相模原の民俗を訪ねて(№89)~緑区根小屋地区・功雲寺の涅槃会と涅槃団子作り~(平成28年2月)
緑区根小屋地区の功雲寺は、戦国時代の津久井城主・内藤左近将監景定を開基とする曹洞宗の古刹で、境内には内藤氏の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう・市登録有形文化財)が遺されています。今回は、2月14日(日)に行われた当寺の涅槃会(ねはんえ)とその準備の涅槃団子作りについて紹介したいと思います 涅槃会は、2月15日の釈迦が亡くなった日に営まれるもので、寺院では横たわっている釈迦の周りで弟子たちや各種の動物が嘆き悲しんでいるところを描いた涅槃図を掲げて法会が営まれることがあります。ちなみに功雲寺に飾られる涅槃図はかなり大きく立派であり、収納されている箱書きに拠ると天保12年(1841)の作で、さらに表具の柱の部分には、この涅槃図を製作するに際して施主となった多くの者の名前が記してある珍しいものです。そして、この時には丸い団子などを作ることがよくありますが、功雲寺ではそうした丸い団子とともに、動物の形をした形物(かたもの)と呼ばれる涅槃団子も一緒に作っています。
蒸かした米粉をこねる。今年は別の寺からの応援がたくさん来られたので助かった
大きくて立派な功雲寺の涅槃図
施主の名前が書かれているのは珍しい
婦人部の役員による団子作り。多くの動物が作られる
出来上がった団子。小さな動物たちがかわいい
団子作りは涅槃会前日の13日の午前中に行われました。蒸篭(せいろう)で蒸した米粉を、白いままのほかに青(水色)や赤(ピンク)・緑(若草)・黄色など、いろいろな色に染めてよくこねます。作る動物は涅槃図に描かれているものなら良いとのことで、蛇やタヌキ・犬・鳩・ウサギなどが中心です。また、動物によって特に色などが決まっているわけではなく、動物の形のほかに丸い団子も同時に作ります。材料となる米は団子をいただく檀家から供えられたもので、今年は一斗三升の米粉とのことでした。ずいぶん多いように思えるものの、昔に比べるとずいぶん量は減っているそうです。実際に団子を作るのは檀家の婦人部の女性たちで、いろんな話をしながら和やかな雰囲気の中で昼時までには完成し、団子は翌日までそのまま置いて乾燥させます。
色付きの丸い団子も作られる
14日の涅槃会の前に各家に配る団子を袋に詰める
それぞれ袋に詰められた団子
翌14日は、まず12時に寺に御詠歌を上げる女性の方々が集まり、各檀家に配るために袋に動物と丸い団子を入れていきます。今年は涅槃図にお供えするものなどを除いて全部で87袋分を用意することになっており、数は全体の量を調整しながら詰めていきました。
特に一袋の中にどの動物をいくつ入れるという決まりはなく、ただ蛇は喜ばれるので蛇だけは必ず入れるようにします。各家に配られた団子は家々によってさまざまで、ある家では一年中仏壇に置いておき、新しいものが来たら昨年の分を下ろして朝の味噌汁に入れて食べ、別の家では蛇だけを仏壇に置いてそのままにしておき、他の団子はすぐに食べてしまうと言います。そして午後2時から始まった涅槃会は住職と副住職の読経や御詠歌があり、15分ほどで終了しました。この後、涅槃図の前に置かれていた団子は各家に配られることになります。
もちろん団子は涅槃図にも供えられる
涅槃会は午後2時から始まった
この家では蛇だけを高杯に乗せて、一年間仏壇に供えておく。
ここで紹介した動物の涅槃団子作りは近隣の寺院では行われておらず、大変珍しいものです。行事の由来としては、先代の御住職が、曹洞宗大本山の総持寺(火災をきっかけに明治末に現在の横浜市の鶴見に移転)があった石川県鳳至郡門前町の出身で、子どもの時に近くの総持寺祖院に入山しており、この修行時代を思い出して功雲寺で始められたとのことです。このような離れた場所から伝えられた行事がすっかりこの地域に定着していることは、行事や文化の伝播や流通といった側面からも注目されるところで、今後とも長く続けられていくことを願わずにはいられません。なお、今回の調査に当たっては、功雲寺の御住職をはじめ、檀家の婦人部及び御詠歌の皆様など多くの方々に多大なご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。
