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平成26年度 相模原市立博物館 博物館実習申込について

実習期間 平成26年8月5日(火)から8月7日(木)の共通実習3日間と9月末日までに実施する受入分野別実習5日間(合計8日間)。分野別実習は受入分野ごとに日程は異なります。
対象者 ○将来、学芸員になることを希望する学生で、博物館法施行規則第1条に定められた修得すべき博物館に関する科目のうち博物館実習を除く全ての科目(「博物館実習申込書(様式1)」に挙げた科目)を修得した者、又は平成26年度までに修得見込みの者。

○実習期間中全ての日程に出席できる者。

○選考にあたっては受入分野の専攻者を優先します。
受入定員 18名程度。ただし1専門分野3名程度、また同一大学からは各専門分野中2名を限度とします。
受入分野 人文系-考古・歴史・民俗、自然系-生物・地質・天文の6専門分野
申込期間 平成26年3月1日(土)から3月16日(日)必着
申込方法 次のア~エに必要事項を記入し、申込期間内に相模原市立博物館へ郵送(期間内必着)又は博物館の実習担当者まで持参すること。郵送の場合は封筒に「実習申込書在中 」と朱書きすること。

ア.博物館実習申込書(様式1) 1部 ダウンロードはこちら

イ.博物館実習申込理由書(様式2) 1部 ダウンロードはこちら

ウ.返信用封筒に宛先(申込者の住所)を記入し82円切手を貼ったもの。 1枚

エ.宛先(申込者の住所)を記入した通常はがき 1枚

実習申込要項はこちら
面接日時 平成26年4月4日(金) 午前10時~午後4時(予定)

*申込者多数の場合、変更になる場合があります。なお、面接時間については申込者本人に事前にはがきで通知します。
選考結果 受入の可否についての内定は4月中に申込者本人に文書で通知します。なお、受入専門分野については申込者の希望どおりとならない場合があります。また、正式受入の手続きは、内定後、大学からの依頼文書に基づいて行います。
郵送・問い合わせ先 〒252-0221 相模原市中央区高根3-1-15 相模原市立博物館
電話:042-750-8030  FAX:042-750-8061
担当:学芸班 河尻
メールアドレス:k.kawajiri.uk@city.sagamihara.kanagawa.jp

民俗の窓(平成23年度)

祭り・行事を訪ねて(30)~神社の境内にある不動堂~南区磯部・磯部八幡宮~

 南区磯部の磯部八幡宮は、磯部のうちの上磯部地区の鎮守で祭礼は9月5日(前日の4日が宵宮)に行われます。この神社の境内には不動堂があり、中に納められている木造の不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)は江戸時代に制作されたもので、装飾的な意匠や技術に優れた仏像として相模原市の指定有形文化財となっています。  ところで、神社の境内に仏像が祀られているということを奇異に思われる方もいるのではないでしょうか。ここでは紙面の関係もあって詳しく述べることはできませんが、実は江戸時代までは神社と寺院は密接な関係(「神仏混淆(しんぶつこんこう)」「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」)にあり、神社の管理や祭祀を寺(「別当寺(べっとうじ)」)が行うことが一般的に見られました。そして、近世後期の天保12年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』によると、市内でも多くの神社の別当寺があったことが分かります。磯部の八幡社(現在の磯部八幡宮)も別当は仏像院という寺であり、八幡社には護摩堂があって不動が安置されていると記されていることから、不動像は仏像院の本尊であったことが考えられます。  この不動は特に火災除けにご利益があるとされ、祭祀は毎年3月28日に決まっていて今年(2012年)も午前11時から神社の総代の皆様が集まって実施されました。『相模原市史民俗編』によると、かつては別当の仏像院が祭りを執り行って護摩を焚いたといい、昭和32年(1957)頃までは子ども相撲が開かれたとありますが、現在ではこうしたことは無くなり、八幡宮の年間の行事の一つとして神職が祝詞を上げ、玉串を奉奠(ほうてん)するなど神式の作法に則って行われます。

不動堂の扉を開けて準備
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/500 sec, ISO100)
不動堂の扉を開けて準備
総代による玉串奉奠
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/160 sec, ISO100)
総代による玉串奉奠

 市内では、下溝地区の下溝八幡宮の境内にも木造の不動明王坐像(市指定有形文化財で江戸時代中期の作)があります。こちらも江戸時代には八幡社の別当寺であった大光寺の本尊であったものが、明治初期に神社と寺院の管理を神職と僧侶というように厳密に分ける神仏分離が行われた結果、大光院が廃寺となって不動像が下溝八幡宮の境内に祀られるようになったものです。このように、地域の神社に仏像が残されていることから「神仏混淆」(神仏習合)や別当寺、神仏分離といった日本全体の大きな歴史の流れを知ることができるのですが、そうした観点から改めて身の回りのことを見ていくと、さまざまな地域の歴史や文化が顔を出しているのに気が付きます。  なお、不動堂の中にはいくつかの棟札や絵馬のほかに、蚕の繭を詰めた額が2点あることにも注目されます。明治40年(1907)及び大正6年(1917)にいずれも地元の家から奉納されたもので、繭が三段ずつガラス入りの額の中に並べられており、後者に「9月吉日」とあることから繭がよくできたことを祝って奉納されたものと思われます。不動が火難除けのみならず養蚕に対しても信仰があったことを示す一方で、このような繭額というようなものは市内では他にほとんど例がなく、養蚕が非常に盛んだったこの地域にとって非常に重要な資料と言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。

木造不動明王坐像
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO120)
木造不動明王坐像
不動堂の中にある繭額 写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
不動堂の中にある繭額
写真左:明治40年奉納、右:大正6年奉納

祭り・行事を訪ねて(29)~屋敷神の稲荷を祀る~緑区根小屋・中野地区~

  前回の「祭り・行事を訪ねて(28)」では、地域全体で祀られている稲荷社での初午の行事(稲荷講)を記しましたので、今回は個人の家の屋敷神の初午について紹介したいと思います。  これまでにも「繭玉作り」や「正月飾り」などでこの欄に何回か登場していただいている緑区根小屋の菊地原稔さんは、自家での年中行事を今でもきちんと行われており、初午の行事も写真を撮らせていただきました。ただ、今年(2012年)の初午は2月3日で翌日の立春の前に当たったので、12日後の15日の二の午の日に行われ、昔から立春前には初午はやらないとのことです。  当家には屋敷神の稲荷社が「正一位稲荷(しょういちいいなり)」と「穴守稲荷(あなもりいなり)」の二社あり、前者は元々当家で祀っていたもの(かつては上側の県道の端にあり、道の拡幅のために現在は母屋の裏側に移されています)でどこから勧請(かんじょう)したものか不明で、後者は元々別の家のものでしたがその家が引っ越したため、屋敷跡を購入した当家で継続して祀っています。穴守稲荷は東京都大田区の羽田に鎮座する稲荷で、大鳥居の移転に伴う不思議な話が有名です。

正一位稲荷
正一位稲荷
穴守稲荷
穴守稲荷

 この日の朝に両方の稲荷社に幟をあげ、榊や灯明のろうそくの他に藁を折って作ったツトと呼ばれるものとメザシ(または油揚げ。メザシか油揚げのどちらか)・お神酒・水をお供えします。ツトには赤飯や小豆飯を入れることが一般的に見られるものの、当家では洗った米を使います。また、メザシは二尾を水引で縛って祠の前側に吊り下げるようにします。

藁でメザシをくくる 写真左側にみえるのがツト
藁でメザシをくくる
写真左側にみえるのがツト
灯明のろうそくに火をつける
灯明のろうそくに火をつける
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稲荷の手前に見えるのがツト、右上に掛かっているのが用意したメザシ

 なお、この地区にはかつては個人の家だけではなく地区で祀る稲荷社もあり、この稲荷社も初午の時に20軒ほどで稲荷講を行っていて、会費制で回り番で宿が酒と肴を用意し、男衆が集まって飲み食いをしていました。現在、この稲荷講はなくなってしまいましたが、江戸時代末期の嘉永年間に作られた旗は残っているそうです。  『相模原市史民俗編』には、「年中行事と季節感」の章で初午について細かく記載されており、地域や家によってさまざまに行われていたことが分かります。それぞれの年中行事の中で、稲荷を祀る初午行事はやらなくなった所も多い一方で、他の行事に比べて形を変えながらも比較的行われている度合いが高いものの一つと言えます。今後とも、市内各地のさまざまな事例を集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志) 

祭り・行事を訪ねて(28)~正月飾りを燃やす稲荷講~南区下溝・新屋敷地区(平成24年2月)

 市内には集落の神社として、また、一族や個人の家々の神として非常に多くのお稲荷(いなり)さんが祀られており、今回紹介する南区下溝の新屋敷(アラヤシキ)地区にも稲荷社があります。元々はこの稲荷社の敷地は地区内の旧家である福田家の畑の一角にあり、福田家とともにやはり旧家の矢野家一族の守り神でしたが、後には稲荷社の回りも開発されるなど家数も増えたこともあって今では地区全体の神になっています。  各地の稲荷社のお祭りが行われるのが、2月に入って最初の午(ウマ)の日である初午です。新屋敷の稲荷社では、今年(2012年)は初午が3日で金曜日となるため、直後の日曜日である5日の午前中に稲荷講が行われました。福田家や矢野家で祀っていた頃には、初午に各家の中から宿を決めて集まっていたのに対し、現在では稲荷講世話人会と自治会で管理しており、通常の稲荷社の清掃などは平成16年に発足した世話人会が当たり、初午の際の稲荷講は自治会の中の組が毎年当番となって実施する(今年は7組)という形を採っています。  当日は、午前8時30分に7組の方々が稲荷社に集合してテーブルや椅子を出したり、稲荷社の幟旗(のぼりばた)を設置するなどの準備を行いました。ちなみに今の幟旗は二代目で、古い初代のものは京都の伏見稲荷から請けてきたとのことです。また、焚き火を燃やし、9時に稲荷社に全員でお参りして稲荷講が始まりました。ただし、稲荷講といっても特別に改まって何かをするようなことはなく、集まった人々が酒や茶を飲みながら1~2時間の間歓談するだけで、お参りに来た子どもたちにはお菓子などを配ります。その後、焚き火が消える頃に後片付けをして、掛かった経費の精算をして終了となります。

稲荷の祠(ほこら)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO100)
稲荷の祠(ほこら)
幟旗の準備
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
幟旗の準備
稲荷社へのお参り
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/125 sec, ISO100)
稲荷社へのお参り

  稲荷の祠(ほこら) 幟旗の準備 稲荷社へのお参り  実は、何の変哲もないように思えるこの行事の中で特徴的なのは、オタキアゲと称して各家の正月のお飾りを燃やしていることで、境内の一角に集められた正月飾りを焚き火にくべてその上に網を置き、赤飯やお神酒とともに稲荷社にお供えされた油揚げやめざしをあぶって食べながら話をします。「祭り・行事を訪ねて」の欄でもたびたび紹介しているように、市内では周辺地域を含めて、正月飾りは正月14日頃を中心に実施されるどんど焼き(団子焼き・セイトバライ)で処理するのが当たり前で、その火で団子を焼いて食べることは現在でも広く行われています。ところが新屋敷では昔からどんど焼きがなく、正月飾りは初午の際に燃やしていて、かつて子どもたちは隣接する堀の内や松原集落のどんど焼き(日之下地蔵横、大正坂下の十字路)に団子を焼きに行き、その際にはよそ者が来たというような目で見られたと言います。

正月飾りを燃やす
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/400 sec, ISO100)
正月飾りを燃やす
 お飾りを燃やした火で油揚げや めざしをあぶる
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/200 sec, ISO100)
お飾りを燃やした火で油揚げや
めざしをあぶる
あぶったものを食べながら 歓談する
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/250 sec, ISO100)
あぶったものを食べながら
歓談する

 神奈川県内では、2月1日に屋内の正月飾りを下ろし、これを初午の時に稲荷の祠の前でオタキアゲをするという所が各地に点々とあることが知られており(『神奈川県史各論編五 民俗』)、新屋敷もこれに該当するものですが、現在分かっている状況においては市内ではあまりない事例ということができます。他の地区では同様な事例がないか、今後とも注目していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 

祭り・行事を訪ねて(27)~団子焼きと道祖神~南区上鶴間本町・鵜野森・東大沼

 今年の団子焼き(どんど焼き)では、「祭り・行事を訪ねて(24)・(25)」で記した町田市木曽町境川や南区当麻の原当麻地区のほかにもいくつかの場所を訪れることができました。今回は、その中から道祖神を燃やしたり小屋を作ることと関連するいくつかの地区を取り上げることにします。  南区上鶴間本町の金山神社は「祭り・行事を訪ねて(14)」で紹介した新しい道祖神碑を建立した地区です。新しいものを作ったのは、以前よりあった道祖神碑を、境川地区のようにかつて火の中に投じていて傷みがひどくなったためで、現在では実際に燃やすことはなく、点火前に持ち出して前面に置くだけになっています。この地区で注目されるのは、点火する火種を神社の外側の辻になっている所で付けることで、これは古くはこの場所に道祖神碑があってその前で団子焼きをしていた名残りであり、新旧の道祖神ができて別の位置に移されても火だけは元あった所から持ってきていることが分かります。今年も例年通り、14日(土)の昼過ぎに点火してすぐに団子が焼けるように準備しておき、午後3時前には団子焼きが始まりました。

かつて道祖神のあった辻で 火をつける
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
かつて道祖神のあった辻で
火をつける
古い道祖神(右側)の前で 点火する
CYBERSHOT (9.3mm, f/6.3, 1/320 sec, ISO100)
古い道祖神(右側)の前で
点火する
新しく作られた道祖神碑はそのまま 置かれている
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
新しく作られた道祖神碑はそのまま
置かれている

  同じく道祖神碑を燃やす場に持ってきている地区に大沼があります。大沼では、日取りは異なるものの大沼神社(神社主催で毎年14日に実施)とふれあい広場(自治会主催。今年は8日の日曜日に実施)の二か所で団子焼きが行われており、いずれも点火する際に道祖神を前側に置いています。この2基とも昭和50年代に地元の工務店がそれ以前のものが傷んだために寄付したもので、取り外しができるようになっていて団子焼きに際して移動させられるように作られています(大沼地区には同じ工務店によるものがもう1基あります)。また、大沼ではかつて子どもたちが集落の各家から藁を集めて小屋を作って夜にはオコモリをして遊んでいたとか、昔から大沼では上と下の二か所で団子焼きをしていて、子どもたちが隣りで作った小屋を壊しに来るので外側には棘のあるバラの枝を結んで防いでいた、とのお話しなども聞くことができました。

道祖神碑が燃やされるものの 中に置かれる
CYBERSHOT (17.8mm, f/4.5, 1/125 sec, ISO100)
道祖神碑が燃やされるものの
中に置かれる
道祖神は取り外しができる。 (写真は取り外された状態)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
道祖神は取り外しができる。
(写真は取り外された状態)
点火直前に少し離れた 場所に移動
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/320 sec, ISO100)
点火直前に少し離れた
場所に移動

