「平成24年度」カテゴリーアーカイブ

地質の窓(平成24年度)

山梨県大月市の謎のマントル物質(平成25年1月)

 山梨県大月市笹子町には、地球内部のマントルを構成している岩石がみられます。ただし、マントルを構成する岩石が直接露出しているわけではありません。ここで見られるのは、蛇紋岩(じゃもんがん)で、マントルを構成しているカンラン岩が変質したものです。蛇紋岩は、黒色や濃い緑色をしており、独特の光沢を持つことが特徴です。ビルの壁などの石材にも利用されています。

蛇紋岩
蛇紋岩

ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩
ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩

 カンラン岩(※) (当館天文展示室に展示しています)
カンラン岩(※)
(当館天文展示室に展示しています)

 大月市の蛇紋岩は、分布が数メートルと非常に狭く、周囲の岩石に挟み込まれるように分布しています。また、現在では植生や上から崩れてきた土砂などに覆われており、見つけるのにかなり苦労しました。この蛇紋岩の周囲の岩石は、相模湖層群瀬戸層 (さがみこそうぐんせとそう)の約3,000万年前の泥岩や砂岩です。地表近くで形成された泥岩や砂岩の中に、なぜ、地下深部を構成していた岩石が挟み込まれるようになったのかは、明らかになっていません。

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蛇紋岩の屋外での様子。黒っぽく見えているのが蛇紋岩
(左:地表に出ているもの 右:土砂に埋まっていたのを掘り起こしたもの)

 ほぼ同時代の蛇紋岩は、赤石山脈、三浦半島、房総半島でもみられます。ちょうど伊豆半島を取り巻くように分布しているので、「環伊豆地域蛇紋岩類(かんいずちいきじゃもんがんるい)」とも呼ばれています。なぜ、伊豆半島を取り巻くように蛇紋岩が分布しているのかも、よくわかっていません。
 まだまだ、謎の多い「環伊豆地域蛇紋岩類」ですが、研究が進めば、南関東の地質がどのように形成されたのかを解明するための重要な手がかりをつかむことができるかもしれません。(地質担当:河尻清和)
※カンラン岩・・・緑色のカンラン石と呼ばれる鉱物からできています。緑色のカンラン石はペリドットと呼ばれ、8月の誕生石として宝石に利用されています。

地質学講座 in 奥多摩(平成24年6月)

 2012年5月13、20日、6月3、10日の計4回、地質学講座を開催しました。例年、地質分野の教育普及事業は相模原地質研究会の協力を得て開催していますが、今年からは県立相模原青陵高校地球惑星科学部にも協力していただいて、教育普及事業を進めています。今回は受付や野外観察時の補助をお願いしました。

さて、今年の地質学講座は、「2億年前の海底を歩く‐多摩川 御岳渓谷の地質‐」と題して開催しました。1・4回目は博物館での講義、2回目は奥多摩町鳩ノ巣渓谷で、3回目は青梅市御岳渓谷で野外観察を行いました。青梅市御岳渓谷の地質に関しては平成22年度の博物館の窓「紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐」を参照していただくとして、ここでは、奥多摩町鳩ノ巣渓谷の地質について簡単に説明します。

受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。
受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。

鳩ノ巣渓谷。
鳩ノ巣渓谷。

鳩ノ巣渓谷で見られる岩石は、チャートと砂岩です。チャートというのは放散虫(ほうさんちゅう)という生物の死骸が海底に降り積もったものが固まってできた岩石です。放散虫は二酸化ケイ素(ガラスの主成分)の骨格を持つ海のプランクトンです。チャートは陸地から遠く離れた海底

三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。
三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。

に堆積してできます。鳩ノ巣渓谷のものは三畳紀(さんじょうき)前期(約2億4千万年前)~ジュラ紀中期(約1億7千万年前)にできました。砂岩は砂が固まってできた岩石です。鳩ノ巣渓谷のものはジュラ紀後期(約1億5千万年前)に海溝で堆積した砂が固まってできました。
 これらのチャートや砂岩はもともと現在見られる場所でできたのではありません。陸地から離れた海底や海溝で堆積したものが移動する海洋プレートに乗って運ばれてきて、さらに地殻変動により陸上に露出したものです。海洋プレートは、ちょうどベルトコンベアーのように、上に乗せたものを陸の方まで運ぶ役割をしています。このように、プレートによって運ばれて陸地の一部となった地層・岩石の集まりを付加体(ふかたい)と呼んでいます。鳩ノ巣渓谷や御岳渓谷はプレート運動の証拠を陸上で見られることができる場所の一つです。(地質担当:河尻清和)

層状チャート。
層状チャート。

しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。
しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。

砂岩。
砂岩。

ボランティアの窓(平成24年度)

横浜市歴史博物館の「感謝デー」に参加しました(平成25年1月)

横浜市歴史博物館
横浜市歴史博物館

 横浜市歴史博物館 本館の民俗調査会Aと、横浜市歴史博物館の民俗関係の市民の会である「民俗に親しむ会」とは定期的に交流会を行っており、これまでの交流会の様子についてはこの「ボランティアの窓」でも記していますが、ここで紹介するのは、1月27日(日)に横浜市立歴史博物館で開催された「感謝デー」です。

 横浜市歴史博物館は横浜市都筑区中川中央にあり、本館と同じ年の平成7年(1995)1月31日に開館した歴史系の博物館です。隣接する場所には、港北ニュータウンの開発事業に伴なって発掘された大塚・歳勝土遺跡(国指定史跡)があり、「横浜に生きた人々の生活の歴史」をテーマに原始から近現代までの横浜の歴史を展示するほか、体験学習なども活発に行われています。そして、毎年、開館記念日に当る1月31日近くの土・日(平成25年は26日と27日)には、さまざまな催しをもとに感謝デーが企画されており、交流の一環として民俗調査会の会員13名と加藤が横浜市歴史博物館を訪問させていただきました。

企画展会場の前で説明する刈田さん
企画展会場の前で説明する刈田さん

 今回の大きな目的の一つは、企画展「千歯こき-こうして横浜へやってきた-」のフロアーレクチャー(展示解説)に参加することです。千歯こきは、穀物の脱穀に使用する農具で、江戸時代から使われてきた歴史を持っており、企画展では特に千歯の流通に注目する一方、その他にも横浜周辺の千歯も含めてさまざまな資料が展示されていました。この企画展を担当されたのがいつも交流会でもお世話になっている横浜市歴史博物館学芸員の刈田 均さんで、刈田さんから展示資料を前にして、実に興味深い多くのお話しを伺うことができました。

 その後は、紙芝居や落語(落語はプロの方による本格的なものです)、各分野の担当学芸員による常設展示の「通史展示ガイド」など、いろいろな催しにそれぞれ参加して楽しい時間を過ごすことができました。また、博物館で活動している団体である「横浜歴博もり上げ隊」による活動紹介のパネル展示やクイズラリーなども拝見することができ、各地の博物館がまさに市民との協働を深めながら、多彩な活動を行っていることを改めて知ることができました。これからもさまざまな機会を通して、他の博物館やそこを拠点として活動する市民の方々と交流をしていきたいと考えています。

入口では時代衣装を着たスタッフにお出迎えいただきました
入口では時代衣装を着たスタッフにお出迎えいただきました

エントランスホールでは紙芝居も行われました
エントランスホールでは紙芝居も行われました

横浜歴博もり上げ隊の皆様
横浜歴博もり上げ隊の皆様

横浜縄文土器づくりの会が作った立派な土器も展示されていました
横浜縄文土器づくりの会が作った立派な土器も展示されていました

 最後となりましたが、すばらしい機会に参加させていただいた横浜市歴史博物館及び「横浜市歴博もりあげ隊」の皆様にお礼申し上げます。本当にありがとうございました(民俗担当 加藤隆志)。

*横浜市歴史博物館のアドレスは、http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/ です。

 

民俗調査会で第2回目の「民俗探訪会」を行いました

民俗調査会会員による説明
民俗調査会会員による説明

 11月14日(水)に民俗調査会Aの活動の一環として第2回目の「民俗探訪会」を行いました。民俗調査会Aは毎月第二水曜日に活動する市民の会で、同様に第四土曜日を活動日とする「民俗調査会B」があってそれぞれ20名以上の方が加わっています。調査会Aは、以前「民俗の窓」でも紹介したように横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」の皆さんと交流会を行うほか、相模原市内に古くからあった集落を歩くフィールドワークの活動を行っており、その成果を生かして一年に2回ほど「民俗探訪会」を実施しています。民俗探訪会は、「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集して、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内するもので、今回は田名地区の四ツ谷・石神社から相模川沿いの田名八幡宮までのコースを約3時間かけて歩きました。

 当日は21名の参加者(会員9名を含めると総勢30名)があり、博物館で作成した資料を基に歩いていき、ポイントごとに加藤や会員が説明をしました。天候が心配されましたが、穏やかで暖かい陽気の中、無事に実施することができました。今後も基本的には5月と11月に探訪会を行う予定です。その都度、広報などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時、入会ができますので、詳細につきましては加藤までお問い合わせください(民俗担当 加藤隆志)。

時には写真を見せながらの説明
時には写真を見せながらの説明

狸菩薩の見学
狸菩薩の見学

今回のコース:「四ツ谷」バス停~「水郷田名」バス停・午前9時30分集合、午後12時30分解散

①四ツ谷バス停前集合→②石神社(四ツ谷)→③横浜水道道→④山王神社(半在家)→⑤大杉の池(堀の内)→⑥蚕影社・道祖神(堀の内)→⑦烏山藩制札場跡→⑧旧大山道→⑨高田橋(トイレ)→⑩久兵衛土手跡→⑪火の坂(狸菩薩)→⑫白子園稲荷・大鷲神社→⑬田名八幡宮・じんじ石ばんば石(久所<水郷田名>)→⑭「水郷田名」バス停前解散

*民俗調査会Aの平成24年度に実施した横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」との交流会の様子については、1回目はこちら、2回目はこちらをご覧下さい。平成24年3月に実施した民俗探訪会(新磯地区)の様子についてはこちらをご覧下さい。

 

横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」と第二回目の交流会(フィールドワーク)を行いました

解説をする横浜の会員(鶴見神社)
解説をする横浜の会員(鶴見神社)

 本館の「民俗調査会A」に参加されている市民と横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」の市民の皆さんが交流を図っていることは、これまでにも「ボランティアの窓」に紹介していますが、10月13日(土)に第二回目の交流会を行いました。これは5月27日(日)の相模原市中央区田名地区の合同フィールドワークに引き続いて実施したもので、今回は、相模原側から17名(そのほかに加藤が加わりました)、横浜からは9名(別に学芸員2名)が参加し、ようやく少し涼しくなった風のもと、第一回目とは反対に横浜の「民俗に親しむ会」の方々に案内していただきながら鶴見周辺を歩きました。

当日は、午前9時30分にJR鶴見駅に集合し、まず旧東海道を、冨士塚などが残る鶴見神社(旧の名称は杉山神社)や一里塚を見学しながら進みました。さらに、薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件にちなむ碑や、魚屋が列を成して並ぶ生麦の通り、「蛇も蚊も」の名称で有名な6月第一日曜日の祭礼の舞台となる神明社及び道念稲荷社、鶴見川の旧河口などを経て、今でもレトロ感あふれる国道駅から鶴見線に乗り込みました。

旧東海道の市場一里塚跡
旧東海道の市場一里塚跡

生麦地区が漁村であったことを伝える水神社
生麦地区が漁村であったことを伝える水神社

鶴見川の旧河口(杭のあるあたり)
鶴見川の旧河口(杭のあるあたり)

 この国道駅では太平洋戦争中に受けた米軍の機銃掃射による弾痕が見られ、今も残る戦争の爪あとが印象的でした。最後に鶴見線終点の海芝浦駅の海浜公園から、現在の鶴見川河口が東京湾に至る遠景を楽しんだ後、出発点の鶴見駅に戻って解散となりました。

国道駅
国道駅

機銃掃射の弾痕(国道駅壁面)
機銃掃射の弾痕(国道駅壁面)

海浜公園から見た東京湾
海浜公園から見た東京湾 

 前回にも紹介したように、横浜市博の「民俗に親しむ会」は足掛け3年をかけて鶴見川をテーマに鶴見川源流からフィールドワークを進めてきた経緯があり、配られた資料も充実しているとともに、ポイントごとの説明も実に的確なものでした。特に鶴見川の埋め立てに伴う河口の変遷や臨海部の開発、低地としての鶴見地区の状況など、実際に会員の方々が自らの足で歩いてまとめた成果は、海がなく、台地上に位置する相模原側の者にとってあまり関わる機会もなかったため、大変興味深いものでした。その意味で今回のフィールドワークは、主に相模原で活動している民俗調査会の会員や私にとっても、自らが生活している地域を相対的に見直す一つのきっかけとなったと思います。また、昼食の際には鶴見名物の「よねまんじゅう」をいただいたり、お互いの市民が親しく話しながら歩いたり、さらに交流を深めた機会となりました。改めて横浜市博物館の「民俗に親しむ会」の皆様にお礼を申し上げます。楽しく、そして行き届いた御案内をいただき、本当にありがとうございました。

今後とも、せっかくできた横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」と相模原市立博物館の「民俗調査会」との交流を息長く継続していく予定です。その中で、例えば、今年度の横浜から相模原へ、あるいは相模原から横浜へ出かけて合同のフィールドワークを行った活動について、それぞれの館が発行している研究報告で報告するなど、少しでも交流の成果を積み上げていければと考えています(民俗担当 加藤隆志) 。

 

横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」と交流会(フィールドワーク)を行いました

 これまで「ボランティアの窓」の欄でも、多くの市民の皆様が博物館を舞台にさまざまな活動をしていることを紹介してきましたが、こうした博物館での市民の活動はもちろん当館だけではなく、各地の多くの博物館でも積極的に行われています。今回紹介する横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」もそうした組織の一つです。

 横浜市歴史博物館は当館と同じ平成7年に開館した博物館で、横浜市都筑区の港北ニュータウンの一角にあるその名の通り歴史系の博物館です。「横浜に生きた人々の生活の歴史」を時代ごとに展示する一方、約2000年前の弥生時代中期のむらと墓地が完全な形で発見されたことで著名な大塚・歳勝土遺跡に隣接し、随時、遺跡の解説ボランティアなども行われています。

