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ボランティアの窓(平成27年度)

今年も「学びの収穫祭」を行いました(平成27年11月)

 市民とともに歩む博物館の姿勢を体現するイベント、それが「学びの収穫祭」です。毎年博物館の開館記念日である11月20日に近い週末の二日間、博物館を拠点に活動するボランティアグループや、学芸員が活動に関わる学校の部活動や大学の学生研究などさまざまな市民が研究や活動の発表を行います。今年は11月21日(土)と22日(日)の二日間にわたって実施しました。

 このように書くとちょっとお堅い感じがしますが、けっしてそんなことはありません。分野が異なっても、さまざまな切り口から郷土のことや興味のあることを探求する楽しさ、充実感はお互いに伝わるものです。発表者どうしが心から楽しんでディスカッションし、情報交換の場としてこの収穫祭を活用しています。

 発表には、口頭発表と展示発表の2形態があります。口頭発表は、一度にたくさんの方へ説明することができますし、たくさんの図や写真を順序立ててお見せすることができます。そのため、新たな発見を伴うものや、一般にあまりなじみの無いテーマについて紹介を含めて発表したり、活動のようすを報告したりするのに向いています。

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口頭発表会のようす(11月21日)

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展示発表のようす(11月21日)

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発表の前でのディスカッション(11月21日)

 それに対して展示発表は、発表者とそれを聞く人が対面しながらディスカッションを進めることができます。調査研究の途上の中間発表であったり、ちょっと込み入った説明を要するような発表に適しています。展示発表では、実物展示も含めることができます。今回の発表でも、和服などの実物や剥製資料も並びました。

 今年の「学びの収穫祭」には22のグループや学校が参加しました。特に、博物館のご近所さんである県立弥栄高等学校サイエンス部のみなさんをはじめ、学校の部活動からの参加はこの収穫祭の最大の特色と言えるでしょう。文化系の部活動、特にフィールドワークを伴うような活動がしにくくなっている状況があり、博物館としてはそうした活動を盛り上げていきたいと考えています。校外での発表の場、他校との交流の場を一つでも増やすことをこの収穫祭の目的と位置づけています。

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発表者のための情報交換会(11月21日)

 その試みの一環として、学校の発表を集中させている1日目の11月21日の口頭発表会終了後、情報交換会を開きました。この会には一つのルールがあります。それは、「同じ所属の人どうしが隣り合わせにならないこと」です。こうして専門のこと、学校のこと、進路のことなど話し合う中でほんとうの交流の芽が育ちます。

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発表者で記念撮影(11月21日)

学びの収穫祭という2日間のイベントは、いまやボランティアグループのみなさんにとっても活動の大きな節目となっています。成果の発表の場だけでなく、世代や所属を超えて市民が交流する場として機能するイベントとしてこれからも大きく育てていきたいと考えています。

(生物担当学芸員 秋山幸也)

平成27年度 学びの収穫祭 発表団体

【学校関係】

あざおね社中

麻布大学野生動物学研究室

海老名市立海老名中学校科学部

桜美林大学植物分類研究室

神奈川県立相模原青陵高等学校地球惑星科学部

神奈川県立弥栄高等学校サイエンス部

光明学園相模原高等学校理科研究部

横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校

【一般団体】

相模原市自然環境観察員

相模原市立相模台公民館文化部+「まち歩きマップ」制作委員会

相武台のナベトロ遺跡をたどる会

町田ムササビ保全研究グループ

【博物館のボランティアグループ】

相模原縄文研究会

相模原植物調査会

相模原市立博物館天文クラブ

相模原地質研究会

相模原動物標本クラブ

市民学芸員

水曜会

福の会

民俗調査会A

民俗調査会B

常設展示三テーマ「くらしの姿」の一部展示替えを市民の方々と行いました(平成27年11月)

 博物館は平成7年11月に開館し、今年で20周年を迎えました。この間、延べ255万人以上の入館者の皆様をお迎えし(今年10月末までの数値です)、多くの活動を行ってきました。博物館の活動にはさまざまなものがありますが、その中でも展示はもっともイメージしやすいものと言えます。展示には期間を区切って行う企画展や特別展と、通常は変更がない(もちろん部分的には変わっていることも多いのですが)常設展示があり、当館の場合は、天文の常設展示室と自然・人文系の資料が展示されている自然・歴史展示室とに分かれています。

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№1展示作業も市民の手によって行われた。鍬の固定具を外すのは大変だった

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№2パネルの取り付けももちろん大切な作業である

 自然・歴史展示室は「台地の生いたち」「郷土の歴史」「くらしの姿」「人の自然のかかわり」「地域の変貌」の五つのテーマに分かれており、それぞれ関連する資料や解説等によって構成されています。このうち、三テーマ「くらしの姿」では、かつての生業の中心であった畑作や養蚕で用いられていた農具を手がかりとして、地域の生活のあり方を考える内容になっています。その中ではヘラグワと呼ばれる古くから使われていた鍬や、麦や豆等を叩いて脱穀するクルリボウについて、市内や周辺地域で形態や特徴が異なることに注目し、多くの実物資料を展示することで具体的にその違いを示していました。そして、このような内容としたために、例えば町田や大和など、周辺地域で特徴的な資料について館蔵のものがなく、いくつかの博物館や資料館等から資料をお借りして展示をしてきました。

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№3物置内部には、今回は肥料作りの資料を展示した

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№4地域による鍬(ヘラグワ)の形態差を示す旧展示。多くの鍬が並んでいた

 今回、「くらしの姿」の一部展示替えを行ったのは、長期に渡って借用してきたこうした資料をお返しすることがきっかけで、ただ返却して無くなったところにまた別の資料を差し替えるだけではなく、展示全体を見直して少し新しい内容を加えることにしました。展示の検討に当たっては、館とともにさまざまな活動を実施していただいている市民学芸員の有志の皆様と一年ほどかけて作業を行い、もちろん例えば展示室の構造など、いくつかの大きな制約がある中でしたが一応の完成をみることができました。

 変更内容の概略は次のとおりです。

(1)移築した物置内部も展示スペースとして活用する。

(2)多くの鍬やクルリボウを展示していた部分を縮小して畑作に用いる別の農具も展示し、併せてそれらの農具の使用している状況の写真を加える。

(3)養蚕に製糸の道具を加え、さらに養蚕の信仰に係わる資料なども扱う。養蚕の工程と道具の使用写真も展示する。

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№5新展示では、千歯や唐箕などの脱穀・調製の道具なども展示した

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№6養蚕のマブシなどが展示されていた旧展示

 展示内容の検討では、従来の展示全体や三テーマの構成はどうなっているのか、新しい展示として残す部分と変えるところをどうするのか、その展示の狙いは何か、具体的な展示資料の選定など、いろいろな面から市民とともに検討を積み上げていき、市民目線からの展示という面を重視しながら進めていきました。是非、来館の折りには新しい展示をご覧いただければと思います。

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№7No.6と同じところには、養蚕に伴う信仰の資料などを展示している

 常設展示の見直しについては、解説文をより分かり易くする、所々にクイズを設置して展示をさらに親しみ易くするなど、三テーマの展示替え以外についても市民学芸員有志の方々を中心に進められています。こうした点についても逐次紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

  ※三テーマの詳しい展示替えの状況や具体的な変更点・内容等については、今年度刊行の『研究報告』で報告する予定です。

 恒例の「民俗探訪会」を磯部地区で実施しました(平成27年11月)

 恒例の第8回目の「民俗探訪会」を11月11日(水)に実施しました。「民俗探訪会」は、当館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月の第二水曜日(民俗調査会Aの定例の活動日)に行っているもので、今回は南区磯部地区を歩きました。民俗調査会では、以前に「相模原散策マップ」を作成して博物館のホームページにも掲載していますが、第1回目の民俗探訪会ではその南部ルートを歩き、今回はまだ活用していなかった北部ルートを資料にしました。なお、「相模原散策マップ」は、博物館ホームページの、リンク→発見のこみち→相模原散策マップ に掲載されています。

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当日は、相模川越しに大山がきれいに見えた

  いつものように「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ20名の方からの応募があり、当日は民俗調査会の会員を含め総勢26名で約3時間のコースを歩きました。また、「相模原散策マップ」では当然ルートを設定していますが、今回は3時間程度で終了するという点と、地元で有名になっている「ざる菊」の花がきれいに咲き誇っている時期でもあり、このざる菊の会場も訪れることとしたため、ルート順を変更して実施しました。今回の主なコースは以下の通りです。

下溝駅・9時30分集合→大盛橋(石仏・道保川緑地)→磯部八幡宮→もんや稲荷(大山道・大山道標)→磯部頭首工(相模川左岸用水)→庚申塔群→旧中村家住宅→勝源寺→ 磯部ざる菊会場→史跡勝坂遺跡公園(有鹿神社)→下溝駅・午後12時30分解散

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国登録有形文化財の中村家住宅。全国的にも珍しいとされる幕末期の和洋折衷住宅に興味津々

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きれいに咲き誇ったざる菊。こうした季節のイベントを訪れるのも楽しみの一つ

 今回も担当学芸員である加藤がポイントごとに説明するとともに、調査会会員はコースの誘導や車への注意の呼びかけなどを行い、さまざまな点に配慮しながら進めていました。

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勝坂遺跡段丘下の有鹿神社の湧水。今でも海老名の有鹿神社の神職や氏子が4月に訪れてここから水を汲む

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少々足場は悪いが、有鹿神社の湧水は今回の大きな見所の一つ

 民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、普通は気がつきにくいものの地域にとっては重要で、博物館や地元の人が案内するから分かること」を重視しています。今回も、例えば国史跡の勝坂遺跡に行くものの、主な見学地としては遺跡の段丘下の有鹿神社と湧水というように、民俗探訪会らしい視点で実施しており、実際にそうした内容が好評で今後ともこの視点を大事にしていきたいと考えています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。

 *これまでの民俗探訪会については、いずれも「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

恒例の「民俗探訪会」を上鶴間地区で実施しました(平成27年5月)

 今年で四年目を迎える第7回目の「民俗探訪会」を5月13日(水)に実施しました。「民俗探訪会」は、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月の第二水曜日(民俗調査会Aの定例の活動日)に行っているもので、今回は南区上鶴間地区を歩きました。上鶴間地区は市内でも双体道祖神(一石に二神が並んで立っているもの)が多く分布するなど、特徴ある石仏が見られる地域で、今回の民俗探訪会でも~上鶴間地区の石仏を見る~として、石仏を中心にそのほかの神社等も加えながら歩いていきました。

 いつものように「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、47名の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は33名の参加者と会員7名で、相模大野駅から約3時間のコースを歩きました。前日には台風から変わった温帯低気圧が関東を通過するなど、天候が心配されましたが当日は雨どころか快晴で、むしろ熱さの方が大変な中を歩いていきました。今回のコースは次の通りです。

相模大野駅・9時30分集合→①蚕守稲荷神社→②山王神社→③双体道祖神(二基)→④地蔵坂の地蔵→⑤金山神社→⑥惣吉稲荷→⑦長嶋神社→⑧旧鶴金橋・境川の旧河道→上鶴間高校入口バス停・12時45分頃解散

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調査会の会員も時には手持ちの資料を元に説明した

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地域の中にはさまざまな石仏が残されている

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三猿が彫られた台座の上に乗る丸彫りの地蔵。首がないのが残念だが、注目される庚申塔の例として、武田久吉著『路傍の石仏』の中で紹介されている。

 今回も担当学芸員である加藤がポイントごとに説明するとともに、特に地元在住で文化財保護課の文化財普及員も務めている調査会の会員も各所でさまざまなお話しをしました。また、全体で40名以上が歩くために、調査会会員はコースの誘導や車への注意を呼びかけるなど、安全で楽しめる探訪会になるように充分配慮しながら進めていました。

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境川は河川改修によって真っ直ぐな流れに変わっているが、所々にかつてその流れが曲がりくねっていたことを示す旧河道が残っている。

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境川の旧河道に架かる古い方の鶴金橋。昭和8年(1933)竣工で、竣工年が分かる境川の現存する橋の中でもっとも古いものという。

民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、普通は気がつきにくいものの地域にとっては重要で、博物館や地元の人が案内するから分かること」を重視しながら実施しています。今回も、普段、散歩などでよく歩いている所だが説明されたことは全く知らなかった、ここに神社があるのはわかっていたが行ったことがなかったので案内してもらって良かったなどの声をいただきました。民俗探訪会ではこうした内容がいつも好評で、今後ともこの視点を大事にして実施していきたいと考えています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。

 *これまでの民俗探訪会については、いずれも「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

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生きものの窓(平成27年度)

今年の紅は控えめ?(平成27年12月)

 今年の紅葉はパッとしないと、あちこちで言われています。博物館駐車場のイロハモミジも、写真のようにしっかり色づかないまま枝に残るか、早めに落葉しているものが多いようです。

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鈍く紅葉するイロハモミジ

  紅葉は、光合成と密接な関係にある現象です。紅葉の主役である葉は、光合成の工場と表現できます。実際にその仕事をしている機械が、光合成色素です。この機械は、太陽光を動力エネルギーとして、水と二酸化炭素を原料に糖分(ブドウ糖)を生産します。そして、その副産物は酸素です。この機械は、気温が低いと稼働効率が下がるという特徴があります。

 気温が下がって光合成の効率が悪くなり、エネルギーである太陽光が供給される時間も短くなってくると、工場の採算が合わなくなります。まして、機械もしだいに老朽化します。そうなると、工場を経営している木としては工場閉鎖の判断をします。ただ、使っていた機械をそのまま廃棄してしまうのはもったいないため、分解して来年の春の新工場開設の準備などに使えるよう、閉鎖前に葉から新芽や貯蔵倉庫である根へと移動しておきます。工場のイメージカラーでもあった光合成色素の緑色がここでなくなります。

 さらに光合成によって生成されたブドウ糖も、ほとんどは新しい枝葉を伸ばすための原料として使われるため、葉から移動済みなのですが、どうしても工場のあちこちに残ります。これはそのままにしておくと、赤い色素に変化する性質があります。以上が、紅葉のしくみです。

 紅葉が美しくなる条件は、朝晩冷え込んで、しかも日中はお天気が良いことです。ここから先は想像です。晩秋にお天気がよく日中は気温が上がるのに、朝晩冷え込むと、木が工場閉鎖のタイミングを計りかねるのではないでしょうか。日中は晴天の勢いで機械をフルに回転させているまま朝晩の冷え込みがいよいよ厳しくなると、木が強制的に工場を閉鎖にかかります。そうなると、余剰生産物が工場に残されたまま物質の流れが止まり、たくさんの糖分が工場(葉)で赤い色素に変化する。そんなストーリーが考えられます。

 紅葉の色づきがいまひとつと言われる今年の秋は、確かに冷え込みが緩く日照時間が短かったようなので、木が工場の老朽化に任せるまま順当に閉鎖準備を進めて、余剰生産物もあまり出さなかったのかもしれません。ちなみに、事業所を閉鎖することを「シャッターを下ろす」と表現することがありますが、光合成工場の閉鎖、つまり落葉するときは、なんと葉の付け根に「離層」というシャッターのようなものが形成されてぽろりと葉を落とします。

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美しかった去年の紅葉(平成26年11月30日 中央区高根)

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同じ場所の今年のようす(平成27年12月5日 中央区高根)

 さて、紅葉がいまひとつ、なんて言われている年でも、落胆することはありません。地面の上を見ればしっかり紅葉した葉を見ることができます。地面に落ちてから色づく葉もありますし、遠目に見て枝についた葉の紅葉はあまり見栄えがしなくても、落葉の色合いのすばらしさに目を奪われることがあります。さまざまな色のグラデーションや、枝上では感じなかった渋い赤茶色の魅力など、見どころはたくさんあります。

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絶妙なグラデーションのサクラの落ち葉

2712イロハモミジ地面

目が覚めるようなイロハモミジの落ち葉

 ちょっと不思議なのは、落ち葉の紅葉の風景がとてもすばらしいと思って、その葉を拾って机の上に広げたりしても、美しさがぜんぜん再現できないことです。地面に落ちたままランダムに広がった偶然の妙が美しさを際立たせているのかもしれません。

(生物担当学芸員 秋山幸也)

丹沢檜洞丸調査行(平成27年8月)

 平成27年7月下旬、県の丹沢大山自然再生委員会の現地調査会に参加して、丹沢山地の檜洞丸(1601m)へ登ってきました。この委員会は、1980年代から顕著になってきた丹沢の自然環境の荒廃と衰退を食い止めようと行われている丹沢大山自然環境総合調査(平成5~9年、平成16年~18年)をもとに策定された「丹沢大山自然再生基本構想」に基づき平成18年に設置されました。

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調査部会部員と登山道を行く

 メンバーは大学など研究機関の研究者、NPO、行政、マスコミ、民間企業など、そして県民によって構成されています。私はその委員会の中の調査部会に入っているのですが、さまざまな専門や立場のみなさんとの登山はほんとうに勉強になります。真夏の厳しいコンディションでの登山でしたが、流した汗に見合う有意義な調査行となりました。

 ルートは県立西丹沢自然教室から東沢へ入ってツツジ新道へとりかかり、丹沢主稜の尾根に出て檜洞丸山頂を目指すシンプルなものです。しかし、私自身はこれまで相模原市域のいわゆる裏丹沢を中心に歩いてきたため、表丹沢にあたるツツジ新道は初めて登りました。西丹沢はヤマビルが非常に少なく、この小さな吸血鬼の心配をせずに丹沢を登るのはひさしぶりのことです。

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枯死した林床のスズタケ群落

 尾根に近づきブナが目立ってきた頃、ふと林床を見るとなにか物足りません。丹沢のブナ林は林床をスズダケやミヤマクマザサが覆うというのが本来の姿です。しかし、昨年あたりからスズダケの一斉開花が見られています。ササであるスズダケは、一生に一度だけ開花し、その後すぐに枯れます。さらに、スズダケの群落は一帯が地下茎でつながっているので、実質的に目に見える範囲くらいの株がじつは1個体です。数十年に一度と言われる一斉開花の後に枯死している、今がちょうどそのタイミングというわけです。

 もちろん、丹沢の長い歴史の中でそんなことは幾度となく起きてきました。しかし、シカによる食害をはじめ、さまざまな理由から丹沢の植生は衰退の途上にあります。そのほかの複合的なダメージ要因がこの枯死に対してどの程度影響があるのか、丹沢再生委員会でも注視していかなくてはなりません。そんなことも、この現地調査会の大きな目的です。

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 立ちがれた稜線上のブナ

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ブナハバチに食べられたブナの葉

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林内に咲いていたタマガワホトトギス

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ウスユキソウ

 さらに進んで標高1500mに近づくと、ブナの立ち枯れが目立ちます。これも要因は複合的と言われていますが、直接的に影響を及ぼしているものの一つがブナハバチの幼虫による食害です。これまで、7~10年くらいの間隔で大発生してブナの葉を食べつくしていたブナハバチですが、ここ最近は3年ごとの大発生が見られているそうです。そうなると、ブナも樹勢を保つのが難しくなり、気象条件や大気環境などの追い打ちを受けて枯死してしまう株もあるようです。

 神奈川県も手をこまねいて見ているだけではありません。ブナハバチに効果の高い薬剤注入によって被害を食い止められるという研究成果も上がっているようで、コストや労力との兼ね合いを見極めながら対策を進めています。

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檜洞丸山頂(1601m)

 さまざまな問題を抱える丹沢ですが、それでも山そのもののすばらしさ、潜在的な自然の価値は変わりません。真夏はハイカーがもっと高標高の山岳地帯を目指すためか、ほとんど登山者に会いませんでしたが、そのぶん気持ちよく山歩きができました。相模原市ではまだ、丹沢を自分たちの自然環境の問題と自覚しはじめて日が浅いのですが、この雄大な自然環境を誇りとして、積極的に丹沢の再生に関わっていきたいと思いながら下山しました。(生物担当学芸員 秋山幸也)

生きものの黒と白、そして色についていろいろ(平成27年6月)

生きものの名前には、色にまつわるものがとても多くあります。先日立ち寄った相模川の河原にいると、目の前をせわしなく小鳥が行き来しています。

2706セグロセキレイ

セグロセキレイです。この写真ではあまりわかりませんが、名前の通り背中が黒い。直後、別のセキレイが飛んできました。

2706ハクセキレイ1

こんどはハクセキレイです。 あれ?名前はハク(白)なのに、あんまり白くありません。セグロセキレイとよく似ています。何がハクなのかというと、あえて言えば顔が白いということでしょうか。

ハクセキレイは羽色に個体差の大きい鳥で、別の個体が飛んだところの写真です。

2706ハクセキレイ2

まあ、ハクセキレイという名も納得できる感じもします。 そもそも生きものの名前って人間が便宜的に付けているから、結構適当なのかな・・?