 今年は8日の日曜日に行ったところが多かった中で、9日(祝)の成人の日に実施した地区の一つが鵜野森自治会です。鵜野森では午後1時が点火の時間で、その10分ほど前に役員が会場となる子ども広場から少し離れた所にある道祖神碑に向かいます。そして、道祖神の前で天眼鏡を使って太陽の光で半紙に火をつけて、その火で灯明を灯して、道祖神に供えてみなで拝んだ後に、さらに油を掛けたお飾りに火を移して会場に運んで点火をしました。こうした行為もかつては道祖神の前で団子焼きを行っていたことを示しています。ここでは正月飾りが燃え盛る火で団子を焼く人々がいる一方で、バーベキューをするような施設が一角に作られており、そこに炭のようになった火を入れて子どもたちが危なくないようにして団子を焼く微笑ましい様子なども見られました。  今回取り上げたのは、今年行われた行事の中でもかつての様相の一端を残すものですが、もちろん市内では古くからあまり変化していないところや大きく変わったもののほか、新しく始まった地区もあります。これからも正月14日前後の一年に一度行なわれるこの行事について、なるべく多くの事例を調べ、報告していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

道祖神の前で点火
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/500 sec, ISO100)
道祖神の前で点火
お飾りに火を移す
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO100)
お飾りに火を移す
火を移したお飾りを会場まで運び点火
CYBERSHOT (15.6mm, f/8, 1/400 sec, ISO100)
火を移したお飾りを会場まで運び点火

祭り・行事を訪ねて(26)~「道祖神の小屋」作り②~南区古淵地区

 前回の「祭り・行事を訪ねて(25)」で紹介した原当麻地区と同様に、「道祖神の小屋」を作っているところに古淵地区があります。古淵の団子焼きは、地域の鎮守である鹿島神社境内裏手を会場として、例年、曜日に関係なく14日に点火となっており、自治会などとは関係なく古くから住んでいる人たちを中心に行われています。  準備は、当日の午後に、神社役員が木で枠組みを立てて藁で小屋状のものを作り、7日を過ぎると各家から神社の境内の一角に出されるお飾りやお札などを内側に詰めていきます。この藁の小屋は「道祖神のお宮」などと言われますが、特に中に道祖神があるわけではなく、そもそもこの地区には道祖神碑は見あたりません。また、小屋の隣りには、毎年その場所を使っている少しくぼんだ所があり、ここにはたくさんの枯れ枝などの木の枝を積み上げるほか、お飾りなどが置かれることもあります(こちらのものは特に名称はありません)。

道祖神のお宮 道祖神の小屋の奥に別に燃やすものが見える  あたりが暗くなった午後5時頃が点火の時間で、先に小さな道祖神のお宮に火をつけ、燃えているお宮の火を移すようにして大きな枝を積んだ方も燃やします。点火直後はあまり人もいないものの、次第に団子を三つ又に挿した木の枝を持った人々が集まってきて団子を焼き出します。ここでは団子は各家で作ったものを持参し、かつては団子焼きはお蚕さんのお祭りで、そのために団子を繭の形にしたとのお話を伺いました。そして、なかには焼いた団子を、その場で隣りの人が焼いたものと取り替える「トッケエ団子」をしている様子を見ることができました。このような焼いた団子を交換することは、かつては各地で行われていたことが分かっており、特に前年に蚕が良い繭を作った家の団子を欲しがったとの話もありますが、現在、実際にトッケエ団子を行っている地区はほとんどないようです。

先に道祖神の小屋を燃やす 団子焼きの奥で、少し遅れて 大きなものにも点火する。 トッケエ団子で、焼いた団子を取り替える  原当麻では、作った藁の小屋をそのまま数日間置いてから燃やすのに対して、ここでは石の道祖神碑がないのにもかかわらず「道祖神のお宮」と呼ばれるものを当日に作ってすぐ燃やしてしまうことや、道祖神のお宮とは別に大きな燃やすものを作っていることが特徴です。また、「祭り・行事を訪ねて(24)」で触れた境川対岸の町田市木曽町の境川地区でもかつては藁の小屋を作っていたとの伝承があるなど、境川を挟んだ両者の関係も注目されます。いずれにしても古淵地区の団子焼きは、市内の中でも古い様相を残しているものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(25)~「道祖神の小屋」作り①~南区原当麻地区

 前回の「祭り・行事を訪ねて(24)」で紹介した道祖神石碑を焼くことと並んで、どんど焼き行事の中で現在でも行われている特徴的なものとして「道祖神の小屋」を作ることがあります。これは道祖神やその他の石仏を覆ったり、その近くに藁で小屋状のものを作ることで、かつて作ったとする伝承は各地にありますが今でも田名や当麻の一部の集落や古淵などでは見ることができます。ここでは、今年(2012年)の当麻・原当麻地区の状況を紹介します。

道祖神の前にお仮屋を作る(9日)  原当麻では、団子焼き・どんど焼き・セイトバライなどと呼ばれるこの行事を近年では成人の日としてきたのに対し、今年は本来の当たり日が土曜日になったため14日(土)に行いました。ただ、その前の9日の成人の日の午前中に地域の氏神である浅間神社の世話人が集まり、道祖神の前に各家から出された正月飾りを使ってお仮屋という小屋を作り、また、浅間神社の奥側の広くなった場所(浅間神社の元宮があった所)に木の枝やお飾りを円錐形に積んでいきます。お仮屋は長さが約六尺(約1m80cm)で出されたお飾りの中から神棚に供えてあったものを使って作り、屋根には両側に太い注連縄(しめなわ)を海老のように曲げて立派に飾ります。元は神社の前側を出た、県道の端に道祖神の石碑があってお仮屋もこの場所に作っており、道祖神を現在地に移してからはお仮屋の場所も同様に移っています。  点火は14日の午前8時で、市内でも相模川に沿った南部地域や津久井地域の一部などでは、昔から朝方に火を付けたとする地区があり、原当麻もこうした所になります。実は今から10年ほど前の2004年にもこの地区に展示の関係で訪れたことがあり、その際には朝7時に点火で、かつてはさらに前の6時だったということでした。こんなに早くては子どもが団子を焼きに来られないということで、今回は8時に点火ということとしたそうです。点火すると木立の中でかなり火が燃え上がり、そのうち親子連れを中心に、地区の人々が三つ又の枝に団子を付けたものを持って集まってきて団子を焼き始めます。中には「奉納道祖神」と書いた書初めを枝に付けている人もいて、書初めを火に近づけるとあっという間に半紙が燃え上がります。焼いた団子を食べると風邪をひかないとされるとともに、書初めが高く上がると字が上達すると言われています。

朝方に点火する(14日) 書初めを団子の枝につけて燃やす人 団子焼き  ここで注目されるのは、しばらくすると道祖神の前に作られていたお仮屋を運んできて火に投じて燃やしてしまうことで、この地区のお仮屋が姿を見せるのは一年間のうちのわずか数日間だけで、どのような形のものかを実際に確かめるにはこの間に来て見るしかないということです。同じ当麻地区の中でも昭和橋に近い中・下宿では、団子焼きの前に作った小屋を燃やすことはせずに来年までそのまま置いています。また、かつては大きな小屋を作り、子どもたちがその中に入って夜中遊んでいたとの伝承も残っています。「道祖神の小屋」にも地区によってさまざまな形態があり、変遷も見られたことがわかります(民俗担当 加藤隆志)。

途中でお仮屋を運ぶ お仮屋を火に投じて燃やす 中・下宿では、1年中置いておく。 左は地神塔 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(24)~「道祖神」を燃やす~町田市木曽町境川地区

 今年(2012年)も正月8日から15日にかけて、団子焼き(どんど焼き)の行事が賑やかに行われ、私もできるだけ各地を回り、多くの行事の様子を見せていただきました。その中には大変特徴的なことを行っている地区がありますので、この欄でいくつかの地区の状況を報告したいと思います。  かつてのこの行事では、各家の正月飾りとともに地域で祀る道祖神の石碑を実際に燃やしてしまったとの伝承が残されており、「祭り・行事を訪ねて(14)」でも少し触れましたが、市内でもいくつかの地区でこうした話を聞くことができます。これは現在ではほとんど無くなっていますが、南区古淵地区の境川を挟んだすぐ対岸の町田市木曽町の境川地区では現在でも道祖神の石碑を燃やしています。ここには正面に「道祖神」と刻まれ、文化5年(1808)7月の銘がある石碑「セイノカミと呼ばれていました」が祀られていて、近年までこの石を燃やしていました。しかし、毎年のことなので傷みがひどく、現在は平成20年(2008)に新しく造られたものを燃やしており、以前のものはどんど焼きを行う八坂神社の境内に祀られています。

どんど焼きが行なわれる八坂神社 八坂神社の境内に祀られている古い「道祖神」  今年の境川地区のどんど焼き(かつては「団子焼き」と言った)は、年が改まってすぐの1月8日(日)に行われました。当日は午前中に境川自治会と隣りの中原自治会の皆様が集まって準備に取り掛かりました。中原自治会が加わったのは今年からで、正月のお飾りをゴミとして出していたのに対しどんど焼きをやりたいとの希望があり、普段から会合などをともに行っている境川自治会と一緒にやることになったとのことです。  準備では、まず三つ又の枝作りから始まり、燃やすお飾りを積み上げて円錐形に作ることや集まってくる人々に配る団子を作ることと並んで、いつも置かれている路傍の祠から道祖神の石碑を運んできて燃やすものの前に数メートル離して置き、両者を注連縄(しめなわ)で結んでこれにも各家から出されたお飾りを下げていきます。

道祖神の飾りつけ 円錐形に積み上げたお飾りから道祖神までつなげる  点火は午後1時で、辰年生まれの今年の年男と年女が道祖神のところに火を付け、この火を注連縄や大きい方にも移して燃やします。後は火勢が弱まって熾きが出来たら、集まった人はそれぞれ配られた三つ又の枝に3個挿した団子を焼き、焼けたものはその場で食べたり持ち帰ったりします。点火して一時間ほど経つと燃やした道祖神を一輪車に乗せて元の場所に戻しに行き、また来年まで同じ場所に祀られることになります。

道祖神のところから点火 団子焼き 道祖神を元の場所に戻す  この行事は以前は田の中とか、40年ほど前には道祖神の石碑の前で行われていたといい、今は自治会の主催なのに対してかつては子どもたちの行事でした。また、当時は子どもたちが麦わらを農家から集めて小屋を作ったりしたというお話しも伺いました。注目されるのは境川対岸の古淵地区では今でも道祖神の小屋が作られており、この小屋を14日に燃やしています。今回紹介したのは相模原ではなく町田市の事例ですが、古くは各地で行われていたと考えられる道祖神の石碑を実際に燃やすということが現在も行われているとともに、相模原の民俗を捉える意味においても市内に隣接する地域の事例として大変重要なものの一つと言うことができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(23)~正月飾りを作る~緑区根小屋地区

 かつて農家が数多くあった時代には、正月を迎えるに当たり、玄関などさまざまな所に飾る正月飾りを各家で作っていました。現在ではこうした自家製のお飾りを見かけることはほとんど無くなってしまいましたが、たまたま昨年(平成23年)の暮に、久しぶりにお飾り作りを見させていただくことができました。

お飾りを作る菊地原さん  緑区根小屋地区の菊地原稔さんは今でも毎年お飾りを作られています。ちなみに当家は「祭り・行事を訪ねて(6)」の繭玉団子作りでも紹介しており、この他の古くからの年中行事も行っておられます。2011年のお飾り作りは12月30日の午前中に行われました。普通、このようなお飾りは、29日や一夜飾りはいけないとして31日に作るのは忌まれることが多いのですが、当家では昔から30日に山に材料とする榊(さかき)を取りに行って、31日に作っていました(これからは大晦日は忙しいので30日に作るとのことです)。この地区では正月飾りに榊と松を使う家が半々だったとのことです。  まず最初に作ったのが神棚用のものです。榊に藁(わら)で編んだ飾りを巻きつけ、真ん中にはユズリハとウラジロ・ダイダイ、裏側には折った半紙を取り付けます。ユズリハなどは買い、縛るのには水引を使います。神棚の中には大神宮・年神・水神などのお札があり、新しいものを入れます。通常は新しいお札を飾ると古いものは取り出して14日などの団子焼きで燃やしてしまうのに対し、当家では古いものも片付けないで溜めておきます。次に、家の中の十畳間の神棚に近い方の鴨居に付ける長い注連縄(しめなわ)を作ります。これは藁で縄をなってつなげて下のハカマの部分を出したものです。藁は上側の縄にするところだけを叩き、「ゾベになえ」と言って荒っぽく、普段とは違って左縄になっていきます。向かって左から七五三にハカマを出し、七と五の間に半紙を折ったものを差し込みます。

神棚のお飾り 十畳間の注連縄  屋敷の入口のジョウグチの所には両側に榊を2本立てます。菊地原さんが子どもの頃には庭に4本の榊を立てて、それを囲うように注連縄を付けたものを作っていて、庭が子どもの遊び場だったのでそれが嫌だったこともあり、今では庭の榊はやめてジョウグチに杭を打って榊を結び付け、お飾りと半紙を水引で縛ります。最後に、ジョウグチ用の飾りよりも細いお飾りを榊に結んでやはり折った半紙を挟みこんだものを、納屋・倉庫・倉・穀倉(かつて穀物を貯蔵した建物)・稲荷二つに飾ってこの日の作業は終了しました。また、前日の29日には、屋敷の上側の道沿いにある当家で管理している地蔵様の掃除やお飾りをしたそうです。  これらの正月飾りは正月7日の朝にお神酒(みき)を供えた後に下ろして、団子焼きの場所に持っていくことになります。なお、市内では正月飾りとして、「年神棚(トシガミダナ)」という正月に訪れる神のための棚を作ることがよくありますが当家では作っていません。  菊地原さんによると、おそらくこの年に正月飾りを作ったのは近所に一軒もないとのことで、古くからのこうした行事を行い、伝えていきたいと仰られています。これからも多くの行事を見せていただき、機会を捉えてこの欄でも紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

ジョウグチのお飾り 建物にお飾りを付ける 年神棚(上九沢・2012年)ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(22)~当麻・三嶋神社のナマスマチ

 南区当麻の芹沢集落は、時宗の開祖である一遍上人ゆかりの無量光寺の東側に位置し、やはり一遍によって建立されたと伝える三嶋神社を祀っています。そして、かつては11月15日に、現在ではその付近の土曜日に行われている三島神社の祭礼の「ナマスマチ」は、これから紹介するように非常に特徴ある内容が現在でも見られます。  この祭礼では、大根を薄く削り、酢と砂糖で味付けをしたナマスが参加者に出されることからナマスマチと呼ばれており、ナマスの上には、これも酢と砂糖を効かせたナマスノコと呼ぶマグロのブツを二切れくらい乗せます。さらに、ナマスとともに一人ひとりに付くのが、鯖と大根・里芋を醤油と砂糖の味付けで煮たもので、これらを一皿に盛り合わせます。氏子がみな農家だった時代には大根とともに里芋も5個ずつ持ち寄ることになっていたと言います。こうした料理を食べる箸は、祭礼当日に神社裏手の細い篠竹を伐り出して作ります。ナマスなどは参列者が食べるだけで特に神前に供えたりすることはなく、かつては料理の準備など全部男によって担われていましたが、今では女性も加わって行われています。

