和讃は、新築されたばかりの自治会館の二階で自治会長や自治会婦人部の皆様が立ち会う中、13名の女性の方々によって午前10時30分前から約20分ほどの時間で行われました。
以前は春の祭りは養蚕の準備に忙しいため祈願が中心であったのに対し、秋には一年の感謝として盛大に行われ、余興として周辺の一座を呼んで芝居をしたり、青年団が歌や踊りをすることもあったといいます。現在では、午後から地元の皆様による模擬店などが出るほか、カラオケや子ども会の囃子・景品が当たるくじ引きなどが行われています。
相模原は養蚕が大変に盛んであった地域であり、多くの養蚕に関わる行事や信仰が見られました。今では産業としての養蚕はすべてなくなってしまいましたが、今回紹介したような行事は、これからも地域の文化を伝えるものとして長く続いていっていただければと願っています(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(31) 有鹿神社の「お水もらい」(水引祭)~南区磯部・勝坂地区~(平成24年4月)
南区磯部の国指定史跡である勝坂遺跡(国指定史跡)は勝坂遺跡公園として整備されていますが、その段丘崖の下の湧き水が流れる一角に鎮座している石祠が有鹿(あるか)神社です。有鹿様というと海老名市上郷の鳩川が相模川に合流する地点にある神社が有名で、ここは神奈川県最古の神社とも称されています。そして、海老名にある御本宮に対して奥宮と位置付けられているのが勝坂の有鹿神社です。
この有鹿神社には大変興味深い伝承があります。かつて4月8日の有鹿神社の祭りは「有鹿様のお水もらい」などと言って、海老名から御神体を入れた神輿を担いで来てそのまま帰り、6月14日に改めて御神体を迎えに来たといわれ、この時には白い大蛇がよく見受けられたため神様が現れたといったそうです。勝坂はたくさんの湧水が湧き出す段丘の下に位置し、それらの水が鳩川に流れ込んで海老名に広がる水田の水源となっていたために行われた行事ではないかとされ、また、御神体が勝坂に渡御するに際しては、海老名と勝坂の途中にある座間の神様ともいろいろと係わりがあったとの話も伝えられています。
実は有鹿神社の祭りは現在も行われており、昨年(2011年)の場合には、まず4月3日(日)に地元の勝坂地区の方々によって実施されました。当日は午前中に氏子総代や自治会の社係り(地区の神社に関する当番)の皆様を中心に祠や参道の清掃を行い、幟を立てて鳥居などの注連縄を新しくして祠には米や酒を供え、代表者が榊をあげて全員でお神酒を飲んで終了となりました。この行事は8日に備えてであり、古くからのものではないとのことです。本来の祭礼日の8日(金)には海老名の有鹿神社の宮司と氏子総代(上郷及び河原口地区)の一行が勝坂までやってきて、「水引祭」が行われます。水引祭は海老名の方々だけで行われ、勝坂の人は参加しません(ただし、最後に海老名の代表が勝坂の総代の家に挨拶に行きます)。ここでは祭式の後に、石祠のさらに奥にある湧水の湧き出し口から宮司と総代の代表が水を汲むといった非常に特徴的な行為がなされており、この水は海老名まで持ち帰ります。また、この日、海老名の男の神が勝坂に至り、6月まで勝坂の女の神の元に留まることになるので帰りには軽くなっているとされています。海老名の有鹿神社からは、神を迎えるために6月14日を中心とした日に再度やって来るほか、最近では12 月20日にも祭りを行っているとのことです。
このような一連の行事に見る、水をめぐる海老名と勝坂の二つの有鹿神社の深い関係のあり方は、市内ばかりでなく相模川や鳩川流域に係わる広い地域の歴史や文化を考える際に重要な資料であり、注目される行事と言えます(民俗担当 加藤隆志)。