祭り・行事を訪ねて(№88)~川崎市麻生不動のだるま市~(平成28年1月)
小田急線柿生駅から歩いて20分ほどの所にある麻生不動(川崎市麻生区下麻生)は、昔から火防せの不動として有名で、古くから火難から守ってくれる不動様として信仰されてきました。毎年1月28日の初不動の日が縁日で、この時ばかりは普段はひっそりとしている境内が大勢のお参りの人々で大変な賑わいを見せます。お堂に到る参道には多くの露店が並び、食べ物を売る店や金物類・日用品などさまざまなものがある中で目に付くのがだるまを売る店で、この縁日が「だるま市」と言われるゆえんになっています。だるまが売られるようになったのは明治の終わりころで、平塚近辺で作られている相州だるまが中心です。
寛政11年(1799)の題目塔。周辺六か村の講中によって造立された。講中では助け合って先祖の霊を弔い、信仰を深めたとされる。
浄慶寺本堂。この時期にはあまりなかったが、アジサイなど折々の花が咲くことで有名。また、表情豊かな石造の羅漢像が出迎えてくれる。
常安寺境内の河童像。この寺には河童にまつわる伝説が多いという。
この地域の鎮守である月読神社。一時、周辺の神社と合祀されて麻生神社と名づけられたが、月読神社の社名を遺すということで再びこの名となった。
麻生不動の初不動を示す幟。階段下の規制でお参りまでもう少し。
麻生不動の縁日でもう一つ忘れてはならないものがあります。それは穴あき銭で、これを祀ると火傷や火難を防いでくれるといわれ、毎年お参りして穴あき銭をいただいて前年のものはお返しするとされていました。市内でも盛んにお参りに行くことがあり、例えば緑区相原ではこの穴あき銭をヒジロ(囲炉裏)のオカギサマ(自在鉤)に吊るしておくと、子どもがヒジロに落ちない、火傷をしない、南区上鶴間では穴に針金を通してオカギサマに吊り下げると火災除けになる、南区下溝でも第二次世界大戦以前にはほとんどの家が麻生不動に行って穴あき銭を替えていました(『相模原市史民俗編』)。同じく下溝の古山地区では、この日に若い衆が麻生不動まで自転車で行き、古い穴あき銭と新しいものを取り替えてから日野の高幡不動に回り、さらに八王子で遊んで帰ってきたという話も残っています。また、不動堂の境内には、昭和55年(1980)12月に建てられた城山町(当時)川尻地区の人々による不動講結成50周年の記念碑があり、津久井地域にも信仰が広まっていたことが分かります。
麻生不動本堂。実に大勢の参拝者がいた。
境内や参道には多くのだるまを売る店があった。
今では少なくなってしまったが鍬や刃物等を売る店も出ていた。
不動が描かれた御札と現在授かることができる穴あき銭。穴あき銭はもちろん模したもの。
本館で市民とともに活動している民俗調査会では、毎月市内及び周辺地域のフィールドワークを行っており、今回は市内各地でもお参りに出かけた麻生不動の初不動の見学会を行いました。当日は麻生不動だけでなく、途中のいくつかの神社や寺院、石造物なども見学しながら歩いていきましたが、麻生不動に近づくにつれて物凄い人出で、境内に入る階段では入場制限が行われるほどでした。こうした多くの参拝者は、お参りを済ませると御札や穴あき銭をいただき、あるいはだるまを選んだりして一年に一度の縁日を楽しむ様子が見られました。それは民俗調査会の会員も同様で、かつてこの不動様に火難や子どもの火傷除けを願った人々の想いの一端に触れることができました。今後とも機会を捉えて市内及び周辺地域のさまざまな行事について、さらに「民俗の窓」で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