専用のカンナでナマス用 の大根を削る (2011年撮影) 篠竹で作られた箸 (2011年撮影) ナマスノコが乗せられたナマス(左手前) と鯖・大根・里芋の煮物(右手前)が 一人ずつ出される(2007年撮影)

神官と住職が並んで座る (2007年撮影)  ナマスの用意などの諸準備を午前中に行い、午後1時からいよいよ祭りが始まります。ここで目に付くのは神官とともに無量光寺の住職が並んで座ることで、祭式ではまず神官による祝詞の奏上の後、住職による般若心経(はんにゃしんきょう)の読経がなされ、玉串奉奠(たまぐしほてん)となります(玉串奉奠は住職も行います)。当麻地区では、「祭り・行事を訪ねて(16)」で紹介した市場・宿・谷原集落の天王祭(てんのうまつり)でも神輿に対して無量光寺の住職が読経をするなど、神社の祭礼に対しても無量光寺が関わりを持っていることが分かります。そして、一連の祭式が終了すると、神前にお供えしてあったお神酒を下ろし、机を挟んで氏子が座っている両側の下座から上に向かって酒をついでいき、役員の発声で乾杯をしてナマスや鯖の煮付けなどを篠竹の箸で食べながらの歓談となります。

年番の引継ぎ 新旧の年番が盃で酒を飲む (2007年撮影)  しばらくすると神官と住職は退席し、それから年番(ナマスマチなど神社関係の仕事をする一年交代の役)の引継ぎが行われます。新旧の年番が自治会長と宮世話人の立会いの下に、それぞれ盃で酒を飲んで引継ぎとなります。実際には翌年の三月末(年度末)まで年番の任期があるものの、昔はナマスマチの時に変わっていたことの名残りではないかと言われます。この後、しばらくの間は飲食が続き、翌日は朝から片付けをした後、ハチアライといって残ったナマスや神前に供えられていたアジを焼いたものなどを肴に一杯飲み、やはり供えられていた鏡餅なども小さく切って出されます。  祭りの時にナマスをはじめ鯖と大根・里芋の煮物を作って食べることは、周辺の集落には見られず大変に珍しいものです。また、江戸時代までの神仏混交の様相を残す神官と住職の同席や、年番の引継ぎを盃事として行うなど特徴ある要素も保たれ、市域のさまざまな祭りの中でも特に注目されるものの一つと言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(21)~相原地区の秋葉信仰

 私たちが日々の生活をしていくに当たってはいろいろな心配事があり、火災もそのうちの一つです。一度火事になれば、自分の家ばかりか近所が燃えてしまうことも起こりかねません。こうした火事にならないように祈る神仏や行事が市内各所で見られ、現在でも行われている地区があります。今回は緑区相原に残る二つの行事を紹介します。  相原・森下の大門講中は「祭り・行事を訪ねて(10)」で榛名講を紹介した地区で、春の雹除け(ひょうよけ)としての榛名講に対して秋には秋葉講が行われています。秋葉神社は静岡県の天竜川上流にあるものを本社とし、火災除けの神として市内でも広く祀られてきました。  今年(2011年)の大門地区の秋葉講は、11月13日(日)の午後7時から近所の料理屋を会場に会費制で行われました。正面には秋葉神社の掛け軸と、隣りには地区内にある華厳院(けぞういん)から出されたお札が竹に挟んで置かれています。当日の参加者は11名の方で、まず春からの自治会や神社に関わる報告などがあり、その後は宴席に移りました。華厳院のお札は、秋葉講が終わってから後で述べる灯籠の所に持っていって立てます。かつての大門地区の秋葉講は、保管されている帳面によると10月17日に3軒ある当番のうちの1軒に集まり、各家から白米と菜代のお金を集めて行われていたようです。

会場正面に飾られた掛け軸とお札 講中に残る秋葉講の帳面 宴席の様子

秋葉山常夜灯当番の 順番が書かれた板  大門講中も含まれる森下地区にはもう一つ、秋葉信仰に係わる行事が見られます。森下自治会館の向かい側にはいくつかの石仏が並んでいてその中の一つに「常夜塔」と記された灯籠があり(現在は旧塔が壊れたため再建されたもの)、先に述べた大門講中の秋葉講のお札のほか、春の榛名講のお札も講の終了後には灯籠の所に立てられます。  そして、森下では地区全体の古くからある家々に「秋葉山常夜灯当番順番氏名」と書かれた板が順番に回っており、板が回ってきた家では、夕方暗くなってからこの灯籠にろうそくを点しに行きます。板に書いてある順に各家を回っていき、来るとすぐに行って翌日には次の家に送るのを基本に、場合によってはしばらく置いておいたりとその家の都合でいろいろあるとのことです。また、板は平成13年1月吉日に作り直されたもので、両面に86名が書かれていますが今は実際に灯籠に火を付けに行っている家は70数軒ほどと言います。

灯籠のろうそくに火を灯す 今回は阿部幸子さんに お世話になりました  こうした秋葉信仰に関わる行事は、以前は各地にあったことが報告されているものの今では非常に珍しくなっています。相原地区のこれらの行事も長く続いていって欲しいものです(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(20)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~五部会

山車の清掃  上溝の五部会は現在の元町・田中・本久の三自治会の範囲で、古くから地域の結びつきが強く、オテンノウサマの神輿や山車も一緒に所有していたと言われています。ちなみに、五部会の神輿は文化六年(1807)に半原(愛川町)の大工が作ったもので、現在上溝に残っている神輿としてはもっとも古いもので(昭和57年[1982]に大修理)、山車は明治10年(1877)作と伝えられています。  五部会では、7月1日は道切りのシメ縄張りとともに太鼓開きで、この日からお囃子の練習が各地区持ち回りで行われます。また、上溝地区の各自治会では祭り本番(本宮)の前日の宵宮に神輿へのミタマ入れとなりますが、ここ五部会では宵宮の前日(2011年は22日[金])に朝から三自治会の大勢の方が集まって神輿や山車の準備を行うほか、上溝の通りに面したところにお仮屋を設営します。そして、午後3時からお仮屋に安置された神輿に亀が池八幡宮の神官によってミタマ入れがなされました(本町自治会もこの日にミタマ入れとなります)。

神輿の飾りつけ お仮屋の設置 お仮屋に安置された神輿  五部会で注目されるのは、本宮の神輿の氏子回りに際して最初に亀が池八幡宮に行く点です。かつては上溝の各集落の神輿は本宮の昼過ぎに神社に集まってお祓いを受けてから地区に戻って氏子回りとなり、その後、上溝の本通りに出て夜遅くまでにぎやかに担ぎましたが、現在はすべての神輿が神社に向かうわけではなく、五部会と丸崎・虹吹地区の神輿が亀が池八幡宮でお祓いを受けています。

神輿出発前の手締め  自治会の範囲が広い五部会では、神輿がお仮屋を出発したのは今年(2011年)は午前8時30分で、大当番(五部会長)の挨拶や乾杯、神輿連会長の手締めなどの後に堂々と担ぎ出された神輿は、相模線の線路などを越しながらまず亀が池八幡宮に向います。神社では大人の神輿・子ども神輿ともに鳥居から境内に入り(山車は外で待つ)、ひとしきり揉んだ後に社殿の前に置いて役員一同が宮司からお祓いを受け、それから五部会の自治会の範囲を本久から田中、元町の順に氏子回りを行います。途中、高齢者福祉施設などに寄ってお囃子や神輿振りを披露し、ひと時の間、祭りの雰囲気を高齢者の方にも楽しんでいただくといった微笑ましい様子も眼にすることができました。氏子回りが終わると他の地区とともに街中に集合し、勇壮な神輿の渡御と山車の巡行が繰り広げられることとなります。

相模線ガード下をくぐる神輿 社殿前に置かれた神輿 宮司のお祓いを受ける  現在の「上溝夏祭り」は、以前のオテンノウサマの祭礼を基に時代によって移り変わってきたことは間違いありません。それでも五部会の神輿が神社に向うことは、この祭りのかつての様相の一端を知る上で重要な意味を示しています。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(19)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会

 本町自治会のシメ縄張りで取り上げたように、祭りの準備は7月1日から行われる所が多く、神輿の渡御(とぎょ)と山車の巡行をする本宮(2011年は24日[日])の前日の宵宮(2011年は23日[土])には、自治会ごとにお仮屋を設置して神輿を安置します。  それぞれのお仮屋に亀が池八幡宮の神官が回って神輿のお祓いとミタマ入れをしていきますが、本町自治会と五部会(元町・田中・本久自治会の範囲)では、宵宮の前日の金曜日に別にミタマ入れが行われています。  本町ではこの日ではなく事前にシメ縄を張った横にお仮屋を作っておき、当日は神輿や山車の準備をして神官が来るのを待ちます。午後4時から自治会長や役員が並ぶ中で神輿のミタマ入れが厳かに行われ、これ以降は神様が神輿に宿っているため、祭りが終了してミタマが抜かれるまではたとえ深夜であっても、誰かが神輿のそばにいて番をします。また、お仮屋の所は場所が狭いこともあり、ミタマ入れが終わると本町の山車は少し離れた場所に移動していき、ここで宵宮を待つことになります。そして、宵宮の夕方から夜にかけて、上溝の駅前通りなどを歩行者天国にして山車の巡行が行われ、各地区の山車が集まって来てにぎやかにお囃子が奏でられます。なお、本町自治会の山車は明治40年(1907)に八王子市横山町から譲り受けたものともいわれ、元は二階部分があり、その上に豪華な天照大神の人形が乗った人形山車であったことが大正初期頃の写真によって確認できます(『相模原市史民俗編』334頁)。

宵宮前日に行われるミタマ入れ 本町自治会の神輿 本町自治会の山車 (古くは人形山車だった)

神輿は時として左右に大きく振られる  祭り本番の本宮には各自治会で神輿が「氏子回り」をします。大きな提灯や幣束を先頭に、神輿(子ども神輿が後ろに付く)と山車が氏子の範囲を回るもので、本町自治会では午前10時45分出発で氏子回りを行い、神輿は途中、幾度となく左右に大きく振られ、一層勇壮な姿を見せます。かつての神輿は「走り神輿」でワッショイ、ワッショイと声を掛けながら走るように通りを往復したとのお話しも伺いました。本町自治会の神輿は文久元年(1861)に寒川村の神輿を移籍したと伝えられています(昭和61年[1986]に大改修を実施)。  夕方までに上溝の各地区の神輿は氏子回りを終え、いよいよ20基以上の神輿(こども神輿を含む)と8台ほどの山車がすべてメイン会場に集まり、各神輿が激しく揉み合い、祭りは最高潮に達します。薄暗くなると神輿にはたくさんの提灯が装着され、より一層華やかさが増すかのようです。相模原市を代表する祭りの一つである「上溝の夏祭り」は、今後とも多くの人々の思いを受けて盛大に行われていくことでしょう。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(18)~上溝のオテンノウサマ(天王様)~本町自治会のシメ縄張り

 毎年、7月下旬の土日に行われている「上溝夏祭り」は県北最大の夏祭りの一つであり、30~40万人もの人出を数える相模原市を代表する観光行事です。また、江戸時代後期の神輿が何基か残されていることから、この頃にはすでに、祭りがある程度盛大に行われていたと考えられています。古くは祭りのことをオテンノウサマといい、祭り自体や神輿そのものをオテンノウサマと呼ぶことが今でもありますが、現在は相模原市の祭りとして「上溝夏祭り」が正式の名称となっています。今年(2011年)の上溝夏祭りは7月23日(土)と24日(日)に、例年のようににぎやかに実施されました。  神輿の渡御(とぎょ)や山車の巡行が行われる本番を前にして、上溝の多くの自治会では7月1日から祭りの準備に取り掛かります。  まず朝には長い竹を伐り出し、自治会館の前や自治会の境などにシメ縄を張った二本の竹を立てます。これを「シメ張り」といい、道切りとして集落に悪い病気が入ってこないように立てるとされています。ここに掲げた写真は今年の本町自治会のシメ張りの様子で、長さは約7m、8人掛かりで1時間30分ほどで完成しました。かつては集落境に、隣りの集落同士が競うようにシメ張りをしたものの今では少なくなり、本町では上溝商店街の駐車場の所(この奥に自治会館や本町でお祀りしている不動堂と大鷲神社などがあります)の1か所だけになったとのことです。

竹に縄を結びつけている様子 シメ縄を張った竹を立てる様子 駐車場入口に張られたシメ縄  また、1日は「太鼓開き」の日でもあり、この日から祭りの際に山車に乗るお囃子の練習を始める自治会が見られます。本町では、2日から自治会館において祭り当日までの数日間、夜の7時から9時にかけて保存会の会員によるお囃子の練習が行われました。  かつて上溝の中でも久保と番田集落では神輿がないばかりか担いではいけないとも言われ、オテンノウサマを行いませんでした。しかし、現在の「上溝夏祭り」はそんなこともなくなり、上溝の地区全体が加わる祭礼として賑わいを見せています。車の通行を止めた中を実に勇壮に担がれる神輿や賑やかにお囃子の音を奏す山車があまりにも有名ですが、このシメ縄張りのように、地域のお祭りにはさまざまな準備がなされ、多くの人々の協力があって行われていることが分かります。(民俗担当 加藤隆志) ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(17)~相模川の帆掛け舟の再現~磯部民俗資料保存会の活動

現在では、大きな川というと橋が架けられ、そこで車が渋滞する交通をさえぎるものと捉えられがちです。しかし、今から八十年ほど前の昭和初期までは、相模川でも船を使って盛んに上流と下流を結ぶ物資の運搬が行われ、上流の津久井方面からは薪や炭などの山の産物が、下流の河口部からは米や肥料・日用雑貨などが運ばれ、また、砂利の運搬にも活用されるなど、地域の人々の生活において重要な役割を果たしていました。  荷物を船で運ぶには、上流から下るのは川の流れにそのまま乗れば良いのに対し、問題は下流からあがってくる場合です。この時に大切だったのが帆であり、特に春から夏にかけて吹く南風を帆一杯に受けて川を遡れば、河口部の須賀(平塚市)から緑区の小倉まで半日ほどで行くこともできたと言います。ただ、それも風があればで、風が吹かなければ船に縄を掛けて人間が引っ張り上げ、どうしても船が川岸に寄ってきてしまうために、一人が棒で船を押すなどして数日かかって上げてきたというような話も残されています。

かつて見つかった帆  今では、すっかりなくなってしまったかに見える帆掛けの技術を、今でも伝えているのが南区の磯部民俗資料保存会です。この会は地元に残るさまざまな民具やその他の資料を集め、後世に引き継いでいくことを目的に地域の皆様によって昭和53年(1978)に結成されました。その後、明治頃に使われていた高さ約5mの帆が見つかり、帆掛け船の船頭経験者の方に紐の結び方など、技術の指導を受けて帆掛け船を復元しました。そして、昭和61年からは実際に相模川に帆掛け船(船はかつての物資運搬用のものがないので別の船で代用)を浮かべており、近年では毎年8月第一日曜日に「帆掛け船復元実演会」を開催し、その技術を披露するとともに、希望者は帆掛け船に伴走する船に乗船するなど、夏の風物詩として親しまれています。  今年(2011)も8月7日(日)に磯部頭首工の上流付近で実演会が行われ、多くの見学者が訪れました。船の走行には4~5mほどの風速が最適とされていますが、今回は吹く風が今一つ弱かったものの、それでも帆に風を一杯に受けて上流に向けて進む興味深い姿を見ることができました。

