民俗の窓
- 相模原の民俗を訪ねて(No.95)
- 相模原の民俗を訪ねて(No.96)
- 相模原の民俗を訪ねて(No.97)
- 相模原の民俗を訪ねて(No.98)
- 相模原の民俗を訪ねて(No.99)
- 相模原の民俗を訪ねて(No.100)
相模原の民俗を訪ねて(No.95)
~津久井地域のお浜降り(平成29年7月)~
この「相模原の民俗を訪ねて」にも記してきたように、いよいよ『津久井町史文化遺産編』の刊行も今年度末に迫ってきました。それとともに旧津久井町域のさまざまな調査が進められおり、地域の祭礼の調査も多くの皆様のご協力のもとに行ってきました。今回は、夏場に各地で実施されている祭礼のうち、神輿が川に入る(あるいはかつて入っていた)事例について紹介したいと思います。
市内で神輿が水の中に入ることは、本欄No.57(25年7月)で「神輿が相模川に入る」として、中央区田名の滝・水郷田名地区での子ども神輿が川に入ることを紹介しましたが、津久井地域でも「お浜降り」と称して神輿が川の中に入る、あるいはかつて入ったことがあり、特に8月3日に行われる緑区青山神社の関地区の祭りでは、神輿が夜に地区内を流れる串川に入る勇壮な姿を見ることができます。
また、この地区の神輿の渡御では、ほかにもいくつかの特徴的な点が認められます。まず関上自治会館横の光明寺前では、神輿に対して神職が祝詞を上げた後に、地元の光明寺住職が読経を行って玉串も神職・僧侶ともに上げており、かつての神仏習合の跡を残しています。さらに、祭りのクライマックスとも称される串川へのお浜降り前に神輿は神社に一度戻り、かつて名主だった平本家に神輿が立ち寄って休んだ後に串川に向い、神職が神事を行って神輿に晒を巻くなどの水に入る準備をして、担ぎ手とともに神輿が川に入っていきます。この神輿(ご神体)は、関では緑区鳥屋から流されたものを組頭であった井上家が拾って祀ったものと伝え、そのためにお浜降りの後に当家に赴いてから神社に戻っていきます。
以上のような大掛かりなお浜降りは関地区だけになっていますが、例えば、津久井湖建設のために水没した荒川地区のお浜降りは有名であり、他にも中野神社や又野・八幡神社などでは、「浜降祭」としてバケツに入れた水を神輿に掛けることが行われています。ちなみに相模原地域でも前述の田名のほか、緑区大島・古清水や南区当麻の市場・宿・谷原地区でも神輿が相模川に入っていました。
そんな中で緑区太井の小網地区の諏訪神社では特徴的なお浜降りが行われており、本来は7月23日、現在はそれに近い土曜日が祭りで、午後2時に大人・子ども神輿と山車が神社を出発して集落内を巡っていきます。そして、渡御の途中の3時30分ころに津久井湖に神輿が降りて湖畔に置き、神輿の鳳凰だけ外して水に漬けています(大人神輿のみ)。
以前も記したように、旧暦6月に行われる天王祭は暑い時期に発生しやすい疫病を防ぐための祭りで、水神祭りの性格をも帯びているなど、水に関係したような行事や由来が多く見られることが知られており(吉川弘文館『知っておきたい日本の年中行事事典』)、市内各地に見られるお浜降りはこうした水に係わる行事として注目されるものです。
今回紹介した祭礼や民俗関係に限らず、『津久井町史文化遺産編』では美術や建築など、地域のさまざまな文化遺産について扱われることになっています。刊行の際には、多くの皆様がお手に取り、活用いただければ幸いです。
(民俗担当 加藤隆志)
相模原の民俗を訪ねて(No.96)
~「六字名号塔」を巡って(平成29年11月)~
前回のこの欄では、今年度末に刊行が予定されている『津久井町史文化遺産編』の編さんに関係して旧津久井町域の夏祭り(お浜降り)について記しましたが、もちろん同書は他にもさまざまな内容から構成されています。その中の一つが「石仏」です。ここでは「石仏」を「江戸時代から現在までに造立された庶民の信仰に係わる石造物で墓石を除く」とし、道祖神などの石神なども含みます。このような地域にあるさまざまな石仏を調べ、分析することでわかってくる庶民信仰の歴史や特徴を明らかにすることを目的としています。
旧津久井町域にもっともたくさん残る石仏は馬頭観音塔で、このほかにも地蔵塔や道祖神・庚申塔・二十三夜塔などが比較的多く見られます。そんな中で数自体はそれほどでもないものの、「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)が彫られたものがあります。特に、独特の書体と特有の花押(かおう)を持つ徳本名号塔は24基が市の登録有形民俗文化財となっています(それぞれの詳しい場所などは、市のホームページをご覧ください)。