2706アオサギ

アオサギです。ぜんぜん青くない。あえて言えば、青灰色というところでしょうか。ただし、やまと言葉では「あお」は白から黒にかけて広く寒色系の色全体を指すようなので、間違いではありません。むしろ、正確に色を表していると言えるでしょう。 そういえばアオダイショウも青くなくて、むしろ黄緑がかった灰色です。(抵抗のある方が多いと思うので、胴体のウロコだけの写真です)

2706アオダイショウ

これもおかしくありません。古語で青色は黄色味の入った萌葱(もえぎ)色を指す高貴な色名でもあります。 あれ?結構正確に名前が付けられていますね。むしろ色の認識や定義が時代によって変化しているのかもしれません。一般的に、最近つけられた種名の方が色については単純化される傾向があります。日本には古くから自然の色について数えきれないくらいたくさんの微妙な色名があります。機会があれば、こうした古くから知られている生きものの名前と色について見直してみたいと思っています。(生物担当学芸員 秋山幸也)

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地質の窓(平成27年度)

七沢石の石切場跡

厚木市七沢の鐘ヶ嶽周辺には、七沢石と呼ばれる石材の石切場の跡が残っています。七沢石は岩石の種類としては火山礫凝灰岩に分類されます。火山礫凝灰岩は凝灰岩のなかまで、含まれている粒子の大きさが2ミリから6.4センチのものをいいます。含まれている粒子のほとんどのものは火山岩、つまり、溶岩の破片です。鐘ヶ嶽の麓にも、七沢石で造られた石造物が多く見られます。ここではいくつかの石切場の跡の様子を紹介します。

鐘ヶ嶽

鐘ヶ嶽登山道の途中にある石切場跡

登山道の入口の石段を登ると、七沢石でできた鳥居が出迎えてくれます。石段も七沢石でできています。登山道脇には七沢石でできた多くの石造物を見ることができます。七沢石を近くで見ると火山岩の破片が集まってできていることがよくわかります。尾根伝いの登山道の脇に石切場の跡があり、クサビの跡が残っている石も見られます。

七沢石の鳥居

登山道脇で見られる七沢石の石造物

火山岩の破片が集まってできた七沢石

登山道途中の石切場跡

半谷石切場跡

半谷石切場跡は鐘ヶ嶽北東側の中腹の林道沿いにあります。近くには石碑も立っています。クサビの跡が残っている石も見られます。

半谷石切場跡

半谷石切場の石碑

クサビの跡が残る石

大平石切場跡

大平石切場跡は鐘ヶ嶽南麓にあります。ここは正確には石切り場ではなく、石の加工場の跡、もしくは、斜面の上の方にある石切場から切り出した石を運び出すための起点となっていた場所かもしれません。石を切り出せるような崖はありません。クサビの跡が残っている石が見られます。現在の道は、砂防堰堤工事のため川から離れたところを通っていますが、かつてはもっと川に近いところを通っていました。旧道沿いには大平石切場の石碑が立っています。

旧道沿いの大平石切場の石碑

大平石切場跡

クサビの跡が残る石

(地質担当学芸員 河尻)

ミニ企画展「石のステンドグラス~岩石の顕微鏡写真展~」人気投票結果

6月13日(土)~6月28日(日)にミニ企画展「石のステンドグラス~岩石の顕微鏡写真展~」を開催しました。模様や色のきれいな岩石の顕微鏡写真や相模川の川原の石の顕微鏡写真を94枚展示しました。 展示期間中に展示写真の人気投票を実施したところ、多くの方に投票していただきました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

人気投票の結果、10位までに入った写真ついてここで紹介いたします。なお、投票総数は361票でした。

第1位 No.34 カンラン岩 北海道様似町 得票数64

 ポスターやチラシの表紙に使った写真です。予想通りの1位獲得ですが、2位との差は8票。思ったほど差がつきませんでした。

2位以下はどの写真が票を集めるのかまったく予想がつきませんでした。

第2位 No.59 スカルン 岡山県高梁市 得票数56

3位に大差をつけての2位獲得です。

3位以下は大混戦となりました。

第3位 No.20 結晶質石灰岩(大理石)イタリア 得票数25

4位との差は4票。何とか3位に滑り込むことができました。

4位には同票で2つの写真が並びました。

第4位 No.2 エクロジャイト 愛媛県東赤石山 得票数21

第4位 No.32 石灰岩 岐阜県山県市 得票数21

第6位 No.68 含セラドン石火山礫凝灰岩 相模川の川原の石 得票数16

相模川の川原の石でベスト10に入ったのはこの石だけです。

7位と8位は僅差でした。

第7位 No.62 片麻岩中のジルコン 韓国忠青北道 得票数11

同票で2枚の写真が8位となりました。

第8位 No.64 クロリトイド片岩 岐阜県郡上市 得票数10

第8位 No.66 ザクロ石十字石片岩中の十字石 富山県黒部市 得票数10

 10位には同票で3枚の写真が並びました。文象斑岩と藍閃石片岩はもっと上位に来ると予想していましたが、意外な結果となりました。文象斑岩は、模様は面白いのですが白黒、藍閃石片岩は青ないし紫の単色なので、カラフルな岩石と比べると少し地味だったのでしょうか。

第10位 No.4 文象斑岩 岐阜県高山市 得票数7

第10位 No.36 蛇紋岩 岡山県真庭市 得票数7

第10位 No.56 藍閃石片岩 福井県大野市 得票数7

ここでは紹介しませんが、10位以下は1表ずつの差でした。残念ながら1票も入らなかった写真も37枚ありました。

やはり、カラフルな写真が上位に来ました。色がきれいでも単色のものは、あまり票が集まりませんでした。その中で、相模川の川原の石の含セラドン石火山礫凝灰岩は大健闘といえるでしょう。

(地質担当学芸員 河尻)

厚木市七沢の地質2(平成27年度5月)

 前回の地質の窓(平成15年2月)で、厚木市七沢で見られる丹沢山地をつくっている凝灰岩のなかまについて紹介しました。今回はその続きです。

 丹沢山地をつくっている凝灰岩や火山岩のなかまは、まとめて丹沢層群と呼ばれています。丹沢層群の北東側に愛川層群と呼ばれる地層群が分布しています。愛川層群は海底火山噴火によってできた凝灰岩のなかまや陸地から運ばれた砂礫が固まってできた砂岩および礫岩からなる地層群です。丹沢山地周辺部をつくっています。

 七沢から清川村役場のあたりを通り、宮ヶ瀬湖へと谷が続いています。県道64号線が通っている谷です。この谷は、丹沢層群と愛川層群と呼ばれる地層の境界断層です。この断層は青野原-煤ヶ谷線とか牧馬-煤ヶ谷構造線と呼ばれています。

中央の谷のあたりが断層(青野原-煤ヶ谷線)です。

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  七沢付近の凝灰岩のなかまにはタマネギ状風化がたくさん見られます。大小さまざまな大きさの“タマネギ”が見られます。タマネギ状風化は、まず、岩石がサイコロのような立方体やレンガのような直方体に割れるところから始まります。その割れ目から少しずつ雨水がしみ込んで、表面から順に風化していき、タマネギのように“皮”が何枚も重なったような割れ目が入ります。“タマネギ”の中心部分は風化が進んでいない部分です。同じ場所に露出している岩石でも、割れ目の入り方や風化のしやすさの違いなどにより、タマネギ状風化が見られたり、見られなかったりします。

 タマネギ状風化。

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 写真上部にはタマネギ状風化が見られますが下部には見られません。

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 丹沢山地の凝灰岩のなかまの中には、沸石と呼ばれる鉱物が含まれていることがあります。沸石には菱沸石、輝沸石、方沸石、ソーダ沸石など多くの種類があります。多くのものは顕微鏡で見ないと判別できないくらい小さな結晶ですが、七沢付近ではごくまれに肉眼で見ることができる大きさのものが含まれていることがあります。肉眼で見えるといっても2~3mm程度の大きさです。丹沢山地の沸石は、岩石の隙間に鉱物の成分を溶かし込んだ熱水がしみ込んで、それが冷えて結晶ができたものです。

中央の牙のような形をした鉱物は方解石と思われます。大きさ約2 mm。周囲の四角い鉱物は菱沸石です。

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菱沸石。大きさ約3 mm。

地質窓1505写真7

こちらは菱沸石とは異なる別の種類の沸石です。輝沸石かもしれません。大きさ、左の結晶:約3 mm、右の結晶が約2 mmです。

地質窓1505写真8

 (地質担当学芸員 河尻)

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民俗の窓(平成27年度)

相模原の民俗を訪ねて(№89)~緑区根小屋地区・功雲寺の涅槃会と涅槃団子作り~(平成28年2月)

 緑区根小屋地区の功雲寺は、戦国時代の津久井城主・内藤左近将監景定を開基とする曹洞宗の古刹で、境内には内藤氏の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう・市登録有形文化財)が遺されています。今回は、2月14日(日)に行われた当寺の涅槃会(ねはんえ)とその準備の涅槃団子作りについて紹介したいと思います 涅槃会は、2月15日の釈迦が亡くなった日に営まれるもので、寺院では横たわっている釈迦の周りで弟子たちや各種の動物が嘆き悲しんでいるところを描いた涅槃図を掲げて法会が営まれることがあります。ちなみに功雲寺に飾られる涅槃図はかなり大きく立派であり、収納されている箱書きに拠ると天保12年(1841)の作で、さらに表具の柱の部分には、この涅槃図を製作するに際して施主となった多くの者の名前が記してある珍しいものです。そして、この時には丸い団子などを作ることがよくありますが、功雲寺ではそうした丸い団子とともに、動物の形をした形物(かたもの)と呼ばれる涅槃団子も一緒に作っています。

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蒸かした米粉をこねる。今年は別の寺からの応援がたくさん来られたので助かった

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大きくて立派な功雲寺の涅槃図

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施主の名前が書かれているのは珍しい

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婦人部の役員による団子作り。多くの動物が作られる

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出来上がった団子。小さな動物たちがかわいい

 団子作りは涅槃会前日の13日の午前中に行われました。蒸篭(せいろう)で蒸した米粉を、白いままのほかに青(水色)や赤(ピンク)・緑(若草)・黄色など、いろいろな色に染めてよくこねます。作る動物は涅槃図に描かれているものなら良いとのことで、蛇やタヌキ・犬・鳩・ウサギなどが中心です。また、動物によって特に色などが決まっているわけではなく、動物の形のほかに丸い団子も同時に作ります。材料となる米は団子をいただく檀家から供えられたもので、今年は一斗三升の米粉とのことでした。ずいぶん多いように思えるものの、昔に比べるとずいぶん量は減っているそうです。実際に団子を作るのは檀家の婦人部の女性たちで、いろんな話をしながら和やかな雰囲気の中で昼時までには完成し、団子は翌日までそのまま置いて乾燥させます。

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色付きの丸い団子も作られる

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14日の涅槃会の前に各家に配る団子を袋に詰める

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それぞれ袋に詰められた団子

 翌14日は、まず12時に寺に御詠歌を上げる女性の方々が集まり、各檀家に配るために袋に動物と丸い団子を入れていきます。今年は涅槃図にお供えするものなどを除いて全部で87袋分を用意することになっており、数は全体の量を調整しながら詰めていきました。

 特に一袋の中にどの動物をいくつ入れるという決まりはなく、ただ蛇は喜ばれるので蛇だけは必ず入れるようにします。各家に配られた団子は家々によってさまざまで、ある家では一年中仏壇に置いておき、新しいものが来たら昨年の分を下ろして朝の味噌汁に入れて食べ、別の家では蛇だけを仏壇に置いてそのままにしておき、他の団子はすぐに食べてしまうと言います。そして午後2時から始まった涅槃会は住職と副住職の読経や御詠歌があり、15分ほどで終了しました。この後、涅槃図の前に置かれていた団子は各家に配られることになります。

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もちろん団子は涅槃図にも供えられる

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涅槃会は午後2時から始まった

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この家では蛇だけを高杯に乗せて、一年間仏壇に供えておく。

 ここで紹介した動物の涅槃団子作りは近隣の寺院では行われておらず、大変珍しいものです。行事の由来としては、先代の御住職が、曹洞宗大本山の総持寺(火災をきっかけに明治末に現在の横浜市の鶴見に移転)があった石川県鳳至郡門前町の出身で、子どもの時に近くの総持寺祖院に入山しており、この修行時代を思い出して功雲寺で始められたとのことです。このような離れた場所から伝えられた行事がすっかりこの地域に定着していることは、行事や文化の伝播や流通といった側面からも注目されるところで、今後とも長く続けられていくことを願わずにはいられません。なお、今回の調査に当たっては、功雲寺の御住職をはじめ、檀家の婦人部及び御詠歌の皆様など多くの方々に多大なご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。

祭り・行事を訪ねて(№88)~川崎市麻生不動のだるま市~(平成28年1月)

 小田急線柿生駅から歩いて20分ほどの所にある麻生不動(川崎市麻生区下麻生)は、昔から火防せの不動として有名で、古くから火難から守ってくれる不動様として信仰されてきました。毎年1月28日の初不動の日が縁日で、この時ばかりは普段はひっそりとしている境内が大勢のお参りの人々で大変な賑わいを見せます。お堂に到る参道には多くの露店が並び、食べ物を売る店や金物類・日用品などさまざまなものがある中で目に付くのがだるまを売る店で、この縁日が「だるま市」と言われるゆえんになっています。だるまが売られるようになったのは明治の終わりころで、平塚近辺で作られている相州だるまが中心です。

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寛政11年(1799)の題目塔。周辺六か村の講中によって造立された。講中では助け合って先祖の霊を弔い、信仰を深めたとされる。

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浄慶寺本堂。この時期にはあまりなかったが、アジサイなど折々の花が咲くことで有名。また、表情豊かな石造の羅漢像が出迎えてくれる。

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常安寺境内の河童像。この寺には河童にまつわる伝説が多いという。

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この地域の鎮守である月読神社。一時、周辺の神社と合祀されて麻生神社と名づけられたが、月読神社の社名を遺すということで再びこの名となった。

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麻生不動の初不動を示す幟。階段下の規制でお参りまでもう少し。

 麻生不動の縁日でもう一つ忘れてはならないものがあります。それは穴あき銭で、これを祀ると火傷や火難を防いでくれるといわれ、毎年お参りして穴あき銭をいただいて前年のものはお返しするとされていました。市内でも盛んにお参りに行くことがあり、例えば緑区相原ではこの穴あき銭をヒジロ(囲炉裏)のオカギサマ(自在鉤)に吊るしておくと、子どもがヒジロに落ちない、火傷をしない、南区上鶴間では穴に針金を通してオカギサマに吊り下げると火災除けになる、南区下溝でも第二次世界大戦以前にはほとんどの家が麻生不動に行って穴あき銭を替えていました(『相模原市史民俗編』)。同じく下溝の古山地区では、この日に若い衆が麻生不動まで自転車で行き、古い穴あき銭と新しいものを取り替えてから日野の高幡不動に回り、さらに八王子で遊んで帰ってきたという話も残っています。また、不動堂の境内には、昭和55年(1980)12月に建てられた城山町(当時)川尻地区の人々による不動講結成50周年の記念碑があり、津久井地域にも信仰が広まっていたことが分かります。

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麻生不動本堂。実に大勢の参拝者がいた。

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境内や参道には多くのだるまを売る店があった。

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今では少なくなってしまったが鍬や刃物等を売る店も出ていた。

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不動が描かれた御札と現在授かることができる穴あき銭。穴あき銭はもちろん模したもの。

 本館で市民とともに活動している民俗調査会では、毎月市内及び周辺地域のフィールドワークを行っており、今回は市内各地でもお参りに出かけた麻生不動の初不動の見学会を行いました。当日は麻生不動だけでなく、途中のいくつかの神社や寺院、石造物なども見学しながら歩いていきましたが、麻生不動に近づくにつれて物凄い人出で、境内に入る階段では入場制限が行われるほどでした。こうした多くの参拝者は、お参りを済ませると御札や穴あき銭をいただき、あるいはだるまを選んだりして一年に一度の縁日を楽しむ様子が見られました。それは民俗調査会の会員も同様で、かつてこの不動様に火難や子どもの火傷除けを願った人々の想いの一端に触れることができました。今後とも機会を捉えて市内及び周辺地域のさまざまな行事について、さらに「民俗の窓」で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 ※今回紹介する写真は、民俗調査会の小澤葉菜さんが撮影したものです。

相模原の民俗を訪ねて(№87)~平成28年のどんど焼き(2)~(平成28年1月)

 今年(2016年)の調査では、旧津久井町とともに津久井地域を中心に他の地域でも写真を撮影することができました。前回(№86)に引き続いて、それ以外の地区の様子を写真とともに紹介します。

【10日】 

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葉山島下倉(旧城山町) 葉山島では各集落が相模川沿いに立てる。

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葉山島中平 竹を高く立てる様は見栄えがする。

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葉山島藤木 各地区で燃やすのは翌週になる。

【11日】

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城山(旧城山町) 当日午後6時点火予定。14日点火を今年から今日に変更した。

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小倉(旧城山町) 小倉では三か所で実施。午後2時30分に点火し、訪れた際にはすでに団子焼きが終了に近くなっていた。

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千木良岡本(旧相模湖町) 集落の畑の中に高いものを作っている。

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千木良西 千木良地区の西側の鎮守である牛鞍神社境内に作られている。

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千木良赤馬 同地区の東側鎮守の月読神社境内に見られる。

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寸沢嵐道志北 道志では各地区で道祖神のイエを作るが、まだ昨年のままでここでは新しいものができていない。

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寸沢嵐道志南 道志北と同様に古いままである。

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寸沢嵐道志舘 ここでは前日の10日に新しいイエが作られた。

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寸沢嵐沼本 沼本では二か所で行われ、ちょうど下地区が公会堂の敷地で準備中だった。点火は14日夕方。

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寸沢嵐関口 午後3時点火。場所は古くから現在でも行われている川の辺だが、かつては14日朝5時に点火していたという。

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南区当麻中・下宿 毎年、道祖神の上にお飾りで小屋状のものを作る地区だが、今年はトタンの屋根ができていた。

 多くの市民の皆様のご協力を得ながら毎年進めてきたどんど焼き調査も今年で13年目を迎え、かなり各地区の状況が分かってきました。  そして、今年も例えば青野原地区で道祖神の幟があったり、道祖神にお参りしてから点火する例(鳥屋道場地区も道祖神の前で実施)が見られるなど、いくつかの新たな発見があったり、日取りの変更を含めて変化しつつある地区も認められます。もちろんまだ情報がない地区もありますので、今後とも調査を継続して各地の事例をさらに集めていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№86)~平成28年のどんど焼き(1)~(平成28年1月)

 毎年恒例となった1月のどんど焼き(団子焼き)の調査は、今年(2016年)は29年度刊行予定の津久井町史文化遺産編の基礎資料とするために、緑区の旧津久井町域を中心に9日(土)~11日(月・祝)にかけて各地に伺いました。この成果は本書の中にも反映させますが一足早くその様子を写真で紹介します。今回掲載するのは、9日から順に加藤が訪れた地区を中心とし(10日と11日には五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんにも同行していただきました)、同時に何か所でも行なわれるために手分けをして他の職員が回った他の所については取り上げていません。なお、もちろん今回撮影できていない地区も結構あり、そうした地区については改めて補足する予定であることを付記します(民俗担当・加藤隆志)。

【9日】

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三ヶ木中村 午前9時点火の様子

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青野原上原・下原・嵐 道祖神の幟があるのは珍しい。現在でも、以前に実施していた道祖神碑に酒をお供えし、お参りしてから点火する。

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青山宮前・宮下 青山神社での準備の様子。

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青山大堀 準備の様子。昔はもっと大きいものを作り、場所も動いているという。また、かつては子どもたちがすべて行い、大人は手を出さなかったという。

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青野原前戸 道祖神碑の所に正月飾りが納められていた。どんど焼きは翌10日。