※今回紹介する写真は、民俗調査会の小澤葉菜さんが撮影したものです。
相模原の民俗を訪ねて(№87)~平成28年のどんど焼き(2)~(平成28年1月)
今年(2016年)の調査では、旧津久井町とともに津久井地域を中心に他の地域でも写真を撮影することができました。前回(№86)に引き続いて、それ以外の地区の様子を写真とともに紹介します。
【10日】
葉山島下倉(旧城山町) 葉山島では各集落が相模川沿いに立てる。
葉山島中平 竹を高く立てる様は見栄えがする。
葉山島藤木 各地区で燃やすのは翌週になる。
【11日】
城山(旧城山町) 当日午後6時点火予定。14日点火を今年から今日に変更した。
小倉(旧城山町) 小倉では三か所で実施。午後2時30分に点火し、訪れた際にはすでに団子焼きが終了に近くなっていた。
千木良岡本(旧相模湖町) 集落の畑の中に高いものを作っている。
千木良西 千木良地区の西側の鎮守である牛鞍神社境内に作られている。
千木良赤馬 同地区の東側鎮守の月読神社境内に見られる。
寸沢嵐道志北 道志では各地区で道祖神のイエを作るが、まだ昨年のままでここでは新しいものができていない。
寸沢嵐道志南 道志北と同様に古いままである。
寸沢嵐道志舘 ここでは前日の10日に新しいイエが作られた。
寸沢嵐沼本 沼本では二か所で行われ、ちょうど下地区が公会堂の敷地で準備中だった。点火は14日夕方。
寸沢嵐関口 午後3時点火。場所は古くから現在でも行われている川の辺だが、かつては14日朝5時に点火していたという。
南区当麻中・下宿 毎年、道祖神の上にお飾りで小屋状のものを作る地区だが、今年はトタンの屋根ができていた。
多くの市民の皆様のご協力を得ながら毎年進めてきたどんど焼き調査も今年で13年目を迎え、かなり各地区の状況が分かってきました。 そして、今年も例えば青野原地区で道祖神の幟があったり、道祖神にお参りしてから点火する例(鳥屋道場地区も道祖神の前で実施)が見られるなど、いくつかの新たな発見があったり、日取りの変更を含めて変化しつつある地区も認められます。もちろんまだ情報がない地区もありますので、今後とも調査を継続して各地の事例をさらに集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№86)~平成28年のどんど焼き(1)~(平成28年1月)
毎年恒例となった1月のどんど焼き(団子焼き)の調査は、今年(2016年)は29年度刊行予定の津久井町史文化遺産編の基礎資料とするために、緑区の旧津久井町域を中心に9日(土)~11日(月・祝)にかけて各地に伺いました。この成果は本書の中にも反映させますが一足早くその様子を写真で紹介します。今回掲載するのは、9日から順に加藤が訪れた地区を中心とし(10日と11日には五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんにも同行していただきました)、同時に何か所でも行なわれるために手分けをして他の職員が回った他の所については取り上げていません。なお、もちろん今回撮影できていない地区も結構あり、そうした地区については改めて補足する予定であることを付記します(民俗担当・加藤隆志)。
【9日】
三ヶ木中村 午前9時点火の様子
青野原上原・下原・嵐 道祖神の幟があるのは珍しい。現在でも、以前に実施していた道祖神碑に酒をお供えし、お参りしてから点火する。
青山宮前・宮下 青山神社での準備の様子。
青山大堀 準備の様子。昔はもっと大きいものを作り、場所も動いているという。また、かつては子どもたちがすべて行い、大人は手を出さなかったという。
青野原前戸 道祖神碑の所に正月飾りが納められていた。どんど焼きは翌10日。
【10日】
旧津久井町だけではないが、第二日曜日である10日に多くの地区で実施された。
根小屋寺沢 正月飾りを積んだものをヤグラと呼ぶという。