徳本(とくほん。1758~1818)は、江戸時代後期に念仏を唱えて各地を布教した僧侶で、その教えを聴くために赴いた先には多くの人々が群がり、亡くなる前年の文化14年(1817)には、八王子から相模原に入って緑区橋本の瑞光寺や南区当麻の無量光寺を訪れました。そして、集まった人々は、徳本の筆による「南無阿弥陀仏」の六字名号札を授かり、それをもとに石に彫ったものが各地に残されています。当時、徳本に係わる念仏講が各地に組織され、名号塔が各地に造立されたものですが、造立年は無量光寺に訪れた文化14年のものがあるほかは、文政元年(1818)から徳本没後の数年に限られており、その信仰は一時期の流行でそれほど定着しなかったものと想定され、実際に行われていた念仏講を調査しても徳本との係わりを示すものはほとんど見られないことが大多数です。
写真1 二メートル以上の大きさがある徳本念仏塔
(左手奥・文政2年[1819]緑区三井)
この徳本の六字名号塔に対して、明らかに書体が異なる名号塔があります。これらには南無阿弥陀仏の文字のほかに、時宗の開祖である「一遍上人」の名や「遊行正統」などと記されており、また、「五十二代」や「五十六代」などの文字も見られます。実はこれらの名号塔は、時宗の宗祖である一遍(いっぺん)が開いたと伝える無量光寺に係わるもので、五十二代・霊随(れいずい)や五十六代・至実(しじつ)は当寺の住職です。特に霊随は文化14年に徳本が無量光寺を訪れた際の当主で、自身も各地を遊行して念仏講を働きかけており、それにより各地に名号塔が造立されました。
ここで注目されるのは、津久井地域全体では前者の徳本名号塔が旧城山町と津久井町を中心に11基(相模湖町1・藤野町0)あるのに対し、後者はむしろ相模湖町や藤野町に多く(相模湖町8・藤野町26。基数は『城山町史第六巻 通史編近世』に拠る)、さらに、津久井地域だけではなく、相模原地域や海老名・綾瀬・厚木など、県の中北部にかけて各地に分布していることも分かっています。
写真4 緑区青根 文政2年(1819)
「一遍上人五十二代」とともに「徳本行者」の文字も彫られている
写真5 緑区佐野川 五十二代霊随とある。文政4年(1821)
市域に無量光寺に係わる名号塔が多いことについては、徳本が無量光寺に訪れたことを機に、徳本の死後に自派である時宗の拡大を図ったとする説もあり(『城山町史第六巻 通史編近世』)、さらに時宗では後に藤沢に清浄光寺(遊行寺)が建立されていて、ここで挙げたような名号塔の分布はさまざまな地域の歴史を探る手がかりとなります。
『津久井町史文化遺産編』では、そのほかにもいくつかの石仏について取り上げ、造塔の推移や特徴を写真とともに紹介します。ご関心のある方は是非お読みいただければ幸いです。
(民俗担当 加藤隆志)
相模原の民俗を訪ねて(No.97)
~水曜会で柳田国男一行の内郷村調査の地を歩きました(平成29年11月)~
博物館には、職員とともにさまざまな活動を行っている市民ボランティアの会が各分野にあり、民俗分野でもいくつかの会が活躍しています。これまで「民俗の窓」や「ボランティアの窓」でも、そうした会の活動の状況を折に触れて紹介してきましたが、ここでは水曜会で実施した旧相模湖町の内郷地区のフィールドワークを紹介します。
水曜会は、内郷地区出身の郷土史家である鈴木重光氏が収集したものを中心に旧津久井郷土資料室に保管されてきたさまざまな資料を整理し、目録化を行っている会で、基本的には毎月奇数週の水曜日を活動日としていることからその名があります。活動を開始して七年が経ち、すでに約四万件の資料について目録を作成しており、その成果はさまざまな面に活用されて、例えば今年度の7~8月に実施した収蔵品展「江戸から昭和の津久井」展でも多くの資料を展示しました。水曜会では館内での作業だけでなく、整理に際して役立つ知識を得るための勉強会や各地区のフィールドワークなども行っており、今回は新しく作業に加わった方もいることから、改めて内郷地区を歩くことを計画したものです。
写真3 道志集落の「道祖神の家」。道祖神の石碑の上に作った小屋だが、次の写真のように2009年には杉の葉で葺いた家が作られていた。実際に歩くとこうした変化に出会うことも多い。