【10日】

旧津久井町だけではないが、第二日曜日である10日に多くの地区で実施された。

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根小屋寺沢 正月飾りを積んだものをヤグラと呼ぶという。

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根小屋谷戸 午前7時点火し、火が落ち着いたら団子を焼く。

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根小屋明日原 根小屋地区は10日午前に点火する地区も多い。

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三井 集落の新年のつどいとしてどんど焼きが行われ、多くの人が集まる中、お囃子も奏でられた。

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青根東野 隣りの上青根地区とともに、大きなものが作られる。

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青根上青根 山間の風景の中に大型なものが映える

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青根荒井・平丸 合わせて36世帯ほどの小さな集落でも行われる

【11日】

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根小屋土沢 燃やすものの作り方が特徴的である。

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根小屋根本 団子を焼くのにちょうど良い火加減にするため早目に点火する。

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又野 どんど焼きの後には餅つき大会や新年賀詞交換会も予定され、賑やかに行われた。

相模原の民俗を訪ねて(№85)~薬師堂の数珠念仏~(緑区三井の名手地区・平成27年10月)

 緑区三井の名手地区は相模川の左岸、尾崎咢堂記念館の横を川に向って下り、名手橋を渡った所の地区です。名手地区には東光寺という真言宗の寺院のほか、そのすぐ近くに東光寺持ちの薬師堂があります。今回は、この薬師堂で10月12日(月・祝)に行われた「数珠念仏」を紹介します。

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正面から見た薬師堂

 薬師堂はその名の通り薬師如来を祀り、地区の自治会館の奥が堂となっています。『津久井郡文化財寺院編』に拠ると、かつては地域の女性たちによって、1・3・10・12月の12日の夜に数珠念仏が行われていました(本が刊行された昭和61年[1986]当時は昼間)が、現在では3月(薬師堂が火災に遭った月)と10月12日の年二回になっているとのことです。今回は8名の女性が集まり、午前11時30分頃から始まりました。

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まず鉦を叩きながらいくつかの念仏を唱える

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最後の「おじゅず」で数珠を回す。

 集まった方々は薬師様の前(厨子の中に祀られていて、開扉はしません)に円形に座り、まず鉦を叩きながら、「薬師様」「観音様」「地蔵様」「不動様」「金比羅様」「大師様」の順に念仏を唱えていきます。本来は各五回ずつとのことですが、今回は三回ずつ唱えられました。そして、最後に「おじゅず」になり、この時に長い数珠を時計周りとは反対に回して、大珠が回ってきた方は持ち上げて拝むようにします。なお、これらの念仏の詞章は、他のものも含めて『津久井町郷土史第九集(三井・名手編)』の中に記されています。

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数珠の大珠が回るといただくようにする

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数珠で体の痛いところなどを叩く

 このように数珠念仏は約20分弱で終了して、当番の方を中心に昼食の準備となりますが、使い終わったばかりの数珠で参加者の背中や腰を叩くことも見られました。例えば肩こりがある人が数珠で肩を叩くとコリが取れるなど、体の痛いところに当てて叩くと良くなるとされているとのことで、参加者はそれぞれ気になる場所を叩きました。ちなみに今回は津久井町史編さんのための調査として町史の職員とともに訪れ、私たちも叩いていただきました。そして、この後は昼食となり、かつては参加者は前後に体をゆすりながらかなりゆっくりと念仏を唱えたため時間が長かったことや、中学生くらいまでの子どもに終了後に菓子を配り、この菓子は地元から出ている人が数珠念仏に合わせて送ってくれたもので、子どもは菓子をもらうのが楽しみだったことなど、地域のいろいろなお話しを伺うことができました。

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数珠念仏に使われる数珠

 「民俗の窓」でも、例えばNo.81田名新宿の観音堂のオコモリやNo.77下溝古山の地蔵の念仏など、各地の念仏の様子を紹介してきました。その中では、この数珠念仏は最後に念仏の際に用いた数珠で参加者の体を叩くという点が他の地区ではほとんどなく、病に悩む人々を救ってくれる薬師如来を祀るお堂で行われる行事として、特徴あるものと言うことができます。他の地区と同様に、今後の行事の継続については大きな課題もあるとのことですが、こうした行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません。これからも「民俗の窓」で各地の行事を取り上げて紹介するとともに、平成30年3月刊行予定の『津久井町史文化遺産編』にも反映させていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№84・番外編)~横浜市歴史博物館との交流会で厚木市周辺を歩きました(平成27年10月)~

 本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会が定期的に交流会を行っていることは、これまでも「民俗の窓」や「ボランティアの窓」でも紹介しており、今回は10月4日に厚木市を歩きました。県内の石仏等に用いられる石材として、主に県西部の安山岩系と厚木市七沢や清川村煤ヶ谷などで産出される凝灰岩があることが知られていますが、今回の交流会では特に近世中期以降に盛んに用いられた七沢石の細工場跡と考えられる場所の見学を中心に、ほかにも特徴ある石仏を見ることを目的に実施しました。当日の参加者は、相模原から16名、横浜から6名の会員のほか、両館の民俗担当の学芸員に加え、石材ということで本館の地質担当学芸員、ご当地の厚木市郷土資料館長、さらに来年春に石の文化をテーマとする企画展を実施する予定の県立歴史博物館の学芸員も参加するなど、賑やかな交流会となりました。

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武神像が彫られた地神塔。左横に俵石も見える

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熱心に地神塔などを見学する参加者。住宅地の中に思いもかけないものがある

 当日は、まず本厚木駅周辺の見学ということで、相模川の厚木の渡し場跡のほか、道祖神碑や地神塔などが祀られている稲荷社などに行きました。地神塔は、ほとんどが「地神塔」や「堅牢地神」などの文字を記したものであるのに対して、この地神塔は地神講の際に飾る掛軸に描かれた武神像が彫られており、珍しいものです。また、俵の形をした小さな俵石もこのあたりではあまり見かけないものといえます。

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「信州高遠住 石工 弥市」の銘文

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道祖神がまとまってあり、見ごたえがある

 次にバスに乗り、愛名地区の妙昌寺にある二基の題目塔に向かいました。これは信州高遠石工が七沢石を用いて作った厚木市内最古のものとされ、七沢石の石場の切り出しと高遠石工の係わりを示すものとして知られています。残念ながら宝永7年(1710)のものは石工名の部分の剥離が進んでいますが、明和2年(1765)の題目塔は石工弥市の銘もはっきり読むことができます。続いて式内社と伝える小野神社において、地区内にあったものを集めた5基の道祖神を見学しました。文化3年(1806)の双体像のほか、3基の双体像と県内では相模川中流域に分布する1基の単体像も眼にすることができます。

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少し崖状になった場所に目当ての石材が見られた

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中央部に細工跡が分かる

 午後からはいよいよ七沢石の細工場跡で、広沢寺温泉入口バス停から30~40分ほどの平坦な道や登り坂を歩いてようやく到着しました。道沿いの少し沢を上った当たりに、ノミやクサビを入れた跡などが残った石をいくつか確認することができ、その場で地質の観点からの説明を聞いてまた来た道を引き返してバスで本厚木駅に向いました。

 当日は天気も良く、絶好のフィールドワーク日和で少し暑いくらいであり、さらに、途中は意外と歩く距離が長く、午後からの坂道も大変でしたが、それでも充分に目的を果たすことができ、充実した楽しいフィールドワークを行うことができました。今後とも両博物館の市民の会の一層の交流を図るとともに、当然のことながら相模原でも七沢石の利用をした石仏は多く、また、高遠などの石工銘が入った作例も残されています。こうした石仏に関しても、今後この欄で紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№83)~緑区中野神社祭礼と山車~(平成27年7月)

 7月から8月にかけては祭りの時期で、市内でも各地で夏祭りが行われます。そうした祭りの様子はこれまでも「民俗の窓」で紹介してきましたが、今回は緑区中野地区の中野神社の祭礼について、祭りで曳かれる山車を中心に紹介します。

 中野神社は旧津久井町の中野地区に鎮座する神社で、天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』には「諏訪神社」とあり、文久2年(1862)には中野神社の社号を許可されたと言います。祭礼は7月28日で、現在では7月の最終土・日曜日(ただし、30・31日に当たる場合は一週間前の23・24日)に行われ、今年は25・26日になりました。また、本来の当たり日の28日には今でも神事が執り行われています。

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中野神社を出発した宮神輿。神輿は土曜日に担がれる

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森戸の山車

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仲町の山車

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上町の八王子から譲り受けた山車。今回の写真にはないが人形を乗せた台も残っている

 中野神社の祭礼で特徴的なのは、土曜日に神社の宮神輿の巡行があり、翌日の日曜日に森戸・仲町・上町・奈良井・大沢・川坂の中野地区に六つある各自治会の山車が曳かれることです。今年は25日(土)の午後に中野神社の宮神輿が氏子地区を巡行し、さらに六基の子ども神輿も各自治会ごとに担がれました。ちなみに宮神輿は昭和29年(1954)に浅草から購入したもので、当時の氏子総代が一緒に写った記念写真が残されています。山車の運行は前述のように26日(日)で、今までも「民俗の窓」で紹介してきた民俗調査会有志で山車の運行の一部を見学させていただきました。

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奈良井の山車

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大沢の山車

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川坂の山車。中央はかつて使用されていた山車。手前は太鼓車

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出発する川坂の山車

 当日は、まず午前中に各自治会の本部に置かれている山車を順番に見学していきました。そのなかには、「民俗の窓」No.38でも紹介した、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から上町が譲り受けた山車もあり、雄略天皇を乗せた人形山車の形態で、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされています。そして、昼食後には六基の山車が一同に集まって神事が行われる、旧道とバイバスの合流点付近の大沢本部前に赴き、神事の様子や六基の山車がそれぞれ賑やかに囃子を行う叩き合いを見学しました。この後、山車は順番に中野地区の旧道の町並みを囃子を奏でながらゆっくり進み、各自治会の本部を夕方にかけて順番に回っていきます。こうした山車の運行は夜にも行われ、真夏の夜に華やかな囃子の競演が行われることになります。

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大沢本部での囃子の叩き合い。それぞれの山車が賑やかに囃子を奏でる

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中野の町を山車が連なって進む様子は見事である

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川坂本部での叩き合い。この後、夜に掛けて山車の巡行が行われる

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夜の囃子の叩きあいも見事である(安達美紀さん提供)

 この日は気温35度を越えるかという激しい暑さでしたが無事に祭りが行われ、勇壮な山車の巡行と囃子を楽しむことができました。今後とも市内各地の祭りについて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№82)~田名・半在家地区の地鎮講資料~(平成27年7月)

 「民俗の窓」No.54(平成25年5月)では、南区当麻地区下宿の地神講の掛軸等を紹介しましたが、ここでは中央区田名・半在家(はんざいけ)地区の皆様から同様の掛軸や帳面などが博物館に寄贈されましたので紹介します。

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地鎮講に掛けられた地神の掛軸(全体)

 地神講(じじんこう)は、農業の神、土地の神を祀る信仰的な集まりで、地神講では地神像が描かれた掛け軸を飾って豊作を祈りました。こうした各地に見られた地神講も時代の流れの中で中止することが多くなり、半在家でも昨年の11月22日に実施された講(出席者12名)を最後として解散され、地鎮講(半在家では「地鎮講」と称していました)の掛軸と帳面類を御寄贈いただきました。

 今回、御寄贈いただいた資料は、掛軸が2点、帳面・ノートが5点で、掛軸は手書きの地神像が描かれたものと江戸時代から伝わるとされる女神像です。第二次世界大戦以前には、この地域に地神講をはじめ、二十三夜講や二十六夜講、稲荷講、伊勢講などのさまざまな講が行われていたようで、それが戦争が激しくなって中断を余儀なくされました。戦争が終了した昭和二十六年(1951)に地鎮講として一つにまとめて復活し、当初は半在家第五区の13軒(古くは半在家全体で行ったといいます)が、初日に男性、二日目は女性が持ち回りの宿に集まって講をしていました。

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地神像は吉川啓示画伯が描いた

 地神像の掛軸は、表に「地鎮様御奉納箱」、蓋裏に「昭和二十六年三月二十四日 地鎮講 半在家第五組」と記された軸箱に入っており、やはり地神像に多い、右手に戟(げき・武具のほこ)、左手に菓子鉢を持つ武神像が描かれています。この掛軸は上溝出身で地元の著名な日本画家であった吉川啓示画伯(1910~2006・日本美術院特侍)に依頼して描いてもらっており、市内の美術資料の面からも注目されるものといえます。また、もう一点の古い掛軸は勢至菩薩のようで、二十三夜講などに使われていたと考えられます。元々は地鎮講とそのほかの講とはもちろん別のものながら、復活した際にはいずれも両方の掛軸を掛けて講を行い、線香を上げて拝んでいました。

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勢至菩薩と考えられている掛軸で、古くから伝わっていたものである

 5点の帳面類のうち、一点は天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」です。半在家には伊勢講の伝承があり、江戸時代には伊勢講が流行って資金を集め、一生に一回は伊勢参りをするのが目的であったものの、実際は皆で伊勢参りをすることはできなかったそうです。また二点は、明治19年(1886)と大正2年(1913)の二十三夜講に係わるもので、講員や当番、規約などの記載があり、後者には毎年4月13日と10月13日にお日待をすることなどが見えています。

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地鎮講の推移が分かる帳面とノート

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帳面の最初には地鎮講の目的が記されている

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天保12年(1841)の「伊勢参宮帳」。当時も伊勢参りが行われていたことが分かる

 残りの二点が「地鎮講人名并記録帳」と記された帳面とノートで、帳面には昭和26年3月24日から昭和51年10月3日まで、ノートには昭和52年以降のことが記されています。前者の帳面の冒頭には、上記のような復活の経緯や全員が介して農作物の豊穣を祈り、近隣協力和合して農家の生活を向上を遂げるとする地鎮講の目的が記され、当初は13名で開始されたことがわかります。そして、この帳面やノートには、講の開催日や当番・会計はもちろんのこと、講の場で行った申し合わせや協議事項等も書かれており、地鎮講の推移や地区で話し合われたさまざまな事柄についても知ることができます。

 その内容は長い時間の経過の中で大部に渡り、とてもここで多くを紹介することはできませんが、例えば復活後10年を経た昭和36年(1961)からは、女性の慰労として近隣へのバス旅行が開始されています。また、一般に地神講は春と秋の彼岸の中日に近い戊(つちのえ)の日である社日(しゃにち)であることが多く、半在家でも毎年3月か4月と9月あるいは10月に行われました。それが昭和62年(1987)から春の年に一回、3月下旬~4月中旬になり、平成9年(1997)からは9月下旬~10月中旬の秋一回に変更されました。平成18年ころからは地鎮講の継続についての議論がなされ、その後はこの件に関して毎年のように話し合われています。

 このほかにも、地域内の道路の改修や自治会館の建設等が話題になったことなども見えており、この帳面やノートは地鎮講の信仰に係わる推移はもちろんのこと、地域の中の社会生活を辿る上でも興味深い資料と言うことができます。そうした貴重な資料を御寄贈いただいた田名・半在家の地鎮講の皆様に深くお礼申し上げるとともに、今後ともこのような資料が示すさまざまな地域の歴史や文化について、お伝えしていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№81)~観音堂のオコモリ~(中央区田名新宿地区・平成27年4月)

 田名新宿集落は田名地区に11ある古くからの集落の一つで、他の相模川に近い田名の集落とは異なり、上溝からほど近い場所にあります。今回紹介するのは、田名新宿で行われているオコモリと呼ばれている行事で、毎年、4月18日と10月18日に自治会館と兼ねている観音堂において、自治会婦人部の行事として行われています。そのため参加者は準備に当たる方を含めて全員女性で、婦人部長と副部長(2名)の三役が進行等を担当し、そのほかの役員は、基本的には全く同じことを行う春と秋のオコモリの際に半数ずつ出て準備などに当たるとのことです。

 当日は午後7時30分から開始の予定ですが、7時頃にはすでに終了後に参加者に配られる菓子等を分ける準備が始まっており、机にはオコモリで唱える和讃(念仏)の帳面も用意されていました。その内容は、表題に「観音様念佛帳」(昭和55年5月作成)とあるものに「観音様(南無観世音菩薩と9回くりかえす)」・「お子守り念仏(3回くりかえす)」・「お拝み念仏」・「お茶念仏」が記され、別の帳面は「水子供養和讃」とあり、この中にも「お子守(こもり)念仏」とあるように、観音様は昔から安産の神として地域の人々の深い信仰を集めてきました。

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参加者は、まず観音像等に線香をあげて拝む

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先にろうそくに火を灯しておく

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オコモリでは、帳面を見ながら一同で和讃(念仏)を唱える

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途中、短くなったろうそくを代えて、新しいろうそくを灯す

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新しいろうそくの下に短くなったろうそくが見える。このろうそくを貰って安産を願う

 オコモリが始まる前に、参加者は観音様に線香をあげて拝んでから席に着きます。そして、部長の挨拶等があり、以前録音したテープを流しながら前述の和讃(念仏)が開始されました。途中、お拝み念仏が終了した後には、参拝者(婦人部の役員以外の参加者)にお茶と少しの砂糖が出され、砂糖を少し舐めてお茶を飲み、のどを潤してから引き続いてお茶念仏となりました。また、オコモリが始まる前には、観音様の両脇の太いろうそくとは別に小さいろうそくも何本か火を灯しますが、このろうそくは燃え尽きる前のかなり短くなった時に新しいものに取り替え、先に燃やして短くなったろうそくは捨てずに置いておきます。オコモリで灯した短いろうそくを持ち帰り、お産を控えている家では丁重に灯して安産を祈ったり、出産が始まった際に灯すと安産だとか、ろうそくが燃え尽きるまでに早く生まれて陣痛も軽く済むと言われているそうです。和讃(念仏)は約25分ほどで終了し、その後は全員配られた菓子や茶を飲んで歓談となりました。

 観音堂がいつから祀られているのかはっきりしないようですが、現在、91歳の女性の方が結婚した70年ほど前にはすでにこうした形で行われており、観音様の厨子を開けてお姿のご開帳をし、ろうそくを灯して念仏を唱えて観音様を迎えるオコモリが行われていて、安産のご利益があるとされていたとのことです。今回のオコモリでも、子どもが無事に生まれた家がお礼のお参りに来られたり、ろうそくを近所の人から貰ってくるように頼まれたという話を伺うことができました。

 相模原市内では、例えば「民俗の窓」でも紹介した南区下溝古山の地蔵は子育て地蔵であるとともに安産の地蔵としても信仰され、中央区上溝四ツ谷にも安産地蔵があり、ここでもお産の時にはろうそくの短いものを借りて行き、お産が始まると灯したとのことで(『内田要寿と上溝』)、こうした信仰が各地にあったことが確認されます。いつの世も、子どもの安産を願う親や地域の人々の姿は同じです。こうした子どもたちが無事に生まれ、あるいは健やかに育つことを祈る行事が地域の中で長く続いていくことを願わずにはいられません(民俗担当 加藤隆志)。

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ボランティアの窓(平成26年度)

~横浜市歴史博物館企画展「鶴見川流域のくらし」の関連事業「鶴見川流域フィールドワーク」に協力しました(平成27年2月)~

  本館の民俗調査会Aと横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会では定期的な交流会を行っており、相模原や横浜・伊勢原市大山等で行ったフィールドワークの様子は、これまでも「ボランティアの窓」や「民俗の窓」でも紹介してきました。そして、この交流の一環において、横浜市歴史博物館の企画展「鶴見川流域のくらし」(会期:1月31日~3月15日)の関連事業の「鶴見川流域フィールドワーク」第2回目「鶴見川上流域」を「相模原市立博物館民俗調査会連携フィールドワーク」として2月11日(水・祝)に実施しました。

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町田市木曽町の一里塚。家康の柩が通った際に築かれたと伝える

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木曽町の秋葉神社。境内に稲荷社があり、当日は初午に当たったため、幟が飾られお供えものもあった

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旗本一族の墓を熱心に見学する参加者(町田市山崎町の簗田寺)

 今回の企画展は、町田市小山田地区を源流とし、横浜市鶴見区で東京湾に注ぐ鶴見川を対象として、その流域の農業などの生業と船を用いた水運、神社に見られる狛犬などを中心とした石造物、いくつかの祭礼や信仰を取り上げ、さまざまな資料から主として、明治時代以降の鶴見川を取り巻く環境を利用して営まれていた暮らしの姿を示すことを目的に開催されました。