根小屋谷戸 午前7時点火し、火が落ち着いたら団子を焼く。
根小屋明日原 根小屋地区は10日午前に点火する地区も多い。
三井 集落の新年のつどいとしてどんど焼きが行われ、多くの人が集まる中、お囃子も奏でられた。
青根東野 隣りの上青根地区とともに、大きなものが作られる。
青根上青根 山間の風景の中に大型なものが映える
青根荒井・平丸 合わせて36世帯ほどの小さな集落でも行われる
【11日】
根小屋土沢 燃やすものの作り方が特徴的である。
根小屋根本 団子を焼くのにちょうど良い火加減にするため早目に点火する。
又野 どんど焼きの後には餅つき大会や新年賀詞交換会も予定され、賑やかに行われた。
相模原の民俗を訪ねて(№85)~薬師堂の数珠念仏~(緑区三井の名手地区・平成27年10月)
緑区三井の名手地区は相模川の左岸、尾崎咢堂記念館の横を川に向って下り、名手橋を渡った所の地区です。名手地区には東光寺という真言宗の寺院のほか、そのすぐ近くに東光寺持ちの薬師堂があります。今回は、この薬師堂で10月12日(月・祝)に行われた「数珠念仏」を紹介します。
正面から見た薬師堂
薬師堂はその名の通り薬師如来を祀り、地区の自治会館の奥が堂となっています。『津久井郡文化財寺院編』に拠ると、かつては地域の女性たちによって、1・3・10・12月の12日の夜に数珠念仏が行われていました(本が刊行された昭和61年[1986]当時は昼間)が、現在では3月(薬師堂が火災に遭った月)と10月12日の年二回になっているとのことです。今回は8名の女性が集まり、午前11時30分頃から始まりました。
まず鉦を叩きながらいくつかの念仏を唱える
最後の「おじゅず」で数珠を回す。
集まった方々は薬師様の前(厨子の中に祀られていて、開扉はしません)に円形に座り、まず鉦を叩きながら、「薬師様」「観音様」「地蔵様」「不動様」「金比羅様」「大師様」の順に念仏を唱えていきます。本来は各五回ずつとのことですが、今回は三回ずつ唱えられました。そして、最後に「おじゅず」になり、この時に長い数珠を時計周りとは反対に回して、大珠が回ってきた方は持ち上げて拝むようにします。なお、これらの念仏の詞章は、他のものも含めて『津久井町郷土史第九集(三井・名手編)』の中に記されています。
数珠の大珠が回るといただくようにする
数珠で体の痛いところなどを叩く
このように数珠念仏は約20分弱で終了して、当番の方を中心に昼食の準備となりますが、使い終わったばかりの数珠で参加者の背中や腰を叩くことも見られました。例えば肩こりがある人が数珠で肩を叩くとコリが取れるなど、体の痛いところに当てて叩くと良くなるとされているとのことで、参加者はそれぞれ気になる場所を叩きました。ちなみに今回は津久井町史編さんのための調査として町史の職員とともに訪れ、私たちも叩いていただきました。そして、この後は昼食となり、かつては参加者は前後に体をゆすりながらかなりゆっくりと念仏を唱えたため時間が長かったことや、中学生くらいまでの子どもに終了後に菓子を配り、この菓子は地元から出ている人が数珠念仏に合わせて送ってくれたもので、子どもは菓子をもらうのが楽しみだったことなど、地域のいろいろなお話しを伺うことができました。
数珠念仏に使われる数珠
「民俗の窓」でも、例えばNo.81田名新宿の観音堂のオコモリやNo.77下溝古山の地蔵の念仏など、各地の念仏の様子を紹介してきました。その中では、この数珠念仏は最後に念仏の際に用いた数珠で参加者の体を叩くという点が他の地区ではほとんどなく、病に悩む人々を救ってくれる薬師如来を祀るお堂で行われる行事として、特徴あるものと言うことができます。他の地区と同様に、今後の行事の継続については大きな課題もあるとのことですが、こうした行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません。これからも「民俗の窓」で各地の行事を取り上げて紹介するとともに、平成30年3月刊行予定の『津久井町史文化遺産編』にも反映させていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№84・番外編)~横浜市歴史博物館との交流会で厚木市周辺を歩きました(平成27年10月)~