帆掛けの準備 相模川を遡る帆掛け舟  磯部民俗資料保存会の皆様の長年に渡る活動は、大変貴重なものであることは言うまでもありません。今後とも、相模川と人々の関係のあり方の一端を示す帆掛けの技術が長く伝えられることを願わずにはいられません。(民俗担当 加藤隆志) *保存会では、収集した資料を磯部民俗資料館で公開しています。   磯部民俗資料館  場所:相模原市南区磯部295番地               開館日・開館時間:基本的には12月29日から1月7日を除く土・日曜日の午前10時~午後3時開館 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(16)~南区当麻地区のオテンノウサマ(平成23年7月)

 7月中旬から8月にかけて、市内各地ではオテンノウサマ(お天王様・天王祭)と称される夏祭りが行われています。この祭りは神輿とともにお囃子が乗った山車が一緒に引き回されるなど、華やかでにぎやかなものであり、祭りの熱気で病気を追い払うとともに暑い夏を乗り切り、また、今では地域の結束を高めるためにも大切な行事の一つとなっています。市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」が有名ですが、ここでは当麻地区の市場・宿・谷原集落の天王祭を紹介します。  当麻のオテンノウサマはかつては7月19・20日、現在はその近くの土日に行われます。今年は16・ 17日で、当麻だけに限らず特に旧市域では上溝の夏祭りを避けてその一週間前に実施することが多いようです。16日の午後に、この地区の鎮守である天満宮で祭典を行います。この時は、神社に集まった役員やお囃子の子どもたちなどが並ぶ中、亀が池八幡宮の神官が大きな神輿と実際に担ぐ子ども神輿をお払いし、大きな神輿にはミタマを入れます。

オテンノウサマの神輿 平成23年7月16日撮影 神官による神輿のお払い 神輿にミタマを入れる ミタマが参列者の眼に触れないように、ミタマを持った神官の周りを年番が布で囲う。

無量光寺住職による読経  また、注目されるのは神官とともに地元の無量光寺の住職も立ち会うことで、神主の祝詞(のりと)の後に神輿に読経(どきょう)します。昔は神輿は無量光寺にあったといわれ、神輿の氏子回りが終わった最後には寺へ寄っていたのが無くなったため、今は最初にやっているとのことです。当麻では、例えば芹沢地区の三島神社のナマスマチと呼ばれる祭礼にも神主とともに住職が参加し、緑区の青山神社で神輿が地域を回る途中に光明寺の住職が読経するなど、いくつかの地域で同様のことがあり、以前の神仏習合の状況を見ることができます。

お仮屋に移される神輿  ミタマ入れが済んだ神輿はトラックに載せられ、お囃子が乗るハナグルマ(山車は明治期に火災で焼失)とともに近くに作られたお仮屋に運ばれます。神輿はここに一晩安置され、そして、翌日の午後に神事を行って神輿とハナグルマの氏子回りが始まります。昭和30年代中頃までは神輿を実際に担いでいたものの、交通量が激しくなったこともあって担がなくなり、子ども神輿だけになっています。それでも途中に四か所ほどあるお旅所(神輿等が休むところ)のうちの一か所は相模川のそばで、これは浜降りと言ってかつては神輿が川に入ったことのなごりとのことです。この後、氏子の範囲を回り終わった神輿とハナグルマは夕方に天満宮まで戻り、神輿からミタマを移して祭りは終了します。  天王祭は各地域で祀られている神社の例大祭とは別に行われていることも多く、盛んに神輿が担がれ、山車などが出ることが特徴で、祭りの名称のほかに神輿自体のこともオテンノウサマと呼ぶことがあります。いずれにしても神輿や山車を伴い、夏場に盛大に行われている天王祭は市域を代表する祭礼ということができます(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(15)~相模原を代表する民俗芸能~三匹獅子舞

 これから真夏の季節を迎える中、そのさなかの8月中旬から9月初頭にかけて、暑さを吹き飛ばすかのように行われている民俗芸能が獅子舞です。市内では緑区鳥屋・諏訪神社、緑区下九沢・御嶽神社、緑区大島・諏訪明神、中央区田名八幡宮の4か所で各神社の祭礼に併せて行われ、いずれも県の無形民俗文化財あるいは市の無形民俗文化財に指定・登録されています。このほかに中央区矢部の村富神社には、実際に踊ることはないものの三つの古い獅子頭が保管されています(文化三年[1806]の銘があり、市指定有形民俗文化財です)。

鳥屋の獅子舞(ヤマガラ) 獅子舞当日には多くの万灯もでる。(鳥屋)

下九沢の獅子舞(ブッソロイ) 大島の獅子舞(行進) 獅子の他、右から2番目にいる鬼も見えている 田名の獅子舞(雌獅子隠し)  日本各地で見られる獅子舞は、大きくは一頭の獅子頭を一人の舞手が被る「一人立ち」と二人が入って担当する「二人立ち」に分けられます。市内の獅子舞は前者のもので、これは東日本を中心に分布しており、特に三匹の獅子を中心に構成される「一人立ち三匹獅子舞」の形態に分類されます。そして、三匹獅子舞が分布する地域は、その大半が福島、新潟を北端として栃木、群馬、茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川の各県の、中部・東北南部から関東地方で占められており、神奈川県では他に横浜市や川崎市にあるほかは、相模原市や愛川町三増より南側では行われていません(例えば、箱根町の宮城野や仙石原で行われている「湯立獅子舞」などは別の系統のものです)。つまり相模原の三匹獅子舞は、県内のみならず日本における南限に位置付けられることになり、こうした点からも注目される民俗芸能と言うことができます。  実際の獅子舞では、三匹の獅子のほかに岡崎や天狗などが付いて一緒に踊ったり、唄が歌われたりとさまざまに行われており、それぞれの場所により共通する点や特徴的なところも見られます。各地区の獅子舞を巡る歴史や注目される伝承については、『相模原市史民俗編』をはじめ教育委員会が刊行した獅子舞の報告書に記されていますが、それらを参考として是非、皆様も一度訪れて見学されてみたらいかがでしょうか。祭礼の華やいだ雰囲気とともに、きっと地域の人々によって伝えられてきた獅子舞に触れて楽しく思い出に残る夏の1日を過ごすことができると思います(民俗担当 加藤隆志)。  *毎年の各神社での獅子舞の日時は変更されることがあります。必ずご確認の上、お出かけください。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(14)~新たに作られた道祖神 南区上鶴間本町・金山神社~(平成23年4月)

 町田駅から境川を左手に見ながら南に向かって進むと、10分ほどで金山神社に到着します。金山神社は上鶴間・谷口地区の中でも第一町内(竹之内講中)の鎮守で、境内には八坂神社や第六天のお宮なども祀られています。そして、この神社の一角に、新たな道祖神がお目見えすることとなりました。  石造の道祖神は市内各地で確認され、この地のものは一つの石に二神が彫られた「双体道祖神」で、かつて調査された際の銘文からは寛政11年(1799)に造られたものであることが分かります。しかし、今ではこの像の傷みがひどく、二神のお姿もはっきりとしない状況になってしまいました。そこで、この機会に新しい道祖神を造立しようという機運が盛り上がり、今年(2011年)4月29日に神官や地域の代表の人々の立会いの下に無事にお披露目(遷座式)が行われたのです。 新旧の道祖神 遷座式の様子 新旧の道祖神(向かって右が地神塔) 遷座式の様子  実はこの道祖神が損傷しているのには理由が考えられます。市内では、現在でも正月14日を中心とした日に団子焼きの行事が盛んに行われていますが、いくつかの場所では道祖神石碑の前で行っていたり、わざわざ道祖神を燃やすところに移す(南区大沼など)、燃やす前に道祖神に挨拶に行く(緑区千木良中央など)ことが見られます。金山神社の団子焼きでも、神社境内に移す前に道祖神があったとされる少し離れた場所で点火してそこからの火種で団子焼きをし、また、燃やすところの前に道祖神を持ってくることが行われており、そればかりか以前には道祖神そのものをこの火にしばらく燃やしてしまい、熱いので竹で引っ掛けて取り出したとの話も聞かれます。道祖神やその近くに置かれた石を一緒に燃やしたとする伝承は神奈川県各地にもあり、金山神社では古くから行われてきた団子焼きの形式を今に伝えている貴重な事例と言うことができます。 団子焼きの準備 かつて道祖神があった場所の前で点火 団子焼きの準備。手前に古い道祖神石碑が置かれている(2009年1月14日撮影) かつて道祖神があった場所の前で点火し、この火で団子焼きを行う。(2009年1月14日撮影)  新しく造られた道祖神は二神が寄り添ってお酒を注いでいる微笑ましい姿で、石屋さんの資料にあった見本の中から選ぶ一方、石屋に道祖神を注文した以外は、例えば説明板の材料を用意して作ったり、回りのコンクリートを打ったりするのもみんな氏子の皆様の手に拠ったとのことです。真新しいものと古くからの道祖神も処分されることなく並んでいる姿を眼にするにつけ、これからも新旧の道祖神は地域にとって大切な存在であり続けるとともに、人々の幸せを見守って行ってくれることでしょう(民俗担当 加藤隆志)。 *同じ場所には、新旧の道祖神と一緒に文化11年(1814)造立の地神塔も祀られています。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(13)~中央区上矢部の薬師堂~(平成23年4月)

 矢部駅や淵野辺駅から町田市方面に向かう道を一本右手に入った、上矢部地区の集落の中に薬師堂があります。地区内に寺院がない上矢部ではこの薬師堂を古くからお祀りしてきました。  薬師堂で毎年4月8日のオシャカサンの日に行われているのが花祭り(潅仏会・カンブツエ)です。当日の午前中に薬師堂を管理する役員(上矢部の神社である御嶽神社総代)が集まり、桃色の椿の花びらを一枚ずつ屋根に貼り付けた花御堂(ハナミドウ)の飾り付けなどの準備をします。この花御堂は桶に乗せて、内側にはお釈迦様が片手を挙げている姿の誕生仏の像を納めますが、桶には甘茶の木を煮出して作った甘茶を入れ、お参りに来た人は甘茶を柄杓で汲んで釈迦像に注いで手を合わせます。甘茶は目につけると良いとされています。そして、地域の人たちがお堂で飲食しながら談笑する中で、午後3時からは地区の女性たちによるお念仏が30分ほど行われ、念仏が終わると後片付けが始まり、この行事も終了となります。なお、市内では、4月8日の花祭りは例えば当麻地区(南区)の観心寺などいくつかの所で見られます。 中央区上矢部の薬師堂 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 上矢部の薬師堂(2011年4月8日撮影) 花御堂に飾られた釈迦の誕生仏 女性による念仏 女性による念仏  また、薬師堂では毎年10月22日(現在はその近くの休日)にオコモリと呼ばれる行事も行われており、その際にも女性たちによる念仏が唱えられます。このオコモリと関連して忘れることができないのが本尊であるお薬師様の開帳です。普段には4月8日を含めて薬師堂のご本尊のお薬師様が開帳されることはありません。それが、33年間に一回、オコモリの際に薬師像の本開帳があり、さらに間の17年ごとには中開帳が行われます。本開帳や中開帳には、薬師の手から五色の布を引き出して薬師堂の前側に立てた角柱の塔婆に結び付け、参詣者はこの布を触り、さらに布を貰うとお産が軽いとか魔よけになると言われていたそうです。  毎年恒例の行事はもちろんのこと、10数年を経て実施されるものを地域で守っていくのは大変です。それでもこれからも末永く続いていかれることを願っています(民俗担当 加藤隆志)。 *近年では中開帳は平成20年(2008)に行われ、次回の本開帳は平成37年(2025)となります。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(12)~中央区上溝の元町観音堂~(平成23年4月)

 明治3年(1870)、繭や糸を売買することを目的として、現在の上溝繁華街の大通りで市場が開設されました。  この市が開かれた大通りを一本入ったところの裏の通りに位置する元町観音堂は、現在は元町自治会館の中にあります。江戸時代から続く高厳寺という寺の観音堂で、今でも本尊であった観音菩薩像が祀られています。この観音様は奈良時代の高僧として有名な行基作と伝え、堂の西側の堂ヶ谷戸に住んでいた老夫婦が途方にくれた旅の僧の願いを聞いて泊めて厚くもてなしたところ、そのお礼として僧が置いていったものと伝えられ、養蚕や安産のご利益あらたかな仏様として五部会(元町・田中・本久自治会で構成)の皆様によって大切に守られてきました。  観音堂の縁日はミクンチといって毎年10月の9日・19日・29日で、お堂の扉が開けられてお参りできる(この時には観音様の安置されている厨子は開かれない)ほか、地元の女性たちによる御詠歌の奉詠も行われています。さらに、元町観音堂は昔の武蔵国と相模国にかけての寺々を巡拝する武相観音霊場の三十番札所であり、この武相観音霊場では12年に一回、卯年の4月1か月間だけ観音像が開帳されることになっていてお姿を拝観することができるとともに、観音様の手から外の角塔婆(回向柱)につながれたお手綱に触れてそのご利益に浴することができます。また、角塔婆には五色の布が観音様の体からつながれたお手綱代わりの飾りがありますが、この木綿の布をもらって腹帯にすると安産になると言われていました。  今年(2011年)がその開帳の年に当たり、観音堂の周囲には参拝者の道案内とともに12年ぶりのご開帳を盛り上げるように赤い多数の幟旗が立てられました。参拝の方々は観音様に手を合わせ、それぞれ観音像の描かれた御朱印のお札を買い求めて次の寺に向かう姿が見られました。地元はもちろん遠くからも来るたくさんの人々の願いを受け止めてきた観音堂は、これからも末永く祀られていくことでしょう(この稿は、五部会観音様世話人の皆様のご指導の元に、民俗担当の加藤隆志がまとめました)。 *武相観音霊場は第1回目の開帳を宝暦9年(1759)に行い、今年は第22回目でした。相模原市(旧城山町を含む)をはじめ八王子市・町田市・多摩市・日野市・大和市・横浜市に及ぶ48か寺の札所があり、市内では、元町観音堂(中央区上溝)のほか、泉龍寺(南区上鶴間)・普門寺(緑区中沢)・長徳寺(緑区大島)・観心寺(南区当麻)・清水寺(南区下溝)・慈眼寺(緑区城山)・龍像寺(中央区淵野辺)の八か寺が札所となっています。次回の開帳は平成35年(2023)となります。

観音堂と回向柱 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札 観音堂と角塔婆 (2011年4月1日撮影) 町の中に飾られた武相観音霊場の幟 観音堂から出されているお札。 高厳寺の文字が見える。 ページトップに戻る