 その中では、横浜市歴史博物館の民俗に親しむ会も展示に深く係わり、会員が関心を持ったテーマを展示に組み込むとともに、会員それぞれが書いた資料報告やレポートをまとめた150頁以上にも及ぶ冊子(『歩いた・見た・調べた 横浜市歴史博物館民俗に親しむ会 鶴見川流域フィールドワーク調査報告』)も刊行されました。この冊子には本館の民俗調査会が調べて提出した、鶴見川支流の恩田川流域の本町田・高ヶ坂・南大谷・成瀬地区の神社境内の狛犬と石造物の石工(石工銘が彫られていれば狛犬に限りません)のデータも含まれており、流域の石造物の様相を明らかにすることにお役に立つことができました。

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鶴見川を挟んで町田市野津田町方面を望む。多摩丘陵の地形がよくわかる

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宮川橋付近の大きく湾曲する鶴見川。現在、洪水対策として流れを直線化する護岸工事が行われており、数年後には流れが大幅に変わる

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川島付近の鶴見川。かつての川の様相がよく残る

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町田市図師町熊野神社では、民俗に親しむ会の会員が自ら調べた狛犬の銘文について説明した

 2月11日のフィールドワークでは、12時30分に古淵駅に集合し、鶴見川に掛かる町田市の図師大橋に向けて歩いていきました。今回のコースは、徳川家康の柩(ひつぎ)を静岡の久能山から日光まで運んだ際に通ったとされる道や、相模原市と町田市との境を流れる境川と鶴見川上流域を比較することができるもので、事前に民俗調査会でも下見を行って、見所やトイレの場所などを確認しつつコース設定に当たりました。当日は、申し込まれた一般参加者の人数はそれほど多くはありませんでしたが、何人かの民俗に親しむ会と民俗調査会の会員も随行し、比較的暖かい陽気のなかで充実したフィールドワークを行うことができました。

 両博物館の市民の会の交流も平成23年から4年ほどを経過し、今回の横浜市歴史博物館での企画展の開催は、両者の交流についても一つの大きな意義を持ったものと言えます。今後の展開についてはどうなっていくのか、はっきりしていませんが、これからもより良い交流に向っていけたらと思っています(民俗担当 加藤隆志)。

 第6回目の「民俗探訪会」で淵野辺地区を歩きました(平成26年11月)

毎回、本欄の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を実施しています。11月12日(水)の第6回「民俗探訪会」は、「淵野辺の伝説の地を歩く」と称して実施しました。淵野辺地区は、デイラボッチ(巨人伝説)や淵辺義博(英雄伝説)など、地域の著名な伝説のほか、新田稲荷神社の呼ばわり山や皇武神社の養蚕神であるオキヌサマなど、相模原の特徴をよく示すものが多数分布しており、これらと係わる地を中心に歩きました(簡単な内容は下記をご参照ください)。

 今回も「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、40名以上の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、27名の参加者と会員7名で、淵野辺駅から古淵駅までの約3時間のコースを歩きました。前日までの雨が心配されましたものの雨天にはならず、無事に実施することができました。今回のコースは次の通りです。

 淵野辺駅・9時15分集合→① 鹿沼公園(デイラボッチ伝説)→② 新田稲荷神社(よばわり山)→③ 菖蒲沼弁天社(デイラボッチ伝説)→④ 淵辺義博屋敷跡(淵辺義博伝説)→⑤ 皇武神社(オキヌサマ伝説)→⑥ 中里橋・縁切り榎(淵辺義博伝説)→⑦ 龍像寺(淵辺義博伝説)→⑧ 大山道・当麻山道分岐点→古淵駅・12時30分頃解散

コース名称の説明

①鹿沼公園のデイラボッチ伝説(市登録史跡)

伝説には、山や川、沼などの地形が形成された由来を説くものがあり、市内各地には、デイラボッチなどと呼ばれる巨人が作ったとされる池や窪地等が数か所あった。その中でも、この鹿沼と菖蒲沼のいわれを説く伝説はよく知られており、古くから文献に取り上げられているほか、柳田國男も著書の中で触れている。

②新田稲荷神社のよばわり山(市登録史跡)

新田稲荷神社は、江戸時代後期に開発された淵野辺新田地区の鎮守。境内の小山に祀られている今熊神社は、人探しの神として名高い八王子市川口町の同社からの勧請で、広大な原野にまぎれて行方不明になった者の探索に役立てたといわれる。「はやぶさ」が行方不明になった際に、JAXAの関係者が帰還を祈願したということでも有名である。また、旧陸軍の兵器学校にあった細戈(くわしほこ)神社が移されている。

③菖蒲沼弁天社(デイラボッチ伝説)

菖蒲沼は横浜線を挟んで鹿沼とは反対側にある沼で、やはりデイラボッチによってできたものといわれる。鹿沼は昭和四十年代に埋め立てられて鹿沼公園としてかつての面影をとどめ、菖蒲沼は昭和三十年代後半に埋め立てられたが、現在は弁天社のみが残っている。

④淵辺義博屋敷跡(淵辺義博伝説)

伝説の中には、歴史的な人物の生涯や偉業、それに伴ったさまざまな事物 を伝えるものが数多くあり、市内では淵辺義博伝説が代表的なものの一つである。淵辺伊賀守義博は足利尊氏の弟である直義の家臣で、淵野辺に居を構えていたとされる。中世の軍記物である『太平記』には、幽閉されていた後醍醐帝の子である護良親王を義博が殺害する様子が記されている。

⑤皇武神社(オキヌサマ伝説)

 市内には、かつて大変盛んだった養蚕に係わる神仏が多数祀られていたが、このオキヌサマもその一つで、オキヌサマ人形を祀ると養蚕の作業が忙しい時に手助けしてくれるなどといわれる。明治になって神社の神主によって作り出されたものであり、地元ではその信仰は見られず、埼玉や群馬方面での信仰が厚かったことが特徴である。

⑥中里橋・縁切り榎(淵辺義博伝説)

『太平記』では護良親王を義博が殺害したことになっているが、実際にはひそかに淵野辺に連れて来て、その後、奥州石巻(宮城県)にともに逃げのびた。その時に妻子と別れを惜しみ、縁を切った場所とされ、こうして縁を切った橋なので婚礼の行列はここを通ってはいけないといわれていた。石巻でもこの伝説があり、親王の墓を祀った神社などがある。

⑦龍像寺(淵辺義博伝説)

淵辺義博は、境川のほとりの池に住んでいた大蛇を退治したという伝説もあり、その大蛇の死骸を三つに分け、それぞれ龍頭寺・龍像寺・龍尾寺を建立した。ほかの二か寺はその後なくなってしまったが、胴体を埋めたところに建てられたとされる龍像寺が残っている。なお、境内には旗本岡野氏墓地(市指定史跡)や、徳本念仏塔(市登録有形民俗文化財)がある。

⑧大山道・当麻山道分岐点

多摩地区から伊勢原市大山に向う大山道(行者道)の一つで、大沼の集落の西側を通って磯部の渡しに到る。そして、ここから分岐するのが当麻の無量光寺を目指す当麻山道で、広大な原野を横切って下溝と上溝との境に沿いながら当麻に向った。

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熱心な調査会会員の説明を聞く参加者(新田稲荷神社)

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淵辺義博が護良親王とともに奥州石巻に逃れる際に、妻子と別れた所と伝える縁切り榎。この地に限らず、相模原にも魅力的な伝説が多く見られる

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伝説の地ではないが、あまり知られていない大山道(磯部道)・当麻山道の分岐点も訪れた

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季節は晩秋となり、紅葉の中を歩いていった(鹿沼公園)

 今回も担当学芸員である加藤が説明するとともに、調査会の会員も現在は新田稲荷神社に祀られている旧陸軍の兵器学校にあった神社や、龍像寺境内の旗本岡野家の墓所についてのお話しをしました。また、全体で30名以上が歩くために交通面には特に気を使い、調査会会員は誘導や車への注意を呼びかけるなど、安全で楽しめる探訪会になるように配慮しながら進めていきました。

これまで3年の間実施してきた民俗探訪会は、博物館と民俗調査会に参加する市民との協働の事業として定着しており、今後とも「通常の史跡巡りではなかなか行かない、なるべく地元でないと知らないこと」をテーマに行うことを予定しています。ご希望の方のご参加をお待ちしております。また、民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。

 *これまでの民俗探訪会については、いずれもこの「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

御蚕様のご逗留(市民学芸員 横須賀・平成26年10月)

今年の初夏、博物館で育てていたカイコの一部を、市民学芸員の横須賀さんが自宅に持ち帰って育ててくださいました。そのようすを文章に綴ってくださいましたので、ボランティアの窓としてご紹介します。なお、ここでできた繭は、博物館でできた繭と合わせて、平成27年1月25日(日)に実施予定の「繭うさぎづくり」ワークショップで使用します。ワークショップの詳細はイベントカレンダーをご覧ください。

 (ここから本文)

  6月4日昼頃、博物館から32個の御蚕様をお連れいたしました。爪の先程の小さな生きものがプラスチック容器の中でウロウロ、早速庭から桑の葉の柔らかいところを取り、さし上げてみるとうれしそうに集まり食べ始めました。口も顔もわからない程小さいのに葉っぱがみるみる減っていきます。食べているのだとわかります。翌朝見るとはっきり大きくなっているのがわかります。お宿も少し大きくしなければと大判のどんぶり型カップ容器にお移りいただきました。ぬれた葉は病気の元とのこと、雨が続くことが予想され、大量に取って一回分ずつビニ-ル袋に入れて冷蔵庫に、天気予報がこんなに気になったのもはじめて。日に四回せっせと食べていただきました。びっくりです。3日目の朝お宿をのぞくと、ほとんど全員つっ立っていて食べません。病気かな葉っぱが悪かったかな心配で日に何度も見ました。

一日半ほどするとまた急に食べはじめました。

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脱皮前の眠に入った3齢のカイコ

 3齢目の脱皮だったのです。又お宿を大きくし葉も次々沢山さし上げました。食べます食べます!すさまじいもの。3日ぐらいするとまた、つっ立って食べなくなりました。それから2日、びっくりするほど大きく成長した御蚕様、バリバリ音をたてながらアっと言う間に大きな葉を食べ尽くします。特大のお宿にお移りいただき、多量の葉を。昼夜関係なく3、4時間ごとに庭から直送、休まず、のみ込むように食べつづける姿をじっとながめていると一時間、二時間がすぐ過ぎてゆきます。けなげさ、いとおしさに感動しました。

1㎝にも満たなかった御蚕様、2週間後には7㎝以上、人の中指ほどにも成長し精密機械のごとく食べつづけます。16日目真夜中大量の桑の葉をさし上げようとお宿をのぞくとどうでしょう。3時間前にさし上げた葉っぱは食べず、全員その葉の上に立ち並んでいます。32頭が一斉に!びっくりです。どうしました?何がありましたか?と見回しました。それでも新しい葉をそっと置きました。10分後おそるおそる見ると又全員立って頭だけキョロキョロ!

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蔟に入った熟蚕

上蔟(じょうぞく)です。熟蚕=糸を吐き始めるさい、蔟(まぶし=まゆを作るます)の中にお移りいただく時が近づいております。ダンボールで作った50コほどのますの中に一個ずつそっと入れてさし上げました。個々で好みがあるため多目のますが必要と知り手作りしました。なるほど見ているとあちこちのますに移動、同じますに入っている仲良しもいます。はね繭(糸のつむげないまゆ)になるからと分けました。蔟に入れてから2日、ほとんどがまゆを立派に作り始めました。博物館にお帰りいただく時が来たのです。18日間ご逗留ありがとうございました。一生の思い出です。

「福の会」の展示を今年も行っています(平成26年6月)

 昨年のボランティアの窓でも紹介したように、博物館では、南区下溝地区・福田家の蔵の 中の資料が寄贈されることをきっかけに「福の会」が結成され、民俗・生活資料の整理を 行っています(元々は、先祖が北条氏照[小田原北条氏・四代当主の氏政の弟]の家臣と する福田家の由来については前回のボランティアの窓を参照)。

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 どうやって着物を展示するか、女性の会員が集まって協議中  ウォールケース内の展示ももちろん会員の担当  福田家の三月節供の御殿飾りや、五月節供の内幟り

そして、昨年の5月25日~6月30日には、収蔵品展「蔵の中の世界・福田家資料紹介 ~市民の力で博物館資料へ~」を開催し、蔵や主屋などにあったさまざまな資料を展示し て、会期中には約6800名の方々に見ていただきました。その際には、アンケートでもこの展示に興味関心を持たれた方も多く、「市民がこうした取り組みをしていることはすばらしい」との声も多くいただきました。

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 新屋敷集落の講中道具の一部。吊ってあるのは、土葬時代に使用した穴掘りの人が着るための半てん  当麻の中・下宿地区で行われていた地神講と稲荷講の掛軸等の資料も展示している  今年も多くの着物類を展示しているが、福田家以外のすでに収蔵していた資料を再整理したものも展示している

この福の会が展示資料の選定から実際の展示作業も担当した収蔵品展「蔵の中の世界2~市民の力で博物館資料へ~」を、5月24日(土)から6月29日(日)までの会期で行っています。今回は、福田家の蔵にあった実に多くの衣類やお節供に贈られた三月人形(御殿飾り)などに加え、福の会が福田家資料の整理とともに開始している別の資料についても展示しています。例えば、福田家がある南区下溝・新屋敷地区で所有していた講中道具一式で、講中道具はかつて冠婚葬祭を自宅で行っていた時代に、訪れる多くの客に出す料理の食器やその他の諸道具を地区で共同保管し、必要に応じて各家で使うことができたもので、講中道具は市内及び周辺地域で一般的に見られました。また、近年まで南区当麻の中・下宿地区で行われていた地神講と稲荷講に関わる資料では、講が解散することに伴い、掛軸や帳面などの資料が長く後世まで残ることを願って博物館に寄贈いただきました。なお、昨年の展示でも実施した、福田家の御当主や福の会の会員が、整理作業の苦労や楽しさなどを交えて展示資料についてお話をしたり、いくつかの衣類に触れたりすることもできる「展示説明・展示を語ろう」を6月8日・6月22日(いずれも日曜日)の午前10時30分~午後3時30分(この間随時)に行いますので、ご希望の方は是非おいでください。

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 着物の一部はマネキンを使って展示した。これも会員のアイデア  「展示説明・展示を語ろう」の実施日(写真は5月25日)には、着物に触っていただく機会も設けている  興味深げに御殿飾りを見る子どもに、福の会の会員がやさしく説明する(5月25日)

現在、福の会では、こうした新たな資料の整理のほか、博物館が保管している一部の資料の再整理なども手がけており、活動の場が広がっています。今後とも、多くの市民の皆様に、博物館を中心としてこのような活動を行っていることを広く知っていただくとともに、これからも市民とともに歩む博物館としてさまざまな活動を続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 ページトップに戻る 第5回の「民俗探訪会」で上溝から下溝地区を歩きました(平成26年5月)

 第5回の「民俗探訪会」で上溝地区を歩きました(平成26年5月)

毎回、本欄の「ボランティアの窓」でも紹介しているように、本館の民俗分野の市民の会である民俗調査会Aの活動として5月と11月に「民俗探訪会」を実施しており、今年度も5月14日(水)に第5回目の「民俗探訪会」を行いました。今回は、上溝地区の南部から下溝北部にかけて歩くもので、こうした催しはどうしても同一の地域内を歩くものになりがちですが、今回は中央区上溝から南区下溝へというように、区をまたいで歩くというコースを設定しました。    4月15日号「広報さがみはら」や博物館のホームページで会員以外の市民の皆様からの参加者を募集したところ、40名以上の方からの応募があり、野外を数時間歩くという安全性の観点から抽選となりました。当日は、28名の参加者と会員11名で、相模線の番田駅から「相模原浄水場」バス停まで、約3時間のコースを歩きました。当日は暑さが心配されたものの、通り抜ける風はまだまだ気持ちよく、無事に実施することができました。

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 熱心に神社合祀にまつわる碑を見学する参加者(上溝・諏訪神社)  子育て地蔵の念仏について説明する会員。現在でも実施されていることが説明された  道保川・宮川合流点での会員の説明。かつてここに家があり、祠などが残っている

民俗探訪会では、担当学芸員である加藤とともに調査会の会員が地域を案内するものですが、「通常の史跡巡りではなかなか行かない、なるべく地元に住んでいる者でないと知らないこと」をテーマとして進めています。今回も、加藤の説明の合間に、子育て地蔵(雨乞い地蔵)で現在も行われている地域の念仏の様子や、道保川・宮川合流点付近にかつてあった住居に係わることなど、地元の人々ならではの説明を聞くことができました。また、各種の石仏を見るのもいつものことで、庚申塔など、いくつかの興味深いものを確認しながら歩いていきました。今回のコースは次の通りです(簡単な説明を最後に記しています)。 相模線・番田駅 9時15分集合・「相模原浄水場」バス停 12時30分解散 ① 八王子道大山道分岐道標(①~③上溝)→②清水家旧主屋・長屋門→③諏訪神社→ ④古山橋・当麻山道(④~⑩下溝)→⑤八坂神社・日枝神社合祀碑→ ⑥庚申塔・子育て地蔵(雨乞い地蔵)→⑦道保川・宮川合流点→⑧徳本六字名号塔→⑨十二天神社・オミタレミズ→⑩宮坂  民俗探訪会は、今後ともその都度内容を検討しながら行うことを予定しており、ご希望の方のご参加をお待ちしております。民俗調査会の活動にご関心を持たれ、一緒にやってみたいと思われた方も随時入会ができますので、博物館までお問い合わせください。  *これまでの民俗探訪会については、いずれもこの「ボランティアの窓」に記事を掲載しています(民俗担当 加藤隆志)。

○八王子道大山道分岐道標 橋本から上溝市場を通り、当麻へ至る「大山道」と、座間方面に向かう八王子道の分岐点で、塔頂に不動像を載せた大山道標(嘉永二年[1848]・上溝村田尻不動講造立)など、いくつかの石仏がある。 ○清水家旧主屋・長屋門(市登録有形文化財[建造物]) 旧主屋・長屋門ともに19世紀中頃の建築と推定される。主屋は上層農家に特有の六間取(部屋数が六つ)の大型のもので、養蚕の進展と住居との関係を考える上でも貴重な建物である。長屋門も長大で、堂々たる主屋にふさわしい。*博物館の展示室に、屋敷取りを含めた清水家の模型があります。個人宅であり、屋敷内に立ち入ることはできません。 ○諏訪神社 上溝地区南部の番田集落他の鎮守。元々は八幡社(現・亀が池八幡宮)内に祀られていたが文禄三年(1594)に番田地区に遷座されたと伝える。上溝の天王祭との関係を伝える伝承や、明治後期に行われた神社整理の際に一度、八幡宮に合祀され、また元に戻った経緯など、さまざまな地域の歴史を伝えている。 ○古山橋・当麻山道 当麻山道は、多摩方面から大沼集落の裏側を通り、上溝と下溝 の境に沿いながら当麻の無量光寺に向かう。姥川に架かり、下溝・古山集落に入る所にある古山橋のたもとには、庚申塔や聖徳太子塔などがある。 ○八坂神社・日枝神社合祀碑 明治30年(1897)まで八坂社と日枝社があったが、十 二天神社に合祀された。現在、この地にある碑は、昭和8年(1933)に青年会が記念 として建てたもの。元々は、夏祭りに際して、八坂社があったこの場所から天王祭の 神輿が出て氏子の家を回ったと伝え、今でも神輿は碑の所に来て休む。 ○庚申塔・子育て地蔵(雨乞い地蔵) 享保18年(1733)造立の庚申塔は、青面金剛(しょうめんこんごう)を浮彫りにした典型的な庚申塔で、「小山邑」とあるのが注目される。地蔵は、第二次世界大戦以前は、日照りが続くと、下を流れる道保川に入れて水を掛けて雨乞いをした。また、子育て地蔵ともいって、子どもができない者が信仰すると子どもが授かり、よく育つともいう。4月と12月に地蔵様の念仏がある。 ○ 道保川・宮川合流点 道保川は、上溝の丸崎集落付近から流れ出し、下溝の大下集落で鳩川に合流する川で、上溝から下溝にかけての段丘崖沿いに流れる。道保川には多くの湧き水が流れ込んでおり、十二天神社の下側からの水(オミタレミズ)は宮川と呼ばれ、道保川に合流する。 ○徳本六字名号塔(市登録有形民俗文化財) 徳本は、宝暦八年(1758)に紀州に生まれ、近世後期に各地に念仏を広めた僧。徳本が近隣を訪れた際に、各村の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされる。市内では、相模原地域の13基が登録民俗文化財となっており、本資料は文政四年(1824)の銘がある。※地域の家々の共同墓地の中にあり、墓地には立ち入らず外側から見学します。 ○十二天神社・オミタレミズ 下溝・古山集落の鎮守。寛文二年(1662)にこの地を検地した久世大和守広之との相談で、湧水のすぐ脇にあった祠を現在の高所に移したと伝える。社殿には絵馬があるほか、境内にはいくつかの石仏が残る。特に元禄12年(1699)の阿弥陀如来を彫った庚申塔は古いものである。     神社下側の湧水はオミタレミズと呼ばれ、ここではわさび(「溝わさび」)が作られていた。幕末に糸商をしていた人が、伊豆から苗を持ち込んで作り出したといわれる。 ○宮坂 段丘崖の上側の広い畑に行くのに使われた坂で、かつては十二天神社の前を通り、お宮の後ろを途中からまっすぐに上がっていたといわれる。かなり急で、階段状に赤土を踏み重ねたような坂だったが、関東大震災で崩れてしまった。それで地震後に傾斜を緩くして、荷車が通れるような道に直した。現在の坂は、さらにその後に作られたものである。