 横浜の「民俗に親しむ会」は平成21年度に結成され、鶴見川をテーマに鶴見川源流の町田市上小山田から下流に向けてフィールドワークを実施し、23年2月には鶴見区生麦の旧鶴見川河口に到着しており、現在、そのまとめの作業中とのことです。この会の結成に当たっては、私(加藤)もいささか関わりを持っていることもあり、昨年11月に当館で実施した「学びの収穫祭」には「民俗に親しむ会」の皆様も参加され、当館のボランティアの活動についての発表を聞いていただきました。また、「学びの収穫祭」には横浜市歴史博物館のほか、平塚市博物館とパルテノン多摩で活動されている平塚市民及び多摩市民の皆様も参加され、当館を含めた四館の民俗関係の会で活躍されている市民同士がそれぞれの会の状況や特色、課題などを話し合う交流会も開催しました。

 そして、5月27日(日)には横浜から「民俗に親しむ会」の皆様を相模原にお招きし、当館の「民俗調査会A」の会員と合同のフィールドワークを行いました。当日参加されたのは横浜から8名(ほかに学芸員2名)と相模原の15名(別に加藤も加わりました)の総勢26名で、場所は田名地区として四ツ谷集落の石神社から水郷田名方面に歩いていきました。途中、現在でも横浜に水を送っている横浜水道の水道道では横浜と相模原のつながりを改めて確認し、鶴見川とはまた違った相模川の大河の風景は横浜の皆様にも大きな印象を残したようです。全体のコースの設定や当日のポイントでの説明は加藤が主に当たりましたが、相模原の調査会の会員も得意なところでは解説を行い、また、地元の銘菓を振舞ったり、自家製のお菓子を用意した会員もいました。こうして相模原の神社や寺院・石仏などをフィールドワークして、相模原と横浜の違いなどいろいろなことをそれぞれ感じながら、さらに新緑のさわやかな風の吹く中、いろいろなことについて話し合うなど、相互の交流を深める絶好の機会となりました。

 現在、各地の博物館で活発な市民活動が見られ、博物館と市民との協働は特段珍しいことではなく当たり前のこととなりました。これからも各館で行われているさまざまな活動をお互いに認識し、良いところは参考にするなど高め合うことが必要であり、加えて、そうした多彩な活動が多くの博物館で見られることを広く社会にアピールしていくことも重要です。横浜の「民俗に親しむ会」との交流は、次回は10月に相模原の会員が横浜を訪れ、今度は横浜市の皆様に御案内いただくことになっています。このような活動を今後とも他の館も含めて企画していき、さらにより良い展開が図れることを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

有名な田名・堀の内にある陽石道祖神を熱心に見る横浜の会員
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/100 sec, ISO100)
有名な田名・堀の内にある陽石道祖神を熱心に見る横浜の会員

相模原の会員が説明 (山王坂の徳本上人念仏塔)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
相模原の会員が説明
(山王坂の徳本上人念仏塔)

相模原の会員が説明 (「鮎の水郷田名」碑)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/400 sec, ISO100)
相模原の会員が説明
(「鮎の水郷田名」碑)

最後に記念撮影
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/640 sec, ISO100)
最後に記念撮影

市史の窓(平成24年度)

市史講演会を開催!(9月23日)

講演中の山本先生
NIKON D80 (60mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO1600)
講演中の山本先生

 9月23日(日)に相模原市史講演会を実施し、今年(平成24年)3月に刊行した市史『考古編』の執筆者の一人、山本暉久(てるひさ)さん(昭和女子大学教授)に「相模原市の縄文遺跡」をテーマに縄文時代を熱く語っていただきました。

 当日は、悪天候にもかかわらず、100名の熱心な考古ファンが集まり、終了予定時間を越えて深く聞き入っていました。

 「縄文時代とはどういう時代か」に始まり、神奈川県域の縄文遺跡を概観した上で、相模原市内の遺跡の特徴を明らかにし、考古編の成果と課題を確認、相模原市内の主な縄文遺跡について説明をしていただきました。

 盛りだくさんの内容を語る中で、縄文時代中期の大規模集落の形成と人口の増加や減少、中期の環状集落から後期の柄鏡形(えかがみがた)敷石住居への鮮やかな転換など、縄文時代の不思議が語られ、聴講者を魅了しました。

 また、少しでも興味を持ってもらうため、大会議室前のホワイエに、縄文土器や石器の展示ケースを設置するとともに、遺跡の写真パネルなどを展示しました。

 次回の市史講演会は、3月24日(日)に現代の市内の商業施設の変遷などを対象にした講演を行う予定です。(市史編さん班:井上 泰)

展示パネル
NIKON D80 (29mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO1600)
展示パネル

津久井町史調査報告書を刊行!!

 津久井町史編さん事業の中では、今年度刊行を予定している自然編の基礎資料を得るため、動植物の調査を継続的に進めてきました。そしてその成果は、津久井町の昆虫Ⅰ・Ⅱとして既に報告し、平成24年3月には『津久井町の昆虫Ⅲ』と『津久井町の植物』を発行しました。

『津久井町の昆虫Ⅲ』では、今までに報告できなかった分類群や新たに発見された種類なども記述され、Ⅰ~Ⅲにより約5,100種類の昆虫が記録されていることを報告し、『津久井町の植物』では、植物分野担当の自然部会員が、旧町内を歩いて観察、確認した植物638種を紹介しています。

ホームページの町史刊行物のコーナーから、各報告書の基礎となったデータベースをダウンロードすることができますので、興味のある方は是非ご覧になってください。

(町史担当:守屋博文)

オオセイボウ
オオセイボウ
ミツバツツジ
ミツバツツジ

天文の窓(平成24年度)

“さがぽん”(平成24年2月)

“さがぽん”をご存知でしょうか?柑橘系の新品種ではありません。 2011年4月から、土曜日、日曜日、祝日及び特別上映期間(夏休みなど)に、こども向けプラネタリウム番組の投影を始めましたが、この番組のキャラクターとして登場したのがタヌキの“さがぽん”です。

ぬりえ
ぬりえ

 誕生以来2年余りになりますが、“さがぽん”をより多くの方にPRし、親しんでいただこうと、様々なグッズが登場しています。ぬりえ、缶バッチ、紙粘土製の人形やスタンプ、市民学芸員(=博物館ボランティア)さん手作りのワッペン、ぬいぐるみ、そして“なりきり”さがぽん撮影コーナーには、着用できる帽子と尻尾も用意されています。お子さまには大好評。大人の方も、恥ずかしがりながらも撮影していらっしゃいます。ご来館の際は、ぜひご利用ください。

こども向けプラネタリウム番組は、“さがぽん”シリーズ第3弾「おしえて!さがぽん お日さまって なに色?」を投影中です。前半に今晩見える星や星座についてご案内し、後半は“さがぽん”といっしょにお日さまの光についての様々な疑問について考える内容になっています。幼児から小学校低学年までのお子さまとご家族が一緒に楽しめる番組です。

また、“さがぽん”の愛称をツイッターや博物館の太陽望遠鏡で撮影した画像をインターネットでライブ配信するsagapon TV など、活躍の場が広がってきており、今や当館のイメージキャラクターと化しています。

これからも、“さがぽん”をよろしくお願いします。

(天文担当 有本)

缶バッチ
缶バッチ

3D
3D

スタンプ
スタンプ

ワッペン
ワッペン

ぬいぐるみ
ぬいぐるみ

なりきりさがぽん
なりきりさがぽん

生きものの窓(平成24年度)

見かけ倒し?真冬の果実(平成25年1月)

  鳥たちにとって、冬は食べ物探しに苦労する季節です。一年中植物の種子を食べるハトや、水中の魚などを捕るために、ほとんど季節に関係無く食べ物が得られる水鳥を除くと、冬は鳥たちが「食べること」にすべてをかけなくてはいけない厳しい季節です。

トキワサンザシ
NIKON D50 (28mm, f/4, 1/60 sec, ISO0)
トキワサンザシ

 そんな中、博物館の庭に、真冬に実る果実があります。そのありがたい植物はというと、ヤブラン、マンリョウ、ノイバラなど。博物館にはありませんが、今、家々の庭でたわわに実を付けている園芸樹木のトキワサンザシ(ピラカンサ)もその一つです。

ところが、見ているとどうもこれらの果実は、売れ行きが芳しくありません。樹木の果実は一般的に、豊作と不作を周期的に繰り返します。秋深く実るドングリやそのほかの果実の不作が重なった年は、これらの真冬の果実もよく食べられています。しかし、年によってほかの果実が豊作だと、とうとう食べられずに春先まで残ってしまうことがあります。

こんなに美味しそうに実っているのになぜ?と思い、これらの果実の中身を割ってみることにしました。なんと、ヤブランやマンリョウは、果実とほとんど同じ大きさの種子が一つ入っているだけでした。果肉はほとんど無く、わずかに汁があるだけ。ノイバラは水気が無く、お世辞にも美味しそうなシロモノではありません。

左)ヤブラン、右)マンリョウの果実
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/320 sec, ISO640)
左)ヤブラン、右)マンリョウの果実
皮をむくと、大きな種子が一つだけ!
TG-1 (13.47mm, f/4.2, 1/320 sec, ISO800)
皮をむくと、大きな種子が一つだけ!

 鳥たちが好むのは、エネルギー源となる糖分や脂肪分が果肉に豊富に含まれている果実です。植物にとって果実のほんとうの中身である種子は、ほとんどの鳥は消化せず、フンやペリット(未消化物をまとめてはき出したもの)としてそのまま排出されます。じつは、植物はこれをねらっているのです。自ら動くことのできない植物は、子孫を新しい場所で芽生えさせるために、さまざまな方法で種子を運ばせます。果実の多くは、鳥に食べてもらい、飛び回るうちにフンとして種子を落としてくれれば目的を果たしたことになります。

動物とちがって、植物は親のすぐ近くでは日照が足りず、子どもがうまく育ちません。多くの果実の果肉部分には、種子の発芽を抑制する物質が含まれていることが知られています。鳥が食べて果肉を消化し、離れた場所でフンとして出して初めて発芽する体制が整うという、ご丁寧な仕掛けまで備えているのです。

さて、真冬に実る果実は、どうも鳥たちの足下を見ているようです。果肉に糖分や脂肪分をサービスするコストをかけなくても、鳥たちは食べ物に困って食べてくれるだろうと踏んでいるわけです。といっても、食べ残される年も多いことを考えると、やっぱりそうそううまくはいかないのでしょう。

今年は冬鳥の渡来数が多く、木の実は作柄が芳しくなかったという情報があります。そろそろこれらの木の実に手が付けられる日が近いかもしれません。

(生物担当 秋山幸也)

 

生きものの持ち方(平成24年10月)

夏休みも後半の8月29日に、「小中学生のための生物学教室」を実施しました。定員を2倍近く超えるご応募をいただいたため、泣く泣く抽選して参加者を決めることになってしまいました。

さてその教室ですが、午前中は植物を扱い、花粉管の伸びるようすを観察するというオーソドックスな生物学の実験と観察を行いました。午後は、これまでやったことのない内容を試みました。それは、「生きものの持ち方教室」です。

講師は動物カメラマンの松橋利光さんと、ペットショップのオーナーの後藤貴浩さん。松橋さんは、両生類、は虫類を中心として図鑑や写真絵本で独自の世界を築いている人気カメラマンです。じつは、まさに「持ち方大全 プロが教える持つお作法」(山と溪谷社)という本も出している“持ち方マスター”です。後藤さんはもちろん職業柄、あらゆる動物を扱いますし、今回、なかなか手に取ることのできないいろいろな動物を持ってきてくれました。

ウサギの持ち方を松橋さんから教わる
NIKON D7000 (21mm, f/4, 1/60 sec, ISO400)
ウサギの持ち方を松橋さんから教わる
ヘビも持ってみるとかわいいもの (左:ボールパイソン、右:コーンスネーク)
NIKON D7000 (40mm, f/4.5, 1/60 sec, ISO400)
ヘビも持ってみるとかわいいもの
(左:ボールパイソン、右:コーンスネーク)
アニメの世界から飛び出してきたようなヨロイモグラゴキブリ
NIKON D7000 (92mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO400)
アニメの世界から飛び出してきたようなヨロイモグラゴキブリ

 生きもの好きが集まる教室ですから、子ども達、大興奮でした。ただ、これは持って遊ぶ教室ではないので、生きものを傷つけない、弱らせない持ち方をしっかり解説してもらいます。

今回扱う動物は、犬や猫などペットとして何千年もの歴史のある動物ではなく、いわゆる“エキゾチック系”(ペット業界や獣医師の間で、犬猫以外の動物をこう呼びます)。ウサギに昆虫に甲殻類に…そしてヘビやカエルなど。できれば人間になんて持って欲しくないと(たぶん)思っている動物ばかりです。松橋さんによると、コツは、「動物にあきらめさせること」。つまり、暴れさせず、どうにもならない、降参、と思わせる持ち方が大事だということを教わります。

それでも、気持ちを抑えきれないのが生きもの好きの子ども達。自分たちもまるっきり同じだったので、なでまわしたり肩にのせてみたり、多少のことには目をつむります。それよりも、普段持ったことのない、あるいは、持てるなんて思ってもみなかった動物を持てたという記憶を持ち帰り、そして、その生きものをこれから身近に感じてもらえればこの教室の目的を果たしたことになります。さて、教室参加者の子ども達、今頃は「飼いたい!」とおねだりしておうちの人を困らせているかな? (生物担当 秋山幸也)

 

夏の花粉症(平成24年7月)

花粉症の原因植物と言うと、まっさきにスギが挙げられます。他には?と尋ねられれば、ヒノキ、そしてオオブタクサあたりが次に来るでしょうか。季節的にはスギ、ヒノキは早春、オオブタクサは夏の終わりです。しかし、晩春から初夏にもかなりひどい症状が現れる人もいます。

ネズミムギ
NIKON D7000 (50mm, f/6.3, 1/160 sec, ISO200)
ネズミムギ
カモガヤ
NIKON D7000 (50mm, f/8, 1/250 sec, ISO200)
カモガヤ

 その犯人はというと、イネ科植物です。花粉症の原因植物はすべて、風に花粉を飛散させる風媒花(ふうばいか)です。虫に花粉を運んでもらう虫媒花(ちゅうばいか)の花粉は一般的に粒が大きく、また、粘着性もあるので、風で飛ぶことはありません。従って、花弁があって花が目立つ植物は、自然の状態では花粉症の原因とはなりません。逆に、いつ咲いたのかわからないようなイネ科植物などは、まずほとんどが風媒花だと思って間違いありません。

中でも、5月頃から道ばたや、草刈りがあまり行われない草地などにはびこるネズミムギやカモガヤは、代表的な原因植物です。写真を見れば、おそらくご近所で普通に目にされているのに気付くことと思います。花弁が無いのでわかりにくいのですが、雄しべの葯(やく)が飛び出している時が、開花。つまり、花粉をたくさん飛ばしている時です。