本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会が定期的に交流会を行っていることは、これまでも「民俗の窓」や「ボランティアの窓」でも紹介しており、今回は10月4日に厚木市を歩きました。県内の石仏等に用いられる石材として、主に県西部の安山岩系と厚木市七沢や清川村煤ヶ谷などで産出される凝灰岩があることが知られていますが、今回の交流会では特に近世中期以降に盛んに用いられた七沢石の細工場跡と考えられる場所の見学を中心に、ほかにも特徴ある石仏を見ることを目的に実施しました。当日の参加者は、相模原から16名、横浜から6名の会員のほか、両館の民俗担当の学芸員に加え、石材ということで本館の地質担当学芸員、ご当地の厚木市郷土資料館長、さらに来年春に石の文化をテーマとする企画展を実施する予定の県立歴史博物館の学芸員も参加するなど、賑やかな交流会となりました。
武神像が彫られた地神塔。左横に俵石も見える
熱心に地神塔などを見学する参加者。住宅地の中に思いもかけないものがある
当日は、まず本厚木駅周辺の見学ということで、相模川の厚木の渡し場跡のほか、道祖神碑や地神塔などが祀られている稲荷社などに行きました。地神塔は、ほとんどが「地神塔」や「堅牢地神」などの文字を記したものであるのに対して、この地神塔は地神講の際に飾る掛軸に描かれた武神像が彫られており、珍しいものです。また、俵の形をした小さな俵石もこのあたりではあまり見かけないものといえます。
「信州高遠住 石工 弥市」の銘文
道祖神がまとまってあり、見ごたえがある
次にバスに乗り、愛名地区の妙昌寺にある二基の題目塔に向かいました。これは信州高遠石工が七沢石を用いて作った厚木市内最古のものとされ、七沢石の石場の切り出しと高遠石工の係わりを示すものとして知られています。残念ながら宝永7年(1710)のものは石工名の部分の剥離が進んでいますが、明和2年(1765)の題目塔は石工弥市の銘もはっきり読むことができます。続いて式内社と伝える小野神社において、地区内にあったものを集めた5基の道祖神を見学しました。文化3年(1806)の双体像のほか、3基の双体像と県内では相模川中流域に分布する1基の単体像も眼にすることができます。
少し崖状になった場所に目当ての石材が見られた
中央部に細工跡が分かる
午後からはいよいよ七沢石の細工場跡で、広沢寺温泉入口バス停から30~40分ほどの平坦な道や登り坂を歩いてようやく到着しました。道沿いの少し沢を上った当たりに、ノミやクサビを入れた跡などが残った石をいくつか確認することができ、その場で地質の観点からの説明を聞いてまた来た道を引き返してバスで本厚木駅に向いました。
当日は天気も良く、絶好のフィールドワーク日和で少し暑いくらいであり、さらに、途中は意外と歩く距離が長く、午後からの坂道も大変でしたが、それでも充分に目的を果たすことができ、充実した楽しいフィールドワークを行うことができました。今後とも両博物館の市民の会の一層の交流を図るとともに、当然のことながら相模原でも七沢石の利用をした石仏は多く、また、高遠などの石工銘が入った作例も残されています。こうした石仏に関しても、今後この欄で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№83)~緑区中野神社祭礼と山車~(平成27年7月)
7月から8月にかけては祭りの時期で、市内でも各地で夏祭りが行われます。そうした祭りの様子はこれまでも「民俗の窓」で紹介してきましたが、今回は緑区中野地区の中野神社の祭礼について、祭りで曳かれる山車を中心に紹介します。