祭り・行事を訪ねて(11)~与瀬神社の祭礼と精進衆(しょうじんしゅう)(緑区与瀬)~(平成23年4月)

 相模湖駅から西に少し歩いた山の中腹にある与瀬神社は「与瀬の権現様」として親しまれ、かつては子どもの夜泣き止めにご利益があるとして多くの参拝者がありました。与瀬神社の例大祭は、現在、4月の第2土曜日に行われており、特に多くの担ぎ手によって50段もの急な勾配の石段を神輿が降りていく様は大変有名で、その後、数時間かけて地区内を巡行し、相模湖を背景として勇壮に神輿が担がれていく様子を見ることができます。 相模湖を背に担がれる神輿 急な石段を神輿が下がる 勇壮に担がれる神輿 急な石段を神輿が降りる (小田和夫さん撮影)  この祭りで特に興味深いのは、「精進衆」と呼ばれる決まった家があることです。精進衆は、昔、ヤヨさんとキヨさんという人が魚とりをしていた時に相模川から神社のご神体を引き上げたとされる家の子孫で、神輿を担ぐ際に「ヤヨー、キヨー」という掛け声があったり、御神体を取り上げた場所という御供岩(現在は相模ダム建造のため元あった位置からは移転)まで神輿が行くのもそれに由来しています。地元の慈眼寺には天明8年(1788)の精進衆について書かれた資料が残るなど、精進衆は当時からすでに祭礼に係わっていたことが分かります。こうした家は元々は数軒あったものの、現在では祭礼等に当たって役割を果たしているのは1軒となっています。  ここでは細かいことには触れられませんが、昔は境内の祠をお祀りするのは精進衆の仕事だったと言われており、例えば鳥居や御供岩、社殿などへ注連縄を張る作業は、今でも精進衆のみで行って他の氏子総代の人たちは手出しをしません。また、宵宮(祭礼前日の夜)に行われるいくつかの祭祀の準備や実施、神輿に随行する者たちが持つ祭具を作る、神輿に御霊を移す際に神主の補助をする、神輿に付いて歩いてお旅所でお神酒を供えるなど、精進衆は祭礼の諸準備から実施に至るまでのさまざまな仕事を担っています。与瀬神社の祭礼にあたって、神主ではなく神社と関わりのあるとされている精進衆が重要な役割を果たすなど、比較的古い祭祀のあり方を示すものとして注目されます。(民俗担当 加藤隆志) 精進衆(2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで神輿が担がれる 精進衆 (2008年は親子で務められた) 祭礼前日、精進衆が御供岩の 注連縄を取り替える 祭礼当日、御供岩まで 神輿が担がれる  ここに挙げた写真は2008年の祭礼を撮影したものです。※2011年の開催については、地震の影響で未定です。 ページトップに戻る

民俗の窓(平成22年度)

祭り・行事を訪ねて(10)~相原地区の榛名講~(平成23年2月)

榛名神社(八王子市寺田町)
榛名神社(八王子市寺田町)  
 榛名神社というと群馬県が有名ですが、実は相模原と係わりの深い

榛名神社(八王子市寺田町)
榛名神社(八王子市寺田町)

榛名神社が八王子市南部の寺田町にもあるのをご存知でしょうか。春先に雹(ひょう)にあうと農作物に大きな影響があり、特に春蚕のための桑に良くありません。雹が降らないことを願うために、津久井地域や旧相模原市域北部の集落を中心にこの榛名神社が信仰され、かつては3~4月頃に神社に代表者がお参りしてお札を受けて来て榛名講を行うことが見られました。
 今回は、相原・森下地区の大門講中で実施されている榛名講の様子を紹介します。
 今年(2011年)の大門講中の榛名講は祝日の2月11日に行われました。当日の午前中に当番の2名の方が寺田町の神社社務所を兼ねている個人の方の家を訪ねて、榛名神社の大きな紙のお札を求めます。この後、相原に帰ってきて、近所の竹やぶから適当な竹を伐り出してお札を挟むものを作ります。榛名講は午後7時から地区の自治会館で行われ、「榛名神社」と書かれた掛け軸や蚕神(かいこがみ)を描いたものを飾り、お札を挟んだ竹も同じところに置きます。当日の参加者は17名の方で、今では次年度の自治会の役員を決める打ち合わせも兼ねているため、まず自治会の事業報告や役員の人選が行われた後に宴会に移ります。なお、お札を挟んだ竹は後日、近くにある石仏の所に立てられ、翌年までそのままにしておきます。

お札を竹に挟む
お札を竹に挟む
榛名講で飾られる掛け軸
榛名講で飾られる掛け軸
 榛名講の様子
榛名講の様子

お札を竹に挟む 榛名講で飾られる掛け軸 榛名講の様子  大門講中でもかつては4月に行ったようで、順番に当番の家に集まり、かなり昔は各人が米などを持ち寄って榛名講を実施していたことが帳面類から分かります。また、他の集落ではむら境に榛名神社のお札を置いたり、各家でも畑に雹除けとしてお札を立てたりするのがあったことが報告されています。現在ではめっきり少なくなった榛名講は、実施されている大門講中でも豊作祈願や雹除けというより地区の役員決定の機会としての性格が強くなっています。それでも畑作や養蚕が大変盛んだったこの地域の信仰を伝える行事として、大変貴重なものと言えるでしょう(民俗担当 加藤隆志)。

祭り・行事を訪ねて(9)~緑区与瀬・横橋地区の秋葉神社の火祭り~(平成23年3月)

  緑区与瀬(旧相模湖町与瀬)横橋地区の秋葉神社の祭礼である火祭りを紹介します。
 横橋地区のうち、祠がある横道はJR相模湖駅から西方に約20分ほど歩いた所の集落で、甲州街道の旧道のいくつかの石仏が並ぶ傍らの道を登った山の上に祠があり、さらに西側に位置する橋沢集落とともに秋葉神社を祀っています。江戸時代の終わりの大火によって講ができて火防せの神として祀るようになったと伝えられ、元は3月17日に行われていましたが、現在では3月17日近くの日曜日に火祭りが行われています。
 当日は、まず地元自治会による秋葉神社周辺などの掃除の後、火祭りに燃やす松明作りなどが主に「若葉会」によって行われます。若葉会はさまざまな活動を行う地元有志の会で、以前は個々の家で用意をしていた松明も、今では燃やすヒデ(松の根)集めや松明の作成をはじめとして火祭りの実施まで、若葉会が実際の行事を一手に引き受けています。
 松明は、太い竹の先をいくつかに割って拡げた先に松の根のヒデを挟み込んで針金で縛り、竹の反対側は地面に刺せるように半分削ります。横道と橋沢全部で62世帯あるため昨年(2010年)には70本作られ、一度に30数本ずつ二回交代で燃やしました。また、古くは各家から祠まで松明を持ち上げて立てたものの、今では道の上側の場所に二mほどの間隔で穴を掘って松明を立てています。午後7時頃に松明に一斉に点灯されると実に幻想的な光景がかもし出されます。松明はしばらく燃えていてヒデが落ちてしまったのは拾い、消えたら新しいものと取り替えていきます。風が強いと実施できませんが、幸いにしてここ20年ほどの間では中止になったことはないとのことです。松明はどんどん燃えるため一時間ほどで火祭りは終了となりました。
 今後、ヒデが用意できるかなど課題も多いとのことですが、これからも長く続いて欲しい行事です。(民俗担当 加藤隆志)
*2011年は3月13日(日)の午後7時から行われる予定でしたが、中止となりました。

 松明作り 松の根を竹の先に挟み込む作業をしています
松明作り
松の根を竹の先に挟み込む作業をしています
 夜空に燃える松明
夜空に燃える松明

祭り・行事を訪ねて(8)~復活した荒川集落のドンドヤキの飾り~(平成23年1月)

 緑区二本松地区にある八幡神社は、元々は城山ダムの建設によって津久井湖の湖底に沈んだ荒川地区の氏神で、荒川の多くの人々が移転することとなった二本松地区に祀られている神社です。この神社の境内でもドンドヤキが行われており、今年(2011年)は正月15日(土)の朝8時からの予定で実施されました。数年前にはダイオキシン等の問題で一時、中止していた時期もあるとのことで、それでも3年ほど前から復活し、子どもたちをはじめ多くの参加者で賑わっていました。
 二本松のドンドヤキの飾りで注目されるのが、正月飾りなどを積み上げたものの中心に立派なお飾りやダルマを上側に取り付けた竹が立てられることです。これは津久井地域ではよく見られる形で、実は再度、神社でドンドヤキを行うに当たって荒川地区で行っていたものを復元して作るようになったそうです。荒川では、昔からこの行事を「団子焼き」と呼び、焼いた団子を食べると風邪を引かないということでその年の無病息災を願い、焼いた松の焼け残りを持ち帰って家の入り口に置くと泥棒よけになると言われていました。
 もちろん、荒川では子どもたちが各家に下げられた正月飾りを集めたり、もっと大きな竹を山で普段から探しておいて期日が近くなると伐りに行き、燃やすのも14日の夜でしたが、現在では住宅地の中にあって昔通りに行うことはできません。また、現在ではこの地区でも多くの家が建てられ、神社の氏子や役員の方も荒川から移転されてきた方々より他地から引っ越してきた住民が多くなっています。それでも荒川の方々が二本松地区に移転されてほぼ50年になろうとしている今日、八幡神社のドンドヤキの飾りはそうした歴史の印を行事の中に留め、さらには二本松地区にお住まいのさまざまな人々の交流のシンボルとしても大事なものになるのではないかと思いました。(民俗担当 加藤隆志)

飾りの上部 立派な正月飾りや ダルマがみえる
飾りの上部
立派な正月飾りや
ダルマがみえる
ドンドヤキの飾りに 点火されたところ
ドンドヤキの飾りに
点火されたところ
多くの参加者で賑わう
多くの参加者で賑わう
昭和36年正月、水没前に 最後に行われた団子焼き (八木孝雄さん提供)
昭和36年正月、水没前に
最後に行われた団子焼き
(八木孝雄さん提供)

祭り・行事を訪ねて(7)~緑区寸沢嵐・増原と各地域の団子焼き~(平成23年1月)

 今年も市内各地で賑やかに団子焼き行事が行われました。かつては正月14日に行われることが一般的だったこの行事も、現在では地区や自治会の都合で今年(2011年)の場合は8日(土)から16日(日)頃までのさまざまな日に実施されており、今年も時間の許す限り各地の様子を見学させていただきました。ここでは緑区寸沢嵐の増原自治会の団子焼きを中心に記すことにします。
 増原の団子焼き(最近はドンドヤキということも多くなったそうです)は10日(日)に行われました。午後3時の点火予定ということで1時過ぎから準備が行われ、正月飾りを集めて燃やすための穴を掘ったり、各家から道祖神の石碑の前に納められたお飾りを運んだりします。また、増原では数年前から、現在は作られることも少なくなった繭玉飾り(木は梅やつげの木を用い、ダンゴバラといったそうです)を模したものを燃やす場所の一角に飾っており、ミカンをたくさん付けています。「祭り・行事を訪ねて」(6)で紹介している根小屋地区の事例ではミカンはありませんでしたが、ここでは昔からミカンをたくさん付け、ミカンを子どもが食べたくて仕方なかったと言います。また、この飾りのユニークなのは、実は米の粉の団子ではなくマシュマロを使っていることで、三つ又の枝に刺した団子を焼いた後にマシュマロも枝に刺して火であぶって食べており、なかなか甘くておいしいものでした。団子焼きにはたくさんの老若男女の皆さんが集まり、新年の挨拶とともに楽しく歓談されている姿を拝見することができました。この行事は、単に正月のお飾りを燃やして団子を焼くだけでなくて地区の人々の大きな交流の場となっていることがよく分かり、地域にとっても大切なものとしてこれからも長く続いていくことでしょう。

石碑の前に納められた お飾りを運ぶ
石碑の前に納められた
お飾りを運ぶ
飾られた「繭玉飾り」 団子の代わりにマシュマロ が付いている
飾られた「繭玉飾り」
団子の代わりにマシュマロ
が付いている
地区の人々が集まってきて 団子焼きをする
地区の人々が集まってきて
団子焼きをする

  なお、今年、津久井地域(旧城山町・津久井町)で見られた、お飾り等を集めて積み上げた様子をいくつか紹介します。いずれも14日に撮影したもので、場所によって形が違っていることなど、いくつか注目される点があります。(民俗担当 加藤隆志)

緑区川尻(城北)
緑区川尻(城北)
緑区葉山島(下倉)
緑区葉山島(下倉)
緑区三ヶ木(原替戸)
緑区三ヶ木(原替戸)
青山神社(緑区青山)
青山神社(緑区青山)
緑区青野原(西野々) 会場に飾られる団子飾り
緑区青野原(西野々)
会場に飾られる団子飾り
緑区青野原(西野々)
緑区青野原(西野々)
緑区青根(上青根)
緑区青根(上青根)

祭り・行事を訪ねて(6)~緑区根小屋の繭玉飾り~(平成23年1月)

 現在、正月の団子焼きは市内各地でも盛んに行われていますが、個人の家で繭玉団子を作ることはめっきり少なくなってしまいました。かつては、正月13日に各家で、養蚕によってたくさん繭ができるように大きな繭玉飾りを作るほか、神仏に供える団子や翌日の団子焼きに燃やすものを作ることが普通に行われていました。緑区根小屋の菊地原さんのお宅では今でも自宅で繭玉飾りを作っており、ここでは今年(2011年)見させていただいた内容を紹介します。
 繭玉作りは13日の夕方に行われます。家によって団子を飾る木は異なりますが当家では梅の木をもっぱら用い、床の間の前に台とする石臼を置いて臼の穴に梅の木を刺し込んで梅の枝に蒸かした団子を付けていきます。他の家では団子とともにミカンを飾ることもあったものの、小便繭といって汚れた悪い繭ができるとしてミカンは決して付けなかったそうです。また、かつては繭がたくさん取れるように、オシラサマと呼ぶ女の神様を描いた掛け軸を床の間に吊るしていました(これは今は行っていません)。今回は、お孫さんと一緒にきれいに飾っていただきました。
 翌日の14日の朝には、中に焼いた餅を入れた「糸引き粥」といわれるお粥を作って繭玉飾りの前に供えるとともに、家族も朝食としてこの粥を食べます。そして、16日まではそのまま置いておき、16日朝には「繭かき」といって梅の木から団子を取り外します。団子は乾いてコチコチになっていて今はあまり食べることはなくなっています。以前は保管しておき、茹でてしばらくの間は食べていました。菊地原さんはこのほか各種の正月飾りも自分で作るなど、昔からの家の行事を続けておられます。今では少なくなったこのような地域に伝わってきた行事を私たちも大切にしていきたいものです。(民俗担当 加藤隆志)

繭玉作り お孫さんもお手伝い
繭玉作り
お孫さんもお手伝い
繭玉飾り 手前に糸引き粥が見える
繭玉飾り
手前に糸引き粥が見える
16日朝の繭かき
16日朝の繭かき

祭り・行事を訪ねて(5)~南区磯部地区の薬師堂~(平成22年12月)