フィールドワークは11月29日(水)に12名で実施し、橋本駅からバスで「青山」バス停に行き、道志川を渡って内郷地区に入りました。その後は内郷地区の道志・増原・鼠坂などの集落を辿りながら相模湖に到り、最後は相模湖駅から電車に乗って帰宅というコースでしたが、フィールドワークの大きな目的の一つが山口地区の正覚寺に伺うことでした。
正覚寺は臨済宗建長寺派の古刹で、鎌倉建長寺の和尚に化けた狸が各地の寺を渡り歩いたという「狸和尚」伝説があり、また、境内に数多くの句碑が見られる寺としても著名で、民俗関係では大正7年(1918)8月に行われた内郷村調査の際に、日本の民俗学を創始した柳田国男などの調査者一向が宿泊した所として学史に名を残しています。
内郷村での調査は、わが国における組織的な現地調査のさきがけとも称されており、さらに、柳田がその後に自らの民俗学という学問を形成していく際に重要な意味を持ちました。この調査に際して地元で大変な尽力した者の一人が鈴木重光氏で、鈴木氏と柳田との交流は調査が終了しても長く続き、後に鈴木氏も神奈川県を代表する民俗学の研究者となっていきました(内郷村調査の経緯や展開等については、『相模湖町史民俗篇』に詳しく記されています)。今回は、水曜会での作業をさらに継続して進めていくに際して、今一度、地元に残る歴史や資料を再認識しようということで企画したものであり、正覚寺では御住職から寺の由来や狸和尚の伝承はもとより、内郷村調査での柳田らの様子などのお話しをご説明いただき、大いにその目的を果すことができました。
写真6 本堂内の、調査時に柳田一行の食堂と寝室になった部屋。
写真7 境内にある柳田が詠んだという「山寺や葱と南瓜の十日間」の句碑。ただし、新聞に紹介された見出しには「麩と南瓜の十日間」となっている。
もちろん実際のフィールドワークでは、歩きながら途中の他の寺院や神社、石仏等についても見学していき、地域に残るさまざまな文化を知ることができました。また、晩秋とは思えない温かい陽気の元で、きれいな紅葉にも心が和みました。
写真9 鼠坂集落の八幡神社。手前に見える土俵で祭礼の際に子ども相撲が行われる。
写真10 相模ダム(相模湖)。ここまで来るとゴールはもう少し。
水曜会での資料整理は、今後もこうした活動を織り込みながらもう少し続けていくことになりますが、会員の熱心な整理によってこれまで未確認だった柳田国男関係の資料がいくつか見つかっています。これらについては来年3月刊行の博物館の研究報告に紹介する予定ですのでご期待ください。
最後になりましたが、改めて正覚寺の山田御住職にお礼を申上げます。
(民俗担当 加藤隆志)
相模原の民俗を訪ねて(No.98)
~平成30年のどんど焼き~(平成30年1月)
この「民俗の窓」では、毎年1月に市内各所で行われるどんど焼き(団子焼き)について継続的に紹介していますが、今年注目したことが一つありました。この行事は本来、14日に行われることが多かったものの、祝日としての成人の日がいわゆる「ハッピーマンデー」として必ずしも15日でなくなったこともあり、その年によって土日曜や成人の日に行うなど、日取りが変化し、あるいは地区によってばらける状況となっています。それが今年は14日が日曜日に当ったことで日にちがどのようになるか、という点でした。結果は、やはり14日が多く、しかしそればかりではなく早いところでは7日の日曜日や8日(祝)の成人の日、また、13日の土曜日の実施も見られました。
こうした点からすると、12日(土)・13日(日)・14日(祝)となる来年はどうなるのか、早くも関心が持たれるところですがさすがにあまりにも気が早いでしょうか。いずれにしても、現在でも市内各地で盛んに行われるこの行事について、今後も注目していきたいと思います。
ここ二年ほどは、いよいよ今年度末に刊行予定の『津久井町史文化遺産編』編さんのための調査を実施していたため、旧津久井町各地の様相を主に紹介してきましたが、今回掲載するのは、13日(写真1~5)と14日(写真6~14)に相模原地区で行われたものです。多くの地区での事例をこれまでにもこの欄で扱っており、それらと見比べていただければと思います。
また、市民の方から町田市野津田町の事例(写真15~16)について教えていただいたため、併せて紹介します。
[13日]
写真1 中央区田名・清水地区。団子焼き当日の午前中に道祖神の小屋を作る地区で、今年も作られていた。