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歴史の窓(平成26年度)

あの朝ドラは終わったけれど…~白蓮吟歌の真実(平成26年12月)

 前回記事が引き金となったかは定かではありませんが、今年の石老山周辺は相模ナンバー以外の車が普段より多く見受けられたようです(墓マイラー!?)。そんな現地の状況に似たことが、私の元でも起こりました。出版社などからの頻繁な問い合わせのほか、記事内容の真偽を説く御教示も寄せられ新たな事実を知ることができました。連投となりますが、御案内しておきたいと思います。

 それは、お伝えした白蓮の一首「ほろびたる ものは美(うるわ)し 紫の 野菊そよげり 古城のほとり」についてでした。大阪・堺市の閲覧者様から頂戴した懇切丁寧なお便りには、吟歌の創作時期や舞台となった御実家のようすが記され、疑う余地のない真実が浮かび上がりました。次に要約します。

 ・戦後混乱期、東京の大伯母が白蓮を連れて岐阜県土岐町(現瑞浪市土岐町)の大地主であった御実家に逃れ住んだ昭和21年春の作(隣家住人の手紙もそれを証明)。

 ・御実家眼前には滅亡した土岐氏の居城・鶴ヶ城跡がある山がそびえている。

 ・白蓮の寓居となった御実家離れから眺望できる鶴ヶ城跡の風情を詠んだ。

 ・「紫の野菊」とは、土岐氏の家紋に使われた桔梗のこと(旧土岐郡域の市花も桔梗)。

 ・「古城のほとり」とは、仮住まいを得た周辺一帯(鶴城地区)を指す。

 ・御実家には白蓮自筆の短冊と色紙が保存され、確かな証拠となっている。

 白蓮短冊

 

白蓮色紙

白蓮直筆の短冊と色紙(大きさ不同)

※堺市在住の閲覧者様提供&掲載許可(転載厳禁)

 以上の内容から、“慈母の会運動開始直前の事歴” “オリジナルのロケーション” “支援した人々の存在”などが明らかとなりました。翻って前回参考の文献も取材調査に基づいて著されたとした場合、こんなふうに理解できないでしょうか。~美濃・土岐の地で詠んでから12年後、今度は相模・城山の地で同じく戦国の世に滅んだ山城の景色を感じるにつけ、白蓮は往時の作歌をこだまのようにリフレインしてみた~、と…。

 さて間もなく、一年の暮れを迎えます。市内外の耳目を集めた〈白蓮ネタ〉もひとまず幕を下ろすことにし、女史には石老山の大きな懐で再び静かな眠りについていただければと願うばかりです。(歴史担当:土井永好)

 *鶴ヶ城は、神箆(こうの)城・国府城・土岐城などとも呼ばれる岐阜県指定史跡。津久井城と同じく初築年代は不詳ながら、典型的な中世城郭の根小屋式山城を示す。

蓮さま、石老山に眠る~流転の大正歌人(佳人)と落人伝説(平成26年6月)

今年度前半、NHK朝の連続テレビ小説でヒロインの“腹心の友”として登場している「葉山蓮子」(愛称「蓮れんさま」、実際は「燁あきさま」)。モデルはお気付きのとおり、大正天皇のいとこにして大正歌壇の新旋風として活躍した柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)(最後の本名:宮崎燁子)です。その生誕から死去までは、ドラマ以上にドラマを見るかのような波乱な人生が物語られています。当時の新聞各紙をにぎわせた大正10(1921)年「白蓮事件」をはじめ彼女の数奇な運命話は他に譲ることとして、今回はタイムリーな話題となりますか、相模原と白蓮の隠れたエピソードについてお知らせします。すでにいくつかのガイド本などでその存在は周知されていますが、緑区寸沢嵐(増原)にある古刹・石老山顕鏡寺の一隅に白蓮は葬られています。東京に生まれ育ち、「筑紫の女王」となり、再び東京暮らしに戻った彼女の墓所がなぜ、山深い当地に設けられたのか?そんな疑問をきっと皆さんもお持ちになられることでしょう。事の経緯は意外や意外!最愛の夫・宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)が年来の友人の案内で相模湖周遊をした際に石老山に登ったことを白蓮に告げたことに始まります。その後、本人自らも訪れて当地の絶景にいたく感激し、終戦直前に戦死した愛息とともにいられるよう宮崎家永眠の地として選んだとのことです。白蓮は最晩年、緑内障により両眼失明しながらも昭和42(1967)年2月22日に81歳の天寿を全うしました。愛嬢が建立した墓碑には、「妙光院心華白蓮大姉」と戒名が刻まれています。

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石老山顕鏡寺
奇石・古樹・祠堂の類が境内を彩っている。

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白蓮終焉の地
源海上人の墓塔に寄り添う宮崎家墓地(左手奥)。 

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相模湖遠望
融合平からの見晴しで、白蓮お気に入りの景色。

 さて、話題の顕鏡寺には龍介・燁子夫妻の愛の逃避行にも似た縁起伝承が残されています。貞観18(876)年に堂を開いたとされるのは「源海法師」で、その父母は京の宮人・三条殿と八条殿の若君姫御といわれます。ふたりは相思相愛の仲となり、名馬に乗り東国へ落ち延びることに。相模国糟屋で村人の家に宿を得、その主人の助言で相模川上流にある「道志岩窟」に隠棲を求めるべく再び旅を続けました。行き着いた先は深閑幽谷でしたが薪や水に恵まれ、愛情を育むには最適の土地となりました。ほどなく男児を授かりますが、親子は悲運にも離散する運命にあいます。成長した子息は諸国行脚の末、両親と再会できましたが母のみを連れ京に帰ります。やがて彼は仏道に目覚め、悟りを得る場として道志岩窟を選び、法師となって一寺を開くことになりました。以上が顕鏡寺縁起文の大筋ですが、深い愛に結び付いた両夫婦の縁が時を経て石老山を舞台に結び付いたと自然に思いをはせた次第です。  閑話休題。白蓮燁子は亡くなる9年ほど前の梅雨明けの時期、主宰する歌誌『ことだま』の活動の一環か、歌友のもと(葉山島の医師宅)を訪れた際に津久井城跡城山周辺の風情を詠んだ一首を残しています

「ほろびたる ものは美し紫の 野菊そよげり 古城のほとり」。

 彼女がちょうど世界連邦運動協会婦人部活動で多忙なころ、そして光を失う少し前に相模川の美しい風景を短歌に留めたことは、自身の埋葬地が相模川(相模湖)を眺望できる場所になったことと何か因縁めいたつながりを感じてしまうのは私だけでしょうか?  おわりに、この一文を掲げるに当たり私の業務の一つ「尾崎行雄資料調査」に通じるキーワードをいくつか見つけました。白蓮関係では“歌人・九条武子”“佐佐木信綱” “世界連邦”、龍介関係では“普選要求・女性解放運動”“護憲運動”“吉野作造”などです。今後の成り行きで、違った角度から大正・昭和期の文芸史・社会運動史をひも解く幸運に恵まれるかもしれません。皆さんにはぜひ相模原との縁を思い浮かべながら朝ドラをご覧いただき、紅葉の美しくなる晩秋には一度石老山へ足を運んでいただければと考えます。(歴史担当:土井永好) *『郷土さがみこ 寺院号』(1970相模湖町教育委員会)や『相模川歴史ウオーク』(2005前川清治)をはじめ、諸氏のご助言も参考にしました。文中敬称略。

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天文の窓(平成26年度)

「はやぶさ2」の現在位置は?(平成27年1月)

 2014年(平成26年)12月3日(水)13時22分4秒に、種子島宇宙センターから打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は順調に飛行を続けています。太陽を約366日でまわる、地球と似た軌道に乗っており、2015年12月には地球に接近します。この接近により、地球の重力を借りた加速を行い、小惑星1999 JU3に向かいます。

  現在、「はやぶさ2」は、どの星座の方向を飛行しているのでしょうか? 地球の軌道の周辺、どのあたりにいるのでしょうか。

  JAXAのwebページ「はやぶさ2カウントアップレポート“L+(エルプラス)”」http://fanfun.jaxa.jp/topics/ をごらんいただきますと、レポート時点の「はやぶさ2」の位置情報が図とともに出ています。また、サイエンスライターの柏井勇魚(かしわい・いさな)さんによるページhttp://www.lizard-tail.com/isana/hayabusa2/ でも軌道上の現在位置が立体的に表示されています。

  もし、天球上の現在位置・今後の位置や、軌道上の現在位置・今後の位置をさまざまな角度から立体的に確認したい、というかたには以下の方法が参考になるかもしれません。

①まずは、「はやぶさ2」の軌道要素の入手

 NASAの惑星探査計画の拠点であるJPLのwebサイトhttp://ssd.jpl.nasa.gov/horizons.cgiにアクセスします。太陽系天体の位置や軌道のデータを提供してくれるのが、この「ホライズン・システム」です。EphemerisTypeをOrbital Elements に設定します。Target Body の Lookup the specified bodyで Hayabusa 2 を指定します。Time Span では、例えば今日の日付から1か月先までなど(Stop Time に限度が設定されていることがあります)指定します。Step Size では、出力する時間間隔(例えば 2 daysなど)を指定します。Generate Ephemeris というボタンで、指定期間中の 「はやぶさ2」の軌道要素が表示されます。使用されている記号については、出力の最後に説明があります。 

 資料(1)によりますと、2015年12月の地球接近までは目立った軌道の変化はないようです。「ホライズン・システム」の出力を見てもそれがわかります。地球接近以降は、かなり軌道が変わりますのでご注意ください。

②軌道の図示

 国立天文台 4次元デジタル宇宙プロジェクトで開発されたフリーソフトの宇宙シミュレーター「Mitaka」http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/index.html

では、太陽系の軌道や位置を表示することもでき、さらにその派生版である「MitakaPlus」http://orihalcon.jp/mitakaplus/ を使うと、「はやぶさ2」の軌道を示すことができます。まず、Mitakaをダウンロードしてパソコンにインストールし、次いでMitaka Plus をダウンロードし、Mitakaと同じ場所に上書きする形でファイルを展開します。¥data¥orbits¥asteroids というフォルダーに、小惑星の軌道要素ファイルがあります。それを参考に、「はやぶさ2」の軌道要素をいれ、hayabusa2 という名前で同じ場所に保存します。同様にして、「ホライズン・システム」から小惑星 1999 JU3 の軌道要素も入手し、その軌道も表示できるようにしておくとよいでしょう。

図1-20150101-0401-はやぶさ2軌道位置

Mitaka Plusで再現した「はやぶさ2」の軌道と左から2015年1月、2月、3月、4月の各1日の地球と「はやぶさ2」の位置。「は」という字の前の小さな点が探査機の位置。地球、「はやぶさ2」、1999 JU3、いずれも太陽の周りを反時計まわりに移動。(開発 Mitaka:  加藤恒彦 国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト/Mitaka Plus:高幣 俊之(ORIHALCON Project))

「Mitaka Plus」を起動して、着陸・離陸(L) を選び、スケールを1天文単位にします。 ターゲットからターゲットブラウザを選択し、小惑星の中から「はやぶさ2」や「1999 JU3」にチェックをいれれば、その軌道が表示されます。

③天球上の位置

 軌道要素がわかれば、星空を表示する、さまざまなプラネタリウム・ソフトで、「はやぶさ2」や「1999 JU3」の天球上の位置、どの星座のどのあたりにいるかを表示できるはずです。みなさんがお使いのプラネタリウム・ソフトで、新発見の彗星や小惑星の表示機能があるかどうか、確認してみてください。筆者がWindows95時代から愛用しているプラネタリウム・ソフトに、StarCalcというフリーソフトがあります。(http://www.m31.spb.ru/StarCalc/main.htm) StarCalcのメニューでは、Services の中に Asteroids and Comets という項目があり、Add というボタンで新たな天体の軌道要素が追加できるようになっています。同じく Services の中のPaths of Objects という機能を使ったものが次の図です。2015年1月1日から4月1日までの「はやぶさ2」の位置が5日毎に示されています。

  図2-はやぶさ経路2015-Jan-Mar

StarCalc で作図した2015年1月1日から4月1日までの「はやぶさ2」の位置。オリオン座の下(南)にある「うさぎ座」を通り、「いっかくじゅう座」に移動していきます。

 ぜひ、みなさんのパソコンでも「はやぶさ2」を追跡してみてください。「はやぶさ2」が今どこにいるのかを知ることによって、「はやぶさ2」への親しみもいっそう増すのではないでしょうか。小惑星1999 JU3のサンプルを収めたカプセルが地球に帰還する2020年12月まで、いや、カプセル切り離し後の「はやぶさ2」の行方もずっとずっと追っていきましょう!

資料

Trajectory Design for Japanese New Asteroid Sample Return Mission Hayabusa-2( http://issfd.org/ISSFD_2012/ISSFD23_IMD1_1.pdf)

(天文担当 山田陽志郎)

ISSの太陽面通過(平成26年5月)

 2014年(平成26年)5月14日(水)の10時半をまわった頃、博物館のエントランスホールには、すでに100名ほどの市民のかたが集まっていました。60インチ大型モニターに映るJAXAからの中継映像を見つめながら、若田宇宙飛行士の帰還を待っていたのです。 10時58分30秒、若田さんを含む3人の宇宙飛行士を乗せたソユーズTMA-11Mの帰還モジュールは無事カザフスタンの平原に着地しました。188日ぶりの宇宙からからの帰還でした。90-26-260522

 そのちょうど1週間前、まだ若田さんが滞在中のISSが、太陽の手前を通過するという珍しい現象が起こっていたのです。博物館には、太陽を安全に観測できる専用の太陽望遠鏡があるため、この現象をビデオ画像としてとらえることができました。博物館から太陽方向、直線距離で600kmほど離れたところをISSが通過していったのです。(写真参照。太陽面を瞬時に移動していくようす)仮に太陽面の中央を通過した場合でも0.8秒という短時間の現象でした。今回の現象はおよそ横浜線古淵駅から根岸線磯子駅を結ぶ線を中心に幅約7kmの範囲でしか見られませんでした。7kmというと徒歩2時間とかからない距離です。

 学校などで、太陽黒点を安全に観察しているかたは、ISSの太陽面通過を見る機会があるかもしれません。また、ISSが月面を通過する場合なら、太陽のような観察上の危険は全くありません。(注意:太陽を直視したり、安全が保証された方法以外での太陽観察は決してなさらないでください。失明の恐れがあります)みなさんの観測地点から、近日中にISSの太陽面・月面通過が見られるかどうかを、以下のwebページを参考に計算することができます。ぜひチャレンジしてみてください。

(1) 人工衛星通過予報サイト Calskyの使い方説明 (ISSの太陽面・月面通過)
(2)ISSの天体通過予報サイトの使い方    

ただし、「以下の場所からDEMをダウンロード」の場所は
http://dds.cr.usgs.gov/srtm/version2_1/SRTM30/   
に変更になっています。
(天文担当 山田陽志郎/写真処理 伊藤雄一)

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生きものの窓(平成26年度)

新年最初のビッグな新資料(平成27年1月)

 今年(平成27年)最初の開館日は、1月4日でした。まさにその仕事始めの日、当館で活動されている市民学芸員の方から電話が入りました。

 「知り合いから、道にフクロウが死んでいる、と連絡を受けたのですが、どうしましょう?」

 どうもこうもなく、駆け付けたのは言うまでもありません。フクロウは、緑区の山間部を中心に市内で広く生息する野鳥ですが、夜行性であるために生息記録が多いとは言えません。「鳴き声」の情報でもありがたいのに、実物の発見情報です。やりかけの仕事を中断して標本の確保に向かいました。

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発見してくださったのは、郷土の文化や自然を探求する「城山エコミュージアム」のメンバーの方でした。発見者にも恵まれました。

 博物館から少し離れた場所だったため、現着するのに1時間近く経ってしまいました。しかし、発見者のみなさんは寒い中、死体がカラスやネコなどに持って行かれないよう、待っていてくださいました。実物を見ると、驚くほど状態の良い死体です。おそらく、その日の朝か前夜に落鳥したのだと思います。目立った外傷は無く、羽の傷みもまったく無かったのですが、胸からお腹のあたりを触ってみると、ガリガリに痩せていました。おそらく、食糧が思うように捕れなくて衰弱死してしまったのだと思います。年末年始休で食べ物に恵まれすぎていた我が身に対して、暮れも正月もない自然の厳しさを改めて感じました。

 さて、かわいそうなこのフクロウは、本来ならスカベンジャー(死肉や腐肉、排泄物などを食べる動物)に食べられ、いくつもの過程を経て分解され、土へと還ってゆくのが自然の摂理です。しかし、これほど状態の良い標本を博物館として活用しない手はありません。ありがたく拾得し、持ち帰りました。

 持ち帰ってから改めて計測したり、観察したりして、現在は冷凍保存しています。近々はく製にして、永久保存できる状態へと処理し、その過程で胃内容物や骨の状態なども見て死因の特定もしたいと考えています。

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フクロウのセレーション構造(上)

比較のためのコジュケイの羽縁(下)

 さて、冷凍前の観察の中で撮影した写真をご紹介します。翼を構成し、飛翔に寄与する大きな羽である風切羽の拡大写真です。縁にギザギザがあります。この構造はセレーションと呼ばれ、フクロウのなかま以外の鳥には見られません。飛翔時に気流の乱れを減らして、いわゆる「空気を切る音」を少なくしているのだそうです。実際、フクロウは人間の耳に聞こえるようなはばたき音がしません。これは、闇の中でノネズミなどを狩るのに都合よく発達したものでしょう。

 じつはこの構造、日本の最新鋭の新幹線にも応用されています。初期の新幹線は、パンタグラフの空気を切る音が、少なからぬ騒音となっていました。これを解決するために、パンタグラフの表面にセレーション構造をまねた加工を施した結果、騒音軽減に役立っているというのです。このように生物の形態などにヒントを得た技術を、生物模倣技術(バイオミメティクス)と言います。

 生物の死を扱うのは、決してきれいごとでは済まないことが多く、今回のように状態の良い標本ばかりでもありません。しかし、生物相を記録し、将来へ伝えるにあたって未来永劫、その証拠として残るだけでなく、時として私たちの生活に密着した新技術のヒントが内在していることもあります。自然からの贈り物、と表現するのはやや不謹慎かもしれませんが、今年はそんなありがたい気持ちでいっぱいの仕事始めとなりました。(生物担当学芸員 秋山幸也)

 

ネナシカズラの魅惑(平成26年9月)

世の中には不思議な生態の植物があるもので、それは、熱帯のジャングルや砂漠のような極端な気候の場所へ行かなくても、意外と身近な場所にも生育しています。

 その一つ、アメリカネナシカズラをご紹介します。この植物はつる性の寄生植物で、つる性という以外に共通点はなかなか見いだせないのですが、なんとヒルガオ科に属します。つまり、アサガオと同じなかまで、初秋に大きな川の河原などでよく見られます。そのようすは、宿主となった植物群落に覆いかぶさるように、というか、図鑑などではよく、「ラーメンをぶちまけたような」と表現されます。ちょっと黄色みがかった茎が入り乱れて絡まるようすは、まさしくそんな感じです(写真1)。