 地域の中には宗教法人名簿に載せられているような神社や寺院とは別に、地元の方々が大事にお祀りしているお宮や堂がよく見られます。それらは稲荷であったり観音や不動などいろいろなものがありますが、今回はその中から、今年(2010年)拝見することができた磯部地区にある薬師堂のご縁日の様子を紹介したいと思います。
 薬師堂は磯部の中でも下磯部の東地区にあり、地域の5軒の女性が日常の管理をしています(以前は8軒だったそうです)。創建されて500年も経つと言われる古いもので、お薬師様と脇侍(きょうじ)の日光・月光菩薩が祀られています。
 縁日の毎年10月12日には昼から能徳寺の住職が読経をして薬師の厨子の扉を開き、この扉は一年に一度、住職しか開けてはいけないとされているそうです。その後、やはり能徳寺の檀家の女性の方々による御詠歌(ごえいか)があり、終了すると近所の皆さんや毎年お参りされているという人が訪れます。
 このお薬師様は目の仏様として親しまれており、お参りした人には護符と一緒に「オメンタマ」と称する小さな丸い団子2個(偶数)やお菓子などが配られます。ちなみにこうした団子を作るのも管理されている五人の女性が前日に準備しています。当日は午後9時頃までに60~70人ものお参りがあったとのことです。なお、10月以外の毎月12日にも管理されている皆さんによって薬師堂は開いており(ご本尊の薬師如来の厨子は開きません)、お参りすることができます。
 薬師堂は大正時代に火事になって大変な時代もあったという話も伺いましたが、今後とも薬師堂が後世まで祀られていくことをお祈りするとともに、そうした身近にあって人々が大切にお守りされているお堂や宮などを通じて、地域の歴史や文化について調べ考えていきたいと思います。(民俗担当:加藤隆志)

薬師堂
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
薬師堂
本尊をお参りする親子
本尊をお参りする親子

祭り・行事を訪ねて(4)~藤野村歌舞伎~(平成22年11月)

 さる10月17日(日)の午後1時30分から、牧郷体育館(旧牧郷小学校)において、復活後19回目となる藤野村歌舞伎が盛大に行われました。緑区の藤野地域では、佐野川や牧野地区など、かつて地芝居(専門の役者ではなく地域の者が演じるもの)が盛んで当時演じられた舞台がいくつか残されています。特に牧野の篠原地区では、明治29年(1896)に氏神の大石神社を再建した際に回り舞台を設けて拝殿を舞台兼用に設計するなど、熱心に行なわれたことで有名です。しかし、各地の地芝居も第二次世界大戦後には次第に消滅していき、篠原でも昭和40年の神奈川県民俗芸能大会が最後の公演となり、衣装類などは県立歴史博物館に寄贈されています。現在行われている藤野村歌舞伎は、地区の有志によって保存会が結成されて平成4年に復活したものです。
 当日の演目は「一谷嫩軍記((いちのたにふたばぐんき)」のうち「熊谷陣屋」の場と「白波五人男」より「稲瀬川勢揃(いなせがわせいぞろい)」の場です。ここでは詳しいあらすじには触れませんが、いずれも歌舞伎や浄瑠璃の名場面として有名です。特に「熊谷陣屋」は藤野村歌舞伎の中でも十八番であり、1時間15分にも及ぶ力演でした。また、「稲瀬川勢揃い」では多くの藤野中と藤野南小の子どもたちが出演し、見学者一同から大きな声援を受けていました。これからも藤野歌舞伎保存会の活動を応援していただければ幸いです(民俗担当 加藤隆志)。

「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の場
CYBERSHOT (24mm, f/5.6, 1/30 sec, ISO320)
「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の場
「白波五人男」より「稲瀬川勢揃」
CYBERSHOT (15.6mm, f/4, 1/30 sec, ISO320)
「白波五人男」より「稲瀬川勢揃」

祭り・行事を訪ねて(3)~「お月見ちょうだいな」~(平成22年11月)

 秋の十五夜や十三夜は風情あふれる年中行事の一つです。この日には縁側などに台を出してカヤやススキ等の秋の草花を壷に挿して飾り、里芋・薩摩芋などの秋に畑で収穫されるものや、月にちなんで丸いものということで団子やまんじゅうなどを供えるほか、「お月様は豆腐を好む」として豆腐を一緒に供えることもあります。また、片月見はいけないとされ、十五夜をしたら必ず十三夜も祝うものだと伝えられています。ちなみに今年(2010年)の十五夜は9月22日、十三夜は10月20日でした。
 ところで、上溝や下溝・田名・当麻・磯部などでは、十五夜や十三夜の夕方に子どもたちが各家を回ってお菓子などをもらうことが今日でも見られます。盛んに行われている地区の一つである下溝の古山では、近所の友だちが4,5人と連れ立って家々を回り(小さな子どもには親が付き添います)、縁側などにお供え物がある家を見つけると屋敷内に入って「お月見ちょうだいな」と声をかけ、用意してあったお菓子をもらい「ありがとう」とお礼を言って次の家に向かいます。かなり以前は誰にも知られないようにそっと持っていきましたが、次第に柿や栗などを配るものとなり、さらに子どもたちが好むお菓子になったと言います。古山ではお月見に各家で80~100組ほども菓子を用意しているそうで、子どもたちは手にした袋にお菓子を一杯にしてうれしそうです。地域に残る行事に子どもたちが触れ合う機会としてこれからも長く続くことを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

お月見のお供え物
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
お月見のお供え物
「お月見ちょうだいな」
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO160)
「お月見ちょうだいな」

祭り・行事を訪ねて(2)~青野原八幡神社の子ども相撲~(平成22年10月)

 さる9月12日(日)、緑区青野原(旧津久井町)の八幡神社で子ども相撲が行われました。この神社は元々は「若宮八幡宮」として別の地にあったものが江戸時代中期に現在地に遷座したと言われる古社で、青野原地区の東側の地域の鎮守として祀られています。子ども相撲は、以前は敬老の日の9月15日、今ではハッピーマンデー法の関係でその近くの休日に行われます。かつては大人の相撲もあったものの、今ではもっぱら小学生までの子どもが男女を問わず参加しています。
 当日は午後1時から相撲が始まりました。だいたい年齢や学年が同じような子ども同士の取り組みが行われ、装束を付けた行司がさばきます。子どもたちは勝っても負けてもいろいろな賞品が貰え、うれしそうです。また、神社境内の土俵の横には桟敷も設けられ、地域のお年寄りを中心とした見物人や親たちが盛んに声援を送ります。休憩の途中では、これを食べると一年間風邪をひかないということでおにぎりを皆で食べる姿も見られました。今年は参加する子どもが他の行事と重なったためやや少なかったそうですが、力の入った取り組みも多く、大変に盛り上がった中で午後3時前には終了しました。
子ども相撲の取り組み風景 子ども相撲の応援をする観客

はっけよい、のこった!!
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/100 sec, ISO100)
はっけよい、のこった!!
見物人の応援にも力が入ります
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/100 sec, ISO100)
見物人の応援にも力が入ります

市内では、青野原の八幡神社とともに緑区鼠坂(旧相模湖町)の八幡神社でも子ども相撲があり、現在もこうした行事が残る貴重な祭礼となっています。地域の大人たちが子どもの成長を見守る行事として、これからも大切にしていきたいものです。(民俗担当:加藤隆志)

祭り・行事を訪ねて(1)~川尻八幡宮祭礼~(平成22年10月)

 記録的な猛暑だったこの夏ですが、それでも市内各地で賑やかに祭りが行われました。民俗担当では、この数年間はなるべく津久井地域の祭りの見学にお伺いしています。今回はその中でも、大変盛大な神輿(みこし)の巡行と各地区から出される山車(だし)が有名な緑区川尻(旧城山町)地区の川尻八幡宮の祭礼について紹介します。
 川尻八幡宮の祭礼は、8月27・28日の両日に渡って行われます。27日には「応神(おうじん)」と「八坂(やさか)」と呼ばれる大小2基の神輿が早朝に神社を出て川尻中の各地区を練り歩き、途中では神輿を高く掲げたり左右に大きく振る動作などが見られました。特に午後7時過ぎに一度神社に戻ってからは、もう一基の「春日(かすが)」を加えた三基の神輿を夜遅くまで神社周辺の道路で車を止めながら勇壮に担ぎます。翌日は山車とお囃子が主役です。午前中から各地区を回ってきた9基の山車がやはり夜には一同に会し、同時に囃子を叩き合うほか、各山車が順番にこの日に向けた特別の囃子を奏でることも行われています。

大小二基の神輿
Nikon SUPER COOLSCAN 9000 ED (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
大小二基の神輿
一同に集まった山車
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/40 sec, ISO200)
一同に集まった山車

 こうした各地区のさまざまな祭りは、人々にとっての大きな楽しみであるとともに地域の大切な生活文化です。今後ともできるだけ多くの祭りを訪れて、写真を撮り、お話しを伺っていきたいと思っています。(民俗担当:加藤隆志)

待望の『相模原市史民俗編』刊行!!(平成22年7月)

相模原市史民俗編表紙
 平成15年から筆者を含む大勢の者が係わりながら作業を進めてきた『相模原市史民俗編』がこのたび刊行されました。この本はA4判で550頁にも及ぶ大部なもので、相模原のさまざまな民俗について紹介されています(なお、この事業は合併以前から進められているため、対象地は旧市域の相模原地域です)。
 これまでも民俗関係の報告書などが出されてきましたが、例えば年中90-03minzoku220701行事や獅子舞などといった特定のテーマごとにまとめることが多く、市域の民俗全般が体系立てて記述される良い機会となりました。 全体に多くの写真が掲載されて内容の理解を助け、索引もあるので調べたいことを検索するのに便利です。
 また、付録の明治39年の地形図は、集落や耕地・山林などが色分けされているほか寺社や伝承地・地名などが記されており、一枚の地図から多くの情報を読み取ることができます。是非一度、博物館や図書館などでご覧になってください。そして、いろいろな面でご活用いただければと思います。
 購入の場合、一冊2550円・DVD版は1550円。博物館ミュージアムショップなどで販売しています。(民俗担当:加藤隆志)

地質の窓(平成24年度)

山梨県大月市の謎のマントル物質(平成25年1月)

 山梨県大月市笹子町には、地球内部のマントルを構成している岩石がみられます。ただし、マントルを構成する岩石が直接露出しているわけではありません。ここで見られるのは、蛇紋岩(じゃもんがん)で、マントルを構成しているカンラン岩が変質したものです。蛇紋岩は、黒色や濃い緑色をしており、独特の光沢を持つことが特徴です。ビルの壁などの石材にも利用されています。

蛇紋岩
蛇紋岩
ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩
ビルの壁の石材として利用されている蛇紋岩
 カンラン岩(※) (当館天文展示室に展示しています)
カンラン岩(※)
(当館天文展示室に展示しています)


 大月市の蛇紋岩は、分布が数メートルと非常に狭く、周囲の岩石に挟み込まれるように分布しています。また、現在では植生や上から崩れてきた土砂などに覆われており、見つけるのにかなり苦労しました。この蛇紋岩の周囲の岩石は、相模湖層群瀬戸層 (さがみこそうぐんせとそう)の約3,000万年前の泥岩や砂岩です。地表近くで形成された泥岩や砂岩の中に、なぜ、地下深部を構成していた岩石が挟み込まれるようになったのかは、明らかになっていません。

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蛇紋岩の屋外での様子。黒っぽく見えているのが蛇紋岩
(左:地表に出ているもの 右:土砂に埋まっていたのを掘り起こしたもの)

 ほぼ同時代の蛇紋岩は、赤石山脈、三浦半島、房総半島でもみられます。ちょうど伊豆半島を取り巻くように分布しているので、「環伊豆地域蛇紋岩類(かんいずちいきじゃもんがんるい)」とも呼ばれています。なぜ、伊豆半島を取り巻くように蛇紋岩が分布しているのかも、よくわかっていません。
 まだまだ、謎の多い「環伊豆地域蛇紋岩類」ですが、研究が進めば、南関東の地質がどのように形成されたのかを解明するための重要な手がかりをつかむことができるかもしれません。(地質担当:河尻清和)
※カンラン岩・・・緑色のカンラン石と呼ばれる鉱物からできています。緑色のカンラン石はペリドットと呼ばれ、8月の誕生石として宝石に利用されています。

地質学講座 in 奥多摩(平成24年6月)

 2012年5月13、20日、6月3、10日の計4回、地質学講座を開催しました。例年、地質分野の教育普及事業は相模原地質研究会の協力を得て開催していますが、今年からは県立相模原青陵高校地球惑星科学部にも協力していただいて、教育普及事業を進めています。今回は受付や野外観察時の補助をお願いしました。

さて、今年の地質学講座は、「2億年前の海底を歩く‐多摩川 御岳渓谷の地質‐」と題して開催しました。1・4回目は博物館での講義、2回目は奥多摩町鳩ノ巣渓谷で、3回目は青梅市御岳渓谷で野外観察を行いました。青梅市御岳渓谷の地質に関しては平成22年度の博物館の窓「紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐」を参照していただくとして、ここでは、奥多摩町鳩ノ巣渓谷の地質について簡単に説明します。
受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。
受付をする相模原青陵高校地球惑星科学部の生徒さん。
鳩ノ巣渓谷。
鳩ノ巣渓谷。

鳩ノ巣渓谷で見られる岩石は、チャートと砂岩です。チャートというのは放散虫(ほうさんちゅう)という生物の死骸が海底に降り積もったものが固まってできた岩石です。放散虫は二酸化ケイ素(ガラスの主成分)の骨格を持つ海のプランクトンです。チャートは陸地から遠く離れた海底

三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。
三畳紀の放散虫化石(電子顕微鏡写真)。

に堆積してできます。鳩ノ巣渓谷のものは三畳紀(さんじょうき)前期(約2億4千万年前)~ジュラ紀中期(約1億7千万年前)にできました。砂岩は砂が固まってできた岩石です。鳩ノ巣渓谷のものはジュラ紀後期(約1億5千万年前)に海溝で堆積した砂が固まってできました。
 これらのチャートや砂岩はもともと現在見られる場所でできたのではありません。陸地から離れた海底や海溝で堆積したものが移動する海洋プレートに乗って運ばれてきて、さらに地殻変動により陸上に露出したものです。海洋プレートは、ちょうどベルトコンベアーのように、上に乗せたものを陸の方まで運ぶ役割をしています。このように、プレートによって運ばれて陸地の一部となった地層・岩石の集まりを付加体(ふかたい)と呼んでいます。鳩ノ巣渓谷や御岳渓谷はプレート運動の証拠を陸上で見られることができる場所の一つです。(地質担当:河尻清和)

層状チャート。
層状チャート。
しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。
しゅう曲したチャートもいたるところで見られます。
砂岩。
砂岩。

地質の窓(平成23年度)

