5地域の変貌
旧集落と上溝市場
明治時代から昭和初期にかけて、神奈川県北部や多摩地方では養蚕が盛んに行われ、相模原台地上には広大な桑畑が広がっていました。上溝には、生糸・繭取引きを目的として、1870(明治3)年に市場が開設されました。月6回開かれたこの市には、各地から多数の露店商が集まり、大変なにぎわいを見せていました。大正時代の上溝には、150軒ほどの商店が立ち並ぶに至り、相模原の中心的商業地となっていました。
このコーナーでは、市場町としての上溝の景観や、市の賑わいと商店の様子を再現し、提示しています。また、上溝は市場町とは言え、農家も多くあり、町中の農家のくらしの様子についても合わせて紹介しています。
軍都計画と相模原
昭和10年代を迎えると、東京から比較的近く、畑地や山林の広がる平坦な相模原台地北部には、陸軍関係の施設や工場が次々と建設されました。市域では主に、北部に兵器の製造と教育に関する施設が、南部に陸軍の学校や病院などが建設され、その一部は今日、米軍基地となっています。こうした相次ぐ軍事施設の建設に伴って、相模陸軍造兵廠を中心とした約1,600haに及ぶ区域の区画整理を行い、新しい都市を建設しようという計画が進められました。これが「相模原軍都計画」と呼ばれるもので、当時、全国各地で進められた都市建設計画の中では最大規模のものでした。
このコーナーでは、相模原に建設された軍事施設や、都市建設の状況について提示するとともに、軍関連の施設や工場で働く労働者とその家族のために建設された、「相模原集団住宅(通称、星が丘住宅)」のくらしの様子についても紹介しています。
高度経済成長と相模原
相模原は、1954(昭和29)年に人口約8万人で市制を施行しました。翌年には、工場誘致条例を制定し、工場の誘致に努め、市の北部を中心に次々と工場用地の造成が進みました。こうして、かつての畑や雑木林は、大山工業団地や田名工業団地などに生れ変わりました。さらに、隣接する町田市とともに、1958(昭和33)年に首都圏整備法の市街地開発区域第1号の指定を受けると、市域の都市化は急速に進展しました。1960年代を迎えると、市南部の小田急線沿線を中心に、次々と住宅団地が建設され、首都東京の衛星都市、ベッドタウンとして、加速度的な人口増加が進みました。
このコーナーでは、相模原の工業化・住宅地化の進行に伴う景観変化についての様子を提示するとともに、団地の建設と高度経済成長期に大きく変わった生活用具についても提示しています。
まちの変貌
相模原市は、高度経済成長期以降、内陸工業都市・住宅都市として急速に都市化が進み、台地の上は一面に市街地と化しました。市内には、住宅団地の建設とともに、各駅の周辺部に次々と大規模な小売店が進出するようになりました。特に、市南部の相模大野駅周辺では、1972(昭和47)年以降に進められた区画整理に合わせて、デパートや商業ビルが次々と建設され、市の中心商業地へと大きく姿を変えました。また、1970年代以降は、車中心型の社会を反映して、国道16号沿線などに、コンビニエンスストアーやファミリーレストランの進出が目立つようになりました。
このコーナーでは、商業集積が進む中での景観変化の様子を提示するとともに、首都東京とその周辺への人口や工場の集中に伴う、自然環境の変化についても提示しています。