もちろん、花粉症の原因となるイネ科植物はこの2種だけではありません。野外で見られる、葉が細長くてイネやアワ、ヒエなどに似た形の植物はほとんどイネ科だと思って間違いありませんし、花粉症の原因となる可能性があります。じつは、イネも原因植物の一つです。8月頃、水田の近くで花粉症の症状が現れる人はイネに反応しているかもしれません。

ところで、花粉症の複合的な原因の一つに、自動車の排気ガスによる大気汚染が疑われています。ネズミムギやカモガヤがクローズアップされるのには、花粉の飛散量が多いことに加え、市街地との相性の良さがあるのかもしれません。

8月から秋にかけては、もう一つ強力な原因植物があります。それは、カナムグラです。茎に小さなとげがびっしりと生えていて、他の植物やフェンスなどにからみつく、つる植物です。花はやはり、花弁が無くて目立たないのですが、開花期にこの植物を揺らすと、もうもうと煙のように花粉が舞います。

こうして見てみると、冬を除いて一年中、花粉症の原因植物が咲いていることになります。私も何を隠そう、イネ科やカナムグラに反応しやすい花粉症です。植物を扱うことが多いだけに、悩ましい問題です。野外調査に出る時は、季節やフィールドの環境によって事前に抗アレルギー薬を飲むなど、花粉症のスイッチが入る前に手を打つようにしています。(生物担当 秋山幸也)

カナムグラ
NIKON D7000 (50mm, f/7.1, 1/200 sec, ISO200)
カナムグラ

カナムグラの花
NIKON D50 (55mm, f/5, 1/100 sec, ISO0)
カナムグラの花

 

広がりもせず、絶えもせず-不思議な外来植物(平成24年4月)

 相模原市南区の、さらに南の端。国道16号線沿いのある一角に、神奈川県内ではここでしか確認されていないという、珍しい外来植物があります。外来植物なので、本来ここにあるべきものではありません。従って、珍しいからと言って絶滅危惧植物というわけでもありません。でも、神奈川県の中でたった1カ所、ここだけ。やっぱり注目せずにはいられません。

ニセカラクサケマン 歩道に沿った20mほどの範囲にだけ生育
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/80 sec, ISO80)
ニセカラクサケマン
歩道に沿った20mほどの範囲にだけ生育
花は形も色合いもかわいらしい
Canon PowerShot G12 (6.1mm, f/4, 1/125 sec, ISO80)
花は形も色合いもかわいらしい

 その植物とは、ニセカラクサケマン(ケシ科)。いかにも外来植物らしい名前です。外来植物の和名には、「よそ者」、「招かざる者」というニュアンスが込められたものが少なくありません。「ニセ○○」、「○○モドキ」、「イヌ○○」…。頭にイヌとつくのは、有用とされる植物に似ているけれど、あまり使い物にならないというような意味のようです。なんだかつけられた植物にも、犬にも失礼な話ですね。ちなみに、ニセカラクサケマンの本家扱いのカラクサケマンも、外来植物です。

 さて、そのニセカラクサケマンですが、現在書店で市販されている図鑑でこの名前を探そうとすると、なかなか難儀です。私が知る限り、『日本帰化植物写真図鑑 第2巻』(全国農村教育協会,2010年)しかありません。地方限定の出版物や学術報告書などではほかにもありますが、いずれにせよ、極端に知名度の低い植物であることは間違いありません。

 この場所でニセカラクサケマンが発見されたのは、2003年のことです。相模原植物調査会の会員が見つけて、『神奈川県植物誌2001』などにも記載がないことから、神奈川県新産であることがわかりました。以来9年経ちましたが、不思議なことに、周辺に広がりもせず、絶えることもありません。越年草なので、毎年しっかりと結実し、発芽、越年して代を重ねていることになります。

 外来植物というと、在来の生態系に悪影響を与える特定外来生物がクローズアップされることが多いため、よい印象を持たれることはほとんどありません。事実、在来の植物の生育を脅かすような広がりを見せているものもあり、油断はできません。でも、視点を変えてみると、在来の植物の生育環境を人間が改変してしまった場所へ、外来植物が緑の穴埋めをしてくれている、という見方ができる場合もあります。少なくとも私は、外来植物すら生えていないような環境を、想像したくありません。

 だからと言って、保護しましょうなどと言うつもりは毛頭ありません。しかし、幹線道路を走る自動車の風圧や排気ガスにも耐えて連綿と世代を重ねる姿に、ちょっと共感のようなものを抱いてしまうのも事実です。(生物担当 秋山幸也)

 

歴史の窓(平成24年度)

 

「教科書」二題~戦時下の少年兄弟を思う(平成24年12月)

  去る10月、緑区在住の方から連絡が寄せられ、ダンボール箱2つにいっぱいの書籍類を点検する運びに。御本人曰く、「爺さんやオヤジたちが使ったものだけど、役立ちそうなものがあれば持っていって構わないよ。」とのこと。そこで箱の中身をざっと眺めたところ、明治期と昭和戦中期の教本類が多い印象を受けました。全件チェックし、状態の悪いものや一般書(娯楽本)を除いて“役立ちそうな”52冊を寄贈していただくこととなりました。その中から希少性を感じた「教科書」にまつわる話題をお届けします。

1つ目は、『警察実務教科書(警視庁警務部警務課教養係編)』。昭和8(1933)年9月から13(1938)年3月までに発行された5冊がありました。もちろん非売品です。これらは、寄贈者の父君(大正9(1920)年生・津久井出身)が<少年警察官>として警視庁Y警察署に勤務していた時に使われたものでした。<少年警察官>とはあまり耳になじみのない言葉ですが、もちろんこれは30年以上も前に流行したギャグ漫画の主人公が自称したものとは違い、戦前にれっきとして存在した未成年警察職員のことを指します。狭義には司法警察権をもった<巡査>もいたようですが、多くは内部庶務に就いた15歳以上20歳未満の少年たちの呼び名だったのです。実際、Y署に配属された父君の名を昭和15(1940)年警視庁職員録に<書記(少警)>として見出すことができ、別の書類から警視庁少年警察官第1期卒業生であったことも分かりました。

警察実務教科書(見開きは第二巻)
警察実務教科書(見開きは第二巻)

  右の写真が、該当の教科書です。第二巻(犯罪捜査の総論・各論)、第三巻(地理編~東京の地理と警察署)、第四巻(保安警察編其一~安寧・風紀・興行の3警察分野)、第五巻(保安警察編其二~交通・工場・建築の3警察分野)、第六巻(衛生警察編~衛生・医務・防疫・獣医の4警察分野)という具合で完全揃いでない点が残念ですが、市内に残された資料から帝都・東京の戦時治安を守る教程の一端を知ることができ望外の喜びでした。さらには『警察練習要書』『警察書道教本』なども見受けられたほか、『受験の研究 警察版』『受験と準備 警察版』や尾崎行雄(咢堂)が会長職を務めた大日本国民中学会発行の『正則 中学講義録』も大切に保存されており、必要な知識と教養を身につけ成年後には正規の警察官となれるよう一生懸命だった姿がしのばれました。

 もう1つは、下の写真の相模陸軍造兵廠技能者養成所で使われた各種『教程』。昭和16(1941)年11月から17(1942)年8月までに発行された17冊が残されていました。内訳は16年編さん13冊及び17年編さん4冊で、寄贈者の叔父が養成工員科第1学年(18歳ころ)と第2学年(19歳ころ)の時に支給されたものです。表紙には、「相模陸軍造兵廠技能者養成所」の角印と「127」「388」の番号印が押されています。番号は、それぞれの学年での生徒番号であったことが容易に想像できます。また別の書籍に自書した内容から彼は、廠内にあった生徒舎の第6寮14号室に寄宿していたことも判明しました。農家の次男坊も兄と同じく津久井の地を離れ、同じ年頃の仲間と肩を寄せ合い奮励努力していた光景が浮かんできました。

陸軍兵器廠発行の各種教科書 (見開きは16年編さんの物理及化学教程)
陸軍兵器廠発行の各種教科書
(見開きは16年編さんの物理及化学教程)

 ともかく、館蔵の相模造兵廠関連実物資料はわずかな図面類以外には存在しておらず、今回の寄贈によってその数を少し増やすことができました。一方、教科書という点では造兵廠に隣接した陸軍兵器学校の充実した資料をこれまで収蔵していることから、教養課程用と専門課程用で構成された当該資料との比較を行う意味でも重要性が高まるものと考えます。

閑話休題。3つ違いの兄弟は、その後も別々の道を歩んだそうです。兄は応召により南方戦線に従軍し、復員後は警察官にはならず津久井で家業の農業を継ぎ、弟は工員生活を経て、終戦後は横浜で家具職人になったとお聞きしました。今回の貴重な資料との出会いに及び、あの重苦しい時代の空気の中で大人になる一歩手前の少年が何を吸収し、将来に対し何を思ったかを考えずにはいられませんでした。そんな気持ちを乗せながら、未成年の若者の生きた証しが詰まった本のホコリを払ったのでした。(歴史担当:土井永好)

 

 

戦地から故郷への便り~親子二代の軍事郵便を調べて(平成24年8月)

美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便 (明治38年12月12日)
美人絵葉書を使った日露戦軍事郵便
(明治38年12月12日)

 先月(平成24年7月)、手紙・軍隊手帳・日の丸寄せ書きなど50点ほどの戦争関係資料が寄贈されることとなり、事前にその内容について調べました。持ち主のお話を伺いつつ1点ずつ中身を明らかにしていったところ、全体の6割は軍事郵便で、持ち主の祖父が日露戦争に出征した時と父親が日中戦争に従軍した時のものがそれぞれ14枚ありました。当館所蔵の資料でも親子二代に渡る軍事郵便は見受けられず、貴重な出会いとなりました。

大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に 書かれた日中戦軍事郵便 (昭和18年8月8日?)
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)※に
書かれた日中戦軍事郵便
(昭和18年8月8日?)

 持ち主の祖父は、南多摩郡忠生村の生まれで、明治38年6月から7月初めごろに、物資の輸送を主な任務とする第3軍第1師団第26補助輸卒隊第1小隊第1分隊に入隊しました。軍事郵便を消印等の日付順で並べたところ、部隊の出国から帰国までの動きがわかりました。当初は、世田谷下北沢の森巌寺(しんがんじ)に駐屯し、その後は品川、広島・宇品(伊予丸乗船)、大連、鉄岺(軍務地)、大連(阿波丸乗船)、似島・広島、品川、下北沢、八王子経由で帰郷という、約8か月の流れが追えました。残された軍隊手帳にも従軍歴が明記され、これを補っていました。祖父の父親宛の14枚の便りからは身体の健康を通じて任務を無事に果たしたことが読み取れましたが、日露戦争を題材にした田山花袋の『一兵卒』に表現されたような悲惨さは手紙から読み取れませんでした。

 持ち主の父親は大野村出身で、昭和17年1月10日に牛込戸山町の近衛騎兵第1連隊東部第4部隊に入隊後、3月下旬ごろ中国大陸に渡ってハルビンの満州第92部隊に配属されました。この部隊は満州捜索連隊の配下にあったようで、演習の様子を伝えていることから歩兵部隊と同様に厳しい斥候・偵察任務があったことと思われます。手紙はすべて相模原町渕之辺の長兄にあてて出されました。家族・親類や出征した友人らの安否を尋ねている内容がほとんどでした。郵便は、昭和18年の夏を境に途絶えます。理由は、今となってはわかりません。彼は、結果的に<シベリア抑留>を受けますが、無事帰国できたうちのひとりということでした。

こうして2つの世代の軍事郵便を眺めてみると、いくつかの共通点が見られます。まず、両方とも筆跡・表現が一致していないハガキが多いことや差出人・受取人に誤字があることから口述代筆が頻繁に行われていたことが伺えます。

手紙の内容では、本人の無事を知らせながら遠い故郷の家人や親類・知人の消息を問うものが多いことから、識字や筆上手の問題はあったとしても、検閲制度の下では無難な体裁とするためのやり方であったことが想像できます。映画やTVドラマで、兵士自らが鉛筆をなめなめせっせと内地に手紙を書くというシーンを一考させるものでした。近年、検閲を経た郵便文面を分析することで、戦地の知られざる軍事行動を浮き彫りにするという斬新な研究報告例が見られます。望郷の便り1枚にも、“歴史を叙述する”働きが隠れている訳なのです。

さて、盛夏8月は日露戦争、第二次世界大戦にとって重要な時季でした。先の大戦については言うに及ばず、日露戦争では第1回旅順総攻撃や遼陽会戦(明治37)、ポーツマス講和会議(明治38)がありました。今回、何の奇縁か、真夏猛暑の中の調査となりました。しかし、身近な地域の資料により110年前、70年前に徴兵された人の動きや思いを知ることができたのと同時に平穏な時を過ごせることをとてもありがたく感じた次第です。(歴史担当:土井永好)

※大詔奉戴日(たいしょうほうたいび):昭和17年1月から20年8月までの毎月8日に図られた国民の戦時体制動員運動

 

 

お江戸日本橋~景観も大切にした咢堂市長(平成24年5月)

 今年は、尾崎行雄が明治45年東京市長最後の年に米国ワシントンにサクラの苗木を贈ってちょうど百年となる記念すべき年であり、かの地で咲き誇る桜花とともに日米親善の輪も大いに広がったとの報道がありました。またこの時期になると、改めて第2・3代東京市長時代の尾崎の足跡を読み調べる機会が増えますが、今回は身近で意外な一例をお伝えしたいと思います。

日本国道路元標をもつ日本橋 (花崗岩製2連アーチの美しい外観)
日本国道路元標をもつ日本橋
(花崗岩製2連アーチの美しい外観)

 皆さんは正月の箱根駅伝をテレビ観戦されますか?選手たちが往路スタート後、復路ゴール前に必ず通過する「日本橋」。江戸の名残を留めるそれまでの木橋から堅牢豪華な石橋に生まれ変わらせたのは、何を隠そう桜寄贈1年前の尾崎でした。よく市長時代の2大業績として「都市改造と桜寄贈」が喧伝されますが(本人は回顧で桜寄贈を過小評価!)、あいにく日本橋の改架についてはあまり語られないようです。理由は不可解ながら、明治44(1911)年4月3日の新生日本橋開通式における市長祝辞で「…その堅固を図ると共に美観を添へんと欲し…」と述べたそうで、欧米都市並みの文明化象徴として再建した功績は大きかったと言えましょう。東京のみならず明治20~30年代の大都市整備は時まさに欧化猛追であり、<木・土から石・鉄へ>の変換期でした。しかし尾崎は、建設事業を単なる土木工事に終始させるのではなく、文明国日本の首都の顔づくりを念頭に“地景の美しさ”という考えとマッチさせることにとても苦心したのでした(皮肉にも高度経済成長期に日本橋は高速道路の直下に…)。この間の事情について彼は「都市の美観」(『美術新報』連載の談話集)の中で述べながら、<在来美観の保存と破壊>という理想と現実のギャップを吐露しています。

尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類)
尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板 (仮名と漢字の2種類) 尾崎が徳川慶喜公爵に揮ごう依頼したと伝わる橋名板
(仮名と漢字の2種類)

 桜木寄贈も橋りょう改築も公費事業、つまり東京市に暮らした人々の汗の結晶に他なりませんが、国会議員を兼務しながらの9年間、率先して市区改正や築港整備、水源林買収など帝都のインフラ整備を導いた尾崎の奮闘なくしては実現できなかったことでしょう。そして何よりも土木や美術の専門家ではない百年前の一政治家が、その外遊経験等から得た知見を施政に活かしたという歴史的事実(美観形成を含む建築条例案の検討をはじめとした都市デザイン)に感心させられるのです。

 さて遣桜百周年でタイムリーとはいえ、また尾崎ネタとなりました。いよいよ開業した東京スカイツリーへ行かれる前にぜひ一度、“咢堂の忘れ形見”重要文化財・日本橋をじっくりとご覧になられてはいかがでしょうか。(歴史担当:土井永好)

 

考古の窓(平成24年度)

平成24年度の大日野原遺跡発掘調査(平成24年8月)

発掘の様子
発掘の様子

 平成22年8月の「考古の窓」で大日野原遺跡(緑区澤井)の発掘調査について紹介しましたが、当該地点の発掘調査は平成23年度をもって一旦終了しました。

 平成24年度からは、大日野原遺跡の別の地点を調査地に定め、引き続き中央大学文学部と共同で第2期の縄文時代住居の調査を行います。

レベル(標高)の計測
レベル(標高)の計測

 第2期の初年度にあたる平成24年度は、調査地にトレンチ(細長い溝)を掘り、遺構の有無を確認する作業を行いました。トレンチをカタカナの「キ」の字状に設定し、重機を使わずに人力で注意深く掘削していきます。今年度は原則として遺構が確認できる土層までの掘削とし、縄文時代の遺構の本格的な調査は平成25年度からとなります。

古代の住居址(上面)
古代の住居址(上面)

  発掘調査には中央大学をはじめ諸大学の学生や他自治体教育委員会の埋蔵文化財担当職員、相模原市立博物館の市民ボランティアの方々が参加しました。

 今回の調査では縄文時代の住居址と明らかに言える遺構は残念ながら確認できなかったものの、古代の住居址が検出されました。この大日野原遺跡に古代の住居が存在したことは新しい知見であり、今後につながる成果といえます。平成24年度は確認調査であったため現地説明会は行いませんでしたが、来年度以降は開催し市民の皆さんに発掘調査現場を見学していただきたいと考えています。

小学生の発掘体験

小学生の発掘体験
小学生の発掘体験

 今年度も「ふじの発掘探検隊」として、地元の小学生を対象に発掘調査体験をしてもらいました。幸運にも今回小学生が発掘した場所からは多数の遺物が出土し、子どもたちは目を輝かせていました。自分たちの住んでいる場所で先人たちがどのような生活をしていたのかを知るということは、とても大切なことです。発掘調査の大変さと楽しさを通じて先人の生活に思いを馳せ、ひいては埋蔵文化財の重要性を認識してもらうきっかけになればと考えています。(考古担当:正洋樹)

民俗の窓(平成24年度)

 

祭り・行事を訪ねて(50) 相模田名民家資料館の雛飾り(平成25年3月)

相模田名民家資料館
相模田名民家資料館

 「相模田名民家資料館」は、地元の「田名財産管理委員会」が設立した地域の資料館です。この資料館は、市内でも養蚕や製糸が盛んだった田名地域において、往時を偲び、地域の文化を継承することを願って平成7年(1995)に開館しました。資料館の隣りに見える大杉の池の周辺は、今では大杉公園として親しまれており、江戸時代までは明覚寺という寺があったほか、現在の田名小学校の前身である覚明学舎や田名村役場なども建てられるなど、田名地区の中心の場所でした。

二階の養蚕等の展示
二階の養蚕等の展示

 資料館の建物は代表的な養蚕農家を移築再現しており、二階を展示室として養蚕をはじめとしたさまざまな資料が展示されています(その中には博物館も所蔵していない資料も含まれています)。そして、一階の和室はかたりべの館として、あるいは生涯学習の場として活用されています。

所狭しと並ぶ多くの雛人形
所狭しと並ぶ多くの雛人形
いろいろな時期のものがある
いろいろな時期のものがある
明治から大正の人形も見られる
明治から大正の人形も見られる

 相模田名民家資料館で2月初旬から3月3日まで、毎年行われているのが「ひなまつり今昔展」です。この時には、近隣の方から寄贈された、明治から大正・昭和にかけての多くの雛人形が一階の和室一杯に飾り付けられ、実に見事です。ちなみに今年は三百三十体ほどの人形を飾っており、展示しなかったものを含めると全部で五百体ほどの人形を保管されているとのことです。この「ひなまつり今昔展」には、例年大勢の人が訪れ、それぞれの時期の人形を見学しながら雛祭りの思い出を語り合う姿が見受けられます。子どもたちの安らかな成長を願い、それを人形に託した人々の想いがよく表れた「ひなまつり今昔展」は、多くの者の心を捉えるものとなっていると言えるでしょう。今年の雛人形の展示は終わりましたが、ご関心のある方は是非、来年にご来館ください。また、資料館では、雛人形とともに4月下旬から5月初旬に掛けて「端午の節句まつり」として五月人形の展示も行っています。ゴールデンウィーク期間中には、同じ田名地区の高田橋付近で、1200匹の鯉のぼりが相模川の上空を泳ぐ「泳げ鯉のぼり相模川」のイベントが実施されます。その機会に資料館を訪れたらいかがでしょうか。きっと爽やかな新緑の風が吹く中で楽しいひと時を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。

*「相模田名民家資料館」

住 所 相模原市中央区田名4856-2 電話 042-761-7118

開 館 日 木・金・土・日の週4日間(正月・盆は休館。また、祝祭日についても休館の場合あり)

開館時間 午前10時~午後4時

入 館 料 無料階展示室は開館時間中自由に見学できます。一階和室の利用には事前に予約が必要です。

その他、詳細につきましては、資料館までお問い合わせください。

 

祭り・行事を訪ねて(49) 秦野市・白笹稲荷の初午と道祖神巡り(平成25年2月)

 2月の初めての午(うま)の日である初午はお稲荷さんを祀る日です。皆様もよくお分かりの通り、稲荷には集落など地域全体で祀る大きな神社から各家庭にある屋敷神(やしきがみ)までさまざまなものがあり、人々に大変親しまれている神の一つとして初午には多くの稲荷社で祭礼が行われています。ちなみに今年の初午は2月9日(土)でした。

白笹稲荷の鳥居。多くの参詣者で賑わう
白笹稲荷の鳥居。多くの参詣者で賑わう
社殿の前には油揚げが供えられていた
社殿の前には油揚げが供えられていた

 今年の初午の9日には、民俗調査会の会員とともに秦野市今泉に鎮座する白笹稲荷神社にお伺いしました。民俗調査会では、「博物館の窓」でこれまでも紹介しているように、市内をはじめとして各地のフィールドワークを行っており、機会を捉えて市域の様相と比較することを目的として市外の地域も訪れています。秦野市の白笹稲荷は、一説に関東の三大稲荷に挙げられるほどの有名な神社であり、相模原市内でも例えば当麻地区の宿集落では、明治45年(1912)に防火の神として白笹稲荷から分霊を受けて日枝神社の社殿に合祀しており、東林間地区の東林間神社境内にも、大正6年(1917)に分霊され、この地域の新開(しんかい)としての開発の歴史を物語る稲荷社が祀られています(『平成さがみはら風土記稿 神社編』平成5年 市教育委員会発行)。また、地区内の講中や同族等で祀る比較的小さな稲荷社では、初午に市外の稲荷神社に代表者がお参りに行くことがあり、この行き先としても白笹稲荷が多かったようです(『相模原市史民俗編』)。

 昼前に白笹稲荷神社に到着するとすでに実に大勢の人が訪れており、お参りするにも社殿にたどりつくまでが大変で、露天もたくさん店開きをしていました。社殿の横には稲荷のお使いである狐が好むとされる油揚げが上げられている光景なども目にすることができました。さらに、境内の石造物に彫られた奉納者によると秦野に限らず遠方の住所も多く、白笹稲荷の信仰がかなり広まっていたことも確認できました。

弘法の清水
弘法の清水

  そして、当日は白笹稲荷の参詣と並んで、秦野の湧水や道祖神等の見学も行いました。秦野盆地の湧水群は環境庁(当時)によって「全国名水百選」に選定されるなど、古くから人々によって利用されてきた水が多くの場所から湧き出しており、今回はそのうちの秦野駅近くにある「弘法の清水」に向いました。ここは弘法大師が持っていた杖を地面に突いたところ水が湧き出したという、全国各地で聞かれる伝説が残されており、年間を通じて水温、水量ともほぼ一定して安定しているという湧き水に触れることができました。秦野というともう一つ著名なのが、神奈川県最古の双体道祖神碑(寛文9年[1669]銘)があることです。双体道祖神とは一つの石に二つの神が並んで彫られているもので、秦野市域では2548基を数える石仏全体のうち道祖神碑が315基を数え、そのうちの184基が双体道祖神というように道祖神の石碑がかなり多い地域です(『秦野の石仏[四]』)。今回は、秦野の中でも今泉・戸川・堀山下の三地区の石仏について、大きな陽石(ようせき)※(今泉)や県内最古の双体道祖神碑(戸川)、辻や道路の端など至る所にある道祖神碑(全域)などを中心に、帰りの電車の時間の許す限り見て歩きました。 

今泉の陽石道祖神。手前の庚申塔の前には「ケズリカケ※」が供えられている  ※木を削って花のような形にしたもの
今泉の陽石道祖神。手前の庚申塔の前には「ケズリカケ※」が供えられている
 ※木を削って花のような形にしたもの

双体道祖神碑を観察する会員。ここにも「ケズリカケ※」がある
双体道祖神碑を観察する会員。ここにも「ケズリカケ※」がある

戸川の県内最古の双体道祖神碑。近年、祠に扉が付けられ、上部から見るようになった
戸川の県内最古の双体道祖神碑。近年、祠に扉が付けられ、上部から見るようになった

堀山下の双体道祖神碑。周りに五輪塔などの多くの石が置かれているのが特徴的
堀山下の双体道祖神碑。周りに五輪塔などの多くの石が置かれているのが特徴的

 この日は少し風が冷たく、やや大変だったところもありますが、それでも澄んだ空気の中、全部で23名の会員の方々とともに、丹沢の山々を身近に感じながら充実したフィールドワークを行うことができました。今後とも各地を歩きながら、その成果を博物館の活動に取り入れて一層充実させ、「民俗の窓」にも反映していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(48) 雪のどんど焼き~市内各地~(平成25年1月)

 今年のどんど焼き・団子焼きは12日~14日にかけて市内の各地を回りましたが、12・13日は火に当たっていると汗ばむほどの陽気で、大変和やかに行われました。ところが14日は一転して数年ぶりの大雪となり、特に午後からは短時間に雪が降り積もりました。この日は事前のニュースでも大雪の予報が出されており、調査も若干の躊躇がありました。それでも少し回ってみて、中止や延期の場所が多ければそこで終わりとの心積もりで行ったところ、予想よりも多くの場所で行われていたのに出会いました(もちろん翌日などに延期となった所も確認しました)。

 実施していた地区で「この天気の中、大変ですね」と声を掛けたところ、すべての所で「これは14日にやることになっているので仕方がないですね」とのご返事をいただきました。改めて、昔からやっている行事の意義について考えさせられるきっかけとなりました。写真の1~3は平成25年1月12日、4~13は1月14日の様子を紹介しています。なお、14日は、民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。

1  南区新戸 同じ田に二つの地区のものが見える(1月12日)
1 南区新戸 同じ田に二つの地区のものが見える(1月12日)

2  南区新戸河原(1月12日)
2 南区新戸河原(1月12日)

3  南区当麻 小屋はまだできていない(1月12日)
3 南区当麻 小屋はまだできていない(1月12日)

4  南区当麻 3の小屋は14日には完成していた(1月14日午前 雨)
4 南区当麻 3の小屋は14日には完成していた(1月14日午前 雨)

5  緑区葉山島 (1月14日午前 雨)
5 緑区葉山島 (1月14日午前 雨)

6  緑区小倉 小倉橋の下側(1月14日午前 みぞれ)
6 緑区小倉 小倉橋の下側(1月14日午前 みぞれ)

7  緑区寸沢嵐 雪がうっすら積った道志地区の道祖神の小屋(1月14日午前 雪)
7 緑区寸沢嵐 雪がうっすら積った道志地区の道祖神の小屋(1月14日午前 雪)

8  緑区橋本 どんど焼き(1月14日午後 雪)
8 緑区橋本 どんど焼き(1月14日午後 雪)

9  中央区清新 団子焼き(1月14日午後 雪)
9 中央区清新 団子焼き(1月14日午後 雪)

10  中央区清新(1月14日午後 雪が激しくなってきた)
10 中央区清新(1月14日午後 雪が激しくなってきた)

11  南区上鶴間本町 谷口地区ではいずれも行われたという(1月14日午後)
11 南区上鶴間本町 谷口地区ではいずれも行われたという(1月14日午後)

12  南区上鶴間本町 夕方近く、来る人もいなくなり、ほぼ終了(1月14日午後)
12 南区上鶴間本町 夕方近く、来る人もいなくなり、ほぼ終了(1月14日午後)

13  南区上鶴間本町 雪に埋もれた道祖神碑(1月14日午後)
13 南区上鶴間本町 雪に埋もれた道祖神碑(1月14日午後)

 

祭り・行事を訪ねて(47) だるま市とどんど焼き~中央区上溝地区~(平成25年1月)

 中央区上溝3~7丁目付近の県道に沿った地域は、かつて市場が開かれていた場所です。上溝市場は主に生糸や繭などの取引を目的として明治3年(1870)に開設され、毎月6回、3と7の付く日に開かれた六斎市(ろくさいいち)です。市日(いちび)には糸や繭を買う商人などをはじめとして多くの商人が集まり、露天も出て大変に賑やかだったと言います。また、多くの商店も立ち並び、相模原の中心的な商業地となっていました。