包丁岩(ほうちょういわ)~緑区名倉

 緑区名倉の山梨県との県境付近に、包丁岩と呼ばれている岩があります。この岩は南から北に突き出た細長い尾根状の地形をつくっており、包丁の刃を上にして立てたような形をしています。長さは50~60m、幅は土台部分では20~30mですが、岩の上の部分は馬の背中のようになっており、人が1人通れるくらいの幅しかありません。高さは30mくいらで、ほぼ垂直に切り立っています。
 岩の上は「人が1人通れる」といっても、滑りやすく、途中つかまる木も無いので、落ちたら最後、約30m下の谷底まで落ちてしまいます。非常に危険なので、岩の上を歩くのは無理です。

東側( シュタイナー学園付近)から 包丁岩を見下ろしたところ
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/125 sec, ISO0)
東側( シュタイナー学園付近)から
包丁岩を見下ろしたところ
西側から見た包丁岩
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/200 sec, ISO0)
西側から見た包丁岩
東側の麓から包丁岩を 見上げたところ
Canon IXY DIGITAL 900 IS (10.833mm, f/4.5, 1/125 sec, ISO0)
東側の麓から包丁岩を
見上げたところ
 包丁岩の頂部 付け根部分(左の写真の左側)から 先端(左の写真の右側)を見ています。
包丁岩の頂部
付け根部分(左の写真の左側)から
先端(左の写真の右側)を見ています。

東側の麓から包丁岩を
見上げたところ 包丁岩の頂部
付け根部分(左の写真の左側)から
先端(左の写真の右側)を見ています。
 包丁岩をつくっている岩石は、愛川層群中津峡層石老山礫岩(あいかわそうぐんなかつきょうそうせきろうざんれきがん)と呼ばれる礫岩です。名前のとおり、石老山(せきろうざん)を中心に分布している礫岩です。石老山礫岩(せきろうざんれきがん)は硬く、割れ目などができると、そこが集中して浸食されます。浸食(しんしょく)がどんどん進み、割れ目の少ない部分が削り残されて、包丁のような形になったと思われます。
 全体を見渡せる場所はなかなか無く、シュタイナー学園付近で木々の間から一部を見ることができます。

用語解説
礫岩:地質学では2mm以上の石ころのことを礫(れき)と呼びます。礫が集まってできた岩石のことを礫岩といいます。礫が集まっただけで、硬い岩石になっていなければ礫層(れきそう)といいます。
浸食:岩石や地層が、波や川、氷河などの水の働きや風の働きで削られること。
(地質担当:河尻清和)。

博物館実習生VS富士相模川泥流(ふじさがみがわでいりゅう)

 毎年、博物館では8月から9月にかけて学芸員実習生を受け入れています。実習生は、実習の一環として展示を制作しています。平成23年度の地質分野は、地層の剥ぎ取り方法や標本を紹介する展示を制作しました。
 2011年8月30日、相模原市緑区名倉で富士相模川泥流の地層の剥ぎ取り標本を作製しました。泥流(でいりゅう)というのは、泥(土砂)と水が混ざったものが谷や川を流れ下る現象のことです。通常の洪水よりも泥の割合が多く、大きな岩石を運ぶことができます。
 富士相模川泥流は、約2万2千年前に富士山麓から相模川を流れ下った泥流です。この泥流による堆積物の地層が相模川沿いに点々と残されており、相模原市内でも観察することができます。地層の剥ぎ取り標本については、「地層の標本を作製(平成23年3月)」を参考にしてください。
 今回、剥ぎ取り標本を作製した富士相模川泥流の地層は固く締まっており、剥ぎ取るのに非常に苦労しました。地層を固める薬剤が染み込みにくく、無理に剥ぎ取ろうとすると固まった薬剤だけが剥がれてきてしまいます。鎌で地層を削り取りながら、標本を作製しました。まさに悪戦苦闘。やわらかい地層ならば半日で10枚以上剥ぎ取ることができるのですが、今回は4枚しか作業ができず、しかも、実際に標本として使えたのは2枚だけ。1枚剥ぎ取るのに1時間以上もかかりました。

剥ぎ取る面を削って平らにしています
剥ぎ取る面を削って平らにしています
 鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
鎌を使って、地層を剥ぎ取り中


剥ぎ取る面を削って平らにしています 鎌を使って、地層を剥ぎ取り中
 実習生はさらに、剥ぎ取りを紹介する展示を製作したのですが、ここでも悪戦苦闘。展示物の選択、解説文の作成、解説・写真パネルのレイアウト、展示作業、などなど。苦労しながら無事、展示を完成させることができました。
 平成23年度の博物館実習生制作展の展示期間は9月10日(土)から10月16日(日)までです。(地質担当:河尻清和)

陣馬山麓の黄鉄鉱(おうてっこう)

 相模原地質研究会のメンバーとともに相模原市緑区佐野川地域を調査中に、黒っぽい表面に金色に光る粒がばら撒かれたような岩石を見つけました。 この金色の粒は、もちろん『金』ではなく、黄鉄鉱と呼ばれる鉱物です。黒っぽい岩石は千枚岩(せんまいがん)です。この千枚岩は、泥が固まってできた泥岩(でいがん)が、さらに圧力を受けて薄くはがれやすくなった岩石です。千枚岩は陣馬山周辺でよく見られます。
 黄鉄鉱は、泥に含まれていたわけではなく、泥岩が変成作用(もともとあった岩石が熱や圧力によって、さらに別の岩石が作られる作用)を受けて、岩に含まれていた成分が結晶化してできたものです。
 黄鉄鉱は薄い金色というか、真鍮(しんちゅう)色をした、立方体や5角12面体をした鉱物です。鉄(Fe)と硫黄(S)の化合物で、化学組成で表すとFeS2です。本物の金より色が薄く、きちんとした結晶の形になりやすいので、簡単に金と区別できます。陣馬山麓の黄鉄鉱は大きくても直径1 mmくらいで、非常に小さなものですが、きれいな立方体をしています。(地質担当:河尻清和)

※岩石や鉱物などについてちょっと知りたくなった方は、次のような本をお薦めします。図書館で探してみては。
 『ニューワイド学研の図鑑 鉱物・岩石・化石』松原聰・猪郷久義・小畠郁夫 監修 学研 ・・・子ども向け
 『かながわの自然図鑑1 岩石・鉱物・地層』神奈川県立生命の星・地球博物館 編 有隣堂
 『楽しい鉱物図鑑』 堀秀道 著 草思社
 『楽しい鉱物図鑑2』 堀秀道 著 草思社

黄鉄鉱を含む千枚岩の標本
Canon IXY DIGITAL 900 IS (4.6mm, f/2.8, 1/250 sec, ISO0)
黄鉄鉱を含む千枚岩の標本
 千枚岩中の黄鉄鉱 金色、立方体の結晶が黄鉄鉱
Canon IXY DIGITAL 900 IS (14.694mm, f/5.6, 1/5 sec, ISO0)
千枚岩中の黄鉄鉱
金色、立方体の結晶が黄鉄鉱
黄鉄鉱の結晶 大きさは約1mm
Canon IXY DIGITAL 900 IS (17.3mm, f/5.8, 1/80 sec, ISO0)
黄鉄鉱の結晶
大きさは約1mm

地質の窓(平成22年度)

地層の標本を作製(平成23年3月)

 2011年3月11日に相模原市緑区根小屋の津久井城跡荒久地区遺跡群で、相模原地質研究会のメンバーおよび相模原青陵高校の小尾先生と一緒に地層の剥ぎ取り標本を作製しました。作業中に東北地方太平洋沖地震が発生し大きく揺れましたが、幸い被害はなく、無事作業を終えることができました。

 岩石・鉱物・化石は採集したものを標本として博物館に所蔵・展示することができますが、やわらかい地層はそのまま採集するわけにはいきません。そこで、地層の表面に硬化剤や接着剤を塗り、固まった部分だけを剥ぎ取って標本にします。これで、たとえごく一部分とはいえ、地層の実物を博物館で収蔵・展示することが可能になります。博物館の常設展示室「台地の生いたち」コーナーに展示してある地層も剥ぎ取り標本です。

 今回作成したものは50cm×30cm程度の大きさです。このくらいですと、収蔵するのに場所をとりません。また、運ぶことも可能なので、学校へ教材として貸し出すこともできます。

 剥ぎ取りのできる地層は非常に限られていますが、できるだけ標本を増やしていきたいと思います。(地質担当:河尻清和)

地層の剥ぎ取り作業中 (黒ボクと関東ローム層)
地層の剥ぎ取り作業中
(黒ボクと関東ローム層)
剥ぎ取った地層
剥ぎ取った地層

 

紅葉と、メレンゲと。‐秋の御岳渓谷、地質めぐり‐(平成22年11月)

紅葉しげる御岳渓谷
紅葉しげる御岳渓谷

 11月23日、相模原地質研究会のメンバーと紅葉真っ盛りの青梅市の御岳渓谷に行ってきました。目的はもちろん美しい紅葉、ではなく、多摩川沿いの地質調査です。当日は朝方まで残っていた雨も、調査を開始するまでにはすっかり上がり、秋晴れの好天に恵まれました。まさに、紅葉狩り日和、いやいや、調査日和でした。

 御岳渓谷の地質はメランジュ、もしくは混在岩と呼ばれるものです。メランジュというのは細粒に粉砕された基質の中に大小さまざまな大きさの岩塊が含まれているものです。メランジュはフランス語で「混合」を意味し、お菓子のメレンゲと同じ語源を持つものです。

 御岳渓谷ではぺらぺらと割れやすくなった黒色の泥岩の中に、砂岩・チャート・石灰岩・凝灰岩などの岩塊が含まれているのが観察できました。御岳渓谷のメランジュは、プレート運動によりものすごい圧力が地下深部で種々の岩石に加えられることにより、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされ、それが隆起して、現在、地表で見られるようになったものです。(地質担当:河尻清和)

相模原地質研究会調査中
相模原地質研究会調査中
 御岳渓谷で見られるメランジュ
御岳渓谷で見られるメランジュ

 

戦前の鉱物・岩石標本(平成22年10月)

  2008年3月、株式会社ニコン 相模原製作所より、鉱物岩石標本が寄贈されました。これらの標本は、株式会社ニコンが、自社製品のレンズ用ガラスの品質向上のための研究目的で購入・採集したということです。標本ラベルに「甲斐國」、「神奈川縣」など旧国名、旧字体で表記されているものも多くあります。また、「満州」、「朝鮮」、「東京府」と、標本ラベルに記載されている資料もあることから、少なくとも戦前に購入・採集したと考えられ、当時の標本の様子を今に伝える貴重な資料です。

 これらの標本の一部を、10月末まで、特別展示室で展示します。この展示は地質分野の博物館実習生が実習の一環で製作したものです。展示するのにあたって、産地を現在の市町村名に直したのですが、かなり苦労しました。また、地名だけからは現在の朝鮮民主主義人民共和国なのか大韓民国なのか、わかりにくい資料もありました。例えば「江原道」という行政区画は、朝鮮民主主義人民共和国にも大韓民国にもあります。そのため、どちらから採集された標本であるのかを突き止めるために、いろいろと資料を調べることになりました。(地質担当:河尻清和)

富士山の玄武岩と標本ラベル
Canon IXY DIGITAL 900 IS (4.6mm, f/7.1, 1/200 sec, ISO0)
富士山の玄武岩と標本ラベル CanoScan LiDE 90 (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
富士山の玄武岩と標本ラベル
朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル
Canon IXY DIGITAL 900 IS (4.6mm, f/7.1, 1/200 sec, ISO0)
朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル CanoScan LiDE 90 (0mm, f/0, 0 sec, ISO0)
朝鮮民主主義人民共和国の方ソーダ石閃長岩と標本ラベル

 

結晶作りに挑戦!(平成22年7月)

 水晶、ダイヤモンド、エメラルド・・・、美しい宝石の多くは鉱物であり、地球がつくったものです。美しい鉱物をつくることはできないのでしょうか?まったくできないわけではありませんが、大がかりな装置が必要になり、簡単にはできません。

 宝石になるような鉱物はできないけれど、きれいな結晶を作ることは可能です。そこで、相模原市立博物館では毎年、小学校4年生から中学生を対象にした子ども鉱物教室を開催し、参加者に結晶作りを体験してもらっています。この教室は毎年多くの方にお申し込みいただいており、毎回、抽選になります。今年は7月30日と8月6日に行われました。

 子ども鉱物教室ではミョウバンの結晶を作ります。ミョウバンは漬物を漬けるときに、色を良くするために使われています。うまく作ると10cmくらいの結晶もできるそうですが、鉱物教室では1cmくらいのものをつくります。今年は博物館のスタッフが大きな結晶作りに挑戦しました。5cmくらいの結晶ができましたが、透明ではなく、形もそれほど良くありません。もっといい結晶を作ろうと、現在挑戦中です。うまくきれいな結晶ができたら、また報告したいと思います。(地質担当:河尻清和)

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番外編(平成23年度)

全天周映画「はやぶさ」の観覧者が、もうすぐ5万人(平成23年12月)

 当館で上映している全天周映画「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」の観覧者がもうすぐ5万人になろうとしています。

 上坂浩光さん監督のこの映画は2009年に公開され、小惑星探査機「はやぶさ」が地球に戻った後には「帰還バージョン」が制作・公開されました。当館では2010年1月から「2009年バージョン」の上映を開始し、2011年1月からは「帰還バージョン」を上映してきました。

 全編CGで制作されたこの映画は、出演者が「はやぶさ」ただひとりで、あとは篠田三郎さんのナレーションと効果的な音楽と素敵な主題歌というシンプルなものでありながら、優れた科学映画であり、また、多くの人に感動を与える映画でもあります。

 映画として優れた作品であることは、「第52回科学技術映像祭」科学教養部門での文部科学大臣賞受賞や「映文連アワード2011」での最優秀作品賞受賞などを見ても明らかです。

 ところで、この映画で涙腺の緩んでしまう人が少なからずいます。それは見る人が、擬人化された「はやぶさ」とともに宇宙を旅し、苦難を乗り越える体験を共有するためなのでしょう。そして、その物語の背景には暗く広い宇宙があり、その宇宙を行く小さな探査機の例えようもない孤独があるように感じられます。そこでは、人は寄り添ことを選ぶしかないのでしょう。

 この映画が描いた「はやぶさ」のプロジェクトは、そんな途方もなく広い宇宙の中にぽつんと存在する小さな小さな星に探査機が行き、なおかつ地球に帰ってくることを目指したもので、私などには気の遠くなるような計画です。しかし、このプロジェクトにかかわった人々は、永年にわたり叡智を結集し、多くの技術を積み上げ、創造し、そして決してあきらめない心で実現してしまったのです。

 さて、当館のスタッフは、この全天周映画を見終わって泣いている子どもを何人も見ています。ある子どもは「はやぶさが燃えてしまってかわいそう」と泣いていました。それを見て、傍らのお父さんが「泣かないでいいんだよ。“はやぶさ”は大事な仕事をちゃんとやり遂げたんだから」と言い、お母さんが「今度はJAXAに燃えない“はやぶさ”を作ってもらおうね」と話しかけている、そんな光景も見ています。

 「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」の当館の観覧者累計が5万人になろうとする今、この作品と、そして「はやぶさ」のプロジェクトそのものが、どれほど大きな影響を、とりわけ子どもたちに与えたことだろうと、あらためて思っています。(館長)

 