中野神社は旧津久井町の中野地区に鎮座する神社で、天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』には「諏訪神社」とあり、文久2年(1862)には中野神社の社号を許可されたと言います。祭礼は7月28日で、現在では7月の最終土・日曜日(ただし、30・31日に当たる場合は一週間前の23・24日)に行われ、今年は25・26日になりました。また、本来の当たり日の28日には今でも神事が執り行われています。
中野神社を出発した宮神輿。神輿は土曜日に担がれる
森戸の山車
仲町の山車
上町の八王子から譲り受けた山車。今回の写真にはないが人形を乗せた台も残っている
中野神社の祭礼で特徴的なのは、土曜日に神社の宮神輿の巡行があり、翌日の日曜日に森戸・仲町・上町・奈良井・大沢・川坂の中野地区に六つある各自治会の山車が曳かれることです。今年は25日(土)の午後に中野神社の宮神輿が氏子地区を巡行し、さらに六基の子ども神輿も各自治会ごとに担がれました。ちなみに宮神輿は昭和29年(1954)に浅草から購入したもので、当時の氏子総代が一緒に写った記念写真が残されています。山車の運行は前述のように26日(日)で、今までも「民俗の窓」で紹介してきた民俗調査会有志で山車の運行の一部を見学させていただきました。
奈良井の山車
大沢の山車
川坂の山車。中央はかつて使用されていた山車。手前は太鼓車
出発する川坂の山車
当日は、まず午前中に各自治会の本部に置かれている山車を順番に見学していきました。そのなかには、「民俗の窓」No.38でも紹介した、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から上町が譲り受けた山車もあり、雄略天皇を乗せた人形山車の形態で、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされています。そして、昼食後には六基の山車が一同に集まって神事が行われる、旧道とバイバスの合流点付近の大沢本部前に赴き、神事の様子や六基の山車がそれぞれ賑やかに囃子を行う叩き合いを見学しました。この後、山車は順番に中野地区の旧道の町並みを囃子を奏でながらゆっくり進み、各自治会の本部を夕方にかけて順番に回っていきます。こうした山車の運行は夜にも行われ、真夏の夜に華やかな囃子の競演が行われることになります。
大沢本部での囃子の叩き合い。それぞれの山車が賑やかに囃子を奏でる
中野の町を山車が連なって進む様子は見事である
川坂本部での叩き合い。この後、夜に掛けて山車の巡行が行われる
夜の囃子の叩きあいも見事である(安達美紀さん提供)
この日は気温35度を越えるかという激しい暑さでしたが無事に祭りが行われ、勇壮な山車の巡行と囃子を楽しむことができました。今後とも市内各地の祭りについて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№82)~田名・半在家地区の地鎮講資料~(平成27年7月)
「民俗の窓」No.54(平成25年5月)では、南区当麻地区下宿の地神講の掛軸等を紹介しましたが、ここでは中央区田名・半在家(はんざいけ)地区の皆様から同様の掛軸や帳面などが博物館に寄贈されましたので紹介します。
地鎮講に掛けられた地神の掛軸(全体)
地神講(じじんこう)は、農業の神、土地の神を祀る信仰的な集まりで、地神講では地神像が描かれた掛け軸を飾って豊作を祈りました。こうした各地に見られた地神講も時代の流れの中で中止することが多くなり、半在家でも昨年の11月22日に実施された講(出席者12名)を最後として解散され、地鎮講(半在家では「地鎮講」と称していました)の掛軸と帳面類を御寄贈いただきました。