写真2 小屋は午後からの団子焼きの際に、運ばれて燃やしてしまう。
写真4 緑区大島の諏訪明神境内では、多くの人々が団子を焼きに集まっていた。
写真5 南区大沼神社。翌日のどんど焼きのため、夕方に準備が進められていた。
[14日]
写真6 南区当麻・昭和橋下。小屋を作成するが、数年前に屋根はトタン製になった。
写真7 南区当麻・日枝神社。常設の小屋。古くは写真6のように藁で作っていたかもしれない。古い御札類が納められている。
写真8 中央区田名・滝。相模川の河川敷に大きな燃やすものが作られていた。
写真9 中央区田名・堀之内。お飾りが納められた道祖神の前で小さなどんど焼きがある。
写真10 南区古淵。今年は14日に実施。燃やすものが小屋など二つ作られる。
写真11 先に道祖神の小屋に点火し、後から木材等を積んだものにも火をつける。
写真12 自家製の団子を持ってきて焼く。焼いた団子は取り替えると良いといわれる。
写真13 南区大沼神社。前日に積んだものも夕方にはすっかり燃やされて、団子を焼く人も少なくなっていた。
写真14 大沼は道祖神を燃やすものの前に動かす地区で、まだ元に戻されていなかった。
写真16 町田市野津田町。写真15よりも小さいが、鳥居を作るなど凝った作りとなっている。「塞の神(さいのかみ)」と記され、点火は午後5時との表示があった。
(民俗担当 加藤隆志)
相模原の民俗を訪ねて(No.99)
~民俗企画展実施中です。また、『津久井町史文化遺産編』が刊行されました~
(平成30年6月)
市立博物館は、昭和56年(1981)から建設の準備を始め、長い準備期間を経て約14年7カ月後の平成7年(1995)11月20日に開館しました。その間には、さまざまな資料の収集や調査を行ってきましたが、この中には、35年以上にも及ぶ期間に撮影された非常に多くの写真が含まれています。こうした写真は、長い時間を経て現在では見られなくなったものも写されており、市内の歴史や文化を知る上で貴重な資料といえます。
これらの写真は、平成22年(2010)刊行の『相模原市史民俗編』などでも活用されてきましたが、現在開催中の企画展「仕事・行事・祭り~写真に見るいま・むかし」では、民俗分野に関する写真のうち、建設準備や開館後も含めて撮影したものの中から、特にかつての仕事や行事・祭りが写された約150点ほどの写真を中心に、一部関連する実物資料も展示しています。開催は、7月8日(日)までで、毎週月曜日と6月26日(火)・27日(水)は休館です。
今回の展示が、地域の民俗に触れる機会となるとともに、博物館にこのような写真が保管されていることを知っていただければ幸いです。観覧は無料です。多くの皆様のご来館をお待ちしております。
カナコキ(千歯こき)の使用 南区新戸 昭和60年(1985)頃
麦や稲は、足踏みや機械の脱穀機以前にはカナコキで手扱きした。脱穀機を使用するようになってからも、来年に蒔く種籾には傷めないようにカナコキを使うこともあった。
正月11日が「百姓はじめ」で、年明け後に初めて畑に出る。その年の縁起の良い方向に向いて、鍬で畑を少し耕し、御幣を立てて酒や米を供えた。
月の二十三夜や二十六夜に集まる月待の講は、比較的早く消滅した地区が多い。女性の講で、養蚕は女性が多く係わる仕事であったため、市内では養蚕がよくできるように行ったとするところも多い。
青山関地区の神輿は串川を流れてきたといわれ、毎年この日の夜に、大勢の担ぎ手によって実際に神輿が川に入る勇壮な姿を見ることができる。なお、この写真は当館で活動する民俗調査会会員の小田和夫さんが撮影し、博物館に提供いただいたものである。
井戸から水をくみ上げる桶に結ぶ綱は、太くて長さも必要なため近所の家々が共同で編んだ。原当麻地区で久しぶりに井戸綱作りの再現を行うことになり、撮影させていただいた。
また、民俗関係ではもう一つニュースがあります。平成16年(2004)3月に第一冊目の『津久井町史資料編 近世1』を刊行以来、津久井町史の編さん事業を行ってきましたが、その最終巻となる『文化遺産編』が刊行されました。内容は、旧津久井町の文化遺産が957点に及ぶ豊富な写真や図表とともに掲載され、神社や寺院の建築、仏像、絵画、古民家、砂防堰堤等の近代化遺産のほかに、神社や寺院の祭礼行事と石仏についても現状の調査を基に紹介されています。