 この地で今年の1月13日(日)に行われたのが「だるま市」です。元々、上溝にもだるまを作る職人がいて1950年代の前半までだるま市が行われていましたが、その後は職人がいなくなったこともあって行われなくなりました。それを平成元年(1989)に復活させたのが現在のだるま市で、7月の夏祭り(上溝の天王祭)と11月の酉の市とともに上溝の三大イベントを構成するうちの一つとなっています。ちなみに今は相州だるまが売られています。

 そして、上溝・本町自治会のどんど焼きもこの日に行われています。当日の午前11時に成田不動堂の横に集めた正月飾りに点火して燃やしていきます。だるま市の会場でもあり、他の地区のように高く積むこともなく少しずつ燃やします(今年は量が多く、半分ほどは別に燃やしたとのことです)。こういった団子焼きなので多くの人が一斉に集まることもなく、各自持参した団子を焼いていく姿が見られました。

左が成田不動堂、右が大鷲神社
左が成田不動堂、右が大鷲神社

だるまが売られている
だるまが売られている

正月飾りを少しずつ燃やす
正月飾りを少しずつ燃やす

各自で持参した団子を焼く
各自で持参した団子を焼く

正月飾りを少しずつ燃やす 各自で持参した団子を焼く また、午後3時30分頃からは、同じ所に集められた古いだるまのお焚き上げが行われます。これは、上溝・番田地区の安楽寺の住職が、この日には開扉されている成田不動の堂内での読経をした後に行われ、やはり住職の読経の中、各家から納められた多くのだるまが燃やされていきました。

住職による読経
住職による読経

読経の中だるまのお焚き上げ
読経の中だるまのお焚き上げ

燃え上がるだるま
燃え上がるだるま

本町はやし連によるお囃子
本町はやし連によるお囃子

 上溝のだるま市は、本町自治会と上溝商店街振興組合が協力して実施しており、このほかにも当日は本町はやし連がお囃子を奏でたり、クーポン対象店舗で買い物をするとサービスを受けられるクーポン券の配布、女子美術大学環境デザイン学科の有志グループ「たまび屋」によるワークショップ「ふうせんだるまをつくろう!」の開催など、さまざまな内容が行われました。この地域のどんど焼き(かつては「団子焼き」と呼ばれていたと言います)は、以前は道祖神のある場所でいくつかの集落が集まってやっていて、本町では日金沢と一緒に旧道の傍で行っていたとのことですが、今では地元の振興のための重要なイベントの中に組み込まれており、まさにかつて市が開かれていたこの地区ならではの変化と捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(46) 道祖神の小屋~中央区田名地区~(平成25年1月)

 昨年の「民俗の窓」のNo25とNo26において、南区当麻の原当麻地区と南区古淵地区で行われている道祖神の小屋作りについて記しましたが、市内ではこのほかにも何か所かで同様のものが今でも作られています。今回はそのうちの一つである中央区田名の清水地区の事例を紹介します。

ムロ(正面)
ムロ(正面)

ムロ(側面)
ムロ(側面)

 清水集落は田名地区のもっとも北側に位置し、大島の古清水集落と接するように家々が広がっています。団子焼きは13日(日)の午後1時から、自治会館の前側で行われました(終了は4時)。ちなみに自治会館の横には地域で祀る観音堂があります。ここで注目されるのは道祖神碑を覆う小屋を作ることです。この地域では「ムロ」と呼ばれ、柱となる木の枝や屋根に使う竹と屋根材とする杉を用いて、少し離れた場所にあるやはり集落で祀っている不動堂の横に作り、中には双体道祖神碑(現在は上部は欠損)と男根状の石が置かれます。今年は午後にお訪ねしたためすでに完成していましたが、数年前に確認したところでは、ムロは団子焼き当日の朝から地区の長老衆が出て作り、この時には午前9時から作業を始めて11時30分に完成しました。また、完成後には自治会の役員がこの前に集まって拝礼をすることも見られました。このムロは、点火して団子焼きが始まると会場に運んで火の中に投じて燃やされてしまいます。

団子焼き(点火したところ)
団子焼き(点火したところ)

ムロを団子焼きの会場に運ぶ
ムロを団子焼きの会場に運ぶ

ムロを団子焼きの火に投じる
ムロを団子焼きの火に投じる

  かつて昭和30年(1955)頃までは、子どもたちが7日に正月のお飾りを各家から集めて歩き、それらで子どもが立って入れるくらいの大きなムロを作っていて、お飾り集めとともに賽銭も貰ってその金で菓子などを買っていました。そして14日には、子どもが作った大きなムロを壊して年寄りが小さなものを作り、それが現在も残っているムロだとのお話しをうかがっています。

 市内で今も作られているこうした「道祖神の小屋」は、作ったものを翌年までそのままにしておく所(南区当麻の中・下宿や緑区寸沢嵐道志)やその後に燃やしてしまうもの(原当麻や古淵)があり、清水地区は後者の事例となります。特にこのムロは、一年のうちわずか一~二時間しか姿を表していないことになり、その時に現地にいかなければなかなか分からないと言えます。今回紹介した事例は、市民の方からこうしたことがあるとご連絡をいただいて調べることができたものです。団子焼きに限らずこうした情報があれば是非博物館にお寄せください(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(45) 道祖神の幟を立てる~南区新戸地区~(平成25年1月)

 この冬も団子焼き・どんど焼きの時期がやってきました。今年は成人の日と日曜日の関係で12日(土)から14日(祝)までに行われた地区がほとんどで、昨年に比べて短期集中となりました。例年通り、いくつかの地区を回らせていただきましたが、まず南区新戸の上地区のどんど焼きについて紹介します。

 南区新戸は市内でもっとも南西部にあり、水田に乏しい市域の中でも相模川に面した比較的田の多い所です。今回取り上げるのは新戸の北側にあたる、荒井耕地西・荒井耕地東・上新・中央・新道の五つの自治会が合同で行っているどんど焼きで、毎年五つの自治会が順番に準備などに当たることになっており、今年は荒井耕地西自治会が担当しました。

当番自治会で燃やすものを準備
当番自治会で燃やすものを準備

 どんど焼きの準備は12日(土)の午前9時頃から始まりました。どんど焼きで燃やす正月飾りは、地区ごとに集められて行事を行う場所(「新磯ふれあいセンター」裏側の休耕田となっている所)に運び、まず長い竹を中心に立てて、回りにも三本の竹を立てかけるようにして中心の竹に結び付け、中に笹や板を詰めて正月飾りも積んでいきます。最後に氏神である日枝神社に飾られていた昨年の大きな注連縄を巻いて燃やすものは完成しました。

 その後、午前11時30分頃から行われたのが道祖神の幟立てです。この地区では、現在行事を行っている場所から200mほど離れた、集落が並んだ四つ角の場所に道祖神などの石碑がありますが、そこに「奉納道祖神 明治二十二年一月十四日 上講中」と記された幟を自治会長が中心になって立てました。市域各地で盛んに行われているどんど焼きのなかでも道祖神の幟がある地区は今のところ他には確認できず、大変珍しいものということができます。この幟は翌日のどんど焼きの終了後に片付けます。そして、午後5時からは道祖神の石碑に灯明やお神酒などを上げて、自治会長と荒井耕地西自治会の代表の方々が拝礼し、12日の準備は終了しました。

幟の準備
幟の準備

道祖神の幟
道祖神の幟

12日夕方に道祖神に灯明を上げては拝礼する
12日夕方に道祖神に灯明を上げては拝礼する

 13日(日)にもまず道祖神碑の前で拝礼し、そこから会場に向かって午前9時に点火されました。背後に大山などの丹沢の山々を望みながらの団子を焼く光景は見事で、三つ又の木の枝に刺した団子を持ち寄った人々がそれぞれを焼き、枝にはスルメが付いたものもあってスルメを炙る人なども見られました。どんど焼きは午前11時までの予定で行われ、団子を食べると風邪を引かないということで多くの参加者がありました。

13日点火前にも道祖神に拝礼
13日点火前にも道祖神に拝礼

点火の前にお神酒を撒く
点火の前にお神酒を撒く

背後に大山を望む
背後に大山を望む

団子焼き
団子焼き

団子の他にスルメを炙る人もいる
団子の他にスルメを炙る人もいる
「左義長当番控」の帳面
「左義長当番控」の帳面

 道祖神の幟とともにこの地区で興味深いのは、「左義長当番控 上新戸道祖神講中」と書かれた帳面があることです。「左義長」(さぎちょう)との呼び名は大磯海岸で行われる「大磯の左義長」(国指定重要無形民俗文化財)が有名なものの、古くは神奈川県ではほとんど使われなかった名称です。また、現在は自治会単位で行っているこの行事が、かつては「道祖神講中」という別の組織によって担われていたことを示しており、今でも行事の実施を知らせる掲示には、当番自治会(今年の場合は荒井耕地西)とともに「上新戸道祖神講中」と書かれています。この帳面には、主にどんど焼きに掛かった経費や収入(寄付をいただいた人の名前)などの会計に関することが記されており、当番となった自治会が記録して翌年の当番自治会に送っていきます。現在は平成16年(2005)からの帳面ですが、これ以前の古い帳面もあったとのことです。

博物館で、この行事(団子焼き・どんど焼き・サイトバライ)の調査を市民の皆様と一緒に調べ出して今年でちょうど10年になります。この間、さまざまなデータを得ることができた中で、今回の道祖神の幟のように初めて分かった事例もあります。今後ともさらに調査を続けて、市域の状況の様相と変化について捉えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(44) 「一つ目小僧」がやってくる日~緑区根小屋の師走八日~(平成24年12月)

 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によると、2月8日と12月8日は「事八日(コトヨウカ)」の日で、この日には全国的に各種の神や妖怪が訪れるとされ、特に疫病神が来ることを恐れる伝承が東日本の広い範囲に見られます。神奈川県内ではこの日を「ヨウカゾウ」あるいは一つ目小僧が来る日なので「一つ目小僧」などと言い、2月と12月の両方、あるいは2月か12月のどちらかだけの8日とする場合があります。また、県内では広く見られる伝承であるものの、三浦郡と津久井の藤野町や相模湖町では伝承が希薄であることが指摘されています(『神奈川県民俗分布地図』神奈川県立博物館。1984年刊行なので地名はそのまま記載しました)。

篩を玄関に吊るす
篩を玄関に吊るす

吊るされた篩とイモフリメカイ
吊るされた篩とイモフリメカイ

 市域でもこの日をヨウカゾウとすることが多く、一つ目小僧が来る日として子ども心に怖かったと言います。そして、今回も写真を撮らせていただいた緑区根小屋中野の菊地原稔さんのお宅では12月8日を「師走八日」と言い、2月8日の方は特に何も行いませんでした。師走八日には、やはり一つ目小僧が来て下駄などの履物に判を押してしまい、それを知らないで履くと病気になるため、子どもは外に出しっぱなしにしている下駄などを「今日は一つ目小僧の日だ、早く仕舞え」と親に言われて片付けました。一つ目小僧は目が一つしかないので、たくさん目のある籠や笊を吊るしておくと逃げていくとされ、根小屋中野では里芋を洗うイモフリメカイや篩(フルイ)のどちらかを、一つ目小僧は夜に来るので夕方に吊るすのが多かったそうです。今回の写真にイモフリメカイと篩の両方が吊るされているのは、二つの方が良いと思って両方吊るしているとのことです。

冬至には建物の周りに水を撒く
冬至には建物の周りに水を撒く

 なお、この日はもちろん冬至ではなかったのですが特別に冬至の日に行うことも見せていただきました。このあたりでは、冬至の夕方に母屋はもちろん物置などすべての建物の周囲にジョウロで水を撒き、昔は火事が多く延焼を防ぐためと言われているそうです。家によっては家の破風の部分に竹の水筒に入れた水を吊るすこともあり、建物の水撒きかどちらかをやっていました。さらに、冬至から暮の餅つき、三が日、七草、十五日正月、節分までの正月を挟んだ行事の朝に、おばあさんが「良いこと聞くがら」として菊ガラ(菊の茎)、「まめに働く」として豆ガラ、「借金なし」としてナスガラ(なすの茎)を、毎回かまどで燃やしていたとのことです。

相模原地域の大沼や古淵・上溝などでは、12月8日に来る一つ目小僧が村人の誰を悪病にするかを書いた帳面を道祖神に預けて2月8日に取りに来ると言ったのに対し、正月14日の団子焼き(どんど焼き・サイトバライ)の火で道祖神の家が火事になって帳面を焼いてしまったのでどの人を病気にしたら良いか分からなくなって、その一年は病気にならなかったとする、ヨウカゾウと正月の団子焼き行事の由来との関連を説く伝承などもあります。今回の根小屋中野ではそうした話は伝えられていないようですが、市内でも年中行事に関わるさまざまな伝承が残されています。これからもいろいろな行事を取り上げていく予定です(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(43) 緑区根小屋のエビス講(平成24年11月)

 エビス講は、各家での年中行事の中でも大いに行われていた行事の一つで、『相模原市史民俗編』や『相模湖町史民俗編』などをはじめ、これまでにも市内各地からの多数の報告があります。エビス講は、福の神であるエビス・大黒にいろいろなお供え物をして祀る行事で、基本的に一年に2回、正月と秋(10月か11月)に行われます。特に商家のほか、農家でも盛んに行われていました。この行事もほかのものと同様に近年ではあまり見られなくなっていますが、「民俗の窓」に何回も登場いただいている、緑区根小屋の菊地原稔さんの家では現在でも行っているということで、写真を撮らせていただきました。

たくさんのエビス・大黒の像が祀られている棚
たくさんのエビス・大黒の像が祀られている棚

 エビス講は正月と11月の2回あり、当家では養蚕を遅くまでやっていたので養蚕の作業の関係で10月ではなく11月に行っていました。正月は、エビス・大黒が働きに出て行くということで、前日の夜に準備をしていて朝早くお供えし、その逆に11月は稼いで帰ってくるので夜に行います。当家では、現在、土間としている所の先の居間の奥の廊下状になっている場所の上側にエビス・大黒の像を祀る棚があり、通常はエビス・大黒の像一対で祀られていることが多いのに対し、棚の中には大きさは小さいものの、50体以上ものお像が入っています。

当家では御当主の祖母に当たる方がこうした信仰に熱心で、例えば、路傍の道祖神などの石仏に納められている(どんど焼きで燃やすためにおいてある)エビスや大黒像を貰い受けて来て、酒を供えて「この家のために働いてください」と言ってお祀りしました。ちなみに祖母は御札や達磨などもどんど焼きで毎年焼くのではなく、「御札が千枚集まれば長者になる」として保管していて、今も御札などはたくさん残されているとのことです。