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写真1 アメリカネナシカズラ

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写真2 アメリカネナシカズラの花

 この植物は完全な寄生性で、葉っぱどころか、光合成を行う葉緑素そのものを持ちません。だから、植物のくせに緑色の部分がまったくないのです。花も色素が無く、透明に近い白色です(写真2)。地面から発芽してひょろひょろと茎を伸ばし、宿主となる植物の茎や葉にからみつくと、寄生根(写真3)を食い込ませます。水分や養分を吸収できるようになると、なんと、地上に出たあたりの茎が枯れて消失してしまうのです(写真4)。今年は博物館のプランターにまいておいた種子が発芽したので観察していたところ、7月にめでたくそのシーンを撮影することができました。

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写真3 寄生根(下向きの突起)

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写真4 枯れた地上部の根本

そして今、9月となった河原では、まさしく「ラーメンをぶちまけたように」生育しているのが見られます。この植物は名前から想像できるとおり、外来植物です。「アメリカ」と頭につかないネナシカズラという植物もあり、先日相模川を訪れたところ、隣り合って生育していました。こちらは茎が太く、繁茂するようすはなかなか壮観です(写真5)。

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写真5 ネナシカズラ

寄生植物というのはその生き様から、ネガティブなイメージを持たれます。確かに宿主にしてみれば迷惑千万なのですが、私はどうもネナシカズラのなかまが気になってしかたありません。つる性寄生植物なので、宿主を覆い尽くして大繁茂した後は、宿主が支えきれずに共倒れという末路が待っています。実際、この植物は数年繁茂した後はたいてい、ぱたりと姿を消してしまいます。そして、しばらくするとまた、近くの新しい場所で何事もなかったように生育し始める、ということがよくあります。そんな刹那的な生き方に、ちょっと憧れをいだいてしまうのです。(生物担当学芸員 秋山幸也)

 

やっぱり大きな春蚕の繭(平成26年7月)

5月下旬、博物館では今年もカイコの飼育を始めました。掃き立て(ふ化した毛蚕を飼育台へ移す作業)から3週間とちょっと、熟蚕に育て上げて6月中旬には無事、繭となりました。この間、カイコはふ化直後の全長約2.5mmから、5齢(終齢)の半ば、最大で約8cmまで成長します。なんと30倍!1か月にも満たない期間でこれだけの成長を遂げる生きもの、それがカイコです。  
 そのかわり、食べる量は齢期が進むにつれて加速度的に増大します。5齢に脱皮してからは、相当がんばって給桑しても追いつかないくらい、勢いよく食べてくれます。かつて相模原でも養蚕が盛んだった頃、5齢になると家族が交替で24時間体制で給桑していたという話を聞きますが、この食いっぷりを見れば納得です。  
 さて、この時期、シーズンの最初に育てるカイコを春蚕(はるご)と呼びます。カイコの野生原種に近いとされるクワコも同じタイミングでふ化、成長するので、カイコにとって本来の生育シーズンと言えるでしょう。瑞々しい良質なクワの葉をあげられるし、夏ほど気温が高くないため、成長が早すぎることもありません。これは、養蚕学の大きなテーマであった「大きな繭=長い繊維」をとるための必須条件です。実際、昨年秋に育てた晩秋蚕(ばんしゅうさん)の繭と比べると、大きさの違いは歴然としています。

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春蚕(左)と晩秋蚕(右)の繭

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 脱肛症状のカイコ

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小学校での出張授業風景

 繭の大きさだけではありません。芽吹いてから時間の経った水分の少ない葉をあげていると、どうしても病気の蚕が多発します。代表的なものは、脱肛です(写真は昨年の晩秋蚕)。かわいそうですが、このようになったカイコはまゆを作れずにそのまま衰弱死してしまいます。  
 クワを専門に食べるカイコにとって、やはり新緑の頃が一番条件の良い季節ということになります。良質なクワをしっかり食べさせることができた今年は、特に大きな繭をとることができました。  
 繭と言えば、先ごろ、群馬県の富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録されることが決定しました。このニュースに刺激されたのでしょうか、今年は市内の小学校から「カイコの卵を譲ってほしい」という要請が例年よりも多くありました。博物館ではできるだけ要望にお応えし、卵を提供する際には必ず農業としての養蚕について理解を深めていただくため、学芸員が出張授業を行っています。日本の近代化を支えた養蚕から、生物資源として新たに注目を集めるカイコを、これからも学習教材として積極的に扱っていきたいと考えています。 (生物担当 秋山幸也)

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地質の窓(平成26年度)

厚木市七沢の地質1(平成27年2月)

 厚木市七沢では、約1,200万年前の海底火山噴火によってできた岩石がみられます。これらの岩石は火山灰が固まってできた凝灰岩のなかまで、丹沢山地をつくっている岩石の一部です。丹沢山地の凝灰岩のなかまの多くのものは緑色をしています。丹沢山地をつくっている凝灰岩や火山岩のなかまは、まとめて丹沢層群と呼ばれています。

 丹沢層群の岩石は元々、今の場所にあったものではありません。地球表面を覆う岩盤の一部であるフィリピン海プレートの上に載っていた海底火山噴出物が、北上するフィリピン海プレートと一緒に移動してきて、日本列島に付け加わったものです。フィリピン海プレートは本州の下にもぐり込んでいきますが、その上に載っていた海底火山噴出物はもぐり込めずに日本列島の一部となり、隆起して山地をつくっています。

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七沢ではこのような緑色をした凝灰岩がいたるところで見られます。

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きれいな縞模様の凝灰岩の地層も観察できます。色や大きさの違う火山灰が交互に積み重なり、縞模様ができます。色の違いは噴火するマグマの性質の違いなど、粒子の大きさの違いは噴火の規模の違いや火山からの距離の違いなどを表しています。

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凝灰岩の中に一際濃い緑色したセラドン石と呼ばれる鉱物が含まれていることがあります。肉眼で見えるのは一つの結晶でなく、顕微鏡で見ても一粒一粒が判別できないような小さな結晶の集合体です。七沢の河床や川原の転石・砂利などからも鮮やかな緑色のセラドン石を採取することができます。

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ごくまれに、非常に粒子の細かい白色の凝灰岩が見られます。これは遠方の火山からの火山灰が海底に降り積もってできた凝灰岩です。どこの火山の噴火によるものなのかはわかっていません。

  七沢を流れる玉川の上流には、数十メートルの切り立った岩壁、弁天岩があります。弁天岩も凝灰岩です。

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弁天岩。

 弁天岩のさらに上流には大釜弁財天があります。ここではポットホール(甌穴)が見られます。ポットホールは上流から流れてきた岩石が河床の岩盤の凹みなどにはまり込み、川の速い流れによって激しく回転することにより、河床の岩盤が削られてできた穴です。大釜弁財天にみられる凝灰岩のなかまにはセラドン石は含まれていません。

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 大釜弁財天のポットホール。

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 大釜弁財天で見られる凝灰岩のなかま。縞模様が見られます。

 (地質担当学芸員 河尻)

 ミョウバン結晶2(平成26年12月)

 典型的なミョウバン結晶の形は正八面体、つまり、2つのピラミッドを底面でくっつけた形をしています。実際には、正八面体の頂点や稜線をナイフで切り取った形のものも良く見られます。飽和水溶液の中に種結晶を吊るして育成した結晶は、典型的な結晶の形になります。

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典型的なミョウバン結晶。

 しかし、ビーカーの底にできる結晶は典型的なものとは違った形に見えます。ビーカーの底では結晶が成長する方向が制限されており、きれいな正八面体になることができません。かといって、まったくでたらめな形になるわけではありません。結晶となる物質はそれぞれ“自分の形”を持っています。同じ物質なら結晶の形をつくっている面と面との角度は必ず同じになります。この性質は「面角一定の法則」と呼ばれています。ビーカーの底にできた結晶の面と面の角度も典型的なミョウバン結晶のものと同じです。どの面が広くなるかによって、全体の形が違って見えます。

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ビーカーの底にできたミョウバン結晶。

  ミョウバンにはいくつかの種類があります。カリミョウバン、アンモニウムミョウバン、クロムミョウバン、鉄ミョウバンなどがあります。これらは含まれている成分が違います。ふつうに「ミョウバン」と呼ばれているものは、カリミョウバンのことで、カリウムアルミニウムミョウバンとも呼ばれます。さらに別の言い方をすれば、硫酸カリウムアルミニウムです。

 以前、色のついたミョウバンの結晶を作ろうと思い、クロムミョウバンの結晶作りに挑戦しました。うまくいけば、濃い紫色をした結晶ができるはずだったのですが、失敗に終わりました。そのときにビーカーの底にできた1~3mmの結晶をチャック付きの袋に入れて、しまっておきました。数年後に取り出してみると、結晶がいくつか成長していました。なかには1cmを超えるものもありました。どのようにして大きくなったのかは、よくわかりません。もしかすると、クロムミョウバンは空気中にわずかに含まれる水分を使って成長できるのかもしれません。カリミョウバンはチャック付きの袋に入れておいても成長しません。

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クロムミョウバンの結晶。写真の左のほうに大きくなった結晶がいくつか見える。

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約1週間かけて作った硫酸銅結晶。

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約1年かけて作った硫酸銅結晶。

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 ペットボトルの底で大きくなった硫酸銅結晶。約1年かけて硫酸銅結晶を作ったときのもの。

 ミョウバンではありませんが、硫酸銅の結晶を作ったこともあります。約1週間で2~3cm、約1年で10cmくらいの結晶を育てることができました。

  さて、ミョウバンと硫酸銅の飽和水溶液を混ぜるとどのような結晶ができるのでしょうか?

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ミョウバンと硫酸銅のそれぞれの飽和水溶液を混ぜた溶液からできた結晶。

 答えは、飽和水溶液からそれぞれが別々に結晶となって、モザイク状になります。両方が混ざった結晶や、全く別の物質ができたりすることはありません。

 (地質担当学芸員 河尻)

ミョウバン結晶1(平成26年10月)

相模原市立博物館では毎年夏休みに、「子ども鉱物教室」を開催しています。鉱物が大きくなっていく様子を体験してもらうために、ミョウバン結晶の育成を行います。この教室で見本のミョウバン結晶を見せるために、大きな結晶つくりに挑戦しています。今回、2年5ヶ月かけて10cmを超える結晶を作ることができました。ただし、この大きな結晶は下半分が階段状になっています。写真ではわかりにくいですね。

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今回、2年5ヶ月かけて作ったミョウバン結晶。

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今回作った結晶の作成開始から1年後の様子。この時はまだ、形もよく、透明できれいな結晶でした。

ミョウバン結晶の作り方を簡単に説明します。ミョウバンは水に溶けることができる量が決まっています。例えば、20℃では、100gの水に対して約12gのミョウバンが溶けることができます。もうこれ以上、溶けることができなくなった状態を「飽和」といいます。飽和状態の水溶液を「飽和水溶液」といいます。さて、わざわざ「20℃では」と限定したのは、温度によって溶けることができる限界量が変わってくるからです。温度が高いほどたくさんの量が溶けることができます。高い温度で飽和水溶液を作っておいて、それを冷ましていくと、溶けていられなくなったミョウバンが結晶として現れてきます。結晶として現れることを晶出といいます。また同じ温度でも、水の量が多ければ多くのミョウバンが溶けることができます。飽和水溶液が蒸発して、水の量が少なくなると、溶けていられなくなったミョウバンが晶出します。つまり、飽和水溶液の温度を下げるか、もしくは、水分を蒸発させるかすれば、ミョウバンが晶出します。

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左:約9ヶ月かけて作ったミョウバン結晶、右:約6ヶ月かけて作ったミョウバン結晶。

結晶が晶出する時に“核”となる結晶があるとその周りに晶出していきます。“核”となる結晶を種結晶と呼びます。飽和水溶液に針金などにつけた種結晶をつるしておくとそこに結晶が晶出して、結晶がどんどん大きくなっていきます。相模原市立博物館では、1cmくらいの結晶になるまでは温度を下げる方法で結晶を作ります。その後は、水分が自然に蒸発するのを利用して、結晶を大きくします。

今回、作り終わった結晶は、作り始めてから約2年がたった今年の春、ほこりが入らないようにふたをかぶせました。ただし、隙間を空けておかないと、水分が蒸発できないので、隙間は空けておきました。ふたをかぶせた時期は、ちょうど冬から春に向かって気温が暖かくなる時期です。ふたがなければ、気温が上がっても、その分、水分が蒸発するのでミョウバンが晶出します。しかし、温度が上がったのに、ふたがあったため少しの水分しか蒸発できなかったので、せっかく作った結晶の一部が溶けてしまったようです。

地質の窓4    

2年かけて作ったミョウバン結晶。この時も最後に少し溶けてしまい、下の方(写真の右側)が階段状になってしまいました。

結晶の溶け方は、上半分は上端のとがった部分から溶けていき、下半分は結晶面の平らな部分の真ん中から溶けていきました。途中で溶けていることに気がついたので、あわててふたをはずしました。しばらくすると、再び晶出が始まりました。しかし、結晶の上半分は元の形に戻ったのですが、下半分は階段状になってしまいました。晶出するときはとがった部分やエッジの部分から晶出していきます。溶けた真ん中の部分は後から晶出したので、階段状になったようです。

 (地質担当学芸員 河尻)

道志川上流の地質(平成26年6月)

相模原市西部を流れる道志川は相模川の主要な支流の一つです。山梨県山中湖村と道志村の境界、山伏峠付近を源流とし、相模原市緑区三ケ木付近で相模川と合流します。道志川の上流部には富士山が噴火したときの噴出物や丹沢山地の中心部をつくっている岩石がみられます。 富士山の噴出物は相模原でみられる関東ロ-ム層とよく似ていますが、こちらの方が厚く堆積しており、層がはっきり見えています。含まれている溶岩の破片も相模原のローム層中のものよりも大きなものが多いです。富士山が近いため噴出物の粒も大きく、地層も厚くなります。また、道志川の護岸には天然石が利用されているところもあります。使われている石は玄武岩で、富士山の溶岩の可能性が高いです。

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山伏峠付近の富士山の噴出物。層がはっきり見える。

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山伏峠付近の富士山の噴出物。相模原のローム層中のものよりも大きな溶岩の破片が含まれる。

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富士山の溶岩と考えられる玄武岩が使われている道志川の堤防。

丹沢山地の中心部をつくっている岩石は、閃緑岩や斑れい岩のなかまです。閃緑岩や斑れい岩は、マグマが地下深くで、ゆっくり冷えて固まってできた岩石、いわゆる御影石と呼ばれているものの一種です。含まれている鉱物がかなり大粒の斑れい岩もみられます。

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道志川源流部河床の閃緑岩のなかま。

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道志川源流部の斑れい岩。

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斑れい岩には粗粒なものも見られる。

 

 道志川の支流、室久保川の河床に目玉のような模様が見られます。この模様は「的様」と呼ばれており、伝承では昔、源頼朝が武道鍛錬のために作った標的ということです。他にもあったようですが埋もれてしまったそうです。このあたりの河床は閃緑岩のなかまでできています。全体(灰色の部分)が閃緑岩のなかまで、目玉模様の白い部分は別の種類のマグマが冷えて固まってできたものです。「的様」は“的”の周囲の閃緑岩のなかまをつくったマグマと“的”の白い部分を作ったマグマが完全に混じらずにできた模様です。マーブルケーキのマーブル模様のようなものです。

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室久保川の河床の「的様」。

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 「的様」の周辺の閃緑岩のなかま。

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室久保川下流の結晶片岩。

「的様」の下流、「道志の湯」の近くでは、変成岩の一種である結晶片岩が見られます。丹沢山地に見られる結晶片岩は、凝灰岩や安山岩・玄武岩等の火山岩が高い圧力によって押しつぶされてできたものです。高い圧力により、もともとの岩石を構成していた鉱物は別の鉱物につくり変えられています。 (地質担当学芸員 河尻)

 

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民俗の窓(平成26年度)

相模原の民俗を訪ねて(№80)~各地のどんど焼き(2)~

 前号の№79に引き続き、今年(2015年)の12日(祝)と14日(水)のどんど焼きの様子を写真を中心に紹介します。

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【写真1】12日・水郷田名。河原での準備

 写真1は中央区田名の水郷田名(久所)地区です。田名は前日の11日(日)が多かったようですが、ここでは12日に相模川河原の高田橋の下側にたくさんの正月飾りなど多くの燃やすものを積んで大きなものが作られました。

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【写真2】葉山島・下河原。津久井地域では、竿を高くして上にだるまを付けるのをよく見かける

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【写真3】葉山島・中平。高い竿が青空に映える

 写真2と3は12日の緑区葉山島で、2が下河原、3が中平です。いずれも相模川沿いの水田の一角にかなり高いものが見られました。下河原では18日(日)にどんど焼きを行うとのことでした。

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【写真4】鵜野森。数年ぶりに訪れたところ、場所が変更されていた

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【写真5】横側に団子を焼く所を作ってあり、ここで多くの人が焼いていた

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【写真6】道祖神碑の前で点火するに当たり、お供えされた花などがあった

写真4~6も12日の南区鵜野森地区の日枝神社です。この地区は以前は地区内のこども広場で成人の日に実施していましたが、今年は地区の氏神の日枝神社境内に場所が変更されていました。町田駅にもほど近く、周囲に住宅もあるため網で囲った中で燃やすようにして、別に団子を焼く場所が作られていました(この設備は以前もありました)。また、地域の道祖神碑には花や米・塩が供えられており、これまでと同様に道祖神碑の前でどんど焼きの種火を付けたと思われます。

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【写真7】14日・大沼神社。ふれあい広場と同様に道祖神碑が取り外しできるようになっている

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【写真8】燃やすものの前に道祖神碑を飾る

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【写真9】点火する前には道祖神碑にも酒を掛けて清める

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【写真10】周囲から点火していく

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【写真11】点火する前には道祖神碑を少し火から遠ざける。後ろ側で盛んに燃えているのが分かる

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【写真12】今年は団子焼き用に小さな燃やすものも作られていた

 写真7~12はいずれも14日の南区大沼神社です。№79でも記したように、大沼地区ではふれあい広場と大沼神社でどんど焼きが行われており、大沼神社では平日に関係なく、14日実施に固定されています。ちなみに現在でも14日に行うのは神社の行事として位置付けられていることが多いようです。大沼では昔から地区の上と下地区に二か所で団子焼きが行われ、以前は子どもたちが各家から麦藁を集めて道祖神碑(セーノカミ。現在のものは第二次世界大戦後に作られたもので、古くは七沢石製のものがあったそうです)が入るくらいの小屋を作り、前側は悪いものが入らないように棘があるバラの木の枝を飾ったそうです。そして、今はどんど焼きは無病息災のための行事とされていますが、養蚕が非常に盛んだったこの土地では白い羽二重のような良い繭ができるように行ったのだ、というお話しも伺いました。

 博物館で多くの市民の皆様のご協力を得ながら毎年進めてきたどんど焼き調査も、今年で12年目を迎えました。それでもまだ情報がない地区のほか、新たな発見があったり大きく変化した所もあります。今後とも調査を継続して各地の事例を「民俗の窓」にしていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№79)~各地のどんど焼き(1)~

 前号の№78に引き続き、今年(2015年)の市内各地のどんど焼きの様子を写真を中心に紹介します。写真の枚数が多くなるため、10日(土)と11日(日・№78で記した田名新宿地区は除きます)を(1)に、12日(祝)と14日(水)を(2)に記すことにします。

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(写真1)10日・大沼ふれあい広場。かなり大きなものを広場に作る

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(写真2)道祖神碑は取り外せるようになっている

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(写真3)燃やすものの前に道祖神碑を置く

 写真1~3は南区大沼のふれあい広場です。大沼地区は、(2)でも見るようにこの場所のほかに大沼神社でもどんど焼きが行われており、ふれあい広場は成人の日が多かったようですが今年は10日の午前に準備し、11日(日)の午後に点火されました。大沼では両地区とも道祖神碑を燃やす所の前に移動しています。

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(写真4)古淵・正月飾りで道祖神の小屋を作る

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(写真5)10日午後2時に点火したが、まず小屋の方から火をつける