今回、御寄贈いただいた資料は、掛軸が2点、帳面・ノートが5点で、掛軸は手書きの地神像が描かれたものと江戸時代から伝わるとされる女神像です。第二次世界大戦以前には、この地域に地神講をはじめ、二十三夜講や二十六夜講、稲荷講、伊勢講などのさまざまな講が行われていたようで、それが戦争が激しくなって中断を余儀なくされました。戦争が終了した昭和二十六年(1951)に地鎮講として一つにまとめて復活し、当初は半在家第五区の13軒(古くは半在家全体で行ったといいます)が、初日に男性、二日目は女性が持ち回りの宿に集まって講をしていました。
地神像は吉川啓示画伯が描いた
地神像の掛軸は、表に「地鎮様御奉納箱」、蓋裏に「昭和二十六年三月二十四日 地鎮講 半在家第五組」と記された軸箱に入っており、やはり地神像に多い、右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ武神像が描かれています。この掛軸は上溝出身で地元の著名な日本画家であった吉川啓示画伯(1910~2006・日本美術院特侍)に依頼して描いてもらっており、市内の美術資料の面からも注目されるものといえます。また、もう一点の古い掛軸は勢至菩薩のようで、二十三夜講などに使われていたと考えられます。元々は地鎮講とそのほかの講とはもちろん別のものながら、復活した際にはいずれも両方の掛軸を掛けて講を行い、線香を上げて拝んでいました。
勢至菩薩と考えられている掛軸で、古くから伝わっていたものである
5点の帳面類のうち、一点は天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」です。半在家には伊勢講の伝承があり、江戸時代には伊勢講が流行って資金を集め、一生に一回は伊勢参りをするのが目的であったものの、実際は皆で伊勢参りをすることはできなかったそうです。また二点は、明治19年(1886)と大正2年(1913)の二十三夜講に係わるもので、講員や当番、規約などの記載があり、後者には毎年4月13日と10月13日にお日待をすることなどが見えています。
地鎮講の推移が分かる帳面とノート
帳面の最初には地鎮講の目的が記されている
天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」。当時も伊勢参りが行われていたことが分かる
残りの二点が「地鎮講人名并記録帳」と記された帳面とノートで、帳面には昭和26年3月24日から昭和51年10月3日まで、ノートには昭和52年以降のことが記されています。前者の帳面の冒頭には、上記のような復活の経緯や全員が介して農作物の豊穣を祈り、近隣協力和合して農家の生活を向上を遂げるとする地鎮講の目的が記され、当初は13名で開始されたことがわかります。そして、この帳面やノートには、講の開催日や当番・会計はもちろんのこと、講の場で行った申し合わせや協議事項等も書かれており、地鎮講の推移や地区で話し合われたさまざまな事柄についても知ることができます。
その内容は長い時間の経過の中で大部に渡り、とてもここで多くを紹介することはできませんが、例えば復活後10年を経た昭和36年(1961)からは、女性の慰労として近隣へのバス旅行が開始されています。また、一般に地神講は春と秋の彼岸の中日に近い戊(つちのえ)の日である社日(しゃにち)であることが多く、半在家でも毎年3月か4月と9月あるいは10月に行われました。それが昭和62年(1987)から春の年に一回、3月下旬~4月中旬になり、平成9年(1997)からは9月下旬~10月中旬の秋一回に変更されました。平成18年ころからは地鎮講の継続についての議論がなされ、その後はこの件に関して毎年のように話し合われています。
このほかにも、地域内の道路の改修や自治会館の建設等が話題になったことなども見えており、この帳面やノートは地鎮講の信仰に係わる推移はもちろんのこと、地域の中の社会生活を辿る上でも興味深い資料と言うことができます。そうした貴重な資料を御寄贈いただいた田名・半在家の地鎮講の皆様に深くお礼申し上げるとともに、今後ともこのような資料が示すさまざまな地域の歴史や文化について、お伝えしていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