この棚の下側にテーブルを置き、灯明と魚、膳をエビスと大黒の分として二膳お供えします。魚は鯛で、皿に腹合わせに載せます。ただし、昔は鯛などはなかなか買えなかったため、鯵が多くてサンマだったこともありました。膳には箸のほか、お神酒、小豆飯、柿、野菜の煮物を付け、小豆飯はうるち米を焚いたもので、エビス講の時にはもち米を蒸かした赤飯は使いません。柿は「掻き取る」ということで供えますが、あまり他の家で供えているのを見たことはなく、野菜の煮物は大根・ニンジン・ゴボウ・里芋を煮て、その上には油揚げが一枚載せられていて、これは根小屋辺りではよく作られているそうです。このお供え物は当日はそのまま置き、翌日の朝に下げて食べることになります。なお、エビス・大黒がお金を稼いできたためエビス講には財布や金を一升枡などに入れてお供えするという話もあるものの、当家では金を上げると働かなくなるといってやりませんでした。

魚(鯛)や小豆飯や柿、油揚げが載った野菜の煮物を供える
魚(鯛)や小豆飯や柿、油揚げが載った野菜の煮物を供える

油揚げがのった野菜の煮物
油揚げがのった野菜の煮物

 かつての人々の生活に対するさまざまな想いが窺われるこのような年中行事について、今後とも機会を捉えて調べ、「民俗の窓」の欄に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(42) 今年も藤野歌舞伎を楽しませていただきました(平成24年10月)

 復活後21回目を迎えた藤野村歌舞伎が、今年は神奈川県立藤野芸術の家クリエーションホールにおいて10月14日(日)の午後1時から行われました(藤野村歌舞伎の復活の経緯については、「祭り・行事を訪ねて4(平成22年11月)」をご参照ください。)。今年(平成24年)の演目は、第一部が「忠臣蔵七段目 一力茶屋の場」で、第二部が恒例の「白波五人男 稲瀬川勢揃いの場」でした。

忠臣蔵七段目。おかるが大星の密書を盗み見ている場面
忠臣蔵七段目。おかるが大星の密書を盗み見ている場面

 忠臣蔵(「仮名手本忠臣蔵」)に登場する人物の中で、おかると勘平(かんぺい)は有名な役どころですが、七段目では、祇園町の遊女となったおかるが大星由良之助(大石内蔵助)に届いた密書を盗み見してしまったため、大星に殺される運命となります。そこに現れたおかるの兄の平右衛門は、事情を察して自らの手でおかるを殺し、それを功として高師直(吉良上野介)への仇討ちの参加を許してもらおうとします。驚くおかるに平右衛門はおかるの夫の勘平もこの世にいないことを告げると、悲しみのあまりおかるは自害しようとしますが、大星はそれを止めた上で、由良助の仇討ちへの真意を探ろうとして床下に隠れている九太夫を刺し、平右衛門が同志に加わることを許す、という筋立てになっています。

途中、突然に兄に殺されそうになって驚き、また、夫が死んだことを知って嘆き悲しむおかるの姿をはじめとして多くの者に親しまれてきた名場面であり、当日は約1時間に渡っての熱演が見られました。

第二部の白波五人男は、10名の子どもたちによる演目で毎回人気があり、今年は藤野南小の3年~6年生の8名と藤野中2名が見事に演じて小銭を包んだ多くのおひねりが舞台に投げ入れられました。

白波五人男(3人を撮影)
白波五人男(3人を撮影)

白波五人男。捕り物の場面
白波五人男。捕り物の場面

保存会会長(真ん中)を囲んで出演者一同で観客にご挨拶
保存会会長(真ん中)を囲んで出演者一同で観客にご挨拶

 毎年、藤野村歌舞伎の定期公演は10月に賑やかに上演され、今年は途中のアナウンスによると250名以上の観客があったとのことです。私も楽しみにしており、これからも見続けて行きたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(41) 人力で立てる祭りの幟~南区磯部・御嶽神社~(平成24年9月)

 7月の天王祭から引き続き、8月から9月にかけては各神社で祭りが行われます。こうした祭りに行くとまず目に付くのが、鳥居の両脇に建てられた幟(のぼり)です。幟は大きなものや小ぶりなものもありますが、神社が祭りであることを周囲に示す重要なしるしとなっています。

 幟は、元々は神を招いたり神が訪れたことを表した旗飾りで、「依代(よりしろ)」と考えられています。古くの日本の神は社殿に常在するのではなくて祭りの時に迎えるものであり、そのために神が降臨するためのものが必要で、それは天然の樹木や岩・山のほか幟などの柱を立てることもあります。幟の先に榊などの葉を付けるのは単なる飾りではなく、神を迎える装置としての意味があったとされています(『日本民俗大辞典』)。

幟が立っている様子(9月1日)
幟が立っている様子(9月1日)

 このような幟も近年は立てることが大変になり、金属製の常設のポールになっているのをよく見かけ、木製の幟竿の場合でもクレーンなどを使用することが多くなっています。そんな中で、南区磯部の御嶽神社では現在でも大勢の氏子が寄り集まって、人力で幟の設営と撤収を行っています。御嶽神社は磯部地区のうちの下磯部の鎮守で、毎年9月1日が祭日です。今年は8月19日(日)の午前8時30分から幟立て、宵宮となる8月31日(金)に子ども御輿、9月1日は午後1時から祭典で夜には演芸大会、翌2日(日)に幟返しの日程で実施されました。

 私が訪れたのは幟を片付ける幟返しが行われた2日で、作業が開始される午前8時30分には40名ほどの男性が集まり、挨拶と清めの酒を飲んでから幟返しが始まりました。当社の幟には、両方ともに幟枠という龍が彫られた立派な木製の彫り物(ちなみに片方は10年近く前に盗難にあい、残った方を見本に作り直したということです)が取り付けられており、まずこれを外します。そして、「鎮守 御嶽神社 昭和五十八年九月一日 氏子中」と書かれた幟を下げて竿から取り、幟枠の上部の飾りを外していよいよ竿を倒し始めます。幟竿はかつてはもっと大きかったようですが、現在の一回り小さくしたものでも10mほどの長さはあるとのことで、倒す方向とは反対側では急に落ちたりしないように縄で引っ張り、梯子で枠を支えながらゆっくり倒していきました。そして、約1時間で二本の幟を片付けることができました。ちなみに幟立ては梯子で支えながらなのでもっと大変で、約2時間ほど掛かったそうです。

最初にも記したように、祭りに当たって氏子が寄り集まって人力で大きな幟を立てることは古い形式を残しており、また、大勢の氏子の方が集まることは、地域の祭りの一環として意味あるものとして位置付けられていることが分かります。それでも実際に仕事に当たられる立場からは、作業が大変なこともあって常設のポールを設置する意見も出されているとのことで、今後の推移を見守っていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

飾られた幟枠
飾られた幟枠

幟枠を外す
幟枠を外す

幟を下ろす
幟を下ろす

幟を竿から外す
幟を竿から外す

竿を支える支柱を外す
竿を支える支柱を外す

竿が倒れないように反対側では縄で引っ張る
竿が倒れないように反対側では縄で引っ張る

梯子で支えながら倒す①
梯子で支えながら倒す①

梯子で支えながら倒す②。支えている縄が見えている
梯子で支えながら倒す②。支えている縄が見えている

幟の先に取り付けられていた榊など
幟の先に取り付けられていた榊など

竿を立てる穴は常設で掘られている。普段は金板でふさいでいる
竿を立てる穴は常設で掘られている。普段は金板でふさいでいる

 

祭り・行事を訪ねて(40) 中央区上矢部・御嶽神社の湯花神事(平成24年9月)

 境川近くの地区の神社の多くは川沿いに見られ、中央区上矢部地区の鎮守である御嶽神社も同様に常矢橋のすぐ西側に鎮座しています。御嶽神社の例祭は日取りがいくつか動いた後に現在は9月の第一土曜日となり、この日には相模原地域ではここだけである湯花(ゆばな)神事が行われています。

湯花神事には境内の社殿の前に笹竹を四方に立てて注連縄を張り、その中央に三本の丸太を組んで大釜を据えます。また、地元でカツンボと呼ばれるニワトコの木を13本編んで棚を作り、この棚は社殿の向かって右側にある柱に設けて桶を乗せておきます。かつては川原にあったカツンボは無くなってしまい、最近では参道の脇のところに植えたりしているそうです。

大釜の設え
大釜の設え

社殿の柱に置かれた桶
社殿の柱に置かれた桶

 今年の湯花は神官の都合により、当日の午後3時からの社殿での式典の後に行われました。式典終了後、社殿の中では囃子連の代表の方による獅子舞とヒョットコなどの踊りがあり、その後に神官以下氏子総代などの役員が、湯が沸かされた釜の前に集合し、神官が湯をかき混ぜてからこちらに持ってきた先ほどの桶に初湯を入れ、柱の所にお供えします。そして、釜の前で祝詞を唱え、湯を四方に軽く撒くようにして湯花の神事は終了しました。ちなみに湯はそのままで、特に処置するということはないそうです。祭礼では夕方から演芸が始まり、釜の当番に当たる三名の方は、祭りがすべて終了する9時30分頃までは釜の火が消えないようにそばに付いていることになります。

桶を釜の前に運ぶ
桶を釜の前に運ぶ

桶に湯を入れる
桶に湯を入れる

初湯を柱の所に供える
初湯を柱の所に供える

釜の湯をかき混ぜる
釜の湯をかき混ぜる

湯を四方に撒く
湯を四方に撒く

 このように上矢部地区の御嶽神社の祭りは御輿などが出ることもなく、他に比べれば簡潔で静かな祭りですが、特に相模原地区ではほかに湯花神事は行われておらず、興味深いものといえます。町田に在住されている神官にお話しをうかがうと、この方が管轄している町田や八王子の神社では、数は多くないものの他の神社でも湯花神事を行っている所があるとのことで、こうした観点から地域の祭礼や神事を捉えてみる必要がありそうです(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(39) お盆の砂盛り~地域差のある民俗~(平成24年8月)

 8月を代表する年中行事と言えばやはりお盆を挙げることができます。古くからの行事が廃れていく中、盆行事は正月行事と並んで簡略化されながらも今でも続けられていることが多いものの一つです。

 ところで、神奈川県の盆を代表する行事としてよく紹介されるものに「盆の砂盛り」があります。県内の各地では、スナモリとかツカ・ツジなどと言って、盆の入りの13日に屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて土壇を作り、中には何かが登るためなのか階段を付けたりすることもあります。そして、この砂などを盛ったところに線香を立てて造花などの花をさし、その脇で迎え火や送り火を焚きます。砂盛りは、静岡県や多摩地方にも見られるとも言われますが他県ではほとんどないとされており、その意味で神奈川県を代表する民俗として捉えられています。

 しかし、この砂盛りはもう一つの重要な特徴があります。それは、砂盛りを作る地域は県内では東西に帯状に広がっていることが分かっており、三浦半島では希薄であり、相模原市でも緑区や中央区ではほとんど作られていないということです。この点を『相模原市史・民俗編』によって確認すると、市域での名称は一般に「線香立て」と呼ばれており、地域としては下溝・当麻・磯部・新戸・上鶴間にあり、特に磯部や新戸には色濃く見られます。また、例えば下溝では、大下集落では作るものの古山集落では行わないというように地区内すべてにあるわけではなく、当麻や上鶴間も同様の傾向があります。中央区になりますが上溝や田名では、やっていた家もある一方で一般的ではなかったとのことです。つまり、県内を帯状に分布するこの砂盛りは市内でも南部地域では作られ、特に新磯地区に顕著というように地域差が顕著な民俗であるということができます。

今年の8月17日にこうした地域の一部を回ってみたところ、さすがに現在では土や砂を固めて作ったのは少なく、鉢や缶・箱に砂などを詰めて線香立てとしているものが多くありました。また、中には石製で盆のたびに出してそのまま使っていると思われるものがあったり、階段付きも確認できました。ちょうど送り火の翌日でしたので隣りには送り火を焚いた跡があり、砂盛りとその近くには、線香を立てる竹筒や盆棚に供えてあった造花やナスとキュウリの馬、アライアゲといって刻んだナスとインゲンに洗った米を混ぜて里芋の葉に載せたもの、アライアゲに水をふりかけるのに使うミソハギ、オガラ(麻幹)などが置かれていました。

下溝・大下 紙箱に砂を詰めて代用している。
下溝・大下 紙箱に砂を詰めて代用している。

上磯部 階段を付けている。
上磯部 階段を付けている。

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下磯部 毎年使える石製のものを作っている。

 地域に伝えられてきた民俗はそれぞれの土地によって違いがあり、人々が担っている文化であることから単純に行政単位では区切れない面があります。一口に「相模原の民俗」と言っても県内の中で位置付けると、似たような状況にあるものや特徴のある分布を持つものなどがあり、さらには今回の「盆の砂盛り」のように市内の中でも違った様相を示すものなども見られます。『相模原市史・民俗編』ではこうした民俗についての細かい記載がありますが、この欄でもさまざまな観点から市域の民俗や祭礼行事を取り上げていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

新戸 現在では少なくなった土製もの。手前にナスの馬などが見える。
新戸 現在では少なくなった土製もの。手前にナスの馬などが見える。

 新戸 左と同じ。
新戸 左と同じ。

座間市上宿 ここでは土製のものがいくつか見られた。
座間市上宿 ここでは土製のものがいくつか見られた。

秦野市上大槻(1987年)。秦野市などでも盛んに作られ、階段も見えている。
秦野市上大槻(1987年)。秦野市などでも盛んに作られ、階段も見えている。

 

祭り・行事を訪ねて(38) 八王子祭りの山車(平成24年8月)

 8月5日の日曜日に、民俗調査会では「八王子祭り」の見学を行いました。毎月第二水曜日に活動する民俗調査会Aと第四土曜日を活動日とする同Bの合同の見学会で、民俗調査会では市域を中心に各地のフィールドワークを行っていますが、さすがに暑い盛りの8月は長い距離の外歩きは危険ということで、毎年、さまざまな祭礼の見学をしています。今回の見学会も相当の暑さの中、総勢36名の会員が参加しました。

「八王子祭り」は8月第一の金・土・日(今年は3・4・5日)で、民俗調査会では5日午後にまず八王子市郷土資料館で学芸員の方から、祭りの歴史や移り変わり、見所などのご説明をいただき、その後、八王子の町のメインストリートである甲州街道(国道20号線)に移動し、華やかで勇壮な御輿の渡御や山車巡行を見学しました。