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(写真6)燃やすものは二つ作られ、小屋の後に枯れ枝等を積んだものも燃やす

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(写真7)火が収まってきたら適宜団子を焼く

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(写真8)トッカエ団子。かつては各地で行われていたが、現在も見られる地区は少ない

 写真4~8は南区古淵で、昨年から14日夕方に固定されていたものが、第二土曜か日曜というように日取りが大きく変わった地区です。今年は10日の午前9時30分から準備が始まり、正月飾りで飾る道祖神の小屋と、木材と枯れ枝などを積み上げたものの二つが作られます。昔は古淵では上と下の二か所でどんど焼きが行われていたことや、この火を家に持って帰って神棚のろうそくに点したり、書初めも燃やしたことを伺いました。また、各自が焼いた団子を取り替えるトッケエ団子は今も行われており、三つ又の枝の先に取り付けた三個の団子のうち二個を取り替え、一個は自家用に持ち帰るとのことです。

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(写真9)南区当麻・原当麻。道祖神碑の前側に作る

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(写真10)当麻地区中・下宿。ここでは小屋を燃やさないで一年間そのまま置いておく

 写真9は南区当麻の原当麻、写真10は同じく当麻の中・下宿で、いずれも藁などで小屋状のものを作る地区です。今年も10日には作られており、中・下宿ではそのまま置き、原当麻ではどんど焼きで燃やしてしまいます。

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(写真11)11日・田名滝。11日午前8時30分準備、午後1時点火

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(写真12)田名・陽原。自治会等の主催以外に、昔からの講中などで行っている地区もある

 写真11・12は11日のもので、いずれも中央区田名地区です。この行事はかつては成人の日前日の14日に実施されることが多かったものの、ハッピーマンディー法が施行されて祝日が第二月曜日になってからは、地区によって日が異なる状況も見られました。しかし、最近は成人の日前日の第二日曜日が多くなっており、今年も各地で行われました。写真11は滝地区で相模川の河原で行われていました。写真12は陽原(みなばら)地区で、この道路向かいにある道祖神碑の近くにある家で行っています。陽原では三か所で実施するとのことで、すでに午後三時過ぎでもあり、団子を焼く人が帰った後ということもありますが、それでもそれほど多くの人々ではなく、今でも昔からの地域単位でこじんまりと行っている地区の一つです(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№78)~道祖神のお社を作る~(中央区田名新宿地区・平成27年1月)

 博物館では、平成16年から市民の皆様にご協力を得ながら毎年、どんど焼き(団子焼き・サイトバライ)の調査を続けており、その成果はこの「民俗の窓」でもたびたび紹介しています。今回は、中央区田名新宿地区で、道祖神の石碑に被せる小屋状のものを作って燃やす事例について紹介します。

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上組のお社の枠組み

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次第にできあがる上組のお社

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完成したお社は上組みの道祖神碑に飾る

 田名新宿集落は田名地区の中でも東寄りに位置し、上溝地区に近いところです。田名新宿では、今年は1月11日(日)にどんど焼きが行われました。この地区の古くからの家々は集落の中を通る旧道に沿ってあり、北側の上組と南側の下組に分かれています。そして、上組・下組ともにお社(オヤシロ)と呼ばれる、道祖神碑に被せるものを作っています。今から15~16年ほど前までは、各家から納められる正月飾りでお社を作っていましたが、現在では正月飾りが少なくなったため、設計図に基づいて枠組みを木材で作り、回りを正月飾りで飾るようになりました。これに対して、上組の道祖神碑は交差点の角に他の地蔵などの石仏とともにあり、動かすことができないのでお社を道祖神の横から入れ、下組の道祖神碑は移動ができるため、上から被せるように作るそうです。

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下組ではまず道祖神碑を移動する

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道祖神碑が中に置かれているのが見える

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お社のお飾りで飾っていく

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できあがった下組のお社

 当日は、上組では午前9時から個人宅の車庫で作り始め、約一時間ほどで完成して道祖神碑にお社を被せました。下組では、田名新宿の神社である稲荷社に納められていたお飾りを自治会館(観音堂も兼ねています)の敷地に運んで選別したりして、10時頃から製作が始まりました。まず敷地内にある道祖神碑をお社を作る場所に移し、屋根を杉葉で葺いて棟などの部分は大根巻きと呼ぶ太いしめ縄で囲い、回りもお飾りで飾っていきます。下組の方もやはり一時間弱でできました。この後は、午後1時からの点火までしばらく置いておきます。そして、点火前には上組のお社を自治会館に運んで上下のお社を並べ、下組のお社から道祖神碑を取り出して元の場所に戻して点火となります。その後は適宜、団子を焼きに来る人が訪れ、いろいろと話をしながら団子を焼いてその場で食べたり、家に持ち帰る姿が見られました。なお、やはり15年ほど前まではお社を上組と下組が別々に作るだけでなく、燃やすのもそれぞれの場所で行っていたとのことです。

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燃やす前には上組のお社を持ってくる。向って左側が上組のもの

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点火前には下組の道祖神碑を取り出して元の場所に戻す

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点火されたお社

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その後は適宜、団子焼きが行われる

 市内ではどんど焼きは各地で盛んに行われており、その中には道祖神の小屋を作ったり、燃やす場所に道祖神碑を運ぶなど、道祖神と係わる古くからの要素を残していると考えられる地区もあって、そうした状況も「民俗の窓」で紹介してきました。今回の田名新宿地区のような、どんど焼きの当日(あるいは数日前)に、道祖神碑の小屋状のものを作る事例は南区当麻の原当麻や田名清水地区に見られ、特に田名清水は田名新宿と同様に、どんど焼き当日に道祖神碑の上に作って数時間後に燃やしています。また、道祖神碑等を移動させるのも南区大沼(二か所)や南区上鶴間・金山神社をはじめ、町田市の境川・八坂神社や金森・杉山神社などでも行われていることを紹介してきました。今後も市内外の注目される地区のどんど焼きについて紹介していきたいと思いますが、実はここで取り上げた田名新宿のお社を作る事例は、冒頭に記したようにすでに10年以上もこの行事に注目している中で、民俗講座に参加されている方から情報が寄せられて初めて分かったものであり、まだまだ知らないことも多いことを改めて実感しました。今後も何か情報があれば、是非お知らせいただければ幸いです(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№77)~お地蔵様の念仏~(南区下溝古山地区・平成26年12月)

 前回の「民俗の窓」では、緑区久保沢の観音堂に祀られている石造の百体観音について記しましたが、今回は南区下溝・古山地区の石造地蔵塔とその念仏(和讃)について紹介します。なお、当日は民俗資料の整理作業に当たっている「福の会」の会員が10名ほど見学させていただきました。

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地蔵が祀られている祠

 古山地区は下溝のもっとも北側にある集落で、「民俗の窓」No.37では平成24年7月の天王祭について触れています。古山集落の南側にある古山坂(下坂)の登り口の所にある小さな祠の中に祀られているのが地蔵塔で、現在では大正頃のものが前側にあり、それ以前の古い地蔵と思われるものが裏側に置かれています。この地蔵は子育地蔵と言われ、4月と12月の4日が地蔵様の日で、かつては近所の人が自家製の煮物や菓子などを持って集まり、祠の前にムシロを敷いて念仏をしていました。その後は地区の公会堂に場所を移し、現在でもこの両日に古山の高齢者の女性によって念仏が行われています。

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当日、午前中に総代が掃除や幟立てなどの準備を行う

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準備が整った地蔵の祠

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念仏に訪れた方はまず掛軸を拝む

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念仏を唱えている様子

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「お茶念仏」の前には新しいお茶を入れる

 今年(2014年)の12月4日には、まず午前9時頃に古山の3名の氏子総代の男性の方々が地蔵に集まり、祠とその周辺の掃除をするほか、幟を立てて花などをお供えしました。地蔵の念仏は女性によって実施されるものの、行事自体は集落全体のものとして鎮守である十二天神社の総代の主催となっており、総代は当日の準備等を担当します。念仏は午後1時から公会堂で約20名ほどの皆様によって行われ、「下村地蔵様念仏」と記された帳面に基づき、30分ほどで終了しました。途中、「お茶念仏」と言われる念仏の前には茶を入れ替えるとのことで、参加者全員に新しいお茶を出すことなどもありました。

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「請雨」の文字が記された御札

 ところでこの地域の民俗について大変に詳しく、博物館の建設に際しても本当にお世話になった座間惣吉さん(博物館の常設展示室内にある物置は、座間惣吉さんの家にあったものです)が書かれた『古山こぼれ話』(1978年3月刊)によると、この地蔵は子育て地蔵として子どもができない者が信仰すると子どもが授かり、よく育つと言われる一方で、「雨降り地蔵」で夏場に干ばつが続くと雨乞いに地蔵を下側を流れる道保川に入れ、水をかけて降雨を願いました。その後、雨が降ると「おしめり正月」で地蔵を元の位置に納めお神酒と菓子を供えてお礼をして、大人は仕事を休み、子どもには菓子のおすそ分けをしたとのことで、このような雨乞いは第二次世界大戦後にも何回か行われたようです。現在では、この地蔵が雨乞いにもご利益があったとの話はほとんどなくなっているようですが、当日の参加者に配られる御札には「請雨地蔵菩薩」と記されており、まさに雨降り地蔵であった頃のなごりを留めています。周辺では雨乞いに地蔵を水に投じた例として、同じ下溝地区の大正坂下にある日之下地蔵があり、地蔵に限らず石が用いられたものとして田名地区のジンジ石・バンバ石なども有名です。こうした点からは、地域の中で地蔵やそのほかの石などが、その時期の人々のさまざまな願いに応えながら祀られていたことがわかります。

 いずれにしても、こうした行事が行われることは市内でもかなり少なくなっており、以前は各集落で行われていた念仏講もめっきり少なくなっています。実は古山集落の下古山で各家を順番に回して実施されていた念仏講は平成14年(2002)3月の彼岸念仏で終了し、念仏講で使われていた掛軸などは博物館に御寄贈いただいています。今回紹介したこの念仏も二〇名ほどの方がお集まりになりましたが、それでも参加される方が次第に少なくなっているとのことです。地元で大切に祀られてきた地蔵様の念仏が長く継続されることをお祈りするとともに、これからも各地のこのような行事について「民俗の窓」で取り上げることができたらと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№76)~久保沢観音堂の百体観音~(緑区久保沢地区・平成26年10月)

「民俗の窓」では今年の津久井観音霊場の本開帳のうち、緑区根小屋中野の第三番・清水山中野堂の開帳の状況をNo68~70で報告してきましたが、今回紹介するのは、津久井観音霊場第五番の久保沢観音堂です。久保沢観音堂は集落を見下ろす小高い場所にあり、代々、久保沢の集落によって管理され、平成16年(2004)からは大正寺観音堂保存会が発足して地域の皆様によって大事に保存されてきました。観音堂の本尊は聖観世音で、すでに文政10年(1827)には観音堂が地元の資料に記録され、また、天保13年(1842)の資料には、聖観音が行基菩薩の作と言い伝えられる旨の記述があり、古い歴史を有していることが分かります。そして、堂内には百体に及ぶ石造の観音像が祀られていることでも知られています。

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久保沢観音堂。幕がご開帳を引き立てる

観音に対する信仰としては、西国三十三観音霊場・坂東三十三観音霊場・秩父三十四観音霊場などの三十三か所(秩父は三十四か所)の札所を巡るものが有名で、それらを合計すると百か所となります。この百体の観音像は、明治11年(1878)に堂を管理していた桂昌寺(明治年間に焼失し、林泉寺と合併して現在は大正寺の管理)の渓山和尚が百体の観音像を祀ることを計画し、近在の者から寄付を募って実に16年もの歳月をかけて明治27年に完成したものです。百体の観音像には、それぞれ例えば「坂東一番」や「秩父九番」などというように札所番号や施主の名前が記され、造立の目的は亡くなった近親者の供養のためが多いものの、なかには養蚕がよくできるように願ったものもあるようです。また、百体観音で注目されるのは、観音像を彫った石工名が彫られていることで、作者の北原七兵衛祥重は長野県の高遠から七沢(厚木市)に来た代表的な石工で、市内をはじめ近在にすぐれた作例を残しています。

久保沢観音堂では、六十年に一度、甲午(きのえうま)歳の大開帳があり、さらに津久井観音霊場の12年に一度の午歳ごとの本開帳(今年が大開帳及び本開帳の年に当たっていました)、午歳の中間にある六年目の子(ね)歳の半開帳のほか、毎年10月の9の付く日をハツクンチ(9日)、ナカクンチ(19日)、シマイクンチ(29日)を縁日にしており、縁日には堂が開扉されて百体観音を拝観することができます。今年のシマイクンチの10月29日には、本欄でも紹介している津久井郷土資料室保管の資料整理を行っている市民の会の「水曜会」の会員と観音堂を訪れ、百体観音を拝見するとともに保存会の方からさまざまなお話しを伺うことができました。

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水曜会でお参りをさせていただいた

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観音堂本尊の聖観音と百体観音

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堂内正面にはびっしりと観音像が並ぶ

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水曜会のフィールドワークとしては、当日は観音堂のほかにもいろいろな所に行き、津久井湖の北側も歩いた。奥に小さく見えるのが三井大橋

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緑区三井には、高さが2m60㎝以上にも及ぶ非常に大きな徳本仏供養塔(文政2年[1819]造立・市登録有形民俗文化財)があり、これらも見学した

市内でも、「坂東・西国・秩父 百番観世音」などと記された観音塔の石仏が残されており、例えば『相模原市史民俗編』によると相模原地区には10基が確認されています。その中で実際に百体の観音の石塔を設置したものとしては、久保沢観音堂のほかに同じく緑区上九沢の梅宗寺の観音堂があります。こちらの造立年代は天明5年(1785)以降で久保沢のものより百年ほど古く、さらに石工として信州高遠の高島清七・北原藤右ヱ門・藤木團蔵の名が記され、久保沢と同様に高遠石工の北原姓が見えています(服部比呂美・山口千恵子「梅宗寺百観音石塔調査報告」『相模原市史ノート』第6号)。

いずれにしても、このような百体の観音石造が一挙に祀られていることはかなり珍しく、市内ではこの二か所しか確認されておりません。その意味でも久保沢や梅宗寺の観音堂は相模原が誇る重要な文化財であり、地域の皆様が大事に護ってきた郷土の遺産ということができます。さまざまお顔やお姿をされた観音像は、今後ともこの地域を長く見守ってくださると思います(民俗担当 加藤隆志)。

 相模原の民俗を訪ねて(№75)~ここにもあった山車人形・緑区相原当麻田地区(平成26年8月)~

緑区相原地区の鎮守は相原八幡宮で、毎年、8月末の土日曜に祭りが行われます。『相模原市史民俗編』に拠ると、相原地区では、江戸時代には八幡社と天王社を祀っていて祭礼も両方あり、関東大震災後には二つの祭りを一緒にして9月1~3日、その後に8月25日に行うようになって、さらに現在のように8月末の日曜日と移り変わりました。今年(2014年)は8月23・24日に実施されました。

ところで「民俗の窓」では、市域各地の山車に飾る人形について紹介してきましたが、相原の当麻田地区にも人形が残っていることを、博物館の民俗調査会にも参加されている橋本勝邦さんから教えていただきました。今回は、祭りの当日に金太郎人形を拝見するとともに、地区の方から人形や山車(「屋台」と呼ばれています)・神輿などについてお話しを伺いました。

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金太郎人形(全体)

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金太郎人形(顔部分)

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人形を収納している箱の墨書。明治27年8月と記されている(橋本勝邦さん提供)

この金太郎人形は、台座を含めて二、四メートルの大きさで全身が赤く、小熊を右手で差し上げており、祭りの際に当麻田自治会館内に飾られます。普段、分解してしまってある箱に、明治27年(1894)に30円で八王子から購入したことが記されていて、屋台と一緒に買ったものではないかとのことです。ちなみに相原のもう一つの古い集落である森下の屋台も同じ時期に八王子から購入したようで、現在は無くなっているもののかつては人形(鐘馗[しょうき]?)もあったそうです。当麻田の金太郎人形は、以前取り上げた田名・清水集落と同様に一本柱に人形を付けて、その柱を前方から持ち上げて立てるものですが、当麻田ではほとんど人形を立てて屋台を巡行したことは無く、第二次世界大戦後には人形を乗せる台を作って曳いたことが二、三回ありました。ただ、15年ほど前に神社に持っていき、夜に照明を当てて飾った時はかなりきれいだったとのことです。なお、森下の屋台は、屋根の後部に手すり状の柵で囲った台があり、ここに人形を飾る形式です。

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向って左が当麻田、右が森下の屋台。

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森下の屋台

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当麻田の屋台。雨の予報により、シートが被されている

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当麻田の子ども神輿と屋台の氏子回り

また、屋台で奏でられる祭り囃子にも興味深い伝承があります。当麻田の囃子は、最初は屋台を八王子から買ったので囃子も八王子から伝えられたと考えられますが、そのうち隣りの森下と同じではつまらないということで、足柄上郡の山北町の方から地元の酒屋に来ていた酒造りの杜氏から「オオバ囃子」を改めて習ったとするもので、「目黒流」などと称される森下をはじめ、町田市相原町の大戸囃子や同市小山町の三ツ目囃子など周辺の集落で行われている著名な囃子とはかなり違って威勢が良く、例えば茅ヶ崎の浜降祭の時に聞く囃子と太鼓の叩き方が同じだなどと言われます。市内では各地で祭り囃子が盛んであり、その始まりや伝来についても『相模原市史民俗編』にさまざまな伝承が記されている中で、こうした経緯を持つ囃子は他にはあまりなく注目されます。

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相原地区の大人が担ぐ神輿

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大人神輿の渡御(2008年8月23日。橋本勝邦さん提供)

大人が担ぐ大きな神輿は、昔から森下と当麻田に別々にはなく八幡宮の宮神輿が一つで、第二次世界大戦の頃に神輿を担いではいけないとされた時期もあり、それでも当麻田と森下の若い衆が対抗して早い物勝ちで夜中に神輿を運んできて、自分たちの集落の中を神輿を担いだこともあったそうです。子ども神輿は古くから当麻田と森下それぞれにあり、当麻田では三角地のようになっている所に笹を4本立て、ここをお仮所として子ども神輿を置いていました。

今年の祭りでは、23日の昼に、森下と当麻田から子ども神輿と屋台が相原八幡宮に集まり、式典の後、午後1時から子ども神輿と屋台がそれぞれの集落の氏子回りを行いました。夜は民謡流しやよさこい踊りなども含んだ歩行者天国パレードで、24日は朝から神社神輿の渡御があり、夜は奉納演芸大会となります。これからも市民の皆様からさまざまな情報を寄せていただき、市内各地の祭礼の状況について「民俗の窓」で取り上げられたらと思いますのでよろしくお願い申し上げます(民俗担当 加藤隆志)。

※今回の記事に際しては、橋本勝邦さんの屋台等に関する調査成果を一部使わせていただきました。

相模原の民俗を訪ねて(№74)~大島・古清水集落の神輿と山車人形(平成26年7月)~

今年の夏も天王祭(オテンノウサマ)の時期がやってきました。天王祭では、神輿を担ぎ、お囃子を載せた山車(市内では屋台と呼ばれることも多い)を曳くことが特徴で、この欄でもいくつかの地区の天王祭を取り上げてきましたが、今回は、緑区大島・古清水集落の天王祭について紹介します。

古清水は大島地区の中ではもっとも南側に位置し、田名に接した地区です。大島には諏訪明神と日々神社という大きな神社が二社ありますが、古清水は諏訪明神の氏子であるとともに地区内に八坂神社を祀っており、以前は7月20日、現在はその近くの土曜日に祭礼を行い、今年(2014年)は7月19日(土)に実施されました。実際の祭礼は、午前9時頃に自治会の皆様が自治会館(敷地内に八坂神社もある)に集合し、それぞれ準備が進められました。そして、自治会館内に大人・子ども神輿を運んで飾り付けが行われ、午後12時からの神官による神事の後、古清水では数十年ぶりとなる諏訪明神の獅子舞が奉納され、子どもたちを中心とした獅子舞が見られました。そして、午後1時30分頃から、昭和61年(1986)に製作された子ども神輿の巡行が始まりました。

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八坂神社。普段は二基の神輿が神社に納められているが、祭り当日には運び出されていない