相模原の民俗を訪ねて(№81)~観音堂のオコモリ~(中央区田名新宿地区・平成27年4月)
田名新宿集落は田名地区に11ある古くからの集落の一つで、他の相模川に近い田名の集落とは異なり、上溝からほど近い場所にあります。今回紹介するのは、田名新宿で行われているオコモリと呼ばれている行事で、毎年、4月18日と10月18日に自治会館と兼ねている観音堂において、自治会婦人部の行事として行われています。そのため参加者は準備に当たる方を含めて全員女性で、婦人部長と副部長(2名)の三役が進行等を担当し、そのほかの役員は、基本的には全く同じことを行う春と秋のオコモリの際に半数ずつ出て準備などに当たるとのことです。
当日は午後7時30分から開始の予定ですが、7時頃にはすでに終了後に参加者に配られる菓子等を分ける準備が始まっており、机にはオコモリで唱える和讃(念仏)の帳面も用意されていました。その内容は、表題に「観音様念佛帳」(昭和55年5月作成)とあるものに「観音様(南無観世音菩薩と9回くりかえす)」・「お子守り念仏(3回くりかえす)」・「お拝み念仏」・「お茶念仏」が記され、別の帳面は「水子供養和讃」とあり、この中にも「お子守(こもり)念仏」とあるように、観音様は昔から安産の神として地域の人々の深い信仰を集めてきました。
参加者は、まず観音像等に線香をあげて拝む
先にろうそくに火を灯しておく
オコモリでは、帳面を見ながら一同で和讃(念仏)を唱える
途中、短くなったろうそくを代えて、新しいろうそくを灯す
新しいろうそくの下に短くなったろうそくが見える。このろうそくを貰って安産を願う
オコモリが始まる前に、参加者は観音様に線香をあげて拝んでから席に着きます。そして、部長の挨拶等があり、以前録音したテープを流しながら前述の和讃(念仏)が開始されました。途中、お拝み念仏が終了した後には、参拝者(婦人部の役員以外の参加者)にお茶と少しの砂糖が出され、砂糖を少し舐めてお茶を飲み、のどを潤してから引き続いてお茶念仏となりました。また、オコモリが始まる前には、観音様の両脇の太いろうそくとは別に小さいろうそくも何本か火を灯しますが、このろうそくは燃え尽きる前のかなり短くなった時に新しいものに取り替え、先に燃やして短くなったろうそくは捨てずに置いておきます。オコモリで灯した短いろうそくを持ち帰り、お産を控えている家では丁重に灯して安産を祈ったり、出産が始まった際に灯すと安産だとか、ろうそくが燃え尽きるまでに早く生まれて陣痛も軽く済むと言われているそうです。和讃(念仏)は約25分ほどで終了し、その後は全員配られた菓子や茶を飲んで歓談となりました。
観音堂がいつから祀られているのかはっきりしないようですが、現在、91歳の女性の方が結婚した70年ほど前にはすでにこうした形で行われており、観音様の厨子を開けてお姿のご開帳をし、ろうそくを灯して念仏を唱えて観音様を迎えるオコモリが行われていて、安産のご利益があるとされていたとのことです。今回のオコモリでも、子どもが無事に生まれた家がお礼のお参りに来られたり、ろうそくを近所の人から貰ってくるように頼まれたという話を伺うことができました。
相模原市内では、例えば「民俗の窓」でも紹介した南区下溝古山の地蔵は子育て地蔵であるとともに安産の地蔵としても信仰され、中央区上溝四ツ谷にも安産地蔵があり、ここでもお産の時にはろうそくの短いものを借りて行き、お産が始まると灯したとのことで(『内田要寿と上溝』)、こうした信仰が各地にあったことが確認されます。いつの世も、子どもの安産を願う親や地域の人々の姿は同じです。こうした子どもたちが無事に生まれ、あるいは健やかに育つことを祈る行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません(民俗担当 加藤隆志)。