八幡八雲神社の宮御輿
八幡八雲神社の宮御輿

 この祭りは江戸時代に甲州街道の八王子宿だった地域(旧市街地)で行われており、八王子駅寄りの下地区と西側の上地区に分かれていて、下地区に八幡八雲神社、上地区には多賀神社があり、元々は祭りは別々で祭礼日も違っていました。それが昭和43年(1968)に「八王子まつり」として御輿や山車が参加するようになり、両社の祭礼の日程を変更(ただし、八幡八雲神社では本来の日取りである7月23日に現在でも神事を行っている)して同じ日にするなどの変遷を経てきました。そして、平成14年(2002)からは、それまで一緒に行っていた花火大会や武者行列などを切り離して御輿と山車を中心とした伝統祭りとして位置付け、現在に至っています。

八王子祭りの大きな見所に、八幡八雲神社及び多賀神社の宮神輿の渡御と並んで各町内から出される山車があります。八王子の山車は上側に人形を飾ったり、全面に彫刻を施した彫刻山車の祭りとして江戸時代から著名でした。しかし、昭和20年(1945)の八王子空襲によって多くの山車が焼失してしまいました。それでも焼け残った山車や人形を修理したり新たに再建するなど、今では19台の山車が祭りに参加し、賑やかな囃子を奏でながら自分たちの町内や甲州街道の巡行を行います。

小門町(上地区)・新しく参加した町内も山車が華やかに巡行する
小門町(上地区)・新しく参加した町内も山車が華やかに巡行する

八幡上町(上地区)・明治期の建造で、古い山車の一つ
八幡上町(上地区)・明治期の建造で、古い山車の一つ

上八日町(下地区)・人形は素盞鳴尊(スサノウノミコト)で明治16年作。山車は近年のもの
上八日町(下地区)・人形は素盞鳴尊(スサノウノミコト)で明治16年作。山車は近年のもの

三崎町(下地区)・上側に人形が乗るのではない形式の山車で明治40年頃の建造と伝える
三崎町(下地区)・上側に人形が乗るのではない形式の山車で明治40年頃の建造と伝える

 相模原市内でも中央区上溝をはじめとして各地に山車が出る祭りがありますが、上溝・本町の山車は明治40年(1907)に八王子の横山町から譲り受けたものといわれ、大正初期頃に撮影された上部に天照大神(アマテラスオオミカミ)の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に紹介されています。また、緑区中野上町の山車は、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から譲り受けたもので、雄略天皇を乗せる人形山車の形態です。八日町一・二丁目にあった山車は、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされ、八王子ではその後の空襲で多くの山車が失われていますので、中野上町の山車は八王子の山車を知る上でも重要なものと言えます。今回の見学会でもこうした八王子と相模原のつながりに注意して実施したのはもちろんで、市内の祭り・行事や民俗をより深く理解するためにも、このような周辺地域との関係や異同などを調査し、検討していく必要があります。今後とも、機会を捉えて周辺地域の状況を含めて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

上溝・本町の山車。現在は人形は乗せていない
上溝・本町の山車。現在は人形は乗せていない

緑区中野上町の山車。八王子市八日町一・二丁目の山車を譲り受けた(2007年)
緑区中野上町の山車。八王子市八日町一・二丁目の山車を譲り受けた(2007年)

山車に乗せる人形の台座も一緒に買った。現在は山車に人形は乗せていない(2007年)
山車に乗せる人形の台座も一緒に買った。現在は山車に人形は乗せていない(2007年)

 

祭り・行事を訪ねて(37) 南区下溝・古山集落のオテンノウサマ(平成24年7月)

 南区下溝の古山集落は下溝地区のもっとも北側にあり、集落の神社として十二天神社を祀っています。この十二天神社の祭礼が、今年(平成24年)は7月21日(宵宮)と22日(本宮)に行われ、集落の中を大人の御輿と子ども御輿2基、囃子連を乗せた屋台(山車)が巡行しました。この御輿は天保10年(1839)製で市内に残る御輿でも古いものの一つとされ、屋台も古くは慶応年間(1865~1868)に上溝で再造したものでしたが、現在は新しく作り直したものを使っています。

 この地域の伝承を調べた『古山の集落と土地利用』(相模原市教育委員会が刊行した)によると、かつては古山の中には十二天神社のほかに八坂神社と日枝神社があり、それぞれ3月(十二天神社)・7月(八坂神社)・9月(日枝神社)というように年に三回の祭礼を行っていました。それが明治30年(1897)に、八坂神社と日枝神社が十二天神社に合祀されて祠がなくなり、その後も二社の祭りはあったようですが、昭和に入ると三社合わせて7月に祭りをすることになりました。このように本来の十二天神社の祭日ではなく、地域の神社の祭礼として合祀された八坂神社の祭礼日の方を行うようになったのは、やはり御輿や屋台を出す華やかなオテンノウサマの祭りの魅力が強かったと考えられます。

 また、以前は古山は集落の内が丸(マル)・上(カミ)・下(シモ)というように三つに大きく分かれ、例えば葬式があった際にはそれぞれの中で手伝い合ったりしており、祭礼の御輿も丸と上から7名、下から7名が出て(実際に担ぐのは12名で残りの2人は御輿を乗せる台を担ぐ)、これ以外の人は手出しをしたり途中で替わってはいけないなど、厳しい決まりがありました(現在ではこうしたことはもちろんありません)。一度担ぐと集落のもっとも下側の家に行くまで御輿から肩を抜いてはいけないということで、途中出される酒も担いだまま飲んだとか、御輿が重くて肩の皮が剥けているため翌日にうっかり鍬を担いだりするとあまりの痛さに鍬を畑に投げ出すほどだったなど、祭りに関するさまざまな話が残されています。

 今年(2012年)の本宮は、22日の午後1時から式典を行い、2時から御輿と屋台の氏子回りとなりました。鎮守の森に抱かれた神社の正面から御輿が出て行く様子は見ごたえがあり、その後を子どもが一生懸命に小さな御輿を担いでいきます。御輿を担いでいる時や休んでいる間も絶えずお囃子が奏でられ、祭りの雰囲気を一層高めます。古山の囃子は上手で、当麻や上溝などに教えに行ったとも言われています。

鳥居から出る御輿。これから氏子回りに出発する
CYBERSHOT (13.7mm, f/3.5, 1/50 sec, ISO100)
鳥居から出る御輿。これから氏子回りに出発する

子ども御輿と囃子連が乗った屋台
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO100)
子ども御輿と囃子連が乗った屋台

子ども御輿。奥にもう一基と屋台が見える
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/200 sec, ISO100)
子ども御輿。奥にもう一基と屋台が見える

屋台も一緒に巡行する
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/200 sec, ISO100)
屋台も一緒に巡行する

囃子が祭りに色を添える
CYBERSHOT (24mm, f/5.6, 1/60 sec, ISO100)
囃子が祭りに色を添える

 御輿は集落の中を公会堂や氏子の家の前など、何か所かで休みながら進んでいき、止まる前には左右に大きく三回ずつ揉む勇壮な姿も見ることができます。そして、辺りが暗くなると御輿に付けられた提灯に蝋燭の火が灯り、幻想的な光景となりました。

 御輿は記念碑のところに寄る 御輿は左右に大きく揉まれる 提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である

御輿は記念碑のところに寄る
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
御輿は記念碑のところに寄る

 

御輿は左右に大きく揉まれる
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/400 sec, ISO100)
御輿は左右に大きく揉まれる

提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO320)
提灯に火が入った御輿が揉まれると一層幻想的である
八坂・日枝神社があった所に建つ記念碑
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO100)
八坂・日枝神社があった所に建つ記念碑

 こうした御輿を担ぐ中で注目されるのは、八坂社と山王社があった場所(サンノウヤマ)に立つ昭和8年(1933)に建てられた記念碑の前でも止まることで、合祀以前はここから御輿が出て集落の南に行き、そこから十二天神社を経て戻ってきました。つまり、かつてはこの場所に八坂神社があって御輿が出ていたことを合祀されてからも旧地に向かう点を通して記憶に留めており、文字として書かれているわけではないかつての地域の歴史の一端を、御輿の巡行という行為によって示していると捉えることができます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(36) 市内各地の天王祭(平成24年7月)

 今年も市内各地で夏の風物詩である天王祭(オテンノウサマ)が行われました。今年は土日の巡り合せの関係で(第五の土・日曜があった)、日程が分散する傾向も見られたようですが、いろいろな地区で大人や子どもの御輿に加え、お囃子を奏でる昔風の山車(屋台)や囃子の子どもを乗せた自動車などを見かけることができました。天王祭は、元々は人々が恐れる疫病を免れるために病気が発生しやすい夏場に行われ、日本を代表する夏祭りである京都の祇園祭(祇園会)も同じ目的をもったもので、この祇園会が長い歴史の中で全国に広まりました。御輿や山車などが連なり、にぎやかなお囃子にのって巡行する形式は京都の祇園祭の影響と考えられています。

市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」があまりに有名ですが、『相模原市史民俗編』に拠ると天王祭は新磯地区を除く地域で行われており、津久井地域でも各地で行われています。この「民俗の窓」でも、昨年は上溝の本町と五部会、当麻地区を取り上げ、今年は「民俗の窓」No37として22日に行われた下溝・古山集落のオテンノウサマについて記していますので参照していただければと思います。ここでは今年(2012年)訪れることができたいくつかの地区の写真を掲載します。これからも各地の天王祭を紹介していく予定です(民俗担当 加藤隆志)。

祭りの前には集落の境にシメナワが張られる(田名・ふれあい科学館前。7月14日)。
CYBERSHOT (10.4mm, f/6.3, 1/320 sec, ISO100)
祭りの前には集落の境にシメナワが張られる(田名・ふれあい科学館前。7月14日)。

田名八幡宮に集まった各地区(水郷田名・清水・陽原・滝)の御輿。神職による御輿の御霊入れのために集まっている(田名地区。7月15日)。
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
田名八幡宮に集まった各地区(水郷田名・清水・陽原・滝)の御輿。神職による御輿の御霊入れのために集まっている(田名地区。7月15日)。

堀之内の子ども御輿(田名地区。7月15日)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
堀之内の子ども御輿(田名地区。7月15日)

半在家の囃子が乗った車(田名地区。7月15日)
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/200 sec, ISO100)
半在家の囃子が乗った車(田名地区。7月15日)

水郷田名の山車(田名地区。7月15日)
CYBERSHOT (10.4mm, f/6.3, 1/640 sec, ISO100)
水郷田名の山車(田名地区。7月15日)

滝の子ども御輿(田名地区。7月15日)
CYBERSHOT (13.7mm, f/7.1, 1/640 sec, ISO100)
滝の子ども御輿(田名地区。7月15日)

陽原の御輿。田名地区の数か所で担がれている大人の神輿の一つ(田名地区。7月15日)
CYBERSHOT (10.4mm, f/6.3, 1/400 sec, ISO100)
陽原の御輿。田名地区の数か所で担がれている大人の神輿の一つ(田名地区。7月15日)

陽原の山車(田名地区。7月15日)。
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/800 sec, ISO100)
陽原の山車(田名地区。7月15日)。

旧の大山道を、太鼓を先頭に進む橋本地区の御輿と山車(7月29日)
CYBERSHOT (10.4mm, f/6.3, 1/1000 sec, ISO100)
旧の大山道を、太鼓を先頭に進む橋本地区の御輿と山車(7月29日)

橋本の山車(7月29日)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/640 sec, ISO100)
橋本の山車(7月29日)

上溝・田尻の御輿(上溝地区。7月29日)
CYBERSHOT (13.7mm, f/7.1, 1/400 sec, ISO100)
上溝・田尻の御輿(上溝地区。7月29日)

久保の御輿。各地区の御輿や山車は夕方に「上溝まつり」会場に集まる前に集落内を巡る(上溝地区。7月29日)。
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/1000 sec, ISO100)
久保の御輿。各地区の御輿や山車は夕方に「上溝まつり」会場に集まる前に集落内を巡る(上溝地区。7月29日)。

丸崎の山車。上溝の囃子は市内の中でも古い時期に伝わったと考えられている(上溝地区。7月29日)。
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/400 sec, ISO100)
丸崎の山車。上溝の囃子は市内の中でも古い時期に伝わったと考えられている(上溝地区。7月29日)。

日曜日の夕方になると各地区の御輿や山車が集まってくる。手前の御輿は本町、奥が丸崎、遠くには丸崎の山車が見える(上溝地区。7月29日)。
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
日曜日の夕方になると各地区の御輿や山車が集まってくる。手前の御輿は本町、奥が丸崎、遠くには丸崎の山車が見える(上溝地区。7月29日)。

 

祭り・行事を訪ねて(35) 勇壮に舞った相模の大凧

~南区新磯地区の「相模の大凧」~(平成24年6月)

 

大凧の骨組み
大凧の骨組み

 相模の大凧は、相模川に面した新磯地区で相模の大凧保存会によって揚げられ、毎年、ゴールデンウィークの最中の5月4、5日に「相模の大凧まつり」として行われています。新磯地区の上磯部・下磯部・勝坂・新戸地区がそれぞれ凧を作って相模川の河川敷で揚げており、特に新戸地区の八間(14,5m)四方の大凧が有名です。これらの地区の南側では、座間市主催の「座間の大凧まつり」も実施されています。

 新磯地区の大凧は江戸時代の後半には行われていたとも言われ、現在見るような大凧が本格的に揚げられるようになったのは明治中頃からとされています。新戸では、日清戦争の戦勝祈願か凱旋記念で揚げた凧が最初の大凧と言われ、もともと5月のお節供に各家で凧を揚げ、特に男の子が生まれた初節供には一間ほどの大きさの凧を揚げていたのが、次第に大型化して地域全体で行うものとなりました。

 大凧に記された題字は昔から漢字二文字で、今年は“潤水都市さがみはら”になぞらえて「潤風」でしたが、これは昨年に東日本大地震が起こって大凧まつりが中止になってしまったために、昨年選ばれていた「潤風」が改めて用いられました。今年は4日の日は午後から雨が降るなど天候に恵まれなかったものの、幸いにも5日は天気も回復して気持ち良い風が吹くなど、絶好の大凧揚げ日和となり、一番大きな新戸の八間凧も揚がって勇壮な姿を見せました。関心のある方は是非、大凧まつりに足をお運びください。5月の気持ちの良い風の中、地域の伝統や関連して行われる各種のイベントに触れることができると思います(民俗担当 加藤隆志)。

 

*ここに掲載したのは、博物館の民俗調査会でボランティアとして活動している市民の方から提供していただいた新戸地区の大凧揚げの写真です。これからも市民の方が撮影したさまざまな行事等の写真を紹介していきたいと思います。