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大人神輿

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大人神輿を運び出す。子ども神輿は先に運ばれている

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神輿は自治会館内に運ばれて飾り付けが行われる

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神輿の棟札。右側が文政九年、左側が明治一五年のもの

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棟札の裏側。年号や祭祀者名など、興味深い記載がある

古清水の天王祭で注目されるのは、神輿に関する言い伝えと古い神輿が残っていることです。古清水では、昔、神輿をお諏訪様(上大島の諏訪明神)に持って行きましたが、その後、お諏訪様から「相模川に神輿を流すので古清水で受け取ってくれ」ということで、相模川で拾って八坂神社に納めたと言われており、『相模原市史民俗編』によると、「(古清水では)大人の神輿はかつては川に入ったりしたが、戦時中に担がなくなって火災が発生した。「神様が祟ったんだべ」と言われ、再び神輿が川へ入るようになったが、今は担ぎ手がなく飾るだけである。」との記載があり、市内の他の地区と同様に、テンノウサマの神輿が川から流れてきたとか、水と関係するといった伝承があったことが分かります。

また、現在、大人神輿と子ども神輿が納められている八坂神社のお堂には、特に八坂神社の御霊のようなものは見当たらず、昔から神輿自体にお初穂を供えるなど、神輿そのものがご神体と考えられていたようです。やはり『相模原市史民俗編』では、上溝や田名でお天王様といえば神社を指すのではなく、祭りそのものやあるいは祭礼で担ぐ神輿のことを指し、神社がなくても祭りは行われ、この場合は神輿がお天王様となるとされており、古清水の場合もこの事例に当たります。さらに、大人神輿には文政九年(1826)六月の銘がある棟札が納められており、神輿自体を天王様(棟札には八坂神社の旧名である「奉建立 牛頭天王(ごずてんのう)宮 鎮座」と記されている)としていたことや、神輿に御霊を入れる祭祀を行った者が、津久井・長竹村の修験者の泉乗院であったことなどが記されています。神輿には明治十五年(1882)八月の棟札も入っており、このような神輿に関する資料が残されていることは大変貴重であり、今後、他の地域での調査が期待されるところです。

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現在も残されている大和武尊の山車人形

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神社の中には奉納額もあり、これは藍瓶が描かれており、紺屋が奉納したもの

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子どもたちによる大島の獅子舞が奉納された

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子ども神輿の巡行。古清水内を回っていく。大人神輿は担がない

古清水にはかつては山車があり、この山車は明治二十八年(1895)に、宮大工の地として著名な愛川町半原の矢内右兵衛が建造したもので、残念ながら古い時期に壊れてしまったようで現在は残っていません。ただ、山車に飾った日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の山車人形がかなり傷みは多いものの残されています。山車人形は、「相模原の民俗を訪ねて(56)」でも紹介したように、古清水と接する田名・清水地区にもあり、相原・当麻田でも残されていることが分かってきました。こうした山車やその上に飾った人形等についても引き続き調査が必要です。

いずれにしても、市内各地で盛んに行なわれている夏の天王祭はまだまだ奥が深そうです。これからも関心を持ちつつ、この欄で紹介していけたらと思います。なお、今回の調査に際しては、古清水自治会の多くの皆様に大変お世話になりました(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№73)~中央区星が丘地区の夏祭り (平成26年7月)~

中央区星が丘は、旧陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)の従業員用に建てられた県営住宅が発端となった地区で、第二次世界大戦以後に開発が進んだ場所が多い市内の中では、比較的早い時期に開発された所の一つです。

星が丘地区には神社はありませんが、毎年7月には星が丘1~4丁目全体の祭りが行われています。この祭りには神輿や山車も出て、大人神輿の担ぎ手は各町内から20名ずつを目安に募っており、子ども神輿や山車は各自治会で持っています。また、祭りの実行委員長(1名)・副委員長(3名)は各自治会長が務め、別に組織されている夏祭り保存会も、各町会から男性2名・女性1名が出て祭り全般のことを担当し、次年度以降に祭りのやり方を引き継ぐ仕組みとなっています。地区の有志が会員となっている星友睦という神輿保存会もあり、各自治会から募集された方々と一緒に神輿を担ぐとともに、神輿の飾り付けや出し入れなど、神輿に関するさまざまな仕事に当たります。

実はこの星が丘の祭りは、隣接する上溝地区の祭り(天王祭)と深い係わりを持っています。地元で作成している資料に拠ると、上溝の丸崎集落では、明治九年(1876)九月に、宮大工の里として著名な半原(愛川町)の宮大工藤原高光によって造られた神輿を担いでいましたが新調することになり、昭和22年(1947)にこの神輿を星が丘自治会連合会が譲り受けました。それで星が丘でも上溝のお天王様に参加し、後には交通事情の関係もあって星が丘だけで祭りを行うようになりました。そして、平成2年(1990)には、この神輿の老朽化によって新しい神輿を製作して(現在担いでいるものは平成19年に大修理)、古い神輿は博物館に寄贈されました。星が丘でも、今はあまり馴染みがないものの昔は祭りや神輿自体のことをお天王様と言っていたとのお話しをうかがうことができました。

今年(2014年)の星が丘の祭礼は、7月26日(土・宵宮)と27日(日・本宮)の2日間に渡って行われました。前記のような由来があるため、上溝祭りと同じ日に実施することになっています。土曜日は、午前11時30分に、上溝の亀が池八幡宮の神職が祭り全体のお神酒所が作られた星が丘小学校に来て、御魂入れ等の式典が行われました。その際には、大人が担ぐ神輿とともに、星が丘1丁目から4丁目までの各自治会の子ども神輿と山車や太鼓が揃い、式典に参加します。終了後、子ども神輿や山車はそれぞれの自治会に帰って午後から町内の巡行となり、大人神輿の方は、午後6時から星が丘小学校前の通りを中心に提灯に火を点して渡御します。

7月26日(土)

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全体のお神酒所。八坂神社の掛軸の左側に大人神輿が飾られている

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星友睦が神輿の飾り付けを行う

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式典の終了後、子ども神輿や山車は自分たちの町内に戻る

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午後からは子ども神輿が町内を回る(4丁目)

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囃子の乗った山車も神輿とともに巡行する。囃子は昭和57年(1982)に丸崎から習ったという(4丁目)

翌日の日曜日は、やはり子ども神輿が町内を回っている中、大人神輿が午前10時から1丁目から4丁目の順に担いでいきますが、例えば1丁目では1丁目の者が前面に出るというように、各町内ごとの担ぎ手が主に神輿を担くようになっているそうです。そして、当日は最後にものすごい雷雨に見舞われましたが、午後4時には出発した星が丘小学校に子ども神輿を含むすべての神輿と山車・太鼓が集まり、やはり神職による御魂抜きの式典が行われ、無事に今年の祭りは終了しました。

7月27日(日)

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小学校を出発する大人神輿

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住宅地の中を担がれる大人神輿

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突然の雷雨にも負けず最後まで担ぐ

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子ども神輿はこの日も担ぐ。神輿の前には花を集める子どもたちが付く(1丁目)

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1丁目の子ども神輿には太鼓が随行する。太鼓には「昭和36年7月吉日」とある(1丁目)

星が丘の夏祭りは、開始からすでに今年で66年を経ており、当初は上溝の影響も強かったと考えられるものの今ではすっかり地元の祭りとして定着しています。星が丘地区では8月の盆踊りも今年で65回目となり、さらに星が丘公民館区の14の自治会が参加する運動会も行われるなど、さまざまな催しが実施されています。他の土地から移り住んで来た住民が圧倒的に多いこの相模原にとって、自ら生活する地域に親しみ、より良いまちづくりのために、こうした祭りなどが果たしてきた役割は大きいものがあると言えます。今後とも、星が丘の夏祭りがますます盛んに行われることを願ってやみません。なお、今回の調査に際しても、星が丘地区の多くの皆様に大変お世話になりました(民俗担当 加藤隆志)。

 

相模原の民俗を訪ねて(№72)~上溝のオテンノウサマ(天王様)・久保の神輿と山車 (平成26年7月)~

中央区上溝の夏祭りは相模原市を代表する祭りの一つで、神奈川県北部最大の祭りとして「かながわのまつり50選」にも選ばれています。かつてはオテンノウサマ(天王祭)として7月27日(宵宮)と28日(本宮)、現在はその近くの第四土日曜日に行われています(上溝の天王祭は、「民俗の窓」No.17~19でも紹介しています)。

祭りでは、各町内の神輿(大人・子ども神輿)や山車が自らの町内を巡行する一方、本宮の日曜日には山車とともに、各町内での氏子回りを終えたすべての神輿が上溝商店街の通りに一堂に会し、勇壮に渡御することが祭りの呼び物となっています。今年(2014年)の祭りには、大人神輿13基、子ども神輿8基、山車8基が集まり、大変な盛り上がりを見せました。

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お仮屋に置かれた久保の神輿

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氏子回りをする久保の山車(26日)

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27日夕方に上溝商店街の通りに来た久保の神輿

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他の地区からも続々と神輿が集まる。一番手前が久保の神輿

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神輿とともに山車も集まってくる。久保とともに四ツ谷の山車が隣りに見える

ところで上溝の神輿は、江戸時代後期から末期に製作されたものが五基(五部会・田尻・四ツ谷[石橋から移籍・現在博物館で保管]・石橋・本町)ほど確認され、この頃にはすでに天王祭が行われ、明治期にかけて盛大になったと考えられています。このほか、丸崎や虹吹の神輿も第二次世界大戦以前に造られています。それに対して、同じく上溝の古い集落である久保と番田諏訪面では戦前は神輿がなく、かつてはこの祭りに参加していませんでした。その理由は、どちらも集落で祀っている久保・浅間神社や番田諏訪面・諏訪神社とお天王様の仲が悪いとされていたためです。ちなみにお天王様と諏訪神社の仲が悪いとの話は他にもあり、南区下溝では上庭集落のお諏訪様とは特に仲が悪く、担ぐと怪我人が出るので下溝の鎮守である八幡神社の前に埋めてしまった(『相模原市史民俗編』)、緑区鳥屋では天王様が氏神のお諏訪様と仲が悪く、悪病が流行ったので天王様のご神体を串川に流してしまった。それを拾い上げて祀ったのが青山の天王様としています(『串川・中津川流域の民俗』)。

こうした伝承がある久保や番田諏訪面ですが、現在は両地区とも大人神輿と山車を有しています(番田諏訪面は子ども神輿もあり)。久保では、昭和22年(1947)終戦後いち早く青年層の発意で、天王祭を町内に復活しようと呼びかけて町内全般の賛意を得て神輿を造りました(『上溝の夏祭り』 上溝夏祭り実行(常任)委員会 1989。番田諏訪面の神輿は昭和55年製作)。この神輿は浅草の宮本卯之助商店から購入したもので、購入に際して寄付をいただいた方の名前を記した板が現在も見られます。また、東京が大きな空襲に遭った中でこの神輿は戦災を免れた三基のうちの一基で、真ん中の大きさの神輿が久保、もう一基が丸崎に来ており(一番大きなものはどこに行ったか不明)、久保と丸崎の神輿は兄弟分と言われているそうです。戦後まもなくの昭和22年当時であり、購入には金とともに米や麦など食糧を持っていかないと売ってくれなかった、との話も伝えられています。なお、山車も神輿と一緒に造られ、山車で奏でる囃子は丸崎に習いに行きました。この山車は、その後、南区当麻の原当麻集落に移され、現在の久保の山車は昭和52年(1977)に新たに造られました。この際の寄付者を記した板も残っています。

このように盛大に行われている上溝夏祭りも、長い時間の経過の中でさまざまな展開を遂げつつ実施されてきたことが分かりますが、将来に渡って、地域の人々の熱い想いの下で祭りが繰り広げられていくことに変わりはありません。今後とも見続けていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

 相模原の民俗を訪ねて(№71)~甲州道中と八王子城跡(平成26年5月)~

博物館の民俗分野では、民俗調査会をはじめ、さまざまな機会を捉えて相模原を中心に周辺地区を含めた地域のフィールドワークを行っていることは「博物館の窓」でも触れていますが、今回は5月28日(水)に行った水曜会のフィールドワークについて記したいと思います

水曜会は、津久井郷土資料室に保管されてきた膨大な資料を整理することを目的に始まった会で、この三年半の間の活動で約一万点以上の資料の目録を作成しています。また、資料整理の成果を示す展示を毎年一回実施して、実にさまざまな資料を多くの皆様に見ていく機会も設けてきました。そして、それぞれの資料に対する理解を深めるとともに、今後の活動に対する意欲を一層高めることを主な目的として、年に春秋の二回ほど関連する地域のフィールドワークを行っています。

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旧道から景信山への上り口付近で、この先をもう少し行くと小仏峠に至る

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台座に「小仏宿」と記した馬頭観音塔。こうした大きな馬頭観音は津久井地域でも何か所かに残っている

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中央本線煉瓦構造物。八王子~上野原間の中央本線は明治34年(1901年)に開通し、橋梁などに煉瓦が使われている。

今年の春のフィールドワークは、八王子市浅川地区の甲州道中旧道と八王子城跡の見学を企画しました(加藤を含めて12名参加)。まず午前中は、昨年の秋に中央線の上野原駅から藤野駅方面に向って甲州道中の旧道沿いに残る上野原宿本陣や番所跡などを訪れたのにつなげる意味もあり、今回は途中にそびえる甲州道中の小仏峠越えはまたの機会として、小仏峠を越した麓から高尾駅までのコースとしました。途中では、台座に大きく「小仏宿」(甲州道中の宿場)と書かれた馬頭観音塔(弘化四年[1847]再建)や駒木野宿にある小仏関所など、甲州道中の名残りを示すものや、高尾山信仰とも係わる蛇滝茶屋跡、中央本線開設時からの煉瓦構造物など、いろいろなものを見ながら少し早足となりましたが歩きました。

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小仏関所跡。戦国時代には小仏峠にあった関所は江戸時代に現在地に移された。甲州道中の重要な関所の一つだった

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 熱心な八王子城跡のボランティアガイドの方の説明があった

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右側に見えているのは土塁。土塁一つとっても規模が大きかったことが分かる

 午後からは、小田原に本拠地を持ち、広く勢力を誇った小田原北条氏の重要な支城であった八王子城跡に向かいました。八王子城は天正18年(1590)に豊臣秀吉の関東制圧の一環として前田利家等によって攻め落とされ、それによって小田原開城の引き金となり、秀吉の天下統一がなされたことでも有名です。相模原市緑区の津久井城もこの時に、徳川家康軍によって攻められて落城したとされています。当日は、山の上にある本丸跡ではなく、八王子城跡のボランティアガイドの方のご案内の元、城主であった北条氏照(小田原北条氏四代当主・氏政の弟)の館などがあったと考えられている御主殿(ごしゅでん)跡を中心に見学しました。ガイドの方の熱心な説明は1時間30分にも及び、戦国時代を代表する城跡を堪能しました。ちなみに八王子城は国の史跡で、「日本百名城」の一つにも数えられています。

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 御主殿の滝。落城した際に多くの北条方の武将や帰女子が自刃し、滝に身を投じたと伝える

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御主殿跡。城主・氏照の館などがあったとされ、建物の礎石などが発掘されている

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氏照及び家臣墓。氏照の百回忌を機に建てられたもので、少し離れた所にある。氏照は小田原城下で切腹し、小田原駅近くに墓がある

これまでも述べてきたように、フィールドワークは実際に丹念に歩き・聞き・見ていきながら、地域を知り、考えるものです。今後とも市民とともにフィールドワークを積み重ねながらさまざまな活動を展開し、フィールドワークを通じて分かった地域の歴史や文化についても積極的に紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。

相模原の民俗を訪ねて(№70)~津久井観音霊場ご開帳③~(緑区根小屋中野地区・平成26年5月)

 前々回(№68)及び前回の「民俗の窓・相模原の民俗を訪ねて(№69)」で紹介してきた津久井観音霊場のご開帳は、午歳の本開帳は三週間と決まっているとのことで、5月11日(日)から31日(土)まで無事に実施されました。

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 観音堂は中野自治会館の中にあり、観音像の前側に回向柱が建てられる

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オヒイチなどが飾られた観音堂

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参拝者が受けるお札。向かって左側が長札、右側は四角札。長札は版木が地元に伝わっていて、これを刷るのも仕事の一つとなる

 初日の11日の観音様の開扉式は午後0時から行われました。まず実行委員長をはじめ何人かの方からご挨拶があり、昨年の12月から33名の委員のもとで諸準備を進めてきたことや、オヒイチ作成や御詠歌の額の修理の経過など、さまざまな御開帳に係わる点について報告されました。そして、地元の功雲寺(津久井城主であったと伝える内藤氏の墓があることで有名です)の住職・副住職による読経の中、参列者一同に焼香が回され、8名の女性たちによる御詠歌がありました。その後、住職の挨拶、記念撮影と進んで懇親会となりました。また、最終日の31日には閉扉式があり、午後2時から11日と同様に住職による読経や女性の御詠歌も行われました。  

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 開扉式の様子。功雲寺の住職と副住職の読経の中、進められる

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 開扉式・閉扉式ともに女性たちの御詠歌がある

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閉扉の間にも参拝者が訪れる

  今年の御開帳には全体で750名ほどのご参拝があり、近場はもちろんのこと、遠くは都内や鎌倉、あるいは宮城県や静岡県からお見えになった方もあったそうです。いずれにしても地元の皆様の力を合わせて実施された平成26年の午歳の本開帳は終了し、6年後の中開帳まで観音像の扉は閉められることになりますが、今回の観音様への参拝と何より根小屋中野の皆様の暖かいもてなしは、参拝に訪れた多くの人々の心に残るものとなったことは間違いないでしょう。

 今回の中野堂の観音御開帳の準備から実施・終了までの調査に際しては、菊地原稔さんや御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長で自治会長の篠田隆夫さん、同じく副委員長の山本早苗さん、松本春美さんや自治会の副会長の方々をはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました。改めて深くお礼を申し上げます(民俗担当 加藤隆志)。   

相模原の民俗を訪ねて(№69)~津久井観音霊場ご開帳準備②~(緑区根小屋中野地区・平成26年5月)~

前回の「民俗の窓・相模原の民俗を訪ねて(№69)」で紹介した津久井観音霊場のご開帳は、女性たちによるオヒイチ作りを3月9日を含めて4日間行い、全体で600個ものオヒイチを完成させるなど準備が進められました。そして、連休中の5月3日の午前9時から全体のしつらえがなされました。

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観音堂前に回向柱を立てる

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 回向柱の下には杉の葉を飾る

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鰐口を叩くための綱を男たちが集まって編む

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できた綱を堂の前に取り付ける

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用意されたオヒイチ

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 オヒイチを傘に取り付けていく

観音堂前に回向柱を立てる 回向柱の下には杉の葉を飾る 鰐口を叩くための綱を男たちが集まって編むできた綱を堂の前に取り付ける 用意されたオヒイチ オヒイチを傘に取り付けていく  作業は野外と室内とで手分けして行われ、野外では、回向柱を立てたり柱の下に杉葉を飾る、参拝者が鰐口(わにぐち)を叩くための綱を編むなどの作業が男性によって行われます。室内では女性の手により、傘を上側に付けてそれぞれ繋げたオヒイチを観音様の両側に飾りつけ、これとは別に個人の方から奉納された千羽鶴なども飾ります。そして、男性の仕事になりますが、提灯を取り付け、観音像の手に結びつけるお手綱とそれをつなぐ五色の布などの用意も行われました。なお、五色の布を通じて観音様のお手綱が結び付けられる回向柱は、オヒイチと同様に12年に一度の本開帳の時に新しくして、その間の中開帳の際には表面を削って使うそうです。

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 傘に付けられたオヒイチ

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曲がったりしないか様子を見ながら、オヒイチを吊り下げる

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  オヒイチは一対なので、一つ吊ったら次に取り掛かる

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観音像の手から結ぶお手綱の準備

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お手綱に結びつける五色の布を伸ばす

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五色の布は回向柱に結ぶ

 この日の準備は午前中には終わらずに片付けなど、一部の作業が午後からになりました。 こうしたさまざまな準備を経て、ようやく5月11日からの開帳を迎えることになります。 当日の調査に当たっても、引き続き菊地原稔さんや、御開帳実行委員長の安西英明さん、副委員長の山本早苗さん、松本春美さんをはじめ、地元の多くの皆様に大変ご協力をいただきました(民俗担当 加藤隆志)。

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