特徴として、神輿や山車の巡行が行われる17の神社の例祭についてその実態と若干の変遷に触れ、石仏では悉皆調査の結果に拠って近世以降のもの1327基を対象に、石仏の種類・造立年代の分布・地区別の状況などを示しています。そして、石仏の中でも道祖神信仰とのつながりが強く、現在でも各地で盛んに行われているどんど焼き行事を取り上げています。関心がある方は是非ご覧いただければと思います。
博物館や図書館で閲覧できるほか、有償(4,060円)でも頒布します。さらに『津久井町史文化遺産編』のほか、『相模原市史 別編』(1,690円)・『同別編 CD版』(920円)・『相模原市史ノート第15号』(760円)も刊行されました。内容等、詳しいことは博物館ホームページをご覧いただくか、直接、博物館内の市史編さん班にお問い合わせください(電話042-750-8030)。(民俗担当・加藤隆志)
7月から8月にかけて、旧津久井町域の各地で連日のように神輿が担がれ、山車が出る。
中野神社の山車。六基の山車が一同に集まり、勇壮に囃子の叩き合いが行われる。
他ではあまり見られない、特徴的な像容の庚申塔(長竹・寛文9年[1669])。同じような像容で、造立年代も近い庚申塔が数基確認できる。
上青根地区ではどんど焼きに燃やすものを高く積み上げ、周辺の山々に映える。
相模原の民俗を訪ねて(No.100)
~南区当麻・市場集落のお日待の掛軸~
(平成31年1月)
平成22年(2010)から、相模原市内及び周辺地域の行事や民俗に係わるさまざまな内容を掲載してきた「民俗の窓」欄も100回目を迎えました。今回は、そうしためでたい機会にふさわしい新年のお日待(おひまち)を紹介したいと思います。
南区当麻の市場は、一遍上人が開いたとされる時宗の古刹である無量光寺の西側に位置する集落で、ここでは毎年1月20日のエビス講前後の日曜日に地区の公会堂でお日待が行われています。お日待とは、特定の日に集まったりおこもりをすることを言います(『日本民俗大辞典』)。
そして、相模原市内の古くからある集落では、講中(こうじゅう)と呼ばれる家々のまとまりがあり、かつて自宅で結婚式や葬式をやった当時には、講中の家々がお互いに助け合ってさまざまな仕事を行いました。また、講中では、結婚式や葬式でも使う多くの食器類やいろいろな道具を保管しており、講中に加わっている家が自由に使用するなど、こうした道具類は共有財産として大切なものでした。しかし、社会の変化によって自宅での行事は見られなくなり、各地の講中で道具類の整理が行われています。
多くの講中道具が保管されていたコンテナ
今回の取り上げる市場集落でも講中道具を整理することになり、それに伴って多くのものを博物館に寄贈いただきましたが、掛軸類は食器などとは異なり、現在もお日待の際に飾るということで地元に残されることになりました。そこで、せっかくの機会でもあり、飾られた掛軸の撮影をお願いしました。
今年は1月20日がちょうど日曜日に当り、お日待は当日の午前11時から開始予定で、朝から近くにある金比羅神社の掃除やお祓いをした後に行うことになっているため、終了後の10時頃から準備が始まりました。お日待では、正面に天照皇大神・秋葉神社・稲荷神社・金刀比羅宮・古峯神社等の8点の掛軸を吊り下げ、米や酒・昆布・スルメ・野菜・果物などをお供えします。列席者がこれらの掛軸を拝礼した後には引き続いて新年会になるので、その支度も同時に行われました。
『相模原市史民俗編』に拠ると、秋葉神社と古峯神社はいずれも火災除けの神として信仰されていましたが、秋葉神社の本社は静岡県、古峯神社は栃木県にあって両者はかなり離れています。また、金刀比羅宮は香川県、稲荷の掛軸のうち一点は白笹稲荷で秦野市が本社というように、さまざまな神の掛軸が同時に掛けられており、元々は別々に秋葉講や古峯講などとして行われていたことも考えられるものの、地元の方に伺うと記憶がある範囲では、現在のような形で実施しているということでした。いずれにしても、新年会を兼ねながらさまざまな掛軸を飾るこの地区のお日待は、かつて市内で盛んであった各種の信仰を示す講がほとんど見られなくなっている中で、大変興味深い行事の一つと言うことができます(民俗担当・加藤隆志)。
飾られた8点の掛軸
向って左から秋葉神社(2点)・稲荷神社
向って左から金刀比羅宮・天照皇大神(2点・左側のものが中央になるため、前に供え物が置かれている)
向って左から天照皇大神(上記のものと重複)・白笹稲荷・古峯神社