大凧揚げる手順①
大凧揚げる手順①

大凧揚げる手順②
大凧揚げる手順②

大凧揚げる手順③
大凧揚げる手順③

大凧揚げる手順④
大凧揚げる手順④

大凧揚げる手順⑤
大凧揚げる手順⑤

揚がった八間凧。上に見えるのは同時に揚げられている三間凧
揚がった八間凧。上に見えるのは同時に揚げられている三間凧

 

祭り・行事を訪ねて(34) さまざまな養蚕信仰③

~南区磯部・勝源寺の六本庚申~(平成24年6月)

 

 南区磯部の勝坂集落の中ほどにある勝源寺(しょうげんじ)は、千手観音をご本尊とする曹洞宗の寺院です。そして、本堂の一角に本尊とともにお祀りされているのが、今回紹介する青面金剛(しょうめんこんごう)像で、第二次世界大戦前の養蚕が盛んだった時期には、手が六本あるため六本庚申(こんしん)あるいは千体庚申と呼ばれ、養蚕に効験のある仏様として市内ばかりか広範囲からの信仰を集めていたことが知られています。

 この像を祀る縁日は4月の初申の日あたりで、養蚕を行う多くの人がお参りに訪れました。この時には多くの露店も出て賑やかで、露店では木の枝に丸や繭の形をしたものや小判などを付けたお宝というものを売っており、それを買っていくと蚕が当たると言われました。また、本堂にはお姿をかたどった焼き物のミニチュアが1000個もあり、これを縁日にお参りに来た者が借りていき、養蚕の期間中は家で祀って秋に養蚕が終了すると返しに来ました。このミニチュアのお姿は、関東大震災の時に棚から落ちて多くが割れてしまったものの、今でもわずかにごく一部が残されています。

本堂内の青面金剛像
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
本堂内の青面金剛像

青面金剛のミニチュア
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
青面金剛のミニチュア

 六本庚申の信仰がどのあたりまで広まっていたのを示す資料として、ミニチュア像を貸し出した際の帳面があり、それによると市内の磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市などの住所が挙げられています。また、ミニチュア像の中には裏側に奉納した者の名前や住所が記されているものがあり、それにはこうした場所のほかに綾瀬市や藤沢市・横浜市などの地名も見えます。帳面などはかつてはもっとたくさんあったようですが、それでも地元の磯部地区を中心として主に南側の地域に信仰が広がっていたことが分かります。

 

明治5年に建てられた同形の34基の庚申塔が並んでいるところもある
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
明治5年に建てられた同形の34基の庚申塔が並んでいるところもある
勝坂集落に入る所にある大きな庚申塔の一つ。正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
勝坂集落に入る所にある大きな庚申塔の一つ。正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている

 この勝源寺の六本庚申と関連すると考えられるのが、磯部地区に大量に建てられている庚申塔です。市内の相模原地域には、これまでの調査によって1600基ほどの石仏が確認されており、その中でもっとも多いのが庚申塔で200基以上あります。しかし、庚申塔は各地区に満遍なく見られるわけではなくて磯部に80数基が残されており、しかもその多くが大きさや形が同じでいずれも明治5年(1872)に造立されています。このような磯部地区の多くの庚申塔が、六本庚申の信仰に関わるものであることを直接に示す資料はありませんが、勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道しるべの役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます。

 庚申信仰は、60日に一度回ってくる庚申の日に徹夜しておこもりするのが本来で、市内でもかつては各地で行われており、庚申講が実施されたことを示すものが庚申塔です。このような庚申に対する信仰が養蚕信仰となっているのは他の場所ではほとんど聞くことがなく、かなり珍しい事例と言うことができます。市域が県下でも養蚕が盛んな地域だったことや、多くの神仏が養蚕信仰に「現世利益」化していったことを示しており、地域の特徴をよく表すものとして注目されます(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(33) さまざまな養蚕信仰②

~南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目~(平成24年4月)

 

 小田急線相模大野駅そばの、行幸道路と国道16号線の陸橋が交わる所の角に小さな鳥居が見える神社は蚕守(かいこもり)稲荷神社で、上鶴間の谷口集落の中の山野講中の家々によって祀られています。この稲荷には、嘉永7年(1854)に京都の伏見稲荷神社から出された古文書が残されており、文書には「正一位蚕守稲荷」とあることから(「蚕守」の文字は右横に書き添えられています)、この時期にはその名の通り、養蚕の神として祀られていたとも考えられています。祭礼は、2月初午、4月17日の大題目(おおだいもく)、7月24日の御命日(ごめいにち)の三回で、このうち特に春の養蚕が始まる前に行われる大題目には、豊繭を願って近隣から大変多くの参詣者がありました。

蚕守稲荷神社。
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
蚕守稲荷神社。

社殿中で住職が読経を行い、右方では太鼓を叩いています
CYBERSHOT (10.4mm, f/3.2, 1/30 sec, ISO320)
社殿中で住職が読経を行い、右方では太鼓を叩いています

  かつて大題目が近づくと当番は、境川の田から土を取ってきて便利な場所に土窯を三つも四つも作っておき、当日は朝早くから年寄りは米を研いだり炊き出しをし、若い者はケンチン汁の支度をします。10時くらいになると参詣人が来始め、この人たちに御飯とケンチン汁に香の物を振る舞い、大正頃の最盛期には米を五俵も焚きました。この飯を食べると養蚕が当たるとされ、朝から晩まで多くの人がやって来て拝殿に上がって御飯を食べてもらうのに、この人々を講中総出で接待したため、山野の者でこの日に家にいるのは病人ぐらいだと言われるほどだったそうです。また、それ以前には一斗樽から酒を振舞っていたものの、酒だとどうしても喧嘩になるので飯にしたとのことです。昔は女性(特に若い嫁)が家を空けられることが少なく、養蚕の祈願ということなら外に出られたので、まず大沼の弁天様(現在の大沼神社。ここも蚕に良くないねずみの天敵である蛇を祀るということで、養蚕の神として信仰を集めていました)にお参りし、その後に谷口のお稲荷さんに行ってケンチン汁をご馳走になるのが非常に楽しみだったという下溝の大正2年(1913)生まれの女性からのお話しは、今でも印象深く思い出されます。

かつて貸し出されて蚕室に飾られた絵馬(現在は整理されて残っていません)
かつて貸し出されて蚕室に飾られた絵馬(現在は整理されて残っていません)

  そして、参詣者はケンチン汁を食べるだけでなく、地元の日蓮宗の寺院である青柳寺から出された御札とクチドメという名刺くらいの大きさのお守りを受けました。絵馬もあり、これは蚕室に飾っておくと蚕が当たると言われ、前年に借りて行った絵馬を持ってきて新しいものと替えて行きます。クチドメもやはり蚕室に貼っておくとねずみが出ないとされました。このほか、当日は青柳寺の住職がお題目を上げ、講中の者が太鼓を叩きますがこれは今でも行われています。

 市内の各地に見られる稲荷社は元々養蚕にご利益があるとされ、その中でもこの蚕守稲荷神社は養蚕守護の信仰に特化して絶大なる人気を集めました。しかし、こうして近隣にも著名であった蚕守稲荷神社の大題目も、養蚕がすっかり見られなくなった現在では他地区からお参りに来る人もなくなり、現在では地区内と氏子の家内安全と招福除災を祈って地元の皆様によって行われています。このような地域に残る神社と行事が伝える養蚕に関したさまざまな民俗や文化について、これからも長く語り継いでいきたいものです(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(32) さまざまな養蚕信仰①

~中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃~(平成24年4月)

 

祠の隣りにある男根型の道祖神。古くから有名なものですが、今では盗難防止で柵の中です
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/160 sec, ISO100)
祠の隣りにある男根型の道祖神。古くから有名なものですが、今では盗難防止で柵の中です

  今年(2012年)の冬は例年になく寒さが続いて桜の開花もかなり遅れましたが、その桜もいよいよ散り始めて花が舞う4月15日(日)に田名・堀之内地区の蚕影山(こかげさん)の春の祭りが行われました。蚕影社(こかげしゃ)はその名の通り養蚕の神として市内でも各地に祀られており、『相模原市史民俗編』によると、多くの蚕影社は明治時代以降により養蚕が盛んになるにつれて祀られ始められたもので、さらに祠はなくても、掛け軸を下げて念仏を唱える蚕影講(こかげこう)などもあったことが記されています。

 田名・堀之内地区の蚕影山の祠は堀之内自治会館の敷地にあり、隣りには男根型の大きなサイノカミ(道祖神)が並んでいることでも有名です。蚕影山の祠の中には金色姫(こんじきひめ)という女神が舟に乗っているお姿の像が祀られているのが特徴で、こうしたものをお祀りするのは他の地区にはあまり見られません。この像も養蚕の神として有名で、明治末から大正頃に八王子方面から買ってきたとも言われており、元々は4月18日と10月18日がお祭りで今ではこの縁日に近い日曜日に行われています。やはり『市史民俗編』によると、お祭りは春はその年の蚕の豊作を祈願し、秋は豊繭を感謝するもので、堀之内の念仏講中によって行われてきたのが昭和40年代に絶えてしまいました。しかし、蚕影山の和讃(わさん)は講中の女性たちによって続けられ、昭和51年(1976)には自治会の行事として復活して、午前中に和讃をあげ、午後からは自治会主催のお祭りを行うという現在の形になりました(ただし、秋には和讃のみが行われます)。

 蚕影山の和讃の内容は蚕の由来を説くもので、金色姫という天竺(てんじく)の帝の姫君が継母のいじめに遭って孤島に追いやられたり土中に埋めたりとさまざまな苦難を受け、姫の身を案じた帝は桑の木で舟を作って姫を乗せて海に流します。舟は常陸の国(今の茨城県)の豊浦という地に流れ着いて権の太夫(ごんのたゆう)という土地の者が介抱したものの、ついに長路の疲れによって姫は亡くなってしまいます。すると姫の体は虫となり、その虫が桑の葉を食べて成長して繭を作って絹ができたというあらすじで、この物語が哀調を帯びた独特の節回しで唄われます。今年の蚕影山和讃は、新築されたばかりの自治会館の二階で自治会長や自治会婦人部の皆様が立ち会う中、13名の女性の方々によって午前10時30分前から約20分ほどの時間で行われました。

桜の花が舞い散る中で行われました
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/400 sec, ISO100)
桜の花が舞い散る中で行われました

女性たちによって蚕影山和讃が行われました
CYBERSHOT (24mm, f/5.6, 1/50 sec, ISO200)
女性たちによって蚕影山和讃が行われました

祠の中の金色姫のお像。波間に漂う舟に乗っています
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/80 sec, ISO100)
祠の中の金色姫のお像。波間に漂う舟に乗っています

 以前は春の祭りは養蚕の準備に忙しいため祈願が中心であったのに対し、秋には一年の感謝として盛大に行われ、余興として周辺の一座を呼んで芝居をしたり、青年団が歌や踊りをすることもあったといいます。現在では、午後から地元の皆様による模擬店などが出るほか、カラオケや子ども会の囃子・景品が当たるくじ引きなどが行われています。

 相模原は養蚕が大変に盛んであった地域であり、多くの養蚕に関わる行事や信仰が見られました。今では産業としての養蚕はすべてなくなってしまいましたが、今回紹介したような行事は、これからも地域の文化を伝えるものとして長く続いていっていただければと願っています(民俗担当 加藤隆志)。

 

祭り・行事を訪ねて(31) 有鹿神社の「お水もらい」(水引祭)~南区磯部・勝坂地区~(平成24年4月)

  南区磯部の国指定史跡である勝坂遺跡(国指定史跡)は勝坂遺跡公園として整備されていますが、その段丘崖の下の湧き水が流れる一角に鎮座している石祠が有鹿(あるか)神社です。有鹿様というと海老名市上郷の鳩川が相模川に合流する地点にある神社が有名で、ここは神奈川県最古の神社とも称されています。そして、海老名にある御本宮に対して奥宮と位置付けられているのが勝坂の有鹿神社です。

 この有鹿神社には大変興味深い伝承があります。かつて4月8日の有鹿神社の祭りは「有鹿様のお水もらい」などと言って、海老名から御神体を入れた神輿を担いで来てそのまま帰り、6月14日に改めて御神体を迎えに来たといわれ、この時には白い大蛇がよく見受けられたため神様が現れたといったそうです。勝坂はたくさんの湧水が湧き出す段丘の下に位置し、それらの水が鳩川に流れ込んで海老名に広がる水田の水源となっていたために行われた行事ではないかとされ、また、御神体が勝坂に渡御するに際しては、海老名と勝坂の途中にある座間の神様ともいろいろと係わりがあったとの話も伝えられています。

海老名の有鹿神社本宮
海老名の有鹿神社本宮

勝坂にある奥宮
勝坂にある奥宮
幟立て (4月3日。なお、祭りの様子を写したものはすべて昨年の撮影です)
幟立て
(4月3日。なお、祭りの様子を写したものはすべて昨年の撮影です)
石祠へのお供えものの準備 (4月3日)
石祠へのお供えものの準備
(4月3日)

  実は有鹿神社の祭りは現在も行われており、昨年(2011年)の場合には、まず4月3日(日)に地元の勝坂地区の方々によって実施されました。当日は午前中に氏子総代や自治会の社係り(地区の神社に関する当番)の皆様を中心に祠や参道の清掃を行い、幟を立てて鳥居などの注連縄を新しくして祠には米や酒を供え、代表者が榊をあげて全員でお神酒を飲んで終了となりました。この行事は8日に備えてであり、古くからのものではないとのことです。本来の祭礼日の8日(金)には海老名の有鹿神社の宮司と氏子総代(上郷及び河原口地区)の一行が勝坂までやってきて、「水引祭」が行われます。水引祭は海老名の方々だけで行われ、勝坂の人は参加しません(ただし、最後に海老名の代表が勝坂の総代の家に挨拶に行きます)。ここでは祭式の後に、石祠のさらに奥にある湧水の湧き出し口から宮司と総代の代表が水を汲むといった非常に特徴的な行為がなされており、この水は海老名まで持ち帰ります。また、この日、海老名の男の神が勝坂に至り、6月まで勝坂の女の神の元に留まることになるので帰りには軽くなっているとされています。海老名の有鹿神社からは、神を迎えるために6月14日を中心とした日に再度やって来るほか、最近では12 月20日にも祭りを行っているとのことです。

宮司による祝詞(4月8日)
宮司による祝詞(4月8日)

湧水から水を汲む(4月8日)
湧水から水を汲む(4月8日)

 このような一連の行事に見る、水をめぐる海老名と勝坂の二つの有鹿神社の深い関係のあり方は、市内ばかりでなく相模川や鳩川流域に係わる広い地域の歴史や文化を考える際に重要な資料であり、注目される行事と言えます(民俗担当 加藤隆志)。