入館者200万人達成しました!(平成23年8月)

 おかげさまで、8月28日(日)に入館者数200万人を達成しました。

 200万人目の来場者は、相模原市中央区にお住まいの白川睦生くんです。両親と妹さんの4人で訪れてくれました。「自分が200万人目だったことにびっくりした。博物館には何度も来ているが、200万人というたくさんの人が来ていることに驚いた。」と話してくれました。

 エントランスに200万人達成セレモニーのアナウンスが流れると、その場に居合わせた入館者から祝福の拍手が起こりました。白川くんには、加山俊夫相模原市長から花束と記念品(ライト付地球儀/天球儀)が、岡本実教育長から図鑑と「プラネタリウム・全天周映画招待券」が贈られました。

 

 当館は、毎年10万人を超える入館者数がありますが、平成22年6月、小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還したことで、当館で上映された全天周映画「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」が好評を博し、さらに「はやぶさ」が持ち帰ったカプセルの世界初展示などにより入館者数が急増、200万人達成が予想より半年ほど早まりました。

 遠方からのお客様も増えており、これを契機に一層魅力ある博物館になるよう、スタッフ一同、気持ちを新たに取り組んでいきたいと思っています。(企画情報班 金井)

番外編(平成22年度)

文化財防火デーに訓練を実施しました(平成23年1月)

 

 平成23年1月26日(水)文化財防火デーに、防火訓練を実施しました。

消防車3台が来ました
消防車3台が来ました

 常設展示室からの出火を想定した、来館者の避難誘導、収蔵庫からの文化財搬出の訓練です。

高所救助車による救出訓練
高所救助車による救出訓練

 当日は相模原消防署緑が丘分署の協力を得て、3階に取り残された職員の救出訓練も、本番さながらに行われました。

 訓練は整然と、滞りなく終了しましたが、緊急時の手順や避難経路を日ごろから確認しておく事の重要性が改めて認識されました。今後も、今回の反省を活かし、来館者や収蔵品の安全確保に努めていきます。(企画情報班 木村)

 

ボランティアの窓(平成24年度)

横浜市歴史博物館の「感謝デー」に参加しました(平成25年1月)

横浜市歴史博物館
横浜市歴史博物館

 横浜市歴史博物館 本館の民俗調査会Aと、横浜市歴史博物館の民俗関係の市民の会である「民俗に親しむ会」とは定期的に交流会を行っており、これまでの交流会の様子についてはこの「ボランティアの窓」でも記していますが、ここで紹介するのは、1月27日(日)に横浜市立歴史博物館で開催された「感謝デー」です。

 横浜市歴史博物館は横浜市都筑区中川中央にあり、本館と同じ年の平成7年(1995)1月31日に開館した歴史系の博物館です。隣接する場所には、港北ニュータウンの開発事業に伴なって発掘された大塚・歳勝土遺跡(国指定史跡)があり、「横浜に生きた人々の生活の歴史」をテーマに原始から近現代までの横浜の歴史を展示するほか、体験学習なども活発に行われています。そして、毎年、開館記念日に当る1月31日近くの土・日(平成25年は26日と27日)には、さまざまな催しをもとに感謝デーが企画されており、交流の一環として民俗調査会の会員13名と加藤が横浜市歴史博物館を訪問させていただきました。

企画展会場の前で説明する刈田さん
企画展会場の前で説明する刈田さん

 今回の大きな目的の一つは、企画展「千歯こき-こうして横浜へやってきた-」のフロアーレクチャー(展示解説)に参加することです。千歯こきは、穀物の脱穀に使用する農具で、江戸時代から使われてきた歴史を持っており、企画展では特に千歯の流通に注目する一方、その他にも横浜周辺の千歯も含めてさまざまな資料が展示されていました。この企画展を担当されたのがいつも交流会でもお世話になっている横浜市歴史博物館学芸員の刈田 均さんで、刈田さんから展示資料を前にして、実に興味深い多くのお話しを伺うことができました。

 その後は、紙芝居や落語(落語はプロの方による本格的なものです)、各分野の担当学芸員による常設展示の「通史展示ガイド」など、いろいろな催しにそれぞれ参加して楽しい時間を過ごすことができました。また、博物館で活動している団体である「横浜歴博もり上げ隊」による活動紹介のパネル展示やクイズラリーなども拝見することができ、各地の博物館がまさに市民との協働を深めながら、多彩な活動を行っていることを改めて知ることができました。これからもさまざまな機会を通して、他の博物館やそこを拠点として活動する市民の方々と交流をしていきたいと考えています。

入口では時代衣装を着たスタッフにお出迎えいただきました
入口では時代衣装を着たスタッフにお出迎えいただきました
エントランスホールでは紙芝居も行われました
エントランスホールでは紙芝居も行われました
横浜歴博もり上げ隊の皆様
横浜歴博もり上げ隊の皆様
横浜縄文土器づくりの会が作った立派な土器も展示されていました
横浜縄文土器づくりの会が作った立派な土器も展示されていました

 最後となりましたが、すばらしい機会に参加させていただいた横浜市歴史博物館及び「横浜市歴博もりあげ隊」の皆様にお礼申し上げます。本当にありがとうございました(民俗担当 加藤隆志)。

*横浜市歴史博物館のアドレスは、http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/ です。

 

民俗調査会で第2回目の「民俗探訪会」を行いました

民俗調査会会員による説明
民俗調査会会員による説明

 11月14日(水)に民俗調査会Aの活動の一環として第2回目の「民俗探訪会」を行いました。民俗調査会Aは毎月第二水曜日に活動する市民の会で、同様に第四土曜日を活動日とする「民俗調査会B」があってそれぞれ20名以上の方が加わっています。調査会Aは、以前「民俗の窓」でも紹介したように横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」の皆さんと交流会を行うほか、相模原市内に古くからあった集落を歩くフィールドワークの活動を行っており、その成果を生かして一年に2回ほど「民俗探訪会」を実施しています。民俗探訪会は、「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集して、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内するもので、今回は田名地区の四ツ谷・石神社から相模川沿いの田名八幡宮までのコースを約3時間かけて歩きました。

 当日は21名の参加者(会員9名を含めると総勢30名)があり、博物館で作成した資料を基に歩いていき、ポイントごとに加藤や会員が説明をしました。天候が心配されましたが、穏やかで暖かい陽気の中、無事に実施することができました。今後も基本的には5月と11月に探訪会を行う予定です。その都度、広報などで参加者を募集しますので、ご希望の方の応募をお待ちしております。さらに、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時、入会ができますので、詳細につきましては加藤までお問い合わせください(民俗担当 加藤隆志)。

時には写真を見せながらの説明
時には写真を見せながらの説明
狸菩薩の見学
狸菩薩の見学

今回のコース:「四ツ谷」バス停~「水郷田名」バス停・午前9時30分集合、午後12時30分解散

①四ツ谷バス停前集合→②石神社(四ツ谷)→③横浜水道道→④山王神社(半在家)→⑤大杉の池(堀の内)→⑥蚕影社・道祖神(堀の内)→⑦烏山藩制札場跡→⑧旧大山道→⑨高田橋(トイレ)→⑩久兵衛土手跡→⑪火の坂(狸菩薩)→⑫白子園稲荷・大鷲神社→⑬田名八幡宮・じんじ石ばんば石(久所<水郷田名>)→⑭「水郷田名」バス停前解散

*民俗調査会Aの平成24年度に実施した横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」との交流会の様子については、1回目はこちら、2回目はこちらをご覧下さい。平成24年3月に実施した民俗探訪会(新磯地区)の様子についてはこちらをご覧下さい。

 

横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」と第二回目の交流会(フィールドワーク)を行いました

解説をする横浜の会員(鶴見神社)
解説をする横浜の会員(鶴見神社)

 本館の「民俗調査会A」に参加されている市民と横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」の市民の皆さんが交流を図っていることは、これまでにも「ボランティアの窓」に紹介していますが、10月13日(土)に第二回目の交流会を行いました。これは5月27日(日)の相模原市中央区田名地区の合同フィールドワークに引き続いて実施したもので、今回は、相模原側から17名(そのほかに加藤が加わりました)、横浜からは9名(別に学芸員2名)が参加し、ようやく少し涼しくなった風のもと、第一回目とは反対に横浜の「民俗に親しむ会」の方々に案内していただきながら鶴見周辺を歩きました。

当日は、午前9時30分にJR鶴見駅に集合し、まず旧東海道を、冨士塚などが残る鶴見神社(旧の名称は杉山神社)や一里塚を見学しながら進みました。さらに、薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件にちなむ碑や、魚屋が列を成して並ぶ生麦の通り、「蛇も蚊も」の名称で有名な6月第一日曜日の祭礼の舞台となる神明社及び道念稲荷社、鶴見川の旧河口などを経て、今でもレトロ感あふれる国道駅から鶴見線に乗り込みました。

旧東海道の市場一里塚跡
旧東海道の市場一里塚跡
生麦地区が漁村であったことを伝える水神社
生麦地区が漁村であったことを伝える水神社
鶴見川の旧河口(杭のあるあたり)
鶴見川の旧河口(杭のあるあたり)

 この国道駅では太平洋戦争中に受けた米軍の機銃掃射による弾痕が見られ、今も残る戦争の爪あとが印象的でした。最後に鶴見線終点の海芝浦駅の海浜公園から、現在の鶴見川河口が東京湾に至る遠景を楽しんだ後、出発点の鶴見駅に戻って解散となりました。

国道駅
国道駅
機銃掃射の弾痕(国道駅壁面)
機銃掃射の弾痕(国道駅壁面)
海浜公園から見た東京湾
海浜公園から見た東京湾 

 前回にも紹介したように、横浜市博の「民俗に親しむ会」は足掛け3年をかけて鶴見川をテーマに鶴見川源流からフィールドワークを進めてきた経緯があり、配られた資料も充実しているとともに、ポイントごとの説明も実に的確なものでした。特に鶴見川の埋め立てに伴う河口の変遷や臨海部の開発、低地としての鶴見地区の状況など、実際に会員の方々が自らの足で歩いてまとめた成果は、海がなく、台地上に位置する相模原側の者にとってあまり関わる機会もなかったため、大変興味深いものでした。その意味で今回のフィールドワークは、主に相模原で活動している民俗調査会の会員や私にとっても、自らが生活している地域を相対的に見直す一つのきっかけとなったと思います。また、昼食の際には鶴見名物の「よねまんじゅう」をいただいたり、お互いの市民が親しく話しながら歩いたり、さらに交流を深めた機会となりました。改めて横浜市博物館の「民俗に親しむ会」の皆様にお礼を申し上げます。楽しく、そして行き届いた御案内をいただき、本当にありがとうございました。

今後とも、せっかくできた横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」と相模原市立博物館の「民俗調査会」との交流を息長く継続していく予定です。その中で、例えば、今年度の横浜から相模原へ、あるいは相模原から横浜へ出かけて合同のフィールドワークを行った活動について、それぞれの館が発行している研究報告で報告するなど、少しでも交流の成果を積み上げていければと考えています(民俗担当 加藤隆志) 。

 

横浜市歴史博物館「民俗に親しむ会」と交流会(フィールドワーク)を行いました

 これまで「ボランティアの窓」の欄でも、多くの市民の皆様が博物館を舞台にさまざまな活動をしていることを紹介してきましたが、こうした博物館での市民の活動はもちろん当館だけではなく、各地の多くの博物館でも積極的に行われています。今回紹介する横浜市歴史博物館の「民俗に親しむ会」もそうした組織の一つです。

 横浜市歴史博物館は当館と同じ平成7年に開館した博物館で、横浜市都筑区の港北ニュータウンの一角にあるその名の通り歴史系の博物館です。「横浜に生きた人々の生活の歴史」を時代ごとに展示する一方、約2000年前の弥生時代中期のむらと墓地が完全な形で発見されたことで著名な大塚・歳勝土遺跡に隣接し、随時、遺跡の解説ボランティアなども行われています。

 横浜の「民俗に親しむ会」は平成21年度に結成され、鶴見川をテーマに鶴見川源流の町田市上小山田から下流に向けてフィールドワークを実施し、23年2月には鶴見区生麦の旧鶴見川河口に到着しており、現在、そのまとめの作業中とのことです。この会の結成に当たっては、私(加藤)もいささか関わりを持っていることもあり、昨年11月に当館で実施した「学びの収穫祭」には「民俗に親しむ会」の皆様も参加され、当館のボランティアの活動についての発表を聞いていただきました。また、「学びの収穫祭」には横浜市歴史博物館のほか、平塚市博物館とパルテノン多摩で活動されている平塚市民及び多摩市民の皆様も参加され、当館を含めた四館の民俗関係の会で活躍されている市民同士がそれぞれの会の状況や特色、課題などを話し合う交流会も開催しました。

 そして、5月27日(日)には横浜から「民俗に親しむ会」の皆様を相模原にお招きし、当館の「民俗調査会A」の会員と合同のフィールドワークを行いました。当日参加されたのは横浜から8名(ほかに学芸員2名)と相模原の15名(別に加藤も加わりました)の総勢26名で、場所は田名地区として四ツ谷集落の石神社から水郷田名方面に歩いていきました。途中、現在でも横浜に水を送っている横浜水道の水道道では横浜と相模原のつながりを改めて確認し、鶴見川とはまた違った相模川の大河の風景は横浜の皆様にも大きな印象を残したようです。全体のコースの設定や当日のポイントでの説明は加藤が主に当たりましたが、相模原の調査会の会員も得意なところでは解説を行い、また、地元の銘菓を振舞ったり、自家製のお菓子を用意した会員もいました。こうして相模原の神社や寺院・石仏などをフィールドワークして、相模原と横浜の違いなどいろいろなことをそれぞれ感じながら、さらに新緑のさわやかな風の吹く中、いろいろなことについて話し合うなど、相互の交流を深める絶好の機会となりました。

 現在、各地の博物館で活発な市民活動が見られ、博物館と市民との協働は特段珍しいことではなく当たり前のこととなりました。これからも各館で行われているさまざまな活動をお互いに認識し、良いところは参考にするなど高め合うことが必要であり、加えて、そうした多彩な活動が多くの博物館で見られることを広く社会にアピールしていくことも重要です。横浜の「民俗に親しむ会」との交流は、次回は10月に相模原の会員が横浜を訪れ、今度は横浜市の皆様に御案内いただくことになっています。このような活動を今後とも他の館も含めて企画していき、さらにより良い展開が図れることを願っています(民俗担当 加藤隆志)。

有名な田名・堀の内にある陽石道祖神を熱心に見る横浜の会員
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/100 sec, ISO100)
有名な田名・堀の内にある陽石道祖神を熱心に見る横浜の会員
相模原の会員が説明 (山王坂の徳本上人念仏塔)
CYBERSHOT (8mm, f/2.8, 1/200 sec, ISO100)
相模原の会員が説明
(山王坂の徳本上人念仏塔)
相模原の会員が説明 (「鮎の水郷田名」碑)
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/400 sec, ISO100)
相模原の会員が説明
(「鮎の水郷田名」碑)
最後に記念撮影
CYBERSHOT (8mm, f/5.6, 1/640 sec, ISO100)
最後に記念撮影